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花燃ゆ第22回「妻と奇兵隊」(大河ドラマ)
  昨日の「花燃ゆ」は、女台場と奇兵隊がドラマの中心でした。
 そこで、今日は「奇兵隊」について書いていきます。

 高杉晋作と言えば「奇兵隊」と言われるごとく、高杉晋作を語る時には「奇兵隊」が必ず出てきます。

 「奇兵隊」というと奇妙な軍隊という意味に思われがちですが、奇兵とは正規兵に対する言葉として命名されたと言われています。

 有名な兵法書『孫子』の中に、「凡そ戦いは、正を以て合い、奇を以て勝つ」という言葉もあり、「正」に対して「奇」が対置されています。

 長州藩は、文久3年(1863)5月10日にアメリカ商船を砲撃します。この後も関門海峡を通過する外国船に砲撃を加えます。
 これに対して6月1日にアメリカとフランスの艦隊が来航し長州の艦船と砲台を破壊します。

 長州藩は、圧倒的な軍事力の差を見せつけられ、なすすべもありませんでした。
 そうした状況下で呼び出されたのが高杉晋作です。6月5日のことです。

 「花燃ゆ」では、この場で、「奇兵隊」の構想として身分の違いにとらわれず志あるもので戦うと述べています。
c0187004_10045151.jpg 実際の戦い方について「花燃ゆ」では述べられていませんが、高杉晋作は「すくない兵力で敵の虚を撞き、神出鬼没に戦い相手を悩ます」と定義しているようです。 つまり、現在でいえばゲリラ戦を行うとしています。

 こうして高杉晋作は6月7日に、下関の白石正一郎宅で奇兵隊を結成します。右上写真は「奇兵隊結成の地」の碑です。

 奇兵隊に志願した人たちは、文久3年の暮れには300人に達したといいます。
 隊士たちの身分は、約半数が武士、4割が農民、残りが商人などでした。
 しかも武士といっても上級武士は少なく、多くは下級武士でした。農民は庄屋が3分の1を占め、それに引率された百姓の次男・3男が多かったようです。

 身分を問わないといいながら、半数が武士以外であり、奇兵隊の目的は「国家のため働く」ということであり、当時の長州における庶民の「志」が高かったと思われます。

 こうして下級藩士や農民中心に結成された奇兵隊ですが、上級藩士中心の先鋒隊との関係がうまくいかず小競り合いがしばしば起きていました。
 そして、ついに8月16日、奇兵隊が正規軍先鋒隊の宿舎に押し入って、 隊士を斬り殺すという事件いわゆる「教法寺事件」が起きました。

 高杉晋作は、この事件の責任をとるとともに、京都で起きた8月18日の政変の影響で奇兵隊総督を解任されます。

 高杉晋作が奇兵隊総督として指揮をとっていたのはわずか3か月あまりの短い期間だったのです。

 最後に、あまり書かれることのない、明治になってからの奇兵隊について追記しておきます。
 奇兵隊は、戊申戦争で、各地を転戦して活躍しました。
 しかし、明治2年になって、長州藩は、諸隊あわせて5000人以上いたうち、約半数を常備軍として残して、その他は解雇しました。解雇された多くは農民や町人の出身者たちでした。
 解雇された隊士は、御田尻に結集した後、山口の藩庁を包囲しました。
 これに驚いた木戸孝允は、追討軍を派遣し、鎮圧します。
 この戦闘による死傷者は130名あまり、斬首・遠島など処罰されたものは100名を超えると言われています。
 奇兵隊は、悲劇的な結末を迎えたのでした。



 



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by wheatbaku | 2015-06-01 10:02 | 大河ドラマ | Trackback
「花燃ゆ」第12回「戻れないふたり 」(大河ドラマ)
 今日は、「花燃ゆ」について書こうと思います。
 今回の「花燃ゆ」は、まさにドラマで、史実に関連する場面が少なかったように思います。
 
 杉文と久坂玄瑞とが結婚をしたのは、安政4年の年末のことのようです。
 吉田松陰は、文に「文妹の久坂氏に適ぐに贈る言葉」を贈っているそうです。
 その中には、文が生まれた時に、叔父の玉木文之進が大変喜んで、文之進の一字を与えて「文」と名付けたと書いているそうです。
 そして、久坂玄随を、「防長における年少第一流の人物であり、天下の英才である」と大変褒めています。

