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法務省旧本館(霞が関赤坂散歩4)
 桜田門から南方を見ると、赤いレンガ造りの明治の旧館が目に入ります。
 これが「法務省旧本館」です。ここも「霞が関赤坂散歩」でご案内しました。
 「法務省旧本館」は、姿の通り「赤レンガ棟」とも呼ばれているドイツネオバロック様式の庁舎で重要文化財に指定されています。
 明治のはじめ、明治政府は、官庁を集中させる計画をたて、ドイツ人建築家エンデとベックマンをドイツから招聘しました。
c0187004_1631725.jpg そして、 基本設計はエンデとベックマンが行い、実施設計と工事監理は河合浩蔵が行って、明治28年に竣工したのが司法省建物(現在の法務省旧本館)です。

 なお、中央官庁集中計画ですが、司法省を起工しましたが、敷地が非常に悪かったため、計画の全体を変更せざるをえませんでした。
 そのため、日比谷練兵場跡の海側半分を占める軟弱地は公園(現在の日比谷公園)とし、司法省の隣地に裁判所を設置することになりました。
c0187004_1713331.jpg 地盤が軟弱であったのは当然だと思います。家康が江戸に入った頃には、日比谷は海であったのですから。

 司法省建物は、施工中の明治24年に濃尾地震が発生したため、耐震性の強化にも力を注いで建設されました。
 そのため、関東大震災では、煉瓦外壁が鉄材で補強されていたことでほとんど被害がありませんでした。
 しかし、昭和20年の空襲では、壁面と床以外を全て焼失してしまいました。
 その後、戦災で大きな被害を受けた建物は昭和25年に修復され法務省本館として利用されていましたが、平成7年当初の姿に復原されました。

この敷地は江戸時代は、米沢藩上杉家の上屋敷でした。
c0187004_1631369.jpg  この斜め向かい側は、総務省ですが、そこには、広島藩浅野家の上屋敷がありました。
 上杉家と浅野本家といえば、まさに忠臣蔵の敵同士となります。
 その二藩の上屋敷がごく近くにあったことになります。
 もっとも、上杉家の表門は、江戸城を向いていましたので、表門同士が向き合うという位置関係ではありませんでした。 
 桜田門寄りの法務省の敷地の縁に米沢市が設置した「米沢藩上杉家江戸藩邸跡」の碑が設置されています。(右写真)

 赤印が「法務省旧本館」です。青印が「米沢藩上杉家江戸藩邸跡」の碑です。

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by wheatbaku | 2014-01-31 08:45 | 大江戸散歩 | Trackback
江戸検一級「忠臣蔵」問題について②(江戸検お題「本当の忠臣蔵」109)
今日は、江戸検一級「忠臣蔵」問題についてのコメントの2回目です。

11、土屋主税邸の所在場所(初級レベル)

 吉良邸隣地の旗本土屋主税が赤穂浪士を助勢する話は、テレビや映画の「忠臣蔵」の名場面の一つでもありますので、受験者の方はよくご存知だと思います。
 しかし、土屋主税邸がどこにあったについては勉強しないと意外とわからないと思いますが基礎知識でもあります。
 私のブログでは、  吉良邸の大きさ(江戸検お題「本当の忠臣蔵」62 で説明してあります。

12、実子2人と共に討ち入った赤穂浪士の名前(上級レベル)

 赤穂浪士四十七士の中には、一族で参加している人たちがかなりいるので、このテーマは出題確率の高いと思っていました。
 そこで、模擬試験問題第1回の第6問で同じテーマの問題を出題しています。
 それを踏まえて準備されている方には易しい問題であったと思います。
 しかし、多くの人にとっては、赤穂浪士の人間関係を覚えていかなくてはならない知識ですので、上級レベルとしました。


13、上杉家が援軍出さなかった理由(中級レベル)

 赤穂浪士が吉良邸に討ち入った場合、必ず上杉家の討手はかかるものと思われていました。しかし、上杉家の討手は出動しませんでした。
 テレビや映画の「忠臣蔵」では、千坂兵部または色部又四郎が諌止したことになっていますが、実は、老中の意向で、上杉家は出動しませんでした。
 上杉家年譜には次のように書かれています。
 健士各大勢已ニ出勢ニ及シトスル処ニ、畠山下総守義寧桜田邸ヘ馳来ラレ、今暁ノ変ニ依テ定テ討手ヲ差向ラル儀モ此有シカ今比静謐之御代ニ於テ江府之騒動ニ及シ事勿体ナシ兇徒ノ奴原 公儀ヨリ不日御成敗アルヘキ儀ナレハ必

 このことは、 上杉家の対応(江戸検お題「本当の忠臣蔵」69) で取り上げておきましので、ブログをお読みいただいた方には易しかったと思いますが、中級レベルとしました。

14、赤穂浪士が引き揚げる際に築地本願寺に投げ込まれた朱鎗の持ち主(中級レベル)

 築地本願寺には、右写真のように間新六の墓が現存しています。
c0187004_981873.jpg  その説明板には次のように書かれています。
 この説明を読んでいただければ、朱鑓の持ち主が間新六であることがわかると思います。
 間新六光風(はざましんろくみつかぜ)(1681~1703)は、播磨国(兵庫県)赤穂藩主浅野長矩の家臣、間喜兵衛光延の次男として生れました。元禄15年(1702年)父および兄の十次郎光興とともに、主君、浅野長矩の殿中刃傷事件の仇討ちに加わり、翌元禄16年(1703年)2月に麻布の毛利邸で切腹し、姉聟(あねむこ)の中堂又助が当寺に葬りました。他の義士と共に、高輪泉岳寺(港区)にも墓石がありますが、新六のみが当寺に葬られたのは、当寺の檀徒であったのか、あるいは、生前の特志によるものであろうといわれています。
 本願寺築地別院(築地本願寺)には、新六が吉良邸討ち入りののち、泉岳寺に引き揚げる途中、自身の供養を願い、槍に書状と金子を結びつけて、当寺内に投げ入れたという伝承が伝えられています。
 この供養塔は、当初のものが、天保5年(1834年)火災にあって焼失したため、羽佐間宗玄が再建したものです。
 平成15年(2003)3月 中央区教育委員会

15、討入りの報告を聞いた筆頭老中阿部正武の反応(上級レベル)

