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鷗稲荷と半田稲荷(江戸の祭礼と歳事)

「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」に書かれている能勢稲荷と半田稲荷を夏に訪ねていましたが、まだ、このブログに書いてないので、まとめて書きます。

鷗稲荷は、錦糸町から徒歩12~13分の距離にある能勢妙見山東京別院の境内に鎮座しています。

c0187004_13403059.jpg能勢妙見山東京別院は、関西の能勢妙見山の東京における別院です。

能勢妙見山東京別院は、旗本能勢頼直の本所の下屋敷に、安永3(1774)年に建立し妙見大菩薩のご分体をお祀りしたのが始まりだそうです。

 鷗稲荷は、江戸時代には、外神田にあった旗本能勢家の上屋敷に鎮座していました。

c0187004_13403970.jpg 能勢家の上屋敷は、切絵図をみると津藩藤堂上屋敷の東側にありますので、現在でいうと秋葉原駅の東側にあったことになります。

 この鷗稲荷は、狐憑きに霊験があるといわれ、ここで出される札は、表面を黒く塗りつぶした札で「能勢の黒札」と呼ばれていました。

この札は、狐に憑かれないように、あるいは憑いた狐を払う効果があるとして人気があったと「江戸の祭礼と歳事」に書いてあります。



 半田稲荷は、金町駅から徒歩10分程度で住宅街の中に鎮座しています。

c0187004_13404963.jpg 半田稲荷の創建は、和銅4年(711)とも永久年間(111317)ともいわれています。

和銅4年とすると1300年も前に創建されたという古い神社です。

c0187004_13421177.jpgこの神社が、疱瘡や麻疹に霊験があるとして広く信仰された神社です。

金町は、現在では、上野からそれほどかかりませんですが、江戸時代は徒歩ですので、一日がかりだったと思います。

しかし、麻疹流行のたびに多くの人がお参りしました。

半田稲荷は、赤い衣装を身に付けた「願人坊主」が、赤い幟を持って鈴を鳴らしながら江戸市中を廻りました。

c0187004_13405646.jpgこの「願人坊主」は、「江戸の祭礼と歳事」によれば、疱瘡にかかっていない子どもがいる家の前で、いくらかの金銭で稲荷の真言を唱え、祝言を述べて踊り、病除けの一文人形を置いていく、一種の芸人だったようです。

半田稲荷の境内には、願人坊主が神仏に祈願する際に水垢離した神泉遺構が残されています。

井戸枠には注連縄(しめなわ)が掛けられています。

 。

青印が半田稲荷神社です。

周囲の石柵の柱をよくみると、市川団十郎・尾上菊五郎など新富座の役者の名前も刻まれています。

c0187004_13453521.jpg



赤印が能勢妙見東京別院です。
この境内に能勢稲荷(翁稲荷)があります


青印が半田稲荷神社です











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by wheatbaku | 2015-10-29 12:37 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
鉄砲洲稲荷神社(江戸の祭礼と歳事)

 土曜日の「鬼平散歩in鉄砲洲佃島」では、鉄砲洲稲荷神社をご案内しましたが、鉄砲洲稲荷神社は、江戸検の参考図書「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」にも記載されてある神社ですので、今日は詳しく紹介しようと思います。

 鉄砲洲稲荷神社は、「八丁堀駅」から約5分の所にあります。

c0187004_09542979.jpg鉄砲洲稲荷神社は、古い歴史をもつ神社ですが、何度も遷座しています。

社伝によれば、平安時代初期の承和8年(841)に江戸湾の奥にお祀りしたのが最初のようです。

その後、埋め立てが進行して、現在の京橋のあたりへ遷座し、さらに室町末期の大永年中に今の新京橋の近くに遷座し、八町堀稲荷神社と呼ばれました。(私見ですが、八丁堀が築造されたのは、徳川家康が江戸に入府した後ですので、それ以降に八丁堀稲荷神社と呼ばれたものと思います)