 こうしたことから、吉田松陰は、久坂玄瑞と文の結婚を大変喜んでいたことがわかります。

 こうして、文と結婚した久坂玄瑞は、安政5年のお正月は、杉家で迎えましたが、「花燃ゆ」でも描かれていたように、安政5年の1月末には、江戸行が命じられます。
 江戸遊学は、久坂がかねてから希望していたことですから、玄瑞の希望がかなったということになります。
 しかし、文にとっては、結婚早々に分かれるわけですからつらかったと思います。

 この遊学をすすめたのは吉田松陰でした。
 そのため、妹文の悲しみなど気にせず、久坂玄瑞に熱い思いをこめた送別の辞「日下実甫(くさかじつほ)の東(とうこう)を送る叙(じょ)」を贈っています。
 読み下し文は最後に書いておきますが、その意味を私なり解釈するつぎのような意味ではないでしょうか。


 江戸に行けば、天下の英雄豪傑と会うことができるから、こうした人たち議論を行い、帰ってきて藩の正しいあり方をきめられるようになってほしい。
 も、これができないのであれば、君は一流の人物だといっていることが私だけの考えになって、世間の人に恥ずかしいことになってまう。(だから、一生懸命頑張ってほしい


 ご参考に読み下し分文を書いておきます。

 実甫(じつほ)往け。
 士(し)此の間に生まれて、適(ゆ)く所を択ぶを知らざれば、士気と才気と、将(は)た何の用ふる所ぞ。
 生の死に如(し)かざるや之れ久し。
 実甫(じつほ)の行きて、皇京(こうけい)を過(よぎ)り、江戸を観れば、其れ必ずや徧(あまね)く天下の英雄豪傑の士に見(まみえ)ん。
 往きてともに此の義を討論し、以ってこれを至当(しとう)に帰し、返りて一国の公是(こうぜ)を定むるは、誠に願う所なり。
 もし然(しか)る能(あた)はざれば、吾れの推すに少年第一流を以ってせしは、一家の私言(しげん)となりて、天下の士に愧(は)ずべきや大なり。
 実甫(じつほ)往け。是を贈言となす。






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by wheatbaku | 2015-03-24 16:37 | 大河ドラマ | Trackback
「花冠の志士」(古川薫)を読む
 今日は、「花燃ゆ」の主人公、杉文(ふみ)の最初の夫であった久坂玄瑞について書いた古川薫著「花冠の志士」について書いていきます。

 久坂玄瑞は、高杉晋作と並んで、松下村塾の龍虎と呼ばれる英傑ですが、その人物像は意外に知られていません。
c0187004_1031364.jpg そして、久坂玄瑞を描いた小説もあまり多くありません。
 そんな中で、「花冠の志士」は、数少ない久坂玄瑞について描いた小説の一つです。
 作者の古川薫氏は、直木賞作家ですが、下関で生まれ、山口新聞編集局長の経歴もある方で、吉田松陰に関係する著書も数多く出されています。
 先ほど、久坂玄瑞の小説が少ないといいましたが、この「花冠の志士」も1991年に出版されていますが、その後、絶版となっていて、今年9月に再刊された本です。
 このように、これまで、あまり知られていなかった久坂玄瑞ですが、今回の大河ドラマでは、「文」の夫ですので、出番が多くなり、かなりスポットライトを浴びるのではないでしょうか。

 久坂玄瑞は、萩藩医の久坂良迪の三男として生まれ、幼名「秀三郎」と名付けられました。
 両親と兄を幼いうちになくしたため、藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄瑞と改めました。
 玄瑞と云うのは、医者としての名前で、後に士分となった際には「義助」と名乗っていますが、玄瑞の方が、はるかに有名です。

