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吉良富子の墓(東北寺)(広尾散歩)
 広尾散歩で、もう一ヶ寺ご案内します。
 東北寺をご案内します。
 東北寺は、東京メトロ「広尾駅」からだと徒歩10分、JR恵比寿駅からでは15分弱かかります。

c0187004_16552548.jpg 東北寺は、「とうぼくじ」と読み、北を「ぼく」と濁って読みます。
 東北寺は、臨済宗妙心寺派のお寺です。
 至道無難というお坊さんが至道庵を寛永6年麻布桜田町に創建しました。
 その後、米沢藩2代藩主上杉定勝の正室生善院が中興開基となり、元禄9年(1696)に現在地へ移転し、寺号を東北寺に改めたといいます。
 ここには、吉良上野介の正室富子のお墓があります。
 富子は、上杉定勝の四女として生まれ、万治元年(1658年)吉良上野介に嫁ぎました。
c0187004_16551754.jpg 松の廊下の刃傷事件後、吉良家の屋敷が呉服橋から本所松阪町へ移された時、富子は上野介に同道せずに芝白金にある上杉家下屋敷へ移りました。
 元禄15年(1702)12月14日の討ち入りで上野介が死去すると、富子は落飾して梅嶺院と号し、その菩提を弔いました。
 上野介がなくなった2年後の宝永元年(1704)、夫や息子の綱憲(宝永元年6月2日死去)の後を追うように上杉家下屋敷で死去しました。

 富子のお墓は、母親の生善院のお墓と隣あってあります。右上写真の中央が富子の墓です。
 なお、右側の五輪塔は、上杉定勝のお墓と書いてある本もありましたが、御住職にお尋ねしましたら、定勝公のお墓ではないとのことでした。
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by wheatbaku | 2013-05-02 16:55 | 大江戸散歩 | Trackback
黒田長政の墓(祥雲寺)(広尾散歩)
 毎日文化センターさんの六本木散歩では、広尾まで足を延ばして、赤穂浪士に関係する「祥雲寺」と「東北寺」にお参りしました。
 今日は「祥雲寺」のご案内です。祥雲寺は臨済宗のお寺です。
c0187004_145787.jpg 江戸時代を通じて臨済宗大徳寺派の触頭で、かつ「独札」(登城し将軍に単独謁見でき、乗輿も許される)の格式を誇っていたそうです。

 祥雲寺は、福岡藩2代藩主の黒田忠之が、父の黒田長政の冥福を祈るために創建しました。
 黒田長政は大徳寺の龍岳宗劉和尚を崇敬していたため、龍岳を招いて開山として、赤坂溜池の屋敷に建立し、 長政の法名・興雲をとって龍谷山興雲寺といったのがはじまりです。
 寛永6年(1629)、市兵衛町いまの麻布台に移り、瑞泉山祥雲寺といいましたが、寛永8年(1631)火災に遭い現在地に移りました。
  こうした創建の経緯から、祥雲寺は黒田家の菩提寺となっていて、黒田長政のお墓は渋谷区の史跡に指定されています。
c0187004_14573646.jpg 祥雲寺には、黒田家の他にも久留米藩有馬家など、多くの大名家の墓地がありますが、もっとも有名なのが黒田長政のお墓です。
 黒田長政は、安土桃山から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、秀吉の参謀であった黒田官兵衛(来年の  大河ドラマの主人公)の子供で秀吉子飼いの武将でした。
 しかし、石田三成とは仲が悪いため、関ヶ原の戦いでは、東軍に属して戦い戦功をあげました。
そ のため、戦後、福岡藩52万3千石を与えられて福岡藩の初代藩主となりました。
元和9年(1623)、京都知恩寺で、56歳で死去しました。
 長政のお墓は、黒田家の墓所のなかにあり、屋根で覆われています。
 墓は大変大きく5メートルもあると書いてあるものもあります。
 墓碑名には、金粉が塗られています。  

