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薩摩屋敷跡(三田散歩2)
 三田散歩の続きです。

 現在の三田は、江戸時代に、多くの大名屋敷がありました。
 今回の三田散歩でも、多くの大名屋敷跡を案内しました。
 昨日紹介した、水野家屋敷跡や松平家屋敷跡もその一つです。
 今日は、薩摩藩島津家の上屋敷跡をご案内します。

 三田には、NECの本社が一際目立ちます。
c0187004_10322952.jpg このNECの本社は薩摩藩上屋敷の跡に建っています。
 ただしく言うと、薩摩藩上屋敷の一部です。多くの案内書では、右の石碑がよく紹介されます。
 この石碑は、NEC本社の北側の植え込みに設置さえています。
 この石碑がNEC本社にあるので、NEC本社全体が薩摩藩邸の跡のように受け取られがちです。
 しかし、NEC本社は、正しくは、北川が薩摩藩上屋敷跡で、南側が因幡鹿野藩上屋敷の跡に建っています。

 NEC本社は薩摩藩上屋敷の南のはずれで、薩摩藩上屋敷の中心は、NEC本社の北側にある三井住友信託銀行とセレスティンホテルの部分です。
c0187004_1036946.jpg 三井住友信託銀行とセレスティンホテルの間の広場に、「芝さつまの道」と書かれた案内図があります。

 薩摩藩は、77万石の大藩ですので、江戸に、いくつもの屋敷がありました。
 幕末には、薩摩藩邸は最低6か所あったと言われています。
 私が承知しているだけで6か所あります。
 ちなみに、三田の上屋敷、日比谷の装束屋敷、高輪の中屋敷、田町の蔵屋敷、渋谷の下屋敷 そして現在は八芳園になっている白金の屋敷、以上6か所です。
 そのうち三田にあった上屋敷は約2万2千坪(2万1785坪)もありました。
 ここが薩摩藩の江戸での中心になりました。
 幕末には、島津斉彬が住んでいました。

 天璋院篤姫が13代将軍家定に輿入れする際にも、まず最初に、三田の上屋敷に入りました。
 しかし、その後、安政2(1855)年10月2日に、安政の大地震が起きて、上屋敷が被害をこうむったため、渋谷の下屋敷に移りました。
 篤姫は1年余り、下屋敷で過ごした後、安政3年11月11日に江戸城に輿入れしました。

 赤印がNEC本社です。 青印がセレスティンホテルです。

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by wheatbaku | 2013-02-25 10:37 | 大江戸散歩 | Trackback
会津藩本陣の金戒光明寺(八重の桜 第7回「将軍の首」)
 今日の「八重の桜」では、いよいよ会津藩が京都に上洛します。

 文久2年12月9日に江戸を発った会津藩一千名の部隊は、12月24日京都に入りました。 
c0187004_11302538.jpg 容保を筆頭に武将30人が騎馬で進み武威を大いに示したと記録されています。
 会津藩が、京都に上洛した時に本陣としたのが「金戒光明寺」です。
 「金戒光明寺」は京都の黒谷(くろだに)にある浄土宗のお寺です。
 墓地には、2代将軍秀忠の継室お江、3代将軍家光の弟の徳川忠長、家光の乳母春日局のお墓もあり、徳川将軍家と縁の深いお寺でもあります。
 ここで、京都守護職の任務を勤めることになります。
 
 「金戒光明寺」については、昨年の夏に訪ねて、大変大きなお寺なのでびっくりしました。
 一千名の部隊が駐屯するのにふさわしいお寺だと思いました。

 詳しくは以前書いた  「金戒光明寺と京都守護職」 をお読みください。

【会津藩殉難者墓地】
c0187004_11181554.jpg  この「金戒光明寺」の東の山腹の一番上には、京都で亡くなった会津藩士を埋葬した300坪の墓地が整備されています。
 そこには、文久2年から慶應3年までの6ヵ年に亡くなった237霊が埋葬されています。

 さらに、その後に慰霊碑を建立し鳥羽伏見の戦いの115霊が合祀されています。
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by wheatbaku | 2013-02-17 11:18 | 大河ドラマ | Trackback
西郷頼母(八重の桜第6回「会津の決意」)
 「八重の桜」で松平容保が京都守護職を受諾するのを必死になって止めようとしたのが西郷頼母です。
 今日は、この西郷頼母について書いてみます。

 「八重の桜」では、西田敏行さん演じる西郷頼母が容保に激しく直言していました。 
 西郷頼母役の西田敏行さんが熱演していました。西田さんは福島県出身ですからね。

c0187004_2214854.jpg
 ところで、藩主容保が決意のほどを述べているのにもかかわらず「合点がいきません」と抗弁するなどということは通常の家老ではできません。
 実は、藩主松平容保と家老西郷頼母の間には、西郷頼母が、あのように直言できる事情があったようです。

