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司馬遼太郎「峠」文学碑(北越戦争レポート⑮)

司馬遼太郎「峠」文学碑(北越戦争レポート⑮)

 今日で、北越戦争レポートを終了させてもらいますが、最後は、司馬遼太郎の「峠」文学碑について書きます。

 河井継之助(つぎのすけ)が全国的に有名になったのは、司馬遼太郎が「峠」を書いたからでしょう。

 その「峠」文学碑は、榎峠を望める「越の大橋」の西詰に設置されています。(下写真)

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 長岡駅からも小千谷駅からも遠い距離にあるので、車を使用していくしかないと思います。

越の大橋は、信濃川に設置されている妙見堰に沿って平成五年に架橋されました

「峠」文学碑は、榎峠や朝日山に対峙して設置されています。

「峠」文学碑をみて、ふりかえると榎峠や朝日山が眺められます。

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「峠」文学碑の表面には、次のよう「峠」のなかの一文が刻まれています。

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   峠

               司馬遼太郎

  

 主力は十日町を発し、六日市、妙見を経て

榎峠の坂をのぼった。坂の右手は、大地が信

濃川に落ちこんでいる。

 川をへだてて対岸に三仏生村がある。そこ

には薩長の兵が駐屯している。その兵が山

腹をのぼる長岡兵をめざとくみつけ、砲弾

飛ばしてきた。この川越えの砲弾が、この

方面の戦争の第一弾になった。 

 これは、ごくありふれた文学碑の形式です。

 しかし、「峠」文学碑の裏側には、この文学碑のために司馬遼太郎が書いた一文があるのが特徴です。(下写真)

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 司馬さんは、文学碑建設の話が小千谷市から依頼があった際、即座に快諾したそうです。そして、文学碑のために新たに一文を寄せてそうです。

 それが文学碑の裏面の一文です。全文がつぎのように刻まれています。

「峠」のこと

 江戸封建制は、世界史の同じ制度のなかでも、きわだ

て精巧なものだった。

 17世紀から270年、日本史はこの制度のもとに

あって、学問や芸術、商工業、農業を発展させた。この

島国のひとびとすべての才能と心が、ここで養われた

のである。

 その終末期に越後長岡藩に河井継之助があらわれた。

 かれは、藩を、幕府とは離れた一個の文化的、経済的な独

立組織と考え、ヨーロッパの公国のように仕立てかえよ

うとした。継之助は独自な近代的な発想と実行者という

点で、きわどいほどに先覚的だった。

 ただこまったことは、時代のほうが急変してしまった

のである。にわかに薩長が新時代の旗手になり、西日本

の諸藩の力を背景に、長岡藩に屈従をせまった。

 その勢力が小千谷まできた。

かれらは、時の勢いに乗っていた。長岡藩に対し、ひ

たすらな屈服を強い、かつ軍資金の献上を命じた。

 継之助は小千谷本営に出むき、猶予を請うたが、容れ

られなかった。

といって屈従は倫理として出来ることではなかった。

となれば、せっかく築いたあたらしい長岡藩の建設をみ

ずからくだかざるをえない。かなわぬまでも、戦うとい

う、美的表現をとらざるをえなかったのである。

 かれは商人や工人の感覚で藩の近代化をはかったが、

最後は武士であることにのみ終始した。

武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみ

ごとに表現しきった集団はいない。運命の負を甘受し、そ

のことによって歴史にむかって語りつづける道をえらん

だ。

「峠」という表題は、そのことを小千谷の峠という

地形によって象徴したつもりである。書き終えたとき、

悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴

るのを聞いた。

 

平成5年11月             司馬遼太郎

 

 私は、この一文を読む前は、「峠」は当然のことながら「榎峠」という具体的な峠を指しながらも、江戸から明治にかわるという時代の「峠」を意味させているのだろうと思っていました。

しかし、司馬さんは、もっと深いところまで考えていたということだけはわかりましたが、全部は・・・・ う~ん、難しい。

ただ、この文学碑に寄せた司馬さんの文章を読んで、「峠」のあとがきに河井継之助(つぎのすけ)がなくなった後、従僕松蔵が骨拾いをする場面が描かれている理由がなんとなくわかった気がします。

「峠」のあとがきは、河井継之助が亡くなった時のエピソードをわざわざ入れるという不思議なおわりかたをしています。
 少し長くなりますが、あとがきの最後の部分を書き上げておきます。

継之助は、つねに完全なものをのぞむ性格であったらしい。

かれは死に、その死体は、かれの下僕松蔵の手で焼かれた。その遺体を焼いているときはすでに津川口が敗れ、官軍が接近しているときであり、見まもるひとびとは気が気ではなかったが、松蔵は灰のなかからたんねんに骨をひろいあげた。松蔵はそのとき泣きながらいった。[あのような旦那さまでございますもの。もし骨のひろい方が足りないで、これ松蔵や、貴様のそこつのためにおれの骨が一本足りぬ、などとあの世に行ってから叱られては松蔵は立つ瀬がございませぬ」といったという。

 書き終えて、筆者もまた松蔵の怖れを自分の怖れとして多少感じている。いくらかの骨を灰の中にわすれてきてしまっているかもしれないのである。


 司馬さんは、「峠」を書き終わっても、河井継之助(つぎのすけ)の悲しみを書き終わっていないという忸怩たる思いが残ったつまり文学碑に寄せた文章の中にある書き終えたとき、悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴るのを聞いた」 のであとがきに松蔵の骨拾いのエピソードをいれたんのではないだろうかと私は思い当りました。


