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岩瀬忠震(雑司ケ谷霊園に眠る有名人②)

雑司ヶ谷霊園に眠る有名人の2回目は岩瀬忠震です。

c0187004_10335859.jpg岩瀬忠震のお墓は、永井荷風の斜め向かい側にあります。
 雑司ヶ谷霊園の区画で言えば1種1号8側です。

岩瀬忠震の墓所入口には右写真のような「岩瀬肥後守墓道」と刻まれた案内石柱が建てられていますので、これが目印になります。

岩瀬忠震は、幕末好きの人ぐらいしか知らないだろうと思っていましたが、先日の雑司ヶ谷霊園散歩の際には、永井荷風より人気があり、予想外の人気ぶりに驚きました。

岩瀬忠震の墓所には、三つの墓碑があります。
c0187004_10340558.jpg 岩瀬忠震の墓と養父岩瀬忠正の墓、そして岩瀬家の墓です。

墓所正面にある「従五位下肥後守爽恢岩瀬府君之墓」と刻まれている墓碑が岩瀬忠震のお墓です。

この墓碑銘のうちの「爽恢」は、岩瀬忠震の諡(おくりな)です。

これは松岡氏によれば、永井尚志が付けたものだろうとのことです。

「府君」とは一般名詞のようで、辞書によれば、「1、亡祖父・亡父を敬っていう語。2、 尊者・長者を敬っていう語」だそうです。

岩瀬忠震については、中公新書の「岩瀬忠震」(松岡英夫著)が名著だと思います。

「岩瀬忠震」(松岡英夫著)を参考に、岩瀬忠震の生涯について書いていきます。

c0187004_10442242.jpg岩瀬忠震は、文政元年(1810)、旗本設楽貞丈の3男として生まれました。

母は林述斎(林大学頭)の娘で、おじに鳥居耀蔵、林復斎、従兄弟に堀利煕がいます。

天保11年(184023歳の時、岩瀬忠正の婿養子となり、岩瀬家(家禄800石)の家督を継ぎました。

天保14年(1843)昌平校大試験に乙科及第、嘉永2年(1849)部屋住のまま両番士,甲府徽典館学頭,昌平校教授を歴任し、嘉永6年、徒頭となり、翌年の安政元年122日、永井尚志,大久保忠寛らと前後して目付に登用されました。

ペリーの再来航が116日ですので、ペリー再来航後、阿部正弘が急遽若手秀才を登用した中の一人として登用されました。

 目付に登用され、海防掛、軍制改正用掛、蕃書翻訳用掛、外国貿易取調掛を兼務しました。

安政2年(1855)には、日露和親条約修正のためのロシアのプャーチンとの交渉に加わりました。

安政3年(18568月にアメリカからハリスが来日し、安政412月より下田奉行井上清直とともに全権に任ぜられて日米修好通商条約の草案の審議に当たりました。

草案合意後、条約勅許を得るために安政5年老中堀田正睦に従って上洛しましたが、朝廷から条約調印の承認を得られず江戸に帰りました。

4月に江戸帰着早々、井伊直弼が大老に就任しました。

井伊大老からの指示は、勅許を得るまで引き延ばしを交渉しろというものでしたが、即時調印すべきとの考えから「ハリスが引き伸ばし交渉に応じなかった場合には、調印してもよいか」と質した(実際に質したのは井上清直のようです)うえで、「その場合には調印しても致し方ない」との言質をとったうえで、ハリスとの交渉に臨みました。

ハリスは当然引き伸ばしに応じなかったため、安政4619日、井上清直と共に全権として条約に調印しました。

そして、その年7月、新設の外国奉行に就任、引き続き日蘭、日露、日英、日仏の各修好通商条約の交渉にあたり調印しました。まさに対外交渉の第一線で活躍したのでした。

c0187004_10341745.jpgしかし、岩瀬忠震は、将軍継嗣問題で一橋慶喜の擁立をめざす一橋派の中心人物として行動したため、大老井伊直弼に忌まれ、五か国条約調印直後の95日、井伊直弼により作事奉行に左遷され、翌安政68月作事奉行罷免・永蟄居に処せられ,江戸向島に隠棲し、文久元年716日なくなりました。44歳でした。

岩瀬忠震の死については、川崎柴山、栗本鋤雲は憂憤による死であると書いています。

東武スカイツリーライン東向島駅から徒歩10分の所に白鬚神社があります。東向島駅からですと有名な向島百花園の前を通っていきます。向島百花園は紅葉の盛りでした。(右上写真)

c0187004_10342658.jpg白髭神社は社伝によれば平安時代前期に創建された古い神社です。
 隅田川七福神の一つ寿老人が祀られていることで有名です。

その境内に「岩瀬鴎所君之墓碑」があります。(右下写真)

