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京都守護職ゆかりの地(幕末)

 京都守護職の本陣は、金戒光明寺に置かれたことは前回書きました。

 しかし、京都には、金戒光明寺のほかに、京都守護職ゆかりの建物があります。

 まず、現在の京都府庁の敷地内に石柱があります。

 そのほか、二条城近くの京都国際ホテル敷地内や岡崎の平安神宮の駐車場に門が残されています。

 これらは、今回の旅行では訪問しませんでしたが、以前書いたものがありますので、再度掲載しておきます。
 以前、掲載したものですので、現場の様子が変わっているかもしれませんがご容赦ください。

 現在、京都府庁は欅並木の美しい釜座(かまんざ)通りの正面にあります。
c0187004_11583142.jpg 京都府庁庁舎の旧本館は国の重要文化財です。
 明治37年12月20日に竣工し、地上2階建、延床面積約6,100平方メートルあります。工期3年余、総事業費は当時では破格の約36万6千円を要しました。
 建物の外観は、正面の一段高くなった屋根を中心として左右両翼に対称に張り出した形となっています。すごく風格のある立派建築物で驚きました。

 幕末には、ここに京都守護職の屋敷がありました。
 会津藩は、江戸時代、京都に藩邸を持っていませんでした。
c0187004_1159190.jpg そのため、文久2年(1862)12月、藩主の松平容保が京都守護職に任命され上洛した当初は、黒谷の金戒光明寺を本陣としました。  
 しかし、文久3年の末ごろから次第に御用屋敷が仁備されていきました。
 まず、京都所司代屋敷の北側に御用屋敷が造営されました。
 さらに、京都守護職の中心的な屋敷が、下長者町通りを北辺とし、南辺を下立売通り、東辺を新町通り、西辺を西洞院通りとする範囲に築造されました。
 これが、現在の京都府庁になっている場所です。
 京都府庁正門を入ると右手に石柱と『説明板が設置されています。
 休日には正門が閉鎖されていて、東門からのみ入れます。
 
 京都守護職の中心屋敷は、現府庁である釜座(かまんざ)の屋敷ですが、松平容保は、京都守護職屋敷に常駐していたわけではないようです。

 
 京都守護職の屋敷の門が、京都市内に2か所残されています。
c0187004_1202440.jpg 京都守護職屋敷門が、二条城近くの京都国際ホテルの東側駐車場に残されています。
 江戸時代、京都国際ホテルの敷地は江戸時代には越前福井藩の京屋敷でした。
 ここに、京都守護職屋敷の西洞院御門を明治になって移築したというのが京都国際ホテルの説明でした。
 ちなみ、京都国際ホテルの敷地は、明治になってからは、藤田観光などの創業者藤田伝三郎の別邸でした。

 また、もう一つ京都守護職屋敷の門が残されていました。
 c0187004_1204186.jpgそれは、京都会館北側の冷泉通りに面した平安神宮の駐車場に残されています。
 現在は、駐車場の片隅にあるように見えます。
 しかし、この門の北側には、京都武道センターがあります。その中に、明治28年に建てられ、国の重要文化財に指定されている旧武徳殿があります。
 元京都守護職屋敷門は、もともと、この武徳殿の正門として利用されていたものです


 以上書いた門のほかにも、京都守護職ゆかりの地があります。

 京都御所の東側にある清浄華院(しょうじょうけいん)を松平容保が一時期宿舎にしてこともありました。
c0187004_11594796.jpg このことは、清浄華院のお坊さんの説明もありました。
 現在、清浄華院の阿弥陀堂となっている建物は、以前は松林院という塔頭だったそうです。これが、松平容保の宿舎として利用されました。
 これは、文久3年12月13日、翌年正月の将軍家茂の上洛が予定されていたため、それまで仮館としていた施薬院から清浄華院に移ったのです。
 それは、将軍が参内するときには、必ず、施薬院で衣冠を改めていたため、家茂の上洛の際には家茂が使用するようになるからです。  

c0187004_120951.jpg また、御所の南にある凝華洞(ぎょうかどう)を仮館にしたこともあります。
 凝華洞跡についての説明板には次のように書かれていました。
 江戸時代第111代後西天皇退位後の仙洞御所があったところといわれています。
 1864(元治元)年禁門の変の頃、京都守護職に任じられていた会津藩主松平容保は病を患い、朝廷の配慮もありここを仮宿舎にしました。

 このように、幕末期は激動の時期でしたので、京都守護職の松平容保の宿舎は、その時の情況に応じて臨機応変に変わったものと思われます。

 さらに、鴨川の東側の聖護院村にも用地を与えられ、ここを練兵場として活用しました。
 このように、会津藩では京都守護職の任務を果たすため、いくつかの屋敷が整備されました。

 













