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「人むすぶ妹」(大河ドラマ「花燃ゆ」第1回)
  大河ドラマ「花燃ゆ」が始まりました。
 今回は大好きな幕末が主題となりますので、大いに期待しているところです。
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 今回の大河ドラマ「花燃ゆ」は、あくまでも主人公は、杉文(ふみ)ですが、彼女を取り巻く兄吉田松陰、最初の夫久坂玄瑞、2番目の夫小田村伊之助、松陰の弟子高杉晋作たちも準主人公といってよいでしょう。

それは、第1回ドラマが冒頭の次のナレーションで始まっていることをみてもわかると思います。

 名もなきこの若者体が後の明治維新という大変革を成し遂げることになる。
 彼らが「先生」と慕った人物こそ、山鹿流兵学指南吉田松陰。
 その松陰を愛し支えた家族がいた。歴史に名を残すことなくともささやかな暮らしの中で代々いのちをつなぎそれぞれの人生を力強く生き抜いた人たち。
 そして、多くの若者をはぐくんだ一人の女性。
 これは吉田松陰の妹・文とその家族、仲間たちが生きた激動の時代の物語である。 

 NHKのHPやテレビ雑誌には「幕末のホームドラマ」や「幕末の学園ドラマ」と書いてありますが、「花燃ゆ」は「幕末の青春ドラマ」となるのではないでしょうか。
 ですから、第1回から、吉田松陰や小田村伊之助たちはもう成人しています。
 嘉永3年(1850)の設定ですので吉田松陰は、もう21歳の成人です。
 嘉永3年といえば、吉田松陰は、九州遊学に出て、多くの人と出会い、多くのことを学んだ年です。
 ドラマの中では、少しだけ触れられていましたが、生涯の友となる宮部鼎蔵と知り合ったのも、この九州遊学でした。
 この後、吉田松陰は30歳で刑死しますが、これから5月頃まで吉田松陰の軌跡が描かれる予定のようですので、吉田松陰を中心とした激動の時代が丁寧に描かれていくのではないかという期待が持てるスタートでした。

 ところで、主人公が杉文で、その兄が吉田松陰と、ごく当たり前のように解説されていますが、事情を知らない人は、苗字が違うのになぜ兄妹なのだろうと、ちょっと不思議に思うと思います。
 そこで、吉田松陰の生い立ちをついてお話しておきます。
 吉田松陰は、文政13年(1830)、萩城の下松本村で長州藩の下級武士である杉百合之助の次男として生まれました。
 松陰の父の百合之助には、弟が2人いました。
 すぐ下の弟は大助といい、その下の弟は文之進といいました。
 このうちの大助は、山鹿流兵学師範である吉田家の養子となり、文之進は玉木家の養子となりました。
 この叔父吉田大助は28歳の時に病が重く子供がいなかったため、寅次郎(のちの松陰)は5歳で、吉田大助の仮養子となりました。
 そして、叔父の吉田大助は、翌年になくなり、寅次郎が吉田家の家督を継ぎました。
 このため、姓が杉から吉田となりました。
 しかし、寅次郎はまだ幼かったため、実家の杉家で育てられました。
 ですから、寅次郎は妹の文とも一緒に暮らしていました。
 また。第1回目にしばしば登場した玉木文之進は、実の叔父さんです。松陰が幼い頃から松陰を指導をしていました。
 松下村塾は、吉田松陰が造った私塾のように思われがちですが、実は松下村塾を開校したのは、玉木文之進です。
 正しくいうと、吉田松陰は3代目の塾長ということになります。

 今回の主人公杉文は、あまり歴史の表にたった女性ではありませんので、史料もあまり残されていないようです。そして、小田村伊之助や杉家の人たちについても史料も少ないようです。
 したがって、「花燃ゆ」が史実を忠実に再現していくことにはならないだろうと思います。
 第1回での、小田村伊之助と文や吉田松陰との出会いの場面などは、脚色されたものだろうと思います。
 しかし、大河ドラマは、あくまでも「ドラマ」ですので、「ドラマ」として楽しめればよいと思います。
 吉田松陰に関しては極力史実に近いものとなるでしょうが、その周りの人々のエピソードは創作されたものとなるでしょう。
 創作のエピソードと史実がどう絡まって展開していくのか、これからの展開が楽しみな「花燃ゆ」でした。
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by wheatbaku | 2015-01-05 09:33 | 大河ドラマ | Trackback
「吉田松陰」(山岡荘八著)を読む
 吉田松陰に関係する小説を先週から書いています。
 今日は、山岡荘八の「吉田松陰」について書きます。
 山岡荘八の「吉田松陰」は、文庫で2冊ですので、山岡荘八の小説の中では、短いほうでしょうか。

c0187004_9515079.jpg 山岡荘八の「吉田松陰」は、文庫本2冊ですが、第一巻は、幼い頃から、東北遊歴のため脱藩したため、帰藩後、士籍をはく奪されるまでが描かれていて、そして、第二巻で完結していますが、下田韜晦までで全体の四分の三が使用されています。
 つまり、下田韜晦に失敗し、小伝馬町牢屋敷入獄、長州の野山獄入獄、野山獄出獄、松下村塾での門下生育成、野山獄再入獄、江戸檻送・取調べ・死罪までが四分の一程度の割合でしか書かれていません。
 最も劇的な部分がコンパクトに描かれてもいますが、ひとつひとつの描写は、生き生きと描かれていて、さすが山岡壮八の描き方がすごいと感じました。

