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薩摩藩高輪邸跡と旧竹田宮邸(高輪散歩2)
 今日から、高輪周辺の史跡についてご案内します。
 
 品川駅を下車して高輪口を出ると正面に見えるのがSHINAGAWA GOOS(シナガワ グース)です。
以前は「ホテルパシフィック東京」でしたが、現在は、ビジネスホテルの「京急EXイン品川駅前」核テナントとした複合商業施設となっています。
c0187004_2371668.jpg 京浜急行電鉄が所有しています。
 江戸時代は、ここは薩摩藩の高輪藩邸でした。
 ここで、慶応4年3月13日の西郷隆盛と勝海舟の江戸城無血開城に向けた第1回の話し合いが行われました。
 ここでの会談は、西郷と勝の間では、江戸開城に関する重要な交渉事は何もありませんでした。しかし、明日もう一度、芝の田町の薩摩屋敷で会うことを約束して別れました。
 そして迎えた翌14日、勝は西郷が山岡に提示した条件についての嘆願書を携えて、西郷の元を訪れました。
 そして、二人の会見の結果、江戸無血開城を取り決めました。
 
 ここは、明治後半以降には、朝香宮家、東久邇宮家の邸宅があったようです。
 このうち、朝香宮邸は、昭和8年に白金(東京都庭園美術館)に引っ越しました。
 そして、東久邇宮邸を、京浜急行が取得し、「ホテルパシフィック」を開業しました。

 お隣にあった竹田宮邸、北白川宮邸の跡地はプリンスホテルが取得して、それぞれ、グランドプリンスホテル高輪、グランドプリンスホテル新高輪となっています。
c0187004_2383978.jpg そのうち、グランドプリンスホテル高輪には、旧竹田宮邸が残されています。
当初は明治天皇の御用邸として計画されていましたが、北白川宮能久(よしひさ)親王の第一王子であった恒久と、明治天皇の第6皇女の常宮昌子(つねのみや・まさこ)との結婚(明治41年)に当たって、敷地とともに下賜されたものです。
 恒久は竹田宮家を創設し、ここを新居として暮らし始めました。
 しかし、竹田宮恒久王は、わずか37歳でスペイン風邪により亡くなります。
c0187004_2353890.jpg   設計者はジョサイア・コンドルの弟子であった片山東熊でした。
 竹田宮邸を手がけた時期と、ヴェルサイユ宮殿を模した迎賓館(旧赤坂離宮)の竣工時期とは重なっていて、ともにネオ・バロック様式*です。
 戦後、商工大臣公邸、通商産業大臣公邸を経て、昭和28年(1953)からは高輪プリンスホテルの所有となり、昭和47年に村野藤吾によって改修・復元されています。
 現JOC会長の竹田恒和氏は、竹田宮恒久王の孫にあたります。

 赤印がSHINSGAWAGOOSです。 青印が旧竹田宮邸です。

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by wheatbaku | 2013-01-30 07:26 | 大江戸散歩 | Trackback
直弼と容保はお友達(八重の桜 第4回「妖霊星」)
 「八重の桜」についてコメントをもう一回続けます。

 「妖霊星」では、昨日書いたように井伊直弼が松平容保を茶に招く場面がありましたが、「八重の桜」では井伊直弼と松平容保が一緒にいる場面が頻繁に出てきます。これには訳があります。
 井伊直弼と会津藩松平家とは特別の仲だったからです。

 溜間(たまりのま)というのは、江戸城内の黒書院の中にある部屋の名前です。
c0187004_1331177.jpg 江戸城に登城してここに詰める大名を溜間詰(たまりのまづめ)と言いました。
 ここに詰められる大名は、ごく少数の家門・譜代に限られました。
 彦根藩井伊家、会津藩松平家、高松藩松平家の三家が常溜(じょうたまり)と呼ばれ歴代藩主が溜間詰に列せられる家柄です。
 ですから、元々井伊家と会津藩松平家は親しく交流していたようです。
 
 井伊直弼は、実兄で先代藩主である直亮が片意地であり、江戸城内でのしきたりなど教えてくれなかったそうです。
 そこで、直弼が江戸城内のしきたりを教えてもらったのは、同じ溜間詰であった会津藩主松平容敬(かたたか)と高松藩主松平頼胤(よりたね)でした。
 そうしたことから、松平容敬と松平頼胤とは親密に交際していました。 
 二人のうち特に松平容敬に直弼は傾倒していました。

