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八月十八日の政変③(『幕末』)

今日は、八月十八日の政変の3回目ですが、八月十八日の政変の当日の動きを書いていきます。

八月十八日の政変について、いろいろ本で調べましたが、『京都守護職日誌』(菊地明編、新人物往来社刊)が一番詳しそうなので、それを中心に、18日の動きを書いていきます。

8月16日に、中川宮が参内し、孝明天皇に言上しますが、この時、孝明天皇は同意しませんでした。

しかし、その夜、孝明天皇から密使が遣わされ、政変も致し方ないので、会津藩に申付けるようにとの旨が届けられ、中川宮から松平容保に伝えらえます。

翌日17日深夜遅く(11時30分頃)、中川宮が御所に参内します。

そして、二条斉敬(なりゆき)右大臣、近衛忠煕前関白、徳大寺実則(さねつね)内大臣、近衛忠煕左大将、さらに松平容保に参内するよう11時50分頃に通知が発せられます。

 松平容保は兵を率いてすぐに参内します。

 この時、京都所司代(稲葉正邦)も参内したようです。

その直後に、米沢藩上杉弾正大弼、岡山藩松平備前守等へ兵があるものは兵を率いて即時参内するよう命令が出て、諸藩主は続々と参内します。

 会津藩は多数の軍勢を保持していましたので、その兵力と薩摩藩の兵を合せて、御所の各門が閉じられました。

 全ての門が閉じられた後、8月18日の夜明けに合図の砲声が会津藩の準備していた大砲から響きました。

会津藩と薩摩藩により御所の警備が行なわれている中で、参内した諸大名に対して「大和行幸」の延期(実際には中止)が発表されました。

c0187004_09255936.jpg

また、三条実美ら長州系公卿の参内・外出・他人との面会禁止の勅命が発せられました。さらに、国事参政・寄人を廃止し、長州藩の堺町門警備(右写真)も解かれました。


政変に気が付いた長州藩士たちは、堺町門に駆けつけ押し問答となりましたが、警備罷免の勅命が出されていたため、一旦、長州藩邸に集まりました。

c0187004_09255092.jpg

その後、長州藩邸に駆けつけた東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)らとともに、長州藩士は、関白鷹司忠熙の邸に移りました。

関白鷹司忠熙は、お召があって参内し、その後、鷹司邸に、三条実美と沢宣嘉が合流し、長州系公卿7名が揃いました。

鷹司邸に長州藩士と公卿が集まっているとの情報が御所に伝わり、三条実美等に解散の命令が出されました。

これにより、ついに七卿と長州藩は退去することを決め、妙法院へ入りました。妙法院は、2月の文化財特別公開で、拝観してきましたので、次回は、妙法院について紹介します。

この八月十八日の政変の時に、新選組も会津藩の命令を受けて御所に出動しています。夜明けの頃に出動しました。

『島田魁日記』には「8月18日、長州人引揚の節、当組南門を守る。その節、伝奏より新選組の隊名下さる」と書いてありますが、『京都守護職日誌』の解説では、「現実に彼らが新選組と称したのは後日のことであり、その節の功によりと解釈すべきである」と書いてあります。これによると、新選組と名のるのは、八月十八日の政変当日ではなく、その後(日は特定できず)のことのようです。

 


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by wheatbaku | 2017-04-12 09:20 | 『幕末』 | Trackback
京都を死場所とする覚悟で臨んだ会桑両藩(幕末)

京都を死場所とする覚悟で臨んだ会桑両藩(幕末)


会津藩主松平容保が、京都守護職を引き受ける時に、会津藩では、容保主従が、京都を死場所とする覚悟で引き受けたという話は比較的広く知られた話です。


これについて、会津若松城攻防の際に防衛総督として戦闘を指揮した山川浩が書いた『京都守護職始末』では、次のように書かれています。

『京都守護職始末』東洋文庫版は金子光春の口語訳ですが、それでもわかりにくいと思われる部分がありますので、私なりに理解しやすいように語句を変更していますので、ご容赦ください。