c0187004_15471178.jpg さて、長政の前にあるお墓は、長政のお墓に向かって右手が、継室の栄姫(大涼院)のお墓です。
 右写真が栄姫のお墓です。
 大涼院は保科正直の娘ですが徳川家康養女となって、黒田長政の正室となりました。
 平成26年の大河ドラマ「軍師官兵衛」では、栄姫は吉本実憂が演じています。
 長政は、正室の糸姫を離縁して、德川家康の養女である栄姫と縁組をします。
 糸姫との間には子供が一人でしたが、栄姫との間には2代目藩主となる忠之はじめ三男二女の子供に恵まれました。
 

c0187004_14575468.jpg そして、左が長女の亀子姫(清光院)のお墓です。(右写真)
 この亀子姫は、赤穂藩浅野家とも関係がないとはいえないので、ちょっとご紹介しておきます。
 赤穂藩浅野家は、もともとは、笠間藩主でした。
 正保2年(1645年)3月15日、池田輝政の六男で播磨赤穂藩の第2代藩主が突如として発狂して、正室をはじめ侍女数人を斬り殺すという騒動を起こしました。
 そのため、赤穂藩池田家は3月20日に改易されました。
 
 実は、この亀子姫が、池田輝興により殺害された正室です。
 そこで、浅野家が赤穂藩に転封されることになりました。
 それは、浅野内匠頭の祖父浅野長直の時でした。
 もし、池田輝興の事件がなければ、赤穂藩浅野家はなかったかもしれません。

 赤字が祥雲寺です。

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by wheatbaku | 2013-05-01 14:40 | 大江戸散歩 | Trackback
専称寺(六本木散歩)
 今日は専称寺のご案内です。
 桜田神社の前のテレ朝通りを広尾に向かい2分程度のところにあります。
c0187004_17202796.jpg 寛永7年(1630年)に創建された浄土宗の寺で、沖田総司の墓があることで新撰組ファンには有名です。
 専称寺という名前は、「専らに称える」、つまり、専修念仏、称名念仏の意であるため、浄土教系の寺院に「専称寺」という名前が多くつけられているようです。

  沖田総司は、陸奥白河藩士・沖田勝次郎の長男として、江戸の白河藩下屋敷で生まれました。
 幼くして両親をなくし、姉に育てられたと言われています。
 9歳の頃に、市谷にあった天然理心流の道場「試衛館」の内弟子となりました。剣の実力は天才的とも評され、若くして試衛館塾頭を務めました。
新撰組の近藤勇、土方歳三とは同門であり、浪士組結成の際に、近藤・土方らとともに 京都に上りました。
 浪士組が江戸に戻らされた際にも、近藤・土方らと一緒に京都に残り、新選組の結成に加わりました。
 新撰組では、一番隊組長として活躍しましたが、肺結核を発病し、有名な池田屋事件の際には、戦っている最中に血を吐いたともいわれています。
c0187004_17203229.jpg  鳥羽伏見の戦い後、江戸に戻り、療養を続けましたが、慶応4年5月30日になくなりました。
 沖田総司の父沖田勝次郎は奥州白河藩の家臣で麻布の下屋敷に詰めていました。
 この専称寺は白河藩阿部家の下屋敷の藩士たちの檀家寺だったそうです。
 幕末の切絵図を見ると、阿部家下屋敷は、専称寺の西側のごく近いところにあります。
 その縁で、この専称寺に沖田総司のお墓があります。
 しかし、沖田総司のお墓詣りは制限されています。
 庫裏には、左上のような張り紙がされていて、お参りができない旨が書かれています。

 沖田総司の墓を訪れることはできませんが、寺の脇の小径から墓地の中にある墓を望むことができます。
c0187004_17211530.jpg  屋根のあるお墓が沖田総司のお墓です。
 他のお墓と比べると小さめのお墓です。しかし、きれいに整っているのは、さすが新撰組人気ナンバーワンだけのことはあります。
 通常の日はお墓参りはできませんが、新選組友の会が、年に一度「総司忌」を開催していて、総司忌には専称寺のご厚意により、お墓詣りが可能です。
 今年の総司忌は6月22日に開催されるようです。
 新撰組友の会のHPによると、今年の総司忌は次のようだそうです。
 第39回沖田総司忌
 日 時:平成25年(2013年)6月22日(土)
 墓参11:00~12:30