 そして、容敬は当然ながら、容敬だけでなく、容敬の子供たちも含めて親密に付き合っていたようです。
 直弼の手紙に「我等事、此此(このごろ)は子供二人もうけ申候心持に候。十一歳之男子と十二歳之女子と、俄(にわか)に二人子持に相成申候」と書いています。
 この11歳の男子とは容保のことで、12歳の女子とは敏姫のことです。
 直弼が、容保と敏姫を自分の子供と同じだと言っているのです。
 このくらいですから、井伊直弼と容保との交際も頻繁に行われていたと思われます。

(右上写真は、埋木舎に展示されていた直弼の肖像画です。
 また、右下の写真は、直弼が頼胤に出した手紙の覚書で、重要文化財に指定されています。彦根城博物館に展示されていました。)


 なお、溜間詰には、常溜のほか飛び溜という家柄がありました。
c0187004_13315690.jpg 姫路藩酒井家、伊予松山藩松平家、忍松平家、桑名松平家の四家です。
 さらに、老中などを務めたものが優遇されて、一代限り、溜間詰になる場合があります。
 これを溜間格といったようです。 安政元年の場合では、佐倉藩堀田家と小浜藩酒井家などが溜間格でした。
 

 安政元年の溜間詰大名の一覧表がありましたので書いておきます。
 常溜   近江彦根藩 井伊掃部頭直弼
       陸奥会津藩 松平肥後守容保
       讃岐高松藩 松平讃岐守頼胤
 飛び溜  播磨姫路藩 酒井雅楽頭忠顕
       伊予松山藩 松平隠岐守勝善
       武蔵忍藩   松平下総守忠国
       伊勢桑名藩 松平越中守猷
 溜間格  下総佐倉藩 堀田備中守正睦
       若狭小浜藩 酒井修理太夫忠義
       越後長岡藩 牧野備前守忠雅
       三河西尾藩 松平和泉守乗全
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by wheatbaku | 2013-01-29 08:10 | 大河ドラマ | Trackback
井伊直弼突然大老になる(八重の桜 第4回「妖霊星」)
 昨日の「八重の桜」では、多くの場面で井伊直弼が出てきました。
 そこで、今日は井伊直弼について、少し書いてみましょう。

 「八重の桜」の中で井伊直弼が「突然大老となった」というナレーションがありました。
c0187004_23514925.jpg 確かに井伊直弼が大老となったのは、彦根藩にとってもナレーション通り「突然だった」ようです。
 井伊直弼の大老就任について彦根藩の「公用秘録」という書物に「今日迄少しも御様子これなく、俄事(にわかごと)の由」と書かれていて「突然のことだった」と書かれています。

 こうなったのは
 松平春嶽に大老を仰せ付けられるように、(老中首座の堀田睦が)将軍家定に伺ったところ。家定は驚いて「家柄からいって、また人物からいって、彦根(井伊直弼)を差し置いて越前(松平春嶽)に申し付ける筋ではない、掃部頭(井伊直弼)に申し付けるように」といったので、急に決まったようです、
 
 井伊直弼が大老となったのは、老中の松平忠固(ただかた)が、紀伊和歌山藩主徳川慶福(よしとみ)を次期将軍にしようとする南紀派の新宮城主で紀州藩付家老の水野忠央(ただなか)と気脈を通じて、将軍家定に直弼の起用を進言し成功したからと言われています。

 右上写真は彦根城内の金亀児童公園に建つ井伊直弼の銅像です。

 井伊直弼が大老となったため、日米修好通商条約が調印され、さらに将軍世継には、一橋慶喜ではなく徳川慶福とすることが決まり、急速に政局が展開したことは「八重の桜」で描かれていました。

 
 「八重の桜」の中では、井伊直弼が、自邸で松平容保にお茶を立てる場面が出てきました。

 意外と知られていませんが、井伊直弼はお茶が得意で、一派を作るほどでした。
 「埋木舎」と名付けた屋敷で不遇な青年期を過ごしている間、直弼は茶道には熱心に取り組みました。
c0187004_2352874.jpg 武家の茶湯である石州流を学び、ついに奥義を窮め、一派をつくりました。
 直弼が書いた茶の本として「茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)」や「閑夜茶話」などがあります。
 茶道具を自分で作ったりデザインを考案して制作させたりしています。
 左写真は、直弼が形を指定して作らせた「六種棗(ろくしゅなつめ)」と呼ばれるものです。
 彦根城博物館に展示されていました。
 直弼が茶道の極意と言われる「和敬清寂(わけいせいじゃく)」の意を詠んだ和歌に
 そよと吹くかぜになびきて すなほなる姿をうつす岸の青柳
 という歌もあります。
 こうした直弼ですから、茶での接待は心得ていたわけです。
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by wheatbaku | 2013-01-28 07:30 | 大河ドラマ | Trackback
容保は和歌の名手(八重の桜 第3話「蹴散らして前へ」)
 日曜日の「八重の桜」では、敏姫と結婚した容保がお国入りすることを寂しがる敏姫に、義姉の照姫が和歌をやりとりするようにと提案する場面がありました。

