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芹沢鴨の暗殺(幕末)

今日は、新選組の2回目で、芹沢鴨の暗殺について書いてみます。

芹沢鴨は、清河八郎が江戸に戻ると言い出した時に、近藤勇とともに京に残留することを主張し、そのまま京に残りました。

芹沢鴨は、常陸国行方郡芹沢村の出身で、本名木村継次(つぐじ)とされています。

神道無念流を学び、水戸出身の新見錦(にいみにしき)、平山五郎、平間重助、野口健司とともに上洛しました。なお、芹沢鴨は水戸の天狗(てんぐ)党に属していわれていますが、それを裏つける明確な資料はないそうです。

京に残留した浪士組は、会津藩預かりとなり、「壬生浪士組」と呼ばれました。

芹沢鴨は、近藤勇、新見錦とともに壬生浪士組の局長となり、そのうちで芹沢が筆頭となりました。(なお、新見錦は当初局長だったがのちに副長となったと書いてあるものもあります」、

この芹沢鴨は大変な乱暴者で、いろいろなところでトラブルを起こしました。

文久3年6月、芹沢・近藤ら10人が大坂へ下った際に、相撲力士と喧嘩し力士側に死傷者が出ました。

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同じ6月、水口藩の公用方とトラブルを起こし、その仲直りの宴席が島原角屋で開かれて際に芹沢は大暴れをして酒樽の飲み口をたたき落とし、台所に山のように積んである瀬戸物を粉微塵した挙げ句、角屋を7日間営業停止にしたと新選組隊士永倉新八の書いた『新選組始末記』に書いてあります。


さらに、8月13日、芹沢は借金を断られた腹いせに、隊士を連れて、葭屋町一条の生糸屋大和屋庄兵衛宅に押しかけ焼き討ちしました。この時には 駆けつけた所司代の火消も手が出せなかったそうです。

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こうしたことから、「いつしか会津藩からの芹沢召し捕り命令は、暗殺命令に切り替えられた」(『新選組全史』(中村彰彦著)と言われています。


9月18日、新選組は島原の角屋で芸妓総揚げの宴会を開きました。

『新選組全史』(中村彰彦著)には、この時の費用は会津藩が負担し、会津藩が芹沢暗殺に協力して取った措置だろうと書いてあります。

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この時に宴会を開いたのが、角屋で最も広い43畳敷きの「松の間」だったそうです。


角屋「松の間」は特別公開で見てきました。
 写真も自由にとってよいとのことでたくさん撮らせてもらいました。

「松の間」」を彩っていた襖絵は『金地桐に鳳凰図』と呼ばれる幕末頃の絵師岸連山の絵でした。(右上写真)

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 右写真は、床の間の部屋です。

 芹沢鴨は、床の間の前辺りで酒を飲んでいたのではないかという説明がありました。

ちなみに近藤勇は酒は飲めず甘いものが好きでしたという補足説明がありました。



ここで酒を飲んだあと、芹沢鴨は平山五郎、平間重助と角屋を出て壬生の八木源之丞家へ戻り、八木家で再度宴会を催しました。

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(右写真は、八木家の入口です。)

その席に芹沢鴨の愛妾のお梅、平山の馴染みの桔梗屋吉栄、平間の馴染みの輪違屋糸里も一緒に酒の席に加わりました。

先日訪れた際の八木家での説明によれば、その席には、土方歳三も同席しており、土方歳三は、芹沢を酔わせるように、盛んに酒を進めたという説明がありました。

なぜ、それほどまで、酒を呑ませたかというと、芹沢鴨は、神道無念流の剣客で、酒が入っていなければ、近藤勇や土方歳三でも斬るのが難しかったためだそうです。

宴席が終るとすっかり泥酔した芹沢らは女たちと一緒に布団に入りました。

 一番奥の10畳の部屋に、芹沢はお梅と一緒に寝て、屏風を間に挟んで、平山五郎は吉栄とともに寝ました。
 平間重助と糸里は別の部屋で寝ました。

 八木家の邸内は撮影禁止ですので、八木家の間取り図は、八木家のホームページの中の「(新選組発祥の地) 壬生屯所旧跡」

 http://www.mibu-yagike.jp/04tonsho_main.html#1  をご覧ください。

 泥酔した芹沢たちを、深夜、男たちが襲いました。

襲われた芹沢は、縁側伝いに隣の部屋まで逃げ、その逃げ込んだ部屋に置かれていた文机につまずき、よろめいたところを斬られたといわれています。

逃げ込んだ部屋の鴨居には、「芹沢暗殺時の刀傷」といわれるものが現在でも残っています。

また、芹沢がつまずいた文机も、そのまま残されています。

(撮影禁止なので写真は撮れませんでした)

芹沢と同衾していたお梅も殺害されました。平山も殺害され、吉栄と、別室にいた平間と糸里は逃亡し行方知らずとなったそうです。

この芹沢暗殺を実行したのは、土方歳三や沖田総司、そしてその他の近藤グループ(本によりそのメンバーは微妙に異なります)であることは、その当時から現在まで全く疑われていないそうです。

