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五稜郭開城(箱館戦争史跡めぐり⑭)

五稜郭開城(箱館戦争史跡めぐり⑭)

慶応4年5月11日の新政府軍の旧幕府軍への総攻撃により、旧幕府軍の劣勢が明らかにとなり、残るは、五稜郭、千代ヶ岡陣地、弁天台場だけとなりました。

 5月12日、新政府軍から降伏勧告の使者が箱館病院にやってきました。

 箱館病院長の高松陵雲は、新政府軍の意向を受けて、五稜郭にいる榎本武揚と松平太郎に手紙を書きました。

 これに対して榎本武揚は、降伏はしない旨の回答を高松陵雲に返してきました。

 それとともに、榎本武揚がオランダに留学した際に入手した「海律全書」2冊を、将来に役立つ書物であり戦火で灰にするのは惜しまれるからと言って、黒田清隆に届けるよう伝えてきました。

 「海律全書」とは、万国公法であると言われています。

幕末で「万国公法」と言う場合は、坂本龍馬も学んでいて「いろは丸」事件の際にの利用し、慶応4年には西周が発行した「万国公法」を指すことが多いようです。

この場合の「万国公法」は北京にいた米国人宣教師マーチンがアメリカの国際法学者ホイートンの「Element of International Low(エレメンツ・オブ・インターナショナル・ロウ)」(江戸検のお題テキストでは「国際法入門」となっている)を1864年に中国語訳し「万国公法」の名で刊行したものを指してします。

 「海律全書」も『万国公法』とよく言われるので、ホイートンの「Element of International Low(エレメンツ・オブ・インターナショナル・ロウ)」を原著とするのかどうか調べました。

 すると大山柏著「戊辰役戦史」には、「海律とは、仏国オルトーンン著「海上万国公法」のことである」と書いてあるので、「海律全書」と「万国公法」は別の本のようです。

 日本の将来を考えて「海律全書」を戦火に焼失させまいとする榎本武揚に感激した黒田清隆は、酒五樽を届け感謝の意を表しました。

 黒田清隆が贈りかえしたものは、酒五樽とまぐろ5本と書いてある本もあります。

 法律書のお礼に贈ったものが酒というのが薩摩出身の黒田清隆らしいといえば黒田清隆らしいと思いました(余談ながら・・)

 贈られてきた酒を前にして榎本武揚側は、毒入りではないかと疑い、手を出しかねていましたが、額兵隊の星恂太郎が無造作に柄杓ですくって呑み始めたのにつられて他の人たちも呑み始めたそうです。

 

 12日に続いて新政府軍側からの降伏勧告は続きます。

13日には弁天台場へ新政府軍から榎本武揚への取次依頼があり、さらに翌14日には再び弁天台場へ新政府軍軍監田島圭蔵がやってきて榎本武揚への取次を依頼したため、榎本武揚は田島と千代ヶ岡陣地付近で会い、榎本武揚は降伏を拒否しました。

15日には千代ヶ岡陣地の中島三郎助へ降伏勧告がされましたが、中島三郎助はそれを拒否しました。

こうした連日にわたり新政府軍からの降伏の勧告が行なわれる中で、ついに15日には、弁天台場にこもる永井尚志や新選組が降伏しました。

しかし、16日には、あくまでも降伏を拒否した千代ヶ岡陣地の中島三郎助が二人の子供とともに戦死しました。

いよいよ五稜郭だけが残ることとなり、五稜郭から脱走する兵士も続出する状態となりました。

榎本武揚は自分が責任をとって自決する覚悟を固め、秘かに自室で切腹しようとしますが、部下に止められ、ついに榎本武揚自信が軍門に下り、残る将兵の助命を嘆願することを決意します。

そこで、17日には、総裁榎本武揚、副総裁松平太郎が、五稜郭近くの亀田八幡宮まで出向いて、新政府側の黒田清隆らと降伏交渉が行なわれました。

 会談では降伏条件が決められた後、酒盛りが行なわれるほど和やかな交渉でした。

 交渉が行なわれた亀田八幡宮の拝殿は、現在も残されています。

 交渉は、当時の本殿で行われたそうですが、新しい本殿が建築され、旧拝殿  として残されています。拝殿の羽目板には当時の銃弾の跡も残されています。

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 旧拝殿の前には、「箱館戦争降伏式之地」記念碑が有志によって建立されています。題字は榎本武揚の曾孫・榎本隆充氏の揮毫です。上の写真の手前の記念碑です。

