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武家屋敷(会津若松散歩)
 今日は、会津若松散歩の続きで、「武家屋敷」をご案内します。

 会津武家屋敷は江戸時代の会津藩家老西郷頼母の屋敷を中心に、福島県重要文化財である旧中畑陣屋や数奇屋風茶室、藩米精米所などの歴史的建造物が軒を連ねる屋外博物館(ミュージアムパーク)です。
c0187004_23223369.jpg 全体で7千坪もあります。
 ここの中心は家老屋敷です。ここは会津藩家老であった西郷頼母の屋敷を復元しています。
 設計は、俳優山本學、山本圭、山本亘(せん)兄弟の父である建築家の山本勝巳が行っています。
 西郷頼母の屋敷は、、敷地面積2400坪、建築面積280坪の壮大な屋敷の屋敷です。 部屋は38部屋あり、畳は328枚もあるそうです。
 表門(右上写真)は四脚門で、玄関(右下写真)は式台付の玄関です。
 共に西郷家の格式の高さを示しています。

 西郷頼母の屋敷は大きく分けて4つに分かれています。
c0187004_2323138.jpg  一つは御成り御殿で、ここは藩主を始め重役が通される格式の高い部屋です。
 次いで、客待ちの間、表居間、使者の間や番所、役人所などで西郷頼母や家臣が執務したり警備に使用する部屋です。
 さらに、奥一の間、奥二の間、子供部屋など家族が使用する部屋、
 最後に、女中部屋・台所など使用人が使う部屋です。

 家老屋敷は、各部屋に丁寧に説明がされていますが、38室すべてを紹介しきれませんので、主な部屋を紹介します。

御成りの間
c0187004_23233398.jpg 藩主はじめ重役以外は通されることがなかった格式の高い部屋です。
 御成の間は藩主の御成りになった時だけ使用された部屋で、家老屋敷では、松平容保と西郷頼母の人形が置かれています。
 奥の部屋中央に松平容保が座り、手前に西郷頼母が控えています
 

自刃の間
 家老屋敷は西郷頼母の屋敷を復元したものですので、西郷頼母一族21人の自刃もこの屋敷で起きました。
c0187004_23235992.jpg そのうち、西郷頼母の一族9人が自刃した部屋が「自刃の間」として説明されていました。
 自刃は、仏間、次の間、奥二の間で行われたようです。
 写真左手の部屋が次の間で、右手が奥二の間です。仏間は次の間の左にありました。
 仏間は、先祖をお祀りしている部屋です。
 次の間は、家族が食事したり、休憩したりする部屋です。
 そして奥二の間は、頼母の娘たちと頼母の母律子の部屋だったそうです。

化粧の間と子供部屋
c0187004_23242664.jpg 屋敷の一番奥には、妻千恵子の部屋と男の子の部屋が並んでいます。
 写真左手が化粧の間で、この部屋が 千恵子の部屋でした。
 その隣二部屋が男の子の部屋で、右手が長男の部屋、床の間が付いています。真ん中は、次男、三男などの部屋で床の間はありません。


 
西郷頼母一族の自刃
 家老屋敷の中には、西郷一族の自刃の様子が、人形で復元されています。
c0187004_23245313.jpg 人形では、一族が自刃した後、新政府軍側の隊長が、部屋に入ってみつけ、まだ息のある少女が最後の介錯をお願いする場面が復元されています。
 写真左手で花瓶の後ろに次女・瀑布子(たきこ 13歳)。中央手前が三女・田鶴子(たづこ 8歳)、 四女・常盤子(とわこ 4歳)、中央が五女の李子(すえこ 2歳)を抱いたまま息絶えた頼母の妻・千恵子(34歳)です。
 そして、左が介錯をお願いする長女・細布子(たえこ 16歳)です。
 右手の赤熊が新政府軍の隊長で、後に初代衆議院議長となる土佐藩士中島信行と言われています。
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by wheatbaku | 2013-08-15 08:18 | 大江戸散歩 | Trackback
御薬園(会津若松散歩)
 御薬園は、鶴ヶ城の近くにある中央に心字の池を配した回遊式の庭園で、御薬園の名は、薬草を栽培していた薬草園も併設されていたことによるものです。
 会津旅行の際には、院内御廟から行きましたが、通常は、鶴ヶ城から歩いていくことが多いように思います。

c0187004_001582.jpg ここでは、下見の時にお世話になったボランティアガイドの飯田さんにガイドしていただきました。
 園の歴史や、庭園の説明、そして薬草の話など、幅広い話題の説明をしていただきました。
 さすが、地元に住んで長年ガイドをしている方の説明は素晴らしいと大変感心しました。
 飯田さんには度々お世話になりました。本当にありがとうございました。


c0187004_01795.jpg 御薬園は、もともと、南北朝の時代、葦名氏7代直盛が会津を治め始めた頃に起源がさかのぼるそうです。
 直盛の館近くに、鶴が十数羽舞い遊ぶ泉があり、ある時、その泉で介抱された農民の病が治りました。
 そうしたことから、その泉は鶴ヶ清水と名付けられました。
 そして、10代葦名盛久が、その霊泉の湧きだした地に別荘を建てたのがはじまりだそうです。
 その霊泉は、心字池のほとりにあり、現在も水がわき出ています。
 ガイドなしで廻ると見落としてしまうような場所ですが、飯田さんのガイドでしっかり見ることができました。