岩瀬忠震の用人であった白野夏雲が建立したもので、撰文は永井尚志が書いています。

c0187004_10343502.jpg墓碑と書かれていますが、撰文の後半には次のように書かれていますし、岩瀬忠震は小石川の蓮花寺に埋葬され、その後雑司ヶ谷霊園に改葬されていますので、墓碑ではなく顕彰碑といってよいと思います。

「文久元年七月、天、其の寿と奪い、病を以て卒す。享年四十有四。諡を爽 と曰い、白山蓮花寺先 の次に葬る。君、元設楽(しだら)氏。岩瀬忠正養いて嗣子と為し、其の長女を配す。後、津田氏を娶す。三男皆早卒。六女あり、其の三は人に適(とつ)ぐ」

この顕彰碑は、白鬚神社の宮司さんのお話では、「来歴がはっきりしないが、白鬚神社に建てられたものではなく、近くに岩瀬忠震が隠棲した岐雲園があるので、岐雲園もしくはその近くに建立され、のちに白鬚神社に移転されたのではないだろうかと考えています」ということでした。

「岩瀬忠震」(松岡英夫著)を読んで知ったことがいろいろありました。

岩瀬忠震の業績として、日米修好通商条約の締結、そして一橋慶喜の擁立を図ったことはよく知られていることですが、その他、次のようなことがあるそうです。

 ①品川台場の築造に参加

 ②軍艦製造

 ③講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所の設立

 ④香港渡航を企画

 ⑤日米通商条約の批准をワシントンで行うと提案したこと。

こうしてみてみると、幕末に徳川幕府が行った政策のほとんどに参画していることがわかります。

その中で、特に驚くことは、自ら海外に渡航しようとしていることです。

ワシントンでの日米通商条約の批准には、正使新見正興、副使村垣範正、目付小栗忠順が派遣されていますが、岩瀬忠震自身が渡米するつもりだったようです。

しかし、左遷・免職となったため、派遣するメンバーが変わり、上記メンバーとなったそうです。

岩瀬忠震が活躍したのは、目付に登用された安政元年から、作事奉行に左遷される安政6年までの丸5年間だけです。
 しかし、その業績は目を見張るものがあります。

まさに岩瀬忠震は「幕末を駆け抜けた秀逸」といってよいのではないでしょうか。



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# by wheatbaku | 2016-11-17 10:21 | 大江戸散歩 | Trackback
永井荷風(雑司ケ谷霊園に眠る有名人①)

 今日から雑司ヶ谷霊園でご案内した有名人を紹介していきます。

 まず、霊園では、目指す人がどこに眠っているのか探すのが大変ですが、雑司ヶ谷霊園では管理事務所に、霊園案内図がありますので、それを入手してからお参りすると良いと思います。 


 今日は、永井荷風のご紹介をします。

c0187004_10483656.jpg 永井荷風は、1-1-7に南面して眠っています。

 永井荷風は、明治から昭和を生きた小説家で、明治12年12月3日に永井久一郎の長男として生まれました。

 成人して、アメリカで過ごし銀行勤めをしていたこともあります。
 その後、フランスを経由し帰国しました。

 この経験から、「あめりか物語」「ふらんす物語」を書いています。


 明治43年、31歳の時に、慶応大学の教授に就任し、「三田文学」を創刊しています。

 その後は、慶応大学で教鞭をとりながら、小説を書いていきます。

 しかし、大正5年には、慶応大学を辞職します。
 そして、新宿区余丁町の自宅の6畳間を断腸亭と名付けます。 胃が弱いことと庭に植えた秋海棠の別名断腸花からつけた名前です。ここから「断腸亭日乗」という作品が生まれます。


 永井荷風は、散歩と江戸を愛しました。荒川放水路辺りを散歩しているときに見つけたのが玉の井です。東武線「東向島駅」は昭和62年まで「玉の井」という駅名でした。

このあたりに私娼街があり、そこにしばしば足を運びました。
 そこでの経験をもとに書いた小説が、昭和12年、朝日新聞に連載されました。これが『濹東綺譚』です。

東京大空襲で自宅を焼失した後、各地を転居したのち、千葉県市川市に住みます。

当初は仮住まいでしたが、結局、市川市が終焉の地となり、昭和34年に自宅で亡くなりました。79歳でした。

この間、昭和27年には、文化勲章を受章しています。


 永井荷風が訪れた寺に三ノ輪の浄閑寺があります。

c0187004_10483017.jpg 浄閑寺は、吉原で亡くなった遊女が投げ込まれるように埋葬されたことから、投込み寺とも呼ばれています。

 そうした境遇で亡くなった多くの遊女たちを慰霊するため本堂裏手に「新吉原総霊塔」が建立されています。(右が新吉原総霊塔)

