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浅野内匠頭、田村邸へ(江戸検お題「本当の忠臣蔵」21)
 今日も、江戸検今年のお題「本当の忠臣蔵」の話題です。
 浅野内匠頭に対する裁定が下り、浅野内匠頭は奥羽一関藩田村右京太夫に御預けとなりました。
 
 田村家で浅野内匠頭の請取から切腹までの様子を記録した「田村右京太夫殿に浅野内匠頭御預一件」という文書があります。
 これは、「赤穂義人纂書 第2 赤穂義士資料大成」に収録されています。
 それを読むと、どのように請取、切腹がどのように行われたかがわかります。
 そのうちで、今日は、浅野内匠頭を請取るところまで書きます。
c0187004_11492130.jpg 
1、まず、なぜ一関藩田村右京太夫が御預りに選ばれたかですが。
 当時、田村右京太夫は奏者番でした。そして、たまたま江戸城にいて、浅野内匠頭とは特別な縁故がなかったため、白羽の矢がたったようです。

2、請取に向かった人数は、総数75名超の人数です。
 目付1名、物頭2名、物頭並1名、小姓組2名、中小姓3名 徒歩20名、徒目付Ⅰ名 足軽30名  駕籠かき 15名 (三ッ道具 一組)
 
c0187004_115019.jpg3、最初、桜田門(多分内桜田門つまり桔梗門のことだと思います)に向かいましたが、浅野内匠頭の請取は平川門で行われました。

4、請取った際の浅野内匠頭の服装は大紋のままでした。
 浅野内匠頭は乗物(駕籠)に乗せられ、駕籠には錠が下され、青網がかぶせられました。
 
5、護送の順路は、平川門 ⇒ 大手門前 ⇒ 八代 洲河岸(やよすがし) ⇒ 日比谷御門 ⇒ 桜田 ⇒ 愛宕下通り を通って、田村邸には表門から入っています・
 到着は、午後4時ごろです。



一、元禄十四年巳三月十四日、公家衆登城、勅答被仰出に付登城致候處、公家衆御馳走に被附候浅野内匠頭、吉良上野介に意趣有之由にて、九ッ時前、大廊下押込にて短刀を抜切付、早速有合之面々、双方に取分申候。
一、暫有て、奏者番誰々居候哉と奥より尋有之に付、当番之外右京斗詰居候由申遣之、又追て、右京は浅野内匠少も続き由緒無之候哉と、井上大和守殿を以御尋候故、由緒等無御座由申遣候。
一、九ッ半時、時計之間次に、我等を相模守殿御呼候て、浅野内匠事、其方へ当分被成御預候、早々引取申候様にと被仰聞候故、拙者途中召連候て罷越候には及申間敷哉、又内匠に宿にて逢可申哉否と申候へば、両様其夫には及不申由被仰に付、左候はば私は致退出、追付人数差遣可申由申候て致退出候。
一、帰宅早速人数等支度申付候、八ッ半時此支度出来候て、左之通人数差出申候、
  目付 麻上下 檜川源吾 物頭 同 牟岐平右衛門
  物頭 同   原田源四郎  同並 同 菅治左衛門
 右四人騎馬 委細直に申合遣之、
 但受取候而、乗物に網懸可申哉之儀も伺候の様にと申付候、
  羽織袴 小姓組二人  同 中小姓三人
  同 歩行二十人  外に徒目付 大泉喜内
 右之者共年寄共申合、
  棒モタセ 足軽三十人 三ツ道具一組 乗物舁十五人
一、乗物内より板打付錠構、 一、青網引乗物内に入
一、刀箱為持遣す、先にて差料相渡候節入候為に、其役人も申付候。
 (中略)
一、平川口へ出候様にと被申聞、即案内之儀何も願候へば御小人目付先に立候由
一、足軽共其外人馬下馬に差置候、平川口へ廻り候様支度の由申達候處、即其段御小人を以被遣、内を参候間に、足軽共平川口迄参罷在候由
一、内匠大紋の儘にて請取候 (後略)
一、平川口より平右衛門源四郎先に乗り、源五治左衛門跡に押続き、乗物の廻り侍共厳し取包、外に棒持候足軽共取廻、跡に三ッ道具立、道筋平川口より大下馬先、やよすがし、日比谷御門、桜田、愛宕下通り、此方表門に申の刻入申候

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by wheatbaku | 2013-05-16 11:39 | 忠臣蔵 | Trackback
刃傷松之廊下は喧嘩か(江戸検お題「本当の忠臣蔵」20)
 今日はも、江戸検今年のお題「本当の忠臣蔵」の話題です。

 刃傷松之廊下についての裁定は、浅野内匠頭に対しては田村右京太夫に御預けの上、即日切腹であり、吉良上野介に対してはお咎めなく養生に勤めよというものでした。

c0187004_11225658.jpg これが、当時の「喧嘩両成敗」つまり「喧嘩があった場合には、双方とも同じように処罰するという原則」に照らして、不公平であるという議論があります。