 実は、松平容保は、和歌の名手でもありました。
c0187004_23484549.jpg 容保は、実父である美濃高須藩主松平義建(よしたつ)や義姉の照姫から和歌の手ほどきを受けて、和歌に精進しました。
 また幕末の歌人小出粲 (こいで-つばら)にも師事しています。

 容保は時間があれば花鳥風月を詠んで楽しみ、容保が詠んだ和歌は、生涯で2300首以上と言われていて、人生の節目には、その心境を和歌に歌っています。

 非常に有名なものが、京都守護職を受けるかどうか大変迷っている時に、実父の義建に送った次の和歌です。
 行くも憂し 止まるもつらし 如何にせん 君と父と 思うこころ

 容保の当時の心境を素直に歌っているように思います。

 ちなみに、この歌に対する義建の返した歌は次の通りです。
 父の名は よし立てずとも 君がため 勲(いさを)あらわせ 九重のうち

c0187004_23512825.jpg 容保は、戊申戦争後の幽閉生活時代にも、度々歌会を催したそうです。
 この時詠んだ歌は「伊奈婆廼万都(いなばのまつ)」という歌集にまとめれられています。

 明治年間には「芳山公和歌集」という歌集も編纂されています。
 左写真は、右側が「伊奈婆廼万都」で、左が「芳山公和歌集」です。

 戊辰戦争戦死者23回忌に容保が詠んだといわれる歌は次の通りです。

 「なき跡を 慕うその世は隔たれど なお目の前の 心地こそすれ」

 上記の松平容保の写真は国立国会図書館ホームページから転載したもので、国立国会図書館の許可を得て掲載しております。
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by wheatbaku | 2013-01-22 07:30 | 大河ドラマ | Trackback
会津藩の江戸湾警備(八重の桜 第3話「蹴散らして前へ」)
 昨日の「八重の桜」は、八重と川崎尚之介(八重の最初の夫になる人物)の出会いと山本覚馬が蘭学所の設立に苦労するストーリーが中心でした。
 その中で、保守的な軍制を続けようとして、軍制改革の提案や洋学所設立を認めようとしない藩重臣に対して、覚馬が「お殿様は、理解しないはずがない」と叫ぶ場面があります。

 会津藩は、早い段階から、江戸湾警備に携わっていますし、容保も房州の海防体制の視察も行っていますので、覚馬の指摘は正しいように思います。

 今日は、江戸湾警備に携わった会津藩について書きます。
c0187004_22274694.jpg 江戸湾の警備が、重要視されるようになったのは、寛政年間です。
 寛政4年(1792)にロシア使節ラクスマンが、根室に来航し日本の通商を求めましたが、この際に、江戸への回航を要求しました。
 これに驚いた老中松平定信が、江戸湾の防衛体制の整備に着手しました。
 しかし、松平定信が老中を辞任したことにより、この計画も中座しました。
 その後、北方でロシアとの緊張が高まったり、長崎で起きた「フェートン号事件」をきっかけに、文化年間に江戸湾の海防が再び注目されるようになりました。

 文化7年(1810)に、会津藩が江戸湾の相州側の警備を命じられました。
 対岸の房州側の警備を命じられたのは、白河藩(当時の藩主は江戸湾の警備強化を提案した松平定信)でした。
 文化7年11月には、会津藩士の移住が始まりました。遠方への長期出兵だったため家族同伴がゆるされました。
 そして文化8年から9年にかけて、観音崎、浦賀平根山、城ケ島に砲台が築かれ、陣屋は観音崎、平根山、三崎におかれました。
 警備隊は、番頭上席を責任者として、数名の番頭に指揮された軍隊、武具奉行、普請奉行、砲術家などの技術者、郡奉行を中心に民政にあたる者で編成されていました。
 この江戸湾警備は10年もの長期間に及びましたが、文政3年(1820)に、相州の警備は浦賀奉行所が担当することになり、会津藩は江戸湾警備の任を解かれました。