 こうして、降伏条件が決定し、翌5月18日、総裁榎本武揚、副総裁松平太郎、陸軍奉行大鳥圭介、海軍奉行荒井郁之介が新政府軍の軍門に下り、五稜郭は開城しました。

 以上で、箱館戦争ゆかりの史跡めぐりは終了させていただきます。
 
 




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by wheatbaku | 2017-10-03 12:07 | 『幕末』 | Trackback
土方歳三の最期(箱館戦争史跡めぐり⑬)

土方歳三の最期(箱館戦争史跡めぐり⑬)

今日は、土方歳三の死について書いていきます。

5月11日の新政府軍の総攻撃のなか、土方歳三は死去します。

土方歳三は、4月29日、二股口から五稜郭に引き上げました。

その後、5月1日は、弁天台場に行き、新選組の面々と再会しました。

5月11日に新政府軍の総攻撃が始まると、黒田清隆に指揮された新政府軍の奇襲部隊は、箱館市内の各所を抑え、新選組が守る弁天台場は孤立しました。

 そこで、土方歳三は、箱館市内を奪還し、弁天台場を救出するために、額兵隊、三国隊、伝習隊など500名の兵を率いて、五稜郭を出撃しました。

 そして、千代が岡陣地と弁天台場の中間付近にあった一本木関門で新政府軍と戦いが始まりました。

 その戦いの最中、土方歳三は、腰に銃弾をうけ落馬し命を落としました。

 一本木関門があったと言われる場所近くの函館市総合福祉センターの敷地内に、土方歳三最期之地の碑が建っています。

 その碑の奥には、一本木関門の模型も造られています。(下写真参照)

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 一方土方歳三は異国橋付近でなくなったという説もあります。

新選組隊士の中島登の記録には、土方歳三は、一本木関門を抜けて、箱館市内の異国橋あたりに至って、馬上で指揮しているところ銃弾にあたり落命したと書かれています。

 異国橋は、現在の市電の十字街電停近くにあった橋でした。

現在は川が埋立られてしまい、異国橋は残されていません。

 電停近くの十字街派出所が目印となります。(下参照、写真正面の建物が派出所です。)

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by wheatbaku | 2017-09-27 15:26 | 『幕末』 | Trackback
新政府軍総攻撃開始(箱館戦争史跡めぐり⑫)

新政府軍総攻撃開始(箱館戦争史跡めぐり⑫)

 新政府軍に木古内の戦いと矢不来の戦いで敗北し、土方歳三が守っていた二股口を放棄した旧幕府軍にとって、残された場所は五稜郭を中心とした箱館だけとなりました。

 その箱館を、明治2年5月11日、新政府軍は総攻撃します。

 旧幕府軍は、市街を流れる亀田川に沿って、南北5キロに亘る防御線を構築していました。

五稜郭を中心として 南は弁天台場から、一本木関門、千代ヶ岡陣屋と続き、五稜郭の北の権現台場、さらにその北に急造した台場四稜郭を北限としていました。

これに対して、新政府軍は、陸軍を二手に分けて攻撃する作戦をとりました。

箱館西方の七重浜から攻撃する部隊を主力として、北の四稜郭と権現台場、さらに千代ヶ岡陣地を攻撃しました。

このほかに、奇襲部隊を組織し、箱館山の裏側に上陸し、箱館山をよじ登り、山頂から駈け下り、箱館市内に突入しました。

海軍は、陸軍の攻撃を、艦砲射撃で援護しました。

新政府軍主力の攻撃は、夜明け前から開始され、旧幕府軍の額兵隊など圧倒していきました。

奇襲部隊は、参謀の黒田清隆が指揮し、午前4時頃、箱館山の裏側の寒川あたりに上陸し箱館山をよじ登りました。

箱館山山頂をまもる旧幕府軍軍勢は数が少なく、新政府軍はなんなく山頂を占領しました。そして一気呵成に箱館山を駈け下り箱館市内へ突入し市内を占領するとともに弁天台場に攻撃をしかけました。