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by wheatbaku | 2017-03-12 12:33 | 『幕末』 | Trackback
孝明天皇の死(八重の桜 第16回「遠ざかる背中」)
 昨日の「八重の桜」では、孝明天皇が亡くなる場面がありました。
 そこで今日は孝明天皇の死について書いてみたいと思います。

 孝明天皇は、慶応2年(1866)12月11日に、宮中内侍所の臨時御神楽の儀式に出席し、翌日より発熱、まもなく疱瘡と診断されました。
c0187004_8364963.jpg そして、25日夜半、激しい嘔吐や下痢し、ついに亡くなりました。

 天皇の急死については、痘瘡・病気説がある一方であまりにも急になくなったため毒殺説が当時からささやかれました。
 アーネストサトーの「一外交官の見た明治維新」では、当時宮中から毒殺のうわさが流れていたことが書かれているそうです。

 戦後になって、昭和50年に孝明天皇の御典医の曾孫の伊良子光孝氏が曾祖父光順(みつおさ)の日記とメモをもとに毒殺説を主張したことから、学会において、毒殺説が有力となりました。
毒殺説の考えにたって書かれた主なものとしては、次の資料があるようです。
 石井孝(元東北大学教授)「孝明天皇病死説批判」(『近代史を視る眼』)
 明田鉄男(滋賀女子短期大学教授)「孝明天皇怪死事件」(『人物探訪日本の歴史 20 日本史の謎』)
 田中彰(元北海道大学名誉教授)「孝明天皇毒殺事件」「天皇毒殺」(『明治維新の敗者と勝者』)
 かなり多くの人が孝明天皇毒殺説をとっていることがわかります。

 しかし、名城大学名誉教授の原口清氏は、「孝明天皇は毒殺されたのか」(藤原彰ほか編「日本近代の虚像と実像」)で、毒殺説を批判し痘瘡説を主張しました。
 天皇の病状が好転したというのは明確な根拠がなく、死亡時の紫斑点や出血から判断した、孝明天皇は出血性疱瘡で亡くなったと主張しました。
 これに対して、石井孝氏は毒殺説をとる立場から「原口清氏の孝明天皇病死説に反駁する」で反論しています。しかし、現在では、論争は中断されているようです。
 
 毒殺説の背景には、孝明天皇は、佐幕主義者であったので、倒幕をめざす勢力にとっては、孝明天皇自体の存在そのものが大きな障害だったという政治情勢が考慮されていて、そのため、孝明天皇を除くという陰謀が、討幕派の中でめぐらされたという論理構成となっているようです。

 孝明天皇がなくなり、おさない明治天皇が即位したことにより、倒幕派の主張が通りやすくなり、徳川幕府は追い詰められていきます。
 そして、会津藩も同じ運命をたどることになります。
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by wheatbaku | 2013-04-22 08:32 | 大河ドラマ | Trackback
第2次長州征伐(八重の桜 第15回「薩長の密約」)
今日は「八重の桜」に関する事項として、第2次長州征伐について書いていきます。

 まず昨日の「八重の桜」で一寸びっくりしたことがありました。
 昨日は、薩長同盟も取り上げられていましたが、薩長同盟の立役者である坂本龍馬が「土佐藩脱藩浪士」とだけ紹介されていたのにはちょっとびっくりしました。
 薩長同盟については、以前に 薩長同盟① と 薩長同盟② で書いていますので、より詳しく知りたい方はご覧ください。

 さて、「2次長州征伐」についてですが、長州征伐にあたって、 幕府は、当初、次の5方面からの長州征伐を計画していました。
c0187004_925795.jpg ①広島方面から攻める芸州口、②石見(現在の島根県)から攻める石州口、③瀬戸内海の周防大島から攻める大島口、④小倉方面から攻める小倉口、⑤長州藩の本拠の萩を直接攻める萩口
 です。
 しかし、萩口を担当することとなっていた薩摩藩が出兵を拒否したので、4方面からの攻撃となりました。
 そのため、第2次長州征伐を長州側では「四境戦争」とも呼びます。


 大島口の戦い
 4方面の中で、最初に戦端がきられたのは大島口でした。
 6月8日、幕府の「富士山丸」が砲撃を行ったあと松山藩兵が上陸しました。
 大島口は、幕府陸軍の洋式歩兵隊と松山藩が担当しました。
 長州藩は戦力分散を避けるため大島は捨てる作戦でした。
 しかし、占領された大島の惨状を見て、奪還論が強まり大島奪還に方針転換し、小倉口を担当する戦力の一部が大島奪還を目指しました。
 高杉晋作は、「丙寅丸」によるや夜間奇襲戦法により幕府海軍を敗走させました。
 その後、芸州口を担当していた世良修蔵指揮下の第二奇兵隊らが上陸し幕府軍を大島から撃退しました。


