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白虎隊士一名生き返る(八重の桜 第26回「八重、決戦のとき」)
 白虎隊は、慶応4年(1868)8月23日に、士中二番隊の20人が飯盛山で自刃しました。
 しかし、その中で、ただ一人飯沼貞吉(さだきち)が蘇生しました。
 この飯沼貞吉の証言により、白虎隊の悲劇が、後世に伝わることになりました。

 飯沼貞吉は、飯沼時衛の二男として嘉永7年(1854)に生まれました。
c0187004_8532377.jpg 家老西郷頼母の妻千重子は父の妹でした。
 それだけでなく、母文子の姉えんが山川家に嫁いでいたので、山川大蔵、 健次郎、二葉、大山捨松たちとは従兄弟となります。   
 貞吉は、白虎隊編成時はまだ15歳でしたたが、長身だったこともあり、嘉永6年生まれの16歳と年齢を偽って入隊しました。

 母の文子は玉章(たまずさ)という雅号をもつ和歌の名人でもありました。
 その母から次の和歌をもらい慶応4年8月22日に、白虎隊士中二番隊の一員として出陣しました。
この時、叔母の西郷千恵子にも挨拶していったと言います。
 
  梓弓むかふ矢先はしげくとも ひきなかへしそ武士(もののふ)の道

 白虎隊士中二番隊は、松平容保を警固して滝沢本陣に到着しましたが、新政府軍の進軍のスピードが早く、会津藩が防御が手薄であったため、白虎隊も戸ノ口原に出撃することになりました。
 しかし、戸ノ口原での新政府軍との戦いに敗れ、白虎隊は、数グループに分かれ退却しました。
 貞吉は、教導の篠田儀三郎の指揮のもと飯盛山まで撤退しました。
 そこで、白虎隊士たちは、城下の炎を鶴ヶ城が燃えているものと勘違いし、議論の末、皆が自害することとなりました。
 貞吉は、短刀で喉を突いて自刃しました。
 彼の回想録には、
 「自分も同僚の者が咽喉を突き或は腹をかき切ってバタリバタリ倒れるので遅れてはならぬと脇差の鞘を払ひ、力をこめて咽喉に突き立てた。」
 しかし、脇差がうまく通りません。そこで、脇差を立てて
 「満身に力をこめてグッと前に上体を突き出した、今度はうまく通ったなと思ふた迄は明瞭に判って居るが其後は夢路を辿るが如く人事不省になった」と書いてあります。

 しかし、奇跡的に生き返ります。
c0187004_8531295.jpg 「人事不省に陥ったが、なんだか遠い遠い処から人の呼ぶような声が、微かに聞こえてきた。(中略)微かな呼び声が、極少しずつだんだん高く近く聞こえてくる。(中略)静かに両眼を開いて見ると、自分の前に人が立っているようだから、よくよく見れば婆さんの姿であった」
 こうして、生き返ることになります。
 婆さんとは、会津藩足軽印出新蔵の妻ハツでした。印出ハツは飯沼家に出入りしていたので、「婆さん」となったようです。
 ハツは、せがれの八次郎が、8月23日に家を出たまま帰らないので、心配して飯盛山に捜しに来たところ、白虎隊士中二番隊の自刃の場に行き当たり、八次郎がいないかどうか探しているうちに、まだ息のある貞吉を見つけたといいます。

 そして、ハツが看病しながら、新政府軍を避けて、塩川に辿り着き、醸造業の近江屋を営む深田文内宅に匿われました。
 翌朝町医者の三本住庵が手当てしましたが良くならず、夕刻には会津を経て米沢に向かう長岡藩の藩医が治療し一命をとり止めることができました。

 会津藩降参により、東京に護送された後、長州藩士楢崎与兵衛により楢崎の実家で保護されたようです。  その後、貞吉は貞雄と改名し、明治3年、静岡の志田林三郎の塾で学び、さあらに、電信修技校に学び明治5年、工部省に任官し電信技師となりました。
 以降、電信技士として全国各地の電信局で活躍し、明治27年には日清戦争に従軍してています。
 明治42年に逓信省仙台逓信管理局工務部長に就任し、大正2年60歳で退官しました。
 退官に際して、正五位勲四等に叙せられています。
 そして、昭和6年2月12日、仙台にて永眠しました。

c0187004_8535972.jpg 貞吉の墓は仙台市北山金剛寺輪王寺にあります。
 昭和32年、会津若松市で戊辰戦後90年祭が行われた際、他の隊士たちが眠る飯盛山の一角に貞吉の遺髪と歯とを移して墓碑が建てられました。(右上段写真)
 その隣には、飯沼貞吉を顕彰する記念碑が建てられています。(右下段写真)

 飯沼貞吉の墓は、白虎隊士の墓のある広場から自刃の地に行く途中に建てられています。
 死後26年たった年に建立されていることや白虎隊19人の墓碑のある広場から少し離れた場所に建立されていることが飯沼貞吉がただ一人生き残ったことの微妙な立場を表しているようでもありました。