 久坂玄瑞が吉田松陰に入門したのは、安政4年です。
 入門にあたって、松陰と玄瑞との間では、激しい手紙での論争がありました。これは、玄瑞の能力の高さを認めた松陰が、大いに鍛えてやろうという考えがあったためだったそうです。
 そして、松陰は、久坂玄瑞を見込んで、妹の文の夫にと望むようになります。
 「花冠の志士」では、文が玄瑞を慕う場面もあり、この話を受けるかどうか迷う玄瑞の姿も描かれています。
 このあたり、「花燃ゆ」でどう描かれるのか、楽しみの一つです。
 そして、松陰の申し出を受けた玄瑞は、文と結婚し杉家に同居するようになります。

 その後、久坂玄瑞は、江戸に遊学した後、萩に戻ります。
 そして、吉田松陰の江戸檻送の際には、萩で松陰を見送ります。
 江戸へ松陰を送るように幕府の命令が届いた後の場面で、古川薫氏は次のように書いていま

 玄瑞は、やはり松陰をけしかけている自分を意識している。同じ助からないものなら、卑屈に遁れる努力をすることもあるまいという気持ちが、そういわせたのである。
 きびしい訊問を用意して待ち構える幕吏の前に、意を決して歩みよろうとしている松陰の背を、後ろから突き出す思いがあった。
 松陰が、評定所で必ずしも自白するまでもなかった間部暗殺計画を公言し、そのために死罪になったということを、後日玄瑞らは知るのである。
 松陰の刑死後、その門下生たちが、まるで師のあとを追うように死を急いだのは、このようないきさつも手伝っていたにちがいない。少なくとも玄瑞は、そうだった。

 この古川薫氏が書いている通り、久坂玄瑞は、吉田松陰が刑死した6年後、元治元年(1864)に起きた蛤御門の変で敗れ、鷹司邸で自刃をして果てます。
 享年25歳でした。
 「花冠の志士」には、勝ち目のない戦いに出撃する事情も描かれています。

 「花冠の志士」には、久坂玄瑞の唯一人の子供秀次郎を生んだ「タツ」との恋愛などまだまだおもしろい場面があります。
 350ページ程の分量で、久坂玄瑞の生涯がわかる読みやすい本ですので、大河ドラマ「花燃ゆ」にご興味のある方にはおすすめの本だと思います。
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by wheatbaku | 2014-12-10 10:26 | 江戸に関する本 | Trackback
「松風の人」(津本陽)を読む
 昨日紹介した「世に棲む日日」は既に読んでいるので、別の本を読もうと考えて、まず読んだ本が「松風の人」です。
 これは、津本陽氏が書いた物です。

c0187004_9545227.jpg 「松風の人」は、吉田松陰の一生を書いたものですが、吉田松陰の手紙や書いた物などを津本氏が現代語訳したものを多く使用しています。
 松陰自身の手紙などにより、吉田松陰の姿を、読者に際立たせようとしているように思います。
 この本を読むと、吉田松陰が多くの手紙などを残していると感じます。

 この本を読んで、私自身、新たに確認できたことがあります。
 それは、安政の大獄が始まり、江戸に召喚された吉田松陰が、嫌疑がかかっていなかった老中間部詮勝の殺害計画をやすやすとしゃべった理由です。

 吉田松陰が召喚されたのは、主に梅田雲浜との関係からでした。
 そして、江戸の評定所で、吉田松陰に問いただされたのは、梅田雲浜とどのような密議をしたかたということと、京の御所にあった落し文を書いたのが松陰ではないかという2点でした。
 これらについて、吉田松陰は、申開きをし、幕府の疑念は解消されました。
 その後で、吉田松陰は、老中間部詮勝を殺害しようとしたことを、聞かれもしないのにしゃべってしまったのです。
 これを聞いた奉行たちは、大変驚き、松陰は、その場で小伝馬町牢屋敷入りを命じられます。
 そして、このことが、吉田松陰の命を縮めることになったのです。

 松陰が自白をする事情について、「世に棲む日日」で、司馬遼太郎氏は次のように書いています。

 (松陰は)かれがやったり企てたりした反幕府活動のいっさいを語った。
 あほうといえば、古今を通じてこれほどのあほうはいないであろう。
 松陰は、吟味役の老獪さを見ぬけず、むしろ他人のそういう面を見ぬかぬところに自分の誇るべき欠点があると思っていた。