 芸州口の戦い
 幕府の本営は広島に置かれ幕府軍の主力が配置されました。
 これに対して長州藩も精鋭を芸州口に配置しました。
 6月14日の戦闘は、広島から周防に通じる西国街道を主戦場として行われました。
 幕府の先鋒の彦根藩は、西国街道を進み安芸・周防国境を流れる小瀬川を渡ろうとしたところ長州藩の銃撃を受けました。
 井伊隊は長州藩の攻撃に対して大敗し、逃げた後には多数の具足が捨てられていたと言います。
 井伊隊が配送すると大竹に布陣していた高田藩榊原家の藩兵も一戦も交えず逃げ出しました。
 四天王と言われた井伊直政と榊原康政を藩祖とする彦根藩と高田藩はみじめ姿をさらすこことになりました。
 両藩が敗走した後、幕府軍は紀州藩の付家老である水野氏が藩主の新宮藩と陸軍奉行竹中重固(しげかた)が指揮する幕府軍陸軍の歩兵部隊が出撃しました。
 この幕府軍部隊と長州藩兵は四十八坂で激突しました。この部隊は頑強に戦い、長州藩の攻撃を撃退しました。その後の長州藩の攻撃も排除し、芸州口は膠着状態となりました。
 

 石州口の戦い
 石州口から攻めた幕府軍は、福山藩、浜田藩、津和野藩でした。
 長州藩は大村益次郎が指揮を執りましたが、積極的に攻勢に出ました。
 津和野藩は、隣藩であり長い誼があることから、攻めるどころか、長州藩が藩領を通過するのを黙認しました。
 長州藩は、6月17日に浜田藩領の益田を攻めました。
 益田を守備していたのは福山藩でしたが、長州藩の新式銃ミニエー銃の前に抗することができず、2日間で長州藩に占領されました。
 益田占領のあと長州藩は浜田を攻めました。
 7月18日、浜田藩は浜田城に火をつけて撤退をしました。

 
 小倉口の戦い
 小倉口では、幕府軍は老中小笠原長行(ながみち)が総督として指揮しました。長州藩は、高杉晋作が奇兵隊を指揮して戦いました。
 6月17日に長州藩が田野浦上陸し緒戦に勝利し、7月2日には大里(だいり)の戦いでは、小倉藩が単独抗戦を強いられる状態で、小倉藩は敗北しました。
 7月下旬の赤坂・鳥越の戦いでは肥後藩細川家が参戦し、長州勢を圧倒する戦いを見せました。しかし肥後藩が単独で戦うことを強いられ、怒った肥後藩は撤兵してしまいました。
 そして、7月30日には小笠原長行自身も戦線を離脱した。
 これは、将軍家茂が7月20日に亡くなったとの報が届いていためです。
 こうして、小倉藩は、一藩で戦う羽目となり、小倉城に火をつけて撤退するということとなり小倉城は焼失しました。
 右上写真は、現在の小倉城です。

 この小倉口の戦いでの敗北により幕府軍の敗北が決定的となりました。
この敗退の方が大坂に届いたため、昨日の「八重の桜」でも描かれていたように、当初勇ましかった慶喜が急遽に休戦に方針を変更したのでした。
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by wheatbaku | 2013-04-15 09:21 | 大河ドラマ | Trackback
蛤御門の変((八重の桜 第12回「蛤御門の変」)
 昨日の「八重の桜」は「蛤御門の変」でした。
 この「蛤御門の変」について「京都守護職始末」にどう書かれているのか、今日は書いていきたいと思います。
 
 当時、京都に駐在していた会津藩の軍勢は、二陣すなわち8隊および容保直属の部隊で、総勢1500名程度でした。
c0187004_9234193.jpg 第一陣は、家老神保内蔵助が陣将で、第二陣は家老内藤信節(のぶこと)が陣将でした。
 第一陣は、新撰組とともに九条河原に陣取り伏見の長州勢に備えました。
 伏見の長州勢は福原越後が率いる500名ほどの軍勢でしたが、大垣藩兵と戦い、大敗を喫して敗走しました。
 第二陣は、陣将内藤信節は1隊を率いて唐門を守り、2隊が蛤御門を守り、1隊が黒谷の本陣の警備につきました。
 なお、陣将内藤信節は、梶原平馬の実兄です。梶原平馬は内藤家に生まれ、梶原家の養子となっていました。
 蛤御門の守備隊は、敵は正面からくるものと考え、大砲を門外に出して備えていました。
c0187004_924674.jpg 嵯峨天龍寺に構えていた長州勢は京に攻め入りました。
 国司信濃の率いる軍勢は中立売門(蛤御門の北の門)を守っていた筑前兵を破り門内に入り、蛤御門の会津勢に砲撃をくわえまてききました。
 一方、下立売門側からは来島又兵衛の隊が攻めてきました。
 そこで、会津勢は、大砲を門内に引き入れ、南側から攻めてくる長州勢に砲撃を加えました。
 長州も、砲撃してきたため。会津藩側にも多数の死傷者がでました。
 しかし、薩摩藩や桑名藩の応援があり、来島又兵衛も倒れたため、ついに長州勢は敗走し始めました。
 京都御苑内に「清水谷家の椋」(左上写真)という木が残されていますが、来島又兵衛はこの椋の木の近くで亡くなったといわれています。