 この部分につい解説した本は、赤穂市発行の以外には私が読んだ本ではありませんでした。そこで上級レベルにしました。
 「忠臣蔵第一巻」には、次のように書かれていてます。
 筆頭老中阿部豊後守正武などは「今日このような節義の士が出たことは、まさに国家の慶事というべきである」と喜んだ。老中がそろって将軍綱吉に謁して報告し。その処分を請うた。綱吉も大いに喜び、即決は酒、ゆっくり処分を考えるため、当分大名にお預けとsるよう指図した。
 これにて、正解は「『国家の慶事である』と賞賛した」になります。

16、赤穂浪士切腹前夜に、細川邸で開かれた催しの内容(中級レベル)

 細川家に預けられて赤穂浪士たちが接待役であった堀内伝右衛門にお礼に芸をみせたことはいろいろな本に書かれているので、ご存知の方が多いと思います。
 「堀内伝右衛門筆記」には次のように書かれています。
 富森助右衛門、大石瀬左衛門何も若キ衆色々咄ともにて頓而埒明キ可申候、御暇迄ニ芸つくし懸御目可申候とて御番衆之見申さぬやうニ枕屏風之蔭ニて堺町・木挽町之おとり狂言之真似を被仕、そろそろさワき被申候
 これにより、堺町や木挽町すなわちち歌舞伎の踊りや狂言の物まねをしたと書かれています。
 よって正解は「物真似芸大会」ということになります。


17、大石内蔵助の辞世の和歌(初級レベル)

 これはあまりにも有名な和歌ですので、正解率は相当高いと思います。
 赤穂浪士の辞世の歌や句は、出題確率の高いテーマだと考えていました。
 そのため、模擬試験問題第10回に第10問で出題しました。 
 しかし、最も有名な大石内蔵助の辞世の歌が、そのまま出題されるとは思いませんでした。これはサービス問題といってよいのではないでしょうか。
 なお、この辞世の歌は、後世の創作ではないかという説があることを追加しておきます。
 「これが本当の「忠臣蔵」221ページに書かれています。

18、神崎与五郎の不満の理由(上級レベル)

 これは、選択肢がないと超難問だと思います。
 神崎与五郎は、岡崎藩水野家で最後に切腹しました。通常、切腹は身分の高い者から順に行いました。
 神崎与五郎の直前に切腹したのは三村次郎左衛門でした。
 三村次郎左衛門は7石2人扶持酒奉行・台所役であり、5両3人扶持徒目付の神崎与五郎より低い身分でした。
 それにもかかわらず神崎与五郎が最後に切腹することとなったため、神崎与五郎は「いささか閉口でござる」と不満の言葉を残したと言われています。
 なお、このエピソードの出典が、まだ不明ですので、引き続き調べてみます。

19、「仮名手本忠臣蔵」6段目の早野勘平の名ゼリフ (中級レベル)

 「忠臣蔵」についての文化面からの出題が予想外に少なく驚きました。
 文化面からの出題は、この問題だけでした。
 「仮名手本忠臣蔵・六段目」の早野勘平の名ゼリフ『色に耽ったばっかりに』は、塩冶判官が松の廊下で高師直に刃傷に及んだ時、勘平は恋人の腰元・お軽と逢引きしていたことを悔いたことばです。
 「仮名手本忠臣蔵」の中の名ゼリフの一つで有名なセリフですが、文化面で唯一の出題ですし、私のブログでも説明していませんので中級レベルとしました。


20、大石内蔵助三男大三郎の赦免後の人生(初級)

 
 赦免され後の遺児については、模擬試験問題第8回第6問で出題していますので、模擬試験問題をされた方は易しく解けたと思いますが、元々、大石大三郎が広島藩に1500石で召し抱えられたことは基礎的知識と思われるので初級レベルとしました。



 以上、私なりの評価や問題についての説明をさせていただきましたが、私の評価が正しいわけでもありませんので、あくまでも参考としてとらえてください。
 すでに竹翁さんからはコメントいただきましたが、よろしければ他の方もコメントをしていただければ幸いです。
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by wheatbaku | 2013-11-12 09:16 | 忠臣蔵 | Trackback
江戸検一級「忠臣蔵」問題について①(江戸検お題「本当の忠臣蔵」109)
 先週日曜日(11月3日)に、江戸検が実施されました。
c0187004_9533487.gif 江戸検のお題「本当の忠臣蔵」のために、模擬試験問題も出題しながら連載を続けてきましたが、江戸検の本番の一級の問題についてコメントして欲しいとの要望をいただきましたので、2回に亘りコメントします。
 コメント内容は、私なりのコメントですので、レベル評価等について、お気に召さないこともあるかもしれませんが、ご容赦ください。
 問題を見させていただき、私も1時間半かけてチャレンジしましたので、問題も正確に把握していますが、問題文をそのままブログに掲載するのは、差しさわりがあると思いますので、問題については内容のわかるタイトルだけとしますので、これもご容赦ください。

 
1、元禄14年に勅使を派遣した天皇の名前 (初級レベル)

 基礎的な知識を問う質問ですので、正解率は高いのではないでしょうか。
 模擬試験問題第2回の4問目で同様な趣旨で、元禄14年の上皇を質問しています。
 一級には、上皇の名前を問う質問でも良かったような気もします。

2、「徳川実紀」に述べられている刃傷の理由(中級レベル)

 浅野内匠頭が刃傷に及んだ理由は賄賂説が最も一般的といわれていますがその他諸説があります。 
 一般的と言われている賄賂説の有力な典拠となっているのが実は「徳川実紀」です。
 従って、正解は賄賂説ということになるのですが、典拠としてあえて「徳川実紀」をあげていることから、「徳川実紀」に関する知識を入手していない方は、回答を迷ったと思います。
 ちなみに本件については 吉良浅野の遺恨の原因(江戸検お題「本当の忠臣蔵」97) で軽く触れています。

3、栗崎道有が負傷した吉良上野介に与えたもの(上級レベル)

 この問題は栗崎道有について勉強していないと難しいと思います。
 「栗崎道有記録」には次のように書かれています。
 夫より吉良気ヲシツメ湯呑所より湯ヲ取寄茶碗ニ食ヲ入湯漬ニ〆焼塩少々相求二碗湯漬ヲ用之ト一入元気如(衍)常ノコトクニ見ヘル也
 つまり「湯漬け」を与えると元気になったと書かれています。
 この前後には、湯漬け程度で吉良上野介が元気になったのは、朝から何も食べていなかったからだとも書かれています。