 この浄閑寺を何度も訪ねていた永井荷風は、死んだら浄閑寺に埋葬して欲しいと願っていました。

 本当かしらと思うかもしれませんが、荷風の『断腸亭日乗』昭和12年6月22日に次のように記載されています。


「今日の朝30年ぶりにて浄閑寺を訪いし時ほど心嬉しき事はなかりき。近鄰のさまは変りたれど寺の門と堂宇との震災に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり。余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思わば、この浄閑寺の塋域(えいき)娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を超ゆるべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし」


c0187004_10484163.jpg しかし、永井荷風の願いは叶うことができず、浄閑寺ではなく、雑司ヶ谷霊園の父の長井久一郎の墓の隣に埋葬されました。

 父久一郎は 「禾原(かげん)」と号していたため、墓碑名は「禾原先生」となっています。
 ただし、現在の墓碑は号が読み取れない状態になっています。

 右上写真は、父の墓碑とならぶ永井荷風の墓碑

 なお、荷風は本名壮吉といいますが、墓碑の裏面には本名が書かれています。


 浄閑寺に眠りたいという荷風の願いは叶えられませんでした。
c0187004_10484923.jpg しかし、その願いに応えようと荷風没後4周年の昭和38年、谷崎潤一郎たち永井荷風を慕う後輩たちの手によって、「新吉原総霊塔」の向かい側に、「われは明治の兒ならずや」の一句を含む詩碑が造られました。
(右写真)
 さらにその奥に小さな花畳型の筆塚が建てられました。(右下写真)
 墓はありませんが、荷風の願いは叶ったことになるでしょう。


 永井荷風の文学碑は横幅が大きな石碑です。そこには次のように刻まれています。

今の世のわかき人々

われにな問ひそ今の世と

また来る時代の藝術を。

われは明治の兒ならずや。

その文化歴史となりて葬られし時

わが青春の夢もまた消えにけり。

 (以下略)


また、文学碑の最後には次のように刻まれています。

c0187004_10485312.jpg 明治・大正・昭和三代にわたり詩人・小説家・文明批評家として荷風永井壮吉が日本藝林に遺した業績は故人歿後益々光を加へその高風亦ようやく弘く世人の仰ぐところとなった 谷崎潤一郎を初めとする吾等後輩42人故人追慕の情に堪へず故人が生前「娼妓の墓亂れ倒れ」(故人の昭和12年〔1937622日の日記中の言葉)てゐるのを悦んで屢く杖を曳いたこの境内を選び故人ゆかりの品を埋めて荷風碑を建てた

 荷風死去4周年の命日  昭和38年(1963430 荷風碑建立委員会


c0187004_10485837.jpg 永井荷風が通った店として有名な店に浅草の「アリゾナキッチン」があります。

 以前、お店を訪ねたことがありますので、その際の写真を掲載しておきます。

 もう数年も前のことなので、現在は違っているかもしれませんが・・
【インターネットで検索していましたら2016年10月3日にアリゾナキッチン閉店という記事がありました。訪ねてみようと思われる方は、現在も営業しているかどうか、訪問前に確認されたほうが良いと思います。2016年11月17日追記】


c0187004_10490364.jpg アリゾナキッチンの創業は昭和24年でした。
 永井荷風はその年の7月12日に初めて訪ね、以後永井荷風は、しばしば市川市の自宅から通い、肉料理二品とビールを注文したそうです。

店内には、ある日の永井荷風の写真が飾られていました。






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# by wheatbaku | 2016-11-15 10:43 | 大江戸散歩 | Trackback
雑司ヶ谷霊園・護国寺散歩に行ってきました

 土曜日には、毎日文化センターの「山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で、雑司ヶ谷霊園と護国寺を案内してきました。

 「山手線一周」と詠っているので大塚駅周辺の江戸散歩をしたかったのですが、大塚駅周辺には江戸の史跡がほとんどないため、都電荒川線にのって雑司ヶ谷霊園と護国寺での史跡散歩ということにしました。

 雑司ヶ谷霊園も護国寺(右下写真は護国寺本堂)も、有名な人が大勢眠っていますので、その中でも超有名な人たちのお墓をご案内してきました。

c0187004_21085532.jpg ご案内した有名人は次の人々です。

 雑司ヶ谷霊園では、永井荷風・岩瀬忠震・小泉八雲・東条英機・ 小栗上野介・千葉定吉・小川笙船・夏目漱石・ジョン万次郎

 護国寺では、大隈重信・松平不昧・三条実美・大倉喜八郎・山県有朋・安田善次郎

 その有名人のお墓のほかに、雑司ヶ谷旧宣教師館と護国寺のご案内もさせてもらいました。

 昨日は、絶好のお散歩日和で、雑司ヶ谷霊園も護国寺も、公園を散歩しているような気持ちで散歩できました。

 ご参加いただいた皆さんお疲れ様でした。

c0187004_20495288.jpg ご案内の詳細は、次回からアップしていきますが、いくつかご案内の様子を紹介します。

 小泉八雲は、旧名はラフカディオ=ハーンで、明治23年来日、松江中学の英語教師となり、その後、五高,東京帝大や東京専門学校(現早大)で教えました。

松江時代に結婚した奥さんの姓と出雲に縁のある「八雲」から、小泉八雲と名のりました。


c0187004_20522518.jpg 夏目漱石は、今年、没後100年になり、先月はNHKで「漱石の妻」が放映されました。また、豊島区でも夏目漱石関連のイベントも最近おこなれたりして注目されている漱石のお墓は大きなお墓で、イスの形をしています。



