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徳川慶喜屋敷跡(巣鴨食文化散歩3)
 巣鴨食文化散歩の3回目は、「徳川慶喜屋敷跡」のご案内です。

 「徳川慶喜屋敷跡」は、巣鴨駅の駅前にあります。巣鴨駅から白山通りを横断歩道で越えて徒歩1分で到着します。
c0187004_10542670.jpg 説明板は、白山通り沿いの歩道に建てられていますが、ローソンの目の前に建っていますので、ローソンさを目印にするとすぐに見つかります。

  徳川慶喜は、新政府から慶喜追討令が出されたのを受けて、寛永寺、水戸講道館で謹慎した後、静岡で謹慎し、謹慎が解除された後も静岡で暮らしており、東京に戻ったのは明治30年でした。
 そして、徳川慶喜は、明治30年から4年間、巣鴨に住んでいました。

 慶応4年の鳥羽伏見の戦いでの敗北後の、徳川慶喜の足取りの概略を書くと次のようになります。

 徳川慶喜は、慶応4年1月3日の鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れた後、1月6日には、会津藩主松平容保や桑名藩主松平定敬などごく少数の要人とともにこっそり大坂を軍艦で脱出し、12日に江戸に逃げ帰ってきます。
c0187004_10545224.jpg その1か月後の2月12日に、 江戸城を出て上野寛永寺大慈院に謹慎し、江戸城が無血開城した慶応4年4月11日には寛永寺を出て水戸に行き弘道館にて謹慎をしました。
 そして、閏4月29日に徳川家は田安亀之助が相続することとなり、5月25日 徳川家達は駿府70万石に封じられました。
 これに伴い、7月19日 慶喜、水戸より海路駿府に移り、23日に静岡にある宝台院に入り謹慎しました。
 翌明治2年9月28日慶喜は、謹慎が解除されます。
 そこで、10月5日に、静岡の 紺屋町の元代官屋敷に居を移します。
 明治4年8月27日、徳川家達は東京に転居しますが、慶喜、引き続き静岡に止まりました。
 そして、明治30年まで、静岡で暮らすのですが、政治には全くかかわらず趣味の世界に没頭し悠々自適の生活を送ります。
 慶喜が趣味としたものは、鷹狩り、投げ網、狩猟、囲碁、自転車、写真など多岐に亘っていることで有名です。
 明治21年3月6日には、静岡市の西草深町227番地の新しいお屋敷に写っています。
 そこで約10年を過ごした後、巣鴨の地に移り住んだのは明治30年11月19日のことです。
 巣鴨に移った翌年3月2日には皇居に参内し、明治天皇に拝謁しています。
  徳川慶喜の巣鴨邸は、中山道(現白山通り)に面して門があり、奥行きは約200mありました。
 (右二段目写真参照)
 庭の奥は故郷水戸に因んだ梅林になっており、町の人からは「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ親しまれていたといいます。

c0187004_10551521.jpg しかし、明治34年に、小日向第六天町(現文京区小日向一、二丁目)に転居しました。
 徳川慶喜の小日向の屋敷跡は、現在国際仏教学大学院大学となっています。
 転居した理由は、巣鴨邸のすぐ脇を鉄道(現在のJR山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌ってのことだそうです。
 徳川慶喜は、第六天町に転居した後、大正2年に享年77歳でなくなっています。

 赤印が徳川慶喜屋敷跡です。

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by wheatbaku | 2014-05-07 10:39 | 大江戸散歩 | Trackback
飯盛山②(会津若松散歩)
 昨日に続き飯盛山について書きます。 
 飯盛山の白虎隊十九士の墓の建つ広場はかなり広く、そこには、十九士の墓のほか三十一士の墓碑やいろいろな碑が建っています。
 今日は、それらの碑のうちのいくつかを紹介します。

 
 三十一士の墓
c0187004_16273114.jpg 白虎隊十九士の墓の右手に並んでいるお墓が「三十一士の墓」です。
 白虎隊というと、飯盛山で自刃した人たちがすべてのような印象があります。
 先日、ご一緒した皆さんも同じ印象をもっていましたが、白虎隊は、士中一番隊、士中二番隊、寄合一番隊、寄合二番隊、足軽隊に分かれていて、全員で300人ほどの隊士がいました。
 飯盛山で自刃したのは士中二番隊37名のうちの20名です。
 そのほかの地で戦死した白虎隊士もいます。
 飯盛山で自刃した人以外の白虎隊士の墓が「三十一士の墓」です。
 内訳は、士中一番隊が3名、寄合一番隊が15名、寄合二番隊が7名、足軽隊6名だそうです。
 「十九士の墓」だけが注目を浴びますが、「三十一士の墓」も同じ白虎隊士のお墓ですので、受講生の皆さんには両方のお墓をお参りしてもらいました。