 司馬遼太郎氏によれば、吉田松陰が、間部詮勝殺害計画を自白したのは、吉田松陰の欠点によるものだとしています。
 しかし、津本陽氏は、吉田松陰は、死を覚悟して、自白したといっています。
 津本陽氏は、松陰が間部詮勝殺害計画を自白した事情を次のように書いています。

 幕府の松陰に対する嫌疑は、すべて氷解した。このままひきさがれば、松陰はふたたび萩に帰ることができる。
 だが松陰の身中で、憂国の熱情が、突然はじけ、炎を噴いた。
 松陰はペリー来航以来の政情につき、詳細に批判を陳べ、日本のとるべき方策につき意見を語りはじめた。その内容は、幕府重職が耳にしてもおどろくほど、海外の事情を網羅していた。
(中略)
 松陰はここで口をつむぐべきであった。だが幕府要人に時勢を論じ、よるべき国策を開眼させるべきであると思った。
 「僕は死に値する二つの罪を犯しているので、自首いたします」
 「それはいかなることか」
 松陰は大原三位西下策と老中間部詮勝要諫策をくわだてたこと事実をうちあけた。
 (中略)
 松陰は奉行たちが彼の意見を聞きとり、天下の大計、当今の急務を知り、一二の措置をすれば、自分は死んでもいいと考えていた。

 これを読むと、吉田松陰は、間部詮勝要諫策をしゃべって、それにより死罪となってもよいと、覚悟していたということになります。

 私には、「松風の人」に書かれた吉田松陰像のほうが、幕末の志士にふさわしいように感じられました。
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by wheatbaku | 2014-12-09 09:52 | 江戸に関する本 | Trackback
「帰ってきた軍師」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第24回)
 今日は、「軍師官兵衛」に関連する記事を書きますが、その前に「江戸の食文化」に関連するお知らせをしておきます。

 
c0187004_13194468.jpg 月一回、模擬試験問題を出題していますが、今月は、今週金曜日に出題しようと思っています。
 出題は、前回同様大久保洋子先生の「江戸のファーストフード」からとします。
 前回は、四大和食に関してだけの出題でしたが、今回は、それ以外の項目について出題します。本を持っている方は、軽く斜め読みに読んでおいてください。


 
 さて、「軍師官兵衛」ですが、今回のタイトルは「帰ってきた軍師」でした。
 竹中半兵衛亡き後の秀吉の軍師として官兵衛の活躍を描いていますが、その冒頭は、三木城の別所長治に対する降伏の勧告でした。
 今日は、この三木城攻防戦について書いてみたいと思います。
 三木城攻防戦は、俗に「三木の干殺し」と呼ばれました。
 秀吉が徹底した兵糧攻めを行ったからです。

 三木城主別所長治は、天正6年(1578年)3月、織田方に敵対しました。
 これに対して羽柴秀吉は、竹中半兵衛と黒田官兵衛の策をいれて、三木城近くの平井山に本陣を設け、三木城を包囲するため、多くの付城を築き、兵糧攻めを行いました。
c0187004_13223189.jpg 三木城包囲開始後に荒木村重の謀反が起こり、情況は大きく変わりましたが、秀吉は、無理に攻撃をしかけるとういうことはせず、城から出てくる敵をたたく程度の攻防戦をおこなっているだけで、三木城の包囲の手をゆるめませんでした。
 天正7年(1579年)5月には、丹生山明要寺と淡河城が落城するなどし、三木城への兵糧の補給が困難となります。
 そして、ついに天正7年11月には、有岡城が落城します。
 既に、備前の宇喜多直家は、織田方に加わっており、毛利方の援軍、兵糧補給も絶望的となり、三木城内の食料はすでに底をついて城内の兵士は飢餓状態にありました。
 これがいわゆる「三木の干殺し」です。
 三木城の兵糧が尽きて、城兵の士気が衰えてきたと判断した秀吉は天正8年(1580年)1月、三木城の支城に対して総攻撃を開始します。
 1月11日には別所長治の叔父別所賀相が守る鷹尾山城を攻めました。
 別所賀相は、城を脱出し、三木城に入りました。
 ここで、秀吉は、別所長治のもう一人の叔父で織田方についていた別所重宗を通じて三木城の開城勧告を行いました。
 「軍師官兵衛」では、黒田官兵衛と別所重宗が、三木城で勧告をしたと描いています。
 この勧告をうけて、別所長治は、開城することを決意します。
 開城の条件は、別所長治はじめ一族が切腹する代わりに城兵の命を助けるというものでした。
 正月17日、長治以下城主一族が切腹し、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了します。
 長治の辞世の歌は
   いまはただうらみもあらず もろ人の命に代わるわが身と思へば
 でした。

