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大安楽寺(人形町散歩)
 今日は、十思公園の南隣にある「大安楽寺」について書きます。
 大安楽寺も小伝馬町牢屋敷跡に建立された寺院です。

 大安楽寺は、真言宗のお寺で、江戸三十三観音の5番札所です。
 山科俊海というお坊さんが、牢屋敷で霊を慰めるために、明治8年に創建されました。
 大安楽寺のご本尊は弘法大師様で、札所ご本尊様は十一面手観世音菩薩像です

 さて、大安楽寺の境内の入り口に「弁財天」がお祀りされています。
 しかし、多くの人が気が付かないのではないでしょうか。
 この弁財天は、江ノ島に鎮座していた三弁財天の一つだったそうです。
c0187004_1357712.jpg 明治になって、廃仏毀釈の流れのなかで、廃棄されそうになったものが、縁があって大安楽寺に鎮座されるようになったようです。
 弁財天は、もともとは、サラスヴァティーというインドの川の神様ですが、中国経由で日本に伝わり、宗像三神の一つの市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視されることも多くなりました。
 
 弁財天は、琵琶を抱えた女神とあらわされることが多いのですが、大安楽寺に鎮座している弁財天は8本の腕をもつことから「江戸八臂(はっぴ)弁財天」とよばれています。
 八臂(はっぴ)とは8つの腕を言います。
 8本の腕は、、弓、矢、刀、矛(ほこ)、斧、長杵、鉄輪、羂索(けんさく・縄)を持っています。
 八臂(はっぴ)の弁財天は数少ないのではないかと思います。


 その弁財天のとなりに貴重なものがありました。
 弁財天の神使(しんし)は「蛇」ですが、蛇の化石と伝わっている石が置いてありました。
c0187004_13564325.jpg  大安楽寺のご住職にお聞きしました。
 この化石は、北海道のカムイコタンで、酋長のしるしとして、歴代伝わったものだそうです。
 もともとは、カムイコタンの酋長を決める際に、水の底から、この石を持ち上げた人が酋長に選ばれたという言い伝えがあるそうです。
 それが、どういう事情があったのかわかりませんが、カムイコタンを離れることとなり、築地のかつお節の「和田久」の社長が手に入れて、大安楽寺に寄進していただいたのだそうです。


c0187004_13563096.jpg 以前、東京新聞に取り上げられた時には、大勢の参拝客が来られたそうです。
 そして、霊験もあらたかで、現在もお礼に参拝される方がいらしゃるというお話でした。

 今年は、巳年です。 初春から、良い年になるようにとお願いしました。
 参加された皆様も、化石をなでたり、手をあわせたりして、それぞれお願いをしていました。
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by wheatbaku | 2013-01-18 07:48 | 大江戸散歩 | Trackback
四千両小判梅葉(人形町散歩、黙阿弥ゆかりの地)
 人形町散歩に戻ります。
 人形町での歌舞伎ゆかりの地の最後になりますが、今日は、河竹黙阿弥の「四千両小判梅葉」ゆかりの地を紹介します。
 それは「小伝馬町牢屋敷跡」で、現在では十思公園や十思スクエア、大安楽寺などになっています。
 
 「四千両小判梅葉」は、幕末に実際に起きた、江戸城の御金蔵(ごきんぞう)を破った事件を題材にしています。
 「四千両小判梅葉」は「しせんりょうこばんのうめのは」と呼びます。人形町散歩の際に「よんせんりょうこばんうめのは」と言っていたら、同行の忍び駒様に早速「しせんりょう!!」とご指摘を受けました。
c0187004_16443887.jpg 「四千両小判梅葉」は、黙阿弥70歳のときの作品で、明治18年11月に千歳座(現在の明治座、右写真)で、初演となりました。
 初演は、5代目尾上菊五郎が富蔵(とみぞう)、3代目市川九蔵(のちの7代目市川團蔵)が藤岡藤十郎に扮しました。
 五代目菊五郎のお家芸ともいうべき名作と言われていて、昨年10月に新橋演舞場で上演されました。