 赤字が専称寺です。 青が昨日紹介した桜田神社です。

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by wheatbaku | 2013-04-17 08:03 | 大江戸散歩 | Trackback
福澤諭吉の墓(麻布十番散歩4)
 麻布十番散歩の最後は、善福寺です。
 善福寺は、浄土真宗本願寺派の寺院で、山号は麻布山(あざぶさん)と言います。
c0187004_16545145.jpg 平安時代の天長元年(824)に弘法大師空海によって開山されたと伝えられていて都内では浅草寺についで古いお寺です。
 当初は真言宗の寺院でしたが、鎌倉時代になって越後国に流されていた親鸞上人が善福寺を訪れた際に、浄土真宗に改宗したとされます。

 善福寺は、安政6年(1859)に善福寺はアメリカ合衆国公使館となり、明治8年12月まで公使館として利用されました。
 そこで、参堂入り口には 「最初のアメリカ公使宿館跡」の碑が建てられています。

 善福寺については、以前、書いています(「善福寺 【幕末の公使館① 江戸検定今年のお題 幕末】」)が、福沢諭吉のお墓については触れていませんので、今回は、福沢諭吉のお墓についてご案内します。
右写真は、善福寺の勅使門の写真です。後方に見える近代的なマンションは「元麻布ヒルズ」で、善福寺の隣地に建っています。
 

 福沢諭吉のお墓は、本堂向かって右手の墓域の中の開山堂の手前にあります。
他のお墓より少し広めのお墓です。
c0187004_16552932.jpg 福沢諭吉のお墓は、もともと、上大崎の常光寺にありました。
 それは、生前に福沢諭吉が、そこに埋葬するよう決めていたからだそうです。
 しかし、昭和52年、福沢家の意向で善福寺に改葬されたそうです。
 改葬された理由は確かなことはわかりませんが、福沢諭吉の葬儀が善福寺で行われていたという事情もあるように思います。
 福沢諭吉は明治34年(1901)2月3日になくなりました。
 諭吉の葬儀は2月8日に、慶応義塾をあげて行われ、当日は三田の自宅から善福寺まで「2キロ足らずの道を、1万5千人の会葬者が徒歩して棺に従った」(小泉信三『福沢諭吉』)そうです。

 なお、お墓は福澤諭吉夫妻のもので、福澤家の墓地は多摩墓地にあるそうです、

 明治34年2月8日付けの「東京朝日新聞」には次のうような記事が載ったそうです。
「◎福沢諭吉氏の葬儀・・・・・福沢諭吉氏の葬儀は本日午後一時三田出棺麻布十番善福寺において式を行える上、白金大崎本願寺(瑞聖寺の隣)に埋葬せらるべし。行列は慶応義塾普通部生徒、幼稚舎生徒、商業学校生徒、大学部生徒、次に樒三対、それより導師、香炉、位牌(大観院独立自尊居士)銘旗、次に柩にて棺側は慶応義塾評議員一同なり。次に喪主、親戚、柩台にして塾員及び同窓者も皆徒歩して之に随い、それより会葬者の順序にて一万人以上に達すべく混雑を防ぐため車夫馬丁の心附はせずという。」
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by wheatbaku | 2013-03-13 07:37 | 大江戸散歩 | Trackback
賢崇寺(麻布十番散歩2)
 今日は、麻布十番散歩で賢崇寺(けんそうじ)をご案内します。
 賢崇寺(けんそうじ)は麻布十番商店街の南西方向にあり、、麻布十番駅から、約5分の距離にあります。
 入り口は、なだらかですが長い坂道となっています。
c0187004_8382594.jpg 賢崇寺は、曹洞宗の寺です。
 寛永12年(1635年)、鍋島藩初代藩主鍋島勝茂が疱瘡で亡くなった息子の鍋島忠直の菩提を弔うためい建立されました。
 寺号は忠直の戒名 「興国院殿敬英賢崇大居士」 から興国山賢崇寺とされました。
 それ以降鍋島家の菩提寺となりました。
 本堂の裏側に、鍋島家の墓所があります。
 そこには、当初葬られた鍋島忠直、その父で初代佐賀藩主鍋島勝茂、勝茂が亡くなった際に殉死した家来30名などのお墓があるとのことですが、現在は立ち入り禁止となっていて近寄ることができません。
 左下写真は、墓所外がら撮影したものです。
c0187004_8384599.jpg 幕末の名君と呼ばれた10代藩主鍋島直正(いわゆうる閑叟の号で有名っです)の墓も賢崇寺にありました。
 本堂前に広い墓所があったそうですが、明治にできた佐賀の春日山の神道墓所に平成11年に移されました。 
 墓前に奉納されていた明治の元勲大隈重信、江藤新平、大木喬任等から寄進され灯籠が境内のかたすみに残されていて、これから整備されるのを待っています。
 東京大空襲では境内のほとんどを消失し、本堂は昭和47年に再建されたものです。