4、3月14日に、赤穂藩上屋敷で起きた事件(上級レベル)

c0187004_954225.jpg この質問は、一読しただけでは、どう意味か理解しにくかったのではないでしょうか。
 これは改易となったことをきっかけに赤穂藩上屋敷で起きた騒動が何かという出題意図です。
 実は3月14日に、赤穂藩が改易になったことで、これを機会に一儲けしようと考えた不心得者がいました。
 14日の深夜に町人4,50人が上屋敷に忍び込んで泥棒を働きましたが、堀部安兵衛たちが駆け付けたところ逃げ去ったと堀部安兵衛が手紙に書いていることが、谷口眞子氏著「赤穂浪士の実像」41ページに書かれています。

5、阿久里の最初の院号(中級レベル)

 これは、模擬試験第8回の7問として出題しましたので、模擬試験に取り組んでいただいた方には易しい問題だったのではないでしょうか。
 模擬試験に取り組まなくても、「これが本当の『忠臣蔵』」の35ページに書いてあります。
 しかし、参考書籍を良く読み込んでいないと知らない事だと思いますので中級レベルにしました。

6、『赤穂鐘秀記』に書かれている吉良上野介の夫人富子が吉良上野介に要望したこと(上級)

 「赤穂鐘秀記(しょうしゅうき)」は、元加賀藩士・杉本義鄰が元禄16年に書いたものです。
 その「赤穂鐘秀記」に次のように書かれています。
 上野介奥方は、故上杉弾正大弼定勝御息女にて、去年上野介於営中に喧嘩の首尾不宜候段を被聞伝被申候は、結構成上意にて御存命は目出度候得共、内匠頭家来中鬱憤を挟み可罷有候間、子供を不便に思召候はば、御自殺可然旨、達て奥方諫言候得共、承引無之却て立腹故、不和に成被申、夫より奥方は上杉家え去年より被引越、其後終に対面無之由の事
 つまり、富子夫人は、自殺(切腹)するよう諫言したが、吉良上野介は受け入れず腹を立てたので不和となったと書かれています。

7、大野九郎兵衛の忘れ物(初級レベル)

 これは、テレビや映画の「忠臣蔵」にでてくることもあるので、それでご存知の方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 正解は、孫娘ですが、孫娘を忘れてしまうことはフィクションのように思う方が多いと思いますが、これは事実のようで、「堀部武庸(たけつね)筆記」に次のように書かれています。 
 大野九郎兵衛何事カオソロシカリケシ、夜中取物モ取敢ス一人逃出ケル、悴郡右衛門儀モ同ク逃ケ候テ娘ヲモ捨残シテ何方ヘカ落行ケン、女乗物ニテ逃タル由
 


8、「五万石捨てれば五百石拾い」の当事者名(初級レベル)

 浅野内匠頭を組みとめた梶川与惣兵衛が、事件後500石加増され、700石から1200石になったことを御存知であれば、問題文の川柳を知らなくても正解はある程度予測できるのではないでしょうか
梶川与惣兵衛の加増の件は、模擬試験第4回の4問で出題しました。


9、大石内蔵助が使用した符丁「普請」の意味(上級レベル)

 大石内蔵助の12月15日に、江戸急進派の三名あてに出した手紙のなかで、設問のごとき符丁を使用しています。
 一部分を引用してみますと
 御隠居ヘ掛御目申度候ヘ共日頃ノ御気儘弥御引込思案ニテ御逢候義如何ニモ不定候、兎角御逢無之御承引無之候ハハ御隠居ハ御心ノ儘ニ仕、若旦那ヘ能面談可申候、左候ハハ御普請イラチ申事少モ無之候ヘハ春永ニ申談相究可申候
 ご隠居(吉良上野介)にお目に掛かりたいが、なかなかお会いできない。お会いできない時は若旦那(義周)にお目に掛かりましょう。それなので、少しも普請(討入り)についてイラチになる(急ぐ)こともない、


10、神崎与五郎が営んでいた商売(初級レベル)

 これも、テレビや映画の「忠臣蔵」によく出てくる事です。(もっとも前原伊助が前面に出てくることの方が多いと思いますが、その相棒として神崎与五郎が出てくることが多いように思います。)
 前原伊助は、米屋五兵衛を名乗り、吉良邸裏門近くで商売をしました。そこに神崎与五郎も同居し小豆屋善兵衛と名前をかえて一緒に商売しました。
 このことを御存知の方は、屋号から、雑穀屋という正解はわかったことを思います。
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by wheatbaku | 2013-11-11 09:49 | 忠臣蔵 | Trackback
フレーフレー受験者の皆様!(江戸検お題「本当の忠臣蔵」108)
 明日11月3日は、いよいよ江戸検の試験日ですね。
c0187004_1065713.gif 「忠臣蔵散歩」でお会いした方・メールをいただいた方・コメントをいただいた方・ブログをお読みいただいた方、こうした方々をはじめ江戸検を受験されるすべての皆様が頑張って合格されるよう声援を送ります。

  フレー フレー 受験者!! 
   フレフレ受験者!!


 「これが本当の『忠臣蔵』」をテーマに書いた回数がこの記事で108回となりました。
 今日のこの記事で「忠臣蔵」関連の連載は打ち止めとさせていただきますが、108回もよく続いたものだと自分でも感心しています。
 これも、「忠臣蔵」の記事を皆さんが待っていただいていたからで、読者の皆様に厚く御礼申し上げます。

 この記事を書くために、多くの本を読むことができ、自分の勉強にも大変役立ちました。
c0187004_10192663.jpg  「忠臣蔵」は多くの人に馴染みがあるがゆえに、解説は非常に難しいテーマだと思っていました。
 そのため、大江戸散歩のテーマとして取り上げるのは、まだまだ早いと思っていましたが、、今回、ブログの記事を書くことになり、思いがけず、早めに取り組むことができました。
 ブログを書くために得た情報・知識をお披露目する場も、文京学院大学さんに設定していただき、「忠臣蔵ガイド」の方も少し自信が持てるようになりました。
 ということで、この「忠臣蔵」の連載は私にとって大変有意義な連載となりました。
 長いことお読みいただいた皆様に深く感謝申し上げます。
 本当にありがとうございました。