 その後、各領主の時代には荒廃していましたが、保科正之が入封した後、庭園を整備し保養所としました。
 さらに、2代藩主保科正経が、漢文10年(1670)に、園内に薬草園を設け、各種の薬草栽培を試みました。
c0187004_015564.jpg その後、3代藩主松平正容が貞享年間に朝鮮人参を試植し、その栽培を民間に広く奨励しました。それが「御薬園」という名前の由来となっています。
 現在の庭園は、元禄9年(1696年)、正容が、園匠の目黒浄定を招き、小堀遠州の流れをくんだ本格的な回遊式の庭園に大改造したものだそうです。
 中央に心字の池を配し、その中央に亀島と楽寿亭が置かれています。(右上写真)
 「楽寿亭」という名前は、3代藩主正容によって付けられたものです。

 「御茶屋御殿」は楽寿亭と同じく元禄9年(1696)に建てられました。
c0187004_1210477.jpg 京都守護職から会津に戻った松平容保は、恭順の意を示すため、鶴ヶ城には入城せず、ここで暮らしました。
 会津戦争の時には、ここは新政府軍の負傷者の手当てする場所として利用されています。
 明治になってからは、松平容保一家が一時期、この御茶屋御殿に住んでいました。
 右上写真は、心字池中央にある亀島からみた「御茶屋御殿」です。


c0187004_024055.jpg 庭園北側には藩政時代の薬草栽培地跡を利用した薬用植物標本園があり、会津産薬草約200種を含め約400種の薬草が栽培されています。
 その一画には、大賀ハスが満開でした。
 ハスは、蓮根が食用になるほか、下痢止めなどの薬用にも利用されます。
 また、乾燥させた成熟果実を蓮実、種子を蓮肉といい、生薬として滋養強壮、利尿、通経などに用いられるそうです。

c0187004_033056.jpg 庭園北西側には9代藩主松平容保の孫にあたる秩父宮妃勢津子妃殿下ゆかりの建物、重陽閣(ちょうようかく)が移築されています。
 重陽閣は、勢津子妃殿下がご成婚の際にご一家で宿泊された東山温泉の別棟が昭和48年に移築されました。
 もともとは3階建だったものを移築の際に2階建にしたそうです。
 妃殿下の誕生日が9月9日であることから「重陽の節句」にちなみ、「重陽閣」と名付けれられたそうです。

c0187004_041419.jpg 「重陽閣」の前には、「プリンセス・チチブ」と名付けられたバラが咲いていました。
 「プリンセス・チチブ」は、1971年にイギリス人から秩父宮勢津子妃殿下に捧げられたものだそうです。
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by wheatbaku | 2013-08-14 09:13 | 大江戸散歩 | Trackback
松平家墓所【院内御廟】(会津若松散歩)
 今日は、会津若松散歩の続きで、院内の松平家墓所についてご案内します。
 通常の会津若松の観光ルートではないと思いますが、神式の墓地は滅多に見られないので、会津旅行の2日目の朝一番に受講生の皆さんと行ってきました。
 

 「会津藩主松平家墓所」は、会津若松市の院内山と猪苗代町の見禰山(みねやま)の2ヶ所の総称で昭和62年5月に国の史跡として指定を受けています。
 院内山の墓所は通称「院内御廟」と呼ばれ親しまれていますが、その面積は約15万平方メートルと広大です。
 寛永20年(1643)に会津に入封した初代の保科正之公は、猪苗代の土津(はにつ)神社に祀られ、ここには、2代保科正経から幕末の9代容保までの墓があります。
  3代以降の墓所は「入峰墓所」と呼ばれています。今回は、この「入峰墓所」を訪ねました。

  院内御廟は、会津藩初代の藩主・保科正之(ほしなまさゆき)が最初の子だった正頼が亡くなった明暦3年(1657)に正之が開設したものです。
 c0187004_21213146.jpg 2代藩主・正経から9代の松平容保までの墓とそれ以後の松平家の墓があります。
 正之自身のお墓は猪苗代町の土津(はにつ)神社にあります。
 2代藩主・保科正経は仏式によって葬られていますが、3代藩主・松平正容(まさかた)から9代の容保までは、全て神式で埋葬されています。
 松平家の墓所は、まず巨大な碑石(ひせき、いしぶみせき)があります。碑石は墓誌石ともいい、故人の姓名、生い立ち、経歴、業績などが刻まれています。
 その碑石の奥に灯篭が対に並び、その奥に、表石(ひょうせき、おもていし)があります。
 表石には、故人の生前の名前と官位・身分が刻まれています。
 その奥に、八角形をした鎮石(しずめいし、ちんせき)があり、これが実際のお墓です。
 右最上段が、8代容敬のお墓ですが、手前に碑石、灯篭、表石と並んでいるのがわかると思います。

 藩主のお墓は三のグループに分かれています。
c0187004_21225134.jpg 
 もっとも東にあるのが8代容敬(かたたか)と4代容貞(かたさだ)のお墓
 中央にあるのが、3代正容(まさかた)、5代容頌(かたのぶ)、6代容住(かたおき)、7代容衆(かたひろ)のグループです。
 そして最も奥に、9代容保とその後の当主のお墓があります。

 右上の写真は、手前から5代容頌(かたのぶ)、6代容住(かたおき)、7代容衆(かたひろ)の碑石です。 


 神式のお墓は、亀石(亀の形をした石)を台座とした碑石(ひせき)が前面にあります。
 右下写真は、3代正容の碑石です。歴代藩主の碑石の中で最大のもので高さが5メートルもあります。
 写真に写っている人物と比較すると、碑石の大きいのがわかると思います。
c0187004_21232296.jpg  亀石は、亀趺(きふ)ともいわれ、中国の空想上の動物で、竜の子を表し、死者の霊を守っています。
 松平家墓所の亀趺は、頭がすべて初代正之が眠る猪苗代町の方向を向いています。