長岡を訪ね河井継之助(つぎのすけ)ゆかりの地を訪ねたこと、そして北越戦争のことを、約1か月にわたって長々とかいてきました。

この間、鶴ヶ島小ツルさんはじめ数多くメールで感想をいただきました。

これらが、大変、レポートを書いていくうえで、励みとなりました。

誌上を借りてお礼申し上げます。

明後日からは、最後の戊辰戦争「箱館戦争」ゆかりの地函館に取材旅行に行ってきます。

函館でも、榎本武揚や土方歳三たちについて新たな発見があるだろうと楽しみにしています。



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by wheatbaku | 2017-07-31 15:46 | 『幕末』 | Trackback
河井継之助(つぎのすけ)死す(北越戦争レポート⑭)

河井継之助死す(北越戦争レポート⑭)

 

今日は、河井継之助(つぎのすけ)の負傷死について書きます。
 下写真が、河井継之助(つぎのすけ)のお墓です。

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 慶応4年7月25日、河井継之助(つぎのすけ)は、八丁沖渡渉作戦を成功させて、長岡城を見事に奪還しました。

 長岡城内にいた新政府軍は、信濃川の西岸に退却していきましたが、長岡城北方には薩摩藩を中心とした新政府軍がいました。この部隊は、長岡藩はじめ同盟軍を総攻撃する準備を整えていたため、八丁沖渡渉の奇襲で一瞬ひるんだもののすぐに態勢を整えて反撃にでて、長岡藩兵と激戦を繰り広げました。

この時の戦いで、河井継之助(つぎのすけ)は、流れ弾に左膝の下あたりを撃ち抜かれ、重傷を負ってしまいました。

河井継之助(つぎのすけ)が負傷した日については、7月25日の戦いの中で負傷したと書いてあるものと7月26日の新町の戦いで負傷したと書いたものがあり、どちらが正確か不明です。

この負傷により、これ以降、河井継之助(つぎのすけ)は前線での指揮が不可能となりました。

 河井継之助(つぎのすけ)自身は、怪我の治療を拒否するとともに、負傷したことは全軍に秘密にしました。

一方、信濃川西岸の関原に集結した新政府側の諸隊をまとめた山県有朋は、薩摩・長州・を中心に部隊を再編成し、7月29日の早朝、長岡城総攻撃を開始しました。

 指揮官河井継之助(つぎのすけ)が負傷したことは、少しずつ長岡藩兵の間にひろがり士気はさがる一方、河井継之助(つぎのすけ)のかわりに全軍を統率できる指揮官がなく、新政府軍の攻撃に耐えられす、栃尾、見附方面に退却しました。

治療も拒ばみ見附において戦況を見定めていた河井継之助は、いよいよ同盟軍が会津を指して退却する段になると、8月2日に見附を立ち、担架に乗って八十里越に差しかかりました。

峠を越える時に「八十里こしぬけ武士の越す峠」と自嘲気味の句を詠んだといいます。

「こしぬけ」とは、「腰抜け」と「越(越後)を抜ける」がかけられています。

 河井継之助(つぎのすけ)は、八十里越を経て8月12日、塩沢(福島県南会津郡只見町塩沢)に到着しましたが、容態が悪化し、16日の午後8時ごろ、静かに息を引き取りました。

河井継之助(つぎのすけ)の遺骸は、塩沢で荼毘にふされました。

遺骨は、従僕松蔵によって、会津若松に運ばれ、藩主父子が滞在している建福寺に仮埋葬されました。

 福島県只見町塩沢の医王寺には、残された細骨を集めて埋葬されたお墓が建てられているそうです。

 建福寺に仮埋葬された河井継之助(つぎのすけ)は、明治3年に河井家の菩提寺である長岡の栄凉寺に埋葬されました。

 栄凉寺は、藩主牧野家の菩提寺でもあります。(下写真)

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 河井継之助(つぎのすけ)の墓は、かつては、河井継之助(つぎのすけ)を恨む人々により破壊されたことがあるそうで、墓の隅が欠けていました。(下写真)

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 河井継之助(つぎのすけ)が傷ついた身体を担架にのせて運ばれた八十里越えは、余りにも急峻な峠であるため、一里が十里にも感じられることからその名前がついたといわれています。

 この八十里越えは、現在は国道289号線となっていますが、現在でも、人も通行できない部分があるほどの状態で、当然車も通行できません。そこで、現在国土交通省が開通をめざして改築工事中です。



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by wheatbaku | 2017-07-28 20:13 | 『幕末』 | Trackback
八丁沖渡渉作戦(北越戦争レポート⑬)

八丁沖渡渉作戦(北越戦争レポート⑬)

 今日は北越戦争のハイライト、八丁沖渡渉作戦について書きます。

 八丁沖というのは江戸時代に長岡城の北東方向にある南北約5キロ東西約3キロの大沼沢地です。

 明治以降の干拓工事により、現在は、広大な水田地帯となっていますが、現在でも大雨が降ると水を被ることがよくある地域だそうです。

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今町陥落は、新政府軍に大きな衝撃を与えました。

 参謀山県有朋は、防衛ラインを今町から南に後退させ、現在の長岡市北郊の田園地帯に新たな防衛ラインを構築しました。

 一方、河井継之助は、今町の攻略以降、同盟軍との関係もあり大きな攻撃をしかることはできませんでした。

 そのため、6月2日の今町攻略戦以後、北越戦線は膠着状態が続きました。

 こうした中で、河井継之助、山県有朋はともに、膠着状態を打破する作戦を立案しました。

 数に勝る山県有朋は、7月24日を期して長岡藩および奥羽越列藩同盟軍に対して総攻撃をかけようとしました。

 一方、河井継之助(つぎのすけ)は、八丁沖の中央を縦断して新政府軍陣地のある富島に上陸し、一気に長岡城を奪還するという奇襲作戦を立案しました。

 八丁沖渡渉作戦の上陸地である富島は「八丁沖古戦場パーク」として整備されて、そこに「八丁沖古戦場の碑」(最上段写真)が建てられています。

 石碑の向こう側には、今は水田となった八丁沖が広々と広がっていました。(下記写真参照)

