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佐川官兵衛の最期(八重の桜第38回「西南戦争」)
「八重の桜」では、「鬼官兵衛」こと「佐川官兵衛」が壮絶な最期を遂げました。
 そこで、今日は、「佐川官兵衛の最期」について書いておきます。

  佐川官兵衛は、旧会津藩が斗南藩として再興されると、青森県三戸郡五戸町へ移住しましたが、廃藩後は会津に帰りひっそりと暮らしていました。
 
c0187004_9135756.jpg 明治6年の政変で、西郷隆盛が下野すると、世情が不穏となります。
 そこで、政府は、警察の強化を図ります。
 警視庁の川路利良大警視は、戊辰戦争で「鬼官兵衛」と呼ばれ勇名をはせた佐川官兵衛に着目し、警視庁に奉職するよう、強く要請しました。
 最初固辞していた佐川官兵衛ですが、再三の要請と困窮する旧会津藩士の救済のために警視庁に奉職することにし、一等大警部に任命されました。
 会津藩の元家老で勇名をはせていた佐川官兵衛としては、不当な待遇で、旧藩士たちは憤りましたが、佐川官兵衛は文句も言わず黙々と職務に励んだと言われています。

 明治10年の西南戦争が始まると政府は警視隊を結成し九州に送りました。
c0187004_9141751.jpg 佐川官兵衛は、檜垣直枝を指揮長にした第2次警視隊の第一小隊長兼指揮長として、横浜から船で小倉に上陸し、大分~久住~竹田を経て、阿蘇へ入りました。
 3月13日、佐川官兵衛は阿蘇の現白水村の蛭子(えびす)屋という商家に陣を構えました。
ここで、阿蘇南郷谷の指導者長野一誠と会見し、南郷谷の有志を集め、南郷有志隊を組織させました。
そして、「西郷軍が北外輪山の一角二重峠と黒川で峠を構築中」と聞いた佐川官兵衛は、即座に攻撃をかけようとしましたが、上官の檜垣直枝は、西郷軍の勢いを怖れ、無謀な軽挙だとして、攻撃を許可しません。
やっと、攻撃の許可がおりた3月17日、戦機を逸していたものの、佐川官兵衛は決死の覚悟で出発しました。
 出発の朝、官兵衛は真新しい肌着に身を包み、明神ヶ池の水を飲み、辞世の句を詠んだといいます。

 君が為 都の空を 打ちいでて 阿蘇山麓に 身は露となる

 3月18日、西郷軍との戦いがはじまりました。
 戦闘の最中、西郷軍の隊長鎌田雄一郎が佐川官兵衛に対して、一騎討ちを挑んできました。会津藩随一の使い手であった佐川官兵衛の剣はするどく、鎌田雄一郎が危ないとみた西郷軍は、鉄砲で佐川官兵衛を狙い討ちし、佐川官兵衛は非業の最期を遂げました。
享年45才でした。

 政府は、翌11年に、阿蘇で戦って戦死した佐川官兵衛を始め警視隊員たちを大分護国神社の警視隊墓地に改葬し、大分護国神社の御祭神として合祀しました。

 地元の人々は、佐川隊が略奪を働くのではないかと恐れましたが、佐川官兵衛は、軍律を厳しくさせ、物資を買うための資金も充分にあったので、略奪暴行などの不祥事は一切起きませんでした。
村人達は、隊員たちが、佐川官兵衛のこと「鬼官兵衛」と呼ぶのをきいて、村人たちも親しみをこめて込めて「鬼さま」と呼んだといいます。

白水村では佐川官兵衛の遺徳が代々語り継がれ、明神ヶ池の周辺には佐川官兵衛の記念碑が四カ所も建てられ、阿蘇郡内にも官兵衛の慰霊碑が十数カ所も建っているそうです。
このように阿蘇の人々が佐川官兵衛の遺徳を偲んでいるのを知った会津若松の人々は、佐川官兵衛の偉大さを改めて認識しました。
 そして、平成13年、阿蘇から贈られた大石を利用した「佐川官兵衛顕彰碑」が会津若松城内に建てられました。
 それが、右二段の写真です。
  最上段の佐川官兵衛の写真はウィキペディアからの転載です。
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by wheatbaku | 2013-09-24 09:11 | 大河ドラマ | Trackback
西南戦争の山川浩(八重の桜第38回「西南戦争」)
 昨日の「八重の桜」では、「西南戦争」が描かれていました。
 「西南戦争」では、旧会津藩士の活躍がありました。
 その代表の山川浩と佐川官兵衛の活躍をみていきたいと思います。
 今日は、山川浩について書きます。
 

c0187004_1971826.jpg 山川浩は、廃藩置県により、斗南藩が廃藩となった後は青森県に出仕しましたが、まもなく青森県を退職して上京しました。
 上京後の山川家の生活は苦しかったようです。
 そして、戊辰戦争で日光口で敵味方として戦ったものの山川の力量を高く評価していた土佐の谷干城の推薦により、明治6年(1873年)に陸軍に出仕しました。
 同年陸軍少佐として熊本鎮台に移り、明治7年には佐賀の乱で左腕に貫通銃創を負いました。この傷は左腕の骨を砕くほどの重傷で、それ以後、山川浩は左腕はほとんど使えなくなりました。こうした重傷をを負うものの、中佐に昇進しました。