 それが最も現れているのが、吉田松陰が、江戸に送られる時の様子です。
 吉田松陰が、江戸に檻送されたのは安政6年5月25日ですが、その前夜、野山獄の司獄の福川犀之助は、独断で吉田松陰を松本村の吉田家に返し、両親・家族、そして門下生と最期の別れを告げさせます。
 家族は、着替えを準備し風呂を沸かし松陰をまっています。そこで、母は松陰に「必ず生きて帰れ」と言いますが、この場面などは、まさにドラマを見ているように感動的に描かれています。
 ここを読むだけでも、山岡文学の素晴らしさがわかります。

c0187004_9524943.jpg ほかに二点、印象に残った点を書きましょう。
 吉田松陰は、女性との交渉がほとんどなく、その例外が高須久子であると以前書きました。
 歴史の事実はその通りだと思いますが、山岡荘八は「吉田松陰」の中では、高須久子には全く触れていません。
しかし、吉田松陰の淡い恋愛を創作しています。
  吉田松陰は、全国を旅して歩いていますが、最初の遊歴が、21歳の時の九州遊歴です。
 この時は、平戸、長崎、熊本などを訪ねています。
 平戸は、平戸藩松浦家の家老扱いであり山鹿流兵法の宗家である山鹿万介から、免許皆伝を受けるために滞在していました。
 山鹿万介は、山鹿流の始祖山鹿素行の子藤助高基が平戸藩の軍学師範として招かれて以来の家柄であり、江戸の山鹿素水とともに東西の両宗家でした。
 吉田家は、代々山田流兵学をもって長州藩に仕える家柄でしたので、吉田松陰も免許皆伝を受けるため山鹿万介に学んでいます。
 平戸に滞在している際に、平戸藩の儒学者葉山左内の娘珠江と淡い恋愛に陥るという風に、山岡壮八は描いています。
 平戸市には、吉田松陰が宿泊した紙屋跡が史跡として残されているのですが、研究書を見ると、葉山左内の娘珠江という人物は全く出てこないので、珠江との恋愛は山岡壮八の完全な創作のようです。

 この「吉田松陰」で、最も印象に残った部分が、本文の最後の部分の評定所の尋問の場面と追記と書かれた山岡荘八のコメント部分です。
 吉田松陰は、江戸に送られ、7月9日に評定所で尋問を受けます。
 そして、その場で、幕府の嫌疑がかかっていた梅田雲浜との関係、そして御所への落とし文についての申し開きをした後、間部詮勝殺害計画について話してしまいました。
 この部分で、山岡荘八は次のように書いています。

 松陰は、評定所にかけられてあった罠の中へ、すすんで飛び込んだように見える。
 ところが、これを今少しく、高く大きな眼でみると、事情はがらりと逆になろう。
 この時に松陰が、善良の限りを尽くして処刑されなかったら、歴史の中に、果たして長州藩の奮起があのように速やかに、はげしく、期待できたかどうか・・・?
 長州の奮起が遅れてあれば、薩摩の事情も変わっていたであろうし、幕府の反省もああ速やかに大政奉還へ道を開くことにはならなかったろう。
 その意味ではこの、お人好しの松陰の安政6年7月9日の法廷での失敗が、実はその後の歴史の起爆剤になってゆくのだ。

 と書かれています。
 そして、「吉田松陰」自体は、吉田松陰が、小伝馬町の牢屋敷で斬首される場面で完了しているのですが、その後に「追記」という部分があります。
 それは、斬首された吉田松陰を遺骸の処理とお墓をどうしたかについて書いている部分です。

 吉田松陰が斬首された後、小塚原の回向院に送られため、長州藩士の桂小五郎、伊藤俊輔(のちの博文)、尾寺新之丞、飯田正伯が急行し、ここで松陰の遺骸を受け取り、お墓を建てました。
 こうした事情が書かれた後で、次のように書かれています。

 中央に、「松陰二十一回猛士」と彫らせ、右に「安政己未十月念七日死」、左に「吉田寅次郎行年三十歳」と彫り、右側面には「吾今為国死、死不背君親、悠々天地事、鑑賞在明神」の辞世の詩を、そして左側面には「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂」と「留魂録」の冒頭の歌を刻ませてあったというのだから、門下生の憤怒の激しさがわかるであろう。
 むろんこれは間もなく幕府の命でこわされた。
 しかしこの怒りが、そのまま長州の維新運動を驀直にすすめてゆく原動力になったことは言うまでもなく、決して松陰は、斬首と共に死んでいなかったのだ・・・

 このように、山岡荘八は、明治維新成功のために吉田松陰が果たした役割が非常に大きかったということを特に強調しています。
「起爆剤」という言葉は、それを象徴して使用している語句のように思います。
 やはり、明治維新の原点は吉田松陰にあったのですね。

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by wheatbaku | 2014-12-17 09:19 | Trackback
「吉田松陰の恋」(古川薫著)
 今日も時代小説について書きましょう。
 今日は、古川薫氏著「吉田松陰の恋」です。
 これは、同名で文春文庫から出版されていますが、その中の短編ですので、短時間で読み切れます。

c0187004_10341861.jpg 吉田松陰は、数多くの手紙や著述を残しますが、女性の影が見えないと言われています。
 司馬遼太郎氏は、「世に棲む日日」の中で「筆者はこの小説松陰のくだりを書きつづけ、女性の登場がきわめてすくないことに筆者自身ときにぼう然とする思いがある・・・・」
と書いています。

 こうした女性とのつきあいがほとんどなかった吉田松陰の交際関係の中で、唯一例外といえるのが、萩の野山獄で知り合った「高須久子」です。

 「吉田松陰の恋」は、この数少ない吉田松陰の恋愛を真正面から取り上げた小説で、高須久子が一人称で、松陰との出会いから別れまで語る内容となっています。
 高須久子は、野山獄に収監された罪人の中で唯一の女性でした。
 松陰より一回り上で、安政元年12月に松陰が入獄した時に37歳でした。
 長いこと収監されていた人々は生気がなくなっていきますが、松陰は、獄の中で勉強会や句会を開き、野山獄の淀んだ雰囲気を一変させます。
 そうした中で、高須久子は、次第に松陰に魅かれていきます。松陰も高須久子を慕うようになります。
 しかし、獄内であり、周りの人々の眼もあり、はっきりとその意思を表すことはできず、吉田松陰は、安政2年12月に野山獄を出獄することになります。
 出獄の前夜、囚人一同で送別の句会が開かれます。
 その際に、高須久子が送った句が次の句です。