 賢崇寺には、二・二六事件で処刑された「二十二士」も葬られています。
c0187004_8391563.jpg 本堂裏側の墓所の奥まったところに、「二十二士之墓」と刻まれた墓石があります。
 これには死刑となった香田大尉、安藤大尉はじめ19名に、自決した野中大尉・河野大尉の2名、相沢事件で死刑となった相沢中佐が含まれています。

 お墓の裏側には、埋葬されている22名の死亡日と名前とが刻まれています。
 2月29日 野中四郎、3月6日 河野寿、
 7月3日 相澤三郎(中佐;陸軍省軍務局長永田鉄山少将斬殺) 
 7月12日 香田清貞(大尉)、安藤輝三(大尉)、竹島継夫(中尉)、
        對馬勝雄(中尉)、中橋基明(中尉)、栗原安秀(中尉)、丹生誠忠(少尉)、
        坂井直(中尉)、田中勝 (中尉)、中島莞爾(少尉)、安田優(少尉)、
        高橋太郎(少尉)、林八郎(少尉) 、渋川善助、水上源一
 8月19日 村中孝次(大尉)、磯部浅一(一等主計)、北輝次郎(北一輝)、西田税  

 当初は遺体の引渡しすらままなりませんでしたが、栗原安秀中尉の父勇が自ら賢崇寺の第二十九世住職藤田俊訓師に入門し、藤田住職とともに墓建立に奔走したそうです。
 現在の墓碑は、昭和27年7月12日第十七回忌法要時に建立されました。
 それまでは、二十二士の遺骨が本堂に安置されていてお墓はなかったそうです。
 それが、昭和27年に建立されたのでした。
 毎年2月26日、7月12日に慰霊祭が行なわれるそうです。ちなみに7月12日は、15人が死刑に処せられた碑です。

 二十二士のお墓にいく途中には、作家の戸川幸夫(下左写真)、詩人の蒲原有明(下右の写真)のお墓もあります。
c0187004_8424731.jpgc0187004_84307.jpg



赤印が、賢崇寺です。

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by wheatbaku | 2013-03-11 08:24 | 大江戸散歩 | Trackback
大法寺(麻布十番散歩1)
 先日の毎日文化センターの「忠臣蔵ゆかりの地を行く」では、三田地区での散歩が終わった後は、麻布十番周辺の史跡を巡りました。
 一之橋 ⇒ 大法寺 ⇒ 麻布一本松 ⇒ 賢崇寺 ⇒ 善福寺
という道順でめぐりました。

