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梅田雲浜・鼠小僧のお墓(南千住散歩)
 今週末に、毎日文化センターの講座「吉田松陰ゆかりの地を歩く」もあり、本業の仕事もあり、結構忙しい日々をおくっています。
 明日は、晴の予報ですし、楽しく松陰神社や豪徳寺をご案内してこようと思っていますが、最後の準備に追われています。
 そんなことで、小塚原回向院については、吉田松陰、橋本左内、桜田門外の変関係者のほかに、多くの有名人のお墓もあるのですが、今日は、その内の、梅田雲浜と鼠小僧のお墓についてだけご案内します。

 梅田雲浜のお墓は、有村次左衛門のお墓の真向かいにあります。
c0187004_09243155.jpg 墓碑には「梅田源次郎」と刻まれています。 梅田雲浜は、元小浜藩士で、雲浜の号は、若狭国小浜海岸からの由来で名づけたといわれています。
 梅田雲浜は、尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判しました。
 このため、時の大老・井伊直弼により、最も過激な人物として、安政の大獄の早い時期に摘発されました。
 捕縛後は京都から江戸に送られ厳しい尋問が行われました。
 しかし、取調べにおいても何一つ口を割らず、安政6年(1859年)に獄中で病死しました。
 流行のコレラに罹ったとも、厳しい取調べの結果病死したとも言われています。
 幕府が吉田松陰を江戸に送るように指示した理由は二つありました。
 その一つが、京都御所に幕政を批判した投書をしたのではないかという疑いでした。
 そして、もう一つ、梅田雲浜が長州に下った際に、梅田雲浜と政治的な策謀を相談したのではないかという疑いでした。
 この二つの容疑について取り調べるために吉田松陰を江戸に送れと幕府は長州藩に命令してきたわけです。
 江戸に送られた松陰は、この二つの嫌疑については、しっかりと抗弁をして疑いを晴らします。しかし、自ら 老中間部詮勝要撃計画を告白し、その結果、松陰は斬首されることになります。
 こうしたことを考えると、梅田雲浜は、吉田松陰の人生に大きな影響を与えた人物の一人ともいえます。

 鼠小僧のお墓は、橋本左内のお墓の手前右手にあります。
c0187004_09244118.jpg 墓碑には「源達信士」と刻まれていて、右に「俗名鼠小僧」と刻まれています。 鼠小僧は、実在の人物で、天保3年(1832)8月19日市中引き回しの上、獄門に処せられています。
 鼠小僧は、大名や旗本屋敷を狙って盗みに入り、盗んだお金は3120両といわれています。
 そして、講談やテレビなどでは、盗んだお金を貧しい人たちに配った義賊だと言われています。
 しかし、大名や旗本屋敷に盗みに入ったのは事実ですが、貧しい人たちにお金を配ったというのは作り話だと言われています。
 なぜ、大名・旗本屋敷を狙ったかというと、大名・旗本屋敷が意外と警備が薄いということと外聞を重んじるため盗まれたことを公表しないためだったと言われています。
 そのため、鼠小僧に複数回盗みに入られた御屋敷もあったようです。
 鼠小僧は、市中引き回しの上、獄門となりました。
 肥前国平戸藩主松浦静山は、その著書「甲子夜話」に、この獄門の様子をわざわざ家臣に見に行かせて、見物人が20から30人の見物客が集まっていたという報告を受け取っています。
 現代の私たちからすれば、獄門は残酷な刑罰で、いくら犯罪者とはいえ、生首など見たくもないと思う人が多いと思いますが、江戸時代の人たちは、それを見に行った人が行った人が確かにいたんですね。






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by wheatbaku | 2015-05-22 09:18 | 大江戸散歩 | Trackback
橋本左内の墓(南千住散歩④)
 いつも月曜日は「花燃ゆ」についてコメントしていますが、昨夜は、業務多忙で仕事をしていたため、見ることができませんでした。
 そこで、今日は、小塚原回向院の続きを書こうと思います。