 秀吉は、この経験から、因幡の鳥取城を攻める際に、兵糧攻めを行っていますが、「軍師官兵衛」の中では、詳しくは取り上げられないようです。
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by wheatbaku | 2014-06-17 07:49 | 大河ドラマ | Trackback
「半兵衛の遺言」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第23回)
有岡城は、織田の軍勢の総攻撃を受けて、落城します。
荒木村重の反逆に立腹していた織田信長は、世間のみせしめにするため、残虐な処刑を命じました。
 最初の処刑は、荒木村重とその嫡男村次が籠城する尼崎城近くで行われ、婦女子のみ120人あまりが処刑されました。
 次いで、名使い女や若党らの非戦闘員が、四戸の農家に押し込まれ、外から釘づけにされ、周囲に枯草を積んで火をつけ、焼き殺しました。
 信長公記」でさえ「肝魂を失い、二目とさらに見る人なし」と書いています。
 さらに、京都六条河原で、村重の妻だしをはじめ、村重の一族が処刑されました。

c0187004_9113480.jpg このように、荒木村重に対する信長の怒りは尋常ではなく、荒木一族に対する追及は非常に厳しいものでした。
 それでは、荒木村重自身はどうなったでしょうか。
 村重は、逃げのびるのです。

 有岡城が落城した後も、荒木村重の籠る尼崎城は抵抗したものの織田軍の攻撃を受けて、村重は花隈城に逃げ込みました。
 しかし、ここも織田方の池田恒興と嫡男元助、次男輝政の軍勢に攻撃され、落城します。
 荒木村重は、村次とともに、毛利氏の芸州に落ち延び、毛利輝元の庇護を受け、備後国尾道に閑居しました。
 
 織田信長が本能寺の変で暗殺されると、豊臣秀吉は、大坂に呼び、堺に住まわせました。そして、千利休と親交を重ね、茶人として暮らし、茶道にいそしみました。
 村重は、剃髪して「道糞」と号していましたが、秀吉が、「道薫」に改めさせたと言われています。
 そして、秀吉のお伽衆として厚遇され、天正14年(1588)、堺でなくなりました、享年52歳でした。

 荒木村重は、利休七哲の一人に加える説もあるほど、茶道にはすぐれていました。
 講談社「利休七哲」の中では、百瀬 明治がその生涯を書いています。
 「軍師官兵衛」でも再三、茶器を愛でたり、茶杓を削る場面が出ていたのは、そのためです。
 現在は徳川美術館が所蔵している高麗茶碗「荒木」は、荒木村重が所有していて、千利休、徳川家康の手を経て、尾張家初代義直に伝えられた茶碗だと言われています。(右上写真)
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by wheatbaku | 2014-06-09 09:08 | 大河ドラマ | Trackback
「有岡最後の日」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第22回)
  「軍師官兵衛」ですが、第22回「有岡最後の日」の記事がまだでしたので、今日は「軍師官兵衛」関連の記事を書きます。

 今回は、毛利の援軍がこないことに我慢しきれなくなった荒木村重が、天正7年(1579)9月2日毛利の援軍を自ら要請するために有岡城を抜け出して、嫡男荒木村次が守る尼崎城に入城しました。
 しかし、城主自らが城を抜け出すようでは、有岡城を守りきれるはずがありません。
c0187004_1215947.jpg まもなく、織田軍の総攻撃を受けて、10月19日、有岡城が開城します。そして幽閉されていた黒田官兵衛が、栗山善助たちに救出されるまでが描かれていました。