  鴫(しぎ)たって あと淋しさの 夜明けかな

 実は、吉田松陰は、「松陰」という号のほか、「子義(しぎ)」という号を持っていました。
 これがわかると、この句の意味は明瞭です。
 「吉田松陰の恋」の中では、次のように高須久子に語らせています。

  鴫は、寅次郎様のもう一つの号が「子義」であることに思いつき、ひそかに准(なぞら)えたものです。

 3年後の安政5年12月、吉田松陰は、野山獄に再入獄します。
 そして、高須久子と再会します。
 しかし、二回目の野山獄での生活は、短いものでした。
 吉田松陰は、安政6年5月 江戸に送られることになりました。
 送られる前々夜、高須久子は手布巾(てふきん)を松陰に送ります。
 翌日、吉田松陰は、高須久子に歌を返します。
 「吉田松陰の恋」では、次のように描かれています。

 午すぎ、房の前を通りかかったというふりをして、「高須さん。これを・・」と、一枚の紙片を格子の間から、寅次郎様が差し出されました。「高須うしのせんべつとありて汗ふきをおくられければ」と前詞して、歌が書きとめてありました。
  箱根山 超すとき汗の出やせん 君を思ひて ぬぐい清めむ

 そして、いよいよ、吉田松陰が江戸に送られる日、高須久子は次の句をおくります。

 手のとはぬ雲に 樗(おうち)の 咲く日かな

c0187004_10382590.jpg 「とはぬ」とは「届かない」という意味です。
 「樗(おうち)」は「せんだん」という木の古い名前です。
 「せんだん」は、「栴檀(せんだん)は双葉(ふたば)より芳( かんば)し」のことわざでよく知られています。
 右写真が、「せんだんの花」です。

 これに対して、吉田松陰が高須久子に渡した句が次の句です。

  一声を いかで忘れん ほととぎす

 これについての「吉田松陰の恋」の中では、高須久子は何も語っていません。

 しかし、北海道大学教授田中彰氏著の「松陰と女囚と明治維新」の中に、詳しく書かれています。ちょっと長くなりますが引用します。

c0187004_8143780.jpg ここにいう「郭公(ほととぎす)」は松陰自身とみてよい。(中略)
 いま、永遠の別れとなるかもしれぬ別離の際の「汗ふき」に久子の心をみた松陰が、ほととぎすに己れを託し、「一声をいかで忘れん郭公(ほととぎす)」といいきったのは、いかにも鮮烈な愛の表出ではないか。獄中に苦悩する松陰と久子との間に、お互いに通ずるものがなかったならば、この一句があろうはずはない。
 久子にとって松陰は、所詮、手の届かぬ雲に映えてさく樗(おうち)であり、それだけ思いはつのったのであろうし、いま江戸送りを前にした松陰にとっての久子は、おのれの汗を女の心の「汗ふき」ににじませて、男としての愛の昇華をはかる以外に手立てのなかった存在だったのであろう。それだけに「一声をいかで忘れん郭公」はかつて久子が松陰に与えたあの「鴫たってあと淋しさの夜明けかな」の一句への万感の思いをこめた返句のように思えてならない。

 「花燃ゆ」では、高須久子は、井川遥が演じるようです。
 なお、「世に棲む日日」では、司馬遼太郎氏は、「一声をいかで忘れんほととぎす」を高須久子の句としています。







 
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by wheatbaku | 2014-12-12 10:29 | 江戸に関する本 | Trackback
「松風の人」(津本陽)を読む
 昨日紹介した「世に棲む日日」は既に読んでいるので、別の本を読もうと考えて、まず読んだ本が「松風の人」です。
 これは、津本陽氏が書いた物です。

c0187004_9545227.jpg 「松風の人」は、吉田松陰の一生を書いたものですが、吉田松陰の手紙や書いた物などを津本氏が現代語訳したものを多く使用しています。
 松陰自身の手紙などにより、吉田松陰の姿を、読者に際立たせようとしているように思います。
 この本を読むと、吉田松陰が多くの手紙などを残していると感じます。

 この本を読んで、私自身、新たに確認できたことがあります。
 それは、安政の大獄が始まり、江戸に召喚された吉田松陰が、嫌疑がかかっていなかった老中間部詮勝の殺害計画をやすやすとしゃべった理由です。

 吉田松陰が召喚されたのは、主に梅田雲浜との関係からでした。
 そして、江戸の評定所で、吉田松陰に問いただされたのは、梅田雲浜とどのような密議をしたかたということと、京の御所にあった落し文を書いたのが松陰ではないかという2点でした。
 これらについて、吉田松陰は、申開きをし、幕府の疑念は解消されました。
 その後で、吉田松陰は、老中間部詮勝を殺害しようとしたことを、聞かれもしないのにしゃべってしまったのです。
 これを聞いた奉行たちは、大変驚き、松陰は、その場で小伝馬町牢屋敷入りを命じられます。
 そして、このことが、吉田松陰の命を縮めることになったのです。

 松陰が自白をする事情について、「世に棲む日日」で、司馬遼太郎氏は次のように書いています。

 (松陰は)かれがやったり企てたりした反幕府活動のいっさいを語った。
 あほうといえば、古今を通じてこれほどのあほうはいないであろう。
 松陰は、吟味役の老獪さを見ぬけず、むしろ他人のそういう面を見ぬかぬところに自分の誇るべき欠点があると思っていた。

 司馬遼太郎氏によれば、吉田松陰が、間部詮勝殺害計画を自白したのは、吉田松陰の欠点によるものだとしています。
 しかし、津本陽氏は、吉田松陰は、死を覚悟して、自白したといっています。
 津本陽氏は、松陰が間部詮勝殺害計画を自白した事情を次のように書いています。