 橋本左内のお墓は、小塚原回向院の吉田松陰のお墓の脇にあります。
c0187004_09535197.jpg 橋本 左内は、福井藩藩士で、将軍継嗣問題では、藩主の春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開しました。 そのため、安政の大獄により逮捕され、安政6年10月7日、頼三樹三郎と共に伝馬町牢屋敷で斬首となりました。享年26歳の若さでした。

 橋本左内が斬首された後、福井藩では、藩主松平春嶽の命を受けて吉田松陰と同じにように福井藩士が遺体を確保しようと飛び回りました。
 そして、遺体を確保することができ、小塚原回向院に埋葬し「橋本左内」と刻んだお墓が作られました。
 そのお墓は高さが75.75センチ、台石が45.45センチ、基壇が30.3センチもあり、玉垣まであるという立派なお墓だったようです。。
 回向院では、当時、罪人の墓を建ててはならないとなっていたため、遺骸の上には「木牌」つまり名前を書いた木札が建てられ、時には、石でできた標石が遺体と一緒に埋められることもありました。
 これは、罪人が埋葬されている場所を特定する程度のものだったようです。
 そうした中で、橋本左内と吉田松陰の場合には、福井藩と長州藩が動いたため、立派な石のお墓がつくられました。
 しかし、ある時回向院で解剖が行われ、たまたま町奉行所の同心が、その立ち合いに来た時に、その墓に気が付き、余りにも立派なのに驚いて、福井藩に掛け合いました。
 そこで、福井藩では、立派な墓石と玉垣を壊し、小さい「黎園(れいえん)」と刻まれた墓石を立てたそうです。
 それが、現在も残っている墓石です。
 しかし、この墓石は、ずっと小塚原回向院にあったわけではありません。

 文久2年になると、恩赦によって安政の大獄で罰せられた人々も許されました。
 そこで、橋本左内の遺骨は福井にある橋本家の菩提寺善慶寺に改葬されました。
 その際に、お墓は遺骨とともに移されました。
c0187004_09481148.jpg そして、明治10年に、橋本左内の新しい墓が作られましたが、その際に、それまでの墓石は墓所にそのまま置かれていました。 その墓石が明治26年に小塚原回向院に移されました。
 それが、現在も残っている墓石です。

 その墓を覆っている建物は套堂と云います。
 風雨にさらされるため墓石は自然に風化していきますが、それ以外左内の墓は人工的に削られていて「黎園(れいえん)」という墓碑銘は現在では読み取ることができない状態です。
 この套堂は、左内の墓石が風雨や人間の手によって破損されるのを防ぐ目的で作られたものです。
 旧套堂は、昭和8年に、景岳会により建設されました。その後、建て替えられて、現在の鞘堂は2代目です。
 景岳会は、左内の墓を保存し、左内を顕彰するために作られた組織で、福井県人会を母体とした組織です。

c0187004_09482136.jpg 鞘堂の手前には、大きな石碑があります。
 この石碑は、「景岳橋本君碑」で明治17年に、福井県関係者を中心に建てられたものです。
 橋本左内の業績を顕彰しています。
 景岳というのは橋本左内の号です。
 石碑を読むと「橋本景岳○碑」と読めます。
 しかし、荒川区の文化財関係資料を見ても「景岳橋本君碑」と書いてありますので、「景岳橋本君碑」としておきます。
 この石碑の篆額は三条実美のものです。
















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by wheatbaku | 2015-05-18 09:44 | 大江戸散歩 | Trackback
吉田松陰のお墓(南千住散歩④)
 今日も、南千住散歩の続きですが、小塚原回向院にある吉田松陰のお墓についてご案内します。

 吉田松陰のお墓は、回向院を入ると右手奥にある史蹟エリアとされた一画の奥正面にあります。
c0187004_10230560.jpg 吉田松陰が処刑されたのは、安政6年10月27日のことです。吉田松陰は、刑死直後はここ葬られました。その後で、文久3年(1863)に太夫山(世田谷区若林の松陰神社)に改葬されました。
 そのため、現在はその供養墓が残っています。 
 右写真の正面奥が吉田松陰のお墓です。
 墓碑には「松陰二十一回孟士墓」と刻まれています(右下写真ご参照)

