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潮入りの池周辺の見どころ(浜離宮11)
 今まで、浜離宮について10回にわたりご案内しましたが、最後に潮入りの池周辺の見どころをまとめて案内して、浜離宮のご案内を終わりにしたいと思います。

c0187004_9385981.jpg 潮入りの池の西側に「八景山」と名付けられた小高い丘があります。
 この丘からは、中島の御茶屋や燕の茶屋など潮入の池を中心とした眺めのすばらしい8カ所をみることできたことから八景山と名付けられました。
 その八景とは、中島の御茶屋、三丈ケ岡、富士見山、塩浜、御亭山、観音堂、海手茶屋 燕の茶屋でした。

 八景山の南側、中島の御茶屋に架かる橋の手前に「吉宗ゆかりのトウカエデ」があります。。
c0187004_9451662.jpg トウカエデとは、漢字で書くと「唐楓」です。
 江戸時代享保年間に中国から渡来したのでトウカエデ(唐楓)と呼ばれたといいます。
 享保年間と言うと、将軍は八代将軍吉宗の時代です。
 享保6年(1721)、八代将軍徳川吉宗に清国の船がトウカエデ6株を献上し、1株は小石川御薬園(現・小石川植物園)に、5株は浜離宮に植えられたと伝えられているそうです。
 トウカエデはカエデの一種ですので、秋には紅葉をしますが、非常に見事な紅葉のようです。

c0187004_9402116.jpg トウカエデを過ぎて潮入りの池の西南端脇の樹木の中に「観音堂と鐘楼跡」があります。
 現在は石段だけしか残されておりませんが、この奥に「観音堂と鐘楼」がありました。
 11代将軍家斉の頃は「晩鐘が響き渡る観音堂」と当時の景色を描写しています。
 本尊は慈覚大師・円仁の作と伝えられ、狩野派の絵師によって描かれた絵馬も掲げられていたそうです

c0187004_9403769.jpg 潮入りの池の南端には「富士見山」があります。
 西南の方向に富士山が見えたので富士見山と名付けられていますが、いまは見えません。
 北東の方向にははるか房総の山、そして北には筑波山がみえたそうです。
 もともとは、最南端に築かれていましたが、幕末に砲台が設置されたため、ここに移されたといいます。
 






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by wheatbaku | 2014-06-19 08:14 | 大江戸散歩 | Trackback
象の飼育場所跡(浜離宮10)
 浜離宮の10回目です。
 今日は、象の飼育場所跡について、ご案内します。

 浜離宮では、江戸時代、象が飼育されていたことがあるというとほとんどの人がびっくりします。
c0187004_8524599.jpg 象といえば、現代でも、動物園でみられるだけです。
 それが、鎖国の時代に、江戸にいたなんて多くの人は思いもよりません。
 まして、それが浜離宮にいたなんて想像もできません。

 しかし、現に、吉宗の時代に、浜離宮で像が飼われていたのです。
 その場所は、現在は花木園となっているあたりです。
 右写真の正面が休憩所ですが、この左手辺りで象が飼われていました。
 象は、外国の物産に非常に興味をもっていた吉宗が所望して、広南(いまのベトナム)から取り寄せたのです。
 享保13年(1728)6月13日に、広南から、中国の貿易商鄭大成により 雄雌2頭の象が長崎にやってきました。
 雄は7歳、 雌(めす)は5歳でした。
 雌(めす)は長崎に到着後まもなくに死亡してしまいました。
 翌年3月13日、ベトナム人の象使い2名と中国人の通訳2名とが付いて、雄の象が、江戸にやってきました。
 途中、京都では中御門天皇と霊元上皇の上覧がありました。
 この時、上覧には官位が必要なことから、象に『広南従四位白象』の官位が与えられました。
 享保14年4月28日のことでした。
c0187004_853325.jpg この時、中御門天皇は、「時にしあればひとの国なるけだものもきょう九重にみるがうれしさ」と、そのよろこびを和歌にしています。
 そして5月25日江戸に到着し、27日は,江戸城大広間車寄で吉宗が上覧しました。
 その後、ゾウは浜御殿にて飼育されていましたが、12年後の寛保元年(1741)4月、中野村の源助に払い下げられ、翌年12月に21歳で病死しました。
 中野の宝仙寺には、馴象之枯骨(じゅんぞうのここつ)として、戦前まで象の頭骨や牙などが保存されていましたが、昭和20年の空襲で一部を残し焼失してしまったそうです。

 この像が、長崎から江戸に旅する様子を書いた「象の旅―長崎から江戸へ」(石坂昌三 新潮社刊)という本もあります
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by wheatbaku | 2014-06-18 08:50 | 大江戸散歩 | Trackback
松の御茶屋(浜離宮9)
 今日は、松の御茶屋についてご案内します。