ローマ市寄贈の碑
 広場の中で、鷹が上に止まっている太くて高い石柱が、大変目立ちます。
c0187004_1628251.jpg 受講生の皆さんも「何だろう」という顔をして眺めていました。
 この太くて高い石柱は、昭和3年、ローマ市から寄贈されたものです。
 太くて高い石柱はポンペイの廃墟から発見された古代神殿の柱を利用したものだそうです。
 説明板によると、この柱は、白虎隊の武士道の精神に共感を覚えたローマ市民が寄贈したということになっています。
 さらに、次のように書かれていました。
 「表面に『文明の母たるローマは、白虎隊勇士の遺烈に、不朽の敬意を捧げんがため古代ローマの権威を表すファシスタ党章の鉞(まさかり)を飾り、永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る』と刻まれ、裏面には『武士道の精神に捧ぐ』と刻まれていました。しかし、これらの文字は、第二次世界大戦後に連合国軍によって削り取られた」

 なぜ削り取られたのか、その理由を書いた資料はありませんでしたが、調べると次のようなことがわかりました。
 この碑が作れた昭和3年当時のイタリアの首相はムッソリーニで、昭和3年はムッソリーニの独裁体制が確立した年でもあります。ファシスタ党というのはいわゆるファシスト党のことです。
 こうしたことを考慮すると、当時の時代を反映しこの石柱を戦後の連合国軍が嫌ったため、削り取られたものとだろうと思われます。

ドイツ記念碑
 広場には、ドイツ記念碑と呼ばれる石碑もあります。
c0187004_1628231.jpg  ドイツ大使館に外交官として赴任したフォン・エッツ・ドルフ氏が、白虎隊を賛美し、昭和10年に碑と十字章を寄贈したものです。碑文には、「会津の若き少年武士に贈る」とドイツ語で書かれているようです。
 この石碑は「ローマ市寄贈の碑」同様、戦後に破却を命じられました。
 しかし、茶店の老女が、石碑を床下に隠したため破却を免れたそうで、昭和28年に広場に復元されたそうです。
 これも、「ローマ市寄贈の碑」と同じく、当時の時代を反映したものといえそうです。

凌霜隊(りょうそうたい)之碑
 広場を出た脇に「郡上藩凌霜隊之碑」と書かれた石碑があります。
c0187004_16283955.jpg 美濃国郡上藩では、家老の朝比奈藤兵衛が、幕府方が勝利した時のためにと、息子茂吉(17歳)を隊長に47人を脱藩させ、幕府軍側の一隊として派遣しました。
 凌霜隊は各地を転戦し、9月6日に鶴ケ城に入りました。
 鶴ヶ城では、士中一番隊と二番隊の生存者で組織した再編白虎隊隊長の日向内記の支配下に属し、開城の日まで西出丸の防衛にあたりました。
 飯盛山に碑が建てられているのは、西出丸で白虎隊とともに戦った縁からではないのでしょうか。

 会津藩が降伏した後、凌霜隊は郡上八幡へ護送されましたが、人数は約30人だったそうです。
 郷里へ戻った隊士は、禁固の処罰を受けて入牢させられました。 
 幕府方にたって戦ったのは、藩を守るための一つの戦いでもあったにもかかわらず、凌霜隊の人々は、郡上に戻っても、肩身の狭い生き方をしたのではないでしょうか。
 でも、碑文が岐阜県の上松陽介知事の書となっていたことで救われた気持ちになりました。
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by wheatbaku | 2013-08-01 08:19 | 大江戸散歩 | Trackback
飯盛山①(会津若松散歩)
 先週の土曜日から日曜日にかけて毎日文化センターの講座「「八重の桜」ゆかりの地を行く」の受講生の皆さんと会津若松に行ってきました。
c0187004_15494651.jpg これまで、東京での史跡案内は数多くやってきましたが、東京以外ははじめてなので、いつもとは違う史跡案内になりましたが、無事に終わりました。
 受講生の皆さんも、いつの講座とは違い、観光旅行の側面もあるので、大いに楽しまれたようでしたし、お互いに仲良くなれて満足されているようでした。
 受講生の皆さんお世話になりました。