 そこで、それらについてもご案内したいと思います。

 今日は、大法寺についてご案内します。

 大法寺(だいほうじ)です。日蓮宗のお寺です。
 大法寺は 慶長2年11月(1597)、慈眼院日利上人によって創建されました。
c0187004_8451082.jpg
 また、赤門寺(あかもんでら)とも呼ばれていたそうです。
 右写真でお分かりになると思いますがお寺の塀が赤く塗られていますが、それは、昔、赤門寺と呼ばれたことに由来するものだそうです。

 大法寺は、港七福神のうち「大黒天」がお祀りされていて、一本松の「大黒様」として親しまれています。
 大法寺の大黒天は「三神具足(さんじんぐそく)大黒尊天」と呼ばれています。
 お姿が大黒天の小槌を持ち、弁財天の髪をして、背には毘沙門天の鎧をつけているところから、大黒天の福寿と弁財天の円満と毘沙門天の除災得幸を表しているといわれています。
c0187004_8453625.jpg 「三面大黒天というのがありますが、これはお顔で大黒天・弁財天・毘沙門天の三神を表していますが、大黒天・弁財天・毘沙門天の三神を身体で表しているのは全国でここだけでしょう」というのがご住職のお話でした。
 この大黒様は、もともと麻布六本木の旧家伊勢屋長左衛門の秘仏でした。
 ある時、この大黒様が、長左衛門の夢枕にたち、「長く伊勢屋にいて福寿を授けてきたが、これからは大勢の人に福寿を授けたい」と告げました。目が覚めると、大黒様はいらっしゃいませんでした。
 長左衛門が、大黒様を探すと、大黒様は、法華経三万部読誦が行われていた大法寺にいらっしゃたという言い伝えがあります。
 この大黒様は、正月元旦から七日までと大黒様の縁日である甲子(きのえね)の日にだけ御開帳されるそうで、それ以外は開帳されていませんので、残念ながら拝観できませんでした。

 また、大法寺の近くあたりに、中央義士会の案内によると、元禄時代には、吉良上野介の下屋敷があった場所とのことです。
 近くに麻布一本松があることから麻布一本松屋敷と呼ばれていました。
 面積は1756坪あり、元禄16年2月の吉良家改易まで使用されていました。

 赤印が大法寺です。

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by wheatbaku | 2013-03-07 07:52 | 大江戸散歩 | Trackback
正覚院(高輪散歩11)
今日は、福島正則のお墓のある正覚院をご案内します。
 正覚院は、昨日ご案内した済海寺のすぐそばにあります。

 幽霊坂の南側ですが、細い道を入った先にあります。
 幽霊坂沿いにある「正覚院」と刻まれた石碑が目印になります。

c0187004_17203058.jpg 正覚院は臨済宗妙心寺派のお寺です。
 ここには、福島正則と子供正利のお墓があります。
 福島正則は、有名ですので、皆さんご存知だと思います。豊臣秀吉の従兄弟と言われています。
豊臣秀吉の子飼いの武将で、賤ヶ岳の戦いでの一番槍など数々の武勲を建て、秀吉最晩年には清洲24万石の大大名となりました。
 しかし、関ヶ原の戦いでは文治派の石田三成と合わず、家康を支持し東軍に参加し、戦いの後、安芸広島で49万8200石の大名となります。
 しかし元和5年(1619)、台風により壊れた広島城の白や石垣等を幕府に無断で修理したことが武家諸法度違反に問われ、信州の高井野藩4万5千石に減封になってしまいました。
c0187004_17205083.jpg 転封後、息子忠勝に家督を譲り隠居しましたが、その忠勝が翌年に死去したことから、正則は魚沼2万5000石を幕府に返上しています。
 寛永元年(1624年)に正則も64歳で死去します。このとき、家臣団が正則の遺体を幕府の検使である堀田正吉(正利) が到着する前に火葬してしまったことから、またも法度違反であるとして、残りの2万石も没収されてしまいました。
 その後、正則の功績を考えて、正則の末子の福島正利が3112石の知行を与えられ、旗本として存続を許されました。
 しかし、正利も子供がいなかったため、断絶してしまいました。
 その後、京に住んでいた忠勝の子・正長の長男で孫にあたる正勝が召し出され、以後福島氏は2,000石の旗本として存続しました。
 この正覚院は、この旗本として存続を許された福島正利が開基で、正覚院というのは正利の院号です。
 写真右が福島正則、左が正利のお墓です。
 福島正則のお墓は供養墓で、本当のお墓は小布施の「岩松院」というお寺にあります。

