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いせ源 (江戸の老舗)
一昨日は江戸検でした。
 結構難しい問題が多かったようですね。受検された皆様本当にお疲れ様でした。
 大勢の皆様から、結果についてのご連絡いただきました。
 結果は、悲喜こもごものようですが、この間、受検された皆様全員が頑張ってこられたのですから、この間の頑張りに、本当に敬意を表します。

 さて、文京学院大学生涯学習センターの神田散歩で訪ねた「いせ源」さんでは、あんこうの吊るし切りを見させていただきました。
 これが大変好評でしたので、今日は、「いせ源」さんについて詳しく紹介しようと思います。

 いせ源さんは、東京メトロ淡路町駅A3番出口から徒歩2分の距離にあります。
 この近辺は現在は須田町ですが、昔は連雀町といわれた町です。
 ここには、「いせ源」さんをはじめ「まつや」「たけむら」「かんだやぶそば」など昔ながらの情緒を漂わせている老舗が目白押しです。
c0187004_9581539.jpg その中で、江戸時代に創業したの「いせ源」さんだけです。
 「いせ源」さんは、天保元年(1830)に、中橋広小路(現在の京橋三丁目付近)で初代にあたる立川庄蔵が「いせ庄」というどじょう屋を始めました。
 その後、2代目立川源四郎が店を中橋広小路から神田連雀町に移し、店名も「いせ庄」の「いせ」と「源四郎」の「源」を合わせ、「いせ源」と改名したそうです。
 当時はあんこう鍋の他にも、よせ鍋、かき鍋、白魚鍋、ねぎま鍋等々、様々な鍋料理を提供していたようです。
 しかし、あんこう鍋に人気が集中するようになり、大正時代の4代目立川政蔵の時にあんこう料理専門の店となりました。
 「いせ源」さんの建物は、大正12年の関東大震災によって全焼した後、昭和5年に建てられたもので、 東京都選定歴史的建造物に選定されています。

 神田散歩の時に、あんこうの吊るし切りをみせてくださったのは7代目ご主人です。
 まだお若く、「若旦那」という呼び名がぴったりです。
c0187004_9584386.jpg あんこうについての解説もしていただきました。
 あんこうは300種類ぐらいいるそうですが、あんこう鍋に使われるものは「キアンコウ」という種類だそうです。
 キアンコウで食用になるのは主にメスで、アンコウのメスはオスよりも早く成長し体が大きいようです。
 先日見させていただいたアンコウは青森で水揚げされたものだそうです。
 あんこうを捕るには、底引網と刺し網があるそうです。底曳網では、多種の魚が一網打尽に捕獲されますが、刺し網で捕る場合は、網の大きさより小さい魚は捕獲されません。
c0187004_959168.jpg そのため、自然保護の観点からは刺し網の方がよいそうです。
 「いせ源」さんでは、刺し網で捕獲されたあんこうを利用するようにしているそうです。
 解説の後、吊るし切りを実演していただきました。
 あんこうを吊るし切りするには5分程度で調理できるそうですが、当日は、お話をしながらですので25分程度かかりました。
 解説も詳しく、包丁さばきも見事でした。
 しかも、参加者から随時出される質問にも丁寧に答えていただきました。
 参加者の皆さんは大満足でした。
 7代目ご主人様ありがとうございました。また、御手配していただいた女将さんありがとうございました。

 神田散歩にご参加いただいた お気楽マダムさん が、吊るし切りの様子を動画に編集してくださいました。
 吊るし切りの様子もわかりますし、若旦那の説明も取り込まれています。ぜひご覧ください。





c0187004_100321.jpg 「いせ源」さんには、ご案内する前にお邪魔して、「あんこう鍋」を食べて写真に撮ってありますので、その様子も紹介します。
 「いせ源」さんは、2階が入れ込みの座敷となっていて、そこであんこう鍋を食べることができます。
 私たちが選んだ窓際のテーブルは、映画監督の小津監督がいつも座って食したテーブルとのことでした。 
 あんこう鍋を注文するとほどなく運ばれてきました。
c0187004_1005663.jpg 基本的にあんこうは腸と精巣以外のすべての部位が食べられるとのことで、あんこうの具材と野菜が並べられ、割り下が入った鍋でした。
 しばらくすると煮立ってきました。ガスの火を弱めて食べてみると醤油味でした。
 あんこう鍋には味噌味もあるそうですが、「いせ源」さんでは醤油味で調理しているとのことでした。
 あんこうの味はおいしくて、部位によってちがう食感が楽しめて大変すばらしかったです。
 あんこう鍋を食べ終わると、「おじや」をどうするかとの質問がありましたので、迷わずオーダーしました。
 あんこうの味がたっぷり染み込んだ「おじや」も最高の味でした。