c0187004_09544018.jpgその後も埋め立てが進行して海岸が東へ移りましたので、寛永元年には鉄砲洲に遷座しました。

鉄砲洲といっても、現在の場所ではなく、八丁堀と現在の亀島川の合流点の南岸です。


鉄砲洲の由来については2説あります。

一つは地形説です。徳川家康入府のころは、すでに鉄砲の形をした南北およそ八丁の細長い川口の島だったので、その名がついたという説です。

右上の幕末の切絵図の本湊町から明石町まであたりが鉄砲洲ですが、確かに鉄砲の形にみえますね。

もう一つは、寛永のころ、幕府の鉄砲方井上氏と稲富氏により、ここで大砲の試射場があり、射撃演習をしていたので、この名が生まれたという説です。

c0187004_09544872.jpg江戸時代の鉄砲洲稲荷神社は、広重の名所江戸百景の「鉄砲洲稲荷橋湊神社」と「江戸名所図会」に描かれています。

右が名所江戸百景の「鉄砲洲稲荷橋湊神社」です。

手前の帆柱の奥左手に赤く描かれているのが鉄砲洲稲荷神社です。

 その右の橋が、八丁堀に架かっていた「稲荷橋」です。

稲荷橋は、鉄砲洲稲荷のそばにあるので稲荷橋と名付けられたと思われます。

現在は、道路脇に「稲荷橋」の橋標が残されています。

下の絵が「江戸名所図会」に描かれている鉄砲洲稲荷神社です。
 「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」にも掲載されています。
 お持ちの方は、そちらもご覧ください。

 鉄砲洲稲荷が稲荷橋の橋詰にあることや南を向いていたこと、富士塚もあることがわかります。

c0187004_09545827.jpg

江戸時代、鉄砲洲の先の隅田川河口は、江戸第一の港で、江戸で消費する米などの物資を運ぶ船のほとんどが集まってきました。そのため、鎮座地周辺は江戸湊と呼ばれました。

そこで、鉄砲洲稲荷神社は、湊神社とも湊稲荷とも呼ばれました。

鉄砲洲稲荷は、江戸時代は大変有名なお稲荷さんで、お稲荷さんの番付でも西の大関に位置づけられるほどのお稲荷さんでした。

このことは、「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」にも記載されています。

 鉄砲洲稲荷神社 が、現在地に移転してきたのは、明治元年です。

 江戸時代の鎮座地が川のすぐそばであったので、水の被害が少ない場所に移転したいといった事情もあったようです。

社殿の西北隅に富士山の溶岩で築いた富士塚があります。

c0187004_09550786.jpgここの富士塚は、寛政元年9月に富士講の人たちが、稲荷橋のたもとにあった場所にお祀りされたものです。

明治になって、鉄砲洲稲荷が遷座したのに伴い、明治7年にこちらに移り、その後、何度か移転を重ねたうえで、昭和3年にここに造られました。

 高さは5.4メートルあります。

 東日本大震災で被害を受けたため、現在は、登拝禁止となっていますが、近いうちに修復工事が開始される予定です。


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by wheatbaku | 2015-10-26 09:52 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
日枝神社の歴史(日枝神社① 江戸の祭礼と歳事)

 先週は、江戸検受検のための基礎知識を覚えるための記事を書きました。

 これも暗記、これも暗記」という記事が続くと疲れると思いますので、今週は史跡案内の記事を書いていきます。 

先日の鬼平散歩では、日枝神社をご案内しました。

c0187004_19540790.jpg 日枝神社は、今年の江戸検のお題にも関係する神社ですので、今日から数回にわたって日枝神社について書いていきます。

 今日は、日枝神社の歴史について書きます。

日枝神社は、以前は、川越の山王宮(現日枝神社)を太田道灌が江戸に勧請したと言われていました。

 江戸名所図会を読むと「日吉山王の社」として書かれていますが、その中で、

文明年中(1469~87)太田道灌、この(武蔵国入間郡仙波にある星野山無量寺にある=現在の川越の喜多院)山王三所の御神を星野山より江戸に遷し奉る。

 と書いてあり、斎藤月岑も喜多院から勧請されたと理解していたようです。

しかし、近年は、「千代田区史」や「日枝神社史」に書かれているように、太田道灌が勧請する以前に江戸氏が勧請した山王宮が江戸郷に鎮座していたと考えられるようになっています。