 浪人藤岡藤十郎は辰巳屋の遊女お辰に入れあげて金に困っているところに、むかし藤岡家で中間奉公をしていて、いまはおでん屋をしている富蔵に御金蔵破りを誘われ、4千両を盗み出すことに成功します。
 藤十郎はすぐに山分けしようとしますが、富蔵が藤十郎の家の床下へほとぼりが冷めるまで埋めておこうと言います。
 二人は自分の分け前を少しずつ使っていましたが、悪事の露見が近いと思った富蔵は最後に3百両を藤十郎から受け取って母のいる金沢へ行き、そこで捕まります。
江戸に護送される富蔵は途中の熊谷にある妻と子、舅が営むうどん屋の前で、籠に入ったまま家族と再会し別れを惜しみます。一方で、藤十郎も、身をきれいにしてから捕縛されます。
 富蔵は町人の罪人が入れられる西の大牢で、二番役につき、新入りの囚人を問い詰めています。
 その中には遺恨のある生馬の眼八(いきうまのがんぱち)もいました。
 そして、判決の言い渡しが近づいたため牢名主から新しい着物と帯をもらいます。
 そして、市中引き回しのうえ磔の刑の言い渡しを受けた富蔵は、藤十郎とともに囚人達に見送られて刑場へ引かれて行くのでした。

 当時、千歳座にいた田村成義は、幕末には小伝馬町の牢役人だったので、実際の牢内のしきたりを教えるなどしたそうです。
c0187004_8451247.jpg   田村成義は、日本橋で生まれ、田村家の養子となり,伝馬町の牢獄に勤め、明治になって、千歳座(現在の明治座)で初めて企画製作を行い、守田勘弥の死後には歌舞伎座を経営しました。
 歌舞伎座がの経営が松竹に移った後には、市村座の経営にあたり、6代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門の2人を市村座に出演させ、いわゆる菊吉の市村座時代という黄金期をつくり、2人を育てました。
 一時「田村将軍」と呼ばれるほどであったと言います。

 「西大牢の場」で行われる囚人の「すってん踊り」や、富蔵が新入りの囚人たちに向かって独特の調子で牢内のおきてを話す「シャクリ」というセリフ、飯を盛るうつわなどの細かいものも、すべて田村成義の考証によるものだそうです。
 その牢内の有様があまりにもリアルなため、「西大牢の場」は「獄中の活歴」と評されたといいます。

 大評判になった「西大牢の場」は、小伝馬町牢屋敷での場面です。
 小伝馬町牢屋敷は、江戸時代の慶長年間から江戸時代を通じて、小伝馬町にあって、明治8年(1875)に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用されました。

 小伝馬町牢屋敷跡は、現在は、十思(じっし)公園や十思(じっし)スクエアとなっています。
c0187004_16453146.jpg 十思公園には、「時の鐘」が保存されています。
 写真左手に見えるのが「時の鐘」で、写真の奥に見える建物が旧十思小学校(現在の十思スクエア)です。
 牢屋敷というと刑務所と思う方が多いと思いますが、江戸時代には、刑罰は死刑と追放刑が中心で、懲役刑がありませんでした(永牢という長期間収監する刑が例外的にあります)。
 ですから、この牢屋敷は、刑が決まるまでの一時的な収容所という施設、今で言うと未決囚の収容施設(拘置所)でした。
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 牢屋敷は、約2700坪ありました。その中には、牢屋と牢屋敷を管理する役人の屋敷や事務所がありました。
 牢は一棟の建物で、大きく分けて、東牢、西牢に分かれていました。
 上の写真は、牢屋敷の模型ですが、手前中央が表門、左側の屋根がない部分が牢です。右の部分は、牢屋敷の事務所や牢屋奉行の屋敷などがありました。
 東牢、西牢にそれぞれ揚屋が二つ、大牢と二間牢が一つずつありました。
 揚屋(あがりや)は、御目見以下の直参、陪臣、僧侶、医師、山伏などを入れる牢屋で、町人や無宿人は、大牢、二間牢に入れられました。
 牢には、牢名主を筆頭とする牢内役人がいました。
 時代劇での牢屋の場面で、牢名主が何枚もの畳の上に座っている場面がありますが、あれは事実だったようです。
 牢役人は、名主、添役、角役、二番役、、三番役、四番役、五番役、本番、本助番、五器口番、詰之番、詰之助番の12名が幕府により決められました。
 さらに、隠居、隅の隠居なども随時決められました。
 