 今回、ご案内したのは、初日は飯盛山」と「鶴ヶ城」で、二日目は、「松平家墓所」、「御薬園」、「武家屋敷」、「日新館」でした。
 
 今日から、会津若松の様子を書いていきます。
 今日は、「飯盛山」の第1回です。

 飯盛山は、会津若松駅の真東にあります。
c0187004_1553146.jpg  「飯盛山」という名前の由来は、この山が飯を盛ったような形なので、この名前が付けられたといいます。
 飯盛山は、標高314mあります。
 ここはいうまでもありません、「白虎隊自刃の地」として知られています。
 「白虎隊十九士の墓」には、年間200万人ともいわれる観光客が訪れるそうです。
 今年は、「八重の桜」放映もあり、それを大幅に上回るものと思います。
 先日も、大勢の観光客が次々と訪れていました。

 飯盛山に登るのには、長い石段があります。脇にはエスカレーターもあります。
 右写真は、上からみた石段ですが、急な石段だということがわかると思います。左手にエスカレーターが写っています。
 受講生のほとんどの人が石段を登っていきましたが、息が上がる人が多かったので、自信のない方は、エスカレーターがお勧めです。

 
 石段を登りきると、広場になっていて、そこに白虎隊のお墓があります。(最上段写真参照)
c0187004_1550374.jpg 白虎隊が自刃した地は、広場から少し離れた場所にあります。
 自刃の地は狭い場所ですので、右写真のように、観光客で混雑していました。
 写真中央手前の二人が指差している方向が鶴ヶ城のある方向です。

 白虎隊士が自刃したのは、新政府軍が会津城下に侵入した慶応4年8月23日です。
 前日の22日に、攻防戦の要衝である十六橋が新政府軍に奪われ、会津藩側は、戸ノ口原で迎え撃つこととなり、白虎隊士中2番隊37名にも出撃の命令が下ります。
 23日早朝より、新政府軍との戦いが始まりましたが、会津側は多勢に無勢で敗れてしまい、白虎隊も敗走します。
c0187004_15555754.jpg そして、白虎隊士中2番隊の37名のうち20名が、飯盛山までたどりつきました。
 そして、鶴ヶ城を眺めると、 城下は早や紅蓮の炎を上げ、鶴ヶ城は全く黒煙に包まれ、天守閣などは今にも焼け落ちるかと思われるという状況でした。

 これを見て、白虎隊は、山腹に整列しはるかに鶴ヶ城に向かって決別の礼をなし、銃を捨て刀を抜き、あるいは腹を切り、あるいは喉を突いて、自刃したといわれています。

 白虎隊士が自刃した地には、石碑や供養塔、白虎隊士像が建てられています。(右上写真)

 飯盛山と鶴ヶ城との距離は、2千8百メートルほどだそうです。
c0187004_1551122.jpg 自刃の地から鶴ヶ城を見てみると、天守閣は見えるものの、詳細がはっきりわかるわけではありません。(右写真参照)
 ですから、鶴ヶ城が燃えていたのではありませんが、白虎隊士が城下が燃える炎を見て、鶴ヶ城が燃えているものと考えても仕方ないと思われます。

 飯盛山で自刃した白虎隊士は次の20名です。自刃した時刻は、午後2時から4時頃だったようです。
 
  安達藤三郎、有賀織之助、飯沼貞吉、 池上新太郎、石田和助、
  石山虎之助、伊東悌次郎、伊藤俊彦、 井深茂太郎、篠田儀三郎 
  鈴木源吉、 津川喜代美、津田捨蔵、 永瀬雄次、 西川勝太郎
  野村駒四郎、林八十治、 間瀬源七郎、簗瀬勝三郎、簗瀬武治

c0187004_15512725.jpg このうち、飯沼貞吉は、奇跡的に生き残り、飯盛山で自刃した白虎隊士は19名とされています。
 その亡くなった隊士の墓が、広場中央にあります。
 実は、白虎隊士の遺骸は、新政府軍により手をつけることを禁じられていました。
 約三ヶ月後村人により、密かにこの近くの妙国寺に運ばれ仮埋葬され、後に飯盛山に改葬されたのだそうです。
 明治16年に初めて塚が作られ1本の石碑が建てられ、明治23年に十九士の墓が建てられました。
 現在のように整備されたのは、大正14年~大正15年にかけてだそうです。
 墓碑はイロハ順に並んでいました。

