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八月十八日の政変③(『幕末』)

今日は、八月十八日の政変の3回目ですが、八月十八日の政変の当日の動きを書いていきます。

八月十八日の政変について、いろいろ本で調べましたが、『京都守護職日誌』(菊地明編、新人物往来社刊)が一番詳しそうなので、それを中心に、18日の動きを書いていきます。

8月16日に、中川宮が参内し、孝明天皇に言上しますが、この時、孝明天皇は同意しませんでした。

しかし、その夜、孝明天皇から密使が遣わされ、政変も致し方ないので、会津藩に申付けるようにとの旨が届けられ、中川宮から松平容保に伝えらえます。

翌日17日深夜遅く(11時30分頃)、中川宮が御所に参内します。

そして、二条斉敬(なりゆき)右大臣、近衛忠煕前関白、徳大寺実則(さねつね)内大臣、近衛忠煕左大将、さらに松平容保に参内するよう11時50分頃に通知が発せられます。

 松平容保は兵を率いてすぐに参内します。

 この時、京都所司代(稲葉正邦)も参内したようです。

その直後に、米沢藩上杉弾正大弼、岡山藩松平備前守等へ兵があるものは兵を率いて即時参内するよう命令が出て、諸藩主は続々と参内します。

 会津藩は多数の軍勢を保持していましたので、その兵力と薩摩藩の兵を合せて、御所の各門が閉じられました。

 全ての門が閉じられた後、8月18日の夜明けに合図の砲声が会津藩の準備していた大砲から響きました。

会津藩と薩摩藩により御所の警備が行なわれている中で、参内した諸大名に対して「大和行幸」の延期(実際には中止)が発表されました。

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また、三条実美ら長州系公卿の参内・外出・他人との面会禁止の勅命が発せられました。さらに、国事参政・寄人を廃止し、長州藩の堺町門警備(右写真)も解かれました。


政変に気が付いた長州藩士たちは、堺町門に駆けつけ押し問答となりましたが、警備罷免の勅命が出されていたため、一旦、長州藩邸に集まりました。

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その後、長州藩邸に駆けつけた東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)らとともに、長州藩士は、関白鷹司忠熙の邸に移りました。

関白鷹司忠熙は、お召があって参内し、その後、鷹司邸に、三条実美と沢宣嘉が合流し、長州系公卿7名が揃いました。

鷹司邸に長州藩士と公卿が集まっているとの情報が御所に伝わり、三条実美等に解散の命令が出されました。

これにより、ついに七卿と長州藩は退去することを決め、妙法院へ入りました。妙法院は、2月の文化財特別公開で、拝観してきましたので、次回は、妙法院について紹介します。

この八月十八日の政変の時に、新選組も会津藩の命令を受けて御所に出動しています。夜明けの頃に出動しました。

『島田魁日記』には「8月18日、長州人引揚の節、当組南門を守る。その節、伝奏より新選組の隊名下さる」と書いてありますが、『京都守護職日誌』の解説では、「現実に彼らが新選組と称したのは後日のことであり、その節の功によりと解釈すべきである」と書いてあります。これによると、新選組と名のるのは、八月十八日の政変当日ではなく、その後(日は特定できず)のことのようです。

 


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by wheatbaku | 2017-04-12 09:20 | 『幕末』 | Trackback
八月十八日の政変②(『幕末』)

八月十八日の政変の2回目です。

八月十八日の政変は、前回書いたように、薩摩藩が会津藩に働きかけて、事がスタートしました。

薩摩藩から働きかけられた会津藩がどう動いたのかがわかる本があります。

 それが『京都守護職始末』ですc0187004_00003832.jpg

 今日は、『京都守護職始末』に基づいて、八月十八日の政変の直前の状況を書いていきます。

 8月13日、薩摩藩士の高崎佐太郎(後の正風)が。会津藩の秋月悌次郎の住居を訪れ

「近来叡旨として発表せられたものの多くは偽勅で、奸臣どもの所為から出たことは、兄らも知るところのごとくである。聖上もこのことを御気づかれ、しばしば中川宮に謀り賜うても、兵力をもった武臣で君側を清める任に当るものがないことを嘆いていられると聞く。わか輩、これをきいて、袖手傍観しているにしのびない。思ふに、この任に当れるのは会津と薩摩の二藩のほかにはない。願わくば、ともに当路の奸臣を除いて、叡慮を安じたいものである」 と語りました。

「その意気昂然たるものがあった」と書いてありますから、高崎佐太郎の語る勢いは非常に盛んだったようです。

秋月悌次郎たちも、その気持はもともと持っていましたが、藩主松平容保の了解もえずに勝手に協力を承諾するわけにいかないので、すぐに会津藩本陣のある黒谷に急いで、そのことを松平容保に報告しました。

 松平容保も同じ考えなので、薩摩藩と提携し尊攘派を排除する計画を準備することを許し、まず秋月悌次郎と高崎佐太郎に中川宮をたずねさせて、事の経緯を説明させました。

すると中川宮は大変喜んで、自分の身をなげうって孝明天皇が安心するようにしようと約束してくれました。

c0187004_23311147.jpg これほどの大事を決行するには、さらに、同じ考えの人の協力をえる必要があるので、天皇の信任が深い近衛前関白親子(近衛忠煕前関白と近衛忠房)と二条斉敬右大臣の賛同が必要なので、薩藩藩が近衛親子を説得することを約束し、二条右大臣の方を会津藩が説得することに手はずをきめました。

 会津藩では、大野重英を二条邸につかわしいろいろ説得した結果、二条右大臣も賛同しました。そして、近衛親子は薩摩藩が説得し賛同を得ました。

 こうした宮中工作の一方で、会津藩は軍勢の準備も怠りなくおこないました。

 会津藩の在京部隊は1千人規模でした。そして、8月はちょうど会津藩の在京部隊の交代時期にあたっていました。

 そこで、京都勤務が終わり帰国途上の部隊を引き留めることにより、在京部隊の数を通常の2倍の2千名にしようとしました。

 そこで、8月13日に大和行幸の警備強化を名目として、帰国途中の会津藩兵を呼び戻したのでした。

ちょうど8月12日に新選組の芹沢鴨が大和屋を焼討していて政情が騒然としていたので、この命令が本当はクーデターのための召喚命令だと気が付く人はいなかったようです。

この召喚により武力が2倍となりクーデターの実施が容易になりました。

 このことについても『京都守護職始末』に書かれています。

わが公の上京以来、旗下の守衛兵(藩ではこれを本隊と言っている)半数のほか、薄制で一陣を在府常備の兵員と決めてあった。一陣の将は、家老がこれに当って、陣将と称んでいるが、一陣は四隊が集まったものである。各隊にはそれぞれ隊長があって、それを番頭とよぶ。毎年八月を交代の時期とし、会津からくる新しい一陣は、八日に京師に着く。国へかえる一陣は、十一日に京師を出発する。