 さて、荒木村重が、織田信長に背いたのは、毛利の援軍があることになっていたからです。
 これは、荒木村重だけでなく、別所長治や小寺政職も事情は同じでした。

 しかし、毛利は、荒木村重や別所長治、小寺政職に対して援軍を送りませんでした。
 実は、これは毛利としては、援軍を送りたくても送れなかったのかもしれません。

 その要因として、大きな要因が二つあります。
 一つは、備前の宇喜多直家の寝返りです。
 もう一つが、大坂湾内の木津川口での毛利水軍の敗北です。
 このうち、 宇喜多直家の寝返りについては、「軍師官兵衛」で描かれていました。
 しかし、毛利水軍の敗北については、全く触れられていませんでした。
 そこで、今日は、毛利水軍の敗北について書きます。

 木津川口の戦いは、2回あります。
 第一次木津川口の戦いは、天正4年(1576)に、石山本願寺へ兵糧を搬入しようとした毛利水軍と、それを阻止しようとする織田水軍との間に起こった戦いです。
 この戦いで、毛利水軍が使用した焙烙火矢により、織田水軍は完敗しました。

 第二次木津川口の戦いは、天正6年11月6日に起きた毛利水軍と織田水軍の間の戦いです。
 この戦いで、毛利水軍は大敗をしてしまいました。荒木村重が叛旗を翻したのが天正6年10月ですので、毛利水軍は、村重の叛旗からまもなく完敗したことになります。

 第一次木津川口の戦いで、毛利水軍の使用する焙烙火矢の前に大敗したことを知った織田信長は、九鬼嘉隆に命じて、船に鉄を貼った鉄甲船を建造させました。
 この鉄甲船は、船に鉄板を張り、焙烙火矢による攻撃を受けても燃え上がらないようにしてありました。
 その上に、大鉄砲を3門備えた大型船で、鉄甲船は6隻建造されました。
 そして、天正6年(1578)7月、完成した6隻の鉄甲船は、大坂湾へ廻送されました。
途中、紀州の雑賀衆が、多数の小船で攻撃してきましたが、九鬼嘉隆は敵を引きつけて大鉄砲を一斉に発射し、撃沈してしました。

 天正6年9月30日には、織田信長により観艦式が行われました。
 この観艦式に列席していた奈良興福寺の多聞院は、鉄甲船の大きさを横12メートル、縦22メートルあったと「多聞院日記」に書いています。

 そして、11月6日、石山本願寺に兵糧を運び込もうとして、毛利水軍が木津川口付近に姿を現しました。
 6隻の鉄甲船は、敵船近くに漕ぎ寄せて、毛利水軍の大将が乗っていると思われる船を大鉄砲で攻撃しました。
 これを恐れた毛利水軍はそれ以上近づくことはできず、数百隻の船が退却していきました。

 この戦いにより、毛利水軍は、大坂湾に侵入できなくなり、大坂湾の制海権を失とともに、播磨の海での航行に大きな危険を感じるようになりました。
 これにより、毛利氏は、水軍により海上から大軍を播磨に送ることができなくなってしました。
 陸路は、備前の宇喜多直家が遮断していました。このため、毛利方は、荒木村重から矢のような催促があっても、援軍を送ることはできなかったのです。

 こうした事情があったため、いくら荒木村重が有岡城を抜け出して自ら毛利方に要請したとしても、毛利方は動きようがなかった訳です。
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by wheatbaku | 2014-06-06 11:52 | 大河ドラマ | Trackback
「松寿丸の命」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第21回)
 今日は、「軍師官兵衛」について書きます。

 黒田官兵衛が、荒木村重に幽閉され連絡がとれなくなったことにより、官兵衛が村重に加担した誤解した織田信長は、人質になっていた松寿丸を殺害するように命じます。

 秀吉も反論しますが、抗しきれず。信長の命令に服します。
 黒田家譜によると、竹中半兵衛も信長に抗弁しますが、信長が成敗を強く指示したため、やむえず承諾します。

 通常であれば、松寿丸の命は、ここでなくなったでしょう。
 しかし、竹中半兵衛は、こっそりと松寿丸を自分の領地菩提山城下に匿います。
c0187004_11203534.jpg 竹中半兵衛の領地は、現在の岐阜県不破郡垂井町にありました。有名な関ヶ原の東になります。
 右は、垂井町にある江戸時代の竹中家の陣屋跡です。竹中家は、江戸時代は交代寄合でした。