 右中段の飯沼貞吉の写真は、ウィキペディアより転載させていただきました。 
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by wheatbaku | 2013-07-03 08:25 | 大河ドラマ | Trackback
奈与竹の碑(八重の桜 第26回「八重、決戦のとき」)
 今日は、「八重の桜」関連で会津若松市内の善龍寺にある「奈与竹(なよたけ)の碑」について書いてみます。 

 日曜日には、西郷頼母一族の自刃について書きました。、
 しかし、会津戦争当時、若松城下各所で多くの婦女子が、新政府軍に捕まるのを恥辱として自ら命を絶ったのは、西郷頼母一族21人だけではありませんでした。

c0187004_8215034.jpg 後に会津藩初の陸軍大将となった柴五郎は、8月23日、自身が若松城下から近在の面川村に避難させられた後、城下に残った祖母つね子(81歳)、母ふじ子(50歳)、兄の妻とく子(20歳)、姉そゑ子(19歳)、姉さつ子(7歳)は、そろって自刃をしました。
 柴五郎は「会津人柴五郎の遺書」の中で、「懊悩流涕(おうのうりゅうてい)」やむことなし」とその悲しさを書いています。
 柴五郎の母ふじ子は、八重の幼ななじみの日向(ひなた)ユキの叔母にあたります。
 つまり、柴五郎は日向ユキとは従兄弟同志となります。
 8月23日に、日向ユキの家族が鶴ヶ城に入れなかった場面は、26回「八重、決戦のとき」で描かれていましたが、日向ユキの家族5人と柴五郎は、鶴ヶ城に入城できず、一緒に面川村に逃れています。
 
 この面川村には、家老内藤介右衛門の一族も逃れていましたが、9月17日の戦いの際、避難していた内藤家菩提寺の泰雲寺が包囲され逃れないと覚悟した介右衛門の父内藤信順は、妻と4人の娘、さらに介右衛門の妻とその子供2人を介錯し、その後自らも命を絶ちました。
 この一族自刃により、内藤介右衛門は家族全員をなくしてしまいました。

c0187004_822761.jpg  このように会津戦争の中では、男だけでなく幼い子供たちも含め多くの婦女子が命を落としています。その数は、名前のわかる人たちだけ233人に上るそうです。
 こうした多くの会津藩の婦女子の潤節を讃えた碑が、善龍寺(会津若松市)にある「奈輿(与)竹の碑」です。
 この碑名は、いうまでもありませんが、西郷頼母の妻千恵子の辞世の歌から取られたものです。

 西郷千恵子の辞世の歌
 なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節は ありとこそ聞け

この歌の意味は
  「細くてしなやかな竹が風に身を任せている姿に似ているわが身ですが、細竹にも強風に折れないための節があるように、私達にも忠節があることを知ってください」といった意味でしょうか。
 会津女性の強固な意思が明瞭に詠われているように感じます。

 この碑は戊辰戦争終結から60年目に当たる同じ戊辰の年の昭和3年に、「嫋竹会(なよたけかい)」によって建てられました。
 嫋竹会は、殉難婦女子の英霊を慰め、その忠誠貞節を追慕し、会津女性の遺烈を後世に伝えるために組織された会です。
 表には「奈輿(与)竹の碑」と刻まれ、裏には、戊辰戦争で亡くなった233名の会津藩の婦女子の名が刻まれています。
この碑の前で毎年5月1日に「嫋竹会」主催の「奈与竹碑前祭」が行われているそうです。

c0187004_8341412.jpg  千重子の辞世の歌は、「奈輿(与)竹の碑」の右脇の石碑に刻まれています。
 この碑文は、白虎隊の一員として飯盛山で自刃した後、奇跡的に蘇生した千重子の甥「飯沼貞吉」が書いたものです。
 千重子は、会津藩士・飯沼粂之進の二女として生まれました。
 飯沼貞吉は、千恵子の兄の飯沼時衛の次男として生まれました。
 白虎隊出陣の際には、千恵子に挨拶にいっているとも言われています。
 
 善龍寺は、会津藩主保科正之の会津入部とともに建立されたお寺で、西郷家(元々は保科家)菩提寺です。
 右最上段の写真は、寛政9年(1797)に建造されたといわれる山門です。

 そのため、歴代の西郷家(保科家)一族の墓があります。
 ここに、西郷頼母と千恵子の墓(右三段目写真)、それに自刃した「二十一人の墓」(右四段目写真)があります。

 西郷頼母は、籠城戦の最中、家老萱野権兵衛への連絡と称して、体よく城外に追放されます。
 その後、米沢、仙台を経て、函館まで転戦し、新政府軍と戦います。
c0187004_8225297.jpg  降伏後、館林藩で預けられました。この時期に、姓を旧姓である「保科」に変えています。
 謹慎した後間もなく許され、伊豆松崎での謹申学舎塾長となり、その後、東照宮権禰宜や霊山神社宮司など神職などに就いた後、明治32年に会津に帰り、大手門前の十軒長屋と呼ばれる貧しい家屋に住み、明治36年病気で亡くなりました。74歳でした。
 西郷頼母夫妻の墓は、西郷頼母が生前に準備したもので、墓石に、「保科八握髯翁墓 室飯沼千重子位」と刻まれています。
 「八握髯翁」とは西郷頼母が晩年に用いた号です
 隣の先祖保科正長の墓と比べると大変小さいものでした。