 親征の勅が下ったので、使いを走らせて、帰りはじめたものを途中から呼び返したので、その兵が京師に着くと、わが兵は二陣、すなわち八隊という多数になる。

「天皇の側近の協力も得られた」「軍勢も揃えた」「さぁ、いよいよ、クーデターの実行だ」となります。

8月17日の夜に中川宮が動いてクーデターが始まります。それについては次回書きます。





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by wheatbaku | 2017-04-10 07:50 | 『幕末』 | Trackback
姉小路公知暗殺(『幕末』)

姉小路公知暗殺


 今日からは、八月十八日の変から禁門の変までを中心に書いていきます。

 今日は、姉小路公知の暗殺事件から書いていきます。

文久3年5月20日の夜、尊王攘夷を唱える過激派公家として知られた姉小路公知が暗殺されました。


 暗殺された場所から、朔平門外の変とも猿ヶ辻の変とも呼ばれています。
 朔平門は京都御所の北側にある門です。(右下写真)

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 姉小路公知は、三条実美とともに、当時の朝廷を牛耳った公卿で、尊王攘夷派の代表格でした。

二人とも小柄ですが、三条実美は色白で柔弱なタイプであるのに、姉小路公知の方は対照的に色黒で精悍だったため、三条実美は白小豆、姉小路公知が赤小豆と言われていたようです。

 

 平凡社東洋文庫『京都守護職始末』には次のように書かれています。

姉小路少将は少壮で、頭がよく、弁舌か立ち、学習院に出る堂上は数人あったが、彼におよぶものは少なかった。集・てくる浮浪の徒も多く。三条実美卿に次いで、名声曖々としていた

また、『京都守護職始末』には襲撃の様子は次のように書いてあります。

5月20日の夜、御所の宣秋門を出て、御所の北側にある朔平門外にさしかかったところ、突然三人の賊があらわれて、姉小路公知を刺した。

 そして、襲った賊は刀と下駄をのこして去ったが、その刀をしらべると、薩摩の鍛冶がきたえたものであり、刀装も薩摩藩士が多く佩用するもので、柄頭(つかがしら)に藤原の二字と、縁(ふち)に鎮英の一に子が金で嵌め込んであった。下駄もまた、薩摩藩士が好んではくものであった。

 探索した結果、薩摩藩の田中新兵衛が容疑者として逮捕されました。
 田中新兵衛は薩摩藩士。もともとは船頭の子ともいわれています。安政の大獄に協力した島田左近を暗殺したとも言われる俗に「人斬り」と呼ばれる一人です。

 その田中新兵衛は町奉行所で、尋問中に自刃してしまいました。

 その様子は、『京都守護職日誌(第一巻)』では、次のように書かれています。

奉行所では田中新兵衛を尋問するにあたって、定法どおりに刀を預かろうとしたが拒絶され、なおも役人が申し入れると、脇差を抜いて自刃してしまった

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 田中新兵衛はどうして自刃したのかについては二つの説があるようです。

 田中新兵衛が持っていた刀が現場に残されていたことが決定的な証拠となるので、それを突き付けられて覚悟の死を遂げたという解釈もなりたちます。

その一方で、明治になってからなの史談会における田中新兵衛は刀を盗まれたと言っていたという証言もあるので、田中新兵衛は刀を盗まれたことを恥じて自刃したということも考えれらるようです。
 しかし、田中新兵衛が自刃してしまったので、姉小路公知暗殺の真犯人は結果的にわかりませんでした。

ところで、尊攘激派の姉小路公知が暗殺されたことについて、『京都守護職日誌(第一巻)』に、束久世通禧は明治28年に史談会の席でが次のように語った書いてあります。

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 将軍が軍艦で巡見すると云ふことで、姉小路少将は大樹(将軍)に随従して和田岬の方に検分に参ったのであります。其時勝麟太郎、今の勝安芳氏は無謀の攘夷は出来ぬと云ふ事で、姉小路に説いたと見えて、其の時帰って来てから鋭峰が挫けた都合で、轟武兵衛な   り武市半平太などは、姉小路様は幕府に寵絡されたとか云ひましたが、(中略)其れから鋭鋒が鈍った。

これによると、姉小路公知は、勝海舟の説得により、攘夷論の舌鋒が鈍ったので、武市瑞山たちは幕府に籠絡されたと怒っていたということのようです。

こうしたことから、姉小路公知が開国論に転向したと疑われたので襲撃されたのだという説もあると『京都守護職日誌(第一巻)』に書かれています。

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姉小路公知が襲われたところは、猿が辻とも言われています。

猿が辻は、京都御所の東北部分にあります。

京都御所の東北角は鬼門とされ、鬼門除けのため、築地塀の角が欠かれています。(右2段目。3段目の写真参照)
 そして欠いた部分に日吉山王社の神のお使いの猿を祀られています。

この猿が夜な夜なぬけだしては通行人にいたずらするため、金網で封じ込めたと伝えられています。


なかなか写真にとりにくいのですが、猿がいるのがわかりますでしょうか。


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暗殺された姉小路公知のお墓は、京都御所の東にある清浄華院にあります。

 清浄華院は、知恩院や知恩寺、金戒光明寺とならぶ浄土宗京都四カ本山の一つとして、長い歴史と格式を誇っています





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by wheatbaku | 2017-04-05 22:29 | 『幕末』 | Trackback
池田屋事件(「幕末」)

 今日は、有名な「池田屋事件」について書きます。

 池田屋事件は有名なわりには、インターネットには、詳しく書かれたものが少なくて、少し驚きました。そこで、池田屋事件について少し詳しく書いてみます。

池田屋事件は、新選組の名前を一気に高めた事件であるとともに新選組が最も華々しく輝いた事件でもあったと思います。また、この事件に憤激した長州藩兵が上京し禁門の変が起きていることから政治史の上でも非常に重要な事件です。

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 まず、事件の起きた「池田屋」は、三条小橋の西側にあります。 三条小橋は、三条大橋の西側にあり高瀬川に架かる橋です。

その三条小橋から20~30メートル程西に行った所に「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑があります。

 これが池田屋の跡です。ちなみに、池田屋事件は池田屋騒動とも呼ばれます。

池田屋は、当時、旅籠をやっていました。長州藩の定宿だったという説もあります。

 『血録 新選組』によれば、高瀬川から西に向かって通りの北側に「亀屋」「中屋」があり、次いで「池田屋」がありました。さらに南側にも旅籠が並んでいて、池田屋の間口は3件半(6.9m)という入口の狭い旅籠でした。

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 現在は、石碑がある場所で居酒屋チェーン「はなの舞」が「池田屋 はなの舞」という名前で商売をしています。右写真をご覧ください。

 2月末から3月にかけての京都旅行で、「はなの舞」に入りランチ「土方歳三」を食べてきました。

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 料理は、「はなの舞」のどの店舗にでもあるごく普通のメニューでした。
 しかし、店内の装飾は、やはり池田屋事件を意識したものでした。(右下写真)

 

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 この池田屋で、元治元年65日に新撰組が尊皇攘夷派の浪士を襲撃した事件が『池田屋事件」です。

 文久3年8月、会津藩と薩摩藩による宮中クーデターである八月十八日の政変により、尊王攘夷派の公卿や長州藩は失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていました。

 尊王攘夷派は勢力挽回の機会をうかがっていました。これを阻止すべく新撰組は市中警戒を強めていていました。

月5日、新撰組は、四条小橋西側で薪炭商を営む枡屋に踏み込み、主人喜右衛門を逮捕します。

 喜右衛門の本名は古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)といいました。

古高俊太郎は、近江国栗太郡古高村で生まれ、枡屋を営む湯浅喜右衛門の養子となり、枡屋(湯浅)喜右衛門を継承しました。 
「池田屋事件の研究』(中村武生著)によると枡屋は福岡藩黒田家の御用達で、古高は7代目にあたるそうです。また、古高が逮捕されたのは、8月18日の政変以降疎遠になりつつあった親長州派の有栖川宮と毛利家を結ぶエージェントの役割をはたしていたことが重要だろうと書いてあります。

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 四条通りの一本北側の小路に、古高俊太郎寓居之跡の碑がありました。これが枡屋のあった場所です。

「しる幸」というお店の玄関脇にありました。(左写真)

 枡屋喜右衛門を壬生の屯所に連行し、厳しく追及しました。しかし、名前が「古高俊太郎」とだけ白状しました。

 しかし、それ以外は口をわりませんでした。そこで、土方歳三が拷問により古高を自白させました。

 土方歳三が行なった厳しい拷問は、古高俊太郎を縛り上げ梁に逆さに吊るし足の裏に五寸釘を打ち込み、火をつけた百目蝋燭から蝋を流すという拷問だったと永倉新八の「新選組始末記」にかかれています。

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 新選組が古高俊太郎を拷問したのは前川邸の土蔵といわれていて、その土蔵は現存しています。(右写真)

 古高俊太郎の自供した内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って京都御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」というものでした。

 驚いた近藤勇は、すぐに京都守護職、会津藩、京都所司代に連絡し、協議しました。

 その結果、新撰組と諸藩兵士で協同で探索をすることになり、八坂神社前の祇園会所で落ち合うことにしました。

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 会所というのは町役人の詰め所で、祇園会所は、八坂神社の石段下で現在の東大路と四条通りがT字形に交差している三叉路の南西部にありました。(右写真)

 決められた時刻になっても、会津藩は来ませんでした。

 この時期、新撰組の隊員の減少が続き、全員で40名程度だったといわれています。

 このうち池田屋事件に参加した隊員は34名であり、祇園会所にも34名が動員されたものと思われます。

 この人数では、市中探索を行うには、十分とはいえませんでしたが、事態は一刻を争うと見た局長の近藤勇は単独行動に踏み切りました。

 近藤隊と土方隊の二手に分け、土方隊は24名で鴨川東側を北上しつつ縄手通を探索することにし、近藤勇は、沖田総司、永倉新八・藤堂平助ら9名を率いて10名で鴨川西側の木屋町通りを北上しつつ捜索を開始しました。(『図解雑学新選組』(菊地明編)による)

 近藤隊は、木屋町通りを探索しつつ北上していきました。そして、午後10時半ごろに、池田屋にいたり、池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見しました。

 

 池田屋で尊王攘夷派の志士たちが会合しているのに気がついたキッカケについては、いろいろな本にさまざまに書かれています。事前に情報があったとか、池田屋に長州藩の紋がある提灯が下げられていたからとか、夜遅い時間に灯りがもれていたからとか書かれています。

 近藤は、玄関先と裏側に数人づつ配置し、池田屋には、近藤勇は、沖田総司、永倉新八・藤堂平助らと踏み込みました。

池田屋に踏み込んだところ、池田屋の主人が2階に向かう階段付近で、2階にあわてて大声をかけました。

 近藤勇と沖田総司が、2階に駆け上がると、20数名の尊攘派志士がいたそうです。

 近藤たちと志士たちとの間で激しい戦いが始まりました。

 戦いの途中で、沖田総司は、結核のため戦えなくなり、戦線を離脱します。また藤堂平助も負傷しますが、新撰組は戦い続けます。

 戦っている途中、土方隊も到着し、戦いに参加し、新撰組は一気に優位にたちます。

 さらに、出動の遅れた会津藩の軍勢も到着し、周辺をかためました。

 2時間にわたる戦いにより、大勢の尊王攘夷の志士たちが殺されたり逮捕されました。

 正確な数はわかりませんが、近藤勇が養父近藤周斎にあてた手紙では、死者7名、負傷者4名、逮捕者23名と書かれています。

 死者の中には、肥後の宮部鼎蔵(みやべていぞう)、長州の吉田稔麿(よしだとしまろ)、土佐の北添佶麿(きたぞえよしまろ)・望月亀弥太らがいて、この事件により、倒幕が一年遅れたといわれるほどの大きな影響を与えました。

 この戦いに勝った、新撰組は、幕府から多くの恩賞が与えられました。

全員に一律十両が与えられさらに別段金が与えられ、別段金に差がありました。近藤勇には別段金20両、土方歳三は別段金13両でした。

また、新選組は一躍全国にその名を知られようになりました。



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by wheatbaku | 2017-03-29 11:05 | 『幕末』 | Trackback
芹沢鴨の暗殺(幕末)

今日は、新選組の2回目で、芹沢鴨の暗殺について書いてみます。

芹沢鴨は、清河八郎が江戸に戻ると言い出した時に、近藤勇とともに京に残留することを主張し、そのまま京に残りました。

芹沢鴨は、常陸国行方郡芹沢村の出身で、本名木村継次(つぐじ)とされています。

神道無念流を学び、水戸出身の新見錦(にいみにしき)、平山五郎、平間重助、野口健司とともに上洛しました。なお、芹沢鴨は水戸の天狗(てんぐ)党に属していわれていますが、それを裏つける明確な資料はないそうです。