 一方、刃傷松之廊下が喧嘩ではないので幕府の裁定はおかしくないという説もあります。

 当時の老中たちも、喧嘩であれば両成敗すべきであるという点については十分承知した上で、事実究明が行われていいます。

 梶川与惣兵衛が書いた「梶川氏日記」の中に、次のような部分があります。
 なお、今回引用した「梶川氏日記」は「赤穂義人纂書 第2 赤穂義士資料大成」に収録されているものです。
 以前紹介した書名は「梶川与惣兵衛日記」としてありましたが、「赤穂義士資料大成」では「梶川氏日記」となっています。

 時計の間の御次へ参り候へば、豊後殿相模殿佐渡殿丹波殿大和殿対馬殿伯耆殿、其外大目付衆も御列座にて、先刻の一件御尋有之候に付、初中終の趣逐一に申上候、其後相模殿御申には、上野介手疵の儀は如何程の事に候やど御尋ゆえ、二三ヶ所にて可有之、尤深手にては有之間敷旨申上候、豊後守御申には、上野介事其節脇差に手を懸け、或は抜合などいたし候やと被仰候、拙者見及び候へ共、帯刀には手は懸け不申候段申上候、(後略)

 これを読むと、梶川与惣兵衛は、取り押さえた浅野内匠頭を目付に引き渡した後、江戸城内の「時計の間の御次」に呼ばれ、老中列座のうえ、事情を聴取されました。
 そこで、梶川与惣兵衛が事件の経過を逐一報告した後に、阿部豊後守が、梶川与惣兵衛に、「上野介が脇差に手をかけたり、抜き合わせたりしたか」と尋ねています。
 それに対して、梶川与惣兵衛は「刀には手をかけていませんでした」と答えています。

 ここが、喧嘩かどうかのポイントになります。刀に手をかけていたり抜いていれば喧嘩となるので、阿部豊後守がそれを確認しています。それに対して梶川与惣兵衛が吉良上野介は刀に手をかけていなかったと答えました。
 そのため喧嘩とは判断されなかったわけです。
 幕閣がこうした事実を把握したうえで、裁定が出されているようです。

 ところで、「豊後殿相模殿佐渡殿丹波殿大和殿」と書かれた部分がありますが、これは時の老中たちです。
 ちなみの時の老中は、
  阿部豊後守正成
  土屋相模守政直
  小笠原佐渡守長重
  秋元但馬守喬朝
  稲葉丹後守正通  です。

 そして、「対馬殿伯耆殿」は、若年寄の本多伯耆守正永と稲垣対馬守重富をさしています。
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by wheatbaku | 2013-05-15 11:15 | 忠臣蔵 | Trackback
多門伝八郎覚書③(江戸検お題「本当の忠臣蔵」19)
 今日は、江戸検今年のお題「本当の忠臣蔵」の話題です。
 
 多門伝八郎筆記の3回目ですが、幕府の裁定に対して、多門伝八郎が異議を唱えて食い下がる場面です。
c0187004_12505615.jpg 前回は、刃傷事件を起こした浅野内匠頭は田村右京太夫建顕に御預けの上切腹、吉良上野介はお咎めなしという幕府の裁定が決まったということを書きました。
 この裁定に対して、多門伝八郎ら四人の目付は若年寄に面会を求め、「五万石之城主、殊に本家は大身之大名」の浅野内匠頭を即日切腹させるのは、「余りに手軽之御仕置」であり、五万石の大名の浅野内匠頭が家名を捨て、御場所柄を忘れて刃傷に及んだのは上野介に越度(おちど)があったのかもしれません。」と上伸し、大目付と目付で再度糺問してから裁定するべきであると抗議したところ、若年寄は「尤至極」といって老中に言上したところ、すでに柳沢吉保(柳沢美濃守)に申上げて決着したことだから、そのように心得よと回答が返ってきました。
 これに対して多門伝八郎一人が納得せず強いて「余りに片落之御仕置」と若年寄を通じて柳沢吉保に再び上申すると、柳沢は怒って多門伝八郎は目付部屋に控えさせられてしまいます。

 ここは、多門伝八郎が自分の行為を誇っているようにも見受けられなくはありませんが、多門伝八郎の意見に若年寄たちが賛意を示していることは注目されます。
 また、浅野内匠頭と吉良上野介に対する幕府の裁定に、柳沢吉保が大きく関わっていることがわかる部分でもあります。