 幕府の松陰に対する嫌疑は、すべて氷解した。このままひきさがれば、松陰はふたたび萩に帰ることができる。
 だが松陰の身中で、憂国の熱情が、突然はじけ、炎を噴いた。
 松陰はペリー来航以来の政情につき、詳細に批判を陳べ、日本のとるべき方策につき意見を語りはじめた。その内容は、幕府重職が耳にしてもおどろくほど、海外の事情を網羅していた。
(中略)
 松陰はここで口をつむぐべきであった。だが幕府要人に時勢を論じ、よるべき国策を開眼させるべきであると思った。
 「僕は死に値する二つの罪を犯しているので、自首いたします」
 「それはいかなることか」
 松陰は大原三位西下策と老中間部詮勝要諫策をくわだてたこと事実をうちあけた。
 (中略)
 松陰は奉行たちが彼の意見を聞きとり、天下の大計、当今の急務を知り、一二の措置をすれば、自分は死んでもいいと考えていた。

 これを読むと、吉田松陰は、間部詮勝要諫策をしゃべって、それにより死罪となってもよいと、覚悟していたということになります。

 私には、「松風の人」に書かれた吉田松陰像のほうが、幕末の志士にふさわしいように感じられました。
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by wheatbaku | 2014-12-09 09:52 | 江戸に関する本 | Trackback
「世に棲む日日」を読む
  江戸検が11月2日に終了し、毎日文化センターの「気ままに江戸散歩」も11月第四土曜日の新宿御苑散歩を最後に、今年の散歩は終了しました。
 12月は、今週土曜日の「江戸検受検者交流の集い」はありますが、その他の大きなイベントがないので、今は、時代小説を中心に読みながらのんびりと「江戸」を楽しんでいます。
 現在、主に読んでいるのは、「吉田松陰」が関係する時代小説です。

 来年のNHKの大河ドラマ「花燃ゆ」は、吉田松陰の妹の「文(ふみ)」が主人公です。
 そして、来年の前半の「気ままに江戸散歩」は、「吉田松陰ゆかりの地を歩く」というテーマで、江戸を散歩します。
 そうしたこともあって、現在は吉田松陰関連の小説を読んでいるわけです

 吉田松陰について書いた本として、最も有名なものは、司馬遼太郎の「世に棲(す)む日日」でしょう。
 この本は、ずっと以前に読みました。
 前編部分は吉田松陰を中心に描かれていて、後編部分は高杉晋作を中心に描かれています。
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 司馬遼太郎は、冒頭部分で次のようにいっています。
 長州藩が、幕末の最大の革命勢力となり、ついに幕府をたおし、新しい時代をまねきよせる主導勢力となったのは、吉田松陰が、長州藩を変えたからである。
しかし、吉田松陰は、藩の行政者でもなく、藩主の相談役でもなく、ないどころから、松下村塾の当時の吉田  松陰は、27・8歳の書生に過ぎず、しかも藩の罪人であり、実家に禁固されており、外出の自由すらなかった。
 こういう若者が地上に存在したということ自体が奇跡に類する不思議さというよりほかない。
 その不思議な若者の不思議さを、筆者はこの小説で考えてゆこうとするのだが、主人公はあるいはこの寅次郎だけではすまないかもしれない。むしろ彼が愛した高杉晋作という九つ下の若者が主人公であるほうが望ましいかもしれず、その気持ちがいまは筆者のなかで日ごとに濃厚になっており、いまとなってはその気持ちのまま書く。

 こうしたことから司馬遼太郎は、「世に棲む日日」の主人公を吉田松陰と高杉晋作としているようです。
 吉田松陰と高杉晋作について書いた小説として、「世に棲む日日」は大変おもしろい小説でしたが、私個人にとっては、特に印象深い小説でもあります。

 江戸文化歴史検定の一級試験が行われたのは、2007年に実施された第2回江戸文化歴史検定でした。
 その一級の問題に次のような問題がありました。

 慶応3年4月14日、29歳で下関に没した幕末の志士、高杉晋作の辞世の句は次のうちどれでしょうか?
 (い)身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも、どどめ置かまし 大和魂
 (ろ)おもしろき こともないき世を おもしろく すみなすものは 心なりけり
 (は)世の人は われをなにとも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞ知る
 (に)君が為め 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄みわたる空

 この答えは、おわかりになりますか?
 高杉晋作の辞世の句(短歌)は、
  おもしろき こともないき世を おもしろく すみなすものは 心なりけり
 です。

 私は、この問題の正解は、すぐにわかりました。
 というのは、「世に棲む日日」を読んでいて、その最終場面が、ちょうど高杉晋作の臨終場面で、そこに辞世の句を読む場面がでてきますが、そのことをよく覚えていたので、答えがすぐにわかったのです。
 こうしたことから、「世に棲む日日」は、私にとって非常に記憶に残る小説の一つとなっています。
 私が読んだのは、単行本でしたが、現在は文庫のみ出版されているようです。
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by wheatbaku | 2014-12-08 13:31 | 三十六見附 | Trackback
松陰の同囚(八重の桜第5回「松陰の遺言」
 吉田松陰についての話題にもう一日おつきあいください。
 1月に江戸検一級2期会の特別例会で小伝馬町牢屋敷跡を案内したのですが、その時には、吉田松陰が小伝馬町牢屋敷のどこに収容されていたのか、また橋本左内とは全く合わなかったのかが疑問でしたが、「留魂録」を読んでみて、その答えがわかりました。

 今日は、吉田松陰や橋本左内が、小伝馬町牢屋敷のどこの牢にいれられていたかを書いてみたいと思います。
 
c0187004_2023664.jpg 小伝馬町牢屋敷は、表門が西にあり、裏門が東にありました。
 建物は、概ね、表門から入って、右手すなわち南側に、牢屋奉行の石出帯刀の居宅や牢屋を管理する建物がありました。
 そして、北側に牢屋がありました。その南東隅に、死罪場、御様場(おためしば)があった。