 西郷頼母は、代々会津藩の家老を務める家柄の西郷近思(ちかし)の長男として文政13年(1830)に生まれました。
 そして、西郷頼母は、万延元年(1860年)、家督と家老職を継いで藩主松平容保に仕えました。
 会津藩における西郷家は、初代の西郷近房以来200年余、会津藩松平家の家老を代々務める家柄であり、頼母は9代目でした。

 初代の西郷近房は、外祖父である会津保科家の一族で4000石を領する家老の保科正近の養子となりました。
 正近には嫡子の正長(1200石)が居ましたが、病弱のため正長の養子なりました。 そして、養父の正長、祖父正近が相次いでなくなり、近房は、養父の1200石を相続し、会津藩家老となりました。
 しかし、養父正長の遺児正興が生まれ、近房は正興の元服後には、知行1200石を譲り、西郷姓に戻りました。
c0187004_2114229.jpg  その後、正興は罪科を受け越後の国境近くの流刑地で亡くなってしまったため、近房は家老に抜擢され、会津松平家の正之、正経、正容の3代に仕えました。

 こうした経緯があるため、西郷家は、保科一族ともみなされていて、現に、西郷頼母は、明治3年、本姓の保科に改姓し、保科頼母と名乗りました。

 会津藩との関わりは、美濃高須藩から養子となった容保より強い面があったようです。

 ですから、容保は、自分より5歳年上で、保科一族でもあり、ずけずけと直言する頼母を苦手にしていたとも言われているようです。
 このため、国許から急ぎ上京し諫言した二人の家老のうち、田中土佐は京都行が命じられますが、西郷頼母は京都行は命じられませんでした。

 頼母は、この後も、京都守護を早く辞めるべきたという姿勢を覆さず、禁門の変が起きる直前に上京して、京都守護職辞任を説いています。
 そのため、家老を解任され蟄居させられることになります。

 その後の会津戦争では、白河口総督として新政府軍を迎撃しましたが敗れ、頼母は、再び恭順を勧めましたが、拒否され城から出た後、榎本武揚や土方歳三と合流して箱館まで戦っています。
 また、西郷頼母の母や妻子など一族21人は、頼母の登城後に屋敷で自刃し、白虎隊に次ぐ、第2の悲劇と言われています。

 そうしたことから、これからもしばしば、西郷頼母は「八重の桜」に出てくるものと思います。

 これらの事は、堀田節夫氏著の「幕末の会津藩家老 西郷頼母」(右下段写真)に詳しく書かれています。



 
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by wheatbaku | 2013-02-12 07:46 | 大河ドラマ | Trackback
桜田門外の変(八重の桜 第5回「松陰の遺言」
 今週は、「八重の桜」関連で吉田松陰について書いていたら、つい4回も書くことになりました。
 今日も「八重の桜」関連ですが、「桜田門外の変」について書いておきます。
 「八重の桜」では、ただ「桜田門外の変」が起きた程度しか描かれていませんでしたが、幕末の事件として大変重要な事件で、安政の大獄とともに、幕末、京都に会津藩が進駐する遠因となったと言えなくもありません。そこで、「桜田門外の変」について触れておきます。

 桜田門外の起きたのは、万延元年3月3日です。
 大老の井伊直弼は、上巳の節句の賀詞を述べるため五つ半時に総勢60人の行列で桜田にある上屋敷(現在、国会前庭や憲政記念館のある場所)を出ました。
c0187004_1745366.jpg そして、桜田門外に至ったところで、水戸脱藩浪士17人と薩摩藩藩士1名の総勢18名に襲撃されました。
 襲撃された場所は、現在の警視庁の目の前でした。
 そして、短時間の間に、井伊直弼は暗殺されました。
 桜田門外の変は、水戸藩への密勅降下に対する幕府の弾圧に対する水戸藩の報復でした。

 幕府は、水戸藩に対して、戊午の密勅降下以降、攻撃を強めていました。
 安政の大獄の第一の標的は水戸藩関係者でした。その結果、死罪8名のうち4名までもが水戸藩関係者でした。
c0187004_1751043.jpg  そして、密勅そのものも、返納するよう水戸藩に圧力をかけました。
 水戸藩内では、返納に賛成する「鎮派」と返納に反対する「激派」との対立が激しくなりました。
 斉昭は、返納の意を決め、返納に反対する「激派」にその趣意を述べた論書を下しました。
 形勢の悪くなった「激派」の中には、脱藩して、井伊大老を襲撃しようとするグループができました。
 このグループが、薩摩藩士と手を結び、井伊大老を襲ったのでした。

 桜田門外の変については、過去にも書いていますので、そちらもご覧ください。
 「桜田門外の変 前章」
 「桜田門外の変」
 「襲撃後の水戸浪士 (桜田門外の変②」

 井伊大老の暗殺により、幕府の勢威の衰えは明らかになりました。
 この後、尊王攘夷派や一橋派を弾圧した反動として、京都の朝廷や公卿、さらに尊攘浪士の活動が高まります。
 それを抑える必要から、京都守護職が設けられることになります。
 そのことについては、後日、改めて書きます。