 その後、幕府直轄体制、忍藩・川越藩防衛体制の時代を経た後、弘化4年(1847)に「御固四家体制」になりました。

 御固四家体制とは、江戸湾の防衛力強化のため、従来の忍藩・川越藩に加えて、会津藩と彦根藩を警備担当に追加するものでした。
 ここでも、会津藩が引っ張りだされています。
 会津藩は、今回は房州警備を命じられ、彦根藩が相州警備を命じられました。
 7月20日に、会津若松を第一隊が出発し、8月15日には、竹岡台場、16日に富津台場を忍藩から引き継いでいます。
 この2か所に陣屋が設けられ、派遣された兵力は約1400名でした。
 時の会津藩藩主は8代藩主容敬(かたたか)でしたが、同時に警備を命じられた井伊直弼が容敬を「当今英雄之大将、天下の御為無二の忠臣、実に感服致し候」と高く評価しているようです。
 容敬の死後、18歳で藩主となった容保は、嘉永6年(1853)4月に房州を視察しました。
 ペリーが来航する2か月前のことです。
 嘉永6年6月3日にペリーが艦隊を率いて浦賀沖にやって来ましたが、これにより、より江戸に近い場所での防衛体制の必要が認識され、いわゆるお台場が、江川太郎左衛門により構築されることになりました。
 嘉永6年8月21日に工事が始まり、一番台場から三番台場が竣工したのは同年7月9日でした。
 埋め立てに利用された土砂は、一番台場は御殿山最寄山、二番台場は下高輪松平駿河守元屋敷、三番は高輪泉岳寺山土でした。

 嘉永6年11月14日に会津藩は、房州警備の任を解かれ江戸湾の品川第二台場の防備に専任することになりました。そして、それは安政6年まで続きました。
 第二台場は、撤去されてしまい現在はありません。最上段の写真は第三台場です。

 このように会津藩は、江戸湾警備にも大きな役割を果たしています。
 この背景には、藩祖保科正之と将軍家との特別な関係に基づく譜代名門という家柄そして会津藩の強い軍事力と藩士の高い士気に対する幕府の強い期待があったものと思います。
 そして、幕府の期待に違わず江戸湾警備の任務を遂行したことが、その後の京都守護職への道につながることになったともいえるような気がします。
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by wheatbaku | 2013-01-21 07:08 | 大河ドラマ | Trackback
象山と海舟ら門人(八重の桜 第2話「やむにやまれぬ心」)
 昨日は佐久間象山が吉田松陰の海外密航に連座して蟄居になるところを書きましたが、佐久間象山について、もう一日書きますのでお付き合いください。
 佐久間象山は、多くの優秀な門人がいました。その人たちは、幕末から明治にかけての日本を大きく動かした人々でした。
 今日は、そのことについて書いてみたいと思います。

 勝海舟は、「八重の桜」に出てきたように、象山の弟子でした。
 「八重の桜」第2話では、象山が蟄居で松代に帰った後、勝海舟が「海舟書屋」と書かれた額(下写真)を取りにくる場面がありました。
c0187004_20524464.jpg
 勝海舟は本名は勝麟太郎で、海舟は号ですが、この海舟という号は、佐久間象山の家に掲げられていた「海舟書屋」という言葉から採ったと言われています。
 また、海舟と象山は義兄弟でもありました。
 海舟の妹の順子は佐久間象山の正妻となっているので海舟が義兄ということになります。
 嘉永5年11月に結婚しています。象山42歳で、順子は17歳ですので、25歳の差がありました。
 佐久間象山は42歳になって数人の妾がいて子供もいましたが正妻はいませんでした。
 そこで、象山が正妻を求めていたところ、勝海舟の母親が、その噂を聞いて、正妻を求めているのであれば娘をもらってくれるのであれば娘をやりましょうと言ってくれたのだそうです。
 これは象山が、国元の家老恩田頼母にあてた手紙に書いてある内容です。
 
 
 海舟が入門したのは、深川の砲術塾でした。
 佐久間象山は、嘉永3年7月に深川小松町の真田藩の藩邸内に砲術の塾を開きます。
 東京メトロの「門前仲町」から永代橋に向かい福島橋を越えた地点に説明板が立っています。
c0187004_2053947.jpg この塾には、松代藩士は当然入門しますが、他藩の藩士も入模します。
 豊前中津藩では、70人もの藩士が入門したと言います。
 嘉永3年に入門した人物には、勝海舟のはかに、函館五稜郭を設計する伊予大洲藩士武田斐三郎(あやさぶろう)、開成所教授となる津田真道などがいます。
 そして八重の兄の山本覚馬もこの時期に入門しています。