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長岡藩士の鬼頭熊次郎は、下級武士だったことから生活が苦しく、八丁沖で魚を捕獲して生計の足しとしていました。そのため、河井継之助(つぎのすけ)は、八丁沖の隅々まで知り抜いている鬼頭を呼んで、八町沖を偵察し、強行渡河の際は先導するよう命じました。

鬼頭熊次郎は、縦断は可能と進言し、先導の者は、鬼頭熊次郎ら士分5名と足軽5名計10名が選ばれました。

 この人たちを先導として、長岡藩兵は、武器弾薬や食料を携行しながら膝上まで泥で沈みときには匍匐して泥の上をはい、八丁沖を渡っていきました。敵に察知されれば、奇襲計画は頓挫してしまうため、物音を立てないように細心の注意を払い前進しました。

作戦当日の天気は雨ではなかったため、月が雲間から姿を表せば、全軍が沼地に身を伏せて月が隠れるのを待ったそうです。

 こうして、先頭部隊は25日の午前2時頃には富島村から数十メートル手前の地点に到着しました。しかし、長岡藩兵は、ほとんど一列縦隊での前進したため、先頭部隊は沼地に伏せた状態で後続部隊の到着を待ちました。長岡藩の600名もの兵士が八丁沖をわたりきるのに6時問前後をかかったそうです。

 こうして、新政府軍に気づかれずに八丁沖を渡った長岡藩勢は、午前4時、富島の新政府軍を攻撃しました。

 この時、先導を勤めた鬼頭熊次郎は上陸時の戦いで命を落とします。

 「八丁沖古戦場パーク」近くの日光社の境内には「鬼頭熊次郎顕彰碑」が建てられています。(下写真)

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新政府軍は八丁沖の中央を縦断してくるとは全く予想していませんでした。それは当然だと思います。当時の八丁沖は葦の生い茂る沼地で、しかも例年より降雨量が多かったため、沼地も深くなっていたと思われます。
 そのため、富島村の新政府軍部隊は、完全に不意を衝かれ、また、寝込みを襲われた守備隊は、ほとんど抵抗することもなく退却していきました。

新政府軍の抵抗がないなか、長岡藩兵は、夜が明けるころには長岡城下に突入し、長岡城奪還にも成功しました。

奇襲を受けた新政府軍の西園寺公望、山県有朋らの驚きはひと通りではなく、錦旗を守るのが精一杯で、信濃川西岸の関原方面へ退却していきました。

長岡藩の将兵は、長岡の町民だちとともに戦勝を祝しましたが、長岡藩側の勝利は一時的なものでした。

 すぐに新政府軍の逆襲が始まったのです。

 それについては、次回、書きます。


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by wheatbaku | 2017-07-26 21:57 | 『幕末』 | Trackback
今町の戦い(北越戦争レポート⑫) 

 今町の戦い(北越戦争レポート⑫) 

今日は、北越戦争のうちの「今町の戦い」について書きます。 

今町は、長岡市の北側の見附市にあります。6月に長岡を旅行した時には時間がなくて行くことができませんでした。

慶応4年5月19日に長岡城が落城しました。

しかし、長岡藩と河井継之助(つぎのすけ)は、そのまま敗北したわけではありません。

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 河井継之助(つぎのすけ)は、一旦、栃尾に退却しました。

 新政府軍は、追撃するほどの余力はありませんでした。

 長岡城陥落しましたが、榎峠や朝日山を死守してした部隊は損害はありませんでした。

 しかし、挟撃される恐れがあるため、榎峠や朝日山の部隊も栃尾に退却しました。

 河井継之助(つぎのすけ)は、栃尾に集結した長岡藩兵をまとめて、栃尾に橋頭保を築きました。

 一方新政府軍の山県有朋は、少人数で一気に長岡藩勢や同盟軍を叩き潰す作戦はとらず、慎重な作戦をとりました。

 そのため、与板から長岡まで長い距離に軍勢を配置し、長岡藩と同盟軍に対置させました。

そこで、河井継之助(つぎのすけ)は、栃尾から賀茂に軍勢を移動させました。

 河井継之助(つぎのすけ)にとって、長岡城は焼失していることから、大きな防衛拠点とはなりませんが、長岡城を奪還すれば、長岡藩勢ばかりでなく奥羽越列藩同盟全体の士気もあがることから、長岡城奪還を大きな目標としました。

 そのために、長岡城に近づくことが重要であり、賀茂から長岡城下にいたる途中にあり、新政府軍が重要な前進補給基地と位置づけていた今町を攻撃する作戦を立案します。

 河井継之助は、隊を3つに分けて今町をめざす戦術をとりました。

 6月2日、河井継之助(つぎのすけ)は、今町の新政府軍への攻撃を開始します。

中央は、家老の山本帯刀が率いる部隊が進みます。この部隊は新政府軍を牽制する役割を果たしました。そして河井継之助(つぎのすけ)は、右翼から進む主力部隊の指揮を自ら取りました。さらに、左翼は、米沢藩の別働隊が進みました。