 さて、井伊大老が暗殺されてまもなく、井伊大老の政敵であった水戸の徳川斉昭も、同じ年の万延元年8月15日に61歳でなくなりました。
 斉昭は、この日、折からの中秋の名月を愛でた後、急死しました。

 東京大学 名誉教授吉田常吉氏によると、井伊大老が、3月3日に暗殺されて以来、彦根藩では、桃の節句を祝わないそうです。
 また、斉昭が8月15日に急死して以来、水戸藩では、中秋の名月を愛でることはないそうです。
 そして、次のように書いています。

 「同じ年に互いに年来の政敵であった直弼と斉昭がとは、桃の節句の日と中秋の名月の夜に、相ついでこの世を去った。両雄の死には、古来から日本人が賞美してやまぬ、「雪」と「月」と「花」とがまつわっている。何か因縁めいたものを感ずるのである」

 なるほど、ご尤もなご意見だと感じました。
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by wheatbaku | 2013-02-07 07:23 | 大河ドラマ | Trackback
松陰の同囚(八重の桜第5回「松陰の遺言」
 吉田松陰についての話題にもう一日おつきあいください。
 1月に江戸検一級2期会の特別例会で小伝馬町牢屋敷跡を案内したのですが、その時には、吉田松陰が小伝馬町牢屋敷のどこに収容されていたのか、また橋本左内とは全く合わなかったのかが疑問でしたが、「留魂録」を読んでみて、その答えがわかりました。

 今日は、吉田松陰や橋本左内が、小伝馬町牢屋敷のどこの牢にいれられていたかを書いてみたいと思います。
 
c0187004_2023664.jpg 小伝馬町牢屋敷は、表門が西にあり、裏門が東にありました。
 建物は、概ね、表門から入って、右手すなわち南側に、牢屋奉行の石出帯刀の居宅や牢屋を管理する建物がありました。
 そして、北側に牢屋がありました。その南東隅に、死罪場、御様場(おためしば)があった。

 牢は一棟の建物ですが、大きく分けて、東牢、西牢に分かれていました。
 そして、東牢、西牢にそれぞれ大牢と二間牢が一つ、揚屋が二つずつありました。
 ①揚屋(あがりや)「は、お目見え以下の直参、陪臣、僧侶、医師、山伏などを入れる牢で、
  手前が「口揚屋(くちあがりや)」と呼ばれ、奥は「奥揚屋(おくあがりや)」と呼ばれていました。

 ②東の「口揚屋」は「遠島部屋」と呼ばれ、遠島船がでるまで待機する部屋として使用されました。

 ③西の「口揚屋」は女性の囚人を収容し「女牢(女部屋ともいう)」と呼ばれていました。

 ④大牢、二間牢に、 町人を収容しました。

 この他、別の建物になりますが、御目見以上の武士、これに準ずる僧正・院家・紫衣その他の重き僧侶・神主の罪人を入れる揚屋敷(あがりざしき)や百姓を収容する百姓牢がありました。

 今回、「留魂録」を詳しく読んで見て、吉田松陰や「安政の大獄」で逮捕された政治犯がどこに収容されていたかがわかりました。

①吉田松陰は、西の奥揚屋(おくあがりや)に収容されていました。

②橋本左内(越前藩士)は、東の奥揚屋
 橋本左内は、評定所の尋問中には、越前藩邸から出頭しました。
  しかし、10月2日の評定所出頭後、ただちに小伝馬町牢屋敷に入牢を命じられました。
 10月7日に死罪の申し渡しがあって、即日処刑されましたので、牢屋敷にいたのは、わずか5日あまりの短期間です。
 在牢が短期間ですし、別の牢に入っていたため、松陰とは会うことがありませんでした。

③小林民部(鷹司家諸太夫) 松陰と同室つまり西の奥揚屋
  小林民部は、前関白鷹司政通を出した鷹司家の家臣で、8月27日遠島を申し付けられましたが、11月14日に人吉藩にお預けに軽減されました。
しかし、11月19日獄中で病没しました。
  松陰は、小林民部とは意気投合したようです。
  松陰が小塚原の回向院から、松陰神社に改葬される際に、小林民部も一緒に改装され、松陰神社では、松陰の隣に小林民部のお墓があります。(右上写真の左側が吉田松陰の墓、右側が小林民部の墓です。)

④鮎沢伊太夫(水戸藩勘定奉行)
  鮎沢伊太夫は8月27日に遠島を申し付けられて、小伝馬町牢屋敷に在牢していました。
同室にはならなかったが牢内で松陰と文通をしています。

⑤堀江克之助(よしのすけ 水戸藩郷士)は東の口揚屋
同室にはならなかったが牢内で文通をしています。
  堀江克之介は後に高輪の東禅寺がイギリス公使館となった際に初代公使オールコックを襲撃した「東禅寺事件」に参加し捕縛されています。