 さて、最後の「忠臣蔵」の記事は、今まで書いてこないけれど、覚えておくと得しそうな一口知識をいくつか書いてみます。
 これが江戸検に出れば儲けもの的な話題です。

1、「忠臣蔵」の意味

 「忠臣蔵」という言葉は、言うまでもありませんが「仮名手本忠臣蔵」から出た言葉です。「仮名手本忠臣蔵」というタイトルの意味するところはまだ書いていなかったのでここで書きましょう。
 「仮名」は「かな」と読み、現在であれば「五十音」、昔は「いろは」を言います。
 その文字数が四十七で、ちょうど赤穂浪士四十七士と一致するので、「仮名」としたといわれています。
 また「仮名」は「仮の名前」で、「登場人物はすべて実在の人ですよ」という意味が込められているという説もあります。
 また、「手本」とは「人間のお手本になる忠義の士」という意味が込められているといいます。
 「忠臣蔵」とは、「忠臣内蔵助」が短縮した名前という説や「忠臣が大勢詰まった蔵」という意味をこめた名前だという説もあります。


 2、赤穂浪士の戒名の出典は「碧巌録」

 赤穂浪士の戒名には、「刃」と「剣」がついているのが特徴です。
 この戒名は、当時の泉岳寺の住職の第九世酬山長恩和尚がつけたものです。
c0187004_1073042.jpg 赤穂浪士が勇ましいから「刃」と「剣」を適当につけたかというとそうではありません。
 禅の教科書に「碧巌録(へきがんろく)」という本があります。
 岩波文庫で出版されていますので、興味ある方はご覧ください。
 その第41則「趙州大死底人剣刃」という項目があります。その中の「剣刃(やいば)」から採ったものです。
 第41則全文を読み下し文で岩波文庫「碧巌録」から書くと次のようになります。
  垂示に云わく 是非交結の処は、聖もまた知ること能わず。
  逆順縦横の時、仏祖もまた弁ずること能わず。
  絶世超倫の士となり、逸群大士の能を顕わす。
  氷凌(こおり)の上を行き、
  剣刃(やいば) の上を走(ゆ)くは直下(まさ)に麒麟の頭角(つの)の如く、
  火の裏(なか)の蓮華の如し。
  宛(あたか)も超方なるを見て、始めて同道なることを知る。
  誰かこれ好手(やりて)の者ぞ。
  試みに挙(ご)し看ん。



3、勅使饗応役と津和野の銘菓「源氏巻」の関係

 元禄に入ってからの勅使饗応役の一覧は、 勅使饗応役(江戸検お題「本当の忠臣蔵」12) に書いておきました。
 この中で、津和野藩主亀井茲親(これちか)は、元禄3年、元禄7年、元禄11年と3年おきに3回も勅使饗応役を勤めています。
c0187004_10114196.jpg  このいずれかの時に、亀井茲親は指南役の吉良上野介に教えを請いますが、吉良上野介は接待の方法を教えなかっただけでなく、逆に愚弄したため、亀井茲親は吉良を切ろうと決心し、藩の家老であった多胡真蔭((たごさねかげ)にその旨伝えます。多胡は反対しませんでしたが、早速吉良上野介に小判を進上して機嫌を取り、吉良上野介から亀井茲親にたいして勅使の接待の方法を伝授させ、結果的に騒動が起こるのを阻止しました。
 この話を「仮名手本忠臣蔵」に取り込んで、多胡真蔭が加古川本蔵となり、亀井茲親が桃井若狭介となったと言われています。
 また、津和野には、吉良上野介に送った進物「小判を包んだ形のお菓子」が原型になった「源氏巻」という菓子があり、津和野を救った縁起の良いお菓子として、津和野の銘菓として現在も広く親しまれているそうです。
  「源氏巻」は、餡をカステラ生地で包んで焼いた御菓子だそうです。(右写真)

4、大石内蔵助が表門にいた事情

 吉良邸討入りの際、表門は大石内蔵助が指揮を取り、裏門は大石内蔵助主税が大将となり吉田忠左衛門が補佐しました。
 これは、大石内蔵助が赤穂浪士一同の大将だからと単純に考えがちです。
 しかし、大石内蔵助が表門に居たのはもっと深いわけがありました。
 その事情が伊予松山藩の波賀朝栄が残した「波賀朝栄聞書」に次のように書かれています。
 大石内蔵助は表門にいました。 
 それは、吉良邸に討ち入った際、公議の役人が駆けつける時は、必ず表門にやってくると思われ、その際には、門を開けずに、「現在、吉良上野介を討っている最中で、屋敷内に同志が散っています。こうした情況で中に入ると思いがけないことが起きるかもしれません。人数を揃えて門を開けるまで少しお待ちください」と返答する手筈だったためです。。

 つまり、大石内蔵助が表門にいたのは、討ち入った際にやってくるであろう公議の役人に備えるためという事情もあったのです。
 

5、吉良邸茶会の主賓は小笠原長重

 12月14日には吉良邸では茶会が開かれました。
 それでは、この茶会の主賓は誰だったのでしょうか?
 こうした疑問がおきますよね。
 それで問題意識をもって調べていたら、ウィキペディアにそのことが書いてありました。
 時の老中小笠原長重のようです。
 この裏が取れたら模擬試験の問題にしようと思いましたが、今日まで残念ながら確認がとれませんでしたので、出題しませんでした。
 確かかどうか確認はとれていませんが、頭の片隅に置いておいてほうがよいと思いますので書いておきます。
 小笠原長重は、三河吉田藩第2代藩主小笠原長矩の次男で、元禄3年(1690)第4代藩主となりました。
 既にご存じの通り、山田宗徧は、吉田藩小笠原家に仕えていました。そして、元禄10年(1697)に小笠原家を辞去しています。
 ですから、山田宗徧は少し前まで小笠原長重にお仕えしていたことになり、昵懇の間柄だったと思われます。


 それでは、再び
 受験される皆さん  頑張ってくださ~い

 最後にお願いです。
 試験の様子をコメントもしくはメールをしていただけると大変うれしく思います。
 よろしくお願いします。
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by wheatbaku | 2013-11-02 09:50 | 忠臣蔵 | Trackback
「仮名手本忠臣蔵」のあらすじ②(江戸検お題「本当の忠臣蔵」107)
 今日は、「仮名手本忠臣蔵」のあらすじの2回目で、五段目から十一段目までのあらすじを書いてみます。
 最初に「仮名手本忠臣蔵」の登場人物と赤穂事件の人物の対応表を書いておきます。
 千崎弥五郎  神崎与五郎
 原郷右衛門  原惣右衛門
 斧定九郎   大野権右衛門
 斧九大夫   大野九郎兵衛
 寺岡平右衛門 寺坂吉右衛門