 吉田松陰のお墓の説明の前に、処刑された人たちの埋葬がどう行われたかについてお話します。
 処刑された人々は、法的には無縁仏として扱われたため、縁のある人が、回向したり供養したりすることは許されていませんでした。
 つまり、遺族や生前交際のあった人が遺骸を受け取ったり埋葬したりお墓を建立したりすることは禁止されていました。

 そうした決まりの下で、処刑された人たちの埋葬方法は二通りありました。
c0187004_10270313.jpg 一つが「取片付」で、もう一つが「取捨」でした。 「取片付」の場合、4尺程の穴が掘られ、死体はそこに埋葬され、埋葬された場所には名前札という木札が立てられました。
 これは、6週類の死刑のうちの最も軽い「下手人」の刑となった人たちだけです。
 それ以上の牢屋敷で処刑される「死罪」と小塚原仕置場で処刑される「獄門・磔・火罪・鋸挽き」の刑罰を受けた人々は「取捨」でした。
 「取捨」は、土をかける程度に埋葬し、地上には木札もたてませんでした。
 このため、遺骸が犬に掘り起こされたりするため、実際は土が掘られ埋葬されたようです。
 

 吉田松陰は死罪となったため、本来であれば、取捨となり、遺体を受け取って埋葬することもお墓も建てることもできませんでした。
 しかし、長州藩では10両を超える賄賂を牢屋敷の役人などの関係者に贈って、死刑となった翌々日の10月29日遺骸を引き渡してもらいました。
 小塚原の回向院で引渡しを受けたのは、桂小五郎、伊藤利助(後の伊藤博文) 尾寺新之丞、飯田正伯の4人でした。
 松陰の遺骸は四斗樽に入れられ、衣類はきていなくて丸裸だったそうです。
 4人は、松陰の遺骸を洗い清め、髪を結び、各人が脱いだ衣類を着せました。
 そして、持参した大甕におさめ、墓穴を堀り埋葬しました。
c0187004_10272782.jpg 数日後にその上に墓を建てられ、墓碑には、松陰の辞世の漢詩と和歌が刻まれていたそうです。 しかし、まもなくそのお墓を取り壊されてしまいました。
 多くの本には、幕府が壊したという風に書かれているようですが、他の人々は、木札が建てられている程度の中で、松陰のお墓が立派すぎたため、幕府から長州藩に連絡があり、長州藩では恐れ入って、長州藩の手で壊したとも言われています。
 その後、文久2年8月2日に安政大獄関係者が赦免され、改葬も許されたため、墓が作くられました。
 最初の墓があまりにもお墓が大きすぎるので、2度目の墓は、めだたないように小さくしたということのようです
 こちらの墓は、「二十一回猛士」と松陰の号が刻まれていたそうです。
 
 そして、文久3年になって、高杉晋作に指揮された伊藤利助、山尾庸三、白井小介、堀真五郎の5人が、吉田松陰の遺骸を現在の松陰神社の場所に改葬しました。 正月五日、5人は、小塚原回向院で松陰の遺骨を掘り出させました。
c0187004_10280937.jpg そして、大甕に納め、現在の世田谷の松陰神社にまで運びました。 この時に、吉田松陰のお墓の近くに埋葬されていた安政大獄で刑死した頼三樹三郎と小林(良典)民部の遺骨も掘り出し一緒に改葬しました。
 そうしたことあるのかどうかわかりませんが、吉田松陰のお墓のすぐ隣に頼三樹三郎、さらに一つとばした隣に小林民部(墓碑銘には「小林其典」と刻まれています)のお墓があります。 吉田松陰の改葬の際に、上野寛永寺前の三橋の真ん中の橋は将軍しから渡ることができないとされていましたが、高杉晋作が無理やり通過したというエピソードが残されています。
 この際に、松陰のお墓は、回向院に残され、豊島彰寛氏の「隅田川の両岸、捕逸(上)」には、昭和40年代まで残されていたと書いてあります。
 その後、松陰のお墓がどうなったかは不明で、現在はお墓は、昭和18年に皇風会東京支部という組織によって建立された供養墓が建っています。