c0187004_9595391.jpg 2階の座敷には、絵が数多く掲示されています。
 よく見るとサインしたものがありますので、誰が描いたのかわかります。br> 右写真の絵には春陽会のサインがありました。
 春陽会の人々が寄せ書きした絵のようです。
 中川一政画伯のサインのある絵もありました。


c0187004_1001427.jpg 最後に店の入り口に掲げられている看板のご紹介です。
 入り口の看板には、右から「先客万来」と刻まれています。
 この看板の板は、ふな虫に食べさせたものだそうです。
 多くのお客さんに食べてもらいたいという願いを込められているそうです。
 上品な洒落が効いて、なるほどと感心しました。
 昭和5年の新築時以来掲げられている看板とのことです。


 あんこうはこれからがシーズンです。
 「いせ源」さんであんこう鍋をたべてみてはいかがでしょうか。必ず満足すると思います。
 
 なお、「いせ源」さんでは、夏場もあんあこう鍋をやっているそうです。


 赤印が「いせ源」さんです。最寄駅は東京メトロ丸の内線「淡路町駅」ですが、JR山の手線の「神田駅」からもそう遠くはありません。

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by wheatbaku | 2014-11-04 09:32 | 江戸の老舗 | Trackback
「江戸の食文化」第十回模擬試験問題
 今日は、「江戸の食文化」に関する模擬試験問題を出題します。
 今回で、10回目となり、都合で100問の出題となります。
 今月は、文京学院大学の「大江戸老舗物語」の準備と本業の方が忙しくて出題を見送ろうと思っていましたら、先週土曜日にお会いした受検者の皆さんから、あと10問是非出題して欲しいとのお話がありました。
 大変うれしいことですので、江戸検本番が近付きましたが10問出題します。
 正解は明日アップします。


1、「にんべん」の六代目高津伊兵衛は、日本初の商品切手を考案しました。
 表に金額、裏ににんべんの印がつけられたもので鰹節と交換できるものでした。
 それでは、この商品切手はなんでできていたでしょうか?

  ①金  ②銀  ③銅  ④紙

2、江戸に料理屋が出現するのは宝暦天明期と言われていて、「八百善」をはじめ多くの有名料理屋が繁盛しました。
 その中で、雑司ヶ谷の鬼子母神前の名店で、幕末には彰義隊の面々が会合を開いた場所として知られている料亭は何というでしょうか

 ①平清  ②田川屋  ③平岩  ④茗荷屋

3、佃煮を考案したのは、もともと摂津国西成郡佃村から江戸に下ってきた漁師たちでした。
 この漁師たちが佃村の名主森孫右衛門に率いられて江戸にやってきたのは慶長17年のことでした。
 彼らは、拝領した江戸湾の干潟の一部を埋め立て小島を築きました。その島が佃島で、そこで考案された小魚の煮物が佃煮です。
 それでは、佃島が築かれたのは、何代将軍の時代だったでしょうか?

 ①初代家康 ②2代秀忠 ③3代家光 ④4代家綱

5、魚市場としては、日本橋の魚河岸がもっとも有名で、幕府の御用も一手に引きうけていましたが、延宝2年(1678)に開設された市場と、その役割を分担することになりました。
 新たに開設された市場は、江戸三大魚市場の一つに数えられましたが、この市場の名前はなんというでしょうか?

 ①芝雑魚場   ②雑喉場魚市場  ③新肴場  ④四日市

5、「最上醤油」と認められた醤油は七銘柄あり、銚子の四銘柄と野田の三銘柄でした。
 その七銘柄のうち四つは、「ヒゲタ」「ヤマサ」「キッコーマン」「キハク」です。
 それでは、次の四銘柄の中に「最上醤油」とは認められなかった銘柄が一つだけあります。
 それはどれでしょうか?