 墓碑の前で説明をしていましたら、突然音楽が流れ始め剣舞が始まりました。
 そこで、ガイドは中断して、剣舞に注目しました。 女性の剣舞でした。
 バックに流れていた歌は、かつて聞いたことのある次の歌でした。

c0187004_175393.jpg 戦雲暗く 陽は落ちて
  弧城に月の影悲し
  誰が吹く笛か 識らねどんも
  今宵名残の 白虎隊

 紅顔可憐の 少年が
  死をもて守る この保塞
  滝沢村の 血の雨に
  濡らす白刃も 白虎隊

 詩吟
  南鶴ヶ城を望めば砲煙あがる
  痛哭涙を飲んで且彷徨す
  宗社亡びぬ 我が事おわる
  十有九士腹を屠って斃る

 飯盛山の 山頂に
  秋吹く風は 寒けれど
  忠烈今も 香に残す
  花も会津の 白虎隊
  花も会津の 白虎隊
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by wheatbaku | 2013-07-31 08:57 | 大江戸散歩 | Trackback
渋沢栄一旧邸跡(日本橋兜町)
 昨日は、常盤橋の渋沢栄一像の紹介をしましたが、日本橋には、渋沢栄一の旧邸跡が日本橋兜町にあります。
 そこで、今日は、この渋沢栄一旧邸跡をご紹介します。

 渋沢栄一は、日本の資本主義の父を呼ばれるほど多くの企業の設立に関与していますが、渋沢栄一が設立した会社で最も有名なのが、日本最初の銀行である「第一国立銀行」(みずほ銀行の前身)でしょう。
c0187004_16385598.jpg 「第一国立銀行」は、明治6年(1873年)に兜町の渋沢栄一の私邸内に創設されました。
 当時の建物は、錦絵にもかかれるほど有名な建物で、東京の新名所だったそうです。
 第一国立銀行は、 現在は、みずほ銀行兜町支店の建物となっており、「銀行発祥の地」という銘板が銀行入り口の脇にはめ込まれています。(右写真)
 なお、「第一国立銀行」と名付けられているため、国有企業と思われがちですが、「国立銀行」とは英語の「NATIONAL BANK」を直訳した名称であり、実態は民間企業です。

 渋沢栄一は、明治10年に 深川福住町に引っ越しします。
c0187004_16391698.jpg そして、明治21年に、兜町に再び戻ってきて、辰野金吾の設計による邸宅が建てられました。(右写真は当時の邸宅を日本橋川から撮ったものです)
 辰野金吾は、日本銀行本店、東京駅の設計で有名です。
 明治34年に渋沢栄一が飛鳥山(東京都北区)に移りますが、その後は、渋沢事務所として使用されました。
  大正12年9月1日の関東大震災で、兜町一体は火に包まれ、事務所も全焼してしまいました。
 その後に、昭和3年、東京株式取引所によって渋沢栄一邸の跡地に日証館が建設されました。
 「日証館」は東京証券取引所の付属施設で、中小の証券会社のための貸しビルとして造られ、現在も賃貸オフィスビルになっています。
c0187004_16393054.jpg 当初は東株ビルディングと呼ばれましたが、昭和18年の日本証券取引所設立後に日証館と呼ばれるようになりました。
昭和21年には、取引所市場は閉鎖されましたが、21年5月から昭和24年に東京証券取引所が設立されるまでの間、日証館一階の事務所で取引所取引に代わる集団取引が行われていたそうです。

 左上の日証館の写真ですが、日本橋川からも日証館はよく見えたのですが、写真を撮る時間がなかったため、東京証券取引所側から撮った写真を掲載しました。




 
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by wheatbaku | 2013-05-07 16:15 | 大江戸散歩 | Trackback
鷹見泉石記念館(茨城県古河市)
 ゴールデンウィーク前半が終わりました。私は今日からお仕事ですが、皆さんはゴールデンウィークはいかがでしたでしょうか?
c0187004_917062.jpg 28日の日曜日は、茨城県の古河市に所用がありました。そして時間がちょっとありましたので、「古河歴史博物館」と「鷹見泉石記念館」に寄りました。
 そこで、今日は「鷹見泉石記念館」についてご案内します。