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by wheatbaku | 2015-05-15 10:15 | 大江戸散歩 | Trackback
観臓記念碑(南千住散歩③)

 神田祭は初めて見ましたがよい経験となりました。

 今回はさすが初めてでしたので、ガイドをする自信はありませんでしたが、今回見物してみて次回はできそうだなという自信になりました。

 実際にガイドするかどうかは別ですが・・・

 さて、南千住案内も途中ですので、少しずつ進めていこうと思います。

 今日は、小塚原回向院の御案内をしようと思います。

 小塚原回向院は、南千住駅の至近距離にあります。

c0187004_16142672.jpgもともと小伝馬町牢屋敷の牢死者や刑死者は、本所回向院(現在の両国回向院)に埋葬していましたが、埋葬の用地が手狭になってきたため、本所回向院住職の第誉義観(ていよぎかん)上人が幕府に用地を願い出て、寛文7年(1667)に小塚原刑場に常行堂が建てられました。

そして後に 本所回向院から独立して豊国山回向院となりました。

明治になってJR常磐線(当時の日本鉄道)が敷地内を分断することになり、墓所が線路をはさみ北側と南側に分かれてしまいました。

そこで、昭和57年にJR常磐線の線路により分断された南側が延命寺として独立しました。

 小塚原回向院は、町奉行から回向料を受けて、刑死者や牢死者の回向、また、安政21855)年には安政の大地震の犠牲者などの回向も行われてきました。

また、刑死した人の近親者から回向を頼みにくる人からのお布施をえた回向も行われていてようです。

そうしたことから、回向院には江戸時代には特定の檀家がいなかったそうです。


小塚原回向院を入ると右手に「観臓記念碑」があります。

c0187004_16145655.jpg 説明板もありませんので見落としてしまう方も多いと思いますが、入って右手の壁面に日本史の教科書でみたことがあるような銅板画がはめられています。

よくみると「観臓記念碑」と書かれているのがわかります。

 元になっているのは、高校の日本史の教科書でみた「解体新書」の表紙の絵です。

c0187004_16154122.jpg  解体新書というのは、オランダ語の「ターヘルアナトミア」を翻訳したものですが、その翻訳のきっかけとなった腑分けが明和8年(1771)にここ小塚原の刑場でおこなわれました。

 この小塚原での腑分けを記念して、大正111922)年に建立されたものです。

 明和8年3月4日、杉田玄白・前野良沢・中川淳庵らが小塚原仕置場で行われたた腑分を見に来ました。

 杉田玄白と前野良沢はオランダ語の解剖書「ターヘル・アナトミア」を持って来ていて、その図を実物とひきくらべ、その正確なのに大変おどろきました。

 そこで、帰り道3人は発憤してこの本を日本の医学のために翻訳しようと決心し、早速翌日から、前野良沢が住んでいた中津藩中屋敷(現在、築地の聖路加病院のある場所ですが)で翻訳にとりかかりました。

 オランダ語が解るのが、前野良沢だけだったので、大変苦労したそうです。

 その苦労話は、杉田玄白の「蘭学事始め」に詳しく書かれています。

 そして苦心のすえ、3年後の安永3年(1774年)についに「解体新書」をつくりあげ、日本橋室町3丁目にある須原屋市兵衛から出版されました。
 そして、幕末の医学の発展に大きな貢献をしました。

 解体新書の著者として杉田玄白が大変クローズアップされていますが、杉田玄白は、ほとんどオランダ語はわからなかったそうです。

 実際の翻訳にあたったのは前野良沢でした。

 しかし、前野良沢は、翻訳が不十分だと思っていため、翻訳者として名前を連ねるのを潔しとしなかったため、著書として名前を載せませんでした。

 そのため、解体新書の著者は杉田玄白となっています。

 観臓記念碑は、大正11年に、小塚原回向院の本堂裏に建てられましたが、戦災により碑石は破損し、由来の青銅板は戦後盗難に遭ったため、解体新書の絵扉をかたどった浮彫青銅板だけを移して、昭和34年に建てなおしたものです。 