 「四千両小判梅葉」で、富蔵は二番役となっていますので、ナンバー4だったことになります。
 「西大牢の場」を見ても4番目に座っています。
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by wheatbaku | 2013-01-16 07:25 | 大江戸散歩 | Trackback
人形町甘味老舗めぐり(人形町散歩)
日曜日開催の人形町散歩の続報です。
今回の人形散歩は、甘味の老舗を訪ねることもテーマの一つでした。というよりそれが最も大きなテーマでした。

 今回は、①瓦せんべいの「人形町亀井堂」、②虎家喜の「玉英堂彦九郎」、③おしるこの「甘味処 初音」の老舗三ヶ店を訪ねました。

1、人形町亀井堂
 人形町亀井堂さんは昭和4年創業の瓦せんべいのお店です。
 人形町亀井堂さんは、神戸元町で明治6年に創業した亀井堂総本店からのれん分けされた店です。
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 亀井堂さんの店内で、瓦せんべい、人形焼を買う2期会のメンバーです。
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 瓦せんべいはカステラと同じ材料でつくられたものだそうです。
 また瓦せんべいの生地に刷毛のみで砂糖細工をほどこす伝統技法「刷毛引き」をした瓦せんべいも有名です。
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2、玉英堂彦九郎
 玉英堂彦九郎さんは天正4年(1576)に京都で創業された和菓子屋です。
 昭和29年に現在地に支店を構え、現在は、人形町の店が本店だそうです。
 「玉英堂彦九郎」の名前は、高山彦九郎からもらったからだそうです。
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 店内で和菓子を買う参加者の皆さん。
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 人気の高い虎家喜(260円)と玉饅(650円)です。これを買われた方が多かったですね。
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3、甘味処 初音
 歌舞伎や落語が好きだった初代が、歌舞伎に登場する「初音の鼓」に因んで名付けた「甘味処 初音」。
 天保8年(1837年)の創業以来、170年がたったお店です。
 お店の前に集まっているみんなは、何を話しているのかな?
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 御膳しるこは680円です。アツアツで気を付け食べないとやけどしそうでした。甘さを抑えてありおいしかったです。
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 赤印が「人形町亀井堂」です。 青印が「玉英堂彦九郎」です。 緑印が「甘味処初音」です。

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by wheatbaku | 2013-01-08 07:28 | 大江戸散歩 | Trackback
日本橋七福神めぐり(人形町散歩)
 昨日は、江戸検一級2期会の特別例会で日本橋人形町を歩いてきました。
 そこで、今日と明日に分けて、その様子をお知らせします。
 今回のメインテーマは、①日本橋七福神めぐり、②人形町の甘味老舗めぐり、③人形町の史跡めぐりでした。
 そのうち、今日は、日本橋七福神めぐりについて紹介します。

 日本橋七福神は、比較的狭い範囲の中にあり、短時間で回れるので、個人的にはもう何回かお参りしてきているので、慣れた道筋ではありました。 
 しかし、昨日は、6日でしたが、七福神めぐりする人たちが多くびっくりしました。
 今回は、小伝馬町よりから順に七福神めぐりをしました。
 つまり、①椙森神社、②笠間稲荷神社、③末廣神社、④小網神社、⑤茶ノ木神社、⑥松島神社、⑦水天宮の順に巡ってきました。
 
1、椙森神社   恵比寿    詳細はこちら ⇒ 「椙森神社」

 参拝を待つ人で一杯でした。この後にも行列は続いていました。

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2、笠間稲荷神社  寿老神   詳細はこちら ⇒ 「笠間稲荷神社」

 写真手前では、参加者が地図を見ながら現在地の確認中です。奥には長い行列が見えています。
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3、末廣神社  毘沙門天   詳細はこちら ⇒ 「末廣神社」

 参拝客の行列が長く続いています。左手に列は伸びていました。

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4、小網神社  福禄寿、弁財天 詳細はこちら ⇒ 「小網神社」

 もっとも長い列ができていました。人気が高いようですね。

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5、茶ノ木神社  布袋    詳細はこちら ⇒ 「茶ノ木神社」

夕方近くなったので、参拝客が減ってきました。参加者ものんびり立ち話中です。

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6、松島神社  大国神   詳細はこちら ⇒ 「松島神社」