 ①ヤマジュウ  ②ジガミサ ③ジュウジュウ ④キノエネ

6、旧暦の11月8日には、鞴を使う職人が、火伏せと繁盛を祈り稲荷神を祭る行事である鞴祭りが行われました。
 鞴祭りではあるものがまかれましたが、鞴祭りでまかれたものは何でしょうか?

 ①みかん  ②あめ  ③もち  ④お金

7、天明2年に発刊された「豆腐百珍」が評判になって以来、「鯛百珍秘密箱」を始めたとしたいわゆる「百珍物」といわれる本が数多く出版されました。
 その中には、食材をタイトルに用いていない書名もありました。
 それでは、別名で「玉子百珍」と呼ばれる書物の正式な書名はなんといったでしょうか

 ①料理山海郷  ②万宝料理秘密箱  ③名飯部類  ④料理早指南

8、銚子沖でとれた魚は、夕刻に銚子を出発し、翌日の夕方から夜に日本橋に着き、翌朝のせりにだされました。利根川・江戸川の水運を主に利用しましたが、一部陸上輸送も利用し、その街道は、鮮魚(なま)街道と呼ばれました。
 それでは、銚子から鮮魚を輸送する際に魚の鮮度を保つために利用された方法は、次のうちどれでしょうか?

 ①笹の葉で包む  ②塩を振る  ③氷水にいれて運ぶ  ④酢でしめる

9、味噌は、「手前味噌」という言葉があるように、それぞれの家で作るのが普通でした。
 そのため、味噌は、全国各地で独特の味噌が作られていました。
 それでは、現在も馴染のある味噌で、江戸市民がほとんど口にしなかった味噌は次のうちどれでしょうか

 ①仙台味噌  ②八丁味噌  ③信州味噌   ④西京味噌

10、人の集まるところには屋台が出ました。
 その場所は、寺社境内・広小路・大店のある繁華街などですが、意外な場所にも屋台が出ていました。それが下馬です。
 それでは、「江戸の食文化」に上がられている下馬とは大手門前のほかどこの門前を言いましたか?

 ①西の丸大手門  ②内桜田門  ③外桜田門   ④和田倉門
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by wheatbaku | 2014-10-28 10:14 | Trackback
ふいごまつり・子祭り・乙子朔日(江戸の食文化)
 明日は、文京学院大学生涯学習センターさんの「大江戸老舗物語」で日本橋を案内いたします。また、会社でも仕事が超多忙となっています。
 そんな中で、最近、なかなかブログが更新できません。
 ブログが毎日更新されていないと、体調が悪いのではとご心配される方もいらっしゃるのですが、体調は問題ありませんのでご安心ください。

 そんな状況の中で、今日は、『江戸の食文化』に書かれている「年中行事と食」の中でわかりにくい事項について書きます。

 11月8日の行事に、「鞴祭り」というのがあります。
c0187004_927610.jpg まず「鞴」という漢字が難しいのではないでしょうか。「鞴」は「ふいご」と読みます。
 「ふいご」はご存知の方が多いと思いますが、鉄などの金属を製錬したり加工したりする際に、温度をあげるために風をおくる装置です。
 この日は天から「ふいご」が降ってきた日だといわれています。そこで、「ふいご」を使用する鍛冶屋・鋳物師・たたら師などが中心となって行われるお祭りです。
 この日には、蜜柑を撒いたり配ってやることが行われました。
 これは、「ふいご」が天から降ってきて蜜柑の木に引っかかっていたという伝承があるためだそうです。

 11月の子(ね)には、「子(ね」祭り」が行われます。
 これについて、東都歳時記には次のようにかかれています。
 「毎月といえども、当月は子(ね)の月なるをもって初子の日子の刻専ら大国神をまつる。これを子まつりという。赤小豆飯等を供する」
 11月が「子(ね)の月」とされているため、特に11月の子の日に「子祭り」が行われたということのようです。

 12月1日は「乙子朔日(おとごさくじつ)」と呼ばれました。
 これも、現代の私達にはなじみがありません。
 東洋文庫の「東都歳時記」の注釈に「乙子は末子の意味。12月は最後の月であるので乙子月とも言った。」と書かれています。
 「乙子」というのは12月の異称ということであり、その一日ですから「乙子朔日」というようです。
 「東都歳時記」には次のように書かれています。
「乙子朔日とて諸人餅を製し祝う。『日本歳時記』に云う。いつの頃より始まりし事にや、一年の間、事なく朔日を悉くかぞえ来りし事を祝う意なるべしと云う。今日製する餅を乙子のもちをいう。又、川浸(かわびたりもち)ともいう。」
 年中行事のなかで、わかりにくと思われるものについて書きましたが、江戸時代の人たちが行っていた年中行事も現代まで続いているものが多いのですが、現代では廃れてしまった年中行事も少なからずあるということを改めて知りました。