 その後、太田道灌が改めて川越の喜多院から山王宮を勧請したと考えられています。

c0187004_19543844.jpg 太田道灌が勧請した山王宮は、江戸城内の梅林坂にあったと考えられています。

 梅林坂は、現在も江戸城内に残されています。

右上写真が現在の梅林坂です。

c0187004_19544506.jpg右下写真は、梅林坂の説明板です。

 そして、徳川家康が、天正18年に江戸に入府します。

 その際に、徳川家康は、江戸城内に山王社が鎮座していることを知って大変喜んだそうです。

 そのことが、徳川実紀東照宮御実紀附録巻六に書かれています。

 御遷移のころ榊原康政をめして。この城内に鎮守の社はなきやと御尋あり。康政城の北曲輪に小社の二つ候が鎮守の神にもあらん。御覧あれとて。康政嚮導してその所に至らせ給ふ。小さき坂の上に梅樹数株を植て。そが中に叢社二つたてり。上意に。道灌は歌人なれば菅神をいつき祭りしとみえたり。かたへの社の額を見そなはすと、直に御拝礼ありて。さてさて式部不思議の事のあるよと仰なり。康政御側近く進みよれば。われ当城に鎮守の社なくば。坂本の山王を勧請せんとかねておもひつるに。いかなるえにしありてか。この所に山王を安置して置たるよと宣へば。康政平伏して。これもいとあやしく妙なる事にも侍るものかな。そもそも当城うごきなくして。御家運の栄えそはせ給はん佳瑞ならんと申せば。御けしきことにうるはしかりしとぞ。その後城塁開拓せらるゝに及び。山王の社を紅葉山にうつされ。かさねて半蔵門外に移し。明暦の災後に至り今の星岡の地に宮柱ふとしきたてて。当家歴朝の産神とせられ。

 
 このように徳川実紀には徳川家康は山王権現が江戸城内に鎮座していることを大変よろこんだと書いてあります。こうして、徳川家康は山王権現を「産土神」と定めます。

 この後それほどの時間をおかずに江戸城内の紅葉山に遷座したと考えられています。

c0187004_19554580.jpg そして、江戸城の大改造が行われましたが、この影響で、山王権現は、半蔵門外に移されました。

 山王権現が遷座した場所は、現在国立劇場がある近くで、ホテルグランドアーク半蔵門の西側の警視庁隼町住宅隼寮あたりと考えられています。

 右写真はホテル グランドアーク半蔵門です。

 

 この半蔵門外の山王権現は、明暦3年に起きた明暦の大火で焼失してしまいました。

 そこで、幕府は溜池の上にある星岡(ほしがおか)の福知山藩松平忠房の上屋敷を収公し、そこを山王権現の新しい用地と定め、社殿を造営しました。

 遷座の理由は、武江年表には次のように書いてあります。

 旧地は御堀端にして、彦根候の御屋敷より道を阻て北に在しが、社地狭く、火災の時、類焼の患あるが故、当時の所、松平主殿頭殿御屋敷にてありしを、災後社地となし給へり

 半蔵門外の山王権現は境内が狭くて類焼しやすかったためと思われます。

 そして、永田の地が選ばれたのは、江戸城の裏鬼門にあたる方角であるためと言われています。

 明暦の大火が起きたころには、すでに表鬼門には寛永寺が造営されていました。

 寛永寺はいうまでもありませんが、天台宗です。

 近江坂本の山王権現(現在は日吉大社という)は、もともと延暦寺を守護する神社でもありました。そのため、天台宗と山王権現と非常に密接な関係をもっていました。
 喜多院も天台宗でした。また、
山王権現の別当寺は寛永寺の末寺でした。
 山王権現の別当寺は当初最教院その後観理院が務めました。
 初代別当の晃海が天海大僧正の愛弟子でした。
 こうしたことをみても天台宗と山王権現の関係がわかるとと思います。

 そこで、明暦の大火後の江戸の大改造の際に、表鬼門の寛永寺と対をなすようにして裏鬼門守護の役割を持つ神社として山王権現が選ばれたのではないかというのが私の推測です。

 それ以降、江戸時代を通じて、山王権現は、永田の地に鎮座していました。

 しかし、明治元年に神仏分離令が発布されました。

 そこで、山王権現は、社名を「日枝神社」と変更しました。

 山王権現の別当寺は観理院でしたが、最後の別当「広深」は退転し常陸国稲敷郡新利根村逢善寺に移りました。

その他の子院の住職たちも還俗したり退転しました。こうしたことと現在は日枝神社周辺に1か寺もないことを考えると、観理院をはじめとした寺院はすべて廃寺になったものと思われます。



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by wheatbaku | 2015-10-12 08:54 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
「南蔵院の縄地蔵」(「願懸重宝記」⑦ 江戸の祭礼と歳事)