 神社の由緒書を熱心にみている参加者たちです。もう暗くなり始めていました。

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7、水天宮、  弁財天    詳細はこちら ⇒ 「水天宮」

 水天宮についたときは5時でした。夕暮れ時で、暗くなっていました。それでもかなりの参拝客がいたのは、さすが水天宮です。

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最後は、東京シティエアーターミナルの「龍鳳」で新年会でした。
全員で記念撮影です。2期会の皆さんお疲れ様でした。そして本年もよろしくです。
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by wheatbaku | 2013-01-07 00:30 | 七福神めぐり | Trackback
水天宮に初詣
 今日は仕事開始めです。
 取引先への挨拶をすませた後で水天宮に初詣をしてきました
 6日に.人形町を案内しますので、その下見の意味もありました。
 もう5時近くでしたので、初詣の人は少なくなっていましたしビジネスマンが多かったように思いました。
 やはり、仕事始めですね。

 さて、水天宮は、安産の神様として大変有名ですね。c0187004_20113371.jpg では、水天宮にお祀りされている神様はどなたでしょうか?
 主祭神は、天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)ですが、さらに三柱が祀られています。
 その御三方は、安徳天皇、建礼門院、二位の尼という平清盛の関係者が祀られてています。
 
 もともと、水天宮の総本宮は久留米市にあります。
 この水天宮は、壇ノ浦で滅んだ平家に仕えていた按察使局(あぜちのつぼね)伊勢という人が、小さな祠を建てて平氏一門の霊を慰めたのが始まりだそうです。ですから、平清盛の関係者がお祀りされているのです。
 江戸時代になって、久留米藩2代藩主の有馬忠頼が7000坪の土地を寄進して社殿を造営しました。
 江戸の水天宮は、久留米藩9代藩主の有馬頼徳が江戸の上屋敷に勧請したものです。
 有馬家の上屋敷は、現在の港区の赤羽橋付近にありました。
 明治になってから、青山に移転した後、明治5年に現在地に移転をしたものです。
 従って、江戸時代には、日本橋蛎殻町(かきがらちょう)には水天宮はありませんでした。

c0187004_20121621.jpg 水天宮にお参りした後に人形町を散歩していたら、左のようなポスターを見つけました。
 昨晩、テレビで放映されていた「麒麟の翼」のポスターです。
 「麒麟の翼」は昨年上映された映画ですが、見なかったので、我が家では「麒麟の翼」を家族で見ました。
 この情報は月猫さんが江戸検一級2期会のメンバーにも発信していたので、2期会のメンバーも見た人がいると思います。
 「麒麟の翼」では、水天宮をはじめとした日本橋七福神が出てきました。
 そこで、人形町にポスターが貼られていたのです。
 町ぐるみで応援していたんだと感じました。

c0187004_20122835.jpg そんな気持ちを持ちながら、6日に案内する予定の甘酒横丁の「玉英堂彦九郎」さんにごあいさつにお邪魔しました。
 そうしましたら、店内に「麒麟の翼」の阿部寛さんのサインが飾られていました。
 「玉英堂彦九郎」さんは、映画にはでてなかったと奥様がちょっと残念そうでした。
 「玉英堂彦九郎」さんは天正4年創業の老舗中の老舗です。
 「虎家喜」や「玉饅」というお菓子が評判のお店です。
 詳しくはこちら「玉英堂彦九郎(江戸からの和菓子)」をご覧ください
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by wheatbaku | 2013-01-04 20:28 | 神社参拝 | Trackback
慶応義塾跡(赤穂浪士引き揚げルート31)
 赤穂浪士の引き揚げルートも、浜松町近くになりました。
 赤穂浪士一行は、 現在の浜松町一丁目交差点で、東海道(現在の第一京浜)に出てきました。
 これ以降は、東海道を泉岳寺まで引き上げていきました。
 