 明治10年、西南戦争が起こります。
 西郷軍の最初の目標となったのは熊本鎮台の置かれた熊本城でした。
 熊本鎮台司令長官は、山川を陸軍に推薦してくれた谷干城でした。
 山川浩は、3月19日に出征し、山田顕義が率いる別働第2旅団の参謀となりました。
 山川は、西南戦争を「会津藩名誉回復の戦争」と捉えており、
「さつま人 みよや東の大丈夫(ますらお)が 提(さ)げ佩(は)く太刀の 利(と)きか鈍きか」という歌を詠んでいる。
 この歌は、「八重の桜」にも出ていましたね。
 4月13日に、5個中隊1000名を率いた山川浩は、ついに熊本城の南方7キロほどのところを流れる緑川と加勢川の中州で西郷軍と対峙しました。
 14日未明、突撃を開始した山川隊は、抵抗する西郷軍を蹴散らし、午後4時に、ついに熊本城に到達し、一番乗りを果たしました。
 この時の、鎮台司令官谷干城はもちろんのこと、熊本城内の喜びは大変なものだったようです。
 戦闘日記には、次のように書かれているそうです。
 重傷者の未だ嘗て動くこと能はらざりしも者も覚えず病床に跪坐し、或は戸外に出て、喜極まりて泣く者あり。

 こうした軍功により、山川浩は、明治13年(1880年)には陸軍大佐に昇進し、さらに明治19年には、陸軍少将に昇進しました。
 少将昇進の時、陸軍の大建者であった長州出身の山県有朋は、「山川は会津ではないか」と叫び、少将昇進に不快感を示したと言われています。
 しかし、こうした不快感にも耐えうるほどの力量を山川浩が持っていたことを表す少将昇進といえます。


 右上写真は、ウィキペディアからの転載です。
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by wheatbaku | 2013-09-23 19:10 | 大河ドラマ | Trackback
齋藤一 (八重の桜第35回「襄のプロポーズ」)
 
 昨日の「八重の桜」では、八重がいよいよ新島襄のプロポーズを受けいれるというお話でしたが、斉藤一が出来てきましたので、今日は「斉藤一(はじめ)」の話をしたいと思います。
 

 その前ですが、金曜日に出題した「忠臣蔵の模擬試験問題の正解」をアップしてあります。
 「忠臣蔵第4回模擬試験問題の正解」 をご覧ください。


 斉藤一は、新撰組では、三番隊組長を勤めていました。
 伊東甲子太郎が御陵衛士を結成して新選組を離脱した時には、斎藤も一緒に離脱し御陵衛士に入隊しました。斉藤一は、間者として潜入していたと言われています。
c0187004_134230.jpg 鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れてからは、新撰組も江戸に戻り、甲州に向かい、ここで敗れて以後、関東各地を転戦し、最終的に、斎藤ら新選組は会津藩の指揮下に入りました。

 会津戦争では、白河口の戦い、8月21日の母成峠の戦いにも参加しました。
母成峠の戦いで敗れ、猪苗代城を放棄した後、土方歳三たちは庄内へ向かいましたが、斎藤一は会津に残留し、会津若松城に籠城せず城外で新政府軍と戦いました。

c0187004_13105685.jpg 9月22日に会津藩が降伏したあとも、城外にいた斉藤一は、しばらく戦い続けた後に新政府軍に降伏しました。
 その後、斉藤一は、他の会津藩士とともに、塩川に抑留され、そののち越後高田に移されました。

 会津藩が、斗南藩として再興が許された後は、斉藤一も、斗南に向かいました。
 斎藤一は斗南藩領の五戸に移住し、倉沢平治右衛門家に寄宿しました。
 そして、倉沢の取り持ちで、倉沢家に同居していた篠田やそと結婚しましたが、しばらくした後、篠田やそとはわかれたようです。


 その後、高木時尾と再婚しました。明治7年秋から翌年春のことを言われています。
 高木時尾は、倉沢家の養女となっていたので、齋藤とは斗南で同居していたことがありました。
  二人の仲人は、「八重の桜」で描かれたように、松平容保が上仲人となり、山川浩と佐川官兵衛とが下仲人でした。

 昨日の「八重の桜」で、齋藤一は藤田五郎として出ていました。齋藤一は、斗南に移住する頃に藤田五郎と改名したようです。
 しかし、その理由については、齋藤一が旧会津藩士の藤田家に養子に入ったからという説、②移住後に旧南部領に多い藤田姓を使用したという説、③用心のために改名したという説などいろいろあり、その理由ははっきりしないそうです。