 鷹見泉石といっても、その名前を聞いてピンとくる人は少ないと思いますが、インターネットで「鷹見泉石」で検索して、出てくる肖像画を見てください。
その肖像画は見たことがあると思われる方が多いのではないでしょうか。(本当は、肖像画の画像を入れるのがいいのですが、著作権上問題がありそうなので掲載をやめました。ネットで検索してみてください)
 その肖像画は、渡辺崋山が書いた鷹見泉石の肖像画で、国立博物館が所蔵して国宝に指定されているものです。


 この鷹見泉石は、幕末の古河藩の家老でした。
c0187004_9172844.jpg 天明5年(1785)、土井氏代々の家臣、鷹見忠徳の長男として、現在の古河市で、当時、四軒町といった地に生まれました。泉石は引退後の名前で、実名は十郎左衛門忠常といいました。
 生誕地には碑が建てられていました。
 鷹見泉石は、11歳より藩主土井利厚・利位の二代に仕え、ついには江戸家老に進み敏腕をふるいました
 藩主土井利位(としつら)が大阪城代であった折りに「大塩平八郎の乱」で鎮圧にあたりました。
 また、優れた蘭学者でもあり、数多くの研究資料の収集にあたりました。そのため、渡辺崋山との交流も生まれました。

 「鷹見泉石記念館」は、隠居後の鷹見泉石が最晩年を送った屋敷を公開しているもので、平成2年、「鷹見泉石記念館」として開館されました。
c0187004_9174768.jpg 「古河歴史博物館」の近くにあり、歴史博物館の別館の位置づけのようです。
 建物は、寛永10年(1633)古河城主・土井利勝、古河城の三階櫓を作ったときの残り材を使って建てたと伝えられ、もとの建坪は100坪もあり(現在の2倍以上)、屋敷全体は東西に長い他に比べて一段と広大な(現在の4倍以上)ものだったそうです。
 長屋門は、再建されたものですが、母家は、修復されているものの当時のものだそうです。
 この屋敷は鷹見泉石の御子孫が現在も所有しているそうです。

c0187004_918892.jpg 鷹見泉石が使用していた書斎は泰西堂と名付けられています。
 それは、座敷の床の間に「泰西堂」という掛軸が架けられているからです。
 この軸は、長崎に来ていた清の文人江芸閣(こうげいかく)によって書かれたものだそうです。
 「泰西」とは西洋のことで、鷹見泉石が、西洋の学問を学んでいたことにちなむものだそうです。
 鷹見泉石は「泰西堂」という号も使用していました。
 写真左手の床の間に架けられているのが「泰西堂」の掛軸です。

c0187004_9182520.jpg 庭に珍木「楓樹」が植えられています。鷹見泉石は、この「楓樹」を植えたことから、「楓所」という号も持っています。、
 「楓樹」はマンサク科の落葉喬木で、日本には自生しない樹木です。
 葉が三つに分かれているのが特徴です。
 古代この中国では宮中に植えられ、それから天子のいるところを楓宸と呼ぶようになったと言われてています。
日本には、徳川吉宗が輸入し、享保12年(1727)閏正月17日に日光東照宮奥院や吹上御所に植えさせたという貴重な樹木です。
 現在でも、現存する古木の楓樹は、皇居(旧江戸城)・寛永寺など、わすかだそうです。 この楓樹は、古河市天然記念物に指定されています。


 赤印が鷹見泉石記念館です。

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by wheatbaku | 2013-04-30 09:15 | Trackback
ボードウィン(八重の桜 第17回「長崎からの贈り物」)
  昨日の「八重の桜」をご覧になりましたか?
 冒頭で、長崎でオランダ人から山本覚馬が目の治療を受けていましたね。
 その医者の名前がボードウィンとなっていました。
 そこで、今日は、このボードウィンについて書いてみます。

 ボードウィンは、本名アントニウス・フランシスカス・ボードウィンといいます。
 ボードウィンは、1820年にオランダで生まれました。
c0187004_840184.jpg 大学で医学を学び、卒業後はオランダ陸軍に入隊し、ユトレヒト陸軍軍医学校で教官を務めていました。
 1862年、先に日本の出島に滞在していた弟の働きかけにより、江戸幕府の招きを受けて来日し、ポンペの後任として長崎養生所の教頭となりました。
 医者として、特に眼科に優れていたので、山本覚馬の治療にもあったようです。