 亀趺は、別名「贔屓(ひいき)」と言います。
 「贔屓の引き倒し」という諺がありますが、その諺は、これから生まれたという説もあります。
 柱の土台である贔屓を引っぱると柱が倒れることに由来しています。

c0187004_21233912.jpg ここには明治26年に59歳で亡くなった松平容保のお墓もあります。
 歴代藩主と同じ作りですが、歴代藩主よりはるかに小さくなっています。
 写真右手にあるのが表石で、中央奥にあるのが鎮石で、ここに埋葬されています。
 碑石は、写真には写っていませんが、表石の前にあります。
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by wheatbaku | 2013-08-13 08:19 | 大江戸散歩 | Trackback
飯盛山②(会津若松散歩)
 昨日に続き飯盛山について書きます。 
 飯盛山の白虎隊十九士の墓の建つ広場はかなり広く、そこには、十九士の墓のほか三十一士の墓碑やいろいろな碑が建っています。
 今日は、それらの碑のうちのいくつかを紹介します。

 
 三十一士の墓
c0187004_16273114.jpg 白虎隊十九士の墓の右手に並んでいるお墓が「三十一士の墓」です。
 白虎隊というと、飯盛山で自刃した人たちがすべてのような印象があります。
 先日、ご一緒した皆さんも同じ印象をもっていましたが、白虎隊は、士中一番隊、士中二番隊、寄合一番隊、寄合二番隊、足軽隊に分かれていて、全員で300人ほどの隊士がいました。
 飯盛山で自刃したのは士中二番隊37名のうちの20名です。
 そのほかの地で戦死した白虎隊士もいます。
 飯盛山で自刃した人以外の白虎隊士の墓が「三十一士の墓」です。
 内訳は、士中一番隊が3名、寄合一番隊が15名、寄合二番隊が7名、足軽隊6名だそうです。
 「十九士の墓」だけが注目を浴びますが、「三十一士の墓」も同じ白虎隊士のお墓ですので、受講生の皆さんには両方のお墓をお参りしてもらいました。


ローマ市寄贈の碑
 広場の中で、鷹が上に止まっている太くて高い石柱が、大変目立ちます。
c0187004_1628251.jpg 受講生の皆さんも「何だろう」という顔をして眺めていました。
 この太くて高い石柱は、昭和3年、ローマ市から寄贈されたものです。
 太くて高い石柱はポンペイの廃墟から発見された古代神殿の柱を利用したものだそうです。
 説明板によると、この柱は、白虎隊の武士道の精神に共感を覚えたローマ市民が寄贈したということになっています。
 さらに、次のように書かれていました。
 「表面に『文明の母たるローマは、白虎隊勇士の遺烈に、不朽の敬意を捧げんがため古代ローマの権威を表すファシスタ党章の鉞(まさかり)を飾り、永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る』と刻まれ、裏面には『武士道の精神に捧ぐ』と刻まれていました。しかし、これらの文字は、第二次世界大戦後に連合国軍によって削り取られた」

 なぜ削り取られたのか、その理由を書いた資料はありませんでしたが、調べると次のようなことがわかりました。
 この碑が作れた昭和3年当時のイタリアの首相はムッソリーニで、昭和3年はムッソリーニの独裁体制が確立した年でもあります。ファシスタ党というのはいわゆるファシスト党のことです。
 こうしたことを考慮すると、当時の時代を反映しこの石柱を戦後の連合国軍が嫌ったため、削り取られたものとだろうと思われます。

ドイツ記念碑
 広場には、ドイツ記念碑と呼ばれる石碑もあります。
c0187004_1628231.jpg  ドイツ大使館に外交官として赴任したフォン・エッツ・ドルフ氏が、白虎隊を賛美し、昭和10年に碑と十字章を寄贈したものです。碑文には、「会津の若き少年武士に贈る」とドイツ語で書かれているようです。
 この石碑は「ローマ市寄贈の碑」同様、戦後に破却を命じられました。
 しかし、茶店の老女が、石碑を床下に隠したため破却を免れたそうで、昭和28年に広場に復元されたそうです。
 これも、「ローマ市寄贈の碑」と同じく、当時の時代を反映したものといえそうです。

凌霜隊(りょうそうたい)之碑
 広場を出た脇に「郡上藩凌霜隊之碑」と書かれた石碑があります。
c0187004_16283955.jpg 美濃国郡上藩では、家老の朝比奈藤兵衛が、幕府方が勝利した時のためにと、息子茂吉(17歳)を隊長に47人を脱藩させ、幕府軍側の一隊として派遣しました。
 凌霜隊は各地を転戦し、9月6日に鶴ケ城に入りました。
 鶴ヶ城では、士中一番隊と二番隊の生存者で組織した再編白虎隊隊長の日向内記の支配下に属し、開城の日まで西出丸の防衛にあたりました。
 飯盛山に碑が建てられているのは、西出丸で白虎隊とともに戦った縁からではないのでしょうか。