⑥堀達之助  東口揚屋牢名主
  処刑前の10月20日の手紙に「世話になった」と書かれています。

⑦長谷川宗右衛門(高松藩士)。 東奥揚屋
  藩主と世子の不仲をおさめ。水戸藩に批判的な高松藩の藩論を水戸藩との提携に傾けようしたが、屏居を命ぜられ、翌年脱藩して京から水戸へ赴くが、追われて自首しました。
 獄中で、「玉となりて砕くるとも,瓦となりて全かるなかれ」と独語していたと「留魂録」にあります。

⑧長谷川速水(高松藩士)  西奥揚屋
 長谷川宗右衛門の息子。取り調べの様子を、松陰が速水から入手していました。
 

  
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by wheatbaku | 2013-02-06 07:25 | 大河ドラマ | Trackback
松陰の最期(八重の桜 第5回「松陰の遺言」
 松陰の最期がどうであったかについて書いた記録が残されているので、今日は、松陰の最期について書いてみます。

 吉田松陰の最期は、非常に見事なものだったと伝えられていると聞いていましたが、それを裏付ける記録もあるようです。 それも複数あります。
 それを読んでみると、「八重の桜」で描かれているような動揺あるいは興奮した姿ではなかったようです。

c0187004_8423592.jpg まず、長州藩から立会人として出席した江戸留守居役小幡彦七は、評定所での死罪申し渡しの様子を書いています

 松陰は、死罪の判決の言い渡しを落ち着いて静かに聞いて退廷した後、朗々と自作の漢詩を詠いあげ、奉行たちも黙して聞いていたと書いています。
 詳細は、最後尾に書きましたので、お時間があればお読みください。

 松陰が詠みあげた漢詩(読み下し文)は次の通りです。
  吾、今、 国の為に死す
  死して君親(くんしん)に負(そむ)かず
  悠悠(ゆうゆう)たり 天地の事(こと)
  観照(かんしょう) 明神(めいしん)に在り

 
 また、佐倉藩の漢学者である依田学海は、八丁堀の同心吉本平三郎から聞いた話を11月8日の日記に書いています。
 それによると、「評定所に出るときには長く労をかけたとやさしく言葉をかけ、死刑にのぞんでは、鼻をかみたいといって心しずかに用意して打たれた。死刑にに臨んで、これほどゆったりと落ち着いている人物はみたことはなかった」と述べています。
c0187004_21202095.jpg
 依田学海は次のように記しています。
 「過ぎし日死罪を命ぜられし吉田寅二郎の動止には人々感泣したり。奉行死罪のよし読み聞かせし後、畏り候よし恭敷く御答申して、平日庁に出づる時に介添せる吏人に久しく労をかけ候よしを言葉やさしくのべ、さて死刑にのぞみて鼻をかみ候はんとて心しづかに用意してうたれけるとなり。凡そ死刑に処せられるもの是れ迄多しと雖も、かくまで従容たるは見ず」

 最後に、播州明石の、松村介石は、山田浅右衛門から聞いた話として松陰の最期はあっぱれであったとして次のように書いています。

 「愈々(いよいよ)首を切る刹那の松陰の態度は真にあつぱれなものであつたという事である。悠々として歩を運んで来て、役人共に一揖(いちゆう)し、「御苦労様」と言つて端坐した。その一糸乱れざる、堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」


【長州藩江戸留守居役小幡彦七の記録】
 「奉行等幕府の役人は正面の上段に列座、小幡は下段右脇横向に座す。ややあって松陰は潜戸から獄卒い導かれて入り、定めの席に就き、一揖(いちゆう)して列座の人々を見廻す。 、眼光炯々として別人の如く一種の凄味あり。直ちに死罪申し渡しの聞読み聞かせあり。「立ちませ」と促されて、松陰は起立し、小幡の方に向かい微笑を含んで一礼し、再び潜戸を出づ。その直後朗々として吟誦の声あり。曰く「吾今為国死。死不負君親。悠悠天地事。観照在明神と。時に幕吏等なお座に在り、粛然襟を正して之れを聞く。小幡肺肝を抉らるるの思あり。護卒亦傍より制止するを忘れたるものの如く、朗唱終わりて我に帰り、狼狽して駕篭に入らしめ、伝馬町の獄に急ぐ」
 

 右上段の写真は、小伝馬町牢屋敷の跡に建てられた「大安楽寺」です。
 大安楽寺は、牢屋敷の中の刑場のあった辺りに建てられています。
 右下段の写真は、小伝馬町牢屋敷の中にあった刑場跡に建てられた延命地蔵菩薩像です。
 ここで吉田松陰も斬られました。
 地蔵菩薩像の台座には、山岡鉄舟の書で「為囚死群霊離苦得脱」と、ここで亡くなった多くの囚人を慰霊する言葉が刻まれています。
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by wheatbaku | 2013-02-05 08:00 | 大河ドラマ | Trackback
留魂録 (八重の桜 第5回「松陰の遺言」)
 昨日の「八重の桜」のタイトルは「松陰の遺言」でしたが、吉田松陰の遺書ともいうべき書き物が「留魂録」です。