 また、西郷夫妻の墓から少し離れた墓域に、西郷邸で自刃した人たちの墓である「二十一人の墓」があります。
 お墓にお参りするまでは、21基の墓碑があるものと思っていましたが、21人を合葬したもの1基で墓碑銘は「二十一人の墓」となっています。
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by wheatbaku | 2013-07-02 08:20 | 大河ドラマ | Trackback
八重、大山弥助を撃つ(八重の桜 第26回「八重、決戦のとき」)
 今回の「八重の桜」のタイトル通り、八重は、獅子奮迅の戦いを見せました。
「白虎隊の自刃」も影が薄くなるほどの活躍ぶりでした。

 そこで、今日は、八重の活躍について書いてみます。
 新政府軍が、城下に突入し、半鐘がなると、八重一家も城内に入りました。
 八重の自宅は、鶴ヶ城の西側にありました。鶴ヶ城の大手門は東側にありましたが、新政府軍は、東側から攻めてきたため、大手門からの入城は危険でしたので、八重たちは南側に廻り、三の丸経由で城に入ったと言われています。

 この時、八重は、スペンサー銃を持って、入城しました。
c0187004_924449.jpg スペンサー銃というのは、アメリカで開発された銃で、弾を銃の後ろから装填する後装式銃で、世界初の7連発銃でした。
 アメリカの南北戦争中に大量生産され、北軍で主力銃として使用されたものです。
 この銃は、山本覚馬が、長崎のレーマン・ハルトマン商会のレーマンから送られたものを八重に贈ったものでした。
 右写真は、新撰組記念館に展示されていたスペンサー銃です。 

 新政府軍は、甲賀町口を突破しました。
c0187004_924193.jpg 甲賀町口は、滝沢から鶴ヶ城につながる道の重要拠点で、ここを抜けると大手門まで一直線で1キロメートルもありません。
 ここを守備していたのは家老田中土佐ですが、ここも簡単に突破されてしまいました。
六日町口を突破された家老の神保内蔵助とともに、切腹して責任を取ったのは八重の桜で描かれていました。
 右写真は、甲賀町口門跡です。

 甲賀町口を突破した新政府軍は、大手門前に大砲を並べ、砲撃を開始しました。
 会津藩の主力は旧式のゲベール銃や火縄銃でした。
 これに対して、新政府軍は、銃はエンフィールド銃やスナイドル銃、スペンサー銃でした。大砲は、大山弥助(巌)が改良した弥助砲が中心でした。
 砲兵隊長の大山弥助は、鶴ヶ城からの銃撃が届かない安全距離内に陣地を構え砲撃をするつもりでした。
 それは、射程距離600メートル程度のヤーゲル銃を前提にしたものでした。

 八重は、一隊を率いて、大手門を警護するために造れらた曲輪である北出丸に陣を敷きました。
c0187004_9261971.jpg 北出丸からは、堀を挟んで大手門前は正面に見えます。右写真をご覧ください。北出丸の堤の上からみた甲賀町口方面です。
 八重が所持していたスペンサー銃は、射程距離が700~800メートルでした。
 この銃であれば、堀を越えて、新政府軍の砲兵陣地を攻撃できました。
 砲術に詳しい八重は、指揮官を狙いました。砲撃は、指揮官の命令一下、整斉と行われうることを十分承知していたからです。
 新政府軍の指揮官は、ヤクの毛をあしらった赤熊(しゃぐま)・白熊(はぐま)・黒熊(こぐま)をかぶっていましたので、指揮官はすぐわかりました。
 そこで、八重は指揮官である大山弥助を銃撃することができました。
 大山弥助は、右の股を射貫かれてしまいました。
 大山弥助は、若松城攻撃の初日に負傷し一日も戦場にいることなく、三春に設置されていた病院に後送されることとなってしまったのです。
 
 さらに、「八重の桜」に演じられたように、彼女は四斤山砲も持ってきて、城壁や石垣の一部を崩して敵に向けてこの砲を設置し、新政府軍を撃ち下ろしたとも言われます。
 こうした初日の戦いで、新政府軍の先陣の役割を負っていた土佐藩では死者・負傷者が続出しました。
 これにより、短期結着を狙った新政府軍の初期の目論見は見事に打ち砕かれました。
 この成果には、八重の功績は非常に大きかったのではないでしょうか。
 何しろ、主力部隊は藩境守備や城外での戦いに出払っていて、城内に残っていたのは、老兵や少年兵、婦女子が中心だったのですから。
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by wheatbaku | 2013-07-01 09:21 | 大河ドラマ | Trackback
西郷頼母一族自刃(八重の桜 第26回「八重、決戦のとき」)
 新政府軍が会津若松に侵入した8月23日には、白虎隊の自刃に次いで第2の悲劇と呼ばれる西郷頼母一族の自刃も起きました。
 今日は、その西郷頼母一族の自刃について書きます。