 「江戸神仏願懸重宝記」のコメントも7回目になります。

 小さな神仏が結構あるものですね。

 今日は、「南蔵院の縄地蔵」です。

 このお地蔵様は、結構有名です。しかし、都心から離れた金町にあるという場所柄からか意外と知られていません。

 私も金町には行ったことがなかったのですが、有名なお地蔵様ですし、「江戸神仏願懸重宝記」に載っているので、良い機会だと思って、8月初めに行きました。

 南蔵院の山号を業平山というように、元は業平橋西詰にありました。

業平橋は、大横川に架かる橋で、東武線「東京スカイツリー駅」は、以前は「業平橋駅」と呼ばれていました。

南蔵院は、関東大震災で焼失したため、昭和2年に金町に移転しました。

c0187004_10004415.jpgJRや京成電鉄の「金町」駅から徒歩約20分かかります。そのため訪れたのは暑い盛りでしたので、タクシーで行きました。

 バス乗車の場合は、「金町」駅前から京成バス「戸ケ崎操作所」乗車。「しばられ地蔵」停車場で下車、徒歩約3分と書いてあります。

 「江戸神仏願懸重宝記」には「南蔵院の縄地蔵」と書かれていますが、現在は「縛られ地蔵」の方が有名のようです。

 タクシーの運転手さんも「縛られ地蔵」でわかりました。

 「縛られ地蔵」のお話は、南蔵院でいただいた資料に書いてあり、南蔵院のHPにも書かれていますが、概略、次のようなお話です。

c0187004_10053351.jpg 八代将軍徳川吉宗の時代、ある呉服問屋の手代が、南蔵院のお地蔵様の前で一眠りしている間に反物を盗まれてしまいました。

 訴えを受けた大岡越前守忠相は、お地蔵様を縄でぐるぐる巻きに縛って車に乗せ南町奉行所へ運んできました。

物見高い野次馬は、お地蔵様の後についていき奉行所になだれ込みました。

 頃を見計らった大岡越前守は奉行所の門を閉めさせ、お白州に乱入した罰として反物一反を納めるよう命じたため、奉行所には反物の山が出来ました。

 納められた反物を手代に調べさせるとその中から盗まれた反物が出てきて盗賊も一網打尽となりました。

 このお話は、戦前の国定教科書にも取り上げられたお話のようです。

c0187004_10020758.jpg 「縛られ地蔵」は、山門を入ると正面に安置されています。
 立派な本堂が左手ありますので、ご本尊の釈迦如来に一礼して、お地蔵様にお参りしました。

お地蔵様は1メートルほどの高さの石像です。

 盗難除け、足止め、厄除け、縁結びなど、あらゆる願い事を聞いて下さるお地蔵様で、お願いするときは縛り、願い叶えば縄解きするとされているため、縄でぐるぐる巻きにされています。

 まさに「縛られ地蔵」です。

c0187004_10022994.jpg 「江戸神仏願懸重宝記」では、「南蔵院の縄地蔵」となっています。

 縄でお地蔵様を縛り、7日間、「願いを成就させたまえ、願いが成就した際には、縄を解きます」と願懸けをする。願いが成就した後は縄を解いてお花を供える。

 「縛られ地蔵」の脇には、願いが成就した人が解いた縄をいれる「解き縄入れ」がありました。

 赤印が「南蔵院」です。



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by wheatbaku | 2015-09-25 09:45 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
「榎坂のえのき」(「願懸重宝記」⑥ 江戸の祭礼と歳事)

 江戸検を受検される皆様向けの夏から秋にかけての講座が9月20日の江戸楽アカデミーをもってすべて終了しました。

 江戸検を受検される皆様はこれからが受検勉強の本番になりますので頑張ってください。

 