 
 今日も「日本思想体系27『近世武家思想』」の原文を書いておきます。

 若年寄に御逢之儀相願、多門伝八郎申上候は、「先刻内匠頭存念相糺候処、私有体(ありてい)に申上候通、『奉対上え聊(いささかも)御恨み無之、上野介へ深恨有之候て、前後忘去仕、御場所柄も不憚(はばからず)、及刃傷候段、重々不届之儀奉恐入候。如何様之御仕置被仰付候共御返答可申上候筋無之』と、速成(すみやかなる)御答に御座候。仮初(かりそめ)にも五万石之城主、殊に本家は大身之大名に御座候。然る所今日直に切腹とは余り手軽之御仕置に御座候間、今日之切腹之儀は、乍恐私共小身之御役にても、御目付被仰付候上は、上之御手抜之儀は、不申上候では不忠に付、恐を不顧(かえりみず)奉申上候。且又縦(たとい)上野介儀、神妙に致し候迚(とても)、内匠頭五万石之大名、家名を捨て、御場所柄を忘却仕及刃傷候程之恨有之候はば、乱心迚(とても)上野介に越度(おちど)可有之哉も難計、唯私共両人にて差掛り存念相糺候計之儀を、余り御取用過候ても、後日浅野家は本家大名、殊に外様之事、何事可有之節は、公儀御手軽之御取計と可奉存候間、内匠頭切腹之儀は、猶又大目付並私共再応糺、日数之立候上、如何様共御仕置可被仰付候。夫迄は上野介儀も、慎被仰付、尚又再応御糺之上、弥(いよいよ)神妙に相聞へ、何之恨請候儀も無之、全く内匠頭乱心にて及刃傷候筋も可有之候ば、御称美之御取扱も可有之処、今日に今日之御称美は、余り御手軽にて御座候。其儀押て奉申上候」と、伝八郎・十左衛門・平八郎・権左衛門申上候処、若年寄被承、「至極尤之筋、御目付之御役柄も被相勤心底に見へ候」由、「猶亦老中方え言上可申」旨有之、扣居候処、猶又若年寄稲垣対馬守殿、加藤越中守殿被仰渡候には、「只今御自分申立候処、尤之至に候得共、最早松平美濃守殿被聞届、御決着有之候上は、右の通り被仰渡候旨可心得」と被申渡候処、伝八郎壱人強(しい)て申立候には、「美濃殿御一存之御決着に御座候はば、猶又被仰上可被下候。余り片落之御仕置、外様之大名共存候処も恥敷(はずかしく)存候。今一応被仰上可下候。夫共(それとも)最早言上に相成、上之思召も有之候はば、是非も無之仕合(しあわせ)、美濃守殿御一存之御聞届に御座候はば、私達(たっ)て申上候段被仰立可被下」旨申致候故、対馬守殿・越中守殿、猶亦美濃守殿え、伝八郎ヶ様申立候と被申立候処、美濃守殿立腹被致、「上え言上は無之候得共、執政之者聞届之儀を再応申立候儀難心得候間、伝八郎も差扣之格に部屋に可扣旨、井上大和守殿被仰渡候。是迄懸合之若年寄は、気之毒に被存候哉、不被罷出候。
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by wheatbaku | 2013-05-14 12:49 | 忠臣蔵 | Trackback
多門伝八郎覚書②(江戸検お題「本当の忠臣蔵」18)
 今日も「忠臣蔵」関連のお話で、昨日の「多門伝八郎覚書」の続きです。
 目付の尋問に対して、浅野内匠頭の答弁と吉良上野介の答弁が書かれていて、その報告を受けて出された裁定までの部分を書いてみます。


 多門伝八郎たち目付は、老中から命じられて浅野内匠頭と吉良上野介の尋問を行いましたが、そのことが多門伝八郎覚書に書かれています。
c0187004_1375078.jpg 浅野内匠頭は、「上様に対してはいささかの恨みもありません。私一人の遺恨で前後を忘れ刃傷に及んでしまいました。この上はどんなお咎めも受ける覚悟です。」と答えています。
 そして、「吉良上野介を打ち損じたのは大変残念です。」と答え、「吉良上野介の様子はどうでしょうか」と尋ねています。
 多門伝八郎は、「浅い疵であるが、吉良上野介は老齢でもあり、特に顔の疵なので、助かるかどうか心配です」と答え、浅野内匠頭を安心させています。
 また吉良上野介は「浅野内匠頭から恨みを受ける覚えはありません。まったく浅野内匠頭の乱心と思われます」と答えています。

 この尋問の結果をもって、目付は大目付二人と相談のうえ若年寄に伝え老中に詳しく報告しました。それから目付の報告は側用人柳沢吉保に伝えられ、目付は後で指図があるから部屋で待機するよう指示されました。

 しばらくして、若年寄加藤越中守と稲垣対馬守から伝えられた裁定結果は、次のようなものでした。
 浅野内匠頭は、場所柄をもわきまえず、自分の宿意から、吉良上野介に対して刃傷におよんだが、それはまことに不届なことなので、田村右京太夫に御預けとして、切腹をもうしつける。
 一方、吉良上野介は、場所をわきまえて、手向をせず神妙である。御医師吉田意安に服薬させ、外科の手当ては栗崎道有に申し付けるので、十分に保養すべし。

 これについて、多門伝八郎は異議を唱えますが、そのお話は次回にします。

 昨日と同様に「日本思想体系27『近世武家思想』」の原文を掲載しておきます。

 土屋相模守殿、小笠原佐渡守殿・若年寄加藤越中守殿・井上大和守殿列座にて被仰渡候は、内匠頭存寄可相糺(ただす)旨、多門伝八郎・近藤平八郎両人え被仰付。上野介存念糺は、久留十左衛門・大久保権左衛門両人え、右之趣被仰渡。内匠頭上野介え打付候小刀(ちいさがたな)取寄せ、鞘え納め預り、檜之間医師溜にて、内匠頭え烏帽子・大紋為取、麻上下着せ、御徒目付6人左右に付居。