 八木源之丞の息子八木八木為三郎の証言によると、当時13歳だった為三郎とその弟は既に眠っており、父は不在、現場を見たのは母だけだったそうです。

 そして為三郎が母から聞かされた話を65年後に子母潭寛に語っています。その殺害の様子は次のようだったと岩波新書『新選組』(松浦玲著)に書いてあります。

泥酔した芹沢が女(お梅)と共に寝込んでしまったのを見届けに来た男の姿は土方歳三に似ており、次いで斬りに来た数人のうちに沖田総司と原田佐之助かいたのは間違いなく、山南敬介もいたんじゃあないかという。逃げながら何度も斬られた芹沢の身体が眠っている兄弟の上に倒れかかったのに眼を覚まさなかったので「いくら子供でも余りひどいものだ」と母が怨じた。弟の勇之助は倒れた芹沢を斬る刀で右足を疵つけられたという。

 為三郎が眼を覚ましたときには平間重助か一人で刀を持って家の中を走り歩いていた。

芹沢の女が湯文字一枚の揉で死んでいるのと平山五郎の首が胴から離れているのは為三郎も見届けた。子供らが母と共に親戚の家へ移る直前に、急報を受けたという体で近藤や土方が現われて、いろいろ問いただす。母は怖いながらもおかしくて仕方がなかったのだが、ずっと後まで殺ったのが土方一味だということを口外しなかった。

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 実際に暗殺の現場に遭遇した人の証言は迫力があります。

 また、現場を見た後でしたので、この話がよりよく理解できました。

 芹沢暗殺は長州藩士の仕業とされ、9月20日に芹沢と平山の葬儀が盛大に執り行われました。

芹沢の墓は京都の壬生寺の壬生塚にありますが、その当時は壬生村の共同墓地に埋葬され、のちに壬生塚に改葬されたのだと光縁寺の御住職は仰っていました。




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by wheatbaku | 2017-03-24 10:50 | 『幕末』 | Trackback
浪士組結成(「幕末」)
 今日から、新選組について書いていきます。

 新選組を語るには、その前身である浪士組を語る必要がありますので、最初に浪士組について書いていきます。
 (右下写真は、浪士組が集合・出発した小石川伝通院です)

 浪士組は、庄内藩郷士清河八郎の建言に基づいて幕府により結成されました。

c0187004_10090006.jpg 清河八郎は、本名斎藤正明といいます。清河という姓は出羽国田川郡清川に生まれたことによるものだそうです。

18歳で江戸に出て,東条一堂,安積艮斎に師事し、昌平黌でも学び,剣を千葉周作に学びました。

その後、神田に塾を開き,文武二道を指南しながら、山岡鉄舟や伊牟田尚平,益光休之助らと「虎尾の会」を結成し,尊王攘夷を画策.実施しました。

『新選組全史』(中村彰彦著)によれば、赤羽橋でアメリカ公使館の通訳のヒュースケンを斬ったのは伊牟田尚平や清河八郎たちだと書いてあります。

こうした活動の中で、殺人事件を起して、幕吏に追われれる身となったため、逃亡と遊説をかねて,東北から九州へ旅をしたこともあります。

攘夷運動が高まるなかで、清河八郎は、文久2年(1862)、幕府に浪士組編成と尊攘派の大赦とを建言しました。
 尊攘派の大赦とは殺人を犯した清河八郎自身の大赦がねらいだったようです。

この清河の建言を入れて浪士組が結成されることになりました。

その取扱には、当初、松平忠輝の子孫で講武所の剣術教授方の松平忠敏が命じられました。

c0187004_10115216.jpgそして、募集の知らせが出され、これに応募した浪士たちは、文久3年2月5日に伝通院処静院(右写真)に集合を命じられましたが、この時には200名を超える浪士が集まったといいます。この際には取扱は鵜殿鳩翁に変っていました。

幕府は当初50人程度を予定していて一人50両を当てるとしていたようですが、予想外の浪士が集まったため支給額が10両に減額されたと言われています。

この浪士組結成の報を聞いて応募した浪士の中に、のちに新選組を結成する近藤勇グループと芹沢鴨グループがいました。

浪士組は、文久3年2月8日江戸を出発しました。浪士世話役に山岡鉄舟も命じられ、浪士組に同行しています。

この上洛途上、近藤グループと芹沢グループがどこに所属していたか、書いておきます。

中公新書「新選組」(大石学著)と「図解雑学新選組」によれば、次のようになっています。
 3番組新見錦(小頭:芹沢グループ)井上源三郎 (近藤グループ)