今町にいる長州の三好軍太郎率いる高田・尾張藩兵を中心とする軍勢は、中央から攻める牽制隊を主力部隊と錯覚し、この部隊を攻撃しました。

敵兵の注意が牽制隊に向けられている隙に、河井継之助(つぎのすけ)が指揮をとる主力部隊が新政府軍を攻撃しました。

 兵力の点では圧倒的に劣る同盟軍でしたが、敵陣を3方から取り囲み攻撃をかけるという河井継之助(つぎのすけ)の作戦が見事に成功し、新政府軍を敗走させ、軍監三好軍太郎も負傷しました。

 この今町の戦いでの勝利を踏まえて、いよいよ、北越戦争では最も名高い「八丁沖渡渉作戦」が実施されることになります。

 「八丁沖渡渉作戦」については次回書きます。


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by wheatbaku | 2017-07-24 22:05 | 『幕末』 | Trackback
長岡城落城(北越戦争レポート⑪)



長岡城落城(北越戦争レポート⑪)



今日は、長岡城の落城について書きます。


 榎峠と朝日山を奪取した長岡藩に対して、新政府軍は即座に反撃を行うことができませんでした。

 この攻防戦が行なわれた時期は、新暦でいえば6月でちょうど梅雨時にあたります。

 通常の年であっても、雨が多く川が増水する時期ですが、慶応4年の梅雨は、例年よりも雨量が多かったそうです。そのため、信濃川の水量が増していて、新政府軍は、容易に攻撃をしかけることができませんでした。

 一方、長岡藩にとっては、増水した信濃川が、新政府軍の西からの攻撃を防ぐ外堀の役割を果たしていました。

 そのため、両軍とも、信濃川を渡河しての大規模な戦闘は行われず、信濃川を挟んで砲撃戦が展開されていました。

 そのため、しばらくの間、持久戦の様相をみせていました。


 そうした中で、河井継之助(つぎのすけ)は、5月19日の深夜、長岡城下南郊の前島村(長岡市前島町)から強行渡河して小千谷を攻略するという奇襲作戦を考え、19日には約600名の奇襲部隊が前島村への集結を完丁していました。

 一方、新政府軍の山県有朋も、信濃川を強行渡河して長岡城を直接攻撃する奇襲作戦を立案します。

 新政府軍は、高田に集結した後、山道軍と海道軍と分かれて、山道軍が長岡へ向かいました。そして海道軍は海岸沿いに柏崎をめざしていました。海道軍は閏427日に鯨波で桑名藩と戦った後、出雲崎に駐屯しています。

 山県有朋は、この海道軍に依拠して、19日の早朝を期し、信濃川を強行渡河して長岡城西方の中島に上陸し一気に長岡城を攻略する作戦を立案しました。


 そこで、山県有朋は出雲崎にいた海道軍の軍監三好軍太郎に相談しました。長州藩士であった三好軍太郎は大賛成でした。しかし、薩摩側には、梅雨で増水した信濃川を渡河するのは無謀だという消極論もありました。新政府軍側の薩長の内輪もめがあったようです。


 河井継之助(つぎのすけ)と山県有朋が立案した奇襲作戦は奇しくも同日である29日決行でした。しかし、先に実行したのは、新政府軍側でした。

 新政府軍は、19日早朝に攻撃を開始しました。

 長州藩兵を先鋒とする新政府軍は、激流渦巻く信濃川を渡って、対岸の中島周辺に上陸しました。当日は、朝霧が濃く立ち込め、新政府軍の行動を隠蔽したことから、抵抗を受けることなく、信濃川を渡河しました。

 長岡市中島1丁目には、「西軍上陸の地」と名付けられた史跡が残されています。(下写真)

 教育委員会の説明板には「慶応4年(1868)の5月19日早朝、戦機を失うことをおそれて、西軍は洪水の信濃川を強行渡河して、長岡城を攻撃する策を立て、ここ中島に上陸した。長岡軍は必死に防戦したが、総退却し、ついに長岡城は落城した。長岡城最大の悲劇となった落城発端地点である」と書いてありました。

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また、長岡市渡里町にある西福寺には「維新の暁鐘」と呼ばれる梵鐘が残されています。

この鐘は、長岡城が落城した519日の早朝、新政府軍の侵攻を城下に知らせるため、一藩士が鐘楼にかけのぼり、この鐘を乱打したといわれています。(下写真)

しかし、長岡藩側は、梅雨による信濃川の増水に頼っていて、信濃川を渡河して長岡城が直接ねらわれるとは全く思っていませんでした。そこで、榎峠・朝日山などの藩境に軍勢を集中していて、長岡城下には、軍勢が配置されていませんでした。城下に配置されていたのは老人兵や少年兵が多かったそうです。

 そのため、防御力はあまりなく、やすやすと防衛ラインを突破されていきました。

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河井継之助(つぎのすけ)は、新政府軍側の奇襲攻撃の知らせを受けると、みずから摂田屋の本陣から馬で城下に向かい、新政府軍を前にして、ガトリング砲を大手門の前に配置し、みずから射撃手となって敵をなぎ倒そうとしたものの、左肩に銃撃をうけ城中に退かざるをえませんでした。

このため、長岡藩首脳部は城の死守を断念し、藩王の牧野忠訓と前藩主の忠恭は、会津を目指して栃尾方面へ脱出し、河井継之助(つぎのすけ)も城に火をかけ栃尾へ向かいました。





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by wheatbaku | 2017-07-21 17:29 | 『幕末』 | Trackback
榎峠・朝日山の戦い(北越戦争レポート⑩)

 榎峠・朝日山の戦い(北越戦争レポート⑩)