 伝八郎申渡す儀は、「貴様今日之儀、存寄相糺段、拙者共両人え被仰付候に付、御定法通言葉相改候に付、左様可被心得」と申聞、「其方儀、御場所も不弁(わきまえず)、既に上野介え及刃傷候儀、如何被心得候哉」と、最初伝八郎申渡候処、内匠頭、一言申披(もうしひらき)無之、「上え奉対聊之御恨無之候得共、私之遺恨有之、一巳之以宿意前後忘却仕可打果存候に付、及刃傷候。此上如何様之御咎被仰付候共、御返答可申上候筋無之。乍去(さりながら)上野介を打損候儀、いかにも残念に奉存候。様子如何に御座候哉」と被申開候間、「浅疵には有之候共、老年之事、殊に面体之疵処、養生も無心元」と致返答候処、内匠頭顔色歓之体に相見へ申候。「外に可申上筋無之奉恐入候。御定法通御仕置被仰付可被下」と計り被相答候。依之猶又内匠頭は蘇鉄之間え差置付居候。

 上野介儀、同様檜之間医師溜にて官服とらせ、麻上下着用為致候処、何故に候哉熨斗目用意無之故、外(ほかの)人之熨斗目着せ、即同所にて、同役両人上野介え申渡、「貴様先刻、浅野内匠頭遺恨有之趣にて被及刃傷候段、子細可相糺旨被仰渡候に付、御定法通り言葉相改候。其方儀何之恨を受候て、内匠頭場所柄を不憚及刃傷候哉、定て覚可有之、有体可申上」と申渡候処、上野介返答には、拙者儀何之恨を請候覚無之、全く内匠頭乱心と相見申候。且老体之事故何を恨候哉、万々覚無之由外可申上儀無之」由返答に付、多門伝八郎・久留十左衛門・近藤平八郎・大久保権左衛門四人より、大目付仙石丹波守・安藤筑後守両人え相談之上、若年寄え右之趣及言上候処、老中小笠原佐渡守え被申上、佐渡守殿・相模守殿列席にて、内匠頭・上野介返答之趣、巨細御目付四人より直に言上致し候処、松平美濃守殿え猶又申達、追々御指図可有之旨、暫之内四人之者は部屋に扣(ひかえ)候外、御目付弐人宛(ずつ)内匠頭・上野介え替々附置候処、其内に上野介は手疵手当之趣相願候に付、同役品川豊前守差添にて、御医師天野良順・栗崎道有両人、容体致一覧候処、浅疵にて可有之由にて、その手当いたし候。

 (中略)
 

 (以下が柳沢吉保を通じて出された将軍綱吉の裁定について書いた部分です。)

 若年寄加藤越中守殿・稲垣対馬守殿御逢有之、
浅野内匠頭儀、先刻御場所柄をも不弁、自分宿意を以、吉良上野介え及刃傷候段不届に付、田村右京太夫え御預け、其身は切腹被仰付候。
 上野介儀、御場所を弁、手向不致、神妙之至、御医師吉田意安服薬仰付、外科は栗崎道有被仰付、随分大切に保養可致候。
 右に付、御目付一統奉畏候

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by wheatbaku | 2013-05-10 15:00 | 忠臣蔵 | Trackback
多門伝八郎覚書①(江戸検お題「本当の忠臣蔵」17)
 今日は、江戸検今年のお題「本当の忠臣蔵」の話題です。
 刃傷松之廊下について書いた記録は、「梶川与惣兵衛日記(梶川氏日記)」と「多門(おかど)伝八郎覚書」があります。
 刃傷松之廊下が起きた時の情況を詳しくかいたのが「梶川与惣兵衛日記」です。
松之廊下での刃傷の後の様子は、「多門伝八郎覚書」に詳しく書かれています。
 そこで、今日は「多門伝八郎覚書」を取り上げます。

 「多門伝八郎覚書」を書いた多門伝八郎は、延宝5年19歳で御書院番になり、元禄6年に小十人頭となり、元禄10年に目付となりました。
c0187004_1520211.jpg そして、元禄14年に起きた赤穂事件に遭遇しました。
 多門伝八郎は硬骨漢のようで、浅野内匠頭の処置で、上役とことごとく衝突します。
 そのせいかどうかわかりませんが、事件後は、元禄16年から火の元改めを半年務めた後、お役御免となり、小普請組に入れられました。

 「多門伝八郎覚書」は、「日本思想体系27『近世武家思想』」や「赤穂義人纂書 赤穂義士資料大成 第一」に収録されています。
 私は、埼玉県立図書館で借りて読みました。
 今日は「日本思想体系27『近世武家思想』」に基づいて書いていきます。

 事件がおきた元禄14(1701)年3月14日、お目付当番は、多門伝八郎と大久保権左衛門でした。そこに、刃傷事件発生の報が目付部屋に届きます。
目付衆が現場に急行すると浅野内匠頭長矩が、梶川与惣兵衛に取り押さえられていました。
それでは、「多門伝八郎覚書」を読み下していきます。
 