 西郷頼母は、会津藩の家老でした。
 松平容保が京都守護職を受諾した時には、急ぎ江戸に上り、強く反対しました。
c0187004_0153798.jpg その後、容保が京都に駐在している際にも、京都守護職を辞任することを進言し、国許で蟄居を命じられていました。
 そして、会津戦争が始まるに際して、家老に復帰し、白河口総督を命じられましたが、敗戦の責任をとって、謹慎を命じられていました。
 しかし、母成峠が破られたため、西郷頼母も呼び出され、背あぶり山の防衛を命じられていました。

 若松城下の武士は妻子を含め新政府軍が侵攻してきた場合には、鶴ヶ城に籠城するよう指示を受けていました。
 当然、西郷頼母の一族も、籠城が予定されていました。
西郷邸は、鶴ヶ城の大手門前の一等地にありました。(西郷邸跡には石碑が建っています。右上写真)
 
 しかし、西郷頼母および妻千恵子の決意は違うものでした。
 城に入ることにより、一人前の働きのできない婦女子が貴重な食糧を浪費しないようにして、かつ新政府軍に捕まり恥辱をうけることを避けるために、選んだ道は、自ら命を断つことでした。
 この決断の背景には、西郷頼母が、京都守護職就任に反対してきていること、また会津戦争が始まってからは、和平恭順論を唱え、藩内で一人浮き上がっていたという事情が大きく影響していたように私には思えます。

 新政府軍が、城下に侵攻してくると、千恵子は、長男吉十郎を鶴ヶ城に送り出した後、西郷千恵子は、一同を一部屋に集め、覚悟を述べました。
 そうして、次の21人が、西郷頼母邸で自刃をしました。
 頼母の妻・千恵子(34歳)
 頼母の母・律子(58歳)、
 頼母の妹・眉寿子(みすこ 26歳)、妹・由布子(ゆうこ 23歳)、
 長女・細布子(たいこ 16歳)、次女・瀑布子(たきこ 13歳)。
 三女・田鶴子(たづこ 8歳)、 四女・常盤子(とわこ 4歳)そして五女の李子(すえこ 2歳)

 その他に一族の西郷鉄之助夫妻
 小森一貫斎の家族5人、
 軍事奉行町田伝八とその家族の2人。
 浅井次郎の妻子2人。
 このなかには、4歳の常盤や2歳の季子たち幼い子供たちも含まれています。
 この幼な子の命を絶つ時の母千恵子の思いはどんな思いだったのでしょうか。

 西郷頼母一族は、自刃にあたり、辞世を残しています。
  なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節の ありとこそきけ (妻:千重子)
  秋霜飛兮風冷 白雲去兮月輪高 (母:律子)
  死にかへり 幾度世には 生るとも ますらお武夫となり なんものを(妹:眉寿子)
  武士の 道と聞きしをたよりにて 思ひ立ちぬる よみの旅かな (妹:由布子)
  手をとりて ともに行きなば迷はじよ (次女:瀑布子)
    いざたどらまし 死出の山道    (長女:細布子)
   これは上の句を瀑布子が詠み、下の句を細布子が詠んで完成させたものでした。

 この一族の自刃の場に居合わせた人物がいます。後に初代衆議院議長となる土佐藩士中島信行です。
c0187004_0155843.jpg この日、新政府軍の先陣を切っていたのは土佐藩でした。土佐藩士中島信行は、一隊を率いて郭内に入りました。
 そして、大手門の前に大きな邸宅があり、鉄砲を打ち込みましたが、それに応ずる気配がありませんでした。そこで家の中に入り、長い廊下を進み奥の間に達しました。
 そこには、凄惨な光景が広がっていました。驚くことに多くの婦女子が自刃していたのです。
 その中にあでやかな女子がいました。年のころ17、8歳でした。
 まだ息はたえていませんでしたが、もう眼はみえていませんでした。しかし、耳はまだ聞こえるらしく、物音に気付いて少し身を起し、かすかな声で「敵か味方か」と言いました。
 中島信行は、この場を見て敵であるということはあまりにも残酷な気がしたため「味方だぞ」と答えました。
 するとこの女は、身の周りを探って短刀を探しました。そして手にした短刀を差し出しました。
 中島信行は、短刀で命を絶ってもらいたいのだろうと察したので、涙を振って介錯し邸外に出たというのです。
 中島信行が、介錯した女子は、長女の細布子だったと言われています。

 西郷頼母の屋敷を復元したのが「武家屋敷」です。
c0187004_0162319.jpg 広大な西郷頼母邸が復元されています。
 その中には、家族が自刃した部屋も復元されています。
 その部屋には「自刃の間」という説明板が置かれています。右写真の左にその説明板が写っています。
 さらに、別の部屋には、自刃の様子が人形で復元されています。
 ここでは、西郷頼母邸の悲劇に悲しむ人が多くいるようで、人形たちにお賽銭が挙げられていました。
 私も自然と合掌していました。
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by wheatbaku | 2013-06-30 00:18 | 大河ドラマ | Trackback
白虎隊自刃(八重の桜 第26回「八重、決戦のとき」)
 今回の「八重の桜」」のタイトルは「八重、決戦のとき」ですが、慶応4年8月23日の若松城下への新政府軍の侵入が描かれるようです。
 この日には、白虎隊の自刃、西郷頼母一族21人の自刃、田中土佐・神保内蔵助の切腹と悲劇が連続しておこります。
 これらについて順に書いていきます。
 その中で、今日は、「白虎隊の自刃」について書きます。