c0187004_20511577.jpg 護国寺では、三条実美、山縣有朋、大隈重信など、明治政府で活躍した人々が眠っています。その中で、大隈重信は本堂の右手に大きな敷地を占めています。

 墓所の前面には大きな鳥居があります。



 



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# by wheatbaku | 2016-11-13 20:02 | 大江戸散歩 | Trackback
江戸検の応援に行ってきました!

 
 c0187004_21220016.jpg本日11月3日は、江戸検の試験日でした。

 江戸検は江戸楽アカデミーの講座を受講していただいた皆さんが受検されるので、試験会場の明治大学に応援に行ってきました。

c0187004_21211343.jpg 10時50分から説明開始でしたが、御茶ノ水に早めに行って、神田明神に合格祈願をしてから会場に行きました。

 神田明神は、少し早い時間だったので、参拝客があまり多くなく、ゆっくり合格祈願ができました。

 受検者の奮闘を応援しているような青空が印象的でした。

c0187004_21213000.jpg 明治大学では、事前に作成しておいた横断幕を掲げて応援をしてきました。

 これには、昨年、合格した人たちにも協力いただきました。

 会場入口で応援させてもらいましたので、多くの人から声をかけていただきました。

 「応援で元気をもらいました」というお礼の言葉もありうれしく思いました。

 江戸検終了後の皆さんからは、「今年のお題は、超難問はあまりなくてよかった」とか、「過去問がかなり出題されて助かった」といった感想が聞かれました。

 試験結果は、悲喜こもごもですが、「自己採点してみたら合格ラインの80点を超えました」という連絡が複数の人たちからありましたので、今年も知り合いから合格者が出そうです。

 応援に行った甲斐があったと喜んでいます。

 この間、江戸検の勉強に奮闘されていた受検者の皆さん、本当にお疲れ様でした。

 しばらくはゆっくりお休みください。



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# by wheatbaku | 2016-11-03 21:29 | Trackback
地震火事と浄閑寺(江戸の十大大火⑩ 江戸の大変)

江戸検が明後日に迫ってきました。

江戸検を受検される皆さん頑張ってください。

さて、江戸の十大大火ですが、最後は「地震火事」です。

地震火事は、安政江戸地震に関連して発生した火事です。

安政江戸地震は安政2年10月2日に江戸を襲った地震です。

この地震直後に起きた火災が、江戸の十大大火の一つに数えられています。

地震が起きたのは、午後10時ごろでしたが、火災が江戸市中各所から起きました。

江戸検お題のテキスト「天下大変 江戸の災害と復興」では、この時の死者は3800人と書かれています。これは当然地震による死者も含めたものだと思います。

この中で、安政江戸地震で特に被害が大きかったのが、吉原です。

「武江年表」には、

吉原町の焼あるは他所より早し、京町2丁目・江戸町1丁目より火起こり、其余、潰れたる家々より次第に焼出て、一廓残らず焼亡す

と書かれています。


 吉原は、遊女の逃亡を防ぐため、遊廓の周囲は、いわゆる「おはぐろどぶ」と呼ばれた堀によって外界から遮断されていて、出口は大門だけでした。

 『実録大江戸壊滅の日』(荒川秀俊著 教育社刊)によると、この日、遊廓ではまだ宵の口の午後9時ごろ、入口に近い江戸町一丁目で火事があり、その火事が、まだ鎮火しない時間帯に安政江戸地震が起こったと書いてありました。

そのため大門付近の火災によって遊廓内の人々は外部への逃げ路が亡くなりました。

また、非常時のために設置されているおはぐろどぶの跳ね橋を下ろすこともできなかったようです。こうしたことから、大勢の焼死者がでることとなりました。

『安政江戸地震』(野口武彦著 ちくま学芸文庫)に載っている江戸町方の死者数は第1回では江戸全体で3950人うち685人、第2回調査では、江戸全体で4293人うち630人となっています。