 この後、明治10年におこる西南戦争に警視庁の警部補として参戦し、抜刀隊の一員として活躍しました。
 西南戦争でも生き残り、明治24年まで警視庁に勤務しました。

  斉藤一がなくなったのは大正4年でした。
  お墓は、会津若松の阿弥陀寺にあります。(右最上段写真)
  このお墓には、高木時尾も一緒に埋葬されています。
  墓誌には、藤田五郎、藤田時尾と刻まれています。
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by wheatbaku | 2013-09-02 12:42 | 大河ドラマ | Trackback
征韓論 (八重の桜第33回「尚之助との再会」)
 昨日の「八重の桜」では、「征韓論」が出てきましたので、今日は「征韓論」について書いてみたいと思います。
 これが、後の「西南戦争」につながりますので・・・

 その前ですが、金曜日に出題した「忠臣蔵の模擬試験問題の正解」をアップしてあります。
 「忠臣蔵第3回模擬試験問題の正解」 をご覧ください。

 「八重の桜」で描かれた明治6年ごろに征韓論を主張したのは、岩倉使節団が、欧米に派遣された後の留守政府の首脳であった西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣たちでした。
当時の留守政府の参議は、西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、後藤象二郎、江藤新平、大木喬任、副島種臣で、西郷以外は、土佐藩と肥前藩の出身者で占めており、土肥政権といっていい政府でした。

c0187004_1317449.jpg 明治6年初夏、朝鮮が日本に対して侮蔑したとして、国内で「征韓論」が強くなります。
 その状況下で、西郷隆盛は自身が使節として朝鮮に行くと主張しました。
 板垣退助、後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成しました。しかし、留守を預かる太政大臣の三条実美は閣議をなかなか開かず決定が遅れました。
 が、8月17日についに西郷隆盛を使節として派遣することが閣議決定されました。

 これに対して、ヨーロッパから順次、帰国した岩倉使節団の岩倉具視(9月帰国)木戸孝允(8月帰国)・大久保利通(5月帰国)らは、岩倉具視が帰国した9月以降これに断固として反対しました。
 しかし、10月15日の閣議では、西郷隆盛の派遣が閣議決定されました。
 この決定を受けて16日木戸孝允と大久保利通は参議の辞表を提出します。
 17日の閣議では、岩倉・木戸・大久保が欠席したため、三条実美は奏上の結論が出せず翌日に延期しました。
 翌18日朝、両派の対立を収拾することができなくなった太政大臣三条実美は、病に倒れました。
 20日、明治天皇が三条実美を見舞うとともに太政大臣の職務を代行するよう岩倉具視に命じます。
 22日に、太政大臣の職務を代行することとなった岩倉具視は、西郷隆盛たち征韓派の参議を招集して協議をしますが、閣議決定の上奏を要求する征韓派に対して、岩倉具視は、自分の反対意見も奏上するといって譲りませんでした。
 そして、23日、岩倉具視は、派遣反対の自分の意見を添えて、閣議の決定を奏上しました。
 明治天皇は、最終的には岩倉具視の意見を採用し、西郷隆盛の使節派遣は中止されました。
 その結果、その日のうちに西郷隆盛が辞表を提出し、24日は、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の征韓派の参議が一斉に辞表を提出し下野しました。

 これが、昨日の「八重の桜」でも描かれた「征韓論争」の経緯です。

 それでは、征韓論の中心となった西郷隆盛がねらっていたのは何かですが、これについては、元京都大学名誉教授の井上清が、西郷隆盛が征韓論を唱えたのは、国内対策であったと説明しました。
 明治維新により武士の特権ははく奪されたため、武士の不平不満が高まりました。
 西郷隆盛は、そうした不満を外に向け、さらに士族独裁体制を実現しようとしたのだと言います。
 これに対して、岩倉具視や大久保利通は対外政策としては征韓では同じ考えを持っていましたが、それにもかかわらず、二人が西郷たちに反対したのは、岩倉具視や大久保利通が目指すのが中央集権官僚主義であったため、西郷隆盛や士族の主導による征韓に反対したのだと言います。
 この説は、一般に多くの人々の支持を得たようです。

 ただし、西郷隆盛が、使節として朝鮮に行こうとしたのは平和的に交渉しようとしたという説もあるようですが、これに対しては批判的な意見を鵜飼隆明教授は岩波新書「西郷隆盛」のなかで書いています。
 なお、井上清の考えは中公文庫「日本の歴史20 明治維新」を参考にしています。
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by wheatbaku | 2013-08-19 13:19 | 大河ドラマ | Trackback
大山捨松(八重の桜第32回「兄の見取り図」
 昨日の「八重の桜」に大山捨松が出てきましたので、今日は、大山捨松について書きます。

 大山捨松は、大山巌(八重の桜では弥助)と結婚した後の名前で、幼いころは、「山川咲子」と言いました。
 万延元年(1860)に、会津藩家老山川重固の末娘として生まれました。
 「山川浩」や山川健次郎の妹です。 
c0187004_23145629.jpg 山川咲子が、生まれた場所には、説明板が立てられていました。(右写真)
 会津戦争が始まった時、咲子は8歳でした。咲子の母山川艶は、咲子にも自決の方法を教え、死ぬ覚悟で籠城戦を戦いました。
 その籠城戦も9月22日に会津藩が降伏して終了しました。
 籠城していた藩士は猪苗代で謹慎となり、婦女子は塩川で謹慎となりました。
 山川家の女子も塩川で謹慎しました。