 戸ノ口原で敗退した白虎隊は、数グループに分かれて退却を始めました。
c0187004_7353482.jpg その中に、教導の篠田儀三郎に指揮されたグループもありました。
 新政府軍の侵攻は素早く、戸ノ口原から若松城下に向かう途中にある滝沢峠には、新政府軍が充満していました。
それに気が付かず、不用意に姿を見せたため、隊士の永瀬雄次が銃撃され負傷しました。
 そこで、篠田儀三郎のグループは、街道をさけ、湿地や山道に分け入って若松城下を目指し、飯盛山の東側からは、戸ノ口堰の洞門をくぐり抜け、西側に出ることとしました。
この時の人数は、飯沼定吉の回想録に寄れば17人だったようです。
洞門を抜け厳島神社の裏に出て、そこから山腹を辿って飯盛山の南面に迂回して、鶴ヶ城をみる と
 城下は早や紅蓮の炎を上げ、君侯のいます鶴ヶ城は全く黒煙に包まれ、天守閣などは今にも焼け落ちるかと思われた。(「平石会戊」)
という状況でした。

 飯盛山と鶴ヶ城との間は、2千8百メートルほどだそうです。
 実際に飯盛山に登って、鶴ヶ城を見てみると、天守閣は見えるものの、詳細がはっきりわかるわけではありませんでした。
 ですから、鶴ヶ城が燃えていたのではありませんが、城下が燃える炎を見て、鶴ヶ城が燃えているものと考えても仕方ないと思われます。

c0187004_7392139.jpg これを見て、飯沼貞吉の回想録では、
  山腹に整列しはるかに鶴ヶ城に向かって決別の礼をなし、銃を捨て刀を抜き、あるいは腹を切り、あるいは喉を突いた
 白虎隊の自身の様子を書いています。 

 しかし、実際には、炎をみて、即座に自刃が決まり、さらに隊士が一斉に自刃したわけではないようです。
 敵の重囲を衝いて城に戻るべきだと主張する隊士もいて、議論となりましたが、疲労困憊し空腹の状態では生きて敵に捕まり恥辱を受けるもの遺憾ということになり、自刃と決まったようです。

 飯盛山で自刃した白虎隊士は次の20名です。自刃した時刻は、午後2時から4時頃だったようです。

  安達藤三郎、有賀織之助、飯沼貞吉、 池上新太郎、石田和助、
  石山虎之助、伊東悌次郎、伊藤俊彦、 井深茂太郎、篠田儀三郎 
  鈴木源吉、 津川喜代美、津田捨蔵、 永瀬雄次、 西川勝太郎
  野村駒四郎、林八十治、 間瀬源七郎、簗瀬勝三郎、簗瀬武治

 このうち、飯沼貞吉は、奇跡的に生き残り、飯盛山で自刃した白虎隊士は19名とされています。
 その白虎隊士の墓が飯盛山にあります。(右上写真)
 実は、白虎隊士の遺骸は、新政府軍により手をつけることを禁じられていました。
 約三ヶ月後村人により、密かにこの近くの妙国寺に運ばれ仮埋葬され、後に飯盛山に改葬されたのだそうです。
c0187004_7355645.jpg 白虎隊士が自刃した場所は、墓とは少し離れた場所にあります。
 そこには、供養塔や白虎隊士の像などが建てられています。(右下段写真)

 さて、白虎隊士たちがどのように自刃していったか、中村彰彦氏が文春文庫「白虎隊」に書いています。

 飯沼貞吉は母から出陣の際にもらった短冊を襟から取り出して二度、朗々と高らかに読み上げました。 
 次いで、篠田儀三郎が文天祥の詩「零戦丁洋を過ぐるの詩」を吟じました。
負傷していた石田和助は、「人生古より誰か死無からん。丹心を留取して汗青を照らさん」と誦し、「手傷苦しければお先に御免……」と両肌を脱ぎ、刀を腹に突き立てて見事な最期を遂げました。
 これを見た教導の儀三郎は、その太刀を抜いて逆手に持って、一気に喉を突いて倒れたました。

 敵弾を腰部に受けてた永瀬雄次と林八十治は、対座して互いに刺し違えようとしましたが、永瀬は林の息の根を止めることができずに絶命しました。
 そこで林は野村駒四郎に介錯を頼み、野村は、一刀のもとに介錯し、返す刀で 自らも切腹して果てました。
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by wheatbaku | 2013-06-28 08:38 | 大河ドラマ | Trackback
白金・目黒散歩
  先週の土曜日、毎日文化センターさんの「『八重の桜』ゆかりの地を行く」の講座があり、受講生皆様と白金と目黒の史跡めぐりをしてきました。