 嘉永3年12月に、佐久間象山は、門弟十数名を引き連れて、松代藩に帰っています。
 そして、佐久間象山は嘉永4年(1851)2月、生萱村から大砲の試射を行いました。
 すると目標の一重山を飛び越えて天領の満照寺に着弾しました。
 満照寺が松代藩領でなく、天領であったため、いろいろな問題が発生したといいます。
 同じ月に、再度、試射した際はうまくいき、見物客はその素晴らしさに驚いたといいます。

 佐久間象山は、かねてより江戸に居住することを願っていましたが、藩主真田幸貫の配慮で松代藩士のままで江戸居住を認められ、嘉永4年5月、江戸に向けて出立し、木挽町に砲術塾を開きました。
c0187004_854855.jpg 右写真が佐久間象山塾の説明板です。
 ここの地主は浦上四九三郎という人で洋学に関心のある人物だったので象山とは気が合ったといいます。
 この塾には象山の母親も同居しました。
 塾には大勢の門人が入門し、早朝から3.40人が通ってきて勉学に励んだそうです。
 そのため、本所の江川太郎左衛門塾や愛宕下の下曽根金三郎塾と肩を並べるほどだったようです。
 
 そして、この塾には、昨日紹介した吉田松陰や小林虎三郎をはじめとして幕末の政治を動かした重要な人物が入門してきます。
 吉田松陰と宮部鼎蔵が入門したのは嘉永4年のことでした。
 翌年の嘉永5年には、長岡藩の河井継之助、そして後の東京帝国大学総長となる但馬出石藩士加藤弘之が入門しています。
 嘉永6年には坂本龍馬が入門しています。これは勝海舟の紹介によるもと考えれているようです。
 嘉永7年には、越前藩士橋本左内、さらに真木和泉が入門しています。

 このように書いてくると佐久間象山の門弟のすごさに改めて驚かされます。

 赤印が、深川の真田家藩邸に最初に開いた「佐久間象山砲術塾跡」の説明板です。

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by wheatbaku | 2013-01-15 08:28 | 大河ドラマ | Trackback
松陰密航と象山連座(八重の桜 第2話「やむにやまれぬ心」)
 昨日の「八重の桜」では、いよいよ綾瀬はるかの「八重」が登場でした。
 午後には「JIN -仁」の再放送が放映され、綾瀬はるかのドラマを2度みることになりました。
 綾瀬はるかの「八重」 いいですね。ますます大河ドラマ「八重の桜」が楽しみになります。

 さて、昨日のなかには、吉田松陰の海外密航とそれにともなう佐久間象山の連座の話がありましたので、そこについて書いていきます。

c0187004_15192327.jpg 吉田松陰が佐久間象山に入門したのは、嘉永4年7月のことです。
 その後、吉田松陰は頭角を現し、吉田松陰は越後長岡藩の小林虎三郎と並び「両虎」と称されるようになりました。
 右写真は、木挽町(現在の銀座4丁目)にあった佐久間象山塾跡の説明板です。


 吉田松陰は、海外渡航を企てます。
c0187004_15235874.jpg 佐久間象山が若い優秀な人材を外国へ送りこんで学問をさせるべきだと幕府に建言していましたが、それが無理とわかったため、あえて海外密航を試みようとしました。
 吉田松陰が、最初は、プチャーチンが来航した時に実行しようとしました。
 その時、象山は、送別の詩と4両の旅費を渡しました。しかし、この時は、松陰が長崎に到着する前に、プチャーチンは長崎を去ってしまったため、密航は失敗に終わります。
 そうした時に、嘉永7年正月ペリーが再来航したため、吉田松陰は、海外密航を企てます。
 3月28日に実行しますがペリー提督に渡航を拒否され、海外渡航は失敗しました。
 この経緯については、以前書いた 「吉田松陰密航①」 「吉田松陰密航②」 をご覧ください。
 右写真は、佐久間象山塾があった場所の遠景です。現在は「でんぱつビル」(写真右側の建物)が立っています。

 密航に失敗した吉田松陰は、即日、自首します。
 その後、松陰は江戸に送られ4月15日に小伝馬町婁屋敷の揚屋(あがりや)に入牢となります。
 下写真は、小伝馬町牢屋敷跡です。現在は中央区の十思公園となっています。 
c0187004_15224765.jpg これに関連して、佐久間象山も捕縛され、小伝馬町牢屋敷の揚屋(あがりや)に4月6日に入牢します。
 佐久間象山の方が先に牢屋敷に入牢していますが、松陰が自首したのは下田ですので、護送する時間がかかたためと思われます。