しかし弁天台場では新選組を中心とした部隊が反撃し、新政府軍の占領を阻みました。

この日、海では、旧幕府軍の蟠龍が、新政府軍の朝陽を砲撃し沈没させるという成果を挙げました。

 しかし、陸では、各所を新政府軍により打破られ、旧幕府軍は、五稜郭、千代ヶ岡陣地、弁天台場だけを残すこととなりました。



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by wheatbaku | 2017-09-25 13:09 | 『幕末』 | Trackback
二股口での土方歳三の奮戦(箱館戦争史跡めぐり⑪)

二股口での土方歳三の奮戦(箱館戦争史跡めぐり⑪)

 文京学院大学の講座が9月9日にあり、その1週間後ノ17日に江戸楽アカデミーでの講座あったため、この間、箱館戦争史跡めぐりのレポートが中断していましたが、その続きを書いていきます。

 前回は4月9日に新政府軍の第一陣が乙部に上陸し、第二陣・第三陣も上陸したというところまで書きました。
 今日は、二股口での土方歳三の奮戦について書きます。

 乙部に上陸した新政府軍は江差へ向かう部隊と二股口に向かう部隊の二手に分かれました。

 江差へ向かった部隊は江差を制圧したあと、新たな部隊を編成し、木古内へも向かいました。

松前に向かった新政府軍は、17日には、海上からの艦砲射撃に援護されて、松前城の奪還を果たしました。

木古内口では、大鳥圭介率いる精鋭と新政府軍が激闘、20日までの戦いでは大鳥軍が優勢でしたが、長引けば形勢不利とみた大鳥圭介が、21日、木古内口から撤退し、矢不来に布陣しました。

 海岸線最後の要害である矢不来では、、約500人を大鳥圭介の部隊が敵の来襲を待ちうけましたが、新政府側も1500の兵で攻撃を仕かけ、海からの艦砲射撃の援護もあり、旧幕府軍を圧倒し、その日のうちに矢不来の戦いは終わりました。

 木古内と矢不来の戦いで、旧幕府軍が敗北するなかで、奮戦したのが、二股口です。

 二股口を守ったのは土方歳三の率いる衝鉾隊・伝習歩兵隊等でした。

二股口でも激しい銃撃戦が展開されましたが、土方歳三軍は優勢に戦いました。

二股口は、海から遠く、軍艦からの艦砲射撃はありません。

4月13日の戦いは、雨中の激戦でしたが、日没後も戦いは続き、土方軍は弾薬箱

を上着で覆い、雷管を懐で温めて射撃、翌朝までに3万5000発の弾薬を費やしたといいます。

 23日の戦いでも、土方歳三軍は兵力を増強した新政府軍を斥けました。

しかし、矢不来が突破されたことで、退路を遮断されることを恐れた土方歳三は退却を決断し、29日の夜、土方歳三軍は五稜郭へ帰陣しました。

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土方歳三の二股口での奮戦する様子は、五稜郭タワーの歴史回廊の中で、ジオラマで描かれていました。上の写真をご覧ください。




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by wheatbaku | 2017-09-22 07:46 | 『幕末』 | Trackback
新政府軍反攻(箱館戦争史跡めぐり⑩)

 新政府軍反攻(箱館戦争史跡めぐり⑩)