 そして、明治2年11月、斗南藩が興され、会津藩士は斗南に向かいました。
 山川浩が大参事となり、山川の婦女子も田名部に向かいました。
 しかし、斗南での生活は厳しく、咲子は函館の知人に預けられました。
 斗南よりは幾分ましな生活をさせたいと考えたからのようです。

 明治4年に新政府は、女子教育の必要性を認め、幼い女子を欧米に留学させることにしました。
 留学期間10年間、往復旅費・学費。生活費は国が負担し年間800ドルの小遣いを支給するという条件でした。
 これに応じてきたのはたった5名でした。
 吉益亮子15歳、上田貞子15歳、山川捨松12歳、永井繁子9歳、津田梅子8歳の5人です。
 この時に、山川咲子は、「国のために捨てたつもりで、帰りを待つ(松)のみ」との母の思いから「捨松」と改名させられます。
 5名の留学生は、出発に先立ち、振袖をきて宮中に参内し皇后陛下に拝謁しています。
 明治4年11月20日、岩倉欧米使節とともに4500トンの郵便船アメリカ号で横浜港を出発しました。
 一行をのせた船は、12月6日サンフランシスコに到着し大歓迎を受けました。
 5名は使節団一行とここで別れ約半年間、英語の勉強のため共同生活を送りましたn。
 しかし、吉益亮子と上田貞子は健康を害して10月に日本へ帰国しました。
 残された3人は、それぞれ親日家のアメリカ人に引き取られ留学生活が始まりました。
 昨日の「八重の桜」では、この時期の山川咲子が描かれていました。

 この後、山川咲子は11年間の留学の後明治15年に帰国します。
 帰国して早々に大山巌との縁談話が持ち上がります。
 そこで、家族は猛反対しますが、大山の熱意に根負けし、16年陸軍卿大山巌と結婚しました。
 そして、いわゆる鹿鳴館時代には社交界の中心として活躍し「鹿鳴館の華」と呼ばれました。
 その話は、後日また書くことになると思いますので、詳しくはその時に書きます。
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by wheatbaku | 2013-08-12 07:52 | 大河ドラマ | Trackback
山川浩と斗南藩(八重の桜第31回「離縁のわけ」 )
 「八重の桜」も。いよいよ明治になっての展開ですね。
  このブログは、基本的に「江戸」に関するブログですが、暫くは、「江戸」の延長として、明治に入っての「八重の桜」を追いかけてみます。

 今日は、「山川大蔵(浩)」について書きます。
 山川大蔵は、弘化元年(1845)、山川尚江重固(しげもと)の次男として生まれました。
c0187004_9262139.jpg  姉に山川二葉、弟に山川健次郎、妹に大山捨松らがいます。初名を大蔵(おおくら)といいました。浩は明治以降に改名したものです。
 右写真は、山川大蔵の生誕地と思われる場所、会津若松城近くにあます。 

 山川大蔵が、会津戦争当時、小松獅子を先頭にして会津若松城へ入城した場面は、まだ記憶に新しいと思います。
 こうした作戦や日光口での戦闘指揮から、山川大蔵は、軍事の天才と呼ばれました。
 鶴ヶ城入城後は、本丸におって軍事総督として、軍事面での指揮をとりました。
 政務は、梶原平馬が執りましたので、会津若松城籠城戦の後半は、政務・軍事ともに、20代の若い家老が指揮を執ったことになります。

 しかしながら、会津若松城は、明治元年9月22日に開城します。
 そして、会津藩士たちは、猪苗代、塩川で謹慎をした後、明治2年1月に、東京と越後高田の収容所に送られました。
 明治2年9月になると、会津藩の家名再興が許され、11月に、松平容保の実子容大(かたはる)を当主として立藩が許されました。
 この時に、旧会津藩の領地の候補として、二つの土地が示されました。
 一つは猪苗代で、もう一つが陸奥三郡でした。(陸奥三郡が後に「斗南」と命名されました。斗南とは「北斗以南皆帝州」という言葉から採ったとされています。
 どちらを選択するかは、旧会津藩で議論が紛糾しました。山川浩【明治になって改名】らは斗南を主張しました。
 一方、猪苗代は、旧会津藩領ですので、こちらを主張する人もいました。
 しかし、山川浩は、斗南に決定しました。
なぜ、山川が斗南に決定したかは、史料が少なく、その理由は、はっきりしないそうです。
 ただ、猪苗代は土地が狭く、会津藩士一族を養うには不足するが、斗南は厳寒不毛のちであるが開拓可能であり、その可能性にかけたとも言います。
 また、あえて過酷な道を選ぶことが、「家名再興」を許してくれた新政府に対して「忠誠」を表す選択肢だったのではないかという意見もあるようです。