京に残留した浪士組は、会津藩預かりとなり、「壬生浪士組」と呼ばれました。

芹沢鴨は、近藤勇、新見錦とともに壬生浪士組の局長となり、そのうちで芹沢が筆頭となりました。(なお、新見錦は当初局長だったがのちに副長となったと書いてあるものもあります」、

この芹沢鴨は大変な乱暴者で、いろいろなところでトラブルを起こしました。

文久3年6月、芹沢・近藤ら10人が大坂へ下った際に、相撲力士と喧嘩し力士側に死傷者が出ました。

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同じ6月、水口藩の公用方とトラブルを起こし、その仲直りの宴席が島原角屋で開かれて際に芹沢は大暴れをして酒樽の飲み口をたたき落とし、台所に山のように積んである瀬戸物を粉微塵した挙げ句、角屋を7日間営業停止にしたと新選組隊士永倉新八の書いた『新選組始末記』に書いてあります。


さらに、8月13日、芹沢は借金を断られた腹いせに、隊士を連れて、葭屋町一条の生糸屋大和屋庄兵衛宅に押しかけ焼き討ちしました。この時には 駆けつけた所司代の火消も手が出せなかったそうです。

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こうしたことから、「いつしか会津藩からの芹沢召し捕り命令は、暗殺命令に切り替えられた」(『新選組全史』(中村彰彦著)と言われています。


9月18日、新選組は島原の角屋で芸妓総揚げの宴会を開きました。

『新選組全史』(中村彰彦著)には、この時の費用は会津藩が負担し、会津藩が芹沢暗殺に協力して取った措置だろうと書いてあります。

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この時に宴会を開いたのが、角屋で最も広い43畳敷きの「松の間」だったそうです。


角屋「松の間」は特別公開で見てきました。
 写真も自由にとってよいとのことでたくさん撮らせてもらいました。

「松の間」」を彩っていた襖絵は『金地桐に鳳凰図』と呼ばれる幕末頃の絵師岸連山の絵でした。(右上写真)

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 右写真は、床の間の部屋です。

 芹沢鴨は、床の間の前辺りで酒を飲んでいたのではないかという説明がありました。

ちなみに近藤勇は酒は飲めず甘いものが好きでしたという補足説明がありました。



ここで酒を飲んだあと、芹沢鴨は平山五郎、平間重助と角屋を出て壬生の八木源之丞家へ戻り、八木家で再度宴会を催しました。

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(右写真は、八木家の入口です。)

その席に芹沢鴨の愛妾のお梅、平山の馴染みの桔梗屋吉栄、平間の馴染みの輪違屋糸里も一緒に酒の席に加わりました。

先日訪れた際の八木家での説明によれば、その席には、土方歳三も同席しており、土方歳三は、芹沢を酔わせるように、盛んに酒を進めたという説明がありました。

なぜ、それほどまで、酒を呑ませたかというと、芹沢鴨は、神道無念流の剣客で、酒が入っていなければ、近藤勇や土方歳三でも斬るのが難しかったためだそうです。

宴席が終るとすっかり泥酔した芹沢らは女たちと一緒に布団に入りました。

 一番奥の10畳の部屋に、芹沢はお梅と一緒に寝て、屏風を間に挟んで、平山五郎は吉栄とともに寝ました。
 平間重助と糸里は別の部屋で寝ました。

 八木家の邸内は撮影禁止ですので、八木家の間取り図は、八木家のホームページの中の「(新選組発祥の地) 壬生屯所旧跡」

 http://www.mibu-yagike.jp/04tonsho_main.html#1  をご覧ください。

 泥酔した芹沢たちを、深夜、男たちが襲いました。

襲われた芹沢は、縁側伝いに隣の部屋まで逃げ、その逃げ込んだ部屋に置かれていた文机につまずき、よろめいたところを斬られたといわれています。

逃げ込んだ部屋の鴨居には、「芹沢暗殺時の刀傷」といわれるものが現在でも残っています。

また、芹沢がつまずいた文机も、そのまま残されています。

(撮影禁止なので写真は撮れませんでした)

芹沢と同衾していたお梅も殺害されました。平山も殺害され、吉栄と、別室にいた平間と糸里は逃亡し行方知らずとなったそうです。

この芹沢暗殺を実行したのは、土方歳三や沖田総司、そしてその他の近藤グループ(本によりそのメンバーは微妙に異なります)であることは、その当時から現在まで全く疑われていないそうです。

 八木源之丞の息子八木八木為三郎の証言によると、当時13歳だった為三郎とその弟は既に眠っており、父は不在、現場を見たのは母だけだったそうです。

 そして為三郎が母から聞かされた話を65年後に子母潭寛に語っています。その殺害の様子は次のようだったと岩波新書『新選組』(松浦玲著)に書いてあります。

泥酔した芹沢が女(お梅)と共に寝込んでしまったのを見届けに来た男の姿は土方歳三に似ており、次いで斬りに来た数人のうちに沖田総司と原田佐之助かいたのは間違いなく、山南敬介もいたんじゃあないかという。逃げながら何度も斬られた芹沢の身体が眠っている兄弟の上に倒れかかったのに眼を覚まさなかったので「いくら子供でも余りひどいものだ」と母が怨じた。弟の勇之助は倒れた芹沢を斬る刀で右足を疵つけられたという。

 為三郎が眼を覚ましたときには平間重助か一人で刀を持って家の中を走り歩いていた。

芹沢の女が湯文字一枚の揉で死んでいるのと平山五郎の首が胴から離れているのは為三郎も見届けた。子供らが母と共に親戚の家へ移る直前に、急報を受けたという体で近藤や土方が現われて、いろいろ問いただす。母は怖いながらもおかしくて仕方がなかったのだが、ずっと後まで殺ったのが土方一味だということを口外しなかった。

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 実際に暗殺の現場に遭遇した人の証言は迫力があります。

 また、現場を見た後でしたので、この話がよりよく理解できました。

 芹沢暗殺は長州藩士の仕業とされ、9月20日に芹沢と平山の葬儀が盛大に執り行われました。

芹沢の墓は京都の壬生寺の壬生塚にありますが、その当時は壬生村の共同墓地に埋葬され、のちに壬生塚に改葬されたのだと光縁寺の御住職は仰っていました。




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by wheatbaku | 2017-03-24 10:50 | 『幕末』 | Trackback
浪士組結成(「幕末」)
 今日から、新選組について書いていきます。