 福島家は、現在も、御子孫がいらっしゃるそうです。この御子孫は、嫡男忠勝の系統の御子孫だそうです。

 その他、正覚院には、古田織部の御子孫の菩提寺でもあり、毛利重政家の菩提寺であり、明治の建築家妻木頼黄と関係のある妻木家の菩提寺でもあるそうです。

 赤印が正覚院です。


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by wheatbaku | 2013-02-21 07:15 | 大江戸散歩 | Trackback
済海寺(高輪散歩10)
 今日は済海寺をご案内します。

 済海寺は、浄土宗のお寺です。本尊は阿弥陀如来です。
 正式には周光山長寿院済海寺(しゅうこうざん ちょうじゅいん さいかいじ)といいます。

 元和7年(1621)に越後長岡藩初代藩主牧野忠成と念無聖上人によって創建されました。
c0187004_2215062.jpg そのため、江戸時代は越後長岡藩牧野家の菩提寺でした。
 しかし、昭和57年、長岡の悠久山蒼柴(あおし)神社への改葬が行われ、現在は、合祀墓が残るだけとなっています。

 また、伊予松山藩松平家の江戸での菩提寺であり、松平家から1500坪の土地の寄進を受けたこともあったようです。
 伊予松山藩松平家は久松松平家ともいい、家康の生母於大の方の再嫁先で、譜代の名門です。
 明治以降は、久松家と名前を変えています。
 この伊予松山藩松平家は赤穂浪士を預かった四家の一つです。
 当時の藩主は五代藩主松平定直でした。
 松平定直は、赤穂浪士のうち大石主税良金・堀部安兵衛武庸、不破数右衛門正種・大高源吾忠雄など10名の預かりを命じられました。
 この命令は、藩主定直が病気で江戸城への登城ができなかったため、家臣を通じてこの命令を受けうけました。
 赤穂浪士を受け取ったのは12月15日ですが、定直は年が変わった元禄16年1月5日になって、ようやく浪士達と会見し、会見の遅れたことを詫びた上で仇討ちを称賛したそうです。
 この定直の墓も済海寺にあります。
 しかし、東日本大震災後、墓石がくずれやすくなっていて危険なことから、一般の人は墓域に入ることが禁止されているため。お参りできません。
 牧野家の墓地も同様の理由でお参りできません。

 済海寺は、安政6年(1859)にフランス公使館となり、明治7年まで続きました。 
c0187004_22151845.jpg 安政5年(1858)9月に日仏修好通商条約が締結され、安政6年(1859)8月に初代フランス駐日総領事ド・ベルクールが江戸に到着し、領事館が済海寺に設置されることになりました。
 文久元年(1861)には公使館となって明治3年4月に公使館が引き払われるまで、書院、庫裡が宿館として使用されました。
 文久3年に着任した公使ロッシュがここを拠点にして活発に幕府支援の外交を展開しました。


 赤印が済海寺です。

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by wheatbaku | 2013-02-20 07:19 | 大江戸散歩 | Trackback
広岳院(高輪散歩7)
 今日は、広岳院(こうがくいん)についてご案内します。
 承教寺から二本榎通りを北側に5分ほどあるくと右手に東海大学が見えてきます。その向かい側が広岳院です。
c0187004_22301490.jpg 広岳院は曹洞宗の寺院です。山号は医王山といいます。
 寺号は信濃国飯山藩佐久間家初代藩主佐久間安政の嫡男勝宗の法名広岳院殿より名付けられました
 勝宗は享年28で父に先立ってなくなりました。そこで勝宗の菩提をともらうために安正政が創建しました。
 佐久間安政は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将で、佐久間氏の一族で、母は柴田勝家の妹であるので、柴田勝家は叔父にあたります。
 佐久間盛政の弟で、上野東照宮のお化け燈籠を寄進した佐久間勝之の兄にあたります。