 竹中半兵衛は松寿丸を家臣の不破矢足の屋敷に匿いました。
 不和矢足は、半兵衛の重臣だったようです。矢足というのは変わった名前ですが、戦いの時に足に矢が刺さったのにもかかわらず、敵を討ち取ったことによるようで、「やそく」と読むようです。
 
 有岡城から官兵衛が助け出されると、松寿丸も許され岩手を去るとき、不破矢足の屋敷に銀杏の木を植えたと伝えられています。
 今、不破矢足の屋敷跡は、五明神社となっていて、松寿丸が植えた銀杏は、大河ドラマの最後に放映されたように現在も残っています。
 また、松寿丸は、菩提山を離れる時に、半兵衛の妻得月院にいつも肌身離さずもっていた守り本尊を譲るとともに、腰に指していた太刀も進呈したといいます。
 命を守ってくれたことに対する感謝を表したわけです。

 それだけでなく、松寿丸(成長して黒田長政)は、関ヶ原の戦いの後、福岡藩52万石の藩主となった際に、竹中半兵衛の孫重次を3千石で、不破矢足の子喜多村太郎兵衛を1千石で召し抱え、竹中家の恩に報いました。
 
 松寿丸が、許されて、姫路に帰るのは、有岡城が陥落して、官兵衛が救出された時です。
 しかし、この時には、竹中半兵衛は、すでにこの世の人ではありませんでした。

 竹中半兵衛は、天正7年6月13日に、三木城包囲の最中、平井山麓の農家でなくなりました。享年36歳でした。
 黒田官兵衛が、有岡城から救出されたのは、天正7年10月12日のことです。
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by wheatbaku | 2014-05-27 11:21 | 大河ドラマ | Trackback
「囚われの軍師」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第20回)
 今回の「軍師官兵衛」は、「囚われの軍師」です。
 叛旗を翻した荒木村重の説得のために有岡城に入った官兵衛は、村重に囚われてしまいました。

 荒木村重の反逆に対して、織田信長は天正6年11月安土城から出馬します。
 総勢5万の軍勢で、荒木村重の守る有岡城をはじめ高槻城や茨木城を包囲しました。
 しかし、織田信長は、ひたすら力攻めという戦いはしませんでした。
 織田信長は高山右近と中川清秀に対する調略を行いました。
c0187004_13432265.jpg 高山右近が守る高槻城は要衝の地でした。(右写真はウィッキペデイアより)
 また、中川清秀は猛将でした。
 そのため、力攻めをすれば多くの犠牲がでると考えたからです。
 
 高山右近はキリシタンでした。
 そこで、宣教師のオルガンチーノを説得に向かわせました。
 そして、右近が降伏しなければ、キリスト教を弾圧し、宣教師とキリシタンを皆殺しにすると脅迫しました。
 高山右近は、妹と息子を人質として有岡城に差し出していました。
 右近が信長に味方すれば、人質の妹と息子は殺害されてしまいます。
悩みぬいた高山右近は、信長にも村重にも味方せず、神に仕えるために、城主の地位を棄て、家族も捨てて、紙衣一枚で城を出て信長のところに向かいました。
 一方、右近の父高山飛騨守は、有岡城の人質を救うため、有岡城に行き、自ら人質となるので娘と孫を助けるよう村重に嘆願しました。 
 荒木村重は、大変怒りましたが、人質を殺すことはしませんでした。
 高山右近が、身一つで信長の所に向かったため、高槻城は結果として無血開城となりました。
 これで、荒木村重の重要な拠点が一つ崩されました。
 
 高山右近に次いで、茨木城を守っていた中川清秀も信長に味方することになりました。
 中川清秀の調略にあたったのは、中川清秀の妹せんと結婚していた古田重然(しげなり 後の古田織部)です。
 中川清秀に対して、古田織部を通して、織田信長は、娘鶴姫を清秀の息子秀政に嫁がせるという条件を出して降伏を誘いました。
 こうした好条件を出されて、中川清秀は織田信長に味方することになりました。