 新選組を語るには、その前身である浪士組を語る必要がありますので、最初に浪士組について書いていきます。
 (右下写真は、浪士組が集合・出発した小石川伝通院です)

 浪士組は、庄内藩郷士清河八郎の建言に基づいて幕府により結成されました。

c0187004_10090006.jpg 清河八郎は、本名斎藤正明といいます。清河という姓は出羽国田川郡清川に生まれたことによるものだそうです。

18歳で江戸に出て,東条一堂,安積艮斎に師事し、昌平黌でも学び,剣を千葉周作に学びました。

その後、神田に塾を開き,文武二道を指南しながら、山岡鉄舟や伊牟田尚平,益光休之助らと「虎尾の会」を結成し,尊王攘夷を画策.実施しました。

『新選組全史』(中村彰彦著)によれば、赤羽橋でアメリカ公使館の通訳のヒュースケンを斬ったのは伊牟田尚平や清河八郎たちだと書いてあります。

こうした活動の中で、殺人事件を起して、幕吏に追われれる身となったため、逃亡と遊説をかねて,東北から九州へ旅をしたこともあります。

攘夷運動が高まるなかで、清河八郎は、文久2年(1862)、幕府に浪士組編成と尊攘派の大赦とを建言しました。
 尊攘派の大赦とは殺人を犯した清河八郎自身の大赦がねらいだったようです。

この清河の建言を入れて浪士組が結成されることになりました。

その取扱には、当初、松平忠輝の子孫で講武所の剣術教授方の松平忠敏が命じられました。

c0187004_10115216.jpgそして、募集の知らせが出され、これに応募した浪士たちは、文久3年2月5日に伝通院処静院(右写真)に集合を命じられましたが、この時には200名を超える浪士が集まったといいます。この際には取扱は鵜殿鳩翁に変っていました。

幕府は当初50人程度を予定していて一人50両を当てるとしていたようですが、予想外の浪士が集まったため支給額が10両に減額されたと言われています。

この浪士組結成の報を聞いて応募した浪士の中に、のちに新選組を結成する近藤勇グループと芹沢鴨グループがいました。

浪士組は、文久3年2月8日江戸を出発しました。浪士世話役に山岡鉄舟も命じられ、浪士組に同行しています。

この上洛途上、近藤グループと芹沢グループがどこに所属していたか、書いておきます。

中公新書「新選組」(大石学著)と「図解雑学新選組」によれば、次のようになっています。
 3番組新見錦(小頭:芹沢グループ)井上源三郎 (近藤グループ)

6番組近藤勇(小頭)土方歳三、山南敬介、沖田総司、永倉新八、原田左之助、藤堂平助(以上近藤グループ)、平山五郎、平間重助、野口健司(芹沢グループ)

c0187004_17044469.jpg浪士組は、中山道を利用し京都に2月23日に到着しました。京都に到着すると、浪士組の面々は壬生村に分宿しました。

『新選組全史』(中村彰彦著)によれば、鵜殿鳩翁、山岡鉄舟は前川邸(右写真)、清河八郎は新徳寺、近藤グループと芹沢グループは八木邸(右最下段)に宿泊することになりました。

c0187004_17044907.jpg 到着したその日に、清河八郎は、浪士組のメンバーを新徳寺(右写真)に集合させ、その真意を白状します。

清河八郎は、浪士組を結成し上洛したのは、尊王攘夷の建白書を御所に提出することだと宣言し、翌日、御所に建白書を提出しました。

これに対して、京に残留して将軍を警護すると主張したのが、近藤グループと芹沢グループです。
 中公新書「新選組」では、清河八郎の考えが、朝廷と幕府が離反した場合には朝廷につく尊王攘夷論であったのに対して、近藤の主張は、幕府の権力強化をもとに朝廷と幕府が一体となって政局を安定される公武合体論であったと書いてあります。

c0187004_17045395.jpg 清河八郎は、攘夷のための江戸帰還を主張しますが、
このとき、清河八郎に反対し京に残った近藤グループ8名(近藤 勇・土方歳三・沖田総司・井上源三郎・永倉新八・山南敬助・原田佐之助・藤堂平助)と芹沢グループ5名(芹沢鴨・平間重助・新見 錦・野口健司・平山五郎)の13名が後に新選組の中核となります。

浪士組は3月13日に江戸に戻ることとなり、近藤グループと芹沢グループ、さらにその後、残留を決めた人を含めて合計で24名が京に残ることになりました。

残った人たちは3月15日に会津藩預りとなることが決まり、この人たちが新選組(新選組と名のるのはしばらく後になりますが)となります。

これ以降は次回書きます。



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by wheatbaku | 2017-03-22 10:05 | 『幕末』 | Trackback
新撰組ゆかりの地(「幕末」)

新撰組ゆかりの地を行く

先日の京都旅行では、テーマをいくつか考えて、そのテーマゆかりの地を巡ってきました。

そのテーマは、「新選組」「禁門の変」「薩長同盟」「鳥羽伏見の戦い」など幕末に関係するものです。

そこで、これから、テーマにそって、書いていきますが、最初に新選組について書いていきます。

 今日は、まず、先日巡ってきた「新選組ゆかりの地」を一挙に紹介していきます。

 新選組といえば、「壬生」ということになりますが、京都駅から地下鉄と近鉄を乗りついて四条大宮まで行き、そこから歩いていきました。

1、光縁寺

c0187004_20525738.jpg 光縁寺は、四条大宮駅から壬生へ行く途中にありますが、四条大宮駅から南に下り一本道の道を西に歩いていくと北側をにあります。