この資料によれば深川地区の死者も多いのですが、吉原は3町四方という狭い範囲となりますので、安政江戸地震の際の実質的な最大の被害地は吉原ということになります。

吉原の大見世の三浦屋では、かせぎのよい遊女を選んで穴蔵へ入れて助けようとしましたが、火が入って全員焼け死んだという悲劇も起きました。

c0187004_12004687.jpgこれらの遊女たちの死骸は、三ノ輪の浄閑寺境内の穴の中に投げこまれたといわれています。右写真は浄閑寺の山門です。

浄閑寺は、東京メトロ「三ノ輪」駅から徒歩3分程度の至近距離にあります。


浄閑寺には、遊女たちを供養する「新吉原総霊塔」が本堂裏に建立されています。(右下写真)

c0187004_11593299.jpg浄閑寺の説明によれば、現在の塔は、安政江戸地震で亡くなった500余人を含めた寛政5年以来の遊女の供養塚を昭和4年8月に改修して形を改め、名前も「新吉原総霊塔」としたものだそうです。

新吉原創業から廃業まで江戸、明治、大正、昭和と三百八十余年間に浄閑寺に葬られた遊女、遊女の子、遺手婆など遊郭関係のものや、安政、大正両度の大震災に死んだものを含めた推定数は2万5千に及ぶと浄閑寺のHPに説明されています。

 また、浄閑寺には安政江戸地震と、それにつづいて起こった火災のためなくなった遊女の過去帳が現在も残っているそうです。



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# by wheatbaku | 2016-11-01 11:49 | 江戸の大変 | Trackback
文政の大火と神田佐久間町(江戸の十大大火⑨ 江戸の大変)

江戸の十大大、今日は「文政の大火」について書いていきます。

文政の大火は、文政12年3月21日 神田佐久間町から出火した火事です。

そのため「佐久間町火事」とも呼ばれます。

佐久間町は、現在の秋葉原駅の東側の神田川の北側一帯で、現在も、神田佐久間町1丁目~4丁目の名前が残されています。

武江年表には、次のように書かれています。

三月二十一日(陽歴四月二四日)、北風烈しく、已の刻過、神田佐久間町弐丁目河岸の材木小屋より火出て、神田川を飛て東神田武家・町屋一円に焼、夫より東は両国橋際・浜町辺武家方より永代橋手前迄、西は須田町通り西側残り、東側より今川橋向本銀町・本町河岸・御堀端通・数奇屋橋外迄、南は新橋・塩留迄を限りとし、其間の町々は本町・石町・大伝馬町・小伝馬町・馬喰町・横山町辺一円・堺町・葺屋町両座芝居・牢屋敷辺・小網町・八丁堀・霊巌島・鉄炮洲・築地武家方・西門跡より先、海手に至り佃島迄、木挽町芝居・京橋・新橋辺町屋類焼に及び、翌二十二日朝鎮火す。武家方類焼夥しく、南北凡一里余、東西二十余町。焼死・溺死の輩千九百余人と聞り。御救の小屋九ヶ所を建て、類焼の貧民を救せらる

これによると、出火した日は、北風が強くて、佐久間町2丁目で発生した火事は、神田川を飛び越えて、東神田から京橋・新橋あたりまで延焼し、東側は、 両国橋の西際から八丁堀から築地を焼失させ、佃島まで延焼しています。

21日の午前10時ごろに発生した火事は、翌日で燃え続け、朝にようやく鎮火したようです。

この文政の大火は、第9回の江戸検1級の第100問目で記述問題として出題されています。

第100問 文政12年(1829)年3月に中村座や市村座を焼いた「文政の大火」は、その年の干支から「己丑の大火」とも呼ばれました。これに対し、その5年後の天保5年(18342月に中村座や市村座を焼いた火事は、「(  )火事」と呼ばれます。(  )に入る干支を漢字2字で書いてください。

 この正解は「甲午」なのですが、甲午火事も大きな火事でした。

 江戸検のテキスト「天下大変 江戸の災害と復興」の「江戸時代のおもな大火」の中にも「甲午火事」として書かれています。

 この火事は、「武江年表」には、

二月七日(陽暦三月十六日)、北風烈しく、昼八時、神田佐久間町二丁目琴師の家より出火して、即時に神田川を越て東神田お玉が池の辺へ移り、一円に焼広がり、東は両国矢の倉(旧名なり)辺にいたる。西は神田お玉が池より今川橋向・本銀町・石町・本町・室町迄東側一円、伝馬町牢屋敷・油町・塩町・堺町・葺屋町両座の芝居・住吉町・難波町・大坂町・小網町辺。この間に挟りたる町は、少しも残る所なし。日本橋より先は、通り町筋東側・八丁堀・霊巌島の辺・新川・新堀・永代橋際迄、鉄畑洲・築地門跡より海手まで、木挽町芝居・佃島等悉く焼亡す。方域、去ル丑年三月の火事に大やうたがはず。