 牢は一棟の建物ですが、大きく分けて、東牢、西牢に分かれていました。
 そして、東牢、西牢にそれぞれ大牢と二間牢が一つ、揚屋が二つずつありました。
 ①揚屋(あがりや)「は、お目見え以下の直参、陪臣、僧侶、医師、山伏などを入れる牢で、
  手前が「口揚屋(くちあがりや)」と呼ばれ、奥は「奥揚屋(おくあがりや)」と呼ばれていました。

 ②東の「口揚屋」は「遠島部屋」と呼ばれ、遠島船がでるまで待機する部屋として使用されました。

 ③西の「口揚屋」は女性の囚人を収容し「女牢(女部屋ともいう)」と呼ばれていました。

 ④大牢、二間牢に、 町人を収容しました。

 この他、別の建物になりますが、御目見以上の武士、これに準ずる僧正・院家・紫衣その他の重き僧侶・神主の罪人を入れる揚屋敷(あがりざしき)や百姓を収容する百姓牢がありました。

 今回、「留魂録」を詳しく読んで見て、吉田松陰や「安政の大獄」で逮捕された政治犯がどこに収容されていたかがわかりました。

①吉田松陰は、西の奥揚屋(おくあがりや)に収容されていました。

②橋本左内(越前藩士)は、東の奥揚屋
 橋本左内は、評定所の尋問中には、越前藩邸から出頭しました。
  しかし、10月2日の評定所出頭後、ただちに小伝馬町牢屋敷に入牢を命じられました。
 10月7日に死罪の申し渡しがあって、即日処刑されましたので、牢屋敷にいたのは、わずか5日あまりの短期間です。
 在牢が短期間ですし、別の牢に入っていたため、松陰とは会うことがありませんでした。

③小林民部(鷹司家諸太夫) 松陰と同室つまり西の奥揚屋
  小林民部は、前関白鷹司政通を出した鷹司家の家臣で、8月27日遠島を申し付けられましたが、11月14日に人吉藩にお預けに軽減されました。
しかし、11月19日獄中で病没しました。
  松陰は、小林民部とは意気投合したようです。
  松陰が小塚原の回向院から、松陰神社に改葬される際に、小林民部も一緒に改装され、松陰神社では、松陰の隣に小林民部のお墓があります。(右上写真の左側が吉田松陰の墓、右側が小林民部の墓です。)

④鮎沢伊太夫(水戸藩勘定奉行)
  鮎沢伊太夫は8月27日に遠島を申し付けられて、小伝馬町牢屋敷に在牢していました。
同室にはならなかったが牢内で松陰と文通をしています。

⑤堀江克之助(よしのすけ 水戸藩郷士)は東の口揚屋
同室にはならなかったが牢内で文通をしています。
  堀江克之介は後に高輪の東禅寺がイギリス公使館となった際に初代公使オールコックを襲撃した「東禅寺事件」に参加し捕縛されています。

⑥堀達之助  東口揚屋牢名主
  処刑前の10月20日の手紙に「世話になった」と書かれています。

⑦長谷川宗右衛門(高松藩士)。 東奥揚屋
  藩主と世子の不仲をおさめ。水戸藩に批判的な高松藩の藩論を水戸藩との提携に傾けようしたが、屏居を命ぜられ、翌年脱藩して京から水戸へ赴くが、追われて自首しました。
 獄中で、「玉となりて砕くるとも,瓦となりて全かるなかれ」と独語していたと「留魂録」にあります。

⑧長谷川速水(高松藩士)  西奥揚屋
 長谷川宗右衛門の息子。取り調べの様子を、松陰が速水から入手していました。
 

  
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by wheatbaku | 2013-02-06 07:25 | 大河ドラマ | Trackback
松陰の最期(八重の桜 第5回「松陰の遺言」
 松陰の最期がどうであったかについて書いた記録が残されているので、今日は、松陰の最期について書いてみます。

 吉田松陰の最期は、非常に見事なものだったと伝えられていると聞いていましたが、それを裏付ける記録もあるようです。 それも複数あります。
 それを読んでみると、「八重の桜」で描かれているような動揺あるいは興奮した姿ではなかったようです。

c0187004_8423592.jpg まず、長州藩から立会人として出席した江戸留守居役小幡彦七は、評定所での死罪申し渡しの様子を書いています

 松陰は、死罪の判決の言い渡しを落ち着いて静かに聞いて退廷した後、朗々と自作の漢詩を詠いあげ、奉行たちも黙して聞いていたと書いています。
 詳細は、最後尾に書きましたので、お時間があればお読みください。

 松陰が詠みあげた漢詩(読み下し文)は次の通りです。
  吾、今、 国の為に死す
  死して君親(くんしん)に負(そむ)かず
  悠悠(ゆうゆう)たり 天地の事(こと)
  観照(かんしょう) 明神(めいしん)に在り

 
 また、佐倉藩の漢学者である依田学海は、八丁堀の同心吉本平三郎から聞いた話を11月8日の日記に書いています。
 それによると、「評定所に出るときには長く労をかけたとやさしく言葉をかけ、死刑にのぞんでは、鼻をかみたいといって心しずかに用意して打たれた。死刑にに臨んで、これほどゆったりと落ち着いている人物はみたことはなかった」と述べています。
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 依田学海は次のように記しています。
 「過ぎし日死罪を命ぜられし吉田寅二郎の動止には人々感泣したり。奉行死罪のよし読み聞かせし後、畏り候よし恭敷く御答申して、平日庁に出づる時に介添せる吏人に久しく労をかけ候よしを言葉やさしくのべ、さて死刑にのぞみて鼻をかみ候はんとて心しづかに用意してうたれけるとなり。凡そ死刑に処せられるもの是れ迄多しと雖も、かくまで従容たるは見ず」