 箱館を占領された新政府は、榎本軍が蝦夷を領有するのを見逃していたわけではありません。

 10月25日青森に逃れた清水谷公考は、翌26日には新政府に軍勢の派遣を要請しました。

 新政府は、津藩、岡山藩、久留米藩の藩兵約1千名を青森への派遣を命じました。

 また秋田にいた長州藩兵約1500名も青森に向かわせました。

 そして、11月9日、山田顕義を青森口参謀に任命しました。

 山田顕義は、寒さが厳しく雪が激しい冬季に、蝦夷地を攻撃するのは無理と考え、明春に攻撃することしました。

 この後も、新政府は軍勢を増強し明治2年2月には6000名を超える軍勢が青森に集結しました。

 そして、黒田清隆が2月30日に参謀に任命され4月1日に青森に到着しました。

 一方、新政府の海軍は、榎本艦隊に劣っていましたが、アメリカが局外中立を解除したため、「甲鉄艦」が新政府に渡されることとなり、一挙に海軍力が高まりました。

 甲鉄を含む新政府海軍は、蝦夷政権が計画した甲鉄艦奪取のための奇襲作戦から起きた宮古湾海戦に勝利し、3月26日27日に青森港に入港しました。

 こうして、蝦夷地進攻の態勢が整った新政府軍は、4月6日に第一陣1500名が青森を出航し、9日に江差北東の乙部に上陸しました。

 下写真は、五稜郭タワーの歴史回廊にある乙部上陸のジオラマです。

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 蝦夷政権は新政府軍を向かい討ちましたが、多勢に無勢、さらに海からの艦砲射撃もあり、太刀打ちできませんでした。

 新政府軍は、江差に向かい、江差を守備していた蝦夷政権は戦わず松前に退却しました、

 新政府軍の第二陣400名が4月11日に江差に向かい、第三陣約3000名が4月15日に出港しました。

 こうして、本格的な新政府軍の攻撃が始まりました。

 


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by wheatbaku | 2017-09-04 20:23 | 『幕末』 | Trackback
蝦夷政権樹立(箱館戦争史跡めぐり⑨)

蝦夷政権樹立(箱館戦争史跡めぐり⑨)

箱館戦争の歴史について、今日は蝦夷政権の樹立について書きます。

 松前藩との戦いに勝利した旧幕府軍は、五稜郭に凱旋しました。

 そして、蝦夷地全島が旧幕府軍により占領されたため、12月15日、蝦夷地領有宣言式が行われました。

そして同日、士分以上の者の入札(投票)によって蝦夷地経営のための首脳部が選ばれました。

 その結果、総裁に榎本武揚、副総裁には松平太郎がなり、それ以下の首脳は次の通りでした。

総裁    榎本武揚

副総裁    松平太郎

海軍奉行  荒井郁之助

陸軍奉行  大鳥圭介

陸軍奉行並 土方歳三

箱館奉行   永井尚志

松前奉行   人見勝太郎

開拓奉行  澤太郎左衛門

海軍頭並  甲賀源吾、古川節蔵等

歩兵頭    古屋佐久左衛門ほか

歩兵頭並   伊庭八郎、星恂太郎等

砲兵頭並   中島三郎助ほか

器械頭並  渋沢成一郎ほか

 榎本武揚に同行した人の中には、元老中の板倉勝静や小笠原長行、前桑名藩主松平定敬、請西藩主林忠崇などがいましたが、彼らは、一人も選出されていないのが、注目されます。

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 この政権を、「蝦夷共和国」と評価する説もあります。江戸検お題のテキスト「疾走!幕末・維新」にも、「のちに『蝦夷共和国』と呼ばれるようになる」と書かれていて、「共和国」と評価する説にたっているように思われます。

しかし、「共和国」ではないという説のほうが有力のように思われます。

ご参考にいくつか紹介します。

石井孝著「戊辰戦争論」では、「『蝦夷政権』の役員が公選されたことから、この政権を『蝦夷共和国』とよぶものもあるが、役員を公選したのが士官であることからも、このような名称をもちいるのは誤りである」と明確に否定しています。

また、函館市史には次のように書かれています。

 終始「徳川脱藩家臣」を標傍した彼らの仮政権には「蝦夷共和国」と呼べるようなものはなく、公選という行為のみに目を奪われた幻影のようなものである。しかもこの入札による公選は、入札者が士官以上(脱走軍総数の3分の1ほどか)に限定され、箱館市民はさて置き、脱走軍だけをとっても共和制といえるような公選ではなかったのである。

 12月15日に樹立された政権が「共和国」かどうかはともかく、この日、全島平定を告げる101発の祝砲が、箱館の冬空にこだまし、港内の船は五色の旗が翻えりました。

また、五稜郭周辺では、騎乗の幹部が率いる賑々しい行進も行なわれ、五稜郭では、各国領事、外国艦隊の上級士官、箱館の有力市民などが招かれ、盛大な祝賀会が催されたようです。