 山川浩は、斗南藩立藩後は実質的な最高責任者である斗南藩権大参事として、藩政を執りしきりました。
c0187004_925239.jpg 右写真は斗南藩庁が置かれていた円通寺(むつ市)です。
 斗南には1万7千人余りの旧藩士とその家族が移り住みましたが、斗南での暮らしは、昨日の「八重の桜」でも描かれていた通り、非常に厳しいものでした。
 そもそも旧会津藩は23万石でしたが、斗南藩は表面でも3万石と大幅に領地が削減されました。しかも3万石とは表面的な数字で、実質は7千石という大変厳しいものでした。
 そして、土地は厳寒不毛の荒涼とした土地でした。
 そこに、1万7千もの人々が移りすんだため、多くの藩士が、飢えや病気により命をなくしました。
 
 そのため、昨日、日向ユキが言っていたごとく、会津戦争で苦しんだ藩士たちを、さらに苦しませる結果となりました。
 山川自身も、後に大山巌の妻となる妹の咲を函館に里子に出さざるを得ませんでした。
 結局、斗南藩は、明治4年7月の廃藩置県により、弘前県に吸収され、廃藩となり、2年に満たない短い期間しか存続しませんでした。

 廃藩置県後の藩士の行く末は、詳細はわかりませんが、会津若松旅行中に乗ったタクシーの運転手さんの次の話が印象に残りました。

 「会津若松には、会津藩士の人たちの子孫は少ないのです。降伏後、士族は東京に送られましたし、その後、斗南藩に移住した人たちが多かったためです。
 ですから、旧会津藩士の人たちは、会津若松での活躍もありますが、東京や青森で名を遺した人たちが大勢います。
 青森の教育界では、会津出身の人が大勢いると聞いています。」
 
 自宅に帰り、「会津戦争のすべて」という本を読んでいると
 「明治5年に学制の令が出ると会津藩士たちは続々と教員に採用されて、そのためもっとも遅れていた斗南地方の義務教育が西武の津軽地方に追いつくことができたという。」と書かれていました。
 青森で教員として活躍した会津藩士も多くいたようです。

 さて、山川浩も、廃藩置県により、青森県(弘前県の後、まもなく設置された)に出仕しましたが、1か月後に辞表を提出し、東京に出ました。しかし、上京したものの、生活は改善せず、しばらく窮乏生活が続きます。 
 そして、山川浩が再び活躍するのは、西南戦争の時ですが、それについては、「八重の桜」でも取り上げらると思いますので、改めて書きたいと思います。
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by wheatbaku | 2013-08-05 09:28 | 大河ドラマ | Trackback
萱野権兵衛の最期(八重の桜第30回「再起への道」 )
 今日も、萱野権兵衛の話を続けたいと思います。
  萱野権兵衛が切腹した際の逸話がかなり残されていますので、最期の様子を書いてみます。

 c0187004_16575299.jpg 萱野権兵衛が謹慎していた久留米藩有馬家には、松平喜徳がお預けとなっていて、権兵衛のほか、井深宅右衛門、浦川藤吾らが謹慎していました。
 松平容保は、鳥取藩池田家にお預けとなり、梶原平馬、山川大蔵らが同じ池田家で謹慎していました。

 萱野権兵衛が切腹したのは、明治2年5月18日でした。
その日の朝、権兵衛は早めに起きて髪を整えました。この役は、いつも浦川藤吾が整えていました。権兵衛は浦川に「長々と世話になった。今日は襟元の毛を見苦しくないように特にお願いしたい」と言葉をかけたので、浦川は胸が詰まったそうです。
 そして、有馬家から丁重な酒肴を賜りましたが、権兵衛はそれを辞退、茶を戴きた いといって茶を所望し、井深宅右衛門が茶をたて、いつものように静かに喫したといいます。

 萱野権兵衛は、一刀流溝口派の免許皆伝でした。一刀流溝口派は、日新館で教えられる会津五流の一つで、萱野権兵衛は、数少ない免許皆伝者でした。
c0187004_1658396.jpg そのため、萱野権兵衛が自刃すれば、一刀流溝口派が絶えてしまうことになります。
 それを惜しんで、権兵衛は、竹の火箸を使って、井深宅右衛門に一刀流溝口派の奥義を伝えたいいます。

 そして、権兵衛の切腹の場に当てられた飯野藩保科家から迎えが来ました。
 保科邸には梶原平馬と山川大蔵が参上していました。
 梶原と山川は権兵衛に、松平容保と照姫からの親書を渡しました。
 権兵衛がおし戴いて封を開いてみると、容保からの親書には次のように書かれていました。

 今般、御沙汰の趣、ひそかに承知し、恐れ入り奉り候、右は全く我が不行き届きよりここに相至り候処、立場から父子始め、一藩に代りくれ候段に立ち至り、通哭に堪えず候。さてさて不便の至りに候。その方、忠実の段は深く心得居り候間、後々の儀などは毛頭心に置かず、その上は国家のため潔く最期を遂げくれ候よう頼み入り候也