6番組近藤勇(小頭)土方歳三、山南敬介、沖田総司、永倉新八、原田左之助、藤堂平助(以上近藤グループ)、平山五郎、平間重助、野口健司(芹沢グループ)

c0187004_17044469.jpg浪士組は、中山道を利用し京都に2月23日に到着しました。京都に到着すると、浪士組の面々は壬生村に分宿しました。

『新選組全史』(中村彰彦著)によれば、鵜殿鳩翁、山岡鉄舟は前川邸(右写真)、清河八郎は新徳寺、近藤グループと芹沢グループは八木邸(右最下段)に宿泊することになりました。

c0187004_17044907.jpg 到着したその日に、清河八郎は、浪士組のメンバーを新徳寺(右写真)に集合させ、その真意を白状します。

清河八郎は、浪士組を結成し上洛したのは、尊王攘夷の建白書を御所に提出することだと宣言し、翌日、御所に建白書を提出しました。

これに対して、京に残留して将軍を警護すると主張したのが、近藤グループと芹沢グループです。
 中公新書「新選組」では、清河八郎の考えが、朝廷と幕府が離反した場合には朝廷につく尊王攘夷論であったのに対して、近藤の主張は、幕府の権力強化をもとに朝廷と幕府が一体となって政局を安定される公武合体論であったと書いてあります。

c0187004_17045395.jpg 清河八郎は、攘夷のための江戸帰還を主張しますが、
このとき、清河八郎に反対し京に残った近藤グループ8名(近藤 勇・土方歳三・沖田総司・井上源三郎・永倉新八・山南敬助・原田佐之助・藤堂平助)と芹沢グループ5名(芹沢鴨・平間重助・新見 錦・野口健司・平山五郎)の13名が後に新選組の中核となります。

浪士組は3月13日に江戸に戻ることとなり、近藤グループと芹沢グループ、さらにその後、残留を決めた人を含めて合計で24名が京に残ることになりました。

残った人たちは3月15日に会津藩預りとなることが決まり、この人たちが新選組(新選組と名のるのはしばらく後になりますが)となります。

これ以降は次回書きます。



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by wheatbaku | 2017-03-22 10:05 | 『幕末』 | Trackback
新撰組ゆかりの地(「幕末」)

新撰組ゆかりの地を行く

先日の京都旅行では、テーマをいくつか考えて、そのテーマゆかりの地を巡ってきました。

そのテーマは、「新選組」「禁門の変」「薩長同盟」「鳥羽伏見の戦い」など幕末に関係するものです。

そこで、これから、テーマにそって、書いていきますが、最初に新選組について書いていきます。

 今日は、まず、先日巡ってきた「新選組ゆかりの地」を一挙に紹介していきます。

 新選組といえば、「壬生」ということになりますが、京都駅から地下鉄と近鉄を乗りついて四条大宮まで行き、そこから歩いていきました。

1、光縁寺

c0187004_20525738.jpg 光縁寺は、四条大宮駅から壬生へ行く途中にありますが、四条大宮駅から南に下り一本道の道を西に歩いていくと北側をにあります。