最上段写真は、五稜郭タワーの歴史回廊のジオラマです。榎本武揚はじめ蝦夷政権の幹部の記念撮影の様子です。


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by wheatbaku | 2017-09-01 18:01 | 『幕末』 | Trackback
松前城攻略と開陽沈没(箱館戦争史跡めぐり⑧)

松前城攻略と開陽沈没(箱館戦争史跡めぐり⑧)

箱館と五稜郭を占領した旧幕府軍は、土方歳三を総指揮者とした700名の部隊が、松前城攻撃に向かいました。大鳥圭介は五稜郭に残りました。

土方歳三が率いた部隊は、彰義隊、額兵隊、陸軍隊などでした。

松前城攻撃に向かう部隊に新選組は含まれていません。しかし、攻撃軍の指揮は土方歳三がとりました。

もうすでに、土方歳三は、新選組の指揮者にとどまらず、旧幕府軍の重要な幹部になっていたのです。

11月5日、土方歳三ひきいる旧幕府軍は、松前城を攻撃します。

 この攻撃には、海からも回天と蟠龍が砲撃を加えました

 両艦の砲撃などにより城内では火災が生じ、その中を旧幕府軍がなだれ込み、松前城は陥落しました。

 松前藩兵は、江差にむけて落ちていきました。

この戦いで松前城下では火事が盛んとなり、城下の4分の3が焼失しました。

さらに15日には、旧幕府軍に備えて急造された館城も、松岡四郎次郎率いる一聯隊約200名の攻撃を受けて落城しました。

この戦いでは、左手に俎板、右手に大刀をふりかざして、今弁慶さながら奮戦、戦死した松前法華寺住職の三上超順の名が伝えられています。

五稜郭タワーの歴史回廊にもジオラマで三上超順の門前で奮戦する姿が描かれています。

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1119日、松前藩主松前徳広は、蝦夷地を離れ、津軽まで逃れ、弘前の薬王院に入りました。まもなく、松前徳広は肺結核が悪化し25歳の若さで病死しました。

こうした陸軍の速攻と奮闘によって松前攻略に成功しましたが、旧幕府軍には海で悲劇が起こりました。

陸軍の江差攻撃の応援のため江差沖に碇泊中の開陽が、15日夜暴風雨に襲われて座礁し、数日後に沈没してしまったのです。

開陽はオランダで建造された軍艦で、当時世界でも最新鋭の軍艦で、開陽の進水式はオランダで話題になったほどです。

当然のことながら日本でも最新鋭で、榎本武揚および同行の旧幕府軍全員が最も頼りにしていた軍艦です。

これがあっけなく沈没してしまいました。

しかも開陽の救援に向かった神速丸も座礁し沈没してしまいました。旧幕府軍にとっては大きな痛手でした。

この開陽沈没はあまりにも衝撃的であったため、江差攻略を指揮していた土方歳三が、沈没する開陽を眺めながらそばにある松の木を殴りつけたという逸話が残っています。

下写真は、五稜郭タワーの歴史回廊のジオラマですが、土方歳三がこぶしを松にたたきつけている場面を描いています。

この時の松は、現在も江差町郷土資料館の前に「土方歳三嘆きの松」として現存しているそうです。

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by wheatbaku | 2017-08-29 21:57 | 『幕末』 | Trackback
五稜郭入城(箱館戦争史跡めぐり⑦)

五稜郭入城(箱館戦争史跡めぐり⑦)

今日は、旧幕府軍の五稜郭入城について書いていきます。

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10月20日に鷲ノ木沖に到着した榎本艦隊は、人見勝太郎を使者として箱館府に派遣し、翌日21日に全部隊が上陸しました。

この時期の箱館はすでに新政府に接収されていました。

慶応4年閏4月、最後の箱館奉行杉浦誠は、旧幕府の指示で、新たに箱館府知事に任命された新政府の清水谷公考に、五稜郭にある箱館奉行所を引き渡していました。

旧幕府軍は、この清水谷公考あてに嘆願書を提出するために使者を派遣したのです。

 人見勝太郎を派遣した後、旧幕府軍は、本隊と分隊に分れ、本隊は大鳥圭介が指揮し伝習隊・遊撃隊・新撰組が、大沼の西を通って五稜郭への本道を進み、海沿いの道を通って五稜郭へ向かう分隊は土方歳三が額兵隊などを指揮して進軍しました。