 佐久間象山を尋問したのは、北町奉行井戸対馬守覚弘(さとひろ)でした。
 吉田松陰は、神妙に尋問に応じたものの、佐久間象山は、自分の持論を申し立て一歩も譲らず抗弁し役人に抵抗しました。そのため、非常に役人の反感をかったようです。

 9月18日に佐久間象山と吉田松陰に対する判決が下されました。
 象山は松代で蟄居、松陰は萩で蟄居という判決でした。
 二人は、初めは死刑が相当との意見が有力でしたが、象山の親友の川路聖謨が老中首座阿部正弘に軽い刑罰をお願いし、阿部正弘も象山を知っていたため、特に井戸対馬守に指示して蟄居という軽い刑としたと言われています。
 阿部正弘は、松代藩主真田幸貫(ゆきつら)が海防掛の老中であった時、象山が海防掛顧問だったから、知っていたのだろうと言われています。
 判決は即日実行され、象山は松代藩に、松陰は萩藩に引き渡されました。
 この間、象山と松陰は法廷で顔を合わせるだけでしたが、この日も会話をすることもかなわずただ目礼をして別れざるをえませんでした。
 松陰は、「別れ奉る時、官吏座に満つ。言、発すべからず。一拝して去る。」という詩を後に作っています。
 
 蟄居を命じられた佐久間象山は、9月19日に家族ともども松代に向けて江戸を発ちました。
 一方、吉田松陰は、9月23日に江戸を出発しました。

 最後に、佐久間象山が、吉田松陰に送った「送別の詩」を書いておきます。
 原文は漢文で読むのが難しいので、書き下し文を載せておきます。

 吉田義卿を送る
 之(こ)の子霊骨あり。
 久しく蹩躄(べっせつ 事にあくせくすること)の群を厭う。
 衣を振う万里の道。心事未だ人に語らず
 則ち未だ人に語らずと雖も、忖度するに或は因るあり。
 行を送って郭門(かくもん 城門)を出ずれば、
 孤鶴秋旻(しゅうびん 秋の空)に横たわる。
 還海何ぞ茫々たる。 五州自ら隣を為す。
 周流形勢を究めなば、 一見は百聞に超えん。
 智者は機に投ずるを貴ぶ。歸來須(すべから)く辰に及ぶべし。
 非常の功を立てずんば、身後(しんご)誰か能く賓(ひん)せん。


 赤印が「佐久間象山塾跡」の説明板です。東京メトロ「東銀座」駅近くにあります。

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by wheatbaku | 2013-01-14 17:36 | 大河ドラマ | Trackback
吉田松陰の東北行(八重の桜 第1話「ならぬものはならぬ」)
 大河ドラマ「八重の桜」は先週日曜日から始まりましたが、先週は江戸検一級2期会の人形町散歩があったため見ることができませんでしたので、土曜日に一週遅れで見ました。
c0187004_22134364.jpg 今年の大河ドラマはおもしろそうですね。
 昨年は結局大河ドラマは一度もみずに終わりましたが、今年は毎回に熱心にみることとなると思います。

 大好きな幕末が時代背景になりますので、気が付いたことを「気ままに」ブログで書いていきたいと思います。

 第1回では、長州藩士吉田寅太郎と肥後藩士宮部鼎蔵が会津を訪ねてきて山本邸で一晩過ごす場面がありました。

 吉田寅太郎(のちの松陰)が、東北を旅行したのは、嘉永4年(1851)12月14日から嘉永5年4月5日の5か月間(嘉永5年は閏2月があるため)の旅行でした。
 吉田松陰は、東北旅行について藩から許可は得ていたものの、過書手形(通行手形)の発行がされていなかたったため、同行者の宮部鼎蔵(みやべていぞう)と江帾(えばた)五郎との出発日の約束を守るため脱藩して東北旅行に出発します。
 そして、水戸の向かいます。水戸では、1か月間も滞在し、会沢正志斎に何回も面会し、「今年71、矍鑠たる」会沢から教えを乞うています。
 この間、水戸の偕楽園を訪ねていますが、「今は即ち荒廃す。」と書いていて、松陰が訪ねた頃は手入れが行き届いていなかったようです。
 1月20日に水戸を発ち、1月29日に会津に入ります。
c0187004_2215291.jpg 会津藩では、斉藤弥九郎の息子斉藤新太郎の紹介で藩士井深蔵人をまず訪ねますが、蔵人は亡くなっていたためその子や孫茂松に会います。
 また、黒河内伝五郎などの宝蔵院流の槍術士にも会いました。
 黒河内伝五郎は第3回に山本覚馬と宝蔵院流槍術との決闘に立ち会う場面に出てくるようです。
 そして、藩校日新館教授の高津平蔵を訪ね、海防について意見を聞いています。
 さらに会津藩の軍事奉行の広川勝助にも会うことができ、会津藩の兵制や軍事教練について質問したようです。
 そして、藩校日新館を黒河内伝五郎の案内で2月6日見学しています。日新館を見学した後、その日のうちに会津を出発して越後に向かいました。
 吉田松陰は、会津藩は文武の士が多く会津行きは有意義だったと萩への手紙に書いているそうです。