五段目   山崎街道鉄砲渡しの場 同二つ玉の場

 猟師姿の勘平は、かつての同僚千崎弥五郎に出会い、仇討ちの計画を知り、軍用金を届ける約束をします。
 婿が武士に戻るためならと金策に思案する父与市兵衛は、勘平に内緒でお軽の身を売る話を進めます。
 前金の50両を受取っての帰り、与市兵衛は山賊になっている斧定九郎に殺されて財布を取られてしまいます。ところが定九郎も猪を狙った勘平の鉄砲の二つ玉に当たって悶死してしまいます。撃ったのが猪でなく旅人だと知って驚く勘平ですが、手に触れた財布を押し頂いて懐に入れ、軍用金が手に入ったと足早にその場から逃げていきます。

六段目   与市兵衛内勘平切腹りの場

c0187004_10261881.jpg 祇園の一文字屋がお軽を引き取りにきて、勘平はお軽が身売りしたことを知ります。
残り50両の入った財布を見た勘平は、昨夜間違って殺したのは与市兵衛だったのだと思い込んでしまいます。お軽を送り出した後に、変わり果てた姿の与市兵衛が運ばれてきました。不審に思ったお軽の母から勘平は責め立てられます。そこに訪ねてきた千崎弥五郎と原郷右衛門にも不忠不義の金は受取れぬと責められ、勘平は腹に刃を突きたてます。
 しかし、死体の傷口を確認すると、鉄砲傷ではなく、刀傷だとわかり疑いが晴れ、勘平は血判をして絶命します。

七段目  祇園一力茶屋の場

 祇園一力茶屋で遊蕩三昧の由良之助の真意を探ろうと師直の手先となった斧九大夫がやってきます。明日は判官の命日という大切な逮夜なのに喜んで蛸肴を食べる由良之助、刀も錆びつき、九大夫は仇討の底意はないだろうと考えます。しかし、力弥が届けた顔世の密書が気になり、縁の下に忍び込みます。
c0187004_1024087.jpg  由良之助が広げた手紙を2階の窓辺で酔いをさましていたお軽が手すりから合わせ鏡で読み、縁の下では九大夫が垂れ下がった手紙を盗み読みます。お軽が落したかんざしの音で気づいた由良之助は、秘密を知ったお軽を殺すために身請けしようとします。お軽に再会した兄の足軽寺岡平右衛門は、お軽から手紙の内容を聞き、由良之助が身請けする狙いを見ぬき、お軽を自分で殺し、それを功に仇討ちの同志に入りたいと考えます。
 お軽は覚悟を決め斬られようとしますが、由良之助は兄妹の忠義を認め平右衛門の加盟を許し、お軽には、縁の下の九大夫を討たせます。

八段目  道行旅路の嫁入り

 加古川本蔵の娘小浪は、大星力弥と許嫁でしたが、刃傷事件以降、縁を絶たれていました。そこで、母戸無瀬は、力弥に嫁がせようと山科へと東海道駿河路を急ぎます。

九段目   山科閑居の場

 はるばる訪ねてきた母娘に、由良之助の妻お石は、賄賂で師直を籠絡し、さらに判官を抱き留めて本懐を遂げさせなかった本蔵の娘を力弥の嫁にはできないと断りました。
 途方にくれ自殺しようとする二人にお石は、結婚を許す代わりに本蔵の首が欲しいと迫ります。そこに虚無僧姿で二人を追ってきた本蔵が現れ、あえて力弥の槍に突かれ、さらに祝言の引き出物として師直邸の絵図面を渡し死んでいきます。

十段目   天川屋見世の場

 由良之助に頼まれて、武器調達を請け負った天川屋義平は、秘密を守るため女房お園を離縁し実家に帰すほどでした。
 武器を積んだ荷船が発つ夜、捕り方が義平の店を急襲します。義平は「天川屋義平は男でござる」と啖呵を切ります。そこに由良之助が現れ義平に非礼を詫びます。由良之助は義平の店を急襲し、義平の信義を確かめようとしたのです。
 由良之助は実家から逃げてきたお園との復縁を諭し、義平の名前にちなみ、合言葉を「天」と「川」に定めて、いよいよ討入りに向かいます。


十一段目  高家表門討入りの場 同奥庭泉水の場 同炭部屋本懐の場

 12月14日、大星由良之助たち四十七士は鎌倉の高師直邸に討ち入りました。
 数刻の激闘の末、炭小屋に隠れていた師直をようやく見つけ、呼び笛が鳴ります。
 由良之助が判官形見の短刀を師直の前に置くと、その短刀で由良之助に師直が斬りかかります。由良之助は、師直から短刀を取り上げ、静かに師直を刺します。
 塩冶判官の位牌に師直の首を手向け、礼拝焼香した後、由良之助たちは判官の菩提寺光明寺に引き揚げるのでした。
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by wheatbaku | 2013-11-01 10:17 | 忠臣蔵 | Trackback
「忠臣蔵散歩 高輪編」 (大江戸ガイド)
今日も「忠臣蔵」関連の記事で、
 「仮名手本忠臣蔵」のあらすじ①(江戸検お題「本当の忠臣蔵」106) を書いてあります。

 少し余裕ができましたので、先週土曜日に行われた文京学院大学さんの「忠臣蔵散歩 高輪編」の様子を書きます。
 
 先週土曜日は、ちょうど台風27号が接近するという中で、開催をどうするか危ぶまれましたが、文京学院大学さんの判断で決行ということになりました。

 「忠臣蔵散歩 高輪編」は 白金高輪駅に集合した後 次のコースで行いました。
 白金高輪駅 ⇒ 長松寺 ⇒ 清久寺 ⇒ (化粧延命地蔵・正覚院・実相寺)⇒
 正山寺 ⇒ 高松宮邸 ⇒ 細川家下屋敷跡 ⇒ 泉岳寺
c0187004_15271641.jpg

 天気予報では、3時過ぎまで小雨という予報でしたので、泉岳寺まで雨かしらと覚悟してスタートしましたが、スタート後30分程度で雨があがりました。
 
c0187004_15265552.jpg 受講生の皆さん、今回も大変お世話になりました。
 雨もあがりましたし、2回目ですので、気分的にも楽にやらさせていただきました。
 ありがとうございました。