 この時の戦いは「禁門の変」」とも呼ばれますが、蛤御門での戦いが最も激しかったため、「蛤御門の変」とも呼ばれます。
 蛤御門には、当時の銃弾の跡も残っています。(右下写真)

c0187004_9242345.jpg 一方、山崎に陣をしいていた益田右衛門介の隊は、鷹司邸に入り、堺町御門を守る越前兵を砲撃しました。越前兵は、敗走し、新手の彦根藩や桑名藩の軍勢が加わり長州勢を攻めましたが、長州側は鷹司邸に立てこもり戦い続けました。
 そこで、会津藩の十五ドエム砲により、鷹司邸の塀を砲撃し崩壊させて攻め入りました。
 そして、邸内にいた久坂玄瑞や寺島中三郎は自刃し、真木和泉は負傷しながらも鷹司邸を脱出しました。その後、男山八幡で自刃しました。


 以上が、「京都守護職始末」に書かれている「蛤御門の変」の情況です。
 「京都守護職始末」には、山本覚馬の名前は出てきません。
 しかし、この戦いでは大砲・鉄砲が重要な役割を果たしていますので、山本覚馬は大砲隊を指揮して奮戦したものと考えられます。

 なお、蛤御門の変での山本覚馬の奮戦ぶりは、「心眼の人」(恒文社刊、吉村康著)によく描かれてます。
 昨日の「八重の桜」では、山本覚馬が、蛤御門で大砲隊を指揮して活躍ていしますが、その山本覚馬の姿は、「心眼の人」に描かれている姿そのものです。
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by wheatbaku | 2013-03-25 09:18 | 大河ドラマ | Trackback
松平容保の病い(八重の桜 第11回「守護職を討て!」)
 昨日の八重の桜」は、珍しく時間がゆっくり流れていました。
 文久3年6月5日の池田屋事件以後の長州進発を踏まえて、7月 日の佐久間象山暗殺事件から7月17日の「蛤御門の変」までの出来事でした。

 先週から松平容保は病気になっていて、綾野剛も弱々しく演じていましたが、今週も弱々しい容保でした。
 容保は元々蒲柳の質でした。京都守護職の就任要請を受けた時も頑強に固辞しましたが、それは、健康でないことも要因の一つでした。
c0187004_9555836.jpg それが、守護職となって京都に赴任して、激しい京都の政治状況の中で、激務をこなしてきました。
 当然、心労も重なります。そうしたことから、体調を壊してしまうのも当然といえましょう。
 文久4年正月以降は、容保は体調はひどく悪かったようです。
 山川浩が書いた「京都守護職始末」にも
 「わが公の病は甚(はなは)だ重く、食物が咽喉を通らないことが旬余日もつづき、衰弱が甚だしく、主治の医員も手を空しくこまぬいて、術の施しようがなかた。」
 と書かれています。
 そのため、京都守護職の辞任を申し出ます。
 しかし、容保に対する孝明天皇の信任が厚く、軍事力をもった会津藩が、京都を去ってしまいますと京都における幕府の力が弱まることになります。
 そのため、容保の辞任は許されませんでした。
  
 容保の病気が何だったとのだろうという疑問が起きます。
 容保の病状は、側に仕える医師の土屋一庵、東条玄硯から、定期的に江戸と会津に報告されています。
c0187004_8293820.jpg  その記録に基づき、星亮一氏が医師に病名を尋ねた結果が、中公新書「幕末の会津藩」(星亮一著)に書かれています。
 それによると
 「これらの症状は現代の医学でいえばどんな病気に該当するのか。以前、私は複数の内科医に聞いてみたことがあった。それを総合すると胆道系の病気、胆石症、胆嚢炎にほぼ間違いということだった」そうです。
 また、「しばしば風邪をひいているところから胸部疾患、軽い結核も考えられるという医師もいた」そうです。

 こうした病気で体調が不十分の中で、容保は京都守護職を務め、蛤御門の変も迎えることになります。

 右上段の写真は、京都国際ホテルに移築されている「京都守護職屋敷正門」です。
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by wheatbaku | 2013-03-18 07:33 | 大河ドラマ | Trackback
池田屋事件(八重の桜 第10回「池田屋事件」)
今週の「八重の桜」では、池田屋事件が発生します。
 