 「『八重の桜』ゆかりの地を行く」の講座名ですので、会津藩関係の史跡が目玉ですが、今回は会津藩家老の萱野権兵衛と軍事奉行副役であった神保修理のお墓のある興禅寺(白金)、そして「お静地蔵」のある会津藩初代藩主保科正之ゆかりの成就院(目黒)を中心に、次のようなコースを歩いてきました。

立行寺(大久保彦左衛門のお墓) ⇒ 白金氷川神社 ⇒ 興禅寺 ⇒ 東大医科学研究所 ⇒ 瑞聖寺 ⇒ 八芳園 ⇒ 【 電車移動 (白金台 ⇒ 不動前)】 ⇒ 成就院 ⇒ 目黒不動(瀧泉寺) ⇒ 青木昆陽のお墓 ⇒ 太鼓橋  ⇒ 大円寺

 興禅寺は、地下鉄「白金台」駅が最寄駅で、徒歩10分ですが、今回は、「白金高輪」駅から歩いていきました。
c0187004_10244895.jpg 大久保彦左衛門と一心太助のお墓のある立行寺を見て、白金氷川神社をご案内した後、興禅寺に向かいました。
北里研究所前の信号を曲がり、蜀江坂を上り聖心女子学院の横にみながら行くと、住宅街の中に興禅寺があります。
「萱野権兵衛」と「神保修理」のお墓は、二つ並んであります。
写真左手が、萱野権兵衛のお墓ですが、墓碑銘は萱野権兵衛の諱「萱野長修(ながはる)」となっています。
その隣が神保修理のお墓ですが、神保修理の墓碑銘も諱「神保長輝」となっています。


 目黒の成就院は、東急目黒線「不動前」から徒歩約5分のところにあります。
 ご本尊の慈覚大師が刻んだ蛸薬師如来で有名なお寺です。
 この成就院に「お静地蔵」があります。
c0187004_1024543.jpg「お静地蔵」は、会津藩初代藩主の保科正之の母「お静」が寄進したものです。
 「お静地蔵」とは、3体の地蔵菩薩像、3体の観音菩薩像、1体の阿弥陀像、合計7体の石造の仏像の総称です。
 お静は、いうまでもありませんが、秀忠の側室です。そのお静が、懐妊を願って寄進したものが観音菩薩像で、地蔵菩薩像は生まれた男子「幸松」の恙ない成長を願って寄進したものです。
 そして、中央の阿弥陀如来像は、「幸松」が高遠城主保科正之となって大願が成就したお礼に奉納したものです。


 目黒では、有名な、目黒のお不動様もお参りしました。
c0187004_10252558.jpg 目黒不動は、有名ですが、今回の参加者の皆さんは、初めて御参拝と言う方が多くて、大変喜んでいただきました。
 目黒不動の寺号は、「瀧泉寺」と言いますが、その名前の由来となったのが、独鈷の瀧です。
 開山の慈覚大師が、独鈷を投げた(あるいは独鈷で地を掘った)ら泉がわき滝となったという言い伝えがあります。
 右写真は、その独鈷の滝にある水かけ不動に参拝する参加者の皆さんです。



 大円寺は、目黒不動から目黒駅に向かう行人坂の途中にあるお寺です。
 このお寺は、「目黒行人坂の大火」と「八百屋お七」に関係する御寺です。
c0187004_10442656.jpg このお寺を火元とする火事は、目黒から上野・浅草までを焼きつくし、江戸三大大火の一つ「目黒行人坂の大火」となりました。
 その大火の犠牲者を供養する五百羅漢があります。
 なお、この大火の放火犯を捕まえたのが「鬼平」こと長谷川平蔵宣以の父である火付盗賊改の長谷川宣雄です。
 また、八百屋お七の恋人の吉三(出家して西運)が、目黒不動と浅草観音への一万日の日参の願掛けをして造られた阿弥陀堂が再建されています。
 その阿弥陀堂の中にある「お七地蔵」と西運の像を大円寺さんのご配慮で拝観させていただきました。
 大円寺さんには、ご丁寧に説明もしていただきました。大変ありがとうございました。

 受講生の皆様、お疲れ様でした。
 今回は、史跡と史跡の間の距離が離れていて、歩行距離や歩行時間が多くて、お疲れだったかもしれません。 特に最後の行人坂の登りが大変だったのではないでしょうか。
 でも、受講生同士でお知り合いができてきた様子で、和やかな雰囲気になってきたのでうれしく思っています。
 次回は、いよいよ会津行きです。またよろしくお願いいたします。

 
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by wheatbaku | 2013-06-25 10:22 | 大江戸散歩 | Trackback
松平容保の病い(八重の桜 第11回「守護職を討て!」)
 昨日の八重の桜」は、珍しく時間がゆっくり流れていました。
 文久3年6月5日の池田屋事件以後の長州進発を踏まえて、7月 日の佐久間象山暗殺事件から7月17日の「蛤御門の変」までの出来事でした。