 さて、最初に訪ねたのは「長松寺」です。長松寺は、浄土宗のお寺です。はじめは八丁堀にありましたが、寛永12年(1635年)にここに移りました。
  江戸中期の儒学者荻生徂徠の墓があります。
  荻生徂徠は、赤穂浪士の処置について、切腹を進言したことで有名です。
  荻生徂徠の墓は、御子孫がよく管理されていて、説明板も御子孫が設置されています。
  徂徠の墓は、「徂徠物先生之墓」と刻まれていますが、荻生家は物部氏の出自と徂徠が考えていたため、「物(ぶつ)氏」と名乗っていたことによるよるようです。
 本堂の屋根の下で説明したら、「記念写真を撮りましょう」ということになりました。
 そこで、「ハイ、チーズ」です。これが最上段の写真です。


c0187004_15273695.jpg 次いで、「清久寺」を訪ねました。
 清久寺は曹洞宗のお寺です。
 ここには、磯貝十郎左衛門の位牌があり(右写真)、本堂に上がらせていただき、お参りしました。
 磯貝十郎左衛門は、引き揚げ後は、細川邸にお預けとなり、切腹した時、25歳でした。
 清久寺は磯貝十郎左衛門の母の菩提寺で、江戸時代には、磯貝家の墓があったそうですが、現在はないそうです。
 位牌の右に「鉄肝元心居士」(元禄十六年二月四日磯貝重良左衛門)、その左に「菊園禅童子」(正徳三年九月廿三日)とあります。
  この菊園禅童子は切腹後、鼻紙袋から出た琴の爪の贈り主の娘との間に産まれた子ともいわれています。
 ここを出た段階で雨はあがっていました。


c0187004_15281362.jpg 続いて、「正山寺」ですが、正山寺は曹洞宗のお寺です。
 ここには大石内蔵助のお祖父さんの弟である大石頼母助良重(たのものすけよししげ 大叔父-祖父の弟)のお墓と御位牌があります。
 ここでも、御住職が、御位牌を本堂中央に安置しておいていただきました。
 大石良重は、大石内蔵助のお祖父さんの弟で、浅野家の家老でした。
 大石内蔵助が19歳という若さで家老職を相続した時、大石良重は大石内蔵助の後見人となりました。

 その後、松島屋で、「豆大福」を買って試食しました。大変好評でした。

 旧高松宮邸の説明のあと、いよいよ、大石内蔵助たちが切腹した細川家下屋敷跡です。
 ここは、都営高輪一丁目アパートの奥にあり、道路脇ではないので探すのに注意が必要です。
 ここは、細川家への御預けの時の様子、細川家での生活、切腹の時の話など、説明することがたくさんありました。
 受講生の皆さんは、長時間の説明にもかかわらず熱心に聞いてくださいました。
 熱心に聞いてくださるので、こちらもつい熱が入り、気持ちよく説明させていただきました。

c0187004_15284474.jpg  最後に回ったのが、本日のメイン、泉岳寺です。
 泉岳寺は、赤穂浪士の墓所としてあまりにも有名です。
 そのため、泉岳寺と言うのはどういうお寺かというのがあまり説明がされません。
 そこで、最初に泉岳寺の説明をしました。泉岳寺は慶長17年(1612)に今川義元の孫といわれる門庵宗関(もんなんそうかん)和尚を招いて徳川家康が外桜田に創立した曹洞宗の寺院という話、泉岳寺の山号・寺号の由来などです。
 その後、赤穂義士墓所に移り、浅野内匠頭、浅野長友、浅野大学、瑤泉院のそれぞれのお墓について説明しました。
 最期が赤穂浪士のお墓の説明でした。
 赤穂浪士のお墓の配列、なぜ一緒に埋葬されるようになったか、葬儀の様子、埋葬の様子などについて説明しました。
 ここでも、受講生の皆さんが熱心に聞いてくださいました。
 また、一般の方たちも一緒に聞いてくださっているのが印象的でした。
 最後に、参加者皆さんで、記念撮影です。
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 その後、オプションということで、全員19名で次のコースを回りました。
 高輪大木戸跡 ⇒ 御田八幡神社 ⇒ 札の辻 ⇒ 大坂家 ⇒ 
 イタリア大使館【松山藩中屋敷跡】 ⇒ 薩摩藩上屋敷跡 ⇒ 岡崎藩中屋敷跡


 スタートが4時を回っていたため、後半は、陽が落ちてしまい暗くなってしまいましたが、どたなも、途中で帰らず、その熱心さに驚きました。

 最後は、いつの通り、飲み会でした。
 楽しい会話が弾みました。今回は、江戸検を受験される方がほとんどでしたので、江戸検の話題が中心でした。江戸検を受験される皆さん、合格を祈念しています。頑張ってください。
 その後、田町で立ち飲み屋をされている受講生の方がいて、そこで二次会でした。そして9時を過ぎてお開きとなりました。
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by wheatbaku | 2013-10-31 15:39 | 大江戸ガイド | Trackback
「仮名手本忠臣蔵」のあらすじ①(江戸検お題「本当の忠臣蔵」106)
 今日は、仮名手本忠臣蔵のあらすじについて書きたいと思います。

 仮名手本忠臣蔵」は、十一段目までありますが、全て書くと長くなるので、今日は四段目まで書きます。

 「仮名手本忠臣蔵」は、いうまでもありませんが、赤穂事件を南北朝時代の暦応(りゃくおう)年間のこととし、登場人物を「太平記」の登場人物に置き換えています。
 そこで、「仮名手本忠臣蔵」の主な登場人物名が赤穂事件の誰をさすかについて触れておきましょう。
 
 足利直義     勅使
 高師直      吉良上野介義央
 桃井若狭之助  伊達左京亮
 塩谷判官    浅野内匠頭長矩
 顔世御前    浅野内匠頭の妻阿久里
 大星由良之助  大石内蔵助
 大星力弥    大石主税
 加古川本蔵   梶川与惣兵衛
 早野勘平    萱野三平
 早坂平右衛門  寺坂吉右衛門