 そして、昭和49年に回向院の本堂が建てかえられたため、現在の場所に設置されました。





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by wheatbaku | 2015-05-14 11:58 | 大江戸散歩 | Trackback
延命寺(南千住散歩②)
 

江戸検を受けられれる方は、ご存知だと思いますが、明日は「神田祭」のメインイベント「神幸祭」と「附け祭」が行われます。そして、日曜日には神輿宮入が行われます。
 お時間のある方はご覧になられると良いと思います。
c0187004_15534077.jpg


 私は、土曜日に東京で用事がありますので、見てこようと思います。
 神田明神のHPに2日間のコースが載っていますので、リンクを貼っておきます。

  神幸祭や附け祭の巡行路や神輿宮入のマップ

 さて、ちょっと間があきましたが、南千住散歩の続きで、今日は、小塚原仕置場の一部に造られた延命寺についてご案内します。

 延命寺は、もとは小塚原回向院の一部でしたが、JR常磐線の線路によって、回向院の境内が分断されたため、昭和57年に線路の南側の部分が延命寺として開山しました。
 従って、延命寺は、回向院の子院といった関係にあるといってもよいだろうと思います。

c0187004_15553197.jpg 延命寺で目立つのは本堂前にある大きなお地蔵様です。 このお地蔵様は、東京メトロ日比谷線からも見えます。

 この大きなお地蔵様が、一般には「首切り地蔵」と呼ばれている「延命地蔵尊」です。
 「延命寺」というお寺の名前は、この「延命地蔵尊」に由来するものです。
 このお地蔵様は、、刑死者を弔うために、寛保元年(1741)に建てられました。
 お地蔵様の高さは1丈2尺つまり約4メートルあります。
 この地蔵は、現場に行ってよくみていただけるとおわかりになりますが、27個の花崗岩からなる寄せ石作りです。
 その台座には造立年や当時の発願者の名前などが刻まれています。

 首切り地蔵の脇には、「南無妙法蓮華経」と刻まれた大きな石塔があります。 

c0187004_15593230.jpg これは「題目塔」と呼ばれています。 延命寺は、回向院から独立したお寺ですので浄土宗です。
 「南無妙法蓮華経」というお題目は主に日蓮宗で唱えます。
 浄土宗のお寺に、「南無妙法蓮華経」と刻まれた「お題目塔」があるのが、ちょっと不思議に感じられます。
 実は、この題目塔と同じような塔が鈴ヶ森にもあります。
 どうして、このような塔があるのか尋ねたところ、これは、日蓮宗の熱心な信徒であった京都の谷口という人が、罪人の供養のため、元禄11年(1698)に建立したものだそうです。
 なるほど、日蓮宗の宗徒の人物が、刑死者の供養のために建てたのであれば、延命寺にあっても不思議ではありませんね。
 なお、谷口氏の建てたこうした塔は、ここと鈴ヶ森のほか、全国に数多くあるそうです。
 お題目塔の後ろをみると下部に「谷口氏」と刻まれていました、


下地図の赤印が延命寺です。
JR南千住駅から徒歩3分程度の至近距離です。





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by wheatbaku | 2015-05-08 15:47 | 大江戸散歩 | Trackback
小塚原仕置場跡(南千住散歩①)
 先週土曜日に、毎日文化センターの講座「気ままに江戸散歩『吉田松陰ゆかりの地を歩く』」で南千住を案内してきました。
 南千住地区の案内は初めてでした。その為新しい発見もあり楽しいものでした。
 江戸の史跡散歩については、このブログでいろいろ書いていて、「気ままに江戸散歩」で歩いても既にブログでアップしているケースでは、細かく案内した場所の紹介を改めてアップしていません。
 しかし、南千住地区については、この間、全くブログで紹介したことがありませんので、先日の案内した場所を中心にこれから順にご案内していきます。
 しかし、「江戸の祭礼と歳事の案内」や大河ドラマ「花燃ゆ」のコメントもありますので、飛び飛びになると思いますがご容赦ください。