 また照姫からの親書には次のように書かれ一首が添えられていました。

 さて、この度の、誠に恐れ入り候次第、全く御二方様身代りを存じ、自分に於いても何とも申し様もなく、気の毒、言葉に絶し惜しみ候ことに存じ候。

 右御見舞のため申し進め候
 夢うつつ思ひも分ず 惜しむぞよ  まことある名は 世に残れとも

 権兵衛は、涙を流して、二人の厚情に感謝したと言います。
c0187004_16585753.jpg やがて自刃の時刻がきて、権兵衛は保科家、松平家の家臣たちに別れをつげ、介錯人である保科家藩士の剣客沢田武司とともに静かに別室に入りました。

 萱野権兵衛は、飯野藩藩主保科正益(まさあり)から白無紋の礼服一かさねを賜りました。
 また、権兵衛の介錯のため、貞宗の名刀が沢田に下されていました。
 沢田は権兵衛に貞宗の名刀をさししめしました。
 権兵衛はおし戴いて「最期に臨んでよい目の保養をした。見事にお願いする」といって従容自若として、一糸も乱れなかったといいます。
松平容保は、のちに沢田に対して、次の和歌を贈り、その厚意をねぎらったそうです。
  なにくれと 沢田の水の浅からず 心をつくす ほどぞうれしき
 

 なお、 萱野家は会津藩の名家であり、初代は長則(ながのり)と言いました。
c0187004_16591814.jpg 右写真は、会津若松市の天寧寺にある萱野長則の墓です。
 長則は、元々は、会津藩松平家の前の領主であった加藤家の家来でした。
 初代藩主の保科正之が、その人物を見込んで自分の家来に召し抱えたという家柄でした。
 一身に責任を負った際の権兵衛は、今日の萱野家があるのは、初代長則が保科正之によって召し出されたからであり、その恩義に報いようとする心があったといわれています。

 会津若松城には、萱野国老殉節碑が本丸内に建てられています。
 昭和9年に建立されたものです。(右最上段写真)
 また、萱野権兵衛の屋敷は、会津若松城の大手門近くにありました。
 西隣が、西郷頼母、東隣が田中土佐という重臣の屋敷の一画を占めていました。
 邸宅跡には、説明板がたてられていました。(右2段目写真)
 不思議なことに、屋敷跡と思われる所に「かやの」と書かれたお蕎麦屋と思われるお店の大きな看板がありました。(右3段目写真)
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by wheatbaku | 2013-07-30 08:08 | 大河ドラマ | Trackback
萱野権兵衛切腹す(八重の桜第30回「再起への道」 )
 昨日・一昨日と。毎日文化センターの受講生の皆さんと会津若松に行ってきました。
 大変楽しい旅行となりました。その話は後日書きますが、昨日の「八重の桜」関連の記事を書きます。

 ついに、「八重の桜」も会津戦争が終結しました。
 いよいよ、舞台は、ふたたび京都になっていくようです。

 今日は、萱野権兵衛についてお話したいと思います。
 八重の桜では、柳沢慎吾が演じています。
 一貫して、まじめに演技しているのが印象的でした。
 萱野権兵衛は本名は萱野 長修(かやの ながはる)で、会津戦争当時、会津藩家老です。
c0187004_8492955.jpg 萱野権兵衛は、天保元年1830)に生まれ、元治元年(1864)若年寄になり、翌慶応元年(1865)に家老に任じられました。
 権兵衛は、温厚篤実で、地味なタイプだったようです。
 藩政面では、主に会津国元にあって留守をしっかり守り、京都の会津藩の動きをバックアップしていました。
 戊辰会津戦争が始まった頃の家老の席次は、筆頭家老が田中土佐、2番目が西郷頼母、3番目が神保内蔵助、そして、4番目が萱野権兵衛でした。
 8月21日、新政府軍によって会津藩の東部国境が突破された時には城外に出ていました。
 この時、田中土佐・神保内蔵助も城外で戦いましたが、この二人の家老は、城下に新政府軍が侵入するのを防げなかった責任をとって自刃しました。
 その後まもなく、西郷頼母も城外に追放されました。
 残った萱野権兵衛は、1か月の籠城戦の際は、主として城外で指揮し食料の補し続けました。
しかし、籠城1か月にして若松城はついに開城となり、9月22日の午前十時、鶴ヶ城に白旗があげられました。
 降伏式には、会津藩からは松平容保・喜徳父子と一緒に萱野権兵衛も出席しました。この際に「戦争責任は家臣にあるので、容保父子には寛大な処置を」という内容の嘆願書を提出して式は終了しました。
 萱野権兵衛はまもなく、江戸に送られる容保の一行と共に会津を離れ、江戸の久留米藩有馬家に喜徳とともに謹慎しました。