 最後に、播州明石の、松村介石は、山田浅右衛門から聞いた話として松陰の最期はあっぱれであったとして次のように書いています。

 「愈々(いよいよ)首を切る刹那の松陰の態度は真にあつぱれなものであつたという事である。悠々として歩を運んで来て、役人共に一揖(いちゆう)し、「御苦労様」と言つて端坐した。その一糸乱れざる、堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」


【長州藩江戸留守居役小幡彦七の記録】
 「奉行等幕府の役人は正面の上段に列座、小幡は下段右脇横向に座す。ややあって松陰は潜戸から獄卒い導かれて入り、定めの席に就き、一揖(いちゆう)して列座の人々を見廻す。 、眼光炯々として別人の如く一種の凄味あり。直ちに死罪申し渡しの聞読み聞かせあり。「立ちませ」と促されて、松陰は起立し、小幡の方に向かい微笑を含んで一礼し、再び潜戸を出づ。その直後朗々として吟誦の声あり。曰く「吾今為国死。死不負君親。悠悠天地事。観照在明神と。時に幕吏等なお座に在り、粛然襟を正して之れを聞く。小幡肺肝を抉らるるの思あり。護卒亦傍より制止するを忘れたるものの如く、朗唱終わりて我に帰り、狼狽して駕篭に入らしめ、伝馬町の獄に急ぐ」
 

 右上段の写真は、小伝馬町牢屋敷の跡に建てられた「大安楽寺」です。
 大安楽寺は、牢屋敷の中の刑場のあった辺りに建てられています。
 右下段の写真は、小伝馬町牢屋敷の中にあった刑場跡に建てられた延命地蔵菩薩像です。
 ここで吉田松陰も斬られました。
 地蔵菩薩像の台座には、山岡鉄舟の書で「為囚死群霊離苦得脱」と、ここで亡くなった多くの囚人を慰霊する言葉が刻まれています。
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by wheatbaku | 2013-02-05 08:00 | 大河ドラマ | Trackback
留魂録 (八重の桜 第5回「松陰の遺言」)
 昨日の「八重の桜」のタイトルは「松陰の遺言」でしたが、吉田松陰の遺書ともいうべき書き物が「留魂録」です。

  「留魂録」はすでに死を予感していた松陰が小伝馬町牢屋敷の牢内で10月25日に書きはじめ、翌日書き上げたものです。
 松陰は、「留魂録」を書き上げた翌日の安政6年(1859)10月27日に死罪の判決をうけ即日処刑されました。
 「留魂録」には、
 
 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」

 という松陰の辞世の和歌が冒頭にかかれています。
 
 この歌は、また、十思公園にある「松陰先生終焉之地」の碑にも刻まれています
 下写真が、その碑です。
c0187004_8222334.jpg

 「留魂録」は、松陰の遺品の一つとして、遺体を引き取りに出向いた桂小五郎、飯田正伯、手付利助、尾寺新之丞が受取り、萩の高杉晋作、久坂玄随、久保清太郎の三人連名宛てで送られました。
 「留魂録」は萩に送り届けられると、密かに門下生たちに回し読みされ、また書き写されもしました。
 この「留魂録」を読んだ高杉晋作は、「松陰の弟子としてこの敵は討たずにおかない」と周布政之助に書き送っているそうです。その他の弟子たちも同様だったと思います。

 ところが、高杉らの手にわたった「留魂録」は、残念なことにいつの間にか所在不明になってしまいました。
 今日「留魂録」の内容が、そっくり伝えられたのは、松陰がもう一つ同様のものを作成していたからです。
 これは、軍学者でもあった松陰の周到な作戦でもあったと思われます。  
 松陰から依頼されて、もう一通の「留魂録」を隠し持っていたのが、松陰が入っていた小伝馬町牢屋敷の牢名主沼崎吉五郎なのです。

 時代劇に畳を何枚も重ねた上に牢名主が座っている場面がよく出ています。
 その場面は、時代劇の上の虚構だと思う人が多いと思いますが、牢名主は実際にいたのです。
 牢内には幕府の認めた次の12人の牢役人がいたのです。
 それは、名主、、添役、角役、二番役、三番役、四番役、五番役、本番、本助番、五器口番、詰之番、詰之助番 です。
 その他、穴の隠居、隅の隠居などの役人がいました。
 牢内役人の筆頭が牢名主です。
c0187004_11535829.jpg 吉田松陰が、牢屋敷に入った時の牢名主が沼崎吉五郎でした。 この牢名主の沼崎吉五郎が、吉田松陰の人物を知っていて大事に扱い松陰を牢役人並の待遇としてくれました。
 ドラマの最初の場面で、松陰がゆったりした姿で書き物をしていますが、この牢名主の協力なしには、松陰が「留魂録」を書き上げることはできなかったでしょう。


 牢名主の沼崎吉五郎は、福島藩士能勢久米次郎の家臣ですが、殺人容疑で小伝馬町の牢屋敷につながれていました。
 沼崎吉五郎は、松陰から頼まれた通り「留魂録」を大切に肌身はなさず、獄中にいる間、これを守り抜きました。
 沼崎吉五郎はその後、小伝馬町の牢屋敷から三宅島に流され、明治7年にようやく許されて本土に帰りました。
 明治9年になって、当時神奈川県権県令だった野村靖(旧名和作、松陰門下生、禁門の変で討死した入江九一の実弟)の前にひょっこりと一人の老人があらわれます。
 そして、「私は長州藩の吉田松陰先生の同獄の沼崎吉五郎というものです。」と言っていきなり「留魂録」をさしだしたのです。
 そして、「松陰先生は『自分は別に一本を郷里に送るが、無事に着くかどうか危ぶまれる。そこでこれを汝に託す。汝、出獄の日、この遺書を長州人に渡してもらいたい』と述べられた。貴殿が長州出身であると聞いたので、これを進呈します」と付け加えました。
 