 10月22日の夜、旧幕府軍の本隊と新政府軍は、峠下村(亀田郡七飯町)で戦闘状態に入ります。

新政府軍が人見隊を夜襲したのが箱館戦争の始まりです。

しかし、新政府軍の夜襲は失敗し、旧幕府軍の追撃を受けることになりました。

大鳥圭介は、10月24日、部隊を2つに分けて、大野村(同郡大野町)と七重村(七飯町)に進軍します。

大野村には大鳥率いる伝習士官隊と伝習歩兵隊が向かい、七重村には人見勝太郎が指揮する遊撃隊・新撰組・工兵隊が進みました。

大野村の新政府軍は五稜郭へ引揚命令があったため、大鳥圭介隊は楽勝でした。

一方、七重村では両軍が激突し、数に勝る新政府軍が優勢で旧幕府軍は苦戦を強いられますが、斬りこみによる白兵戦で形勢を逆転し、新政府軍は敗退しました。

 敗戦の報せを受けた清水谷知事は、25日青森への撤退することにします。

諸藩の兵も外国船に高い乗船料を払って、次々に箱館港から脱出しました。

七重村に集結した旧幕府軍の大鳥圭介隊は、五稜郭を攻めるに慎重に対応し、25日は、五稜郭近くまで前進しただけです。

そして、10月26日、いよいよ総攻撃にかかり、五稜郭に向かいましたが、五稜郭はもぬけのからで、無血入城することができました。

一方、海沿いの道を進んだ土方歳三が指揮する額兵隊等の部隊は、新政府軍の抵抗はなく、25日には湯の川まで到着しており、26日、土方歳三が五稜郭に入城しました。
 鷲ノ木沖で舵の修理をしていた開陽は11月1日箱館に入港し、榎本武揚も五稜郭に入城しました。

 五稜郭タワーの歴史回廊には、五稜郭入城時のジオラマが展示されています。

 上段の写真と下の写真が、そのジオラマです。

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by wheatbaku | 2017-08-25 19:47 | 『幕末』 | Trackback
千代ケ岡陣屋(箱館戦争史跡めぐり⑤)

 千代ケ岡陣屋(箱館戦争史跡めぐり⑤)

 箱館戦争史跡めぐりの5回目は「千代ケ岡陣屋跡」を紹介します。

 函館駅から五稜郭にむかう市電の「「千代台(ちよがだい)」電停の近くにある千代台公園の陸上競技場近くに説明板が設置されています。(下写真参照)

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 昔は鶴が飛来する岡だったので、江戸中期に八代松前藩主の室自正院文子が「千世の岡」と名づけた所とされ、「干代ヶ岡」や「千代ヶ台」と呼ばれましたが、「千代ヶ岱(ちよがたい)」とも呼ばれたそうです。

 現在の説明板では、上記の写真でお分かりになると思いますが、「千代ケ岡陣屋跡」となっています。

千代ヶ岡陣屋は、幕府直轄時代の文化5年に蝦夷地出兵を命じられた仙台藩が陣屋を設営したのが最初になります。

その後、蝦夷地が再び幕府直轄となった安政2年に津軽藩が陣屋を設営しました。そのために津軽陣屋ともいわれたようです。

周囲には約3.6mの土塁が築かれ、その周りには約12メートルの堀が掘られていてき、そのなかに本陣や兵舎など建物がありました。

五稜郭を占領した榎本武揚軍は大砲を備えて陣営とし、中島三郎助らが守り、そして、ここで最期を遂げました。

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中島三郎助は、浦賀奉行所与力でした。嘉永6年、浦賀沖に突如現れた黒船に最初に乗り込みアメリカ側と交渉した経歴があります。その後、長崎海軍伝習所の第一期生となり、3年後には軍艦操練所教授方となりました。