四、西郷、田中両家老の諌止(注:タイトルです) 
京を死場所に

 松平容保が、京都守護職を拝命すると決心したとき、たまたま家老の西郷頼母と田中土佐が会津から道を急いで到着し、松平容保に謁見した。

c0187004_22563396.jpg そして、この頃の情勢から見て、幕府の形勢が不利であることを述べ、いまこの至難の時局に当るのは、まるで薪を負って火を救おうとするようなもので、おそらく労多くしてその功がないだろうと、誠意をこめて諌めるのであった。

 松平容保は、その席にいる江戸家老横山主税等を召して、西郷頼母らのことばを告げ、「京都守護職を固辞することは、私の最初の考えであったが、しかし将軍家からの要請がしきりに下り、家来としての心構えからはもはや辞退することができない。聞き及ぶと、最初、私が再三固辞したのは一身の安全を計るためであらうとするものがあったと聞く。そもそも会津松平家には、将軍家と盛衰存亡をともにすべしという藩祖保科正之の遺訓がある。そのうえ数代に亘って将軍家からは御恩をこうむっていることを一日たりといえども忘れたたことはない。ただ、私自身が能力がないため、万一の過失から将軍家に累を及ぼすことはないだろうかと、そのことを怖れただけのことである。他の批判で進退を決するようなことはないが。いやしくも安寧をむさぼるとあっては決心するよりほかはあるまい。しかし、このような重大な任務を拝命するとなれば、我ら君臣の心が一致しなければその成果を挙げることは困難だろう。皆の者、よく議論をつくして私の進退のことを考えてほしい」とのことであった。

c0187004_22564175.jpgそのため、横山主税をはじめ、いずれも松平容保の心持ちに感激し、このうえは重大な任務につくばかりであり、ほかのことなどとやかく議論すべき時ではない君臣ともに京都を死場所としようとついに衆議一決した。 

このように、会津藩では、京都守護職を拝命すれば会津藩の将来が危うくなる怖れがあるということを承知したうえで、拝命しています。

拝命した時に予想していたことが、その後の情勢の変化で、図らずも起きてしまったということになるようです。

右写真、最上段は、金戒光明寺の山門、2段目は御影堂です。

会津藩が京都守護職を拝命した時と同様な状況が桑名藩にもあったようです。

桑名藩では当時の史料があまり残されていないようですが、桑名博物館発行の「京都所司代松平定敬」展示図録掲載の「幕末の政局と桑名藩」によれば、元治元年(1864)春に将軍家茂が京都を離れて江戸に帰ろうとした時に、桑名藩は将軍が江戸に帰ることに反対したようです。

それに関する解説で、「幕末の政局と桑名藩」には、次のように書かれています。

c0187004_22564427.jpg桑名藩士高野一郎左衛門が書いた手紙には、「今将軍が京都を離れては、慶喜が実権を握って長州も上京するに違いなく、そうなっては京都は定敬の『墓地』になる」と書いてある。高野はこの時「嘆息流沸」の体で、海路上京する幕臣に同行して[是非是非還御御差留]に向かう勢いであったという。

 このように、桑名藩士の中には、京都所司代を勤めていくことが、松平定敬の墓地になるという認識をしている者もいたようです。


そして、「幕末の政局と桑名藩」の最後には

また、松平定敬本人にとってみればこの人事は、(中略)その端緒においては全く受動的な形で中央政局に登場したということができるだろう。(中略)  図らずも火中の栗を拾った桑名藩と定敬は、後戻りのできない幕末政局のうねりへと、その身を投じていくのである。

と書いてあります。


 やはり、桑名藩も会津藩と同じように、京都を死場所と覚悟して、あえて火中の栗を拾ったようです。

右上写真は、桑名城の天守台跡です。

天守台跡には戊辰戦争の犠牲者を追悼し手明治20年に建てられた「戊辰殉難招魂碑」が建っています。


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by wheatbaku | 2017-03-15 16:40 | 『幕末』 | Trackback
  

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