 その後、佐渡にわたり、鶴岡・本庄、秋田をめぐり、弘前にいたり、竜飛岬まで行きます。
c0187004_0183079.jpg 青森に戻り、盛岡、仙台、米沢を通り、会津若松で一泊した後、日光、足利を経由して江戸にもどっています。
 まさに東北を一周しています。
 吉田松陰は、東北旅行の記録として「東北遊日記」という見聞記を書いています。
 会津坂下町にある心清水八幡神社は、会津から越後に向かう途中で参拝していますが、ここには、「東北遊日記」の碑(上写真)が建てられています。

 「東北遊日記」からみると、「八重の桜」で描かれたような場面は直接はないように思われます。
 しかし、どこかで、山本覚馬と吉田松陰の接点があっても不思議ではないように思いますし、山本覚馬が吉田松陰の噂を聞いたことはあっただろうと推測されます。

 いずれにしてもこれからの展開が楽しみな「八重の桜」です。
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by wheatbaku | 2013-01-13 12:30 | 大河ドラマ | Trackback(1)
佐久間象山塾跡(赤穂浪士引き揚げルート22)
 采女橋を渡り、「みゆき通り」を150メートルほど進むと「でんぱつビル」の脇の歩道に、中央区教育委員会が立てた「佐久間象山塾跡」の説明板があります。
東京メトロ「東銀座」駅からですと、4番出口を出て徒歩2分ほどの距離にあります。
 「でんぱつビル」のあたりに、佐久間象山の私塾がありました。
 今日は、この「佐久間象山塾跡」の説明をします。

 佐久間象山は、信濃国松代藩の藩士でした。
 佐久間象山は初め江戸に出て、「言志四録」を書いた著名な儒学者佐藤一斎に入門し儒学を修めました。
 天保10年(1839) 神田お玉ヶ池付近に私塾「象山書院」を開き、さらに松代藩の江戸藩邸学問所頭取などを務めました。
c0187004_20282427.jpg 天保12年(1841)、象山が仕える松代藩の藩主・真田幸貫(さなだ ゆきつら)が老中となり海防掛に任ぜられたことにより、佐久間象山の進むべき道が変わりました。
 真田幸貫は松平定信の次男で、真田幸専(ゆきたか)の養子となり、文政6年(1823)に家督を継ぎ10万石を領した。藩政改革を実施し名君と言われました。
 真田家は外様ですので、本来は老中に就任できませんが、幸貫は松平定信の子供であったため、老中に就任することができました。
 幸貫は海防掛となったため、佐久間象山に西洋兵学や西洋砲術を学ぶよう命令しました。
 そこで、象山は天保13年(1842)9月に江川太郎左衛門英龍に入門し西洋砲術を学びました。

 江川太郎左衛門のもとで、西洋砲術を学んだ佐久間象山は、嘉永3年(1850)7月、深川小松町(現在の永代1丁目)の真田家下屋敷で塾を開き西洋砲術を教えました。このころ、勝海舟も入門しました。
 佐久間象山の奥さんは勝海舟の妹ですので、佐久間象山と勝海舟は義理の兄弟となります。
 嘉永3年(1850)12月、いったん松代へ帰藩しますが、翌年の嘉永4年(1851)に再び江戸へ出府しました。
 そして、当時木挽町といっていた場所で砲術塾を開きました。
 嘉永6年改正の絵図によると、「狩野勝川」(幕府奥絵師木挽町狩野家の画塾)と向かい合う場所に「佐久間修理」(佐久間象山のこと)の名が見られるそうです。
 この塾は20坪程の規模で、常時30~40人が学んでいたといいます。
 象山の門下には、勝海舟、吉田松陰、橋本左内、河井継之助(つぐのすけ)、小林虎三郎など幕末に大いに活躍する優勝な人材が集まりました。
 坂本龍馬も門人で、坂本龍馬が嘉永6年(1853)に江戸へ最初の剣術修行に出た際に象山に入門したそうです。
 このように有能な人材で栄えていた佐久間象山塾も、嘉永7年(1854)に門人の吉田松陰がアメリカ密航に失敗した事件に連座して、象山は国許に蟄居を命じられて塾も閉鎖されました。
 吉田松陰は外国の実情を知るために、ペリーが再来航した機会に、ペリー艦隊の船で、アメリカに渡航しようと考えますが、ペリーが許可しなかったため、密航に失敗したのでした。
 この件については、以前に書いてありますので 「吉田松陰密航」 をごらんください。