 思い返せば、荒木村重の謀反のきっかけは、中川清秀の家来が本願寺に兵糧を横流ししたということでした。
 また、村重が安土城に申開きに行こうとした際に、それに強く反対したのは中川清秀でした。
 いってみれば、荒木村重の謀反の元凶は、中川清秀ともいえるのですが、その元凶があっさり、信長に味方することとなりました。
 戦国時代は権謀術数が世の習いですが、この裏切りの報を聞いた時、荒木村重はどう感じたのでしょうか
  中川清秀は、この後、織田信長に仕え、信長死後は秀吉に仕えました。そして賤ヶ岳の戦いで、猛将佐久間盛政に攻撃され戦死しました。
 家督は長男の秀政が相続し、秀政没後、次男の秀成が豊後岡藩初代藩主となり、中川家は岡藩藩主として幕末まで存続しました。
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by wheatbaku | 2014-05-17 16:03 | 大河ドラマ | Trackback
「非情の罠」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第19回)
今日は、「軍師官兵衛」について書きます。

 今回のタイトルは「非情の罠」です。
 荒木村重が、本気で、織田信長に対して叛旗を翻しました。
 これは、織田方にとって重大なことです。荒木村重は、摂津の国守であり、茨木城の中川清秀、高山右近など有力武将を傘下に抱えていました。
 そのため、村重が叛旗を翻し、中川清秀、高山右近が同調するということは、摂津一国が反織田となるということです。
 摂津一国が反織田となれば、播磨で毛利と戦っている秀吉は、後方を分断されることとなります。
 そのため、秀吉は必死になって村重を説得しますが、村重は翻意しません。
 「軍師官兵衛」では、秀吉が自ら説得をする場面があるようですが、秀吉のほか、蜂須賀小六なども説得にあたったようです。
 しかし、誰の説得にも応じません。そこで、最後に黒田官兵衛が有岡城に向かいました。
c0187004_19573481.jpg しかし、黒田官兵衛が有岡城で荒木村重に会うとまもなく捕えられ幽閉されてしまいます。
 これは、実は、 御着城主の小寺政職の謀略によるものだったのです。
 これがタイトルの「非情の罠」の意味です。

 御着城主の小寺政職が荒木村重の謀反に応じて毛利方に寝返る決意をしたという情報が官兵衛に届きます。
 そこで、官兵衛は御着城に向かい、小寺政職に会い説得をします。
 毛利に着く不利、織田方に止まることの大切さを説いて小寺政職を説得した結果、小寺政職は、「村重が翻意すれば、自分も従う」と回答します。
 そのためもあって、官兵衛は、村重を説得するため、有岡城に乗りこみます。

 しかし、荒木村重のところには、小寺政職から密使が来ていて「官兵衛が有岡城に行くから官兵衛を殺してくれ」という依頼があったのです。
 小寺政職は、織田信長に叛旗を翻すことを決めており、官兵衛が邪魔になります。
 そこで、官兵衛を亡き者にしたいと考えますが、自分の手で殺したくないと考え、小寺政職に殺害を依頼したのです。

 この小寺からの殺害の依頼があっても、さすが、荒木村重は、黒田官兵衛を殺害はしませんでしたが、有岡城内に幽閉してしまいます。

 ところで有岡城ですが、別名伊丹城と言われるごとく、現在の兵庫県伊丹市にあります。
 関東の人は、大阪空港が別名伊丹空港と呼ばれることから、伊丹市は大阪府内にあると思いがちですが、伊丹市は兵庫県にあります。
 大阪空港は、兵庫県伊丹市と大阪府豊中市と池田市にまたがっているのです。
 有岡城跡は、JR福知山線伊丹駅のすぐ西側にあります。
 有岡城は、もともと摂津の豪族伊丹氏の居城でしたが、天正2年に伊丹氏を滅ぼした荒木村重の居城となっていました。
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by wheatbaku | 2014-05-10 19:51 | 大河ドラマ | Trackback
  

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