 このボードウィンの像が上野公園にあるのをご存知でしょうか?
 噴水の西側の木立の中に建てられています。
 ボードウィンの像がなぜ上野公園にあるかですが、
 明治維新後も、ボードウィンは、日本に留まりました。これは、明治維新後ドイツ医学導入を決めたものの、ドイツ人講師の来日が遅れたため、ボードウィンが大学東校の臨時講師となりました。
 当時、大学東校と附属病院は移転が決まっていました。
 上野は寛永寺の境内でしたが上野戦争で荒廃したため、ここに付属病院を建設する計画がありました。
 しかし、ボードウィンは上野の森の自然が失われることを危惧し、政府に公園づくりを進言しました。
 その結果、上野に日本で初めての公園が誕生することになりました。
 それが、上野公園です。
 こうした彼の功績をしのび、上野公園に彼の像が建てられています。

 なお、上野公園の銅像ではボードワンと刻まれています。
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by wheatbaku | 2013-04-29 08:41 | 大河ドラマ | Trackback
麻布高校【高鍋藩上屋敷跡】(六本木散歩)
今日は、六本木散歩に戻ります。

 テレビ朝日通りを六本木から広尾に向かってあるくと、右手に中華人民共和国大使館が見えてきます。

c0187004_1742685.jpg さらに進むと盛岡町交番があります。。その交差点を左に曲がり、南に向かうと間もなく麻布高校があります。

麻布高校は、開成高校と並ぶ私立名門校で、現在は中高一貫制の男子校です。
 麻布高校は現役国会議員出身高校ランキングでは3位(1位慶応義塾、2位開成高校)閣僚経験者出身高校ランキングでは2位(1位日比谷)だそうです。
 元総理や国会議員では、橋本龍太郎元総理、福田康夫元総理、谷垣禎一元総裁、与謝野馨、平沼赳夫、中川昭一など錚々たる人たちが卒業生です、
 その他、有名人では倉本聡、堤義明、小沢昭一、北杜夫などが卒業生です。

 ところで、江戸時代、ここは日向国高鍋藩(宮崎県高鍋町など)の上屋敷がありました。
 高鍋藩は、豊臣秀吉により筑前から秋月種実が移封されました。その後、初代藩主となる秋月種長が関ヶ原の戦いで東軍に寝返って本領を安堵されました。石高は3万石です。
c0187004_1745539.jpg この高鍋藩出身で非常に有名な人物が、米沢藩上杉家中興の祖上杉鷹山(治憲)です。
 杉鷹山は高鍋藩主の秋月種美(たねみ)の次男としてここで生まれました。
 幼名は松三郎といいました。
 母は筑前国秋月藩の黒田長貞の娘の春姫です。
 黒田長貞の正室は上杉綱憲の娘豊子です。
 つまり、母方の祖母が米沢藩第4代藩主上杉綱憲の娘でした。この
 ことが縁で、松三郎は1 0歳で米沢藩の第8代藩主・重定の養子となりました。
 重定は綱憲の長男吉憲の四男つまり綱憲の孫になります。春姫も綱憲の孫になるため、重定の従兄弟になります。

 ところで、上杉綱憲が、吉良上野介の実子であることは、既にこのブログでも書きましたので、ご存じの方が多いと思います。
 このことを思い出していただきたいと思います。
 もう一度、上杉綱憲と上杉鷹山の関係を復習すると、鷹山は、綱憲の孫の孫です。孫の孫は玄孫や「やしゃご」といいます。つまり鷹山は「やしゃご」になります。
 そして、綱憲は吉良上野介義央の子供であすから、鷹山は吉良上野介からみると「孫の孫の子」です。「孫の孫の子」は「来孫」というそうです。つまり、鷹山は、吉良上野介の「来孫(らいそん)」となります。

 有名な上杉鷹山には、吉良上野介の血が流れているんですね。驚きました。

 赤字が麻布高校です。

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by wheatbaku | 2013-04-23 07:57 | 大江戸散歩 | Trackback
今春のガイド予定(大江戸散歩)【再掲】
今日は、ホテルニューオータニさんのゴールデンウィークのイベントの下見で、お出かけです。
 そこで、先日書いた、「今春のガイド予定」を再度掲載します。
 5月3日は、残り少ないそうですが、5日の方はまだお席があるそうです。
 ご関心のある方ぜひご参加ください。

 ☆ ★  ☆ ★ ☆

 この春は、二つのガイドが予定されています。
 一つは、ホテルニューオータニさんの日本橋散歩
 5月3日に ホテルニューオータニのガイドを行います。
  大江戸散歩~商いの街・日本橋を歩く~と題して、日本橋を案内します。
 詳細は、HPをご覧ください。 ⇒   ホテルニューオータニ「大江戸散歩」