 浜松町駅北口から徒歩3分で、第一京浜からは少し東に入った「港区立エコプラザ」 (旧神明小学校)  に「福沢・近藤両翁学塾跡」と書かれた碑が建っています。
c0187004_209633.jpg ここに、慶応4年(1868)から明治4年(1871)まで慶応義塾がありました。
 慶応義塾の始まりは、築地鉄砲洲の中津藩奥平家の屋敷内(総坪数約4063坪)に在った福沢諭吉の家塾ですが、慶応4年、鉄砲洲一帯の海岸地が外国人居留地となったため、奥平家中屋敷を引き払わなければならなくなり、芝新銭座(しんせんざ)の有馬家中屋敷の一部を買い取りました。
そして、新たに建物を建てて時の年号に因んでこれを慶応義塾と名付けました。
 「義塾」という言葉は福沢諭吉は学校という普通名詞と同じ意味で命名したのだそうです。

塾を移転した慶応4年は江戸時代最後の年で江戸城の無血開城や上野戦争が起きた年です。
 こうした騒々しい時期にも、福沢諭吉は、教育中心の生活をおくっていて、上野戦争中の授業はやめませんでした。 
c0187004_2095486.jpg  「上野と新銭座は2里も離れているので鉄砲玉の飛んでくる気遣いはないというので、丁度あのとき私は英書で経済の講釈をしていました。」と福翁自伝に書いています。
 慶応義塾は明治4年に現在慶応大学のある三田に移りました。
 この移転のきっかけは明治3年に福澤諭吉が発疹チフスに罹ったことにありました。
 福沢諭吉は命は事なきを得ましたが、慶應4年に鉄砲洲から移ったばかりの新銭座の土地でしたが、実際に住んでみると「何か臭いように鼻に感じる。また事実湿地でもあるから、どこかに引き移りたい」(福翁自伝)と考えるようになりました。
 そこで手分けして適当な場所を物色した末、三田にある島原藩の中屋敷が乾燥しているし海浜の眺望もよいということで明治新政府に拝借を働きかけて実現したそうです。

c0187004_1958997.jpg 慶応義塾が移転した後、ここは「攻玉社」という学校が築地の海軍兵学校内から移転してきました。
 「攻玉社」は、現在、東急目黒線「不動前」駅そばの品川区西五反田に、中学校と高校があります。
 一世紀以上の歴史を有する伝統校で、戦前は海軍兵学校への予備校的存在として位置づけられていたそうです。

 攻玉社は明治時代の六大教育家の一人である近藤真琴により創設された学校です。
 校名は詩経の「他山の石以て玉を攻(みが)くべし」から引用したものだそうです。
 明治の六大教育家とは次の6人をいいます。
 大木喬任(文部卿)、森有礼(文部大臣)、中村正直(同人社創者)、新島襄(同志社創立者)、 福澤諭吉(慶應義塾創立者)、そして、近藤真琴です。
 近藤真琴という人は、現在はあまり知られていませんが、福沢諭吉や新島襄と並ぶ偉大な人物ですね。


赤印が「福沢・近藤両翁学塾跡」の碑がある場所です。 

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by wheatbaku | 2012-12-19 07:34 | 忠臣蔵 | Trackback
三十間堀川(赤穂浪士の引き揚げルート26)
 泉岳寺のご案内が終わりましたので、また、赤穂浪士の引き揚げルートに戻ります。
 前回は、木挽町の狩野画塾跡まで書きましたので、その後の見どころを追っていきます。
 
 
c0187004_14444399.jpg 木挽町狩野家跡を過ぎて、昭和通りを越えると右手に弘電社のビルが見えてきます。
 赤穂浪士一行は、弘電社前の交差点を左折しました。
 このビルの西側に、昭和20年代まで、三十間堀川が流れていました。
 赤穂浪士一行は、三十間堀川を渡らず、川沿いに新橋方面に向かいました。
 三十間堀川は慶長17年(1612)に開削された堀で、京橋川(現在の新京橋出口付近)から汐留川に至る河川でした。
 幅が約30間(約55メートル)あったために三十間堀川と呼ばれました。
 江戸時代は、三十間堀川の両側には河岸が点在し大変賑わっていたといいます。
 しかし、戦後の瓦礫処理のため昭和23年から埋め立てが始まり、昭和27年には埋め立てが完了しました。

 太平洋戦争中の空襲などにより生じた瓦礫(がれき)をどう処理するかは、戦後の東京復興にとって重大なテーマでした。
 そのため、このてっとり早く処理するために、都心部の堀や川が利用されました。

c0187004_14452032.jpg この瓦礫処理のために埋め立てられた川や堀は、東堀留川、竜閑川、浜町川、新川、三十間川、外堀の6つの河川だったそうです。
 この川まで、瓦礫を人海戦術で運んで処理したそうです。