  「留魂録」はすでに死を予感していた松陰が小伝馬町牢屋敷の牢内で10月25日に書きはじめ、翌日書き上げたものです。
 松陰は、「留魂録」を書き上げた翌日の安政6年(1859)10月27日に死罪の判決をうけ即日処刑されました。
 「留魂録」には、
 
 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」

 という松陰の辞世の和歌が冒頭にかかれています。
 
 この歌は、また、十思公園にある「松陰先生終焉之地」の碑にも刻まれています
 下写真が、その碑です。
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 「留魂録」は、松陰の遺品の一つとして、遺体を引き取りに出向いた桂小五郎、飯田正伯、手付利助、尾寺新之丞が受取り、萩の高杉晋作、久坂玄随、久保清太郎の三人連名宛てで送られました。
 「留魂録」は萩に送り届けられると、密かに門下生たちに回し読みされ、また書き写されもしました。
 この「留魂録」を読んだ高杉晋作は、「松陰の弟子としてこの敵は討たずにおかない」と周布政之助に書き送っているそうです。その他の弟子たちも同様だったと思います。

 ところが、高杉らの手にわたった「留魂録」は、残念なことにいつの間にか所在不明になってしまいました。
 今日「留魂録」の内容が、そっくり伝えられたのは、松陰がもう一つ同様のものを作成していたからです。
 これは、軍学者でもあった松陰の周到な作戦でもあったと思われます。  
 松陰から依頼されて、もう一通の「留魂録」を隠し持っていたのが、松陰が入っていた小伝馬町牢屋敷の牢名主沼崎吉五郎なのです。

 時代劇に畳を何枚も重ねた上に牢名主が座っている場面がよく出ています。
 その場面は、時代劇の上の虚構だと思う人が多いと思いますが、牢名主は実際にいたのです。
 牢内には幕府の認めた次の12人の牢役人がいたのです。
 それは、名主、、添役、角役、二番役、三番役、四番役、五番役、本番、本助番、五器口番、詰之番、詰之助番 です。
 その他、穴の隠居、隅の隠居などの役人がいました。
 牢内役人の筆頭が牢名主です。
c0187004_11535829.jpg 吉田松陰が、牢屋敷に入った時の牢名主が沼崎吉五郎でした。 この牢名主の沼崎吉五郎が、吉田松陰の人物を知っていて大事に扱い松陰を牢役人並の待遇としてくれました。
 ドラマの最初の場面で、松陰がゆったりした姿で書き物をしていますが、この牢名主の協力なしには、松陰が「留魂録」を書き上げることはできなかったでしょう。


 牢名主の沼崎吉五郎は、福島藩士能勢久米次郎の家臣ですが、殺人容疑で小伝馬町の牢屋敷につながれていました。
 沼崎吉五郎は、松陰から頼まれた通り「留魂録」を大切に肌身はなさず、獄中にいる間、これを守り抜きました。
 沼崎吉五郎はその後、小伝馬町の牢屋敷から三宅島に流され、明治7年にようやく許されて本土に帰りました。
 明治9年になって、当時神奈川県権県令だった野村靖(旧名和作、松陰門下生、禁門の変で討死した入江九一の実弟)の前にひょっこりと一人の老人があらわれます。
 そして、「私は長州藩の吉田松陰先生の同獄の沼崎吉五郎というものです。」と言っていきなり「留魂録」をさしだしたのです。
 そして、「松陰先生は『自分は別に一本を郷里に送るが、無事に着くかどうか危ぶまれる。そこでこれを汝に託す。汝、出獄の日、この遺書を長州人に渡してもらいたい』と述べられた。貴殿が長州出身であると聞いたので、これを進呈します」と付け加えました。
 
 それが、現在残されている「留魂録」です。
 現在、萩市の松陰神社の境内にある資料館に展示してあるそうです。
 右上写真の講談社学術文庫の古川薫 氏全訳注「留魂録」は、「留魂録」の全文および訳、そして松陰の経歴が書かれていて、わかりやすい本です。
 松陰を知りたい人におすすめです。



 

 
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by wheatbaku | 2013-02-04 08:22 | 大河ドラマ | Trackback
松陰、死罪となる(八重の桜 第5回「松陰の遺言」)
 今日の「八重の桜」では、吉田松陰が逮捕・処罰される場面がでてくるようですので、吉田松陰が死罪になるまでについて書いていきます。