 新政府軍では直ちに会津藩の戦争責任が追求されました。
 その結果、「松平容保の罪を一等さげ死罪を許すが、会津藩により首謀の者を出頭させるべし」との命が下されました。
c0187004_850138.jpg このとき名乗り出たのが萱野権兵衛でした。
 「会津藩では家老田中土佐・同神保内蔵助・同萱野権兵衛の三人が戦争を指導した。しかし土佐と内蔵助はすでに切腹しており、権兵衛が謹んで裁きをうける考えである」と申し出て、会津藩における一切の戦争責任を一身に引き受けたのでした。
 
 そして明治2年5月18日、権兵衛に対し切腹が命じられました。
 実は、新政府の命令は「斬首」だったそうですが、萱野権兵衛の名誉を重んじ「切腹」が許されたと言われます。
 切腹の場所は飯野藩保科家とされました。
 飯野藩保科家は、会津藩松平家の親類大名で、照姫は上総飯野藩前藩主保科正丕(ほしな まさもと)の娘で、飯野藩保科家から会津藩に養女として入った関係があります。
 やがて、有馬家に権兵衛の切腹の場に当てられた飯野藩保科家から迎えが来ました。
 萱野権兵衛は、保科家で、松平家の家臣たちに別れをつげ静かに別室に入り、見事な最期を遂げました。
 時に権兵衛享年41歳でした。
 萱野権兵衛の遺体は、保科家により、白金の興禅寺に運ばれて埋葬されました。
 権兵衛の墓は、興禅寺の墓所入り口に、神保修理の墓と並んであります。(上段写真)
 興禅寺のお墓には、萱野権兵衛の諱(いみな)が刻まれています。 
 また、墓は会津若松市の天寧寺の萱野家の墓所にもあります。(下段写真)
 こちらには、「報国院殿公道了忠居士」という戒名が刻まれています。
 天寧寺の墓は、明治29年に妻のタニが亡くなった後、二人の戒名を並べて刻んで建てたのだそうです。

 現在も5月18日には墓前祭が行われているそうです。
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by wheatbaku | 2013-07-29 08:40 | 大河ドラマ | Trackback
日新館②(八重の桜第29回「鶴ヶ城開城」 )
 昨日の続きで、今日は、復元された「日新館」について書いていきます。
  
c0187004_16112186.jpg 日新館は、会津戦争で焼失しましたが、図面などが残っていたため、昭和62年3月に会津若松市河東町に完全復元されました。
 総面積3万8千坪あり、総工費は34億円を費やしたそうです。
 会津市内と言って市街地からは離れているため、会津若松駅からはバスでいくかJRで「広田」駅まで行ってタクシーでいくことになるようです。
 現在の日新館は、弓道場・武道場もり、研修施設や宿泊施設も兼ねているため、各種の武道団体も練習や合宿に利用されているそうです。

c0187004_16105995.jpg南門
 南門は、日新館の正門です。
 江戸時代は上級武士や藩士のみが使用を許されました。
 一般の生徒は東門か西門を利用していました。
 現在の門に掲げられている「日新館」の文字は、会津松平家13代当主松平保定氏が書いたものだそうです。


c0187004_16123055.jpg戟門(げきもん)
 南門をくぐると見えてくる門です。
 戟門は、もともと重要な建物を守る衛兵が「戟」という武器を持って監視をしていたことに名前の由来があります。
 門の左側には大きな太鼓がありこれを打って授業の時刻を知らせていました。


c0187004_16121959.jpg東塾
 戟門の両翼には、東塾と西塾がありました。 東塾と西塾があわせて「素読所」と呼ばれていた初等教育の校舎でした。
 藩士の子弟は10歳で入学すると、まずは論語を中心に漢文の読み方を学習しました。
 また、12歳になると書道を学びました。書道は特に重要視された教科の一つでした。


c0187004_1626142.jpg大学(講釈所)
 大学には素読所を卒業した五百石以上の長男と、成績・人物ともに優秀な者だけが入学を許されました。
 等級は、下等級、中等級、上等級と三等級あり、年一回試験があり、中等級に進んで将来有望なものは江戸の昌平黌や他藩の藩校への留学制度がありました。


c0187004_1613250.jpg大成殿(たいせいでん)
 大成殿は、孔子を祀った建物です。
 銅板瓦葺で、屋根までの高さ10.7メートル、軒まで6.2メートルあります。
 中には、大理石でできた孔子像が中央に置かれています。
 孔子像は、高さ160センチで重さ2トンあります。


c0187004_16132160.jpg水練水馬池(すいれんすいばいけ)
 日本初のプールといわれ、周囲85間(約153m)ありました。 会津藩では向井流の泳法を学習しました。
 水馬や甲冑を着たままの水練もあったそうです。
 藩校で水練場を備えていたのは、ほかには萩の明倫館(山口県萩市)だけでした。


c0187004_16142100.jpg武講(ぶこう)
 武講は、兵学を研究する所です。
 現在でいえば、防衛大学校のような学校だそうです。
 武講は、日新館のなかで、唯一軍事奉行の配下にありました。
 藩士の長男は18歳になれば武講で講義を受けなくてはなりませんでした