 光縁寺には、山南敬介ほかのお墓があります。

c0187004_20530313.jpg しかし、このお寺は観光客は入寺お断りとなっていて、山南さんのお墓参りの人だけ入寺可能と門前に書かれています。

 「山南敬介さんのお墓参りさせてください」とお願いしたら、御住職は快く許可してくださいました。お話が好きなきさくな御住職でした。

 山南敬介は新撰組の総長でしたが、逃亡を図ったものの見つかり、切腹して果てました。

2、旧前川邸

c0187004_20515018.jpg こちらは旧前川邸の長屋門です。

 新選組の屯所として使用されました。

 壬生の前川家の本家は、六角の前川家で、前川家はもともとは糸割賦人として財力を蓄えた家系だったそうです。

c0187004_20515289.jpg この旧前川邸は、現在は株式会社田野製袋所となっていて、住居兼工場として利用されています。

 そのため、平日は公開されておらず、土日祝日のみ新選組グッズの販売がされています。

3、八木邸

c0187004_20515829.jpg こちらは八木邸です。

 新選組の屯所として使用されました。

 八木邸で、芹沢鴨が暗殺され、その座敷も残されていて、ガイドによる案内も行われています。

c0187004_20520622.jpg 芹沢鴨襲撃時に鴨居についた刀傷や芹沢鴨が逃れようとした際につまづいた文机も見ることができます。

 八木家は、壬生村に住む郷士でしたが、現在の八木家は、八木邸の前で「御菓子司 京都鶴屋」を経営しています。

c0187004_20545468.jpg 八木邸の見学は、入り口脇にある鶴寿庵」での屯所餅と抹茶セット付きで100円です。

 右写真がが屯所餅と抹茶セットです。

 八木家見学の後にいただきました。

 屯所餅には、壬生菜が刻みこんでありましたが、餅にマッチしていて美味しかったですね。

4、新徳寺

c0187004_20512414.jpg こちらは新徳寺です。

 浪士組は、清河八郎の建言により結成されたものですが、浪士組が京都に到着した際に、清河八郎の宿舎にあてられました。

 清河八郎が、到着した日に本当の狙いは尊王攘夷であるという大演説を行ったお寺です。

5、壬生寺

c0187004_20521558.jpg こちらが壬生寺です。

 壬生寺は平安時代の正暦2年(991)に創建された古刹で、壬生狂言で有名なお寺です。

 新選組は、ここで武芸の訓練等を行ったそうです。

c0187004_20521877.jpg 壬生寺の境内には、壬生塚があります。

 本堂に向かって右手に阿弥陀堂がありますが、その東側が壬生塚となっています。

 壬生塚には、近藤勇の胸像( 写真)や遺髪塔のほか、芹沢鴨・平山五郎の墓、野口武司たちお墓などがあります。

 ただし、この壬生塚に入るには200円の入場料がかかりますので、阿弥陀堂の中で払ってはいります。

c0187004_20525224.jpg こちらが芹沢鴨・平山五郎のお墓です。

 芹沢鴨・平山五郎が 八木邸で暗殺された翌日、盛大な葬儀が行われた後、壬生寺前にあった壬生村の共同墓地に埋葬され、その後。壬生寺境内に改葬されたものだそうです。









6、島原 角屋

c0187004_20571235.jpg 島原の「角屋」はすでに紹介した通りです。

 新選組でもしばしば使用しました。

文久3年6月には、近江水口藩と新選組との関係が悪化した際に、水口藩が新選組を招待して宴席を開きました」。

c0187004_20572959.jpgこの際に、酔っ払って暴れ出した芹沢鴨が、酒樽の栓を次々に叩き落とし、一面を酒びたしにするという狼藉を犯したりしています。

 こちら、既に紹介した角屋の松の間です。

c0187004_20573439.jpg 芹沢鴨が暗殺された日には、下段の松の間で新選組隊士を集めた大宴会が開かれました。

 芹沢鴨は、左手奥の床の間あたりに座って酒を呑んでいたのでしょうと説明がありました。

 角屋の玄関脇には、新選組の隊士が傷つけた刀傷が残されていました。


7、池田屋

c0187004_20573920.jpg  新選組が最も華やかな成果を挙げたのが池田屋事件です。

 三条小橋近くの旅籠池田屋に集合していた尊王攘夷派の浪士たちを急襲し、多くの志士が殺傷された事件です。

 現在の池田屋は、はなの舞となっています。

c0187004_21132793.jpg 池田屋の店内ですが、2階から3階に上る階段です。

 この写真でははっきりしませんが、階段を登りきると、下段の写真のように、新選組隊士が待ち受けています。

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c0187004_20575466.jpg はなの舞でのランチサービスには、次のように新選組隊士の名前がつけられています。

「土方歳三」
「沖田総司」
「斉藤一」
「藤堂平助」
「原田左之助」
「山南敬介」

 右上写真は、私が注文した「土方歳三」です。値段は1200円で、それ以外は980円でした。








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by wheatbaku | 2017-03-16 20:42 | 『幕末』 | Trackback
京都を死場所とする覚悟で臨んだ会桑両藩(幕末)

京都を死場所とする覚悟で臨んだ会桑両藩(幕末)


会津藩主松平容保が、京都守護職を引き受ける時に、会津藩では、容保主従が、京都を死場所とする覚悟で引き受けたという話は比較的広く知られた話です。


これについて、会津若松城攻防の際に防衛総督として戦闘を指揮した山川浩が書いた『京都守護職始末』では、次のように書かれています。

『京都守護職始末』東洋文庫版は金子光春の口語訳ですが、それでもわかりにくいと思われる部分がありますので、私なりに理解しやすいように語句を変更していますので、ご容赦ください。

四、西郷、田中両家老の諌止(注:タイトルです) 
京を死場所に

 松平容保が、京都守護職を拝命すると決心したとき、たまたま家老の西郷頼母と田中土佐が会津から道を急いで到着し、松平容保に謁見した。

c0187004_22563396.jpg そして、この頃の情勢から見て、幕府の形勢が不利であることを述べ、いまこの至難の時局に当るのは、まるで薪を負って火を救おうとするようなもので、おそらく労多くしてその功がないだろうと、誠意をこめて諌めるのであった。

 松平容保は、その席にいる江戸家老横山主税等を召して、西郷頼母らのことばを告げ、「京都守護職を固辞することは、私の最初の考えであったが、しかし将軍家からの要請がしきりに下り、家来としての心構えからはもはや辞退することができない。聞き及ぶと、最初、私が再三固辞したのは一身の安全を計るためであらうとするものがあったと聞く。そもそも会津松平家には、将軍家と盛衰存亡をともにすべしという藩祖保科正之の遺訓がある。そのうえ数代に亘って将軍家からは御恩をこうむっていることを一日たりといえども忘れたたことはない。ただ、私自身が能力がないため、万一の過失から将軍家に累を及ぼすことはないだろうかと、そのことを怖れただけのことである。他の批判で進退を決するようなことはないが。いやしくも安寧をむさぼるとあっては決心するよりほかはあるまい。しかし、このような重大な任務を拝命するとなれば、我ら君臣の心が一致しなければその成果を挙げることは困難だろう。皆の者、よく議論をつくして私の進退のことを考えてほしい」とのことであった。

c0187004_22564175.jpgそのため、横山主税をはじめ、いずれも松平容保の心持ちに感激し、このうえは重大な任務につくばかりであり、ほかのことなどとやかく議論すべき時ではない君臣ともに京都を死場所としようとついに衆議一決した。 