 私の方は、江戸検に関する講座が終わった後は、10月から始まる史跡散歩の準備も重要になってきます。

 10月からは4回にわたり、鬼平こと長谷川平蔵宣以の生涯をたどる「鬼平ゆかりの地を歩く」が毎日文化センターで開講します。

 そこで、昨日は、長谷川平蔵の生誕地である赤坂を下見してきました。

 その際に、現在連載中の「江戸神仏願懸重宝記」に載っている「榎坂」を訪ねてきましたので、今日は「榎坂」のお話です。

 榎坂は、溜池の交差点の南側にあります。

c0187004_09360934.jpg 説明板もありませんので、事前に調べておかないと気が付かない坂ですが、目安はアメリカ大使館になります。

 アメリカ大使館と言えば霊南坂が有名ですが、アメリカ大使館の東北で霊南坂と交差するゆるやかな坂です。

 榎坂はアメリカ大使館の北側にあるため警備は厳重です。

榎坂の写真をとっていたら、「観光ですか? アメリカ大使館は撮影しないようにお願いします」と警備の警察官から聞きとがめられました。

そんなことで、アメリカ大使館は写真が写っていませんが、右写真の右奥がアメリカ大使館です。

 

c0187004_09361770.jpg 現在は「榎坂」のなごりを感じさせるものは全くありませんでした。

 唯一あったのが、「赤坂榎坂森ビル」です。

 ビルの正面に「ENOKI‐ZAKA」と書いてあり、これが唯一この坂が「榎坂」と教えてくれました。


 しかし、江戸切絵図をみると下図のように「榎坂」としっかり描かれています。

 戸田茂睡の「紫の一本」には

 溜池の上山口修理亮の屋敷前の坂をも、えの木坂と云う。大きな榎あり

 と書いてありますが、確かに、切絵図には山口筑前守の屋敷も描かれています。

 この山口筑前守の屋敷が、江戸時代は牛久藩の上屋敷でしたが、現在はアメリカ大使館です。
 また、右の松平大和守のお屋敷が、現在はホテルオークラになっています。

c0187004_09362313.jpg

 なぜ、榎坂と呼ばれるかについては「江戸名所図会」に書かれています。

 池の堤に榎の古木2、3株あり、これを印の榎と名づく。昔浅野右京太夫幸長、欽命を奉じてこの所の水を築き止める。その臣矢島長雲これを司り、堤成就の後、その功を後世に伝へんため印にとて栽えけるとなり。

  溜池は、江戸時代初期に湿地帯であった場所でしたが、幕府の命を受けた浅野幸長が堰を築いて、大きな人造池としたものです。

 明治になってすべて埋め立てられましたので、現在は、地名に名前を残すのみで、池の名残りはまったくありません。

 

 この溜池築造の工事の責任者であった矢島長雲という人が、功績を後世に知らしめるために榎を植えたところから榎坂という名前がつけられたようです。

 この榎坂の榎が歯痛の願懸けの対象となりました。

 「江戸神仏願懸重宝記」には

 榎に「白山大権現」と念じて、虫歯が治るように願懸けをして、治ったら柳の楊枝を供える

 と書いてあります。


 赤印が「榎坂」です。



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by wheatbaku | 2015-09-24 09:34 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
久米の平内(願懸重宝記⑤ 江戸の祭礼と歳事)

 今度の日曜日には、江戸楽アカデミーで「江戸検1級直前特訓講座」があります。

 江戸検の試験日まで、あと一か月あまりとなり、江戸検を受検される方には最も大切な時期になりました。

 あと1か月間どのように勉強するか、自分の体験をもとにお話ししてこようと思います。

 ところで、このブログを読んでいる方で受講いただく方もいらっしゃると思いますが、「江戸博覧強記」を持参のこととなっていますので、お忘れないようにして下さい。

 

c0187004_09383509.jpg さて、今日は、江戸楽アカデミーの準備で忙しい中ですが、「江戸神仏願懸重宝記」のうちの「久米の平内」について書いていきます。

 「久米の平内」は、浅草寺にお祀りされています。

 しかも、仲見世の店舗がきれた宝蔵門の手前の広場の東側という大勢の参拝客が通行する場所にお祀りされています。

 しかし、ご存知でない方が多いのではないでしょうか。

 

 現在は、久米平内堂という小さなお堂が建てられています。

そして、よく眺めると台東区教育委員会の説明板も建てられていて、次のような説明がされています。

 久米平内堂(くめのへいないどう)

c0187004_09392087.jpg 久米平内は江戸時代前期の武士。『武江年表』によると、天和3年(1683)に没したとされるが、その生涯については諸説あり明らかではない。

 平内堂には次のような伝承がある。平内は剣術に秀でており、多くの人をあやめてきた。後年、その供養のために、仁王坐禅の法を修業し、浅草寺内の金剛院に住んで禅に打ちこんだという。臨終にのぞみ自らの姿を石に刻ませ、多くの人に踏んでもらうことによって、犯した罪を償うために、この像を人通りの多い仁王門付近に埋めたと伝える。