 なお、江戸検受検される方用に、 『江戸の食文化』重要事項一覧 をまとめてありますので、ご希望の方はダウンロードしてください。
 『江戸の食文化』重要事項一覧ダウンロード


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by wheatbaku | 2014-10-10 09:22 | 江戸の食文化 | Trackback
「『江戸の食文化』重要事項一覧」の公表
 
江戸検の参考図書である

原田信男編『江戸の食文化』の重要事項一覧

をダウンロードできるようにしました!
 

 江戸検の本番まで、ちょうど4週間となりましたが、受検される皆様、受検勉強の進展具合はいかがでしょうか?
 順調に進んでいる方、予定どおり進んでいなくて不安な方など、それぞれの感想をお持ちだと思います。
 最終コーナーとなりましたので、最後の頑張りでご努力されることを願っています。

c0187004_1118573.jpg ところで、受検される方から、原田先生の『江戸の食文化』の重要事項を教えていただきたいというご希望がありました。
 このご希望にお応えするのはかなり大変ですので、なかなか踏み切れませんでしたが、受検される方のお役にいくらかでも立つのであればということで、一覧表としました。
 そして、多くの方にご利用いただけるように、この「重要事項一覧」をご希望される方には、ダウンロードできるようにしました。
  ご希望される方は、下記サイトに飛んでいただき必要事項を入力していただきパスワードを入手した後、ダウンロードしていただきたいと思います。


  『江戸の食文化』重要事項一覧ダウンロード


 「重要事項一覧」は、「江戸の食文化」の第一章から第五章に記載されている重要語句および事項についてページ別に一覧にしたものです。
 これはあくまでも個人的に重要と思われるものをピックアップしたものです。
 江戸検を受検される方のご期待にそっているか多少不安がありますが、皆様の受検勉強のお役に立てれば幸いです。

この資料のダウンロードに関して、お気楽マダムさんのご協力をいただきました。御礼申し上げます。
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by wheatbaku | 2014-10-06 08:44 | 江戸の食文化 | Trackback
なすと二宮尊徳(江戸野菜 江戸の食文化)
 今日は、なすについての2回目です。

 江戸っ子は茄子がー好みにあったのか、初茄子を珍重し、促成栽培が行われるほどでした。
このため、初物の規制により、売り出し期日が4月からと決められていました。

 その江戸っ子が珍重した初茄子は高価であるとともに小型でもあったようです。次のような川柳があります。
   目へ這入るほどで 目の出る 初茄子(はつなすび)
   初茄子(はつなす)は  富士に縁ある  高根なり 
   ちいさくて  口にはいらぬ   初茄子(はつなすび)
 

 その初物のなすを食べて、冷害を予測したのが、二宮尊徳です。
c0187004_1620433.jpg 二宮尊徳は、小田原藩領の農家の出身ですが、生家の再興した後、小田原藩家老服部家の財政再建に成功したのを小田原藩主大久保忠真に見込まれ、小田原藩大久保家の分家である旗本宇津家の桜町領の再建を任されていました。
 再建がとりあえず成功した後の天保3年の夏の初め、二宮尊徳は食べたなすの味がいつものなすの味と違い、秋なすの味がすることに気が付きました。
 観察力の鋭い二宮尊徳は、これは、冷夏の予兆ではないかと思い当たりました。
 そこで、冷害に強い稗(ひえ)を植えさせるように、農民たちに指示しました。
 その年の夏は、二宮尊徳の予想した通りの冷夏で凶作でした。
 しかし、二宮尊徳の指示に従って、稗を植えていた桜町領は、一人の死者も出しませんでした。
 右上写真は、吉祥寺にある二宮尊徳のお墓です。