 広岳院は赤穂浪士とも関係のあるお寺です。
 赤穂浪士一行が、泉岳寺に引き上げてきたときに、泉岳寺では丁重に迎え、粥とお酒がふるまわれたと言います。通常は、お寺は禁酒ですが、特別の日だからということで酒がだされたようです。
 これらの対応の指揮をとったのが、泉岳寺住職の長恩和尚、副司(ふうす)の承天則地和尚でした。副司というのは、禅宗のお寺で、食物やお金の調達を担当する職だそうです。
 その副司の承天則地和尚がいたお寺が広岳院です。広岳院の6世住職でした。
 承天則地和尚はのちに、泉岳寺の住職となり、さらに曹洞宗の総本山である永平寺の住職(禅師)にまでなっています。

c0187004_22303436.jpg 広岳院は、幕末には外国公使の宿舎ともなっています。
 幕末の慶応元年(1865) 4月3日に、 幕府は、プロイセン領事 のフォン・ブラント に、広岳寺を、、江戸滞在中の宿舎とするよう通告しました。
 プロイセンの宿舎は翌年には麻布 の春桃院 に変更されたため、広岳院での利用は短期間でした。
 プロイセンの宿舎の候補として、この付近の建物が大きく境内が広い寺院が四つあげられました。
高輪の朗惺寺 や承教寺、三田小山の永隆寺などを候補とし、その中から境内の広さや建物の規模な どを考慮して選んだといいます。
c0187004_17475770.jpg

 現存する広岳院の本堂は、弘化年間の火事の後に再建されたもので、幕末の外国公館として使われていた建物の現存例としては唯一のものです。
 この本堂を再建したのは、肥前佐賀藩鍋島家の一族で、北町奉行も務めた鍋島直孝です。
 鍋島直孝は、幕末の佐賀藩の名君鍋島閑叟(かんそう)の実兄ですが、旗本鍋島家に養子に入りました。
 鍋島直孝はあさがの研究をした殿様としても有名です。
 以前書いた 「変化朝顔 (朝顔③  江戸の花)」 をご覧ください。

鍋島直孝のお墓が広岳院にあり、ご住職のご配慮によってお参りさせていただきました。

 旗本鍋島家のほか、この広岳院には、肥前鹿島藩鍋島家、高家畠山家の墓もありますが、開基の佐久間家の墓はなくなっていると御住職がおっしゃっていました。
 
 ご住職さんありがとうございました。

 赤印が広岳院です。

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by wheatbaku | 2013-02-13 07:16 | 大江戸散歩 | Trackback
承教寺(高輪散歩6)
 今日は、高輪の承教寺(じょうきょうじ)をご案内します。

 承教寺は、昨日ご案内した高輪消防署二本榎出張所の前の二本榎通りを北に3分ほど歩いて場所にあります。

 承教寺は、、鎌倉時代 の正安元年(1299)芝西久保に創建され、承応2年(1653)現在地に移転しました。
 日蓮宗のお寺で江戸時代には池上本門寺の末頭として触頭を勤めていました。

 この承教寺では、江戸時代中期の絵師英一蝶が描いた釈迦如来像を拝見させていただきました。
c0187004_20591627.jpg 当初は、「釈迦如来像」というので木像かと思いましたが、下見の際に、副住職様に「絵です」と聞かされてびっくりしました。
 英一蝶の絵は、本堂の一画の応接室に副住職様が事前に掲げておいてくださいました。
 丁寧に副住職様に説明いただきました。