 会津藩が降伏した後、凌霜隊は郡上八幡へ護送されましたが、人数は約30人だったそうです。
 郷里へ戻った隊士は、禁固の処罰を受けて入牢させられました。 
 幕府方にたって戦ったのは、藩を守るための一つの戦いでもあったにもかかわらず、凌霜隊の人々は、郡上に戻っても、肩身の狭い生き方をしたのではないでしょうか。
 でも、碑文が岐阜県の上松陽介知事の書となっていたことで救われた気持ちになりました。
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by wheatbaku | 2013-08-01 08:19 | 大江戸散歩 | Trackback
飯盛山①(会津若松散歩)
 先週の土曜日から日曜日にかけて毎日文化センターの講座「「八重の桜」ゆかりの地を行く」の受講生の皆さんと会津若松に行ってきました。
c0187004_15494651.jpg これまで、東京での史跡案内は数多くやってきましたが、東京以外ははじめてなので、いつもとは違う史跡案内になりましたが、無事に終わりました。
 受講生の皆さんも、いつの講座とは違い、観光旅行の側面もあるので、大いに楽しまれたようでしたし、お互いに仲良くなれて満足されているようでした。
 受講生の皆さんお世話になりました。

 今回、ご案内したのは、初日は飯盛山」と「鶴ヶ城」で、二日目は、「松平家墓所」、「御薬園」、「武家屋敷」、「日新館」でした。
 
 今日から、会津若松の様子を書いていきます。
 今日は、「飯盛山」の第1回です。

 飯盛山は、会津若松駅の真東にあります。
c0187004_1553146.jpg  「飯盛山」という名前の由来は、この山が飯を盛ったような形なので、この名前が付けられたといいます。
 飯盛山は、標高314mあります。
 ここはいうまでもありません、「白虎隊自刃の地」として知られています。
 「白虎隊十九士の墓」には、年間200万人ともいわれる観光客が訪れるそうです。
 今年は、「八重の桜」放映もあり、それを大幅に上回るものと思います。
 先日も、大勢の観光客が次々と訪れていました。

 飯盛山に登るのには、長い石段があります。脇にはエスカレーターもあります。
 右写真は、上からみた石段ですが、急な石段だということがわかると思います。左手にエスカレーターが写っています。
 受講生のほとんどの人が石段を登っていきましたが、息が上がる人が多かったので、自信のない方は、エスカレーターがお勧めです。

 
 石段を登りきると、広場になっていて、そこに白虎隊のお墓があります。(最上段写真参照)
c0187004_1550374.jpg 白虎隊が自刃した地は、広場から少し離れた場所にあります。
 自刃の地は狭い場所ですので、右写真のように、観光客で混雑していました。
 写真中央手前の二人が指差している方向が鶴ヶ城のある方向です。

 白虎隊士が自刃したのは、新政府軍が会津城下に侵入した慶応4年8月23日です。
 前日の22日に、攻防戦の要衝である十六橋が新政府軍に奪われ、会津藩側は、戸ノ口原で迎え撃つこととなり、白虎隊士中2番隊37名にも出撃の命令が下ります。
 23日早朝より、新政府軍との戦いが始まりましたが、会津側は多勢に無勢で敗れてしまい、白虎隊も敗走します。
c0187004_15555754.jpg そして、白虎隊士中2番隊の37名のうち20名が、飯盛山までたどりつきました。
 そして、鶴ヶ城を眺めると、 城下は早や紅蓮の炎を上げ、鶴ヶ城は全く黒煙に包まれ、天守閣などは今にも焼け落ちるかと思われるという状況でした。

 これを見て、白虎隊は、山腹に整列しはるかに鶴ヶ城に向かって決別の礼をなし、銃を捨て刀を抜き、あるいは腹を切り、あるいは喉を突いて、自刃したといわれています。

 白虎隊士が自刃した地には、石碑や供養塔、白虎隊士像が建てられています。(右上写真)

 飯盛山と鶴ヶ城との距離は、2千8百メートルほどだそうです。
c0187004_1551122.jpg 自刃の地から鶴ヶ城を見てみると、天守閣は見えるものの、詳細がはっきりわかるわけではありません。(右写真参照)
 ですから、鶴ヶ城が燃えていたのではありませんが、白虎隊士が城下が燃える炎を見て、鶴ヶ城が燃えているものと考えても仕方ないと思われます。

 飯盛山で自刃した白虎隊士は次の20名です。自刃した時刻は、午後2時から4時頃だったようです。
 
  安達藤三郎、有賀織之助、飯沼貞吉、 池上新太郎、石田和助、
  石山虎之助、伊東悌次郎、伊藤俊彦、 井深茂太郎、篠田儀三郎 
  鈴木源吉、 津川喜代美、津田捨蔵、 永瀬雄次、 西川勝太郎
  野村駒四郎、林八十治、 間瀬源七郎、簗瀬勝三郎、簗瀬武治

c0187004_15512725.jpg このうち、飯沼貞吉は、奇跡的に生き残り、飯盛山で自刃した白虎隊士は19名とされています。
 その亡くなった隊士の墓が、広場中央にあります。
 実は、白虎隊士の遺骸は、新政府軍により手をつけることを禁じられていました。
 約三ヶ月後村人により、密かにこの近くの妙国寺に運ばれ仮埋葬され、後に飯盛山に改葬されたのだそうです。
 明治16年に初めて塚が作られ1本の石碑が建てられ、明治23年に十九士の墓が建てられました。
 現在のように整備されたのは、大正14年~大正15年にかけてだそうです。
 墓碑はイロハ順に並んでいました。