 それでは、あらすじです。

大序(だいじょ)   鶴ヶ岡社頭兜改めの場
c0187004_1031327.jpg 造営された鶴岡八幡宮で足利直義を執事高師直、御馳走役の桃井若狭之助と塩谷判官などが迎えます。合戦で討ち死にした新田義貞の兜を奉納するために、かつて宮中の女官であった判官の妻顔世が、兜の鑑定にあたります。
 顔世に横恋慕していた師直は、好機とみて文を渡し、塩谷判官の大役が首尾よくいくかどうかは顔世の返事次第としつこく口説きます。この顔世の窮地を救った若狭之助を、邪魔された師直は腹いせに罵倒します。

二段目   桃井舘の場 松切りの場
 侮辱を受けた若狭之助は、師直を討つべく決意を家老の加古川本蔵に話します。
 刃傷は御家断絶になることを承知しながら若狭之助は一途になります。これに対して本蔵は庭の松の枝を切り落とし実行を促します。しかし、実は蔭では、御家の危機を未然に防ぐために動きます。

三段目  足利館門前進物の場、 同 松の間刃傷の場
 加古川本蔵は登城すると高師直を待ち受けて数々の進物を贈ります。それが功を奏して、師直は態度を軟化させ若狭之助に非礼を詫びます。
 そこへ顔世からの文が届き、激しく拒絶された師直は逆恨みし、判官に罵詈雑言を浴びせます。堪えかねた判官はとうとう師直に斬りつけます。
 ここが史実の松之廊下の刃傷事件にあたる部分です。

 三段目には、早野勘平とお軽が登場する「裏門の場」がありますが、現在の歌舞伎ではほとんど上演されることがなく、「道行旅路の花聟」(歌舞伎舞踊)が、四段目の後に上演されます。

四段目    扇ヶ谷塩冶判官切腹の場  同 表門城明渡しの場
 塩谷判官は切腹を命じられます。駆けつけた大星由良之助は、形見の短刀を押し頂いて復讐を決意します。
 家中即刻退去の厳命に、討死か館明け渡しか、議論が尽きず紛糾するが、由良之助は判官の真意を語り、仇討ちの盟約をして館を明け渡します。

 五段目から十一段目までのあらすじは明日書きます。
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by wheatbaku | 2013-10-31 09:53 | 忠臣蔵 | Trackback
「仮名手本忠臣蔵」の作者(江戸検お題「本当の忠臣蔵」105)
 今日からは、「仮名手本忠臣蔵」について書いていきます。
 「仮名手本忠臣蔵」は、「歌舞伎の独参湯」と呼ばれ、日本演劇史上で最も上演回数の多い作品と言われています。
 歌舞伎の代表的な演目とされる「仮名手本忠臣蔵」も、もともとは人形銃瑠璃のために作られた作品です。
 初演は、寛延元年(1748)8月14日、大坂竹本座です。
 松之廊下の刃傷事件が、元禄14年(1701)ですので、刃傷事件からちょうど47年目に上演されたことになります。
 初演が14日で浅野内匠頭長矩の月命日というのも偶然ではないでしょう。
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 歌舞伎の三大名作は「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」と呼ばれていますが、これは、もともと人形浄瑠璃の作品です。
 しかも、「菅原伝授手習鑑」は延享3年(1746)に、「義経千本桜」は延享4年(1747)、「仮名手本忠臣蔵」は寛延元年(1748)に、それぞれ大坂竹本座で上演されたものです。
 三大作品が、一年ごとに上演されていて、人形浄瑠璃の黄金時代を飾りました。

 当時の歌舞伎は、世間で評判となったものをすぐ取り込んでしまう力がありました。
 この人形浄瑠璃として評判になった「仮名手本忠臣蔵」は、4か月後の寛延元年12月には、もう大坂角の芝居で取り上げられ、翌年には江戸三座(中村座中村座・市村座・森田座)で競演されました。

 「仮名手本忠臣蔵」の作者は、竹田出雲(2代目)・三好松洛・並木千柳(せんりゅう)の三人です。  
 人形浄瑠璃は、享保年間以降、作者一人の単独執筆から、複数の作者による合作という体制が採られるようになりました。
 単独執筆の作品がないわけではありませんが、複数の作者で合作する体制が、大坂の竹本座・豊竹座で定着しました。
 この複数の作者で執筆する体制を合作者制度といいますが、「仮名手本忠臣蔵」も合作者制度で書かれています。
 合作者制度では、複数の作者の中にリーダーとしての立作者がいて、その立作者が全体の構想・構成について責任を持ち、その作品の重要な部分は立作者が執筆し、場合によっては立作者以外が担当する部分について加筆しました。
 「仮名手本忠臣蔵」は、誰が立作者であったかについては、「竹田出雲説」と「並木千柳(宗輔)説」があるようです。

 それでは、仮名手本忠臣蔵」の作者について、少し書いてみましょう。
 まず竹田出雲(2代目)です。2代目竹田出雲は、初代竹田出雲の実子です。
 延享4年、父出雲の死去により初代竹田小出雲から2代目竹田出雲を襲名し竹本座の座元となります。

 三好松洛は、生没年未詳です。
 もと僧侶だったとも言われています。初代竹田出雲に弟子入りし、30余年に亘り、竹本座の作者として活動しました。


 並木千柳は、もと備後国三原(現在の広島県三原市)にある臨済宗成就寺の僧侶でした。
 30歳のころ還俗して大坂豊竹座に入り浄瑠璃作者となりました。
 豊竹座では、並木 宗輔と称しました。
 延享2年に、竹本座に入り、並木千柳と言いました。
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by wheatbaku | 2013-10-30 09:00 | 忠臣蔵 | Trackback
「仮名手本忠臣蔵」前史①(江戸検お題「本当の忠臣蔵」103)
 さて、今日からは「忠臣蔵」について書いていきます。
 週末が、江戸検の本番ですので、一週間しかありませんが、可能な限り書いていきます。

 元録16年2月4日に、赤穂浪士四十六士が切腹をすると、早速、赤穂浪士の討入りを取り扱った歌舞伎が上演されるようになります。
c0187004_992936.jpg 切腹の約2週間後の2月16日、早くも、江戸の中村座で討ち入りを扱った『曙曽我夜討』が上演されました。
 これは、中村七三郎一座が上演しました。
曽我兄弟の仇討に仮託して、吉良邸討入りを取り上げたものです。
 しかし、これはたった3日間で上演中止となりました。