 今日は、北越戦争でおける長岡藩と新政府軍の最初の戦い「榎峠・朝日山の戦い」について書きます。

小千谷会談に失敗したため、河井継之助(つぎのすけ)はついに新政府軍との開戦を決意しました。

河井継之助(つぎのすけ)は、5月3日、長岡城の南にある摂田屋村の光福寺に諸隊隊長を集めて、開戦を決意したと演説しました。 下が光福寺です。

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そして、5月4日に、それまで明確な回答を与えていなかった奥羽列藩同盟に参加しました。ただし、河井継之助記念館の稲川館長が書いている「長岡城燃ゆ」によれば、『仙台戊辰史』などによると長岡藩が奥羽越列藩同盟に加わったのは慶応4年5月4日になっているが、長岡藩側の記録には奥羽越列藩同盟に加わったことについて触れた資料は一切ないとのことです。

これにより、長岡藩外で戦っていた会津藩や桑名藩、衝鋒隊などの部隊を、長岡藩内に迎えいれました。55日には、会津藩兵が、摂田屋の本陣に到着します。

長岡では、6日から9日まで暴風雨が続いたため、長岡藩と同盟軍が軍事行動を起こしたのは10日のことでした。

5月9日に長岡城で河井継之助(つぎのすけ)は、同盟諸藩らとの戦略協議を行ない、戦略的要所である榎峠を攻撃することにしました。

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 長岡城から南に下ると小千谷との境に、榎峠および朝日山という軍事的な要衝があります。

河井継之助(つぎのすけ)は、小千谷会談の前に意図的に、榎峠から長岡藩兵を引き上げていました。そのため、5月3日に、すでに新政府軍が押さえていました。

長岡城の西側は信濃川が流れています。榎峠は長岡城から見て信濃川の手前にあり、新政府軍の本営が置かれた小千谷は信濃川を挟んで対岸にありました。

そのため、河井継之助(つぎのすけ)は信濃川で分断されている榎峠・朝日山の新政府軍を攻撃し占領したのち、小千谷を攻撃しようとしました。

榎峠は、三国街道の難所として有名な場所で、峠の下は断崖となって信濃川に落ち込んでいました。下写真は榎峠古戦場パークの写真です。写真の右側を走るが現在の三国街道ですが、江戸時代には、左手の山の上を三国街道が通っていました。

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長岡城下を進発した会津・桑名藩兵と旧幕臣の古屋佐久左衛門率いる衝鉾隊は、摂田屋村の同盟軍本営で長岡藩兵と合流し、榎峠をめざします。

榎峠を守る新政府軍は上田藩の1小隊と尾張藩の1小隊でしたが、同盟軍は、三国街道を南下する隊と山地を迂回する隊とに分かれて進撃しました。長岡藩軍事掛の萩原要人が率いる街道部隊は、榎峠を攻撃。同じく長岡藩軍事掛の川島億二郎の迂回部隊は、榎峠の新政府軍を背後から攻めました。

長岡藩兵および同盟軍は榎峠を占領しました。

翌11日、新政府軍は小千谷からの反撃を開始しますが、会津藩の佐川官兵衛らの働きもあり、同盟軍はこれを撃退し、さらに榎峠の南東にある朝日山を占領しました

開戦時、柏崎から小千谷に向かっていた山県有朋は、榎峠の銃声を耳にし、急ぎ小千谷の本営に駆けつけました。しかし、岩村精一郎ら現地幹部は給仕をはべらせて呑気に食事をしている有様たったため、激怒した山県有朋は、彼らの膳を蹴り上げて怒鳴りつけ、岩村精一郎から指揮権を剥奪したとも言われています。

 山県有朋は、自分と同じく奇兵隊出身の時山直八とともに前線を視察し朝日山が重要という点で一致しました。
 下写真は、越の大橋から撮った榎峠方面の写真ですが、奥側に少し高く見える山が朝日山です。

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しかし、時山直八が奇兵隊だけで戦うことを主張したのに対して、山県有朋は全軍で戦うべきだと主張し、援兵を連れてくるため、いったん小千谷に引き上げました。

 5月13日(司馬遼太郎の「峠」では5月12日としてありますが、ここでは河井継之助記念館の稲川館長の13日説をとっておきます)早朝、濃霧が立ち込める中、戦機到来と判断した時山は、山県有朋が援軍をつれて帰るのを待たずに、手元にいる奇兵隊200余名だけで、朝日山攻撃を開始しました。

朝日山を守っていたのは桑名藩雷神隊の隊長立見鑑三郎(尚文)などの部隊です。

立見鑑三郎は、際立った指揮ぶりで新政府軍を迎え撃ち、新政府軍の時山直八も雷神隊の銃弾に倒れ戦死しました。 

この際、時山直八の部下は時山の首だけを持ちかえったそうです。

朝日山をめぐる攻防戦は、同盟軍側の完全勝利に終わりました。後に陸軍元帥までのぼった山県有朋も大きな衝撃を受けた戦いでした。

この時に詠んだ山県有朋の短歌がそれを如実に表しています。

 仇(あだ=敵)守る 峠のかがり 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風


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by wheatbaku | 2017-07-19 21:02 | 『幕末』 | Trackback
河井継之助が休息した「東忠」(北越戦争レポート⑨)

河井継之助が休息した「東忠」(北越戦争レポート⑨)

 河井継之助(つぎのすけ)は、小千谷会談で岩村精一郎から冷たくされても、すぐにあきらめたわけではないようです。

 