 それが、現在残されている「留魂録」です。
 現在、萩市の松陰神社の境内にある資料館に展示してあるそうです。
 右上写真の講談社学術文庫の古川薫 氏全訳注「留魂録」は、「留魂録」の全文および訳、そして松陰の経歴が書かれていて、わかりやすい本です。
 松陰を知りたい人におすすめです。



 

 
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by wheatbaku | 2013-02-04 08:22 | 大河ドラマ | Trackback
松陰、死罪となる(八重の桜 第5回「松陰の遺言」)
 今日の「八重の桜」では、吉田松陰が逮捕・処罰される場面がでてくるようですので、吉田松陰が死罪になるまでについて書いていきます。

 安政の大獄では、大勢の人が、死刑。遠島などの処罰を受けていますが、その中で、最も有名で最も大きな 影響を与えたのが吉田松陰でしょう。

 吉田松陰は、アメリカへの密航失敗により投獄された後、国許蟄居となります。
 長州藩では、萩の野山獄に投獄したのち、実家の杉家で蟄居させました。
 この蟄居の間に、叔父が開いた松下村塾で多くの子弟を育成しました。
 松下村塾四天王と呼ばれる高杉晋作、久坂玄随、吉田稔麿(としまろ)、入江九一はじめ多くの子弟が育ちました。
c0187004_9421826.jpg そして、松下村塾で子弟教育を始めて2年半あまり後の安政5年(1858)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結し、その後、将軍継嗣を紀州藩主徳川慶福とし、さらに安政の大獄を開始したことを知って、幕府に対して強い憤りを感じ、京都で尊王攘夷派の弾圧の中心にいた老中間部詮勝の暗殺を計画します。

 間部詮勝は、井伊大老の指示のもと、京都へ上り、反幕府の公家や浪士たちの弾圧の先頭にたっていました。
 越前鯖江藩間部家7代藩主で、6代将軍家宣と7代将軍家継の側用人として威勢を発揮した間部詮房の子孫です。
 間部詮勝は、寺社奉行,大坂城代,京都所司代をへて,天保11年老中となり、14年に辞任。その後、 安政5年老中に再任され、9月に京都に入り、通商条約に勅許をえるため朝廷工作を行う一方、尊攘派を弾圧していました。

 松陰は、長州藩政府に、老中間部の暗殺に必要な武器を藩政府で整えてもらいたいという願書を提出します。

  藩政府が、このような願書を受けるはずがなく、驚いた藩重役の周布政之助は、予防的に、松蔭の野山獄への入獄を命じます。
 そして、松陰は、家族や弟子との別れの宴を開き、翌日12月26日に、野山獄に再入獄します。
 そして、年明けには高杉晋作や久坂玄瑞も時期尚早であり自重すべきであるとの手紙が届きました。
 しかし、松陰自身は強気の姿勢を崩しませんでした。
c0187004_1140576.jpg
 やがて、翌安政6年(1859)4月になると、幕府から松蔭の江戸召還が長州藩に命じられました。
 これを受けて、松陰は、間部詮勝襲撃計画が幕府に察知されたためだと考えました。
 しかし、松陰が江戸に召喚さることになったのは、間部襲撃計画が探知されたわけではありません。
 松陰が江戸に送られたのは、井伊大老の懐刀の彦根藩の長野主膳が松陰は重要人物と考えていたことが大きく影響しています。
 長野主膳は、「長州藩吉田寅次郎と申す者、力量もこれあり、悪謀の働き抜群のよし」と考えていました。
 
 江戸に送られる前日、松陰は野山獄から杉家に戻りました。
 野山獄の役人福川犀之助が独断で家族や弟子たちと最後の別れをさせるために特別に配慮したものでした。
 父母や弟子との最後の別れを済ました翌日の5月25日早朝、松陰は野山獄から江戸に向かいました。

 6月25日に江戸に到着し、長州藩邸に入りました。
 この時点では、小伝馬町牢屋敷に入牢していないんです。

 松蔭が幕府評定所に呼び出されたのは7月9日でした。
 この日長州藩は、30人の護衛をつけ、松陰の駕籠を出発させている」(「物語 大江戸牢屋敷」中嶋 繁雄著)そうです。
 大目付久貝因幡守正典、勘定奉行兼町奉行池田播磨守頼方、町奉行石谷因幡守穆清(いしがやあつきよ)等による尋問がおこなわれました。
 江戸の評定所が松陰に問いただしたのは、梅田雲浜との関係と、京都で落文(おとしぶみ)をしたのではないかという2点でしたが、松陰の説明は簡単に済み、疑いも簡単に晴れました。
 そこで、松陰はこの機会を利用し幕府に自分の意見を言おうと考えて、「間部詮勝要撃計画」をも告白してしまいます。
 松蔭は、間部を襲撃する計画を幕府側が事前に探知していると思ったゆえの告白でした。
 松陰自身が、留魂録の中で「幕(幕府)にも已(すで)に諜知すべければ、明白に申し立てたる方却って宜しきなりと。・・・・幕(幕府)にて一円知らざるに似たり」と書いています。
 しかし、これが大失敗でした。
 奉行たちは予想もしなかった老中暗殺計画に非常に驚きました。
 即日、松陰は小伝馬町に入牢を命じられてしまいます。今まで長州藩邸にいたのにかかわらず、罪人の扱いとなりました。
 即日、牢屋敷行きとなったことが幕府側の衝撃の大きさを物語っています。