 秋なすの話題がでましたが、「秋なすは嫁に喰わすな」という俗説があります。
これは鎌倉時代の和歌集「夫木集」にある「秋なすび わささのかすに つけまぜて よめにはくれじ 棚に置くとも」という和歌に由来すると言われています。
 一般的には、嫁いじめの意味に考えられていますが、なすはたくさん食べると腹痛・下痢を起こしやすいので、嫁の身体を労わって詠んだという説もあります。

「本朝食監」には、「多食すれば、身体によくないという説もあるが、生なすを食べないことはない 」と書かれています。



 最後に、「本朝食鑑」に、なすの花の効用でおもしろいものが載っていましたので紹介します。
 「花 虫牙(むしば)の急痛には、一蕚(がく)を患部の牙(は)で噛めば、たちどころにに癒える」と書いてあります。本当に、なすのがくが虫歯に効いたのでしょうか・・・





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by wheatbaku | 2014-10-03 07:03 | 江戸の食文化 | Trackback
駒込なす(江戸野菜 江戸の食文化)
 先日の六義園散歩では、六義園のほかに、駒込富士神社、吉祥寺、駒込土物店跡と散歩してきました。

 この中で、駒込富士神社と吉祥寺は、野菜のなすと縁がありますので、今日は、その話をしたいと思います。

 江戸時代、駒込はなすの産地で、「駒込なす」は、江戸では有名な野菜でした。
c0187004_9274994.jpg 
 新編武蔵風土記稿の上駒込村に、
  茄子の土地によろしいので世にも駒込茄子と称す
 と書かれています。

もちろん、江戸検の参考図書『江戸の食文化』にも載っています。
 こうしたことから、駒込富士神社にJA東京が設置した説明板があります。
 右写真がそれです。

 なすは、インド原産と言われ、熱帯から温帯にかけて広く栽培されていました。
日本へは、中国から渡来し、すでに奈良時代には栽培されていました。

茄子は「奈須比(なすび)」ともよばれていました。
なすびの由来は、中渋実(なかしぶみ)とする説、夏実(なつみ)とする説、生実(なすみ)とする説、中酸実(なかすみ)など諸説がありますが、「たべもの語源辞典」では、夏とれる野菜つまり夏実(なつみ)からナスミとなりナスビとなったとしています。

茄子の産地として江戸では、駒込が有名でしたが、江戸以外では、駿河が有名だったようで、江戸時代後期の平戸藩々主松浦静山の書いた随筆「甲子夜話」には、駿河で栽培した茄子を将軍家に献上する話が載っているとのことです。

 縁起の良い初夢としてあげられるもの『一富士、二鷹、三茄子』があります。
c0187004_924898.gif この三つがどうして縁起がよいのかについては諸説があるようです。
 徳川家康の好物を挙げたという説や駿河にあるもので高いものを挙げたという説があります。
 「甲子夜話」には、「神君駿城に御座ありし時、初茄子の値貴くして、数銭を以て買得ぬ故、其値高きをいはんとして、まず一に高きは富士なり。その次は足高山なり、其次は初茄子なりといひしことなり」と書かれていて、家康が駿河で高い順にあげたものだそうです。
 ちなみにここで言われている足高山は、愛鷹山のことで、駿河では富士山に次いで高い山です。
 そして、駒込に関係する由来説に、駒込の名物を挙げたものだという説があります。
 「駒込に一富士、二鷹、三茄子」という川柳がありますが、一富士は駒込の富士神社を言い、二鷹は駒込に鷹匠屋敷があったことを差し、三番目が駒込なすのことを差します。

 「一富士、二鷹、三茄子」の由来がどれが正しいからは別として、その由来説の一つに挙げられるほど「駒込なす」は有名だったと思われます。
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by wheatbaku | 2014-10-01 09:18 | 江戸の食文化 | Trackback
駒込土物店(江戸の食文化)
 六義園散歩で行った六義園の詳細は、時期を見て、アップします。
 六義園散歩の最後にご案内した「駒込土物店(つちものだな)跡」が「江戸の食文化」とも関係するので、今日は、「駒込土物店跡」についてご紹介します。
 
c0187004_1011711.jpg 「駒込土物店跡」は、東京メトロ「本駒込駅」 出口から徒歩2分の天栄寺門前にあります。

 「駒込土物店」というのは、江戸時代から昭和にかけて、駒込にあった青果市場です。
 「土物(つちもの)」というのは、大根・にんじん・ごぼうなど根菜類を言い、ここで根菜類を中心に取引が行われたため「土物店」といいます。
 「駒込土物店」は、神田、千住とならぶ江戸の三大市場のひとつに数えられる大きな市場でした。