 これは芭蕉の弟子の宝井其角の次の手紙によるとされています。
 「……此程の一件も二月四日に片付候て甚噂とりどり花やかなる説も多く候て無上忠臣と取沙汰此節其事計に候境町勘三座にて十六日より曽我夜討に致候て十郎に少長五郎に傳吉いたし候へども當時の事遠慮も有べきよしとて三日して相止候」
 しかし、松島栄一氏の岩波新書「忠臣蔵」によれば、「この書簡には史料的に疑問があるとされている。」そうです。

 また、1月、京都の早雲長太夫座で上演された近松門左衛門作の『傾城三の車』の中の巻に討ち入りの場が仕組まれていたそうです。

 こうしたことから、幕府は元禄16年2月の御触れで次のように触れました。
 「当世異事ある時、謡曲、小歌につくりはた梓にのぼせ売ひさぐこと、弥(いよいよ)停禁すべし。堺町、木挽町戯場にても、近き異事を擬する事なすべからず」
 これにより、赤穂浪士に関係することを上演するのは厳しかったものと思われ、以後、しばらくは、上演の記録がないそうです。

 事件落着して4年後の 宝永3(1706)年6月、大坂の竹本座では、近松門左衛門作の人形浄瑠璃『碁盤太平記』が上演されました。
 ☆なお、上演を宝永7年と書いてある本もあります。
 これが赤穂事件を脚色したことが明らかな最初の作品と言われています。
 時代を足利時代の「太平記」の時代に設定し、場所を「鎌倉に移して展開されています。
 登場人物は赤穂事件の人物を『太平記』の人物に比定して、後世の忠臣蔵ものに大きな影響を与えました。
 具体的な名前を挙げると高師直(吉良義央)、塩冶判官(浅野内匠頭)、大星由良之助(大石内蔵助)、寺岡平右衛門(寺坂吉右衛門)などの名前が出てきています。
 この名前によって、「太平記」より、赤穂事件の方を思い浮かべるようになるわけです。
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by wheatbaku | 2013-10-28 09:01 | 忠臣蔵 | Trackback
忠臣蔵 第10回模擬試験問題正解(江戸検お題「本当の忠臣蔵」102)
昨日は、文京学院大学さんの「忠臣蔵散歩」でした。
c0187004_1133195.jpg 台風27号の影響が心配されましたが、スタート部分だけ雨に降られましたが、幸いにも天気予報より早く雨があがり、少し寒かったものの楽しい「忠臣蔵散歩」ができました。
 右写真は、大石内蔵助はじめ17士が切腹した跡を見学する受講生の皆様です。
受講生の皆様お疲れ様でした。

 私は、昨日も、本講座、オプション、飲み会、飲み会の二次会と続き、田町を出たのは9時を回っていました。
 今週は、江戸検追い込み最後の週です。そこで、「忠臣蔵」中心に記事を書きますので、「忠臣蔵散歩」の報告は、合間をみてさせていただきます。

 今日は、先日の第10回模擬試験問題の正解をアップします。
 受験まで1週間ですので、第10回も、「これが本当の『忠臣蔵」』からの出題割合を増やしました。

 昨日も、江戸検を受験される皆さんといろいろお話をさせていただきましたが、皆さん頑張っているようで敬服しました。
 あと1週間、全力をつくされるよう応援しています。受験される皆様ぜひ頑張ってください。



1、 ②吉良邸引揚げの時  

 寺坂吉右衛門がいついなくなったかについては、諸説があるようで、泉岳寺で寺社奉行に報告するために人数を確認したところ一人足らず、個別に点呼したら、寺坂吉右衛門がいないことがわかったと「白明話録」には記録されています。
 しかし、「これが本当の『忠臣蔵』」の188ページには、吉良上野介の首を上げた後、人数改めをした際に姿がみえなかったと書かれていますので②吉良邸引揚げの時を正解にしました。

c0187004_10183744.jpg2、①木下 公定   

 これは、基礎的な問題ですので、おわかりになった方が多いと思います。
 ②は、副使木下公定の先代藩主です。③木下俊程と④木下俊方は同族の木下家ですが、③木下俊程は、豊後国日出藩の15代藩主、④木下俊方は、日出藩14代藩主で、泉岳寺にお墓があります。(右写真です)



3、 ②110間 

 これは忠臣蔵の問題というより、江戸に関する問題といってもよいと思います。  
①新大橋108間  ②永代橋110間 ③吾妻橋84間 ④両国橋94間です。
 永代橋は、江戸時代に隅田川に架けられていた5つの橋で最下流に架けられた橋だということがわかれば、正確な長さがわからなくても、もっとも長い②110間ということがわかると思います。
  

4、 ④瑞光院

  「これが本当の『忠臣蔵』」の117ページをご覧ください。
 ①大光院は豊臣秀長の菩提寺、②龍光院は黒田長政の建立、③聚光院は三好長慶の菩提のために嫡子・三好義継が建立したもので、それぞれ大徳寺の塔頭です。。

5、 ①江赤見聞記   波賀朝栄    

 「これが本当の『忠臣蔵』」の基本史料となっている「江赤見聞記」の著者名を確認するための問題です。
 「これが本当の『忠臣蔵』」の48ページをご覧ください。

c0187004_10193019.gif 6、 

 ④は「右二つ巴」と呼ばれる家紋です。
 しかし、大石内蔵助の家紋は、同じ右二つ巴でも、「やせ右二つ巴」(右写真)であることが、出題後確認できましたので、訂正しておきます。


7、 ④又一(市)郎

 赤穂藩浅野家の嫡男は、代々 又一(市)郎を名乗っていました。
 ①松之丞は大石内蔵助の幼名、②戌千代(いぬちよ)は浅野大学の幼名、③三郎は吉良上野介の幼名です。


8、 ④楽只堂年録 
 
 ①宇下人言は松平定信の随筆  ②宴遊日記は、柳沢吉保の孫柳沢信鴻の日記  ③冷光君御伝記は浅野内匠頭の伝記です。 


9、 ②采女正  
 
 浅野内匠頭関連の記憶問題です。
25.10.28追記 
 浅野内匠頭長矩と祖父の浅野長直は内匠頭ですが、父の長友は采女正です。また曾祖父の長重も采女正です。


10、 ③吉田忠左衛門 

 「これが本当の『忠臣蔵』」の195ページをご覧ください。
 赤穂浪士の辞世も覚える余裕のある方は覚えたほうがよいと思い出題しました。
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by wheatbaku | 2013-10-27 10:15 | 忠臣蔵 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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