 墓碑の前で説明をしていましたら、突然音楽が流れ始め剣舞が始まりました。
 そこで、ガイドは中断して、剣舞に注目しました。 女性の剣舞でした。
 バックに流れていた歌は、かつて聞いたことのある次の歌でした。

c0187004_175393.jpg 戦雲暗く 陽は落ちて
  弧城に月の影悲し
  誰が吹く笛か 識らねどんも
  今宵名残の 白虎隊

 紅顔可憐の 少年が
  死をもて守る この保塞
  滝沢村の 血の雨に
  濡らす白刃も 白虎隊

 詩吟
  南鶴ヶ城を望めば砲煙あがる
  痛哭涙を飲んで且彷徨す
  宗社亡びぬ 我が事おわる
  十有九士腹を屠って斃る

 飯盛山の 山頂に
  秋吹く風は 寒けれど
  忠烈今も 香に残す
  花も会津の 白虎隊
  花も会津の 白虎隊
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by wheatbaku | 2013-07-31 08:57 | 大江戸散歩 | Trackback
萱野権兵衛の最期(八重の桜第30回「再起への道」 )
 今日も、萱野権兵衛の話を続けたいと思います。
  萱野権兵衛が切腹した際の逸話がかなり残されていますので、最期の様子を書いてみます。

 c0187004_16575299.jpg 萱野権兵衛が謹慎していた久留米藩有馬家には、松平喜徳がお預けとなっていて、権兵衛のほか、井深宅右衛門、浦川藤吾らが謹慎していました。
 松平容保は、鳥取藩池田家にお預けとなり、梶原平馬、山川大蔵らが同じ池田家で謹慎していました。

 萱野権兵衛が切腹したのは、明治2年5月18日でした。
その日の朝、権兵衛は早めに起きて髪を整えました。この役は、いつも浦川藤吾が整えていました。権兵衛は浦川に「長々と世話になった。今日は襟元の毛を見苦しくないように特にお願いしたい」と言葉をかけたので、浦川は胸が詰まったそうです。
 そして、有馬家から丁重な酒肴を賜りましたが、権兵衛はそれを辞退、茶を戴きた いといって茶を所望し、井深宅右衛門が茶をたて、いつものように静かに喫したといいます。

 萱野権兵衛は、一刀流溝口派の免許皆伝でした。一刀流溝口派は、日新館で教えられる会津五流の一つで、萱野権兵衛は、数少ない免許皆伝者でした。
c0187004_1658396.jpg そのため、萱野権兵衛が自刃すれば、一刀流溝口派が絶えてしまうことになります。
 それを惜しんで、権兵衛は、竹の火箸を使って、井深宅右衛門に一刀流溝口派の奥義を伝えたいいます。

 そして、権兵衛の切腹の場に当てられた飯野藩保科家から迎えが来ました。
 保科邸には梶原平馬と山川大蔵が参上していました。
 梶原と山川は権兵衛に、松平容保と照姫からの親書を渡しました。
 権兵衛がおし戴いて封を開いてみると、容保からの親書には次のように書かれていました。

 今般、御沙汰の趣、ひそかに承知し、恐れ入り奉り候、右は全く我が不行き届きよりここに相至り候処、立場から父子始め、一藩に代りくれ候段に立ち至り、通哭に堪えず候。さてさて不便の至りに候。その方、忠実の段は深く心得居り候間、後々の儀などは毛頭心に置かず、その上は国家のため潔く最期を遂げくれ候よう頼み入り候也

 また照姫からの親書には次のように書かれ一首が添えられていました。

 さて、この度の、誠に恐れ入り候次第、全く御二方様身代りを存じ、自分に於いても何とも申し様もなく、気の毒、言葉に絶し惜しみ候ことに存じ候。

 右御見舞のため申し進め候
 夢うつつ思ひも分ず 惜しむぞよ  まことある名は 世に残れとも

 権兵衛は、涙を流して、二人の厚情に感謝したと言います。
c0187004_16585753.jpg やがて自刃の時刻がきて、権兵衛は保科家、松平家の家臣たちに別れをつげ、介錯人である保科家藩士の剣客沢田武司とともに静かに別室に入りました。

 萱野権兵衛は、飯野藩藩主保科正益(まさあり)から白無紋の礼服一かさねを賜りました。
 また、権兵衛の介錯のため、貞宗の名刀が沢田に下されていました。
 沢田は権兵衛に貞宗の名刀をさししめしました。
 権兵衛はおし戴いて「最期に臨んでよい目の保養をした。見事にお願いする」といって従容自若として、一糸も乱れなかったといいます。
松平容保は、のちに沢田に対して、次の和歌を贈り、その厚意をねぎらったそうです。
  なにくれと 沢田の水の浅からず 心をつくす ほどぞうれしき
 

 なお、 萱野家は会津藩の名家であり、初代は長則(ながのり)と言いました。
c0187004_16591814.jpg 右写真は、会津若松市の天寧寺にある萱野長則の墓です。
 長則は、元々は、会津藩松平家の前の領主であった加藤家の家来でした。
 初代藩主の保科正之が、その人物を見込んで自分の家来に召し抱えたという家柄でした。
 一身に責任を負った際の権兵衛は、今日の萱野家があるのは、初代長則が保科正之によって召し出されたからであり、その恩義に報いようとする心があったといわれています。