 司馬遼太郎の「峠」によれば、慈眼寺でも、また宿に戻っても、繰り返し再会談を申し込んでいます。しかし、その度に拒絶されています。

 実際は、「峠」に描かれたほど繰り返されたかは疑問のようですが、河井継之助(つぎのすけ)は再会談の申し入れをしているようです。
『決定 河井継之助』では、「翌朝、本陣前まで行くが、相手にしてもらえずそのまま帰った」と書かれています。

 『河井継之助の真実』では「新政府軍として出兵している加賀・尾張・松代などの諸藩の重役に嘆願書受の仲介の労を取ってほしいと交渉。だか、河井の願いを拒絶している。河井は、慈眼寺の山門の周辺を深夜までウロウロしていたという」と書いてあります。

 新政府軍としては、小千谷の北方に迫る会津藩を中心とした奥羽列藩同盟軍との戦いに気がとられたという面があると思います。

 また、新政府軍に参加した諸藩としては、恭順を示している立場であり、あまり長岡藩に肩をもつと、あらぬ疑いをかけられるという心配もあったものと思われます。
 こうした河井継之助(つぎのすけ)の再会談の申し入れも拒絶され、ついに談判は不調となります。

 小千谷会談の後、新政府軍との工作を続けるため、河井継之助(つぎのすけ)が休息・待機したのが慈眼寺近くの料亭「東忠」です。

 この料亭「東忠」が現在も小千谷に残されています。しかも気軽に食事を楽しめましたので、ランチを食べてきました。

 東忠は1730年頃(享保ごろ)に創業されたと伝えられる歴史のある料亭です。

 新潟県出身の田中角栄もしばしば利用したと言われています。
 下の写真が、本館全景ですが、国の有形文化財に登録された建物です。

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以前は、「一見さん、お断り」という格式の高い料亭だったそうです。 

 しかし、こうしたことから経営不振となり、昨年の秋に、一旦営業をやめたそうですが、今年の5月から営業を再開したとのことです。

以前の経営方針をすっかり変えて、だれでも気軽に楽しめるお店をめざして「居食亭(いしょくてい) 東忠」に名称を変更して営業をしています。

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その通り、ランチは千円台で、ずいぶん安いと感じました。ランチは4週類ありましたが、私は「継之助御膳」を頼みました。

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「継之助御膳」には河井継之助(つぎのすけ)が書した「桜飯」がついてきました。

「桜飯」と呼ばれるものは、刻んだ味噌漬けの大根をご飯のうえにのせたご飯ですが、味噌漬けの大根がまるで桜の花弁のようだったので桜飯と呼ばれ、河井継之助(つぎのすけ)が大変好んだと伝わっているそうです。

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「桜飯」には、味噌漬けの大根を炊きこんだご飯もあるようです。

河井継之助をしのびながら、ゆっくり味わっていただきました。

 食事の後、河井継之助(つぎのすけ)が談判の継続を望んで待機していたと言われる「梅の間」を見させてもらいました。

 3階の大変眺望のよい場所にありました。

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 河井継之助(つぎのすけ)は、この部屋で、どんな気持ちで時を過ごしたんだろうと思うと、明るく差し込んでいた日の光が、一瞬、曇ったように感じました。



 


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by wheatbaku | 2017-07-13 15:01 | 『幕末』 | Trackback
慈眼寺(北越戦争レポート⑧)

 慈眼寺(北越戦争レポート⑧)

 河井継之助(つぎのすけ)と岩村精一郎の会見いわゆる小千谷会談が行われたのが慈眼寺です。

 慈眼寺には、会見の間以外にも見所がありますので、今日は、それをご紹介します。

 慈眼寺は、JR上越線小千谷駅からだと小千谷駅と小千谷市の中心街の間には信濃河が流れているため、かなりの距離があります。 

 私は、行きはタクシーで行き、帰りは歩いてみましたが、徒歩だと30分弱かかりましたので、タクシーで往復するのがよいと思います。

さて、慈眼寺は、正式には船岡山観音院慈眼寺慈眼寺と呼ばれ、寺伝によれば、天武天皇の白鳳年間薩明大徳によって、国家鎮護の道場として創建されたといわれています。

小千谷市でも指折の古いお寺だそうですが、小千谷どころか新潟県でも屈指の歴史を誇るお寺ではないでしょうか。

そんな歴史を誇る慈眼寺には、弘法大師ゆかりの観音様が鎮座されています

境内にある船岡観音堂のご本尊の聖観世音御菩薩です。

下写真が、観音堂です。

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この観音様は、平安時代の大同年中たまたま教えを弘めにこの地にやってこられた弘法大師が、衆生済度を念じて、一刀三礼、これを彫刻したものと伝えられています。

中越地震までは、住職一代に一度だけ御開帳していたそうですが、現在は常時開帳されています。下写真が観音堂内の写真です。

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 この観音様は、江戸で出開帳されています。

 元禄4年(1691)には、ご本尊様の出開張したところ、参拝の善男善女が押しかけて引きも切らず、ついに開帳が60日に及んだといいます。

この評判を聞いて5代将軍徳川綱吉も、わざわざ参詣して、供養料に和歌一首を書いた扇子を添えて奉納されました。

この扇子は、いまも寺宝として、この寺に残っているそうです。

本堂内の会見の間の次の間に、この扇子の写真が掲示されていました。(下写真)

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 慈眼寺の山門も見事なものでした。

江戸時代以前のものと思う風格がある山門ですがで、明治25年に建築されたものです。平成27年に国の有形文化財に登録されました。

河井継之助が訪れた際には一回り小さい山門があったようです。

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本堂の前には、岩村河井会見記念碑が建てられています。

この石碑は、慶応4年5月2日、慈眼寺で、河井継之助(つぎのすけ)と岩村精一郎が会見し談判した史実を記念して、昭和14年(1939年)、慈眼寺住職船岡芳快師の発願によって建てられたもので、碑文は徳富蘇峰の撰、篆額と書は、小千谷市出身の島田博の筆だそうです。