 松の御茶屋は、浜離宮中央の潮入りの池の脇に建っています。
c0187004_8381540.jpg 松の茶屋は、建てられた年ははっきりしていないようですが、11代将軍徳川家斉により建てられました。
 松の茶屋の名前は、周囲に多くの松が植えられていたという説、茶屋内部の障子類のすべてに谷文晁により松が描かれていたという説があります。 
 この茶屋は池の近くにあり、右下写真のように眺望に恵まれているので、将軍や来客に利用されることが多かったようです。
 右下写真は、松の御茶屋から中島の御茶屋方向を眺めたものです。
c0187004_8403480.jpg しかし、 昭和19年11月29日の空襲により焼失してしまいました。
 その後しばらく再建されませんでしたが、平成22年に1億4千万円かけて復元されました。
 戦前の建物の礎石が残されていたため、その上に、当時の建物・調度と同じものを極力作るというスタンスで再建されたため、復元と呼ばれています。

 通常は非公開ですが、木曜日の午後、特別公開されています。
c0187004_8384036.jpg その公開にいって内部を見てきました。
 松の茶屋の建築面積は、63.62平方メートル(約9.9メートル×約6.4メートル)あります。
 また、建物棟高 5.234メートルだそうです。
 建物の内部の間取りは、西側が10畳で、東側は13畳となっています。
 公開の際には、西側が入り口となっていますが、江戸時代には、将軍たちは、東側の廊下から入ったそうです。
 右上写真では、奥が東側になります。人物が立っている辺りから将軍が中に入ったそうです。

 復元には、伝統技法が駆使されています。
c0187004_8385942.jpg 室内には、丸窓が設けられていますが、この丸窓は、「漆の呂色仕上げ」が施されています。
 「呂色仕上げ」というのは、漆を塗って木炭で研ぎ出す作業を繰り返す技法です。これを繰り返しすことによって深い黒味を出すことができるそうです。
 また、丸窓の周辺の壁は、「張り付け壁」という技法を用いてあります。
 これは、和紙を貼った板を壁にはめ込み、黒い漆を塗った細い角材で壁に固定する伝統技法です。
 この茶屋の「張り付け壁」に貼られている和紙は「泥間似合紙」といい、雁皮(がんぴに:紙の原料)に粘土を混ぜて漉いたもので、丈夫で燃えにくい紙です。

 松の御茶屋周辺には、鷹の御茶屋跡(藁葺の茶屋)や燕の御茶屋跡もあります。
 鷹の御茶屋跡(藁葺の茶屋)は、 寛政7年(1795)に11代将軍徳川家斉が、この庭園の鴨場で鷹狩りを行う時の休憩所として設けました。
c0187004_8391574.jpg 茶屋の名前は、鷹狩りをする際の休憩所というかことに由来します。
 この茶屋の特徴は、鷹狩りの装束のまま休息するために、土間を広くとり、土間の中央には囲炉裏があり、 自在かぎには茶釜がかけてあったそうです。
 材木も、松、杉を用いて農家の雰囲気を出すようされていたようです。
 別名を藁葺の茶屋というのは、そうした田舎屋の風情から付けられたと言います。
 昭和19年(1944)11月29日の空襲により焼失してしいました。
 鷹の茶屋跡は、休憩所となっていますが、あちこちに礎石が残されています。

 また、燕の御茶屋は、現在、再建工事中です。 
 11代将軍徳川家斉が建てましたが、昭和19年11月29日第二次 大戦の空襲により焼失しました。
 数寄屋風で、眺望にも優れているため茶座敷として使われたようです。
 この名前は、室内の釘隠しの金具の形が燕の姿であったという説と燕子花(かきつばた)
の形でその一字「燕」を取ったという説も伝わっています。
復元工事は27年3月には完了するので、来春には復元された茶屋を見ることができます。
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by wheatbaku | 2014-06-13 08:36 | 大江戸散歩 | Trackback
中島の御茶屋とお伝い橋(浜離宮⑧)
 今日は、浜離宮の中心的な建物である「中島の御茶屋」についてご案内します。

 中島の御茶屋は、宝永4(1707)年に、6代将軍家宣によって建てられました。
c0187004_9222659.jpg その後、8代将軍吉宗の時代の享保9年(1724)に焼失し、天明8年(1788)家斉が再建しました。
 浜御殿に来た将軍をはじめお客様が、ここで庭園の景色を楽しんだ休憩所です。
 御茶屋というのは、先日も書きましたが、御茶室ではないので、お茶を喫するだけでなく、食事も摂りましたし、会話も楽しんだり、休憩もしたりして多目的に使用された建物でした。 c0187004_9224830.jpg 中島の御茶屋からの眺めもよく、江戸時代には海のなたに房総を望めることができ、夕涼みや月見にも使われたようです。
 また、中島の御茶屋では、将軍やお客様は、魚釣りを結構楽しんでいたようです。
 御茶屋の周囲の池は、潮入りの池で、海水ですので、ボラなどの海の魚を釣りあげることもできました。
 魚を釣り上げると各自がそれぞれ将軍に見てもらい、その大きさを競うこともあったそうです。
 明治になり、明治天皇が第18代アメリカ大統領グラント将軍を謁見したのも、この中島の茶屋です。
 その時の絵が掲示されています。(右写真参照)