 赤印が「佐久間象山塾跡」の説明板です。

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by wheatbaku | 2012-12-08 20:55 | 忠臣蔵 | Trackback
会津藩家訓(かきん) (松平容保③ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、保科正之が定めた「会津藩家訓(かきん)15ヶ条」  のお話です。

 「会津藩家訓(かきん)15ヶ条」 は、名君と言われた保科正之が、自分の子孫や家老たちに戒めとして定めたものです。
 正之が推敲に推敲を重ね、さらに山崎闇斎にも意見を聞いて定めたと言われています。
 その各条文は最下段に書きましたので後でお読みください。

【徳川家への忠義が最も大切】 
 その中で、特に目をひくものが第一条です。第一条は次のように書かれています。
 一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
   若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。

 意味は、次のようなものです。
 「徳川将軍家については、一心に忠義に励むべきで、他の諸藩と同じ程度の忠義で満足していてはならない。もし徳川将軍家に対して逆意を抱くような会津藩主があらわれたならば、そんな者は我が子孫ではないから、家臣は決して従ってはならない」
 まさに、徳川将軍家に対する忠義一途の思いです。

【会津藩の規範】 
 この家訓が会津藩の藩是として、江戸時代を通じて、会津藩と会津藩士の行動を決める重要な規範となりました。
 会津藩では、家老に登用されたものは、その末尾に記名血判したという説もあります。
 そればかりでなく、年頭には、家訓が奉読され、藩主も家来ともども平伏して拝聴するということが行われていたそうです。 
 家訓は、会津藩にとって大変重要なもので、「その文僅々15条と雖も我藩の憲法にして磐石よりも重かりしなり」(会津藩教育考)というものでした。

【容保も徹底的に教え込まれる】  c0187004_842347.jpg
 弘化3年(1846)に会津藩主松平容敬(かたたか)の養子となった松平容保は、この家訓を養父容敬から徹底的に教え込まれました。
 この家訓が、幕末に容保が何回も固辞し京都守護職を最終的には受諾する大きな要因となりました。
 その話は明日します。

 それでは、最後に、「会津藩家訓(かきん)15ヶ条」全文を書きます。
本来は、漢文だそうですが、書き下し文で書きます。
一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
  若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。
一、武備はおこたるべからず。士を選ぶを本とすべし 上下の分を乱るべからず
一、兄をうやまい、弟を愛すべし
一、婦人女子の言 一切聞くべからず
一、主をおもんじ、法を畏るべし
一、家中は風儀をはげむべし
一、賄(まかない)をおこない 媚(こび)を もとむべからず
一、面々 依怙贔屓(えこひいいき)すべからず
一、士をえらぶには便辟便侫(こびへつらって人の機嫌をとるもの
  口先がうまくて誠意がない)の者をとるべからず
一、賞罰は 家老のほか これに参加すべからず
  もし位を出ずる者あらば これを厳格にすべし。
一、近侍の もの をして 人の善悪を 告げしむ べからず。
一、政事は利害を持って道理をまぐるべからず。
  評議は私意をはさみ人言を拒ぐべらず。
  思うところを蔵せずもってこれを争うそうべし 
  はなはだ相争うといえども我意を介すべからず
一、法を犯すものは ゆるす べからず
一、社倉は民のためにこれをおく永利のためのものなり 
  歳餓えればすなわち発出してこれを救うべしこれを他用すべからず
一、若しその志をうしない 
  遊楽をこのみ 馳奢をいたし 土民をしてその所を失わしめば
  すなわち何の面目あって封印を戴き土地を領せんや必ず上表蟄居すべし

  右15件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり
  寛文8年戊申4月11日

 25年1月24日に「会津藩家訓」の第4条について補足説明しました。
 こちらご覧ください。 
 ⇒  「媛姫(はるひめ)毒殺事件(「八重の桜」余談)」
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by wheatbaku | 2010-07-07 05:43 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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