このように、甲午火事も、文政の大火と同じように神田佐久間町から出火しています。

こうしたことから、「またも火元は佐久間町」とも言われ、佐久間町でなく「悪魔町」と呼ばれることもあったそうです。

こうした汚名をそそぐため、佐久間町では防火に力をいれ、何がなんでも火はださないと消防訓練に努め、関東大震災のときには、周辺地区大部分が、地震後に発生した火事により焼失するなかで、佐久間町町民は町内からは火を出さず、町を守り抜いたそうです。

c0187004_09212609.jpgそれを記念した「防火守護地」碑が秋葉原駅東にある和泉小学校校庭の前に建てられています。

防火守護地の碑文には次のように刻まれています。

この付近一帯は大正十二年九月一日関東大震災のときに町の人が一致協力して努めたので出火をまぬがれました その町名は次の通りであります

佐久間町二丁目三丁目四丁目 平河町 練塀町 和泉町 東神田 佐久間町一丁目の一部 松永町の一部 御徒町一丁目の一部

昭和四三年四月二四日佐久間小学校 地元有志 秋葉原東部連合町





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# by wheatbaku | 2016-10-31 09:15 | 江戸の大変 | Trackback
丙寅の大火と芝車町(江戸の十大大火⑧ 江戸の大変)

 江戸の十大大火、今日は文化3年3月4日に起きた大火です。

この大火は、この年の干支が丙寅(へいいん:ひのえとら)であったことから丙寅の大火とよばれています。また、芝車町から出火したことから車町火事とも言います。また芝車町は牛町とも呼ばれたことから牛町火事ともいいます。

 この火事は明暦の大火・明和の大火とともに江戸三大火の一つに数えられています。

文化3年3月4日四ツ刻過ぎ、芝車町の材木屋付近から出火しました。

その日は、南西の風が強く吹いていて、火はたちまち札ノ辻へ延焼し、芝、京橋、日本橋を焼いて、神田川を越えた火事は、浅草門外から浅草辺りまで延焼していきました。

そして、翌日の5日は大雨となり、さしもの大火も昼四つ時(午前10時ころ)には鎮火しました。

類焼した長さは、「武江年表」によれば、長さ2里半といいいますから10キロほどの街並みが燃えたことになります。

焼死溺死した人が1200人と「武江年表」と書いてあります。

この火事に、オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフが遭遇しています。

ヘンドリック・ドゥーフは、蘭和辞典の「ドゥーフハルマ」(長崎ハルマとも呼ばれる)の著者です。

さて、火元となった「車町」(通称牛町)について説明しておきます。

c0187004_14102338.jpg「車町」は、高輪にありました。泉岳寺の近くです。

 寛永11年の増上寺の安国殿を建立するなどの際に、資材の輸送のため、江戸にはなかった牛車が大量に必要となり、幕府が京都四条車町の牛屋を江戸に呼び、材木や石類の運搬に当たらせました。

工事終了後、褒美として、高輪での定住を認め、牛車を使っての荷物運搬の独占権も与えました。

この人たちが居住した場所が「車町」です。

歌川広重の名所江戸百景の中の「高輪うしまち」(右上写真)は、車町を描いたもので、手前に大きな車輪が描かれていて、いかにも頑丈そうな車だということがわかりますし、犬も描かれてるのが広重らしいと思います。

 遠景は、高輪と品川の海ですが、よく見るとお台場が描かれています。


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# by wheatbaku | 2016-10-27 14:08 | 江戸の大変 | Trackback
桜田火事(江戸の十大火事⑦ 江戸の大変)

 江戸の十大大火について書いていますが、今日は、桜田火事です。

 桜田火事は、寛政6年正月10日に麹町から出火した火事ですが、十大大火の中で、書く材料がないのが、この桜田火事です。

 いろいろな本で調べましたが、桜田火事について書いてある本はありませんでした。

 唯一、書かれていたのが「武江年表」だけでした。

 そこで、「武江年表」の桜田火事についての記述を書いておきます。

寛政六年 甲寅(1794)

 正月十日未申刻、椛町五丁目秋田屋何某といへる酒屋より出火、烈風にて山王御社・永田馬場・霞が関・虎御門外・桜田辺諸侯藩邸数字類焼、幸橋御門焼、愛宕下・日蔭町・新橋・芝新銭座、仙台・会津家等一円、焼亡せり。

 これを読むと、麹町5丁目の秋田屋という酒屋から出火し、永田町、虎ノ門、新橋あたりに燃え広がっているようです。

 桜田門外の大名の屋敷を中心に焼失していることから、桜田火事と呼ばれているのではないでしょうか。

 今日は、簡単な記事ですみません。


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# by wheatbaku | 2016-10-26 18:01 | Trackback
目黒行人坂の火事と大円寺(江戸の十大大火⑥ 江戸の大変)
江戸の十大大火ですが、今日は「目黒行人坂の火事」について書きます。