 四つ半時(午前11時頃)、殿中が大騒ぎとなり、御目付部屋に次々と知らせが入って来ました。
「ただ今、松の廊下で喧嘩があり、刃傷となった。相手は分からないが、高家の吉良上野介がケガをされました。」と言ってきましたので、早速、目付の私たちが残らず松の廊下に駆けつけましたところ、上野介は同役の品川豊前守伊氏に抱えられて、「桜の間近」くの板縁で、前後をわきまえず高い声で「医者を頼む」と叫んでいましたが、その舌は震えているように聞こえました。

 松の廊下の角より「桜の間」の方へ逃げて来られということなので、畳一面に血がこぼれていました。また、その側には顔色が血走しった浅野内匠頭が無刀で、梶川与惣兵衛に組み留められ、神妙な体をして、「私は乱心していない。組み留めるのはもっともではございますが、最早、お放しくだされ。このように打ち損ねた上は、ご処分をお願いいたします。なかなかこの上は、無体な刃傷はしないので、手を放し、烏帽子を着せ、大紋の衣紋を直し、武家のご法通り、仰せ付けられたい」と申されたが、梶川与惣兵衛は手をゆるめませんでした。
 そのため、内匠頭はなおも「私は5万石の城主でござる。さりながら、お場所柄を憚らなかったことは重々申し訳なく思ってるが、式服を着ている者を無理に抱き留められては式服が乱れます。お上に対しましては、何の恨みもないので、お手向かいは致しません。打ち損じたことは残念にて、かようの結果になったからには、致し方はありません」とよくよくことを分けて申されましたが、梶川は畳に組み伏せ、ねじつけていましたのを、私たち四人が受け取りました。
 そして、烏帽子・大紋の乱れを直し、「蘇鉄の間」のうちで屏風で仕切り四人がかわるがわる付き添いましたので、内匠頭は非常に喜びました。
吉良上野介はやはり同じ「蘇鉄の間」の北の方の隅にいて、目付四人がかわるがわる付き添っていたところ、「内匠頭と間があまりにも近すぎる。また内匠頭がここにやってくるのではないか」と心配するので、「心配無用です。私たちがついています」と言い聞かせました。

 この後、浅野内匠頭と吉良上野介それぞれ、目付が尋問を行いますが、それについては次回書きます。


「日本思想体系27『近世武家思想』」に掲載されいる「多門伝八郎覚書」の原文は以下の通りです。

 元禄十四年三月十四日御目附当番は多門伝八郎・大久保権左衛門両人也(中略)
四ツ半時、殿中大騒動いたし御目付部屋え追々為知来て、「只今松之御廊下にて喧嘩有之、刃傷におよび候、御相手は不相知候得共、高家吉良上野介殿手疵被負候」由申来候間、早速同役衆不残松之御廊下江罷越候処、上野介は同役品川豊前守伊氏被抱、桜之間方近き御板縁にて、前後不弁高声にて御医師衆頼度と言舌ふるへ候て被申聞候

 松之御廊下角より桜之間之方へ逃被参候趣故、御畳一面血こほれ居候。又側(かたわら)には面色血ばしり、浅野内匠頭無刀にて梶川与三兵衛(頼照)に組留られ神妙体にて私義乱心ハ不仕候、御組留之義は御尤には御坐候へ共、最早御免し可被下候。ケ様打損し候上は御仕置奉願候。中々此上無体之刃傷不仕候間、手を御放し、烏帽子を御着せ、大紋の衣紋を御直し、武家之御法度通被 仰付度旨被申候得とも、与三兵衛不差免候故、

 内匠頭、「拙者義も五万石の城主にて御座候、乍去(さりながら)御場所柄不憚之段は重々恐入奉候共、官服を着候もの無体之御組留にては官服を乱し候、上え奉対何之御恨も無之候間、手向は不仕候、打損候義残念にて、ケ様ニ相成候上は致方無之と能々事を分け被申候へ共、与三兵衛畳え組伏せねぢ付ケ居候ニ付、(多門)伝八郎、権左衛門、十左衛門、平八郎四人にて請取、烏帽子・大紋之衣文を直し、蘇鉄之間之隅え御屏風にて仕切、四人替々に付候。殊之外内匠頭歓被申。上野介は矢張御屏風仕切、蘇鉄之間北之方隅え、御目付四人替々付居候処、「内匠頭と余程間合隔り申候哉、又候内匠頭是え可罷越候」と申聞候に付、「御気遣有之間敷、拙者共付居候」由申聞候
                    
             
                                                          以 上
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by wheatbaku | 2013-05-09 15:03 | 忠臣蔵 | Trackback
刃傷松之廊下の俗説(江戸検お題「本当の忠臣蔵」17)
 刃傷松之廊下の俗説について、宮沢誠一氏が「赤穂浪士」の中で書いていますので、今日は、その話を書いてみたいと思います。