 今日は、小塚原刑場跡についてご案内します。

c0187004_10060421.jpg 南千住駅は、現在、JR常磐線、東京メトロ日比谷線、つくばエクスプレスの3線が通っています。 その南千住駅のすぐ南側を通過している大きな道路が、江戸時代の日光道中です。
現在、地元では「コツ通り」と呼んでいます。
 この「コツ通り」は、南千住駅の日暮里側で線路と交差していますが、地上を通っていません。
 常磐線、日比谷線は高架で、つくばエクスプレスは地下となっていますが、前記の鉄道3線の外に、隅田川貨物線という貨物専用鉄道がコツ通りと交差しているため、コツ通りの車道は地下を通過し、歩道は、歩道橋となっています。
 その歩道橋に上って南西側を眺めると、都バスの南千住車庫(右下写真)があります。
 この都バスの車庫から小塚原回向院までの間が、小塚原刑場の跡です。
 小塚原刑場は、江戸時代には「仕置場」と呼ばれていましたので、以下は小塚原仕置場と書きます。

 冒頭に「小塚原」の読み方について書いておきます。
「小塚原」は、一般的には「コヅカッパラ」と呼ばれることが多いように思います。
 南千住散歩にご参加の方に尋ねても「コヅカッパラ」と読んでいるという人がほとんどした。
 しかし、杉田玄白の「蘭学事始め」を読むと「骨ケ原」と書いてあります。
 「コツカハラ」もしくは「コツガハラ」と読んでいたと思われます。
 また、地元の人は「コツカッパラ」と読んでいるそうです。
 そういえば旧日光道中は、地元の看板には「コツ通り」と書かれています。
 「コツ通り」というのは「コツかっぱラ」という地名から付けられてそうです。
 こうすると地元の人が呼んでいる「コツカッパラ」あたりが、もっともポピュラーのような気がします。
 ただし、その後「博覧強記」を確認したら「こづからはら」とふりがなが振ってありました。
 いろいろな読み方がありますね。
 史跡案内では、地元重視で「コツカッパラ」と読んでおきました。

c0187004_10064846.jpg 小塚原仕置場は、鈴ガ森とともに,江戸の二大仕置場の一つです。 小塚原仕置場は、間口が60間、約100メートル、奥行きが30間、約50メートルあったそうです。
 この仕置場が設置された年は明確にはわかりませんが、寛文7年からそう長くさかのぼらないといわれていて、明治6年7月に廃止されるまで約200年の間、20余万人もの人が処刑されたと言われています

 江戸時代の刑罰は、主に死刑と追放刑ですが、死刑には、軽いほうからいって、下手人、死罪、獄門、はりつけ、火罪、のこびり挽きと6種類の刑がありました。.
 詳しくは、以前書いた 江戸時代の死刑(江戸時代の刑罰) をご覧ください。
 このうち、下手人と死罪の刑の執行は、小伝馬町牢屋敷で行われました。
 小塚原仕置場と鈴ヶ森仕置場場で執行された処刑は、獄門、はりつけ、火罪、のこびり挽きが行われました。
 ただし、獄門の場合には、斬首は牢屋敷で行われ、晒が仕置場で行われました。

 二つの仕置場における死刑執行は、公開の場でおこなわれました。
 しかも、小塚原仕置場の前面は日光道中ですので、小塚原の刑場は、街道に面してします。鈴ヶ森の仕置場場も東海道に面しています。
 どうして、大勢の人が通る街道筋に、残虐な死刑執行を行う刑場があり、死体や首がさらされるのかと疑問に思う方が多いと思います。
 江戸時代の刑罰に対する考え方は、見懲らしめ主義と言って、刑の執行を大勢の人に見せて、懲らしめるという考え方でした。
 簡単にいうと、悪いことをするとこんな残虐な刑罰がまっているんだよということを知らしめて、犯罪を予防しようという考え方だったわけです。
 ですから、極力、死刑執行が大勢の人に見えるようにしたわけです。
 市中引き回しとか、日本橋での晒なども、すべて見懲らしめ主義に基づくものです。

 赤印が都バス南千住車庫青印が小塚原回向院です。



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by wheatbaku | 2015-05-01 10:58 | 大江戸散歩 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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