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by wheatbaku | 2017-07-11 20:50 | 『幕末』 | Trackback
小千谷会談(北越戦争レポート⑦)

小千谷会談(北越戦争レポート⑦)

今日から、いよいよ北越戦争について書いていきます。

 河井継之助(つぎのすけ)は、軍制改革を行い軍備の充実を図ってきました。しかし、これは新政府軍と戦うためではなく、中立を維持するためだったと言われています。

 しかし、5月2日に行われた河井継之助(つぎのすけ)と岩村精一郎との会談(これが小千谷会談と呼ばれています)が決裂したことにより、長岡藩は、新政府軍に抗戦せざるをえないこととなります。

 今日は、この有名な小千谷会談について書いていきます。

 下写真は、河井継之助(つぎのすけ)と岩村精一郎の会談が行われた小千谷慈眼寺の会見の間です。

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 新政府軍では、北陸道鎮撫総督兼鎮撫使に任じられた高倉永砧が、閏4月25日、薩長に加賀・富山・長府の諸藩兵を加えて海路を越後高田に向かい、5月8日に高田に到着しました。総督軍には、薩摩の黒田清隆と長州の山県有朋が参謀として参加していました。

また、北関東から越後に入った旧幕府軍の衝鉾隊を追撃してきた土佐藩の岩村精一郎が率いる尾張・信濃の兵も、越後高田周辺に集合しました。

 

慶応4年3月15日、北陸道鎮撫総督は、越後11藩の重臣を高田に集合させました。

その際に長岡藩に対して会津攻めに出兵するか3万両の軍用金を献納するよう求めました。

長岡藩の藩論は新政府への恭順か抗戦かで二分されました。

しかし、長岡藩はいまだ新政府側、列藩同盟側のいずれにつくのか、態度を明らかにしませんでした。

河井継之助(つぎのすけ)は自分の立場は明らかにしないで、一方では恭順派の重臣を退け、一方で主戦派の暴発を抑えていました。
 下写真は、慈眼寺の会見の間に掲げられていた河井継之助(つぎのすけ)の肖像画です。

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閏4月19日、高田に集結した新政府軍は、柏崎から新潟をめざして海岸線を進む海道軍と十日町から小千谷をめざす山道軍に分れ進攻を開始しました。この山道軍を率いていた軍監が土佐藩士の岩村精一郎でした。

閏4月26日に河井継之助(つぎのすけ)が軍事総督に任命されました、

閏4月27日、山道軍は、当時、会津藩の飛び地であった小千谷を占領しました。

 慶応4年5月2日の早朝、河井継之助(つぎのすけ)は、軍目付の二見虎三郎と従僕2人を従え、小千谷にある北陸道鎮撫総督の本営に向かいました。

 この時、越後に駐留していた会津藩は、長岡藩が新政府へ恭順することを恐れ、会談の妨害を図って新政府軍を攻撃しました。

この時、長岡藩も一緒に攻撃していると見せるため長岡藩旗を戦場に持ちこみ、長岡藩が作戦に参加しているかのように見せかけたともいわれています。

戦いが間近に迫る殺伐とした状況の中で、小千谷に到着した継之助は、本営近くの慈眼寺に案内されました。

下写真が、慈眼寺の本堂です。

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現在も小千谷の慈眼寺の本堂には、会見の間が残されています。それが冒頭の写真です。しかし、ここは中越地震で壊滅的な被害を受けました。それが多くの善意により復興されたそうです。その感謝をこめて、本堂の会見の間は拝観料をとらずに公開しているそうです。

会談場所の本堂の会見の間には、継之助ひとりが通されました。

 新政府側で会談に臨んだのは、土佐藩の軍監岩村精一郎です。

 下写真は、会見の間に掲げられていた岩村精一郎の写真です。

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この岩村精一郎に同席したのが薩摩藩の淵辺直右衛門、さらに長州藩の杉山荘一郎と白井小助です。

  まず継之助は、出兵・献金の求めに従わなかったことを謝罪し、藩論が割れていることや会津・桑名・米沢など列藩同盟の諸藩が長岡城下にきてに新政府へ抵抗すべきであると迫っていて戦争になる恐れがある。しかししばらく猶予をもらえれば、会津等の諸藩を説得できる。だから進軍は見合わせて欲しい」と訴えました。

そして、藩主名の嘆願書を提示し、大総督府への取り次ぎを懇願しました。

 しかし、岩村精一郎はまったく取り合おうとしませんでした。

河井継之助は、繰り返し嘆願をしましたが、岩村精一郎は、河井継之助(つぎのすけ)の申し出を拒否し、わずか30分ほどで席を蹴ってしまいました。

小千谷会談の時、河井継之助(つぎのすけ)は42歳でした。それに対して軍監岩村精一郎は、親子ほども年齢の離れた、血気にはやる24歳の青年でした。
 経験の浅い岩村精一郎の対応がよくなかったといわれています。

 のちに岩村精一郎は、河井継之助(つぎのすけ)を「よくいる門閥出身の馬鹿家老の一人が戦争停止を嘆願するために来たと思いこんで、ほとんど頭ごなしに河井継之助(つぎのすけ)の要望をとりあわなかった」と回想しています。