 光縁寺には、山南敬介ほかのお墓があります。

c0187004_20530313.jpg しかし、このお寺は観光客は入寺お断りとなっていて、山南さんのお墓参りの人だけ入寺可能と門前に書かれています。

 「山南敬介さんのお墓参りさせてください」とお願いしたら、御住職は快く許可してくださいました。お話が好きなきさくな御住職でした。

 山南敬介は新撰組の総長でしたが、逃亡を図ったものの見つかり、切腹して果てました。

2、旧前川邸

c0187004_20515018.jpg こちらは旧前川邸の長屋門です。

 新選組の屯所として使用されました。

 壬生の前川家の本家は、六角の前川家で、前川家はもともとは糸割賦人として財力を蓄えた家系だったそうです。

c0187004_20515289.jpg この旧前川邸は、現在は株式会社田野製袋所となっていて、住居兼工場として利用されています。

 そのため、平日は公開されておらず、土日祝日のみ新選組グッズの販売がされています。

3、八木邸

c0187004_20515829.jpg こちらは八木邸です。

 新選組の屯所として使用されました。

 八木邸で、芹沢鴨が暗殺され、その座敷も残されていて、ガイドによる案内も行われています。

c0187004_20520622.jpg 芹沢鴨襲撃時に鴨居についた刀傷や芹沢鴨が逃れようとした際につまづいた文机も見ることができます。

 八木家は、壬生村に住む郷士でしたが、現在の八木家は、八木邸の前で「御菓子司 京都鶴屋」を経営しています。

c0187004_20545468.jpg 八木邸の見学は、入り口脇にある鶴寿庵」での屯所餅と抹茶セット付きで100円です。

 右写真がが屯所餅と抹茶セットです。

 八木家見学の後にいただきました。

 屯所餅には、壬生菜が刻みこんでありましたが、餅にマッチしていて美味しかったですね。

4、新徳寺

c0187004_20512414.jpg こちらは新徳寺です。

 浪士組は、清河八郎の建言により結成されたものですが、浪士組が京都に到着した際に、清河八郎の宿舎にあてられました。

 清河八郎が、到着した日に本当の狙いは尊王攘夷であるという大演説を行ったお寺です。

5、壬生寺

c0187004_20521558.jpg こちらが壬生寺です。

 壬生寺は平安時代の正暦2年(991)に創建された古刹で、壬生狂言で有名なお寺です。

 新選組は、ここで武芸の訓練等を行ったそうです。

c0187004_20521877.jpg 壬生寺の境内には、壬生塚があります。

 本堂に向かって右手に阿弥陀堂がありますが、その東側が壬生塚となっています。

 壬生塚には、近藤勇の胸像( 写真)や遺髪塔のほか、芹沢鴨・平山五郎の墓、野口武司たちお墓などがあります。

 ただし、この壬生塚に入るには200円の入場料がかかりますので、阿弥陀堂の中で払ってはいります。

c0187004_20525224.jpg こちらが芹沢鴨・平山五郎のお墓です。

 芹沢鴨・平山五郎が 八木邸で暗殺された翌日、盛大な葬儀が行われた後、壬生寺前にあった壬生村の共同墓地に埋葬され、その後。壬生寺境内に改葬されたものだそうです。









6、島原 角屋

c0187004_20571235.jpg 島原の「角屋」はすでに紹介した通りです。

 新選組でもしばしば使用しました。

文久3年6月には、近江水口藩と新選組との関係が悪化した際に、水口藩が新選組を招待して宴席を開きました」。

c0187004_20572959.jpgこの際に、酔っ払って暴れ出した芹沢鴨が、酒樽の栓を次々に叩き落とし、一面を酒びたしにするという狼藉を犯したりしています。

 こちら、既に紹介した角屋の松の間です。

c0187004_20573439.jpg 芹沢鴨が暗殺された日には、下段の松の間で新選組隊士を集めた大宴会が開かれました。

 芹沢鴨は、左手奥の床の間あたりに座って酒を呑んでいたのでしょうと説明がありました。

 角屋の玄関脇には、新選組の隊士が傷つけた刀傷が残されていました。


7、池田屋

c0187004_20573920.jpg  新選組が最も華やかな成果を挙げたのが池田屋事件です。

 三条小橋近くの旅籠池田屋に集合していた尊王攘夷派の浪士たちを急襲し、多くの志士が殺傷された事件です。

 現在の池田屋は、はなの舞となっています。

c0187004_21132793.jpg 池田屋の店内ですが、2階から3階に上る階段です。

 この写真でははっきりしませんが、階段を登りきると、下段の写真のように、新選組隊士が待ち受けています。

c0187004_21005409.jpg

c0187004_20575466.jpg はなの舞でのランチサービスには、次のように新選組隊士の名前がつけられています。

「土方歳三」
「沖田総司」
「斉藤一」
「藤堂平助」
「原田左之助」
「山南敬介」

 右上写真は、私が注文した「土方歳三」です。値段は1200円で、それ以外は980円でした。








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by wheatbaku | 2017-03-16 20:42 | 『幕末』 | Trackback
京都を死場所とする覚悟で臨んだ会桑両藩(幕末)

京都を死場所とする覚悟で臨んだ会桑両藩(幕末)


会津藩主松平容保が、京都守護職を引き受ける時に、会津藩では、容保主従が、京都を死場所とする覚悟で引き受けたという話は比較的広く知られた話です。


これについて、会津若松城攻防の際に防衛総督として戦闘を指揮した山川浩が書いた『京都守護職始末』では、次のように書かれています。

『京都守護職始末』東洋文庫版は金子光春の口語訳ですが、それでもわかりにくいと思われる部分がありますので、私なりに理解しやすいように語句を変更していますので、ご容赦ください。

四、西郷、田中両家老の諌止(注:タイトルです) 
京を死場所に

 松平容保が、京都守護職を拝命すると決心したとき、たまたま家老の西郷頼母と田中土佐が会津から道を急いで到着し、松平容保に謁見した。

c0187004_22563396.jpg そして、この頃の情勢から見て、幕府の形勢が不利であることを述べ、いまこの至難の時局に当るのは、まるで薪を負って火を救おうとするようなもので、おそらく労多くしてその功がないだろうと、誠意をこめて諌めるのであった。

 松平容保は、その席にいる江戸家老横山主税等を召して、西郷頼母らのことばを告げ、「京都守護職を固辞することは、私の最初の考えであったが、しかし将軍家からの要請がしきりに下り、家来としての心構えからはもはや辞退することができない。聞き及ぶと、最初、私が再三固辞したのは一身の安全を計るためであらうとするものがあったと聞く。そもそも会津松平家には、将軍家と盛衰存亡をともにすべしという藩祖保科正之の遺訓がある。そのうえ数代に亘って将軍家からは御恩をこうむっていることを一日たりといえども忘れたたことはない。ただ、私自身が能力がないため、万一の過失から将軍家に累を及ぼすことはないだろうかと、そのことを怖れただけのことである。他の批判で進退を決するようなことはないが。いやしくも安寧をむさぼるとあっては決心するよりほかはあるまい。しかし、このような重大な任務を拝命するとなれば、我ら君臣の心が一致しなければその成果を挙げることは困難だろう。皆の者、よく議論をつくして私の進退のことを考えてほしい」とのことであった。

c0187004_22564175.jpgそのため、横山主税をはじめ、いずれも松平容保の心持ちに感激し、このうえは重大な任務につくばかりであり、ほかのことなどとやかく議論すべき時ではない君臣ともに京都を死場所としようとついに衆議一決した。 