このように、会津藩では、京都守護職を拝命すれば会津藩の将来が危うくなる怖れがあるということを承知したうえで、拝命しています。

拝命した時に予想していたことが、その後の情勢の変化で、図らずも起きてしまったということになるようです。

右写真、最上段は、金戒光明寺の山門、2段目は御影堂です。

会津藩が京都守護職を拝命した時と同様な状況が桑名藩にもあったようです。

桑名藩では当時の史料があまり残されていないようですが、桑名博物館発行の「京都所司代松平定敬」展示図録掲載の「幕末の政局と桑名藩」によれば、元治元年(1864)春に将軍家茂が京都を離れて江戸に帰ろうとした時に、桑名藩は将軍が江戸に帰ることに反対したようです。

それに関する解説で、「幕末の政局と桑名藩」には、次のように書かれています。

c0187004_22564427.jpg桑名藩士高野一郎左衛門が書いた手紙には、「今将軍が京都を離れては、慶喜が実権を握って長州も上京するに違いなく、そうなっては京都は定敬の『墓地』になる」と書いてある。高野はこの時「嘆息流沸」の体で、海路上京する幕臣に同行して[是非是非還御御差留]に向かう勢いであったという。

 このように、桑名藩士の中には、京都所司代を勤めていくことが、松平定敬の墓地になるという認識をしている者もいたようです。


そして、「幕末の政局と桑名藩」の最後には

また、松平定敬本人にとってみればこの人事は、(中略)その端緒においては全く受動的な形で中央政局に登場したということができるだろう。(中略)  図らずも火中の栗を拾った桑名藩と定敬は、後戻りのできない幕末政局のうねりへと、その身を投じていくのである。

と書いてあります。


 やはり、桑名藩も会津藩と同じように、京都を死場所と覚悟して、あえて火中の栗を拾ったようです。

右上写真は、桑名城の天守台跡です。

天守台跡には戊辰戦争の犠牲者を追悼し手明治20年に建てられた「戊辰殉難招魂碑」が建っています。


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by wheatbaku | 2017-03-15 16:40 | 『幕末』 | Trackback
京都守護職と京都所司代(幕末)

今日は、京都守護職と京都所司代との関係について書いていきます。

 

 会津藩主松平容保は、文久2年(1862)閏8月1日に就任して以来、一貫して京都守護職に就任していて、京都守護職は松平容保ただ一人が就任していたように思う方が多いと思います。

 しかし、厳密にいうと、京都守護職に松平春嶽も就任していたことがあります。

元治元年(1864)2月11日、松平容保は陸軍総裁(のちに2月15日に軍事総裁と改められる)に任命されました。

これは前年の文久3年(1863)の8月18日の政変により長州藩が追放され、元治元年に長州藩を処罰する方針が決定されたための人事と言われています。

松平容保の後任として、京都守護職には松平春嶽が任命されました。

しかし、2か月後の4月7日には京都守護職に復職しています。

これ以降、王政復古の大号令が出され、京都守護職が廃止されるまで、松平容保が京都守護職に就任していました。

さて、今日は、よく見ると幕末政治に大いに関係する人たちが京都所司代となっていますので、京都守護職の下にあった京都所司代についてみておきます。

京都所司代は、江戸幕府の西国支配の中心的役割を果たす重要な職制です。

c0187004_22124700.jpg その役割は、朝廷の守護、公家・門跡の監察、京都市中の法制・裁判、五畿内および近江、丹波、播磨の8か国の公事・訴訟の管掌していました。(『国史大辞典』より)

 幕藩体制確立期に大きな地積を残したのは、板倉勝重・重宗父子でした。

c0187004_22125851.jpg しかし、幕末になると、京都所司代だけでは、京都の治安を維持するのが難しい情勢となり、武力をもった京都守護職が設置されました。

 京都守護職が設置されると、京都所司代は京都守護職の下部組織となりました。

 京都所司代上屋敷は、二条城の真北、元の待賢(たいけん)小学校の場所にありました。

 右上の写真2枚は、5年前に訪ねた時の写真です。

 それでは、松平容保が京都守護職に就任していた際の京都所司代の顔ぶれをみていきます。3人が京都所司代でした。

 牧野忠恭(ただゆき)、稲葉正邦、松平定敬の3人です。

 文久2年閏8月1日に松平容保が京都守護職を拝命した時の京都所司代は、丹後宮津藩主本庄宗秀でした。
 しかし、本庄宗秀は、文久2年6月30日に任命されましたが、就任反対意見が強く実際には着任できませんでした。

 その本庄宗秀の替りに、文久2年8月24日に京都所司代となったのが、越後長岡藩主牧野忠恭です。

 越後長岡藩といえば、戊辰戦争で、河井継之助をリーダーとして新政府軍と戦った藩です。

 松平容保が京都守護職として京都に入京した際の京都所司代は牧野忠恭でした。

c0187004_22175183.jpg 入京翌日には、牧野忠恭が松平容保に挨拶に参上しています。

 牧野忠恭が京都所司代の時、河井継之助も京都に来ていました。

司馬遼太郎の『峠』では、藩の外交を担当する公用方に任じられていて、会津藩との情報交換も担当していたと書かれています。

 その河井継之助は、長岡藩主が長く京都所司代を勤めていても、長岡藩にメリットはないと考え、牧野忠恭に辞任するよう建言し、牧野忠恭は文久3年6月11日に辞任しています。約10カ月の在任期間です。