江戸城無血開城後、榎本武揚と共に蝦夷地にやってきました。

そして、中島三郎助は箱館奉行並として千代ヶ岡陣屋の守備につきました。

明治2年5月11日の新政府軍の総攻撃により箱館市内の大部分が制圧されると、新政府軍は、中島三郎助に降伏勧告をしましたが、中島はそれを拒絶して戦闘を続け、516日に長男恒太郎や次男英次郎と共に戦死しました。

「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」という辞世の句を残しています。

 陸上競技場近くの函館税務署の入口の緑地帯には、中島三郎助父子最後之地の石碑が建てられています。

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 毎年5月の箱館五稜郭祭では碑前祭が行われるそうです。

千代台公園の隣は中島町という町名で、中島小学校という小学校もありますが、これは中島三郎助に由来する町名です。

中島小学校のある場所が千代ケ岡陣屋の本陣があった場所だそうです。

明治時代には陣屋付近一帯が函館重砲兵連隊の陣地となり、第二次世界大戦後まで兵営所でしたが、戦後、競技場や野球場のある運動公園となったそうです。

町名も干代ヶ岱町だったが昭和43年千代台となったため、市電の電停も「千代台」となっています。



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by wheatbaku | 2017-08-16 20:20 | 『幕末』 | Trackback
弁天岬台場(弁天台場)  (箱館戦争史跡めぐり④)

弁天岬台場(弁天台場)  (箱館戦争史跡めぐり④)

箱館戦争史跡めぐりの4回目には、弁天岬台場(もしくは弁天台場ともいうようです)について書いていきます。

 弁天岬台場は、現在の函館ドックの場所にありましたが、明治29年に港湾改良工事のため解体されました。

そのため、弁天岬台場そのものは残されていません。

函館市電「函館どつく前」電停のすぐそばの児童公園に「弁天岬台場跡」の説明板が設置されています。(下写真参照)

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 箱館奉行は安政元年12月9日、外国船に備える砲台などが整っていないとして、矢不来、押付、山背泊、弁天岬、立待岬、築島、沖の口番所の七か所をあげて、台場の修築ないし新築の必要を老中へ上申しました。

しかし、幕府は一挙に取りかかるのは無理と判断し、最も重要と思われる弁天岬、築島から築造することになりましたが、実際に着工できたのは弁天岬台場だけでした。

 弁天岬は港内第一の要地であるため、海岸の暗礁の上に、三方面に対応した台場を造れば、函館港と市中の防衛になると考えられました。

 台場の設計は五稜郭と同じ武田斐三郎が担当し、台場の建設費用は10万両の計画で、安政3年から工事が始まり、土や石は箱館山のものを使い、重要部分は備前御影石を大坂から運んで、文久3年に完成しました。

台場の形状は不等辺六角形をしていて、周囲は390間余(約710メートル)あり、高さ約37尺(約11.2メートル)ありました。

台場には、15個の大砲が据え付けられ、山背泊からと合わせて十字射撃できるという構想でした。大砲のうち数門はロシアのディアナ号に備えつけられた大砲を贈られたものでした。

 箱館戦争では、榎本武揚艦隊は、明治元年10月20日に蝦夷地鷲ノ木に錨をおろし、翌日上陸しますが、直接、箱館に向かわなかった大きな理由の一つに箱館港には弁天岬台場があり、そこからの砲撃を避けることがあったようです。

 榎本武揚軍が五稜郭に入城してからは、新選組など守備しました。

新政府軍が総攻撃をかけてきた明治2年5月15日に弁天岬台場は海上と箱館山側から攻撃されて台場に立て籠もっていた新選組さらに箱館奉行であった永井尚志らは降伏しました。

 このため、新選組にとって最後の拠点でした。そこで近くの児童公園の弁天台場の説明板の脇には「新選組最期の地」と書かれた標柱が建てられていました。(下写真参照)

c0187004_19021984.jpg

弁天台場には、明治20年まで陸軍省函館砲隊が入り、明治29年港湾改良で壊され、跡地に函館ドックができました。

この時の港湾改良を記念した石碑「函館港改良工事記念碑」が防波堤そばに設置されています。石碑の石は、弁天台場の土塁石垣に使用されていた備前産の御影石を再利用したものです。(写真右手が記念碑です)

c0187004_19022589.jpg




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by wheatbaku | 2017-08-14 19:00 | 『幕末』 | Trackback
  

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