このように、会津藩では、京都守護職を拝命すれば会津藩の将来が危うくなる怖れがあるということを承知したうえで、拝命しています。

拝命した時に予想していたことが、その後の情勢の変化で、図らずも起きてしまったということになるようです。

右写真、最上段は、金戒光明寺の山門、2段目は御影堂です。

会津藩が京都守護職を拝命した時と同様な状況が桑名藩にもあったようです。

桑名藩では当時の史料があまり残されていないようですが、桑名博物館発行の「京都所司代松平定敬」展示図録掲載の「幕末の政局と桑名藩」によれば、元治元年(1864)春に将軍家茂が京都を離れて江戸に帰ろうとした時に、桑名藩は将軍が江戸に帰ることに反対したようです。

それに関する解説で、「幕末の政局と桑名藩」には、次のように書かれています。

c0187004_22564427.jpg桑名藩士高野一郎左衛門が書いた手紙には、「今将軍が京都を離れては、慶喜が実権を握って長州も上京するに違いなく、そうなっては京都は定敬の『墓地』になる」と書いてある。高野はこの時「嘆息流沸」の体で、海路上京する幕臣に同行して[是非是非還御御差留]に向かう勢いであったという。

 このように、桑名藩士の中には、京都所司代を勤めていくことが、松平定敬の墓地になるという認識をしている者もいたようです。


そして、「幕末の政局と桑名藩」の最後には

また、松平定敬本人にとってみればこの人事は、(中略)その端緒においては全く受動的な形で中央政局に登場したということができるだろう。(中略)  図らずも火中の栗を拾った桑名藩と定敬は、後戻りのできない幕末政局のうねりへと、その身を投じていくのである。

と書いてあります。


 やはり、桑名藩も会津藩と同じように、京都を死場所と覚悟して、あえて火中の栗を拾ったようです。

右上写真は、桑名城の天守台跡です。

天守台跡には戊辰戦争の犠牲者を追悼し手明治20年に建てられた「戊辰殉難招魂碑」が建っています。


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by wheatbaku | 2017-03-15 16:40 | 『幕末』 | Trackback
京都守護職と京都所司代(幕末)

今日は、京都守護職と京都所司代との関係について書いていきます。

 

 会津藩主松平容保は、文久2年(1862)閏8月1日に就任して以来、一貫して京都守護職に就任していて、京都守護職は松平容保ただ一人が就任していたように思う方が多いと思います。

 しかし、厳密にいうと、京都守護職に松平春嶽も就任していたことがあります。

元治元年(1864)2月11日、松平容保は陸軍総裁(のちに2月15日に軍事総裁と改められる)に任命されました。

これは前年の文久3年(1863)の8月18日の政変により長州藩が追放され、元治元年に長州藩を処罰する方針が決定されたための人事と言われています。

松平容保の後任として、京都守護職には松平春嶽が任命されました。

しかし、2か月後の4月7日には京都守護職に復職しています。

これ以降、王政復古の大号令が出され、京都守護職が廃止されるまで、松平容保が京都守護職に就任していました。

さて、今日は、よく見ると幕末政治に大いに関係する人たちが京都所司代となっていますので、京都守護職の下にあった京都所司代についてみておきます。

京都所司代は、江戸幕府の西国支配の中心的役割を果たす重要な職制です。

c0187004_22124700.jpg その役割は、朝廷の守護、公家・門跡の監察、京都市中の法制・裁判、五畿内および近江、丹波、播磨の8か国の公事・訴訟の管掌していました。(『国史大辞典』より)

 幕藩体制確立期に大きな地積を残したのは、板倉勝重・重宗父子でした。

c0187004_22125851.jpg しかし、幕末になると、京都所司代だけでは、京都の治安を維持するのが難しい情勢となり、武力をもった京都守護職が設置されました。

 京都守護職が設置されると、京都所司代は京都守護職の下部組織となりました。

 京都所司代上屋敷は、二条城の真北、元の待賢(たいけん)小学校の場所にありました。

 右上の写真2枚は、5年前に訪ねた時の写真です。

 それでは、松平容保が京都守護職に就任していた際の京都所司代の顔ぶれをみていきます。3人が京都所司代でした。

 牧野忠恭(ただゆき)、稲葉正邦、松平定敬の3人です。

 文久2年閏8月1日に松平容保が京都守護職を拝命した時の京都所司代は、丹後宮津藩主本庄宗秀でした。
 しかし、本庄宗秀は、文久2年6月30日に任命されましたが、就任反対意見が強く実際には着任できませんでした。

 その本庄宗秀の替りに、文久2年8月24日に京都所司代となったのが、越後長岡藩主牧野忠恭です。

 越後長岡藩といえば、戊辰戦争で、河井継之助をリーダーとして新政府軍と戦った藩です。

 松平容保が京都守護職として京都に入京した際の京都所司代は牧野忠恭でした。

c0187004_22175183.jpg 入京翌日には、牧野忠恭が松平容保に挨拶に参上しています。

 牧野忠恭が京都所司代の時、河井継之助も京都に来ていました。

司馬遼太郎の『峠』では、藩の外交を担当する公用方に任じられていて、会津藩との情報交換も担当していたと書かれています。

 その河井継之助は、長岡藩主が長く京都所司代を勤めていても、長岡藩にメリットはないと考え、牧野忠恭に辞任するよう建言し、牧野忠恭は文久3年6月11日に辞任しています。約10カ月の在任期間です。

 『峠』では、河井継之助が所司代辞任を老中に願い出たと描かれています。

 この後任が、淀藩藩主稲葉正邦です。

 鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍の入場を拒んだことで有名な淀藩の藩主です。

 稲葉家は、春日局の夫稲葉正成を藩祖とする家柄で、譜代の名門です。

c0187004_22130234.jpg 淀城には、稲葉正成を祭神とする稲葉神社があります。 右写真は先日訪ねて時の写真です。

 淀は、桂川・宇治川・木津川が合流する交通上・軍事上の重要地点です。

ですから、譜代名門の稲葉家が藩主を任されていたわけです。

 淀から京都は目の先ですので、家柄・距離等を考慮しての人選なのでしょう。

 この稲葉正邦は、元治元年4月11日に、老中となり転任しています。

 稲葉正邦も約10カ月に在任期間でした。

 