 会津若松城には、萱野国老殉節碑が本丸内に建てられています。
 昭和9年に建立されたものです。(右最上段写真)
 また、萱野権兵衛の屋敷は、会津若松城の大手門近くにありました。
 西隣が、西郷頼母、東隣が田中土佐という重臣の屋敷の一画を占めていました。
 邸宅跡には、説明板がたてられていました。(右2段目写真)
 不思議なことに、屋敷跡と思われる所に「かやの」と書かれたお蕎麦屋と思われるお店の大きな看板がありました。(右3段目写真)
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by wheatbaku | 2013-07-30 08:08 | 大河ドラマ | Trackback
萱野権兵衛切腹す(八重の桜第30回「再起への道」 )
 昨日・一昨日と。毎日文化センターの受講生の皆さんと会津若松に行ってきました。
 大変楽しい旅行となりました。その話は後日書きますが、昨日の「八重の桜」関連の記事を書きます。

 ついに、「八重の桜」も会津戦争が終結しました。
 いよいよ、舞台は、ふたたび京都になっていくようです。

 今日は、萱野権兵衛についてお話したいと思います。
 八重の桜では、柳沢慎吾が演じています。
 一貫して、まじめに演技しているのが印象的でした。
 萱野権兵衛は本名は萱野 長修(かやの ながはる)で、会津戦争当時、会津藩家老です。
c0187004_8492955.jpg 萱野権兵衛は、天保元年1830)に生まれ、元治元年(1864)若年寄になり、翌慶応元年(1865)に家老に任じられました。
 権兵衛は、温厚篤実で、地味なタイプだったようです。
 藩政面では、主に会津国元にあって留守をしっかり守り、京都の会津藩の動きをバックアップしていました。
 戊辰会津戦争が始まった頃の家老の席次は、筆頭家老が田中土佐、2番目が西郷頼母、3番目が神保内蔵助、そして、4番目が萱野権兵衛でした。
 8月21日、新政府軍によって会津藩の東部国境が突破された時には城外に出ていました。
 この時、田中土佐・神保内蔵助も城外で戦いましたが、この二人の家老は、城下に新政府軍が侵入するのを防げなかった責任をとって自刃しました。
 その後まもなく、西郷頼母も城外に追放されました。
 残った萱野権兵衛は、1か月の籠城戦の際は、主として城外で指揮し食料の補し続けました。
しかし、籠城1か月にして若松城はついに開城となり、9月22日の午前十時、鶴ヶ城に白旗があげられました。
 降伏式には、会津藩からは松平容保・喜徳父子と一緒に萱野権兵衛も出席しました。この際に「戦争責任は家臣にあるので、容保父子には寛大な処置を」という内容の嘆願書を提出して式は終了しました。
 萱野権兵衛はまもなく、江戸に送られる容保の一行と共に会津を離れ、江戸の久留米藩有馬家に喜徳とともに謹慎しました。

 新政府軍では直ちに会津藩の戦争責任が追求されました。
 その結果、「松平容保の罪を一等さげ死罪を許すが、会津藩により首謀の者を出頭させるべし」との命が下されました。
c0187004_850138.jpg このとき名乗り出たのが萱野権兵衛でした。
 「会津藩では家老田中土佐・同神保内蔵助・同萱野権兵衛の三人が戦争を指導した。しかし土佐と内蔵助はすでに切腹しており、権兵衛が謹んで裁きをうける考えである」と申し出て、会津藩における一切の戦争責任を一身に引き受けたのでした。
 
 そして明治2年5月18日、権兵衛に対し切腹が命じられました。
 実は、新政府の命令は「斬首」だったそうですが、萱野権兵衛の名誉を重んじ「切腹」が許されたと言われます。
 切腹の場所は飯野藩保科家とされました。
 飯野藩保科家は、会津藩松平家の親類大名で、照姫は上総飯野藩前藩主保科正丕(ほしな まさもと)の娘で、飯野藩保科家から会津藩に養女として入った関係があります。
 やがて、有馬家に権兵衛の切腹の場に当てられた飯野藩保科家から迎えが来ました。
 萱野権兵衛は、保科家で、松平家の家臣たちに別れをつげ静かに別室に入り、見事な最期を遂げました。
 時に権兵衛享年41歳でした。
 萱野権兵衛の遺体は、保科家により、白金の興禅寺に運ばれて埋葬されました。
 権兵衛の墓は、興禅寺の墓所入り口に、神保修理の墓と並んであります。(上段写真)
 興禅寺のお墓には、萱野権兵衛の諱(いみな)が刻まれています。 
 また、墓は会津若松市の天寧寺の萱野家の墓所にもあります。(下段写真)
 こちらには、「報国院殿公道了忠居士」という戒名が刻まれています。
 天寧寺の墓は、明治29年に妻のタニが亡くなった後、二人の戒名を並べて刻んで建てたのだそうです。

 現在も5月18日には墓前祭が行われているそうです。
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by wheatbaku | 2013-07-29 08:40 | 大河ドラマ | Trackback
日新館②(八重の桜第29回「鶴ヶ城開城」 )
 昨日の続きで、今日は、復元された「日新館」について書いていきます。
  
c0187004_16112186.jpg 日新館は、会津戦争で焼失しましたが、図面などが残っていたため、昭和62年3月に会津若松市河東町に完全復元されました。
 総面積3万8千坪あり、総工費は34億円を費やしたそうです。
 会津市内と言って市街地からは離れているため、会津若松駅からはバスでいくかJRで「広田」駅まで行ってタクシーでいくことになるようです。
 現在の日新館は、弓道場・武道場もり、研修施設や宿泊施設も兼ねているため、各種の武道団体も練習や合宿に利用されているそうです。

c0187004_16105995.jpg南門
 南門は、日新館の正門です。
 江戸時代は上級武士や藩士のみが使用を許されました。
 一般の生徒は東門か西門を利用していました。
 現在の門に掲げられている「日新館」の文字は、会津松平家13代当主松平保定氏が書いたものだそうです。