 安政の大獄では、大勢の人が、死刑。遠島などの処罰を受けていますが、その中で、最も有名で最も大きな 影響を与えたのが吉田松陰でしょう。

 吉田松陰は、アメリカへの密航失敗により投獄された後、国許蟄居となります。
 長州藩では、萩の野山獄に投獄したのち、実家の杉家で蟄居させました。
 この蟄居の間に、叔父が開いた松下村塾で多くの子弟を育成しました。
 松下村塾四天王と呼ばれる高杉晋作、久坂玄随、吉田稔麿(としまろ)、入江九一はじめ多くの子弟が育ちました。
c0187004_9421826.jpg そして、松下村塾で子弟教育を始めて2年半あまり後の安政5年(1858)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結し、その後、将軍継嗣を紀州藩主徳川慶福とし、さらに安政の大獄を開始したことを知って、幕府に対して強い憤りを感じ、京都で尊王攘夷派の弾圧の中心にいた老中間部詮勝の暗殺を計画します。

 間部詮勝は、井伊大老の指示のもと、京都へ上り、反幕府の公家や浪士たちの弾圧の先頭にたっていました。
 越前鯖江藩間部家7代藩主で、6代将軍家宣と7代将軍家継の側用人として威勢を発揮した間部詮房の子孫です。
 間部詮勝は、寺社奉行,大坂城代,京都所司代をへて,天保11年老中となり、14年に辞任。その後、 安政5年老中に再任され、9月に京都に入り、通商条約に勅許をえるため朝廷工作を行う一方、尊攘派を弾圧していました。

 松陰は、長州藩政府に、老中間部の暗殺に必要な武器を藩政府で整えてもらいたいという願書を提出します。

  藩政府が、このような願書を受けるはずがなく、驚いた藩重役の周布政之助は、予防的に、松蔭の野山獄への入獄を命じます。
 そして、松陰は、家族や弟子との別れの宴を開き、翌日12月26日に、野山獄に再入獄します。
 そして、年明けには高杉晋作や久坂玄瑞も時期尚早であり自重すべきであるとの手紙が届きました。
 しかし、松陰自身は強気の姿勢を崩しませんでした。
c0187004_1140576.jpg
 やがて、翌安政6年(1859)4月になると、幕府から松蔭の江戸召還が長州藩に命じられました。
 これを受けて、松陰は、間部詮勝襲撃計画が幕府に察知されたためだと考えました。
 しかし、松陰が江戸に召喚さることになったのは、間部襲撃計画が探知されたわけではありません。
 松陰が江戸に送られたのは、井伊大老の懐刀の彦根藩の長野主膳が松陰は重要人物と考えていたことが大きく影響しています。
 長野主膳は、「長州藩吉田寅次郎と申す者、力量もこれあり、悪謀の働き抜群のよし」と考えていました。
 
 江戸に送られる前日、松陰は野山獄から杉家に戻りました。
 野山獄の役人福川犀之助が独断で家族や弟子たちと最後の別れをさせるために特別に配慮したものでした。
 父母や弟子との最後の別れを済ました翌日の5月25日早朝、松陰は野山獄から江戸に向かいました。

 6月25日に江戸に到着し、長州藩邸に入りました。
 この時点では、小伝馬町牢屋敷に入牢していないんです。

 松蔭が幕府評定所に呼び出されたのは7月9日でした。
 この日長州藩は、30人の護衛をつけ、松陰の駕籠を出発させている」(「物語 大江戸牢屋敷」中嶋 繁雄著)そうです。
 大目付久貝因幡守正典、勘定奉行兼町奉行池田播磨守頼方、町奉行石谷因幡守穆清(いしがやあつきよ)等による尋問がおこなわれました。
 江戸の評定所が松陰に問いただしたのは、梅田雲浜との関係と、京都で落文(おとしぶみ)をしたのではないかという2点でしたが、松陰の説明は簡単に済み、疑いも簡単に晴れました。
 そこで、松陰はこの機会を利用し幕府に自分の意見を言おうと考えて、「間部詮勝要撃計画」をも告白してしまいます。
 松蔭は、間部を襲撃する計画を幕府側が事前に探知していると思ったゆえの告白でした。
 松陰自身が、留魂録の中で「幕(幕府)にも已(すで)に諜知すべければ、明白に申し立てたる方却って宜しきなりと。・・・・幕(幕府)にて一円知らざるに似たり」と書いています。
 しかし、これが大失敗でした。
 奉行たちは予想もしなかった老中暗殺計画に非常に驚きました。
 即日、松陰は小伝馬町に入牢を命じられてしまいます。今まで長州藩邸にいたのにかかわらず、罪人の扱いとなりました。
 即日、牢屋敷行きとなったことが幕府側の衝撃の大きさを物語っています。

 その後9月5日、10月5日に3回目の取調べが行われましたが、いずれも取り調べる奉行たちの態度は穏やかであったため、松蔭は、処分は、死罪も遠島もなく、重くても他家お預けと楽観的に考えていたようです。
 しかし、頼三樹三郎、橋本左内さらに飯泉喜内が死罪がなると、最悪の事態を予想するようになります。
 10月16日の取り調べは厳しく行われ、死罪を免れがたいことを感じたようです。
 死罪の免れがたいことを知った松陰は、10月20日に家族宛の別れの手紙を書き、10月25日には、遺書となる 「留魂録」 を書き始め26日に書き終わります。
 そして、安政6年(1859)10月27日に、評定所から「死罪」が言い渡され、即日、小伝馬町牢屋敷にて処刑が行なわれました。吉田松陰30歳という若さでした。