 池田屋事件は、幕末の元治元年(1864)6月5日年に、三条小橋脇の池田屋にいた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、新選組が襲撃しました。

 池田屋事件は、6月5日に捕らえらた古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)の自白により尊王攘夷派の浪士による「御所に火を放ち、一橋慶喜や松平容保を暗殺し、孝明天皇を長州にお連れする」という容易ならざる計画が実行されようとしていることがわかりました。
c0187004_22211617.jpg 新撰組はすぐに会津藩に報告しました。
 会津藩では、緊急の重役による会議を開きました。
 打ち捨てておけば役目がはたせないし、取り押さえれば長州および尊攘派から恨みをかうことになるがこの機会をのがす訳にはいかないということになり、容保も同意しました。
 そこで、慶喜、所司代に相談すると、それぞれ同意しました。
 新撰組には祇園会所へ集合を命じました。
 
 当日の態勢は、次のような大掛かりの態勢が計画されました。
 会津藩150人、彦根藩150人、所司代100人、京都町奉行70人、淀藩100人
 そして、新撰組は、四条辺りから北上し、会津藩は二条辺りから南下し、一か所に落ち合うという計画でした。
 しかし、会津藩は、慶喜や所司代との打ち合わせに時間がかかり出動できたのが夜遅くなってしまいました。
 そのため、新撰組は、指示通り5ツ時に集合しましたが、会津藩は、予定時刻に集まりませんでしたので、新撰組が単独で市中探査を開始することとなりました。
c0187004_22223885.jpg 新撰組は、近藤勇が隊員9名を率いた組と土方歳三を隊長とする組とに分けて、探索を開始しました。
 そして、近藤勇が、三条の池田屋に尊攘浪士が集合していることを察知し、踏み込んだのでした。
 この戦いで、新撰組は、多くの尊攘派浪士を殺害しました。
 肥後の宮部鼎蔵、土佐の石川潤次郎、伊予松山の福岡祐次郎は池田屋内で殺害されました。また、長州の吉田稔麿は木屋町通の加賀藩邸前で討死、土佐の望月亀弥太は河原町通り二条の角倉邸前で自害、北添佶麿は翌日の残党狩りの際に殺害されました。
 さらに、肥後の松田重助、林田藩の大高又次郎、長州の杉山松助、長州の広岡浪秀も殺害されました。 
 池田屋事件で殺害された人物は、尊攘派の大物・逸材が大勢いました。
 そのため、この事件に長州藩は激高し、京都に進軍することとなり、禁門の変を引き起こすこととなります。
 そして、会津藩、池田事件をきっかけに、長州藩と完全に敵対関係になりました。
 
 池田屋事件については、以前、詳しく書いていますので、そちらもご覧ください。
 池田屋事件① 
 池田屋事件②
 池田屋事件③
 池田屋事件④
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by wheatbaku | 2013-03-10 07:11 | 大河ドラマ | Trackback
中之橋と一之橋(三田散歩6)
 今日は、中之橋と一之橋について書いてみます。
 中之橋と一之橋は古川に架かる橋です。古川は上流では渋谷川と呼ばれ、港区に入ると古川と呼ばれます。

【中之橋】
 昨日の元神明宮から北に 200メートルほど歩くと中之橋に出ます。
 中之橋は古川にかかる橋で、赤羽橋と一之橋の中間にあります。
c0187004_819743.jpg ここで、アメリカ初代公使ハリスの通訳をしていたヒュースケンが襲われました。
 ヒュースケンは、当時、幕府とプロシアの交渉に通訳として協力していました。
 万延元年(1861)12月4日にプロシア使節の宿舎であった赤羽接遇所から、自分の宿舎の善福寺へ帰える途中、「中之橋」付近で攘夷派の薩摩藩士、伊牟田尚平(いむたしょうへい)らに襲われ、翌日死去しました。
 28歳という若さでした。