 「駒込土物店」の由来については、天栄寺の参道にこの中に駒込土物店の歴史を書いた石碑が建てられています。
c0187004_10112989.jpg 右写真が「駒込土物店縁起」碑です。
 これによると、天栄寺の近くにサイカチの木があって、斉藤伊織という人がこの木の下にお稲荷様を勧請して千栽稲荷と名付けてお祀りしたそうです。
 そして、近隣のお百姓が毎朝下町へ青物を売りにゆく途中、いつも、この木の下で休憩したそうです。
 その時たまたま野菜を買う人があるとその斉藤氏が売り買いの仲立ちをしたことが市場の始りだそうです。
 
 天栄寺の門前は、日光御成街道が通っていて、南脇には、中山道に通じる細い道が通っていて、辻(十字路)になっていて、交通の要所でした。
c0187004_10114568.jpg  そのため、ここの市場は「駒込土物店」と呼ばれるほかに「辻のやっちゃば」とも呼ばれました。 
現在は、住宅地となって、昔の面影はありませんが、最盛期には、本郷通りの東側まで広がる大きな市場だったようです。
このように栄えた「駒込土物店」も、昭和12年に、豊島区巣鴨に移転し、現在は豊島市場となっています。

 散歩の際に、サイカチという木がどういう木かということが話題になりましたが、天栄寺の参道にサイカチの木が植えられています。
 サイカチは漢字では皁莢、梍と表記します。
 幹には、トゲがあるのが特徴で、木材は建築、家具、器具、薪炭用として用いるほか、実は去痰や利尿の漢方薬として使用されるようです。
 右写真は、石碑の脇に植えられているサイカチの木を眺める参加者の皆さんです。
 トゲがあることと葉っぱが山椒に似ていることが話題になりました。

 赤印が「駒込土物店跡」です。本駒込駅の至近距離にあります。

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by wheatbaku | 2014-09-29 10:04 | Trackback
海苔巻き・焼き海苔・味付け海苔(江戸の食文化)
 今日も海苔のお話をしたいと思います。 
 江戸では、海苔を使った料理や食品が数多く開発されています。
 その中で、代表的な 「海苔巻き」「焼き海苔」「味付け海苔」 についての書いてみたいと思います。

海苔巻き寿司 
c0187004_1559278.jpg 海苔を使った料理でもっともなじみがあるのが、海苔巻きでしょう。
 海苔巻き寿司ができたのは江戸時代です。
 にぎり寿司は、文政年間にできたと言われていますが、海苔巻きは、それよりも50年ほど早い安永の頃にはもう作られていたと言われ、天明の頃には流行していたといわれています。
 それが、文化・文政期になると、ますます海苔巻きが好まれ、屋台でも売られたりするようになりました。
 屋台の寿司が流行しだすと、手間のかかる太巻きに代わって簡単に巻き上げられる細巻きが現れました。
 守貞謾稿には海苔巻の図が描かれ「干瓢を巻きこむ」とあります。
 こうして江戸っ子たちは海苔巻きに親しんでいったのです。
 
焼き海苔 
 c0187004_16203127.jpg 焼き海苔は、乾した海苔の裏表をていねいに焼いたものです。焼き上げた海苔の艶が美しく、風味もよく、海苔をもっともおいしく味わうことのできる食品です。
 焼き海苔をはじめてつくったのは大森の海苔商人三浦屋田中孫左衛門という人で、弘化元年(1844)にガラス瓶に詰めて売り出したそうです。
 その後しばらく中断していましたが、明治初年に山形屋の5代目窪田惣八が、「貯蔵(かこい)海苔」の名で発売しました。
 海軍が買い上げたこの海苔が遠洋航海でも変色変味しなかったことから評判となり、多くのお店で販売され始めました。
 この海苔が、明治中期から「焼き海苔」と呼ばれるようになったのです。
 写真は、山本山の焼き海苔です。