 東京高速道路の新橋出口付近に中央区教育委員会が立てた説明板があります。


 赤印の交差点で赤穂浪士一行は左折しました。  青印が説明板の設置場所です。

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by wheatbaku | 2012-12-13 10:08 | 忠臣蔵 | Trackback
采女橋(赤穂浪士の引き揚げルート21)
 赤穂浪士の引き揚げルートは、浅野内匠頭邸跡を過ぎて、築地本願寺の現在の正門前を通り、築地の場外市場に向かっていますが、築地本願寺は、既に「築地散歩」で紹介していますので、築地本願寺を飛ばして次の史跡の「采女橋(うねめばし)」を紹介します。

 築地本願寺正門から築地場外市場に向かい、市場橋の交差点を左折してしばらく歩くと「采女橋(うねめばし)」があります。
c0187004_973963.jpg 采女橋が架けられた時期ははっきりしませんが、采女橋近くには、江戸時代の前期に松平采女正という旗本の屋敷がありました。
 この屋敷は享保9年(1724)の大火で焼けて、その跡地は火除地になって、俗に采女が原と呼ばれました。橋の名前はここからきたものと思われます。
 現在の 「釆女橋」 は、昭和 5年 に架け替えられたものです。
 橋の下は昭和37年までは築地川が流れていましたが、現在は首都高速道路が走っています。
 この采女橋の高欄は、中央区によって平成2年度に、幻のホテル「築地ホテル館」(明治元年、近代的な洋式ホテル第一号として誕生し、栄華を誇ったが明治5年焼失)と「銀座の柳」を題材にした意匠で整備されました。

 釆女橋から泰明小学校、帝国ホテル前を通り日比谷公園に至る道路が 「みゆき通り」です。
 c0187004_975135.jpg名前の由来は、明治天皇が皇居から海軍兵学校に行幸されるときに通ったことから来ていると言われています。
 昭和39年夏頃にみゆき通りを闊歩する若者たちが「みゆき族」と呼ばれ、当時、全国的にも有名になりました。

 采女橋から南を見えると「新橋演舞場」がすぐ近くに見えます。左写真は、采女橋からみた新橋演舞場のビルですが、裏側からみた外観となります。
 「新橋演舞場」は、大正14年 に新橋芸者衆のための演舞場として開場したものです。
 現在は 歌舞伎座が建て替え中のため「歌舞伎」の常設劇場となっています。
 10月には市川団十郎と松本幸四郎による「勧進帳」を観てきました。
 現在の新橋演舞場の建物は、昭和57年 に建て替えられた16階建てのビルで、3階までは演舞場で、それ以外は賃貸ビルになっているようです。
 
 歌舞伎と言えば、中村勘三郎さんがお亡くなりになりました。先月の文京学院大学生涯学習センターさんの講座で、猿若町や待乳山聖天さんを散歩した際、「平成中村座」が話題になりましたが、こんなに早く勘三郎さんがなくなるとは思いもよりませんでした。
 ご冥福をお祈りします。
 

 赤印が采女橋です。

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by wheatbaku | 2012-12-06 08:03 | 忠臣蔵 | Trackback
聖路加国際病院(赤穂浪士の引き揚げルート19)
 赤穂浪士引き揚げルートは、築地では、聖路加病院の脇を通っています。
 そこで、聖路加国際病院について少しお話します。

 聖路加国際病院は、名誉院長の日野原重明さんが有名ですので、しばしばマスコミに取り上げらえていますのでご存じの方も多いと思います。
c0187004_1674870.jpg 聖路加国際病院の歴史を遡ると明治初年にまで遡ります。
 明治7年、 東京・築地の外国人居留地に、イギリス国教会長老派の宣教医師ヘンリー・フォールズが「健康社」という名前の病院を設立しました。
 この病院は、後に「築地病院」と改称されました。
 明治35年、 フォールズが帰国した後荒廃していた築地病院の建物を、イングランド国教会の系統に属する「聖公会」の宣教医師ルドルフ・トイスラーが買い取り、聖路加病院とします。
 トイスラーは明治33年(1900)アメリカ聖公会から派遣されて来日したアメリカ人です。
 聖路加国際病院は、大正12年の 関東大震災で倒壊しましたが、昭和8年に、皇室・米国聖公会・米赤十字などの寄付により病院が再建されました。
 昭和20年には、 聖路加国際病院があることにより築地・明石町一帯は東京大空襲による爆撃を免れました。
 敗戦後は米軍に接収され、昭和30年まで米軍極東中央病院として使用されました。