 また、品川弥二郎は「会談に岩村のような小僧を出さずに、北越政府軍参謀であった黒田清隆か山県有朋を河井と合せたら戦争をせずに済んだかもしれぬ」と言っています。

 新政府軍側でも、悔いののこる会談結果だったのでしょう。



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by wheatbaku | 2017-07-09 11:46 | 『幕末』 | Trackback
河井継之助の藩政改革(北越戦争レポート⑥)

河井継之助の藩政改革(主に禄高改正)(北越戦争レポート⑥)

長岡レポートの6回目は、河井継之助(つぎのすけ)が行なった藩政改革について書きます。

 河井継之助(つぎのすけ)が行なった藩政改革のうち、私が一番注目したのが、禄高改正です。詳しくは後で述べますが、これは画期的なことだと思っていました。そうしましたら、思いがけず江戸検お題のテキスト『疾走!幕末・維新』に河井継之助(つぎのすけ)の行った藩政改革のなかでこのことが取り上げられています。

 そこで、禄高改正を中心に藩政改革について、取り上げることにします。

河井継之助(つぎのすけ)がどのように藩政改革を進めたのかについて具体的に紹介した資料は見当たらないと『決定版河井継之助』の中で稲川館長さんは書いています。

そこで、河井継之助(つぎのすけ)記念館には河井継之助(つぎのすけ)が行なった藩政改革についてまとめた資料が展示されていましたので、それに基づいて説明します。

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その展示資料では河井継之助(つぎのすけ)が行なった藩政改革を8つにまとめていました。

つまり、①軍制改革と禄高改を行う。②賄賂の慣習をやめさせる。③贅沢を一掃する。④免税制度の不正をやめさせる。⑤河税を廃止する。⑥造士寮を創設する。⑦賭博を禁止する。⑧遊郭を廃止する。の8項目です。

 河井継之助(つぎのすけ)は慶応元年10月に郡奉行となっています。

 この時代に行った藩政改革は、②賄賂の慣習をやめさせる。(慶応元年10月実施)、③贅沢を一掃する。(慶応元年10月実施)④免税制度の不正をやめさせる。(時期は不明)だと思われます。

そして河井継之助(つぎのすけ)は、慶応2年11月に町奉行を兼務することになりました。

その時代に実施された主に民政面での改革が、⑤河税を廃止する。(慶応3年12月実施)、⑥造士寮(人材育成機関)を創設する。(慶応310月実施)、⑦賭博を禁止する。(時期不明)、⑧遊郭を廃止する。〈慶応3年12月実施〉です。

 こうした藩政改革を踏まえて、大政奉還から王政復古の大号令そして鳥羽伏見の戦いでの旧幕府軍の敗北という激動する時代に対処するために行われたのが、①軍制改革と禄高改正です。

 このうちの禄高改正は、慶応4年3月1日に発表されています。

 禄高改正と軍制改革については、それについて詳しく書いてある『河井継之助の真実』(外川淳著)を参考に書いていきます。

禄高の改正は大改革でした。藩士の禄高を百石前後に統一しようというものです。

河井継之助(つぎのすけ)は長岡藩の軍制を根本から変えるために、まず藩士の禄高の百石に統一しようと考えました。

 江戸時代の武士は、禄高を主君から与えられる見返りとして、軍役にもとづいて平時には家臣を扶養し、戦時には一定数の家臣を連れて合戦に出陣する義務を負っていました。ところが、泰平の時代が続き、武士が実際に軍役を負担することがなくなり、さらに生活が困窮するにつれて、軍役の負担は形骸化していきます。

河井継之助(つぎのすけ)は、軍役が形骸化している以上、上級家臣に必要以上の禄高を与えることは無駄と判断し、藩士の基本給を百石に統一しようとしました。

また、戦国時代までは、上級武士は家来を引き連れて戦いましたが、近代的軍隊では、上級武士も一兵卒として戦わねばならません。

そこで、河井継之助(つぎのすけ)は、「上級武士でも戦場では一兵卒として戦う」という意識を一人一人に植えつけるため、藩士の禄高を百石に統一しようとしたとも考えられています。

しかし、百石への統一という改革は急激な改革であり、藩内の反発も予想されるため、実際の慶応4年3月1日の禄高改正では、2千石の稲垣家は5百石、20石の下級武士は50石というふうに柔軟に対応しています。

「疾走!幕末・維新」では、藩主への権力を集中するために行ったと書いています。

その通りですが、私は、さらに進んで、武士の役割をも否定し封建体制を崩壊させてしまうという側面もある画期的な改革だと思います。

 続いて河井継之助(つぎのすけ)が実施した軍制改革について書きます。

 河井継之助(つぎのすけ)は、身分別に士分を銃士隊、足軽以下を銃率隊という定員36名とする小隊を基礎単位としました。そして8小隊で1大隊を構成しようとしました。河井継之助(つぎのすけ)は小隊を32個編成しようとしましたので、総数で4大隊・総定員約1100名の軍隊を編成しようとしたことになります。 

 しかし、実際の軍勢は千名ぐらいと言われているようです。

また、兵器では、ミニエー銃(前装式のライフル銃)を各小隊に配備しました。

すでに、日本には後装式ライフル銃や連発銃も輸入されていましたので、最新鋭ではありませんでしたが、当時としては一定の評価ができる軍備といえると思います。

戊辰戦争当時の東北諸藩の中には、戦国時代さながらの軍装で出陣した藩もあるなかで、たとえ千名であっても、新政府軍に対抗できる小銃を保有し、近代戦の訓練を受けた兵士でしたので、長岡藩はかなりの戦力を保持していたということになります。



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by wheatbaku | 2017-07-06 08:47 | 『幕末』 | Trackback
  

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