 刃傷松之廊下についての二つの興味深い俗説つまり、一つは「浅野内匠頭は吉良上野介を前から斬りつけた」というもの、もう一つは「梶川与惣兵衛は浅野内匠頭を後ろから組み留めた」という俗説があるといいます。
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 元禄16年に書かれた元加賀藩士杉本義隣(よしちか)「赤穂鐘秀記(しょうしゅうき)」によれば、浅野内匠頭は松之廊下で吉良上野介に言葉をかけて小さ刀を抜いて、吉良上野介が驚いて逃げようとしたところ二度斬りつけたが、どちらも烏帽子にあたり深手にはならず、吉良上野介は動転して走り倒れた、そこに偶然行き掛った梶川与惣兵衛は浅野内匠頭を後ろから組み止めた書かれていると言います。
 そして、吉良上野介は梶川与惣兵衛と立ち話をしていたのではなく、一人でいたという前提で書かれているといいます。
 一人でいるのであれば、後ろから斬りつけるより前から斬りつける方が自然です。そして、斬られた吉良上野介が走って倒れたのたのを見て、梶川与惣兵衛が浅野内匠頭を組み止めたの門、それなりにリアルティがあります。
 「易水連袂録(えきすいれんぺいろく)」には、「内匠殿後ヨリダキスクメシ」と記しているそうです。
 梶川与惣兵衛は浅野内匠頭を前からではなく「後から抱きしめた」と書いているわけです。
 吉良上野介と浅野内匠頭が口論して、吉良上野介が逃げて、それを浅野内匠頭が追っていく。それを梶川与惣兵衛が留める」という状況を想定するならば、梶川与惣兵衛が前からではなく後ろから取り押さえるのが自然となります。
 
 浅野内匠頭と吉良上野介が口論していて、梶川与惣兵衛がその現場に居合わせたと仮定するならば「浅野内匠頭は吉良上野介を前から斬りつけ」、「梶川与惣兵衛は浅野内匠頭を後ろから組み留めた」という俗説は説得力を有していると書いています。

 しかし、「梶川与惣兵衛日記」によれば、梶川与惣兵衛が吉良上野介と話をしている際に、突然、浅野内匠頭が吉良上野介の後ろから斬りつけたのですから、上記二つの俗説はまさに俗説となるようです。
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by wheatbaku | 2013-05-05 17:51 | 忠臣蔵 | Trackback
吉良富子の墓(東北寺)(広尾散歩)
 広尾散歩で、もう一ヶ寺ご案内します。
 東北寺をご案内します。
 東北寺は、東京メトロ「広尾駅」からだと徒歩10分、JR恵比寿駅からでは15分弱かかります。

c0187004_16552548.jpg 東北寺は、「とうぼくじ」と読み、北を「ぼく」と濁って読みます。
 東北寺は、臨済宗妙心寺派のお寺です。
 至道無難というお坊さんが至道庵を寛永6年麻布桜田町に創建しました。
 その後、米沢藩2代藩主上杉定勝の正室生善院が中興開基となり、元禄9年(1696)に現在地へ移転し、寺号を東北寺に改めたといいます。
 ここには、吉良上野介の正室富子のお墓があります。
 富子は、上杉定勝の四女として生まれ、万治元年(1658年)吉良上野介に嫁ぎました。
c0187004_16551754.jpg 松の廊下の刃傷事件後、吉良家の屋敷が呉服橋から本所松阪町へ移された時、富子は上野介に同道せずに芝白金にある上杉家下屋敷へ移りました。
 元禄15年(1702)12月14日の討ち入りで上野介が死去すると、富子は落飾して梅嶺院と号し、その菩提を弔いました。
 上野介がなくなった2年後の宝永元年(1704)、夫や息子の綱憲(宝永元年6月2日死去)の後を追うように上杉家下屋敷で死去しました。

 富子のお墓は、母親の生善院のお墓と隣あってあります。右上写真の中央が富子の墓です。
 なお、右側の五輪塔は、上杉定勝のお墓と書いてある本もありましたが、御住職にお尋ねしましたら、定勝公のお墓ではないとのことでした。
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by wheatbaku | 2013-05-02 16:55 | 大江戸散歩 | Trackback
黒田長政の墓(祥雲寺)(広尾散歩)
 毎日文化センターさんの六本木散歩では、広尾まで足を延ばして、赤穂浪士に関係する「祥雲寺」と「東北寺」にお参りしました。
 今日は「祥雲寺」のご案内です。祥雲寺は臨済宗のお寺です。
c0187004_145787.jpg 江戸時代を通じて臨済宗大徳寺派の触頭で、かつ「独札」(登城し将軍に単独謁見でき、乗輿も許される)の格式を誇っていたそうです。

 祥雲寺は、福岡藩2代藩主の黒田忠之が、父の黒田長政の冥福を祈るために創建しました。
 黒田長政は大徳寺の龍岳宗劉和尚を崇敬していたため、龍岳を招いて開山として、赤坂溜池の屋敷に建立し、 長政の法名・興雲をとって龍谷山興雲寺といったのがはじまりです。
 寛永6年(1629)、市兵衛町いまの麻布台に移り、瑞泉山祥雲寺といいましたが、寛永8年(1631)火災に遭い現在地に移りました。
  こうした創建の経緯から、祥雲寺は黒田家の菩提寺となっていて、黒田長政のお墓は渋谷区の史跡に指定されています。
c0187004_14573646.jpg 祥雲寺には、黒田家の他にも久留米藩有馬家など、多くの大名家の墓地がありますが、もっとも有名なのが黒田長政のお墓です。
 黒田長政は、安土桃山から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、秀吉の参謀であった黒田官兵衛(来年の  大河ドラマの主人公)の子供で秀吉子飼いの武将でした。
 しかし、石田三成とは仲が悪いため、関ヶ原の戦いでは、東軍に属して戦い戦功をあげました。
そ のため、戦後、福岡藩52万3千石を与えられて福岡藩の初代藩主となりました。
元和9年(1623)、京都知恩寺で、56歳で死去しました。
 長政のお墓は、黒田家の墓所のなかにあり、屋根で覆われています。
 墓は大変大きく5メートルもあると書いてあるものもあります。
 墓碑名には、金粉が塗られています。  