二つ目は、毎日文化センターさんの講座「気ままに江戸探訪」です。
 今回の講座は「八重の桜ゆかりの地をいく」と題して会津藩関連の史跡散歩を行います。
 こちらは5月25日を第一回として4回シリーズです。
 詳細は、HPをご覧ください。 ⇒   毎日文化センター「気ままに江戸探訪


ホテルニューオータニ主催「大江戸散歩」
 ホテルニューオータニさんは、江戸文化歴史検定試験の一級合格者が二けたを越えた5年前から一級合格者をガイドに招いていただいて、主にゴールデンウィークにイベントを企画し、我々一級合格者をガイドとしてお招きいただいています。
c0187004_8453730.jpg 私も、何回もやっていますが、最近は、合格者も増えてきていることと他の用事があったりすることから、一昨年・昨年とガイドの機会がありませんでしたが、今回は、江戸文化歴史検定協会からのお話もあり、ガイドをすることになりました。

 最近では、あちこちでガイドをする機会が増えてきましたが、一級合格の頃には、ガイド経験もない我々はガイドをしたくてもガイドの声をかけてくれるところはありませんでした。
 そんな中で、真っ先に、ガイドの依頼をしていただいたのがホテルニューオータニさんでした。
 大手ホテルのホテルニューオータニさんが、声をかけていただいたので大変驚いた記憶があります。
 
 そうした経緯もありますので、ホテルニューオータニさんのガイドには、恩返しという気持ちが働きます。
そのため、つい力が入ってしまうのは仕方ないかもしれません。

 ホテルニューオオタニさんのガイドは一級合格者2名で行うのが恒例となっています。
 今回のメンバーは、ブログでおなじみの次の四名でおこないます。
 5月3日  極骨(現役○○員でガイド経験豊富)、
夢見る獏(不肖私です)
 5月5日  月猫(専業主婦、ブログ「江戸・東京ときどきロンドン」管理者)
       ハカマオー(現役会社員、ハカマイラーでお墓のことならお任せ、もちろんガイドもばっちり)
 四名ともガイド経験は豊富ですので、慢心しなければ、失敗することはないベテランがそろいました。

 今回は、日本橋川を船で航行して、江戸の面影をご案内する予定です。
 現在は、運輸交通の中心は陸上となっていますが、江戸時代の物資の輸送や人の移動に船が多く使用され、特に物資の輸送は、川が主力でした。
 日本橋川のガイドは初体験ですが、そんなことが実感できる日本橋川ガイドをやってみたいと思っています。
 また、日本橋は、五街道のスタート地点でもあり、商業の中心地でもありました。
 その面影が、日本橋には色濃く残っています。これらもご案内できるだろうと思っています。

毎日文化センター講座「気ままに江戸探訪」
 毎日文化センターさんの講座は、開始して3年目になります。
c0187004_8455890.jpg これまで、平成23年度前期は「お江ゆかりの地をいく」、後期は「スカイツリーの見える」というテーマで行いました。
 平成24年度は、前期後期を通じて「忠臣蔵ゆかりの地を行く」というテーマで行いました。
 今期は前述したとおり「八重の桜ゆかりの地を行く」というテーマで4回に亘って会津藩ゆかりの地を行きます。
 東京都での史跡めぐりが中心ですが、今回は受講者の皆さんのご希望もあり、会津まで旅行して八重の桜関連史跡を楽しむ企画も織り込みました。
 
 両方の企画ともすでにお申込みいただいた方がいらっしゃいますが、お申込みいただきありがとうございます。
 また、ご興味のある方はぞれぞれの担当窓口に御問い合わせください。
 
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by wheatbaku | 2013-04-13 08:38 | 大江戸散歩 | Trackback
檜町公園(六本木散歩)
 今日は、赤坂にある檜町公園についてご案内します。
 昨日の勝海舟邸のすぐ近くに檜町公園はあります。
 檜町公園といってもピンとこない人が多いと思いますが、東京ミッドタウンは御存じの方が多いと思います。
 檜町公園は、東京ミッドタウンに隣接した港区立の公園です。
c0187004_8504892.jpg 檜町公園がある場所一帯は、江戸時代は長州藩毛利家の下屋敷があったところで、庭園は「清水園」と呼ばれ、江戸の大名屋敷の中でも名園のひとつとして知られていたそうです。
 ここの屋敷には檜の木が多かったことから毛利家の屋敷は「檜屋敷」とも呼ばれ、屋敷の東側にある坂は檜坂と呼ばれています。
 右写真は、檜坂とその標柱です。
 また、明治になってからは、檜屋敷の名前から、下屋敷があった一帯は檜町と名付けられました。