 先週から松平容保は病気になっていて、綾野剛も弱々しく演じていましたが、今週も弱々しい容保でした。
 容保は元々蒲柳の質でした。京都守護職の就任要請を受けた時も頑強に固辞しましたが、それは、健康でないことも要因の一つでした。
c0187004_9555836.jpg それが、守護職となって京都に赴任して、激しい京都の政治状況の中で、激務をこなしてきました。
 当然、心労も重なります。そうしたことから、体調を壊してしまうのも当然といえましょう。
 文久4年正月以降は、容保は体調はひどく悪かったようです。
 山川浩が書いた「京都守護職始末」にも
 「わが公の病は甚(はなは)だ重く、食物が咽喉を通らないことが旬余日もつづき、衰弱が甚だしく、主治の医員も手を空しくこまぬいて、術の施しようがなかた。」
 と書かれています。
 そのため、京都守護職の辞任を申し出ます。
 しかし、容保に対する孝明天皇の信任が厚く、軍事力をもった会津藩が、京都を去ってしまいますと京都における幕府の力が弱まることになります。
 そのため、容保の辞任は許されませんでした。
  
 容保の病気が何だったとのだろうという疑問が起きます。
 容保の病状は、側に仕える医師の土屋一庵、東条玄硯から、定期的に江戸と会津に報告されています。
c0187004_8293820.jpg  その記録に基づき、星亮一氏が医師に病名を尋ねた結果が、中公新書「幕末の会津藩」(星亮一著)に書かれています。
 それによると
 「これらの症状は現代の医学でいえばどんな病気に該当するのか。以前、私は複数の内科医に聞いてみたことがあった。それを総合すると胆道系の病気、胆石症、胆嚢炎にほぼ間違いということだった」そうです。
 また、「しばしば風邪をひいているところから胸部疾患、軽い結核も考えられるという医師もいた」そうです。

 こうした病気で体調が不十分の中で、容保は京都守護職を務め、蛤御門の変も迎えることになります。

 右上段の写真は、京都国際ホテルに移築されている「京都守護職屋敷正門」です。
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by wheatbaku | 2013-03-18 07:33 | 大河ドラマ | Trackback
高崎佐太郎と秋月悌次郎(八重の桜 第9回「八月の動乱」
  昨日まで2回「八月十八日の政変」について書きましたが、政変実行の中心人物であった高崎佐太郎と秋月悌次郎について書いてみたいと思います。

【高崎佐太郎(正風)】
 高崎佐太郎(右下写真 、国立国会図書館ウェブサイトより転載)、島津斉彬襲封の早期実現を図り、俗にいう「お由羅騒動」で切腹を命じられた高崎五郎右衛門の子供です。
c0187004_12222194.jpg この事件に連座し、嘉永3年(1850)奄美大島に流罪となり、嘉永6年許され帰藩しました。
 そして、文久2年(1862)島津久光に随従して上洛していました。
 八月十八日の政変を成功させ、その後、薩摩藩京都留守居役となりました。
 慶応3年(1867)、西郷や大久保の武力討幕方針に反対しました。そのため、藩政府の主流からは遠ざかりました。
 明治維新後、宮中顧問官,枢密顧問官などを歴任しました。また桂園派の歌人としても有名でした。

 幕末の政局を左右した薩摩藩の主要人物は、島津久光、西郷隆盛、大久保利通ですが、八月十八日の政変には、この人たちがでてきません。
 この当時、西郷隆盛は沖永良部島に流刑となっていました。また、島津久光、大久保利通は、薩摩にいて、直前の7月2日~ 7月4日には薩英戦争が起きていました。
 このように主要人物は、京都にいませんでした。そこで高崎佐太郎が出てくる訳ですが、クーデーターは高崎佐太郎が考え出したのだろうか。 それとも島津久光が裏で糸を引いていたのかという議論があるようです。
 これについては、諸説あるようですが、島津久光が承知していたという説が有力のようです。

 
【秋月悌次郎】
 一方、会津藩の秋月悌次郎(右下写真)の略歴は次のようです。
 秋月悌次郎は、 文政7年(1824) に会津藩士丸山胤道の子として若松城下に生まれました。日新館、江戸の昌平黌で学んだ秀才です。
c0187004_924750.jpg 文久2年(1862)藩主松平容保が京都守護職に任命されると、公用方に任命されました。
 公用方というのは、幕府、朝廷、他藩などとの対外折衝を担当する重要な役割でした。
 「能弁多智,力量モ亦アリ」と評された能力をフルに発揮して活躍しました。
 八月十八日の政変で重要な役割を果たしたものの、その後、藩内の反対派により、慶応元年(1865)には蝦夷地代官に左遷されてしまいます。
 その後、戊辰戦争では軍事奉行添役となり、会津藩軍事面で重要な役を果たします。
 そのため、明治元年には会津戦争の責任を問われ終身禁固刑となりますが、明治5年に特赦によって赦され、明治5年、新政府に左院省議として出仕します。
 その後、第五高等学校の教師となり、漢学・倫理学の教授を務めました。五高では小泉八雲と同僚でした。