c0187004_2103472.jpg 港区教育員会のコメントによれば、
 この図は英一蝶の作品のなかで、数少ない仏画であり、いわゆる「清涼寺式釈迦像」の図像に準拠して描かれたものだそうです。
 款記から、この画の制作は江戸に帰った宝永6年(1709)以降となり、最晩年に属する時期の作品と考えられています。
 一蝶作の仏画としては、三宅島に配流されていた時代に、注文に応じて描いた作品が現在も数点残されいますが、いずれも一蝶流の軽妙な筆致で描かれたものであり、必ずしも本格的な仏画とは言い難いもので、この仏画は大変貴重なものだそうです。


c0187004_211985.jpg 英一蝶は、承応元年(1652)大坂に生まれました。
 15歳(一説には8歳)の時、伊勢亀山藩の藩医となった父多賀白庵に従って江戸に移りました。
 絵は狩野安信に師事し、また書、俳諧、音曲にも秀で、当時のいわゆる通人でした。

c0187004_2122817.jpg 英一蝶は、暁雲の号で俳諧に親しみ、俳人・宝井其角、松尾芭蕉と交友を持っていました
 また、吉原遊廓通いを好み、客として楽しむ一方で、自ら幇間(いわゆるたいこもち)としても活動していました。
 大変すばらしい芸だと伝わっているようです。そのため、豪商の紀伊國屋文左衛門や奈良屋茂左衛門との交流もあったようです。
c0187004_2145082.jpg しかし、元禄11年(1698)に三宅島に遠島となってしまいます。
 一般的には、英一蝶が「朝妻舟」の絵をかいて将軍綱吉を風刺したとされています。
 朝妻舟は、元々は琵琶湖畔の朝妻(米原市朝妻筑摩)と大津と間での航行された渡船です。

c0187004_215881.jpg 後に琵琶湖に 船を浮かべて客を取った遊女のことをさすようになりました。
 そこに描かれた遊女が、吉の愛妾お伝の方を描いたとされ、綱吉を風刺したものといわれています。
 しかし、遠島となった理由については綱吉を風刺したからという説のほか次のような諸説があります。
 1、綱吉の実母桂昌院の一族の本庄家などの大名に遊蕩を勧めたため
 2、「馬が物言う、牛が物言う」という歌を広めたため
 3、「生類憐みの令」に違反して魚釣りをしたため など

 英一蝶は、三宅島に12年間いたのち、綱吉死去により家宣が将軍となったことによる宝永6年(1709)の大赦により江戸に戻りました。
c0187004_2110985.jpg 赦免の報を聞いた時、蝶が花に戯れる様を見て「一蝶」と号したといいます。

 承教寺には、英一蝶のお墓もあります。
 このお墓は、明治6年に再建されたもののようです。
 英一蝶の御子孫は、現在でも、「英」姓を名乗っているようです。

 承教寺には、古い建物が現存しています。
 現在の本堂は天明元年(1781)建立されたものです。
 延享2年(1745)に大火で類焼しましたが、山門・仁王門・鐘楼は焼失を免れ現存しています。

 左上から順に、山門、仁王門、鐘楼、本堂です。


 承教寺の山門前には、二本榎の碑と「件(くだん)」があります。
二本榎の碑
c0187004_21124892.jpg ここ二本榎の碑があります。
 このあたりは、二本榎と呼ばれた地域ですが、その由来が書かれています。
 そのによると、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高縄手」と呼んでいましたが、そこにあった上行寺門前に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。
誰いうとなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになりました。
それがそのまま「二本榎(にほえのき)」という地名となって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。

件(くだん)
c0187004_21125998.jpg 承教寺山門前にに狛犬に似て、狛犬ともちがう石造の動物の置物があります。
 これは、「件(くだん)」と言います。
 「件」の文字通り、半人半牛の姿をした怪物です。
 幕末頃の伝承では、牛から生まれ、人間の言葉を話すとされています
 生まれて数日で死ぬが、その間に作物の豊凶や流行病、旱魃、戦争など重大なことに関して様々な予言をし、それは間違いなく起こる、とされています。
 この置物は、承教寺の檀家の方が寄進したものだそうです。
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by wheatbaku | 2013-02-09 07:47 | 大江戸散歩 | Trackback
  

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