 その後、石像はお堂に納められたという。「踏付け」が「文付け」に転じ、願文をお堂に納めると願い事が叶うとされ、江戸時代中期以降、とくに縁結びの神として庶民の信仰を集めた。

 平内堂は、昭和20年(19453月の戦災で焼失した。現在のお堂は昭和53年(197810月に浅草寺開創1350年記念として再建されたものである。

このように、多くの人が通行する宝蔵門前にありながら、多くの方が振り向きもせず、通り過ぎていきます。

台東区教育委員会の説明板によれば、「久米の平内」は、縁結びの神様として信仰されたとなっています。

 私も、浅草寺のガイドの際には、そのように説明してきました。

 しかし、「江戸神仏願懸重宝記」によれば、諸願成就の神様として信仰されたと書いてあります。
 その方法として、
願いを書いた文書を祠に納め、願いが成就した際には、鳥居や絵馬を奉納すると書いてあります。

 浅草寺をお参りした際には、「久米の平内」もお参りしてお願い事をするのもよいかもしれません。
 「久米の平内」の石像が平内堂にお祀りされているそうですが、その石像をみるのは難しくて、私は実物をみたことはありません。


 赤印が久米平内堂です。 宝蔵門(青印)の目の前にあります。







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by wheatbaku | 2015-09-18 09:27 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
鳥越橋(願懸重宝記④ 江戸の祭礼と歳事)

 「江戸神仏願懸重宝記」の4回目は「幸崎甚内」をご紹介します。

 「江戸神仏願懸重宝記」には「幸崎甚内」と題して、鳥越橋で瘧(おこり)の願懸けをすると書いてあります。

 瘧というのは、現在のマラリアのようです。

c0187004_16571579.jpg 鳥越橋は鳥越川にかかっていた橋で、別名「甚内橋」と呼ばれています。

鳥越川は、不忍池から忍川をへて、三味線堀に落ち隅田川に注ぐ川で、今の蔵前通りと並行して流れていました。 
  しかし、鳥越川は、現在は暗渠となっていて川の流れはありませんが、道路の十字路の東南角には甚内橋跡の石碑があります。(右写真)

 
 鳥越橋つまり「甚内橋」は、JR浅草橋駅から徒歩5分程度の所にあります。
 鳥越神社の南側にあります。

 

 鳥越川は東西に流れていましたので、甚内橋は南北に架けられていたと思われます。

 この橋が、「甚内橋」と呼ばれるのは、付近に甚内神社があったからだといわれています。

 

c0187004_16573119.jpg「甚内橋」の由来となった甚内神社は、現在もあります。

 甚内とは人の名前で高坂甚内といいます。

 高坂甚内は、武田家の家臣高坂弾正の子で、主家滅亡後、祖父に伴われ諸国を行脚するうち宮本武蔵に見出されて剣を学び奥義を極めた。武田家再興をはかり、開府早々の江戸市中の治安を乱した人物だと神社脇の説明板に書いてあります。
 
 「江戸神仏願懸重宝記」では、幸崎甚内と書いてあり、江戸時代の本では、向坂甚内と書いてあるものもあります。


この甚内は瘧で苦しんでいたところを取り押さえられました。

 そして、刑場で処刑されるとき「我瘧病にあらずば何を召し捕れん。我ながく魂魄を留、瘧に悩む人もし我を念ぜば平癒なさしめん」といったことから、病の治癒を祈る人々の信仰を集めたといわれているようです。

 「江戸神仏願懸重宝記」によれば、鳥越橋から自分の年齢を記した紙を川に流し瘧(おこり)が治るように願懸けし、平癒後は竹筒の水や茶を流し供えると書いてあります。

 赤が甚内神社です。青が甚内橋跡です。
 鳥越神社がピンクです。








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by wheatbaku | 2015-09-16 10:02 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
目黒の滝壺(願懸重宝記③ 江戸の祭礼と歳事)

 「江戸神仏願懸重宝記」に載っている神仏のほとんどが小さな神仏です。

 しかし、なかには滝の水が願懸けの対象になったものもあります。

 それが目黒のお不動様(正式には瀧泉寺)の境内にある「目黒の滝壺」です。


 目黒のお不動様は多くの方がご存知だと思います。

c0187004_09464792.jpg 目黒のお不動様は、泰叡山瀧泉寺といいますが、寺伝によると、大同3年(808)慈覚大師円仁が下野国から比叡山に赴く途中に不動明王を安置して創建したという古い歴史を持つお寺です。
 五色(目黒、目白、目青、目赤、目黄)不動の一つとしても知られています。