c0187004_16123055.jpg戟門(げきもん)
 南門をくぐると見えてくる門です。
 戟門は、もともと重要な建物を守る衛兵が「戟」という武器を持って監視をしていたことに名前の由来があります。
 門の左側には大きな太鼓がありこれを打って授業の時刻を知らせていました。


c0187004_16121959.jpg東塾
 戟門の両翼には、東塾と西塾がありました。 東塾と西塾があわせて「素読所」と呼ばれていた初等教育の校舎でした。
 藩士の子弟は10歳で入学すると、まずは論語を中心に漢文の読み方を学習しました。
 また、12歳になると書道を学びました。書道は特に重要視された教科の一つでした。


c0187004_1626142.jpg大学(講釈所)
 大学には素読所を卒業した五百石以上の長男と、成績・人物ともに優秀な者だけが入学を許されました。
 等級は、下等級、中等級、上等級と三等級あり、年一回試験があり、中等級に進んで将来有望なものは江戸の昌平黌や他藩の藩校への留学制度がありました。


c0187004_1613250.jpg大成殿(たいせいでん)
 大成殿は、孔子を祀った建物です。
 銅板瓦葺で、屋根までの高さ10.7メートル、軒まで6.2メートルあります。
 中には、大理石でできた孔子像が中央に置かれています。
 孔子像は、高さ160センチで重さ2トンあります。


c0187004_16132160.jpg水練水馬池(すいれんすいばいけ)
 日本初のプールといわれ、周囲85間(約153m)ありました。 会津藩では向井流の泳法を学習しました。
 水馬や甲冑を着たままの水練もあったそうです。
 藩校で水練場を備えていたのは、ほかには萩の明倫館(山口県萩市)だけでした。


c0187004_16142100.jpg武講(ぶこう)
 武講は、兵学を研究する所です。
 現在でいえば、防衛大学校のような学校だそうです。
 武講は、日新館のなかで、唯一軍事奉行の配下にありました。
 藩士の長男は18歳になれば武講で講義を受けなくてはなりませんでした


c0187004_923138.jpg武道場
 武道場は、剣術と槍術の道場です。
 素読所に入った子弟は15歳になると、これらの武道も必修科目に加えられました。
 午前中の学問の講義が終ると、午後は武学寮にある各道場へ行って、武道の稽古に汗を流しました。


c0187004_16145749.jpg木馬場
 会津藩の馬術は、大坪流でした。
 乗馬の型の稽古は、日新館内にある「木馬場」で行なわれました。
 文字通り、木馬にまたがって「型」の稽古をするのでした。
 

c0187004_1625538.jpg天文台
 冬至には、ここで天体を観測し暦を作ったと言われています。
 他藩の藩校で天文台を持っていたのは薩摩の造士館、水戸の弘道館だけでした。

c0187004_16151369.jpg砲術場
 砲術には、稲留・種子島・夢想・自由斎・荻野・一味・永田・新格・諸葛・高島の諸流がありました。
 角場(射撃場)は、日新館内のものは5区画しかなかったため、各流派がそれぞれに日程を調整しつつ使用して教授したようです。


c0187004_163183.jpgJR広田駅
 日新館は、会津若松市河東町にあります。
 最寄駅は、JR磐越西線「広田駅」です。
 その広田駅で、電車を待っている間、磐梯山がきれいに見えましたので写真に撮りました。
 「綺麗な磐梯山」、そして「のどかな駅の風景」に魅了された広田駅でした。
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by wheatbaku | 2013-07-25 09:12 | 大河ドラマ | Trackback
会津藩校日新館(八重の桜第29回「鶴ヶ城開城」 )

 会津戦争で、1か月間もの籠城戦を戦えたのは、それを耐え抜くだけの会津魂があったからだと思います。
 そうした会津魂を築きあげるうえで、藩校「日新館」の役割は大きかったと思います。
 そこで、今日からは、会津藩の藩校「日新館」について書いてみます。

  「日新館」は、寛政10年(1798)、5代藩主松平容頌(かたのぶ)に仕えた家老田中玄宰(はるなか)の進言により設置されました。
  会津藩の御用商人であった須田新九郎が新築経費を寄付し、5年間かけて享和3年(1803)に完成しました。
c0187004_894526.jpg 場所は、若松城の西出丸の西隣に堀を挟んで建築されました。
 東西約120間、南北およそ60間、広さ7200坪という広大な敷地がありました。
 しかし、会津戦争が始まると、傷病者の収容所として利用されていましたが、若松城下に新政府軍が侵攻した際に、敵に占領されるのを防ぐため、会津藩の手により焼失しました。
 現在は、会津若松城趾西側に天文台跡だけが残っています。(右写真)

 「日新館」という名前は、「書経」から「日々新而又日新」から名付けられました。
 通常藩校というと学問を学ぶ「文」の学校というイメージがありますが、日新館の場合には、「武」つまり剣道、弓道なども学ぶ文武両道の学校でした。
 そのため、剣道場、弓道場、さらには水練場までも備えた藩校でした。