 近くにある塩瀬総本家の女将さんのお話に「ここは聖路加病院の傍だったので攻撃されなかったのです。母の話だと、米軍から『占領後、聖路加は陸軍病院として使うから、この一角は焼かない』というビラが撒かれたそうです。」という話があります。

c0187004_168579.jpg 現在の病院建物は平成4年に竣工しました。
 この際に、院長の日野原重明さんは、病院の全壁面に酸素供給口を設置し、ロビーやホール、礼拝堂も緊急時には広い病室になるように設計されました。
 これが大いに活用されたのが、開業3年後に起きた平成7年の 地下鉄サリン事件でした。
 地下鉄サリン事件では、最寄り駅である築地駅で最も多くの被害者が出ましたが、当時の院長日野原重明さんの積極的に被害者を受け入れ、病院を挙げて治療にあたりました。

 ところで、聖路加国際病院の名前の由来についてお話します。
c0187004_16181968.jpg 聖路加国際病院は、「せいロカ」と呼ばれることが多いのですが、「聖路加」の正式な読みは「せいルカ」です。しかし、「せいロカ」の読が定着しており、多くの人がそう読んでいますし、職員でさえそのように発音しているそうです。
 病院名は、使徒パウロの協力者の一人であり、新約聖書の福音書の一つである『ルカによる福音書』の著者とされる聖人ルカの漢字表記に由来しています。
 右写真は、左上写真の病院名の拡大ですが、確かに英字では、「St. Luke's 」と書かれています。
 これをみると「せいルカ」が正しいということがよくわかります。

 聖路加国際病院を設立したトイスラーの記念館が、聖路加看護大学内にあります。
c0187004_1682218.jpg トイスラーは明治33年(1900)アメリカ聖公会から派遣されて来日したアメリカ人です。築地に聖路加病院や看護婦養成所(現聖路加看護大)を創設した人物です。
 トイスラー記念館は昭和8年、隅田川畔の明石町19番地に聖路加国際病院の宣教師館として建設されました。
 平成元年に解体工事が行われ、平成10年に現在地へと移築復元されました。
 建物の躯体は、昭和初期の住宅建築には珍しい鉄筋コンクリート造り一部木造の二階建てで、ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物です。
 


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by wheatbaku | 2012-12-04 07:23 | 忠臣蔵 | Trackback
ミッションスクール発祥の地(赤穂浪士引き揚げルート18)
 赤穂浪士引き揚げルートは、鉄砲洲を過ぎると築地に入ります。
 明治政府は、明治元年、築地明石町付近を外国人居留地としました。
 外国人居留地は、政府が外国人の居留及び貿易を行える区域として特に定めた地域をいいます。
 外国人は、居留地にだけ居住することができました。
 横浜にも居留地がありましたので、横浜居留地の外国商社は横浜を動かず、主にキリスト教宣教師の教会堂やミッションスクールが築地に入りました。
 そのため、築地は、多くのミッションスクールの発祥の地となっています。
 鉄砲洲側から順にご案内します。

【青山学院記念の地】
c0187004_20285637.jpg 青山学院は、米国メソジスト監督協会の宣教師により創立された3つの学校を源流としています。
 明治7年、麻布に開校された「女子小学校」が「救世学校」を経て、明治10年に築地に移転してきて「海岸女学校」と改称し、青山学院の基礎となりました
 そして、明治11年に築地に「耕教学舎」が創立されました。
 翌年12年に「美曾神学校」が横浜に創立されました
 明治15年に青山の約3万坪の土地を入手し、「耕教学舎」と「美曾神学校」が一緒になって「東京英和学校」となりました。 青山学院が購入した土地は、御三家の紀州藩の支藩である伊予西条藩松平家の上屋敷跡地でした。
 明治27年には、「東京英和学校」は、青山の地名をとって「青山学院」と改称し、同じ年「海岸女子学校」も青山に移転し「青山女学院」となりました。
 そして、関東大震災を契機に両校の合同が計画され、昭和2年に実現しました。