 
 右上段写真は、小伝馬町牢屋敷跡にある十思(じっし)公園です。
 右下段写真は、南千住回向院にある吉田松陰のお墓です。



 松陰の遺書といわれる「留魂録」については明日書きます。
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by wheatbaku | 2013-02-03 11:00 | 大河ドラマ | Trackback
安政の大獄(八重の桜 第5回「松陰の遺言」)
 明日の「八重の桜」では、安政の大獄で吉田松陰が処罰される場面が出てくるようです。

 先週の「八重の桜」でも、密勅が降りたことや安政の大獄により尊王攘夷派の浪士が逮捕される場面がありました。
 そこで、密勅とは何かなど安政の大獄に関連する事項について書いてみます。

 まず、「密勅」ですが、ここでいう「密勅」とは、「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」と言われているもので、安政5年(1858)8月8日に孝明天皇が水戸藩に下賜した「勅諚」をいいます。
c0187004_10504547.jpg 「戊午(ぼご)」とは安政5年の干支(えと)が戊午(つちのえうま)であったことによります。
 「密勅」といわれるのは、勅諚降下についての決定は関白が加わって決定されるという正式な手続を経ないまま降下されたことや幕府に対して勅諚降下が秘密にされていたためです。

 戊午の密勅が出されたのは、孝明天皇の意向に反して幕府が勅許をえず条約を調印し、御三家のうち尾張家や水戸家が処分されたことから孝明天皇が不快感を示し、退位の意思表示をし、この退位を思いとどませるために、諸大名力を合わせて幕府の政治姿勢を正せとの勅諚を水戸藩に降下するということになりました。
 この密勅降下の中心となったのは、左大臣近衛忠熙、右大臣鷹司輔、内大臣一条忠香、前内大臣三条実万の四公で、関白の九条尚忠は参内せず協議に加わりませんでした。これが密勅と言われる所以です。


 それでは、安政の大獄について書いていきます。
 特定の藩に勅諚が降下したことは前代未聞のことでした。
 「安政の大獄」とは、この戊午の密勅降下に驚き怒った井伊大老が密勅降下に関与した人たちを弾圧した事件です。
 c0187004_11581053.jpg密勅降下の情報を得た幕府では、尊攘志士や公家の家士の捕縛の指揮をとるため、安政5年9月3日老中間部詮勝を急いで上京させます。
 これ以前8月16日には、京都所司代酒井忠義(小浜藩主)が出発し、9月3日に京都に着き、捕縛にとりかかります。
 捕縛の第一の標的は志士の巨頭と目されていた梅田雲浜でした。
 梅田雲浜が逮捕されたのは9月7日です。これが安政の大獄の始まりとされています。
 梅田雲浜に続いて梁川星厳の逮捕に向かいましたが、星厳はすでにコレラのため死亡していました。
 老中間部詮勝の入京は9月17日でしたが、入京した翌日、戊午の密勅の降下に関わった水戸藩の鵜飼吉左衛門・幸吉父子に出頭を命じ、そのまま逮捕し六角獄舎に投じました。
 このように、志士の中心人物および水戸藩関係者を捕縛した後、鷹司家諸太夫の小林良輔の逮捕を皮切りに公卿の家臣の逮捕にまで拡大していき逮捕者が増えていきます。
 まさに「大獄」になったのでした。

 京都での逮捕と同時に江戸でも密勅にかかわった人や一橋派の人物の逮捕が開始され、9月17日元土浦藩士で江戸と京との情報連絡役を勤めた飯泉喜内が逮捕されました。
 そして、越前藩士橋本左内が奉行所への出頭が命じられたのが10月23日で、尋問をうけた後、小伝馬町牢屋敷に入れられました。

 そして、翌安政6年になるといよいよ水戸藩の重役にまで、累が及ぶことになりました。
 安政6年4月24日に、水戸藩も対して、家老安島帯刀(あじまたてわき)、奥祐筆頭取茅根伊予之助、勘定奉行鮎沢伊太夫への出頭を命じました。
 安島帯刀と茅根伊予之助は、当時の藩主慶篤の両翼と呼ばれるほどの重臣でしたが、容赦なく摘発をしました。

 逮捕された人々は、五手掛の審問を受けることになりました。
 五手掛とは、重要問題について審議する評定所の中で、最重要問題を審議するメンバーで、安政の大獄当時は、寺社奉行本庄宗秀、町奉行石谷穆清(いしがや あつきよ)、勘定奉行池田頼方、大目付久貝正典、目付松平康正の五人で構成されていました。
 五手掛による刑の宣告は、安政6年8月27日、10月7日、10月27日の3回にわたって言い渡されました。