味付け海苔  
 味付け海苔を開発したのは、山本海苔店です。
 c0187004_1602827.jpg 明治2年に、明治天皇が京都に行かれる際に、皇太后へご進物として持っていくものとして、山本海苔店2代目山本徳次郎が開発しました。
 山本徳次郎は、品川猟師町で作られていた「薬味海苔」を参考にして「色紙海苔」として納めたところ、すごく賞賛されたそうです。
 「薬味海苔」とは抄(す)く直前にみりん、しょうゆ、山椒、陳皮、唐辛子等を入れたものだったそうです。
 これが、味付け海苔の始まりですが、初期は注文製造でしたが、明治中期以降店頭でも販売されるようになったそうです。
 なお、このお話は宮下章の「ものと人間の文化史、海苔」に基づきます。
 写真は、山本海苔店の味付け海苔です。
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by wheatbaku | 2014-09-26 08:53 | 江戸の食文化 | Trackback
浅草海苔(江戸の食文化)
 今日は、浅草海苔 について書いていきます。

 浅草海苔は、海苔の代名詞でもありますが、江戸時代から、江戸の名物でした。
 江戸名所図会には
 『大森・品川等の海に産せり。これを浅草海苔と称するは、往古(いにしえ)かしこの海に産せしゆえに、その旧称を失わずしてかく呼びこ来たれり。(中略)諸国ともに送りてこれを産業とするもの夥(おびただ)しく、実に江戸の名産なり』
 と書かれています。

c0187004_22637.jpg 浅草海苔の名前の由来は、浅草周辺の海で採られ、作られ、売られたからだというのが通説ですが、天海大僧正が付けたという説もあるようです。
 浅草海苔が採られるようになったのは、東都歳時記によれば、徳川家康が江戸に入府する前後にあたる元亀・天正の頃からだそうです。
 採れた場所は、最初は浅草の周辺ですが、そのうち、葛西で採れた海苔が浅草に送られ浅草海苔と称されました。さらに、海苔の需要が増えると、浅草周辺での生産が追いつかなくなり、品川で採れた海苔が浅草で加工され浅草海苔とよばれるようになりました。


 浅草で浅草紙と呼ばれる漉き返し紙が製造され始めたのは、延宝年間(1673~1681)または天和年間(1681~1684)と言われています。
 浅草紙の漉き場は、橋場や今戸にあったようです。
 そして、浅草海苔の製法も、浅草紙の製法と似ており、浅草海苔の抄き場も橋場にあり、今戸に近い山の宿や花川戸にあったようです。
 そして、浅草海苔が作られ始めたのは享保年間といわれており、浅草紙より遅いとされています。
 以上から、浅草海苔は、浅草紙の製法を基礎にして、浅草紙と同じやり方で製造されるようになったのは間違いないようです。 

 
 江戸時代の中期になると、海苔の養殖が始まります。これは増大する需要に対応するためであったと思われます。
c0187004_14351975.jpg  養殖の開始時期については、諸説があり、最も早いものは延宝・天和(1673~1684)とする説が有り、最も遅い説は享保2年(1717)としています。
 宮下章氏の「海苔」では、元禄時代から養殖が始まり享保2年に基礎が築かれ、延享3年(1746)に盛んになったとしています。 
 海苔養殖のきっかけは、生簀(いけす)を囲む木の枝や笹竹に海苔が付くのを見て、木の枝や笹竹などを品川の浅瀬に建て始めたことからだと言われています。
 養殖のための木の枝などはヒビやヒビソダと呼ばれました。
 ヒビ材はナラが最もよく、次いでケヤキや竹がよいとされました。

名所江戸百景「南品川鮫洲海岸」 
c0187004_2272922.jpg  ヒビが建てられている様子は品川の名物になっていたのでしょう。
 歌川広重の名所江戸百景の中で「南品川鮫洲海岸」として描かれています。
 左の浮世絵がそれです。
 鮫洲海岸は、南品川から大森にかけての海岸を言います。広重の時代には。鮫洲海岸が海苔の養殖の中心になっていました。
 絵の広い範囲にヒビがかかれていて、海苔を採取している様子も描かれています。
 海苔を養殖する時期は冬ですので筑波山の上には雁が飛んでいます。
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by wheatbaku | 2014-09-25 08:20 | 江戸の食文化 | Trackback
八百善②(江戸の老舗)
 今日も、引き続き、先日お邪魔した八百善について書いていこうと思います。
 八百善の様子は、一緒にお邪魔したひまつぶしさんとお気楽マダムさんもそれぞれご自分のブログに書いていますのでご覧になってみてください。