 当時の会津藩の上級藩士の子弟は10歳になると全員日新館に入学しました。
 最初に入学するのが「素読所」です。名前の通り、素読中心の授業でした。
 教科書は、「論語」、「孟子」「中庸」「大学」などでした。
c0187004_8125868.jpg 素読所は、四等級から一等級まであり、四等級から三等級へは、11の教科書の素読が済むと試験なしに進級できましたが、三等級からは試験があり、これに受からないと進級できませんでした。
 従って、個人ごとに進級度合いが異なります。
 平均的には18歳で一等級卒業となっていました。
 また到達しなければならない等級も決められていて、500石以上の長男は一等級まで進むことが義務付けられていました。
 年をとっても進級できないと藩の役職につかせず勉学を続けさせました。また罰金もとられました。
 成績の悪い生徒は長男の場合35歳まで、次男以下は21歳まで勉強しなければなりませんでした。
 12歳になると素読所の二階にある書学寮で書道の勉強がはじまりました。
 書道も四等級までありました。

 素読所を修了した者で成績優秀者は講釈所(大学)への入学が認められました。
 大学は、下等、中等、上等の三等級ありました。
 中等で優秀な者には江戸の昌平黌や他藩の藩校への遊学が許されました。

 日新館には、選択科目もあり、礼法、神道、雅楽、和歌、数学、天文、医学などを学びました。

 日新館の西北角には、「観台」と呼ばれる天文台もありました。
 日新館は、戊辰戦争の際に、焼失しましたが、天文台の一部だけが残っています。

 日新館では、「文=学問」のほか、「武=武道」も学びました。
 武道は、刀、槍、弓、馬の4科目が必須でした。
 これは、それぞれ流派がいくつかあり、生徒は、その中から自分の好むものを選択することができました。
 その他、選択科目として、「砲術」「柔術」「居合術」「水練」などがありました。
 日新館、それぞれの練習場があり、鉄砲を練習する  も設置されていました。特に水練で使った水練水馬池は、日本初のプールと言われています。
 
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by wheatbaku | 2013-07-24 08:13 | 大河ドラマ | Trackback
会津藩の降伏式(八重の桜第29回「鶴ヶ城開城」 )
 明治元(1868)年9月22日午前10時、鶴ヶ城に白旗があげられ、1カ月にわたる籠城戦が終了しました。

 降伏式は大手門前、西郷頼母の屋敷と内藤助右衛門の間の甲賀町通り路上で行われました。
c0187004_8553096.jpg 式場には15尺(約4.5メートル)四方の緋毛氈(ひもうせん)が敷かれ、降伏式が行われました。

 会津藩側からは松平容保・喜徳父子他、新政府軍からは軍監の薩摩藩士中村半次郎らが式に臨みました。
 中村半次郎は、「人斬り半次郎」と呼ばれた人物で、明治になってからは、「桐野利秋」と名前をかえ、征韓論層で西郷隆盛とともに下野し西南戦争でなくなります。
 会津若松城攻めの中心は、伊地知正治と板垣退助でしたが、降伏式の大役は、中村半次郎が勤めました。
 これには、西郷隆盛の強い意向が反映されていると言われています。
 新政府軍側は、中村半次郎のほか、軍曹山県小太郎、使番唯九十九が出席しました。
 松平容保と喜徳は麻の上下を着て、小刀を帯び、大刀は袋に入れて侍臣に持たせ現れました。
c0187004_8555446.jpg そこで容保は「謝罪書」を中村半次郎に提出します。
 続いて容保父子と共に式に臨んだ家老萱野権兵衛は、萱野権兵衛・梶原平馬・内藤助右衛門・山川大蔵らが署名した「戦争責任は家臣にあるので、容保父子には寛大な処置を」という内容の嘆願書を提出して降伏式は終了しました。

 その後、容保父子は、一旦城に戻りって家臣に別れを告げました。
 そして、戦死者が眠る城内の空井戸と二ノ丸の墓地に花束を捧げ頭を垂れました。
 空井戸には戦死者がいるたびに絹の衣服に包んで投げ込んで埋葬し、空井戸が満ちると二の丸の空き地に埋葬しました。
 容保父子は戦死者にも頭を垂れたのでした。
 その後、二人は本丸を出て、太鼓門から駕籠に乗り、北大手門から城を出て、新政府軍の兵士に警護誘導され、滝沢村の妙国寺に入り謹慎となりました。

c0187004_8562597.jpg 降伏式の場には緋毛氈が敷かれていました。これは、長崎の商人、安達仁十郎が献じたもので、15尺四方のものでした。
 降伏式終了後、会津藩士たちは降伏式で使われた緋毛氈を持ち帰ります。
 それは後に秋月悌次郎により「泣血氈(きゅうけつせん)」と名付けられ、会津藩士の心に深く刻まれることとなりました。


 一方、新政府軍を代表して、会津若松城受け取った中村半次郎の所作は作法通りで、かつ温情にあふれていたため、人々は皆感心したそうです。
 後に「あのような作法をどこで学んだのか」と尋ねられ、「なぁに 愛宕下の小屋で忠臣蔵の芝居を見て、赤穂城明け渡しの部分をそっくり真似ただけだ」と答えたといいます。
 実は、中村半次郎は、「おいも、涙を止めることができんかった」と回想しています。
 そうした中村半次郎は、寛大の心で、容保父子の処遇にも気をくばりました。
 そうした中村半次郎の温情に対して、後に松平容保は人を介して名刀を贈り、これに報いたといいます。

 右上段写真は、甲賀町通り東にあった西郷頼母邸跡に立つ「西郷頼母邸址」の石碑です。
 右中段写真は、その向かい側にあった内藤介右衛門邸跡にある「内藤邸跡」の石碑です。
 右下段写真は、降伏式が行われたと言われる場所辺りからみた鶴ヶ城天守閣です。
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by wheatbaku | 2013-07-21 08:52 | 大河ドラマ | Trackback
  

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