 明治時代からは大日本帝国陸軍の歩兵第一連隊の駐屯地となっていました。
 第二次世界大戦での日本の敗戦後にはアメリカ合衆国に接収され、米軍将校の宿舎として使用されました。
c0187004_8514219.jpg ここが昭和35年に日本に返還され、陸上自衛隊の駐屯地となりました。
 それとともに、防衛庁も霞が関から移転してきました。
 敷地の大部分に防衛庁が設置され、残りの部分が檜町公園として整備され昭和38年に都立公園として開園し、その後港区に移管されました。
 平成12年には、防衛庁(現在は防衛省)が市谷に移転しました。
 その跡地に平成19年に東京ミッドタウンが開発され、檜町公園も再整備されました。

 檜町公園の隣にある東京ミッドタウンは、ショッピングセンター、オフィスビル、ホテル、美術館、ホール、医療機関、駐車場、公園など、いろいろな施設から構成されています。
 最も大きな建物のミッドタウン・タワーは、地下5階・地上54階・高さ248mあり、東京都内で最も高いビルです。
 右写真は、檜町公園の池越しにみるミッドタウン・タワーです。

 東京ミッドタウンに含まれる施設には「ホテル ザ・リッツ・カールトン東京」、「サントリー美術館」などがあります。
 オフィス部分のテナントとしては、シスコシステムズ、ファーストリテイリング、富士フイルムホールディングスの本社が入っています。

 赤印が、檜町公園です。

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by wheatbaku | 2013-04-09 02:14 | 大江戸散歩 | Trackback
勝海舟邸(赤坂六本木散歩)
 今日は六本木散歩に戻りますが、六本木というより赤坂の勝海舟邸跡のご案内です。

赤坂氷川神社の参拝が終わったあと、本氷川坂を下りていくとT字路になります。そのT字路脇に「THE GRAY]というレストランがあります。
c0187004_8465728.jpg ここに勝海舟邸と書かれた木柱と説明板があります。
 ここが、幕末に勝海舟邸がありました。
 幕末の切絵図を見ると、勝林太郎と書かれています。
 江戸時代には、この辺りは氷川坂下と呼ばれていました。
 この辺りの道路は江戸時代とあまり大きな変化はないようです。 
 レストラン「THE GABY」の入っている「ソフトタウン赤坂」のビルから赤坂氷川神社の麓までが勝海舟の屋敷でした。

 勝海舟は、安政6年の6月にここに住み始め、明治元年まで住んでいました。
c0187004_8473190.jpg 勝海舟は、生まれて育ったのは本所ですが、弘化4年(1846)に赤坂田町に引っ越しました。
 勝海舟が、本所から赤坂に住まいを変えたのは、海舟が蘭学を学んだ永井青崖が赤坂
 溜池にある黒田家の中屋敷に住んでいたので、その便を考慮したものだと言われています。
 そして、嘉永3年(1850)に田町で蘭学塾を開きましたが、この頃は、大変貧乏で生活は苦しかったようです。
 その後、ペリー来航を機に、阿部正弘が広く意見を求めた際に、海舟が提出した意見書が大久保忠 の目に留まり、取り立てられました。
 そして、幕臣として活躍していた安政6年に氷川下に引っ越しました。
 そして、翌年正月には、咸臨丸でアメリカに渡っていきました。
 その年の3月3日に桜田門外の変が起きています。勝海舟がサンフランシスコにいた時に桜田門外の変が起きています。
 また、文久2年(1862)に坂本龍馬が海舟を訪ねてきたのもここにあった屋敷でした。
さらに慶応4年3月13日と14日に西郷隆盛と江戸城無血開城の談判をするため薩摩屋敷に出かけたのもこの屋敷からです。
 このように、勝海舟が最も活躍した時期に住んでいたのがこの屋敷でしたが、明治元年45歳の時に、徳川慶喜に従って静岡に移りました。

 静岡から東京に明治5年に戻りますが、それが先日紹介した旧氷川小学校の場所です。

  赤印が勝海舟邸跡です。

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by wheatbaku | 2013-04-08 08:38 | 大江戸散歩 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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