 ひまつぶしさん 「過去・現在・未来」 
 お気楽マダムさん 「お気楽マダムの奮闘記」

  さて 今日は八百善で見させていただいた文化財についてご案内します。
c0187004_851122.jpg  その前に、八百善の建物について、11代目栗山雄太郎様から伺ったお話を書きます。
  右写真が、八百善の建物ですが、大変風格のある建物です。
  こちらは、明王院が管理している建物だとは聞いていましたが、お寺の建物とは思えない風情のある建物です。
  実は、この建物は、大正時代に建てられた某経済人の所有するものだったそうです。、それが、縁あって明王院が管理するものとなりました。
 そして、バブル時代には料亭として利用されていたこともあるそうです。
 なるほど、やはり、風格のある建物だと感じさせられる歴史があるんだと思いました。

c0187004_8513149.jpg  八百善には、多数の額や書が掲示されていましたので、今日は、それらをご紹介します。
 まず、大田蜀山人が書いた歌です、

 
  ちはやふる かみすきばしを 夕こえて 八百善にてや 月まつち山

 
 と書かれています。
 八百善の御主人10代目栗山善四郎様のお話では、こうした歌・俳句・詩・書といった類は、八百善の天井や壁や襖に、直に書かれているものが多かったそうです。
 4代目栗山善四郎は、そうした歌や書の一部を切り取って保存をしたそうです。
 山谷の八百善は、関東大震災で焼失してしまいましたが、このようして4代目が軸にしてくれたため、大田蜀山人の歌も残されたのだそうです。
 この歌は、八百善の営業案内にも使用されています。


c0187004_8524444.jpg 松平不眛公の額も掲示されていました。
 「安膝堂」と書かれています。 「膝を安んじる御堂」という意味だそうです。
 山谷の八百善は、江戸時代、いくつかの建物が建っていたそうです。
 そのうちの一つに、松平不眛公が「安膝堂」と名付け、額にしてくれたそうです。
 10代目栗山善四郎様のお話では、八百善は、関東大震災の際に焼失しましたが、火がつくまでに、2時間の猶予があったそうです。
 そのため、多くの貴重なものを持ち出すことができたようです。
 この額も、大震災の中で、八百善の人たちが守り抜いたものかもしれません。

 
c0187004_8532272.jpg 食事が終わり、最後に、11代目となる栗山雄太郎様に、酒井抱一の「鶴かけの松」の絵などは残っていませんでしょうかと尋ねました。
 すると「鶴かけの松」は残っていませんが、酒井抱一の書いた書で残っているものがありますとのことで、その書を特別に見せていただきました。
 別室ですが、抱一と署名されている書がありました。。「不老亭」と書かれています。


c0187004_8534747.jpg その部屋では、もっと貴重なものを拝見させていただきました。
 それは「徳川屏風」です。 文政10年に、11代将軍徳川家斉が世子の家慶とともに八百善に御成になった際に、その席に飾られた屏風だそうです。
 この屏風は将軍家が八百善に持ち込んだもので、御成が終わった後に、そのまま八百善に下賜されたものだそうです。
 左手には五つの葵の御紋が散らされていて、右手には扇面が描かれていました。


c0187004_8541490.jpg 八百善では、大変貴重なものを拝見させていただきました。
 私も、江戸の老舗を訪ねた際には、江戸時代から残されているものがあるか尋ねますが、多くの老舗が関東大震災や戦災で焼失してしまい残っていないと言われます。
 そうした老舗が多い中で、これだけの書や額がのこっているのは大変貴重だと思います。
 私も大変うれしかったのですが、ご一緒した皆さんも大変よろこばれていました。
 無理なお願いにもかかわらず御了承していただいた11代目の栗山勇太郎様ありがとうございました。
 最後までお見送りをいただき、かえって恐縮した次第です。
 帰り際にお写真を撮らさせていただきました。
 勇太郎様本当にありがとうございました。


 最後に、この記事を読まれて、八百善に行ってみたいと思われた方のため、八百善の営業案内を載せておきます。
 これに、大田蜀山人の歌 
  ちはやふる かみすきばしを 夕こえて 八百善にてや 月まつち山
が使用されています。
c0187004_85708.jpg

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by wheatbaku | 2014-09-22 08:59 | 江戸の老舗 | Trackback
  

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