 『峠』では、河井継之助が所司代辞任を老中に願い出たと描かれています。

 この後任が、淀藩藩主稲葉正邦です。

 鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍の入場を拒んだことで有名な淀藩の藩主です。

 稲葉家は、春日局の夫稲葉正成を藩祖とする家柄で、譜代の名門です。

c0187004_22130234.jpg 淀城には、稲葉正成を祭神とする稲葉神社があります。 右写真は先日訪ねて時の写真です。

 淀は、桂川・宇治川・木津川が合流する交通上・軍事上の重要地点です。

ですから、譜代名門の稲葉家が藩主を任されていたわけです。

 淀から京都は目の先ですので、家柄・距離等を考慮しての人選なのでしょう。

 この稲葉正邦は、元治元年4月11日に、老中となり転任しています。

 稲葉正邦も約10カ月に在任期間でした。

 

 稲葉正邦の後任として元治元年4月11日に京都所司代に任命されたのが、桑名藩主の松平定敬です。 

桑名藩松平家は、老中松平定信を出した譜代の名門です。定信の子供定永の代に奥州白河から桑名に転封となっています。

c0187004_22130727.jpg桑名城跡には、松平定信を祭神とする護国守国神社(*1)が鎮座しています。

1:松平定信が守国公と呼ばれ、藩祖松平定綱が護国公と呼ばれ、護国守国神社にはこの2人が祭神です。

 そして、松平定敬は、高須藩主松平義建の8男で、松平容保の実弟でもあり、桑名藩の養子となっていました。 

 つまり、実兄の松平容保との関係を重視した人選であったようです。

 よく見ると、4日前の4月7日には、実兄の松平容保が京都守護職に再任されていますので、この人事と一帯の人事だったようです。

 先日訪ねた桑名博物館発行の「京都所司代松平定敬」展示図録(平成2010月発行)に掲載されている『幕末政局と桑名藩-松平定敬の京都所司代就任の政治背景-』(奈良勝司氏著)には、桑名藩では、松平定敬の京都所司代就任を予期していなくて、主君の任官に困惑していたそうです。

また、この人事は次の2点から特異だったそうです。

①京都所司代は通常は雁間詰か帝鑑間詰の譜代大名がなるが、定敬はより上位の溜間詰であり、また任命の際には、決して辞退すべからず、兄の松平容保と協力して職務にあたるべしとの内命を受けていたこと。

②京都所司代は、通常は大阪城代か寺社奉行を経験した後に任命されるが、松平定敬は、大阪城代や寺社奉行の経験もしていない中での抜擢であった。

 この桑名藩主松平定敬の任命により、いわゆる「一会桑政権」(*2)が誕生することになります。

 *2:「一会桑」という言葉は『孝明天皇と「一会桑」』P85を読むと家近先生が命名した言葉のようですね。



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by wheatbaku | 2017-03-14 07:11 | 『幕末』 | Trackback
京都守護職ゆかりの地(幕末)

 京都守護職の本陣は、金戒光明寺に置かれたことは前回書きました。

 しかし、京都には、金戒光明寺のほかに、京都守護職ゆかりの建物があります。

 まず、現在の京都府庁の敷地内に石柱があります。

 そのほか、二条城近くの京都国際ホテル敷地内や岡崎の平安神宮の駐車場に門が残されています。

 これらは、今回の旅行では訪問しませんでしたが、以前書いたものがありますので、再度掲載しておきます。
 以前、掲載したものですので、現場の様子が変わっているかもしれませんがご容赦ください。

 現在、京都府庁は欅並木の美しい釜座(かまんざ)通りの正面にあります。
c0187004_11583142.jpg 京都府庁庁舎の旧本館は国の重要文化財です。
 明治37年12月20日に竣工し、地上2階建、延床面積約6,100平方メートルあります。工期3年余、総事業費は当時では破格の約36万6千円を要しました。
 建物の外観は、正面の一段高くなった屋根を中心として左右両翼に対称に張り出した形となっています。すごく風格のある立派建築物で驚きました。

 幕末には、ここに京都守護職の屋敷がありました。
 会津藩は、江戸時代、京都に藩邸を持っていませんでした。
c0187004_1159190.jpg そのため、文久2年(1862)12月、藩主の松平容保が京都守護職に任命され上洛した当初は、黒谷の金戒光明寺を本陣としました。  
 しかし、文久3年の末ごろから次第に御用屋敷が仁備されていきました。
 まず、京都所司代屋敷の北側に御用屋敷が造営されました。
 さらに、京都守護職の中心的な屋敷が、下長者町通りを北辺とし、南辺を下立売通り、東辺を新町通り、西辺を西洞院通りとする範囲に築造されました。
 これが、現在の京都府庁になっている場所です。
 京都府庁正門を入ると右手に石柱と『説明板が設置されています。
 休日には正門が閉鎖されていて、東門からのみ入れます。
 