c0187004_923138.jpg武道場
 武道場は、剣術と槍術の道場です。
 素読所に入った子弟は15歳になると、これらの武道も必修科目に加えられました。
 午前中の学問の講義が終ると、午後は武学寮にある各道場へ行って、武道の稽古に汗を流しました。


c0187004_16145749.jpg木馬場
 会津藩の馬術は、大坪流でした。
 乗馬の型の稽古は、日新館内にある「木馬場」で行なわれました。
 文字通り、木馬にまたがって「型」の稽古をするのでした。
 

c0187004_1625538.jpg天文台
 冬至には、ここで天体を観測し暦を作ったと言われています。
 他藩の藩校で天文台を持っていたのは薩摩の造士館、水戸の弘道館だけでした。

c0187004_16151369.jpg砲術場
 砲術には、稲留・種子島・夢想・自由斎・荻野・一味・永田・新格・諸葛・高島の諸流がありました。
 角場(射撃場)は、日新館内のものは5区画しかなかったため、各流派がそれぞれに日程を調整しつつ使用して教授したようです。


c0187004_163183.jpgJR広田駅
 日新館は、会津若松市河東町にあります。
 最寄駅は、JR磐越西線「広田駅」です。
 その広田駅で、電車を待っている間、磐梯山がきれいに見えましたので写真に撮りました。
 「綺麗な磐梯山」、そして「のどかな駅の風景」に魅了された広田駅でした。
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by wheatbaku | 2013-07-25 09:12 | 大河ドラマ | Trackback
会津藩校日新館(八重の桜第29回「鶴ヶ城開城」 )

 会津戦争で、1か月間もの籠城戦を戦えたのは、それを耐え抜くだけの会津魂があったからだと思います。
 そうした会津魂を築きあげるうえで、藩校「日新館」の役割は大きかったと思います。
 そこで、今日からは、会津藩の藩校「日新館」について書いてみます。

  「日新館」は、寛政10年(1798)、5代藩主松平容頌(かたのぶ)に仕えた家老田中玄宰(はるなか)の進言により設置されました。
  会津藩の御用商人であった須田新九郎が新築経費を寄付し、5年間かけて享和3年(1803)に完成しました。
c0187004_894526.jpg 場所は、若松城の西出丸の西隣に堀を挟んで建築されました。
 東西約120間、南北およそ60間、広さ7200坪という広大な敷地がありました。
 しかし、会津戦争が始まると、傷病者の収容所として利用されていましたが、若松城下に新政府軍が侵攻した際に、敵に占領されるのを防ぐため、会津藩の手により焼失しました。
 現在は、会津若松城趾西側に天文台跡だけが残っています。(右写真)

 「日新館」という名前は、「書経」から「日々新而又日新」から名付けられました。
 通常藩校というと学問を学ぶ「文」の学校というイメージがありますが、日新館の場合には、「武」つまり剣道、弓道なども学ぶ文武両道の学校でした。
 そのため、剣道場、弓道場、さらには水練場までも備えた藩校でした。

 当時の会津藩の上級藩士の子弟は10歳になると全員日新館に入学しました。
 最初に入学するのが「素読所」です。名前の通り、素読中心の授業でした。
 教科書は、「論語」、「孟子」「中庸」「大学」などでした。
c0187004_8125868.jpg 素読所は、四等級から一等級まであり、四等級から三等級へは、11の教科書の素読が済むと試験なしに進級できましたが、三等級からは試験があり、これに受からないと進級できませんでした。
 従って、個人ごとに進級度合いが異なります。
 平均的には18歳で一等級卒業となっていました。
 また到達しなければならない等級も決められていて、500石以上の長男は一等級まで進むことが義務付けられていました。
 年をとっても進級できないと藩の役職につかせず勉学を続けさせました。また罰金もとられました。
 成績の悪い生徒は長男の場合35歳まで、次男以下は21歳まで勉強しなければなりませんでした。
 12歳になると素読所の二階にある書学寮で書道の勉強がはじまりました。
 書道も四等級までありました。

 素読所を修了した者で成績優秀者は講釈所(大学)への入学が認められました。
 大学は、下等、中等、上等の三等級ありました。
 中等で優秀な者には江戸の昌平黌や他藩の藩校への遊学が許されました。

 日新館には、選択科目もあり、礼法、神道、雅楽、和歌、数学、天文、医学などを学びました。

 日新館の西北角には、「観台」と呼ばれる天文台もありました。
 日新館は、戊辰戦争の際に、焼失しましたが、天文台の一部だけが残っています。

 日新館では、「文=学問」のほか、「武=武道」も学びました。
 武道は、刀、槍、弓、馬の4科目が必須でした。
 これは、それぞれ流派がいくつかあり、生徒は、その中から自分の好むものを選択することができました。
 その他、選択科目として、「砲術」「柔術」「居合術」「水練」などがありました。
 日新館、それぞれの練習場があり、鉄砲を練習する  も設置されていました。特に水練で使った水練水馬池は、日本初のプールと言われています。
 
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by wheatbaku | 2013-07-24 08:13 | 大河ドラマ | Trackback
  

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