 中之橋とヒュースケン襲撃事件については以前書いたブログをご覧ください。
 → 「光林寺とヒュースケン(幕末の公使館③)」

【一之橋】
 中之橋の上流に架かっている橋が一之橋です。地下鉄の「麻布十番」駅のすぐ近くです。
 この一ノ橋で、浪士組の清河八郎が暗殺されました。 
c0187004_8193220.jpg 清河八郎は将軍守護を名目に浪士組を結成し京都まで行きますが、攘夷実行が本当のねらいだと暴露したため、幕府ににらまれ、浪士組は江戸に返されます。
 江戸に戻った後、浪士組を動かし攘夷を実行しようとしますが、幕府を裏切ったため、幕府からにらまれ、命も狙われるようになりました。
 そして、文久3年4月13日、一ノ橋の西にあった上山(かみのやま)藩邸の金子与三郎を訪ねた帰り道で、幕府の刺客佐々木只三郎など6名によって一ノ橋で討たれました。
 清河八郎の経歴は、過去に書いていますので、下記のブログをご覧ください。
  「浪士組と清河八郎」
  「浪士組と清河八郎②」
 そこに書いていない点を二つほど書きます。
 清河八郎が一之橋を通り過ぎたのは、上山(かみのやま)藩の金子与三郎を訪ねた帰りです。
 清河八郎が命を狙われていることを同志たちは知っていたため、金子与三郎を訪ねるのを必死に引き留めました。
 しかし、その忠告にもかかわらず清河八郎は、金子与三郎を訪ねています。
 また、当日、朝風呂に入っていることや知人の高橋泥舟の家で辞世めいた和歌を書き残していることなどから襲撃されることを覚悟した上で出かけたのではないかという説を主張する人もあるようです。
 
 佐々木只三郎などにより斬られた清河八郎の遺体は、一之橋の東たもとにあった大和郡山藩柳沢家の下屋敷前に置かれ、郡山藩の藩士が見張っていました。
 そこに虎尾の会の同志であった石坂周蔵が到着し、石坂は清河が親の仇だと偽って遺体に近づき、清河八郎の首を奪い取りました。
 その首は山岡鉄舟の家に保管され、その後、伝通院の塔頭の処静院に葬られました。
 現在、清河八郎の墓は、伝通院の墓地にあります。墓碑銘は、山岡鉄舟の筆によるものとのことです。
 清河八郎は、暗殺されるのを覚悟していたという見方もあるようです。

 なお、清河八郎が中心となって結成した「虎尾の会」は尊王攘夷党であり、「虎尾」とは「書経」の「心の憂慮は虎尾を踏み、春氷を渡るごとし」より起った言葉で、「危険を犯す」という意味のようです。
 主なメンバーは幕臣の山岡鉄舟(鉄太郎)や松岡万、薩摩藩士の伊牟田尚平・神田橋直助・益満休之助、彦根藩士の石坂周造など
でした。

赤印が中之橋です。青印が一之橋です。

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by wheatbaku | 2013-03-06 07:26 | 大江戸散歩 | Trackback
高崎佐太郎と秋月悌次郎(八重の桜 第9回「八月の動乱」
  昨日まで2回「八月十八日の政変」について書きましたが、政変実行の中心人物であった高崎佐太郎と秋月悌次郎について書いてみたいと思います。

【高崎佐太郎(正風)】
 高崎佐太郎(右下写真 、国立国会図書館ウェブサイトより転載)、島津斉彬襲封の早期実現を図り、俗にいう「お由羅騒動」で切腹を命じられた高崎五郎右衛門の子供です。
c0187004_12222194.jpg この事件に連座し、嘉永3年(1850)奄美大島に流罪となり、嘉永6年許され帰藩しました。
 そして、文久2年(1862)島津久光に随従して上洛していました。
 八月十八日の政変を成功させ、その後、薩摩藩京都留守居役となりました。
 慶応3年(1867)、西郷や大久保の武力討幕方針に反対しました。そのため、藩政府の主流からは遠ざかりました。
 明治維新後、宮中顧問官,枢密顧問官などを歴任しました。また桂園派の歌人としても有名でした。

 幕末の政局を左右した薩摩藩の主要人物は、島津久光、西郷隆盛、大久保利通ですが、八月十八日の政変には、この人たちがでてきません。
 この当時、西郷隆盛は沖永良部島に流刑となっていました。また、島津久光、大久保利通は、薩摩にいて、直前の7月2日~ 7月4日には薩英戦争が起きていました。
 このように主要人物は、京都にいませんでした。そこで高崎佐太郎が出てくる訳ですが、クーデーターは高崎佐太郎が考え出したのだろうか。 それとも島津久光が裏で糸を引いていたのかという議論があるようです。
 これについては、諸説あるようですが、島津久光が承知していたという説が有力のようです。

 
【秋月悌次郎】
 一方、会津藩の秋月悌次郎(右下写真)の略歴は次のようです。
 秋月悌次郎は、 文政7年(1824) に会津藩士丸山胤道の子として若松城下に生まれました。日新館、江戸の昌平黌で学んだ秀才です。
c0187004_924750.jpg 文久2年(1862)藩主松平容保が京都守護職に任命されると、公用方に任命されました。
 公用方というのは、幕府、朝廷、他藩などとの対外折衝を担当する重要な役割でした。
 「能弁多智,力量モ亦アリ」と評された能力をフルに発揮して活躍しました。
 八月十八日の政変で重要な役割を果たしたものの、その後、藩内の反対派により、慶応元年(1865)には蝦夷地代官に左遷されてしまいます。
 その後、戊辰戦争では軍事奉行添役となり、会津藩軍事面で重要な役を果たします。
 そのため、明治元年には会津戦争の責任を問われ終身禁固刑となりますが、明治5年に特赦によって赦され、明治5年、新政府に左院省議として出仕します。
 その後、第五高等学校の教師となり、漢学・倫理学の教授を務めました。五高では小泉八雲と同僚でした。