「目黒行人坂の火事」は、明暦の大火、文化の大火と共に江戸三大大火の一つでもある、大きな火事です。


「目黒行人坂の火事」は明和9年2月29日に発生した火事で、火元は目黒行人坂の大円寺です。(右下写真が現在の大円寺です)

c0187004_07021162.jpg午後1時頃に出火した火事は南西からの風にあおられ、江戸市中を焼き尽くし、千住方面まで燃えていきました。

実は目黒行人坂の延焼方向を見て、いつも思うことがあります。

江戸時代は、目黒は江戸からみれば片田舎です。百姓家や寺社は所々にあったと思いますが、家が密集しているわけではなかったと思います。

そして、目黒より江戸に近い白金も、同じように家が密集している地域ではなかったと思います。

そうした人家の少ない田舎でおきた火事がどうして江戸市中に延焼していったか、また、なぜ、江戸市中に延焼する前に防ぐことができずに三大大火の一つに数えられるほどの大火になかったのかと不思議に思います。

さて、そんな疑問は別にして、この大火は、テキスト「天下大変 江戸の災害と復興」に書いてある通り、真秀という坊主による放火によるものです。

この真秀を捕らえたのが鬼平長谷川平蔵宣為の父である火付盗賊改の長谷川宣雄で、真秀は小塚原で火罪に処されました。


 目黒行人坂は、目黒駅西口から目黒のお不動様に向かう途中にある坂です。目黒駅から歩いていくと下り坂となります。

この坂の途中に大円寺があります。

行人坂という名前は、大円寺を拠点にする修験道の行者が、この坂道を往来したことによるそうです。


c0187004_07020293.jpg大円寺は、寺伝では、寛永元年(1624)に、出羽湯殿山の修験僧大海法印が大日如来を本尊として道場を開いたのが始まりといわれます。

 門を入った正面にある本堂には、江戸城裏鬼門にあたる為徳川家康をモデルにしたという三面大黒天が祀られていて、大黒天を祭る山手七福神の一つとなっていて、こちらの方がなじみがあるかもしれません。

c0187004_07015849.jpg この本堂へ向かう左手に五百羅漢の石像がびっしりと建てられています。この石像は、目目黒行人坂の大火の犠牲者供養のために天明頃につくられたものと「新編武蔵風土記稿」に書いてあるようです。


 この大円寺は、八百屋お七とも縁のあるお寺です。

 八百屋お七は、天和2年におきた大火の際に避難したお寺にいる寺小姓と恋に落ちて、その寺小姓と会いたいがため放火したといわれています。

c0187004_07091257.jpg その寺小姓(大円寺では吉三と書かれている)の関連史跡がいくつか大円寺にあります。

 その一つが「行人坂敷石造道供養碑」です。

 目黒区教育委員会の説明板には次のように書いてあります。

この供養碑は、高さ164cm。碑の上部に種子(梵字)キリーク(阿弥陀)サ(観音)サク(勢至)が刻まれています。 下部の碑文によって、この坂を利用する念仏行者たちが悪路に苦しむ人々を救うため、目黒不動尊龍泉寺や浅草観音(浅草寺)に参詣し、通りがかりの人々から報謝を受け、これを資金として行人坂に敷石の道を造り、この成就と往来の安全とを供養祈願したことがわかります。施主は西運で元禄16年(1703)の紀年があり、江戸と目黒の社寺を結ぶ重要な参詣路であった行人坂開発の歴史を知るうえに貴重な歴史資料です


 大円寺境内にあるお寺が立てた説明板には、西運というお坊さんが寺小姓吉三が出家後に名乗った名前だと書いてあります。(右下写真)

c0187004_07015372.jpg 江戸時代本郷の八百屋の娘お七は天和二年(1682)の火事の際、自宅を焼かれしばらくの間、駒込の円林寺に仮住いしており、その時に寺小姓 の吉三に恋したという。お七は十六才、吉三が十八才でした。

 恋いこがれたお七は吉三会いたい一心で翌年自分の家に放火 したために、江戸市中を引廻しの上、鈴ヶ森の処刑場で火刑 に処せられた。

c0187004_07020740.jpg 一方の主人公「寺小姓吉三」はお七の処刑後、僧となり名を「西運」と改め諸国を行脚、後に大円寺の下の明王院(現雅叙園)に入ってお七の菩提を弔うため、往復十里(約四十キロメートル)の道のりを浅草観音まで夜から明け方にかけて鉦を叩き念仏を唱え遠隔夜日参り一万日の行を二十七年と五ヶ月かけて成し遂げ、お七が夢枕にたって成仏したことを告げられたことから「お七地蔵尊」を造った。また西運は多くの江戸市民から浄財の寄進を受け、これを基金に行人坂敷石の道 を造り、目黒川 に石の太鼓橋 を架け社会事業の数々を行なった。