 昨日の「八重の桜」でもあったように、秋月悌次郎と高崎佐太郎は、それ以前に全く面識がありませんでした。
  当初は、秋月悌次郎と高崎佐太郎は、面識がありませんでしたが、その後、秋月は、薩摩藩とのパイプ役として重要な役割を果たしました。
 しかし、慶応元年に、秋月が京都を去ると、薩摩藩との接触に齟齬をきたすことになりました。
 秋月が京都にいたなら、幕末の展開も少し違うものとなっただろうという意見もあるようです。

 なお、なぜ、高崎佐太郎が面識のない秋月悌次郎を突然訪ねてきたのかというのが疑問ですが、それは、今後調べてみたいと思います。
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by wheatbaku | 2013-03-04 08:58 | 大河ドラマ | Trackback
八月十八日の政変① (八重の桜 第9回「八月の動乱」)

 今回の「八重の桜」は「八月の動乱」で、幕末の京都政局を大きく変えた「八月十八日の政変」が取り上げられます。

 「八月十八日の政変」は、文久3年(1863)8月18日に会津藩と薩摩藩が提携して、それまで朝廷を牛耳っていた「急進尊王攘夷派」を排除して、公武合体派が権力を奪取したクーデターです。
「八月十八日の政変」は非常に重要な事件でありながら、どのようにして決行されたのかあまり詳細に書いたものがなかったのですが、「京都守護職始末」には詳しく書かれていました。それに基づき経緯を書いてみます。

c0187004_9355458.jpg 文久3年の夏の京都の政局は、長州藩と提携した三条実美らの過激尊攘派の公卿が朝廷を牛耳っていて、孝明天皇も、自分の意思で物事を進められませんでした。
 こうした情勢の中で、「大和行幸」の実施の勅命が8月13日に発布されます。
「大和行幸」というのは、攘夷の成功を祈願するために、神武天皇陵や春日大社に参拝し、そこで親征の軍議を行うという計画でした。
 これは長州藩と尊攘派公卿により推進されたものでした。

 この8月13日、薩摩藩の高崎佐太郎(のちの正風)が、会津藩の秋月悌次郎を訪ねてきます。
 秋月悌次郎のほか、会津藩側は広沢安任、柴秀治などが同席しました。
 高崎佐太郎は、長州藩と提携した過激尊攘派の公卿を排除しようと考えているが、会津藩もそれに同意するなら力を合わせて欲しいと提携を求めました。
 そして、たとえ会津藩が断っても薩摩一藩で実行すると薩摩藩の決心を披露しました。

 「京都守護職始末」には次のように書かれています。

君側の奸
 この月(八月十三日)、薩摩藩士高崎佐太郎(今の正風)が、わが藩の秋月胤永の住居を訪れ「近来叡旨として発表せられたものの多くは偽勅で、奸臣どもの所為から出たことは、兄らも知るところのごとくである。聖上もこのことを御気づかれ、しばしば中川宮に謀り賜うても、兵力をもった武臣で君側を清める任に当るものがないことを嘆いていられると聞く。わが輩、これをきいて、袖手傍観しているにしのびない。思うに、この任に当れるのは会津と薩摩の二藩のほかにはない。願わくば、ともに当路の奸臣を除いて、叡慮を安じたいものである」と、その意気昂然たるものがあった。


c0187004_9402430.jpg  秋月らも、同じ考えをもっていましたが、勝手に協力するともいえないので、話を聞くと、黒谷にいる松平容保に報告しました。

 容保も賛意を示し、すぐに秋月と高崎に中川宮を訪ねるように指示します。

 秋月と高崎は、中川宮の屋敷に向かい、中川宮と相談しました。中川宮は大変喜び、8月16日に参内することを約束しました。
 また、孝明天皇の信任の厚い近衛忠熙前関白・忠房父子と二条斉敬右大臣の協力が必要なので、近衛父子は薩摩藩が説得し、二条右大臣は会津藩が説得しました。

 さらに、容保はすぐに帰国途中の藩士に召喚命令を出します。こうすることにより約1800名の軍勢を確保しました。
 会津藩は、京都守護職拝命後、容保直属の本隊、家老が陣将となった「陣」という部隊のうち一陣が京都に常駐しました。
 一陣は四隊が集まったもので、一番陣から三番陣まであり、家老が陣将となり、各隊の隊長は番頭と呼ばれました。
 京都駐在の部隊は、本体の半数と一陣がそれぞれ8月に交代しました。
 新しい一陣は8月8日に京都に入り、国に帰る一陣は11日に京都を出発することになっていました。
 文久3年8月には、家老神保内蔵助が率いる一番陣が8日に京都に入り、家老田中土佐が率いる三番陣が11日に京都を出発していました。
 京都を発ったばかりの三番陣が、8月14日に京都に召喚されました。
 こうして、会津藩の軍勢は2陣がそろうということになりました。
 これについて誰もが警備強化のためと考え政変の準備とは考えもしませんでした。

 そして8月16日に中川宮は参内して孝明天皇に奏上することになります。

 その後の動きは、明日書きます。
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by wheatbaku | 2013-03-02 09:32 | 大河ドラマ | Trackback
  

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