 京都守護職の中心屋敷は、現府庁である釜座(かまんざ)の屋敷ですが、松平容保は、京都守護職屋敷に常駐していたわけではないようです。

 
 京都守護職の屋敷の門が、京都市内に2か所残されています。
c0187004_1202440.jpg 京都守護職屋敷門が、二条城近くの京都国際ホテルの東側駐車場に残されています。
 江戸時代、京都国際ホテルの敷地は江戸時代には越前福井藩の京屋敷でした。
 ここに、京都守護職屋敷の西洞院御門を明治になって移築したというのが京都国際ホテルの説明でした。
 ちなみ、京都国際ホテルの敷地は、明治になってからは、藤田観光などの創業者藤田伝三郎の別邸でした。

 また、もう一つ京都守護職屋敷の門が残されていました。
 c0187004_1204186.jpgそれは、京都会館北側の冷泉通りに面した平安神宮の駐車場に残されています。
 現在は、駐車場の片隅にあるように見えます。
 しかし、この門の北側には、京都武道センターがあります。その中に、明治28年に建てられ、国の重要文化財に指定されている旧武徳殿があります。
 元京都守護職屋敷門は、もともと、この武徳殿の正門として利用されていたものです


 以上書いた門のほかにも、京都守護職ゆかりの地があります。

 京都御所の東側にある清浄華院(しょうじょうけいん)を松平容保が一時期宿舎にしてこともありました。
c0187004_11594796.jpg このことは、清浄華院のお坊さんの説明もありました。
 現在、清浄華院の阿弥陀堂となっている建物は、以前は松林院という塔頭だったそうです。これが、松平容保の宿舎として利用されました。
 これは、文久3年12月13日、翌年正月の将軍家茂の上洛が予定されていたため、それまで仮館としていた施薬院から清浄華院に移ったのです。
 それは、将軍が参内するときには、必ず、施薬院で衣冠を改めていたため、家茂の上洛の際には家茂が使用するようになるからです。  

c0187004_120951.jpg また、御所の南にある凝華洞(ぎょうかどう)を仮館にしたこともあります。
 凝華洞跡についての説明板には次のように書かれていました。
 江戸時代第111代後西天皇退位後の仙洞御所があったところといわれています。
 1864(元治元)年禁門の変の頃、京都守護職に任じられていた会津藩主松平容保は病を患い、朝廷の配慮もありここを仮宿舎にしました。

 このように、幕末期は激動の時期でしたので、京都守護職の松平容保の宿舎は、その時の情況に応じて臨機応変に変わったものと思われます。

 さらに、鴨川の東側の聖護院村にも用地を与えられ、ここを練兵場として活用しました。
 このように、会津藩では京都守護職の任務を果たすため、いくつかの屋敷が整備されました。

 













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by wheatbaku | 2017-03-12 12:33 | 『幕末』 | Trackback
京都の桜は満開でした
 月曜日から、所用で京都にいっていました。
 京都の各所を回りましたが、桜が満開でした。
 ホテルからアップしようと思いましたが、宿泊したホテルでPCが借りられませんでしたのアップできませんでした。
 そこで、今日は、それらをまとめてアップします。
 京都の満開の桜を写真で楽しんでいただければ幸いです。

円山公園の枝垂桜
 「祇園の夜桜」として有名な枝垂桜は、この時期、夜間にライトアップされますが、夕陽にライトアップされた枝垂桜も見事でした。
c0187004_9524290.jpg


高瀬川にかかる桜
 円山公園から祇園をぬけて河原町まで歩きましたが、その途中、高瀬川に架かっている四条小橋から写したものです。
c0187004_2342541.jpg

万福寺山門
 万福寺は、中国から渡来した隠元禅師が開いた黄檗宗のお寺で、放生池より重要文化財の山門を写したものです。
c0187004_23421922.jpg

桜越しにみる平等院鳳凰堂
 
 鳳凰堂は、平成22年から行われていた修理が完成し、金色に輝く鳳凰が青空に輝いていて、満開の桜が修理完成を祝っているかのようでした。写真中央の屋根の上に小さく鳳凰が輝いています。
c0187004_23423056.jpg

京都御所朔平門(さくへいもん)
 

 京都御所の北にある門が朔平門で、写真の右手に写っている門です。京都御苑の桜も満開でした。
c0187004_23424213.jpg

桜越しにみる同志社女子大学ジェームス館
 同志社女子大学構内にあるジェームス館は、1914年に竣工した建物で国の登録有形文化財に指定されています。
c0187004_23425478.jpg

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by wheatbaku | 2014-04-02 23:43 | 大江戸散歩 | Trackback
蛤御門の変((八重の桜 第12回「蛤御門の変」)
 昨日の「八重の桜」は「蛤御門の変」でした。
 この「蛤御門の変」について「京都守護職始末」にどう書かれているのか、今日は書いていきたいと思います。
 