 この説明板が設置されているのは本堂西側の阿弥陀堂の前です。(右上写真)

 その阿弥陀堂には、西運が作ったという「お七地蔵」が祀られています。
 このお七地蔵を拝観するには許可が必要です。






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# by wheatbaku | 2016-10-24 06:57 | Trackback
小石川馬場火事と護持院ヶ原(江戸の十大大火⑤ 江戸の大変)

 江戸の十大大火の一つ「小石川馬場火事」について書きます。

 小石川馬場火事は、享保2年1月22日に小石川馬場近くから出火した火事です。

 名前の由来となった小石川馬場というあまりなじみがない場所なので小石川馬場がどこにあったのか調べました。

 小石川馬場は、名前の通り小石川にありました。下の図が万延2年の江戸切絵図「小石川谷中本郷絵図」の一部を拡大したものです。

 緑色の部分が小石川馬場と書かれています。
 絵図の上部に白山権現というのがあります。これが現在の白山神社ですので、小石川馬場は、
現在で言うと、白山下交差点の少し南東側辺りだと思います。

c0187004_10015589.jpg

『武江年表』享保2年正月22日の項には、

「小石川馬場脇井出某殿より出火、湯しま・護持院の荘厳、神田橋御門内・鍛冶橋御門まで諸侯の藩邸数宇、通町・八丁堀・築地まで武家・町屋とも夥しく焼亡あり」

と書かれています。白山下から神田・日本橋に延焼し、八丁堀や築地まで燃えていったようです。

 この火事で燃えた大きな寺院に護持院があります。

護持院は、元禄元年(1688)、5代将軍徳川綱吉が柳原にあった知足院を移し、隆光を開山として、護持院と改称したことに始まるお寺です。

この大寺院が焼失し、さらに江戸城にも火がおよぶかもしれない状況だったことから、大火の後、護持院は大塚の護国寺に移され、その跡は、広大な火除地とされました。

『武江年表』(ちくま学芸文庫)享保2年正月22日の項には

「災後、護持院を小日向の末に移され、その跡幷雉子橋外武家屋敷跡、畾地(らいち)となれり。」と書いてあります。

そして、この『武江年表』(ちくま学芸文庫)の校訂をした今井金吾の補訂として「畾地とは空地の意にして、世俗これを護持院ヶ原と呼べり。」と書いてあります。

護持院ヶ原は、広大な原っぱで、江戸名所図会によれば、冬から春にかけては、将軍家の猟場として使用されましたが、夏から秋にかけては、江戸の市民に開放され、市民の憩いの場とされていたようです。

この護持院ヶ原で思い出すのが、森鷗外の「護持院原の敵討」です。
c0187004_10014561.jpg 新潮文庫にも収録されている短編ですが、印象深いので良く覚えている小説です。

これは天保年間に姫路藩酒井家の大金奉行であった山本三右衛門が藩邸の小使いに殺害され、これを三右衛門の息子・娘が敵討を志し、それに加勢する三右衛門の実弟が九州まで探し歩いた末に、江戸の護持院ヶ原で見事討ち取る話です。

敵討ちの旅の途中で、息子が脱落する場面があり、そうした事態にもめげす江戸に残された娘のりよが、叔父からの「敵見つかる」の知らせを受け、護持院ヶ原で見事敵討ちをする場面が印象的でした。

この小説を森鷗外が実話に基づいて書いたものかどうか調べましたが確証はとれませんでした。

しかし。鷗外は、この小説の最後に

「この敵討のあった時、屋代太郎弘賢(ひろかた)は七十八歳で、九郎右衛門、りよに賞美の歌を贈った。

『又もあらじ 魂祭(たままつ)るてふ 折に逢ひて 父兄の仇討し たぐひは』」 

と書いています。

 確かに屋代太郎弘賢は実在の人物で和学講談所の会頭まで勤めた人物ですので、鷗外は護持院ヶ原での敵討に関する何らかの資料を持っていて、この小説を書いたものだろうと思っています。

 護持院ヶ原は、明治以降は文教地域になりました。

まず、幕末の文久2年蕃書調所が洋学調所と改称して護持院ヶ原に移り、翌3年開成所と改め、明治2年大学南校となりました。さらに6年開成学校、7年東京開成学校と改め、明治10年東京医学校と統合し東京大学が創立されました。 

c0187004_10370463.jpg さらに、広大な敷地には、東京大学のほか東京外国語大学、学習院、一橋大学の前身となる東京外国語学校、華族学校、東京商業学校などの学校が次々の開設され、これらの大学の発祥の地になっています。 
 学士会館の入り口近くに「我が国大学発祥の地」の説明板(右上写真左)と「東京大学発祥の地」の石碑(右上写真右)が設置されています。




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# by wheatbaku | 2016-10-20 09:53 | 江戸の大変 | Trackback
  

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