【女子聖学院発祥の地】
c0187004_20293121.jpg 北区中里にある女子聖学院発祥の地の碑です。
 女子聖学院は、明治38年にアメリカのプロテスタント系の教派の女性宣教師によって女子聖学院神学部として東京築地で設立されました。
明治39年に 滝野川字中里(現立地場所)に用地を取得し校舎建設に着手し、翌年明治40年に校舎移転しました。

【明治学院発祥の地】
c0187004_20295385.jpg 明治学院の起源は文久3年(1863)にヘボン式ローマ字の創始者として知られているヘボンが横浜に開いた「ヘボン塾」です。
 ヘボン塾は、のちに男子部は明治学院に、女子部はフェリス女学院となります。
 ヘボン塾は明治13年に築地へと移転し、「築地大学校」と改称されました。
 その後、「一致英和学校」と「英和予備校」となりました。
 さらに、後に設立された「東京一致神学校」を明治20年に合併して「明治学院」となり、キャンパスは白金に設けられました。
 ヘボンは、明治学院初代総理に就任しました。

【 雙葉学園発祥の地】
c0187004_20303535.jpg 現在は四谷にある雙葉学園は、明治5年 サンモール修道会(現幼きイエス会)会員5名がフランスより来日し、布教と教育慈善活動を横浜で開始しました。
 明治8年 東京築地に「築地語学校」を開校し、語学等の教育と同時に、孤児や身よりのないない老人の世話等のボランティア活動も開始しました。
 明治42年 初代校長メール・セント・テレーズが私財にて現在の地を購入し、フランス風の優雅な木造2階建ての校舎を建造し、「雙葉高等女学校」が創立されました。

【関東学院発祥の地】 
c0187004_20305254.jpg  横浜市金沢区にある関東学院は、明治17年に 横浜山手に米国バプテスト伝道協会により横浜バプテスト神学校創立(のち東京学院神学部)されたのが源流です。
 明治28年に 築地に東京中学院設立されました。
 そのため、築地に発祥地の碑があります。
 大正8年、私立中学関東学院の設立が認可されました。
 昭和2年財団法人関東学院が組織され、中学部、東京学院神学部・高等学部を併合
そして、神学部は、のち青山学院に併合され、高等学部は、のち旧制専門学校に改組されました。
戦後の昭和24年の 学制改革により旧制専門学校を母体として関東学院大学(経済学部・工学部)設置されました。。

【立教学院発祥の地】
c0187004_20322319.jpg  立教大学は、明治7年にアメリカ聖公会宣教師、チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教が英語と聖書を教える立教学校(私塾)を開設したのが、発祥となります。
これは、平成12年、立教学院創立125周年記念事業のひとつとして建立されました。

  
【立教女学院発祥の地】
c0187004_20421932.jpg 立教学院の創立者である チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教が、明治10年 に現在の文京区湯島に立教女学校を設立しました。
 明治11年 現在の中央区築地に移りました。
 大正13年)現在の杉並区久我山に木造仮校舎を建設し、移転しました。

【慶應義塾発祥の地】
c0187004_20323710.jpg 慶應義塾の創設者福沢諭吉は、豊前中津藩の出身です。
 聖路加国際病院の場所に、中津藩の中屋敷があり、 安政5年(1858)、福沢諭吉がオランダの学問を教えるため、この地に塾を開きました。これが慶応義塾の始まりです。
 「慶應義塾発祥の地記念碑」は、昭和33年、義塾創立百年記念事業の一つとして建てられました。



 下記の地図でお分かりになるように、聖路加国際病院の周辺に多くの発祥の地の記念碑が立てられています。
 赤印が青山学院、ピンク印が女子学院、黄色印が明治学院、濃緑印が雙葉学園、淡緑印が中央学院、青印が立教女学院、紫印が立教学院、黒印が慶応義塾のそれぞれの発祥の地の記念碑です。

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by wheatbaku | 2012-12-03 07:30 | 忠臣蔵 | Trackback
  

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