 また、江戸検を受検される方は、「江戸三冨」の一つに数えられていて、江戸時代には「富くじ」でも有名であったということをご存知の方も多いと思います。

c0187004_09470054.jpg この目黒のお不動様の山門(右上写真)を入ると広い広場となっていて、本堂(右写真)へと登る石段下の左手に池があり、2体の龍の口から水が吐き出されています。

 これが「独鈷の滝」と呼ばれている滝です。(右下写真参照)

 この滝は、慈覚大師円仁が堂塔建設の敷地を占って、御自身が持っていた独鈷(とっこ)を投げたところ、忽ち滝泉が湧き出したので之を「独鈷の滝(とっこのたき)」と名付けたと独鈷の滝の脇に設置されている説明板に書かれています。

 「江戸神仏願懸重宝記」によれば、この独鈷の滝の水が怪我除けの御利益があるというので願懸けの対象になりました。

c0187004_09470928.jpg 目黒のお不動様は、五色不動の一つでもあり、関東36不動尊巡りの霊場でもあり、山の手七福神の一つでもありますので、個人的にも何回も参拝していますし、史跡案内でも案内したことがあります。

 しかし、独鈷の滝の水が怪我除けの御利益あるというのは、「江戸神仏願懸重宝記」を読んで初めて知りました。

 「江戸神仏願懸重宝記」はくずし字で書かれたものが出版されていますが翻刻されたものがないので、くずし字の読めない私には正確に読み解くことができませんが、概略は次のようです。

 子どもの月代を剃る際に、泣き叫んだりして、剃るのが難しい時に、目黒不動の滝壺の水を沸かして頭に塗り月代を剃ると驚くほどおとなしく剃れる。

 これは、お不動様の字の如く、「不動(うごかず)」ということからの信じられていることである。

 こんな感じだと思います。

 「独鈷の滝」については、江戸名所図会にも書かれています。

 独鈷の滝 当山の垢離場なり。往古承和14年(847)当寺開山慈覚大師入唐帰朝の後、関東へ下りたまひし頃、この地に至り独鈷杵をもてこの地を穿ち得たまふとぞ。つねに霊泉滔々として漲り落つ。炎天旱魃といへども涸るることなく、末は目黒一村の水田に引き用ふるといへり。昔は三口にわかれて湧出せしが、いまは二流となれり。

 現在も右上の写真で龍の口から流れているのが滝ですが、龍の頭が二つあるのでおわかりのように二流となって流れています。

c0187004_09471684.jpgこの独鈷の滝の左手に小さなお堂がありますが、独鈷の滝を訪ねた際には一緒に拝観するとよいと思います。

このお堂が前不動堂(まえふどうどう)で東京都指定の文化財です。
 建立時期ははっきりしないようですが、江戸時代中期の建物です。

 ご本尊は不動明王立像で、庶民信仰の便を図ったものとも、本堂に祈願するための徳を積む修業の場であったともいわれているようです。



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by wheatbaku | 2015-09-14 09:30 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
高尾稲荷(願懸重宝記① 江戸の祭礼と歳事)

 江戸検の今年の「祭りだわっしょい 江戸の祭礼と歳事」を読むと新しい発見があります。

 

 その一つに、「江戸神仏願懸重宝記」というパワースポットについて書いた本があります。「江戸の祭礼と歳事」では、この本について一章割いあり、かなりのウエイトで紹介されています。

 