 稲葉正邦の後任として元治元年4月11日に京都所司代に任命されたのが、桑名藩主の松平定敬です。 

桑名藩松平家は、老中松平定信を出した譜代の名門です。定信の子供定永の代に奥州白河から桑名に転封となっています。

c0187004_22130727.jpg桑名城跡には、松平定信を祭神とする護国守国神社(*1)が鎮座しています。

1:松平定信が守国公と呼ばれ、藩祖松平定綱が護国公と呼ばれ、護国守国神社にはこの2人が祭神です。

 そして、松平定敬は、高須藩主松平義建の8男で、松平容保の実弟でもあり、桑名藩の養子となっていました。 

 つまり、実兄の松平容保との関係を重視した人選であったようです。

 よく見ると、4日前の4月7日には、実兄の松平容保が京都守護職に再任されていますので、この人事と一帯の人事だったようです。

 先日訪ねた桑名博物館発行の「京都所司代松平定敬」展示図録(平成2010月発行)に掲載されている『幕末政局と桑名藩-松平定敬の京都所司代就任の政治背景-』(奈良勝司氏著)には、桑名藩では、松平定敬の京都所司代就任を予期していなくて、主君の任官に困惑していたそうです。

また、この人事は次の2点から特異だったそうです。

①京都所司代は通常は雁間詰か帝鑑間詰の譜代大名がなるが、定敬はより上位の溜間詰であり、また任命の際には、決して辞退すべからず、兄の松平容保と協力して職務にあたるべしとの内命を受けていたこと。

②京都所司代は、通常は大阪城代か寺社奉行を経験した後に任命されるが、松平定敬は、大阪城代や寺社奉行の経験もしていない中での抜擢であった。

 この桑名藩主松平定敬の任命により、いわゆる「一会桑政権」(*2)が誕生することになります。

 *2:「一会桑」という言葉は『孝明天皇と「一会桑」』P85を読むと家近先生が命名した言葉のようですね。



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by wheatbaku | 2017-03-14 07:11 | 『幕末』 | Trackback
京都守護職ゆかりの地(幕末)

 京都守護職の本陣は、金戒光明寺に置かれたことは前回書きました。

 しかし、京都には、金戒光明寺のほかに、京都守護職ゆかりの建物があります。

 まず、現在の京都府庁の敷地内に石柱があります。

 そのほか、二条城近くの京都国際ホテル敷地内や岡崎の平安神宮の駐車場に門が残されています。

 これらは、今回の旅行では訪問しませんでしたが、以前書いたものがありますので、再度掲載しておきます。
 以前、掲載したものですので、現場の様子が変わっているかもしれませんがご容赦ください。

 現在、京都府庁は欅並木の美しい釜座(かまんざ)通りの正面にあります。
c0187004_11583142.jpg 京都府庁庁舎の旧本館は国の重要文化財です。
 明治37年12月20日に竣工し、地上2階建、延床面積約6,100平方メートルあります。工期3年余、総事業費は当時では破格の約36万6千円を要しました。
 建物の外観は、正面の一段高くなった屋根を中心として左右両翼に対称に張り出した形となっています。すごく風格のある立派建築物で驚きました。

 幕末には、ここに京都守護職の屋敷がありました。
 会津藩は、江戸時代、京都に藩邸を持っていませんでした。
c0187004_1159190.jpg そのため、文久2年(1862)12月、藩主の松平容保が京都守護職に任命され上洛した当初は、黒谷の金戒光明寺を本陣としました。  
 しかし、文久3年の末ごろから次第に御用屋敷が仁備されていきました。
 まず、京都所司代屋敷の北側に御用屋敷が造営されました。
 さらに、京都守護職の中心的な屋敷が、下長者町通りを北辺とし、南辺を下立売通り、東辺を新町通り、西辺を西洞院通りとする範囲に築造されました。
 これが、現在の京都府庁になっている場所です。
 京都府庁正門を入ると右手に石柱と『説明板が設置されています。
 休日には正門が閉鎖されていて、東門からのみ入れます。
 
 京都守護職の中心屋敷は、現府庁である釜座(かまんざ)の屋敷ですが、松平容保は、京都守護職屋敷に常駐していたわけではないようです。

 
 京都守護職の屋敷の門が、京都市内に2か所残されています。
c0187004_1202440.jpg 京都守護職屋敷門が、二条城近くの京都国際ホテルの東側駐車場に残されています。
 江戸時代、京都国際ホテルの敷地は江戸時代には越前福井藩の京屋敷でした。
 ここに、京都守護職屋敷の西洞院御門を明治になって移築したというのが京都国際ホテルの説明でした。
 ちなみ、京都国際ホテルの敷地は、明治になってからは、藤田観光などの創業者藤田伝三郎の別邸でした。

 また、もう一つ京都守護職屋敷の門が残されていました。
 c0187004_1204186.jpgそれは、京都会館北側の冷泉通りに面した平安神宮の駐車場に残されています。
 現在は、駐車場の片隅にあるように見えます。
 しかし、この門の北側には、京都武道センターがあります。その中に、明治28年に建てられ、国の重要文化財に指定されている旧武徳殿があります。
 元京都守護職屋敷門は、もともと、この武徳殿の正門として利用されていたものです


 以上書いた門のほかにも、京都守護職ゆかりの地があります。

 京都御所の東側にある清浄華院(しょうじょうけいん)を松平容保が一時期宿舎にしてこともありました。
c0187004_11594796.jpg このことは、清浄華院のお坊さんの説明もありました。
 現在、清浄華院の阿弥陀堂となっている建物は、以前は松林院という塔頭だったそうです。これが、松平容保の宿舎として利用されました。
 これは、文久3年12月13日、翌年正月の将軍家茂の上洛が予定されていたため、それまで仮館としていた施薬院から清浄華院に移ったのです。
 それは、将軍が参内するときには、必ず、施薬院で衣冠を改めていたため、家茂の上洛の際には家茂が使用するようになるからです。  

c0187004_120951.jpg また、御所の南にある凝華洞(ぎょうかどう)を仮館にしたこともあります。
 凝華洞跡についての説明板には次のように書かれていました。
 江戸時代第111代後西天皇退位後の仙洞御所があったところといわれています。
 1864(元治元)年禁門の変の頃、京都守護職に任じられていた会津藩主松平容保は病を患い、朝廷の配慮もありここを仮宿舎にしました。

 このように、幕末期は激動の時期でしたので、京都守護職の松平容保の宿舎は、その時の情況に応じて臨機応変に変わったものと思われます。

 さらに、鴨川の東側の聖護院村にも用地を与えられ、ここを練兵場として活用しました。
 このように、会津藩では京都守護職の任務を果たすため、いくつかの屋敷が整備されました。

 













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by wheatbaku | 2017-03-12 12:33 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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