 昨日の「八重の桜」でもあったように、秋月悌次郎と高崎佐太郎は、それ以前に全く面識がありませんでした。
  当初は、秋月悌次郎と高崎佐太郎は、面識がありませんでしたが、その後、秋月は、薩摩藩とのパイプ役として重要な役割を果たしました。
 しかし、慶応元年に、秋月が京都を去ると、薩摩藩との接触に齟齬をきたすことになりました。
 秋月が京都にいたなら、幕末の展開も少し違うものとなっただろうという意見もあるようです。

 なお、なぜ、高崎佐太郎が面識のない秋月悌次郎を突然訪ねてきたのかというのが疑問ですが、それは、今後調べてみたいと思います。
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by wheatbaku | 2013-03-04 08:58 | 大河ドラマ | Trackback
八月十八日の政変② (八重の桜 第9回「八月の動乱」)
 さて、今日も「八月十八日の政変」について続けたいと思います。

 中川宮は、8月16日に参内し、孝明天皇に、尊攘過激派を排除するよう奏上します。
 しかし、孝明天皇は、考えは同じであったものの時期尚早と考え、その場では決断しませんでした。そのため、中川宮はやむをえず退出しました。
 この間、秋月たちは、唐門の前で中川宮の退出をまっていましたが、あまりにも退出が遅いため、計画が失敗したと考えました。
 中川宮が退出されたので、中川宮のところに伺候するとまだ計画が失敗したわけではないないとわかりました。
 その晩、中川宮の所に、孝明天皇の宸翰が届きました。
 鳥取藩と会津藩の兵力で国家の害を除くべしというものでした。
 ついに孝明天皇が決意しました。

c0187004_9324541.jpg 一夜明けた翌日17日の夜間、中川宮、近衛前関白、近衛忠房、二条右大臣、徳大寺内大臣らが参内し、松平容保と京都所司代の稲葉正邦は人数を引き連れて参内しました。
 禁門はすべて閉ざされ、会津藩兵と薩摩藩兵、所司代の兵がそれを守ることになり、非番の堂上の参内が止められ、会津、淀、薩摩、因幡、備前、越前、米沢以外の諸藩の藩士が九門に入ることも止められました。
 夜が明けて、因幡、備前、米沢の各藩主らも参内しました。

 そして、中川宮が勅令を読み上げました。
 それは、 大和行幸を取りやめ、議奏並びに国事掛は長州の考えに同調し不忠であるので、三条実美はじめ議奏、国事掛の人々二十余人に禁足、他人との面会を止めるというものでした。

 次の勅令を読むと「議奏並びに国事掛の輩」とか「逆鱗少なからず」」と「不忠の至り」など激烈な言葉が並んでいて孝明天皇がこの間の長州および過激尊攘公卿について怒りを感じていたことが言葉からもわかるような気がします。

 「この頃、議奏並びに国事掛の輩、長州主張の暴論に従い、叡慮にあらせられざる事を御沙汰の由に申し候事少なからず、なかんずく御親征、行幸などの事に至りては、即今いまだ機会来らずとおぼしめされ候を矯(た)めて、叡慮の趣に施工候段、逆鱗少なからず。攘夷の叡慮は動き給わざるも、行幸はしばらく御延引あそばされ候。
  いったい右様の過激、疎暴の所業あるは、まったく議奏並びに国事掛の輩が、長州の容易ならざる企てに同意し、聖上へ迫り奉り候は不忠の至りにつき、三条中納言始め、おって取調べ相成るべく、先ず禁足し、他人との面会は止められ候事。」

c0187004_9495055.jpg 18日の午後、長州藩は堺町御門(右写真)の警備を解かれ、所司代が変わりました。
 長州藩側は、長州清末藩主毛利元純、岩国藩主吉川経幹、家老益田右衛門介らは兵を率いて堺町御門に押しかけましたが、勅諚を示され、堺御門近くの鷹司邸に移りました。
 そこに、失脚した三条実美たち公家も鷹司邸に集まりました。
 そこで、、勅使柳原公愛が、鷹司邸に赴き、解散退去を命じました。
 午後3~4時ごろ、三条実美や長州勢は方広寺に退いた後、夕刻に妙法院に入りました。
 妙法院へ向かったのは、そこが三条家と親しい土佐藩の山内家の寓所であったためです。
 そして、翌19日夜半に、長州藩士、三条実美をはじめ三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉ら七卿が長州へと下るため、妙法院を発ちました。
 これがいわゆる七卿落ちです。
 降りしきる雨のなか蓑笠を着けわらじばきのみじめな姿だったと伝えられています。
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by wheatbaku | 2013-03-03 09:47 | 大河ドラマ | Trackback
八月十八日の政変① (八重の桜 第9回「八月の動乱」)