 この「江戸神仏願懸重宝記」は文化11年に出版されたものですので、ここに紹介されている神仏も、当然、現在はなくなってしまったものもあります。

 その一方で、なんらかの形で残されているものもあります。

 しかし、その神仏は、現在では、忘れ去られたかのように、ひっそりと祀られています。

 私も、「江戸神仏願懸重宝記」というパワースポットガイドに載っているなどということは露しらずにお参りしていた神仏がいくつかあります。

 江戸検を受検される方は、これから、これらの神仏を参拝する余裕はないと思います。

 そこで、かつて参拝した際の写真をベースに、「江戸神仏願懸重宝記」に載っている小さな神仏を少しずつ紹介していきます。

 最初は「高尾稲荷」です。

c0187004_10223855.jpg 「高尾稲荷」は、東京メトロ「茅場町駅」から徒歩7分の永代橋の西側にあります。

  高尾稲荷は、赤穂浪士の引き上げルートのガイドのため永代橋を下見した時に参拝しました。

 もう永代橋を下見した頃には、日が暮れていましたので、右の高尾稲荷の写真も夜景の中です。

 「高尾稲荷」は、新吉原の名妓2代目高尾大夫をお祀りした神社です。

  高尾大夫という遊技は、新吉原の三浦屋四郎右衛門の見世で代を重ねた名跡です。

 そのうちの2代目高尾大夫は「万治高尾」などと呼ばれて諸芸に通じた名妓でした。

どうして2代目高尾大夫が祀られたかについて、次のような言い伝えがあります。

2代目高尾大夫は仙台藩主伊達綱宗に寵愛され大金とつんで見請けされました。

しかし、高尾大夫は綱宗の意に従わなかったため、ついに怒りを買って身請けされる途中に、隅田川の三又(みつまた:現在の中洲)あたりの船上にて吊り斬りにされ、川中に捨てられてしまいました。

その遺体が隅田川西岸の北新堀河岸に流れ着き、高尾大夫を憐れんだ人たちによって祀られたのが高尾稲荷だと言い伝えられています。

この高尾稲荷が、「江戸神仏願懸重宝記」の冒頭に載っています。

「江戸神仏願懸重宝記」で、高尾稲荷は『頭痛平癒』の願懸けに霊験あるとされています。

 頭痛平癒を願う人は、高尾稲荷から小さな櫛を1枚借り受けて朝夕「高尾大明神」と祈って髪を撫でつけ、病気が平癒したら、新しい櫛を一枚添えて高尾稲荷に奉納するとしてあります。

赤印が「高尾稲荷」です。IBM箱崎ビルが目安になります。






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by wheatbaku | 2015-09-09 10:19 | Trackback
重陽の節句とおくんち(江戸の祭礼と歳事)



 9月9日は、いうまでもなく重陽の節句です。

 中国では、奇数が陽数とされ、9は最大の陽数であり、それが重なることから「重陽」と呼ばれ「重九」ともいわれました。


 この日は、東都歳事記によれば


 九月九日

 〇重陽御祝儀 諸侯(花色小袖)御登城。良賤佳節を祝す。菊花酒をもって節物とす。


 と書かれています。



 重陽の節句は、五節句の一つとして、江戸にいる諸大名は、江戸城に総登城し祝賀しました。そして、菊酒を飲んで祝いました。

 ここまでは、多くの人に知られたことです。


 こうした諸大名の祝賀とともに武家や一般庶民の子供たちが、文武の師匠、そして手習や琴・三味線などの遊芸の師匠のところに出向いてお祝いを述べました。


 このことが、「絵本江戸風俗往来」に書かれています。このことはあまり知られていないようですので、書いておきます。


 下々にても当日は、男女の児子(ちご)達、時服を粧ひ、武家にあっては読書・手跡・弓馬・槍剣の師の許に祝賀に行き、町方にては手跡・算盤の師、女子は手跡より糸竹の師の許へ行き、儀式を行ふ。
 

 また、9月9日は、「おくんち」や「くんち」とも呼ばれます。
 「おくんち」とは「お九日」のことです。

c0187004_11453608.jpg 「おくんち」といえば、「長崎くんち」が有名です。

 「長崎くんち」は、江戸検の参考図書「江戸の祭礼と歳事」にも載っています。

 「長崎くんち」は長崎の氏神「諏訪神社」の秋季大祭で、現在は毎年10月7日・8日・9日に行われます。

 しかし、元は、旧暦の9月7日~9日におこなわれたようです。

 「長崎くんち」のホームページにも「重陽の節句、菊の節句の9月9日の『くにち』が「くんち」となったとする説が一般のようである。」と書いてあります。


 なお、九州地方では、祭日が9月9日でもなくてもこの時期に行なわれるお祭りは「おくんち」とか「くんち」と呼んでいるようです。
 「長崎くんち」のほかに「唐津くんち」「佐世保くんち」「伊万里くんち」などが有名だそうです。








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by wheatbaku | 2015-09-07 11:28 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
  

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