c0187004_15471178.jpg さて、長政の前にあるお墓は、長政のお墓に向かって右手が、継室の栄姫(大涼院)のお墓です。
 右写真が栄姫のお墓です。
 大涼院は保科正直の娘ですが徳川家康養女となって、黒田長政の正室となりました。
 平成26年の大河ドラマ「軍師官兵衛」では、栄姫は吉本実憂が演じています。
 長政は、正室の糸姫を離縁して、德川家康の養女である栄姫と縁組をします。
 糸姫との間には子供が一人でしたが、栄姫との間には2代目藩主となる忠之はじめ三男二女の子供に恵まれました。
 

c0187004_14575468.jpg そして、左が長女の亀子姫(清光院)のお墓です。(右写真)
 この亀子姫は、赤穂藩浅野家とも関係がないとはいえないので、ちょっとご紹介しておきます。
 赤穂藩浅野家は、もともとは、笠間藩主でした。
 正保2年(1645年)3月15日、池田輝政の六男で播磨赤穂藩の第2代藩主が突如として発狂して、正室をはじめ侍女数人を斬り殺すという騒動を起こしました。
 そのため、赤穂藩池田家は3月20日に改易されました。
 
 実は、この亀子姫が、池田輝興により殺害された正室です。
 そこで、浅野家が赤穂藩に転封されることになりました。
 それは、浅野内匠頭の祖父浅野長直の時でした。
 もし、池田輝興の事件がなければ、赤穂藩浅野家はなかったかもしれません。

 赤字が祥雲寺です。

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by wheatbaku | 2013-05-01 14:40 | 大江戸散歩 | Trackback
刃傷は「柳ノ間廊下」か?(江戸検お題「本当の忠臣蔵」16)
 今日は、週末ですので、忠臣蔵について書きます。
 前回は「刃傷松之廊下」について書きました。
 「刃傷松之廊下」についてもわからないことが多くいろいろな説があります。
 まず、刃傷が起きたのは、松之廊下ではなく、柳ノ間廊下だという説があります。
 今日は、「刃傷は柳ノ間廊下で起きた」説について書いてみたいと思います。

 松之廊下というのは、大広間から白書院につながる大廊下です。
c0187004_8463180.jpg 大広間から西に長さ約19メートル(十間半)、幅3.6メートル(二間)あり、そこで直角に曲がり長さ約39メートル(17間半)、幅約4.5メートル(2間半)あります。全長で50メートルもある大きな廊下です。
 その廊下の障壁に松の絵が描かれているため「松之廊下」と名付けられました。
 映画やTVドラマの「忠臣蔵」では、雄大な巨松の障壁画が描かれますが、「松之廊下」の実際に松の障壁画は、浜辺に生える松と千鳥が飛び交う穏やか絵だったようです。
 また、廊下というと板張りをイメージしますが、松之廊下は畳敷きでした。

 なお、江戸城には、松之廊下のほか、竹之廊下がありました。しかし、梅之廊下はありません。
 大広間と白書院をつなぐ廊下が松之廊下で、白書院と黒書院をつなぐ廊下が竹之廊下でした。

 それでは、「柳ノ間廊下」というのはどこにあったのでしょうか

 「柳ノ廊下」は、大広間の北側にある中庭を挟んで松の廊下の反対側にあります。
 「柳ノ間」という部屋があり、その前の廊下が「柳ノ間廊下」と呼ばれていました。

 刃傷事件が起きたのは「柳ノ間廊下」だという説を主張しているのは学習院大学名誉教授大石慎三郎氏です。
 大石慎三郎著「将軍と側用人の政治」で、
 大石慎三郎氏は、松之大廊下は、将軍や御三家、勅使といった特別地位の高い人たちが通る廊下であって、高家の吉良は通るはずがないと言います。
 だからおそらく吉良上野介が白書院から来て、柳ノ間廊下辺りで二人が立ち話をしている時に事件が起きたのではないかと思われると書いています。