 当時、京都に駐在していた会津藩の軍勢は、二陣すなわち8隊および容保直属の部隊で、総勢1500名程度でした。
c0187004_9234193.jpg 第一陣は、家老神保内蔵助が陣将で、第二陣は家老内藤信節(のぶこと)が陣将でした。
 第一陣は、新撰組とともに九条河原に陣取り伏見の長州勢に備えました。
 伏見の長州勢は福原越後が率いる500名ほどの軍勢でしたが、大垣藩兵と戦い、大敗を喫して敗走しました。
 第二陣は、陣将内藤信節は1隊を率いて唐門を守り、2隊が蛤御門を守り、1隊が黒谷の本陣の警備につきました。
 なお、陣将内藤信節は、梶原平馬の実兄です。梶原平馬は内藤家に生まれ、梶原家の養子となっていました。
 蛤御門の守備隊は、敵は正面からくるものと考え、大砲を門外に出して備えていました。
c0187004_924674.jpg 嵯峨天龍寺に構えていた長州勢は京に攻め入りました。
 国司信濃の率いる軍勢は中立売門(蛤御門の北の門)を守っていた筑前兵を破り門内に入り、蛤御門の会津勢に砲撃をくわえまてききました。
 一方、下立売門側からは来島又兵衛の隊が攻めてきました。
 そこで、会津勢は、大砲を門内に引き入れ、南側から攻めてくる長州勢に砲撃を加えました。
 長州も、砲撃してきたため。会津藩側にも多数の死傷者がでました。
 しかし、薩摩藩や桑名藩の応援があり、来島又兵衛も倒れたため、ついに長州勢は敗走し始めました。
 京都御苑内に「清水谷家の椋」(左上写真)という木が残されていますが、来島又兵衛はこの椋の木の近くで亡くなったといわれています。

 この時の戦いは「禁門の変」」とも呼ばれますが、蛤御門での戦いが最も激しかったため、「蛤御門の変」とも呼ばれます。
 蛤御門には、当時の銃弾の跡も残っています。(右下写真)

c0187004_9242345.jpg 一方、山崎に陣をしいていた益田右衛門介の隊は、鷹司邸に入り、堺町御門を守る越前兵を砲撃しました。越前兵は、敗走し、新手の彦根藩や桑名藩の軍勢が加わり長州勢を攻めましたが、長州側は鷹司邸に立てこもり戦い続けました。
 そこで、会津藩の十五ドエム砲により、鷹司邸の塀を砲撃し崩壊させて攻め入りました。
 そして、邸内にいた久坂玄瑞や寺島中三郎は自刃し、真木和泉は負傷しながらも鷹司邸を脱出しました。その後、男山八幡で自刃しました。


 以上が、「京都守護職始末」に書かれている「蛤御門の変」の情況です。
 「京都守護職始末」には、山本覚馬の名前は出てきません。
 しかし、この戦いでは大砲・鉄砲が重要な役割を果たしていますので、山本覚馬は大砲隊を指揮して奮戦したものと考えられます。

 なお、蛤御門の変での山本覚馬の奮戦ぶりは、「心眼の人」(恒文社刊、吉村康著)によく描かれてます。
 昨日の「八重の桜」では、山本覚馬が、蛤御門で大砲隊を指揮して活躍ていしますが、その山本覚馬の姿は、「心眼の人」に描かれている姿そのものです。
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by wheatbaku | 2013-03-25 09:18 | 大河ドラマ | Trackback
会津藩本陣の金戒光明寺(八重の桜 第7回「将軍の首」)
 今日の「八重の桜」では、いよいよ会津藩が京都に上洛します。

 文久2年12月9日に江戸を発った会津藩一千名の部隊は、12月24日京都に入りました。 
c0187004_11302538.jpg 容保を筆頭に武将30人が騎馬で進み武威を大いに示したと記録されています。
 会津藩が、京都に上洛した時に本陣としたのが「金戒光明寺」です。
 「金戒光明寺」は京都の黒谷(くろだに)にある浄土宗のお寺です。
 墓地には、2代将軍秀忠の継室お江、3代将軍家光の弟の徳川忠長、家光の乳母春日局のお墓もあり、徳川将軍家と縁の深いお寺でもあります。
 ここで、京都守護職の任務を勤めることになります。
 
 「金戒光明寺」については、昨年の夏に訪ねて、大変大きなお寺なのでびっくりしました。
 一千名の部隊が駐屯するのにふさわしいお寺だと思いました。

 詳しくは以前書いた  「金戒光明寺と京都守護職」 をお読みください。

【会津藩殉難者墓地】
c0187004_11181554.jpg  この「金戒光明寺」の東の山腹の一番上には、京都で亡くなった会津藩士を埋葬した300坪の墓地が整備されています。
 そこには、文久2年から慶應3年までの6ヵ年に亡くなった237霊が埋葬されています。

 さらに、その後に慰霊碑を建立し鳥羽伏見の戦いの115霊が合祀されています。
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by wheatbaku | 2013-02-17 11:18 | 大河ドラマ | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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