 その後9月5日、10月5日に3回目の取調べが行われましたが、いずれも取り調べる奉行たちの態度は穏やかであったため、松蔭は、処分は、死罪も遠島もなく、重くても他家お預けと楽観的に考えていたようです。
 しかし、頼三樹三郎、橋本左内さらに飯泉喜内が死罪がなると、最悪の事態を予想するようになります。
 10月16日の取り調べは厳しく行われ、死罪を免れがたいことを感じたようです。
 死罪の免れがたいことを知った松陰は、10月20日に家族宛の別れの手紙を書き、10月25日には、遺書となる 「留魂録」 を書き始め26日に書き終わります。
 そして、安政6年(1859)10月27日に、評定所から「死罪」が言い渡され、即日、小伝馬町牢屋敷にて処刑が行なわれました。吉田松陰30歳という若さでした。

 
 右上段写真は、小伝馬町牢屋敷跡にある十思(じっし)公園です。
 右下段写真は、南千住回向院にある吉田松陰のお墓です。



 松陰の遺書といわれる「留魂録」については明日書きます。
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by wheatbaku | 2013-02-03 11:00 | 大河ドラマ | Trackback
松陰密航と象山連座(八重の桜 第2話「やむにやまれぬ心」)
 昨日の「八重の桜」では、いよいよ綾瀬はるかの「八重」が登場でした。
 午後には「JIN -仁」の再放送が放映され、綾瀬はるかのドラマを2度みることになりました。
 綾瀬はるかの「八重」 いいですね。ますます大河ドラマ「八重の桜」が楽しみになります。

 さて、昨日のなかには、吉田松陰の海外密航とそれにともなう佐久間象山の連座の話がありましたので、そこについて書いていきます。

c0187004_15192327.jpg 吉田松陰が佐久間象山に入門したのは、嘉永4年7月のことです。
 その後、吉田松陰は頭角を現し、吉田松陰は越後長岡藩の小林虎三郎と並び「両虎」と称されるようになりました。
 右写真は、木挽町(現在の銀座4丁目)にあった佐久間象山塾跡の説明板です。


 吉田松陰は、海外渡航を企てます。
c0187004_15235874.jpg 佐久間象山が若い優秀な人材を外国へ送りこんで学問をさせるべきだと幕府に建言していましたが、それが無理とわかったため、あえて海外密航を試みようとしました。
 吉田松陰が、最初は、プチャーチンが来航した時に実行しようとしました。
 その時、象山は、送別の詩と4両の旅費を渡しました。しかし、この時は、松陰が長崎に到着する前に、プチャーチンは長崎を去ってしまったため、密航は失敗に終わります。
 そうした時に、嘉永7年正月ペリーが再来航したため、吉田松陰は、海外密航を企てます。
 3月28日に実行しますがペリー提督に渡航を拒否され、海外渡航は失敗しました。
 この経緯については、以前書いた 「吉田松陰密航①」 「吉田松陰密航②」 をご覧ください。
 右写真は、佐久間象山塾があった場所の遠景です。現在は「でんぱつビル」(写真右側の建物)が立っています。

 密航に失敗した吉田松陰は、即日、自首します。
 その後、松陰は江戸に送られ4月15日に小伝馬町婁屋敷の揚屋(あがりや)に入牢となります。
 下写真は、小伝馬町牢屋敷跡です。現在は中央区の十思公園となっています。 
c0187004_15224765.jpg これに関連して、佐久間象山も捕縛され、小伝馬町牢屋敷の揚屋(あがりや)に4月6日に入牢します。
 佐久間象山の方が先に牢屋敷に入牢していますが、松陰が自首したのは下田ですので、護送する時間がかかたためと思われます。

 佐久間象山を尋問したのは、北町奉行井戸対馬守覚弘(さとひろ)でした。
 吉田松陰は、神妙に尋問に応じたものの、佐久間象山は、自分の持論を申し立て一歩も譲らず抗弁し役人に抵抗しました。そのため、非常に役人の反感をかったようです。

 9月18日に佐久間象山と吉田松陰に対する判決が下されました。
 象山は松代で蟄居、松陰は萩で蟄居という判決でした。
 二人は、初めは死刑が相当との意見が有力でしたが、象山の親友の川路聖謨が老中首座阿部正弘に軽い刑罰をお願いし、阿部正弘も象山を知っていたため、特に井戸対馬守に指示して蟄居という軽い刑としたと言われています。
 阿部正弘は、松代藩主真田幸貫(ゆきつら)が海防掛の老中であった時、象山が海防掛顧問だったから、知っていたのだろうと言われています。
 判決は即日実行され、象山は松代藩に、松陰は萩藩に引き渡されました。
 この間、象山と松陰は法廷で顔を合わせるだけでしたが、この日も会話をすることもかなわずただ目礼をして別れざるをえませんでした。
 松陰は、「別れ奉る時、官吏座に満つ。言、発すべからず。一拝して去る。」という詩を後に作っています。
 
 蟄居を命じられた佐久間象山は、9月19日に家族ともども松代に向けて江戸を発ちました。
 一方、吉田松陰は、9月23日に江戸を出発しました。

 最後に、佐久間象山が、吉田松陰に送った「送別の詩」を書いておきます。
 原文は漢文で読むのが難しいので、書き下し文を載せておきます。

 吉田義卿を送る
 之(こ)の子霊骨あり。
 久しく蹩躄(べっせつ 事にあくせくすること)の群を厭う。
 衣を振う万里の道。心事未だ人に語らず
 則ち未だ人に語らずと雖も、忖度するに或は因るあり。
 行を送って郭門(かくもん 城門)を出ずれば、
 孤鶴秋旻(しゅうびん 秋の空)に横たわる。
 還海何ぞ茫々たる。 五州自ら隣を為す。
 周流形勢を究めなば、 一見は百聞に超えん。
 智者は機に投ずるを貴ぶ。歸來須(すべから)く辰に及ぶべし。
 非常の功を立てずんば、身後(しんご)誰か能く賓(ひん)せん。


 赤印が「佐久間象山塾跡」の説明板です。東京メトロ「東銀座」駅近くにあります。

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by wheatbaku | 2013-01-14 17:36 | 大河ドラマ | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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