 また、
 赤穂事件に関する資料を集めた一番古い記録である「易水連袂録」によると、表にある「柳の間」から、通称「松之廊下」と呼ばれる「大廊下」を経て、「医師溜」に至るあたりで事件が起きたとされている
 とも書いています。 
 「易水連袂録」は、浪士切腹後2カ月余りに書かれた本です。
 これが「柳ノ間廊下」の史料的な根拠とされています。
 これによると、刃傷が起きた様子は次のようです。
 14日陰天(曇り)、今日将軍家勅答抑出さるるに付いて、右公家衆登城時に、浅野内匠頭長矩、伊達左京亮宗春と相共に登城。尤も高家の面々吉良上野介、大友近江守等、何れも柳の間に相詰められる。また公家衆は御白書院に伺候ありしが、追付け勅答とて潜搦(ひしめく)所に、内匠頭如何が意趣のありけるや、場所を弁えず彼の柳の間にて上野介殿と何やらん少々言葉あらあらしく聞こえしが、やがて上野介殿は柳の間を立って同二十四、五間ある廊下続きを小走りに逃げ行き、医者の間に取付き、所の大杉戸を押し開けすでに内に入らんとせられし所を、内匠頭殿続けて追詰め、彼杉戸の限(きわ)にて上野介殿を後ろより、上野介逃がさじと短刀(ちいさがたな)を抜き打ちに討掛け申されしが、上野介殿その日の装束にて烏帽子を着し申されしゆえ右の小鬢(こびん)を後に切付、振り向く所をまた一太刀切り申されし

 読んでいただくとわかりますが、柳ノ間で口論した後、廊下を小走りに逃げて行き、医者の間に入ろうとした時に、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかったとしてあります。
c0187004_8465437.jpg
 また、柳沢吉保の「楽只堂年録」には、『今日勅使の御請あるべき前に、柳の間廊下にて浅野内匠頭長矩、内々意趣をはさむにより、短刀を抜きて吉良上野介義央をうしろより二刀きる』と書いてあるそうです。
 こちらも柳ノ間廊下で刃傷が起きたとしているわけです。

 刃傷が起きたのは「柳ノ間廊下」であるという説に対して、九州国際大学教授の宮澤誠二氏は「赤穂浪士」の中で次のように反論します。

 刃傷の場所は、先にみた「梶川氏日記」の「大廊下」の「角柱より6.7間もあるべき所という記述が正しいのである。というのは、田村家の記録「大廊下着座之図」には、刃傷事件が起こった場所と推定されるすぐ近くに、勅使饗応役と高家の控える定位置が記されているから、刃傷事件が起きたのは松之廊下である。と書いています。
 そして、 「柳ノ間廊下説」は、浅野内匠頭の不可解な刃傷事件を「喧嘩」と見なして浪士の仇討を正当な行為と理解しようとするところから生まれてきたのではないかと考えられる。と書いています。
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by wheatbaku | 2013-04-26 08:21 | 忠臣蔵 | Trackback
麻布高校【高鍋藩上屋敷跡】(六本木散歩)
今日は、六本木散歩に戻ります。

 テレビ朝日通りを六本木から広尾に向かってあるくと、右手に中華人民共和国大使館が見えてきます。

c0187004_1742685.jpg さらに進むと盛岡町交番があります。。その交差点を左に曲がり、南に向かうと間もなく麻布高校があります。

麻布高校は、開成高校と並ぶ私立名門校で、現在は中高一貫制の男子校です。
 麻布高校は現役国会議員出身高校ランキングでは3位(1位慶応義塾、2位開成高校)閣僚経験者出身高校ランキングでは2位(1位日比谷)だそうです。
 元総理や国会議員では、橋本龍太郎元総理、福田康夫元総理、谷垣禎一元総裁、与謝野馨、平沼赳夫、中川昭一など錚々たる人たちが卒業生です、
 その他、有名人では倉本聡、堤義明、小沢昭一、北杜夫などが卒業生です。

 ところで、江戸時代、ここは日向国高鍋藩(宮崎県高鍋町など)の上屋敷がありました。
 高鍋藩は、豊臣秀吉により筑前から秋月種実が移封されました。その後、初代藩主となる秋月種長が関ヶ原の戦いで東軍に寝返って本領を安堵されました。石高は3万石です。
c0187004_1745539.jpg この高鍋藩出身で非常に有名な人物が、米沢藩上杉家中興の祖上杉鷹山(治憲)です。
 杉鷹山は高鍋藩主の秋月種美(たねみ)の次男としてここで生まれました。
 幼名は松三郎といいました。
 母は筑前国秋月藩の黒田長貞の娘の春姫です。
 黒田長貞の正室は上杉綱憲の娘豊子です。
 つまり、母方の祖母が米沢藩第4代藩主上杉綱憲の娘でした。この
 ことが縁で、松三郎は1 0歳で米沢藩の第8代藩主・重定の養子となりました。
 重定は綱憲の長男吉憲の四男つまり綱憲の孫になります。春姫も綱憲の孫になるため、重定の従兄弟になります。

 ところで、上杉綱憲が、吉良上野介の実子であることは、既にこのブログでも書きましたので、ご存じの方が多いと思います。
 このことを思い出していただきたいと思います。
 もう一度、上杉綱憲と上杉鷹山の関係を復習すると、鷹山は、綱憲の孫の孫です。孫の孫は玄孫や「やしゃご」といいます。つまり鷹山は「やしゃご」になります。
 そして、綱憲は吉良上野介義央の子供であすから、鷹山は吉良上野介からみると「孫の孫の子」です。「孫の孫の子」は「来孫」というそうです。つまり、鷹山は、吉良上野介の「来孫(らいそん)」となります。

 有名な上杉鷹山には、吉良上野介の血が流れているんですね。驚きました。

 赤字が麻布高校です。

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by wheatbaku | 2013-04-23 07:57 | 大江戸散歩 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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