 今回の「八重の桜」は「八月の動乱」で、幕末の京都政局を大きく変えた「八月十八日の政変」が取り上げられます。

 「八月十八日の政変」は、文久3年(1863)8月18日に会津藩と薩摩藩が提携して、それまで朝廷を牛耳っていた「急進尊王攘夷派」を排除して、公武合体派が権力を奪取したクーデターです。
「八月十八日の政変」は非常に重要な事件でありながら、どのようにして決行されたのかあまり詳細に書いたものがなかったのですが、「京都守護職始末」には詳しく書かれていました。それに基づき経緯を書いてみます。

c0187004_9355458.jpg 文久3年の夏の京都の政局は、長州藩と提携した三条実美らの過激尊攘派の公卿が朝廷を牛耳っていて、孝明天皇も、自分の意思で物事を進められませんでした。
 こうした情勢の中で、「大和行幸」の実施の勅命が8月13日に発布されます。
「大和行幸」というのは、攘夷の成功を祈願するために、神武天皇陵や春日大社に参拝し、そこで親征の軍議を行うという計画でした。
 これは長州藩と尊攘派公卿により推進されたものでした。

 この8月13日、薩摩藩の高崎佐太郎(のちの正風)が、会津藩の秋月悌次郎を訪ねてきます。
 秋月悌次郎のほか、会津藩側は広沢安任、柴秀治などが同席しました。
 高崎佐太郎は、長州藩と提携した過激尊攘派の公卿を排除しようと考えているが、会津藩もそれに同意するなら力を合わせて欲しいと提携を求めました。
 そして、たとえ会津藩が断っても薩摩一藩で実行すると薩摩藩の決心を披露しました。

 「京都守護職始末」には次のように書かれています。

君側の奸
 この月(八月十三日)、薩摩藩士高崎佐太郎(今の正風)が、わが藩の秋月胤永の住居を訪れ「近来叡旨として発表せられたものの多くは偽勅で、奸臣どもの所為から出たことは、兄らも知るところのごとくである。聖上もこのことを御気づかれ、しばしば中川宮に謀り賜うても、兵力をもった武臣で君側を清める任に当るものがないことを嘆いていられると聞く。わが輩、これをきいて、袖手傍観しているにしのびない。思うに、この任に当れるのは会津と薩摩の二藩のほかにはない。願わくば、ともに当路の奸臣を除いて、叡慮を安じたいものである」と、その意気昂然たるものがあった。


c0187004_9402430.jpg  秋月らも、同じ考えをもっていましたが、勝手に協力するともいえないので、話を聞くと、黒谷にいる松平容保に報告しました。

 容保も賛意を示し、すぐに秋月と高崎に中川宮を訪ねるように指示します。

 秋月と高崎は、中川宮の屋敷に向かい、中川宮と相談しました。中川宮は大変喜び、8月16日に参内することを約束しました。
 また、孝明天皇の信任の厚い近衛忠熙前関白・忠房父子と二条斉敬右大臣の協力が必要なので、近衛父子は薩摩藩が説得し、二条右大臣は会津藩が説得しました。

 さらに、容保はすぐに帰国途中の藩士に召喚命令を出します。こうすることにより約1800名の軍勢を確保しました。
 会津藩は、京都守護職拝命後、容保直属の本隊、家老が陣将となった「陣」という部隊のうち一陣が京都に常駐しました。
 一陣は四隊が集まったもので、一番陣から三番陣まであり、家老が陣将となり、各隊の隊長は番頭と呼ばれました。
 京都駐在の部隊は、本体の半数と一陣がそれぞれ8月に交代しました。
 新しい一陣は8月8日に京都に入り、国に帰る一陣は11日に京都を出発することになっていました。
 文久3年8月には、家老神保内蔵助が率いる一番陣が8日に京都に入り、家老田中土佐が率いる三番陣が11日に京都を出発していました。
 京都を発ったばかりの三番陣が、8月14日に京都に召喚されました。
 こうして、会津藩の軍勢は2陣がそろうということになりました。
 これについて誰もが警備強化のためと考え政変の準備とは考えもしませんでした。

 そして8月16日に中川宮は参内して孝明天皇に奏上することになります。

 その後の動きは、明日書きます。
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by wheatbaku | 2013-03-02 09:32 | 大河ドラマ | Trackback
  

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