 吉田常吉著「安政の大獄」によれば、安政の大獄において評定所で処罰を受けた人数だけで69人にもなるそうです。
 その主な人物は
 切腹  安島帯刀(水戸藩家老)
 死罪  茅根伊予之助(水戸藩奥祐筆頭取)
      鵜飼吉左衛門(水戸藩京都留守居役)
      飯泉喜内(元土浦藩士)
      橋本左内(越前藩士)
      頼三樹三郎(儒者)
      吉田松陰(長州藩士)
 獄門  鵜飼幸吉(水戸藩京都留守居助役)    です。

 逮捕前または処罰を受ける前に病死した人物は
  梁川 星巌(儒者)、 梅田雲浜(元小浜藩士)、月照(清水寺成就院僧) などがいます。

右最上段は、京都の長楽寺の参道と山門です。長楽寺には、安政の大獄で処罰された鵜飼吉左衛門、鵜飼幸吉、頼三樹三郎のお墓があります。
 右下段の写真は、浅草の海禅寺にある梅田雲浜のお墓です。
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by wheatbaku | 2013-02-02 11:56 | 大河ドラマ | Trackback
東禅寺事件(東禅寺②高輪散歩4)
 今日は、東禅寺の2回目です。

 東禅寺には、安政6年(1859年)に日本初のイギリス公使館が置かれ、初代公使オールコックが駐在しました。
c0187004_15123867.jpg 山門前には、それを示す「最初のイギリス公使宿館跡」という石柱がたっています。
 なお、山門は昭和46年に建立されたものです。

 この東禅寺では有名な「東禅寺事件」という外国人に対する襲撃事件が起きています。
 「東禅寺事件」というのは第一次と第二次と2回起きています。

 第一次東禅寺事件は、文久元年(1861)5月28日、水戸藩を脱藩した攘夷派浪士14名がイギリス公使オールコックらを襲撃した事件です

 文久元年5月、オールコックは長崎から江戸へ向かう際、幕府が警備上の問題から海路での移動を勧めたのに対し、オールコックは陸路による江戸入りを強行し、5月27日に東禅寺に入りました。
 このオールコックの行動に対し、攘夷派浪士は「神州日本が穢された」と怒りました。
 オールコックが 東禅寺についた翌日の5月28日午後10時頃、水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名はイギリス公使館のあった東禅寺に侵入し、オールコックたちを襲撃しました。
 これに対して東禅寺を警備していた兵士が応戦し、お寺の内外で攘夷派浪士と戦い、双方に死傷者が出ました。

 オールコックは幸いにも難を逃れましたが、イギリス側は長崎駐在領事ジョージ・モリソンと書記官ローレンス・オリファントとが負傷しました。
c0187004_1513025.jpg
 一方、攘夷派浪士は、3名が討取られ1名が現場で捕えられました。
残りのものは逃走しましたが、品川の旅館で捕り方に包囲され、3名が切腹し1名が捕えられました。
 事件後、イギリス水兵の公使館駐屯の承認、日本側警備兵の増強、賠償金1万ドルの支払いという条件で事件は解決しました。

 しかし、「第一次東禅寺事件」のちょうど一年後の文久2年(1862)5月29日に第二次東禅寺事件が起こりました。
 第二次東禅寺事件は、東禅寺を警備していた松本藩士の伊藤軍兵衛が、代理公使のジョン・ニールを襲撃した事件で、警備する側が襲撃するという衝撃的な事件でした。
 第一次東禅寺事件の後、オールコックは幕府による警護が期待できないとして、公使館を横浜に移しました。
c0187004_15133744.jpg しかし、オールコックが休暇のため帰国中に代理公使となったジョン・ニールは、再び東禅寺に公使館を戻しました。
 松本藩士である伊藤軍兵衛は、東禅寺警備を命令されていることにより松本藩の財政負担が多くなっていることなどから、公使を殺害し、負担を軽減しようと考えたと思われます。
 伊東軍兵衛は、夜中にニールの寝室に侵入しようとしたが、警備のイギリス兵2人に発見され斬り合いになりました。
 そして、軍艦レナード号の水夫チャールズ・スウィートが斬られ、伍長リチャード・クリンプスが斬り殺されましたが、伊藤軍兵衛自身も負傷し、その後に自害しました。

 幕府は警備責任である松本藩主松平(戸田)光則に差控を命じ、生麦事件の賠償金とともに1万ポンドを支払うこととなり、事件は解決しました。

 東禅寺には、公使館の一部として利用されていた奥書院が残されているようですが、一般には公開していないため、拝観できません。

 また、庫裏の玄関先に、刀の傷跡らしきものがありますが、庫裏は昭和6年に建築されたものである、東禅寺事件の傷跡ではないと御住職はおっしゃっていました。
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by wheatbaku | 2013-02-01 06:55 | 大江戸散歩 | Trackback
  

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