 中島の御茶屋も昭和19年11月29日の空襲で焼失していまいました。
 現在の建物は、昭和58年に、日本宝くじ協会の支援を受けて復元されたものです。
c0187004_9273878.jpg  面積は161.565㎡ 最高高さ4.545 軒高 3.333あります。
  以前の屋根は杮葺でしたが、再建後は銅板葺としてあります。
  また、もともと土台はありませんでしたが、再建されたものは土台があります。
  使用した材木はすべて国産品だそうです。ただし、詳細は不明です。
  中島の御茶屋は、現在は無料の休憩所となっていて、だれでも入ることができますし、抹茶・和菓子セット(有料)をお楽しむこともできます。

c0187004_9231375.jpg 「中島の御茶屋」まで架けられている橋をお伝い橋といいます。
 お伝い橋 は、宝永4年(1707)、徳川家宣によって架けられ ました。
 お伝え橋から中島の御茶屋を眺めると、距離が84mあり、「建築物として識別できる限界距離95m内」であるため、「中島のお茶屋」が印象深く眺められる状況にあったと言われています。
 また、「お伝い橋」と「中島のお茶屋」の間にある水面に映し出された橋と茶屋の姿は、風趣に富んでいます。
 お伝い橋は、何度も掛替が行われていますが、現在の橋、は平成24年に竣工し、橋長約118メートルで高知県産の総桧造りです。

c0187004_9232964.jpg お伝い橋の中間に小さな島があります。
 この小さな島は「小の字島」と言います。
 島と左右に並ぶ島の形が、漢字の「小」の字になっていますので「小の字島」と呼ばれています。
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by wheatbaku | 2014-06-12 09:23 | 大江戸散歩 | Trackback
庚申堂鴨場(浜離宮⑦)
 浜離宮の第7回は、庚申堂鴨場のご案内です。

 浜離宮には、庚申堂鴨場と新銭座鴨場という二つの鴨場があります。
 このうち庚申堂鴨場は、浜離宮の中央部にあり、新銭座鴨場は浜離宮の南西隅にあります。
c0187004_8525675.jpg 鴨場というのは、野生の鴨などを狩猟するための施設です。
 鴨場の施設があるは、現在では、全国で5ケ所しかないとのことですが、東京では浜離宮だけにあります。
 その他、東京近辺では、宮内庁が持っている埼玉県越谷市の「埼玉鴨場」と千葉県市川市の「 新浜鴨場」の2か所があります。

 庚申堂鴨場は、10代将軍家治が作ったもので、安永7年(1778)に作られました。
 庚申堂鴨場がある場所には、鴨場となる前には、8代将軍吉宗が建てた5代将軍と6代将軍の側室三人の館がありました。
c0187004_8531545.jpg 三人の側室と言うのは、5代将軍綱吉の側室であった通称大典侍(おおすけ)と呼ばれた「寿光院」、6代将軍家宣の側室で名は須免と呼ばれた「蓮浄院」、そして同じく家宣の側室で古牟と呼ばれた「法心院」の三人です。
 この三人の側室の館が焼失していたため、その跡地を鴨場に変えました。
 庚申堂鴨場というの、この鴨場の北東側に、家宣が建てた庚申堂があったことに由来します。
 11代将軍家斉は、鷹狩が大好きでしたので、ここを大いに利用しました。
 家斉の浜御殿への御成は合計248回にも及び、そのうち67パーセントは鷹狩だったそうです。
 また12代将軍家慶も浜御殿に99回御成になり、そのうち46パーセントが鷹狩だったようです。
 しかし、ペリー来航後は将軍といえども鷹狩で遊んでいる余裕はなくなり、幕末にから明治の初めにかけて、鴨場は荒廃しましたが、明治になって新たに整備され昭和19年まで使用されました。

 鴨場は、元溜りという大きな池と数本の「引堀」という引き込み水路からなっています。
元溜りという大きな池は。周囲に樹木の生い茂った土手をめぐらし、鴨たちが安心して休息できるようになっています。元溜りには、訓練された囮のアヒルが放されます。
c0187004_8534176.jpg  元溜りは、樹木に覆われているため、全体を見渡せることはできません。
 私達はみることができるのは、引き込み水路の「引堀」です。(右二段目写真)
 その「引堀」の先端には「小覗(このぞき)」と呼ばれる遮蔽物があります。(右最上段写真)
 この「小覗」から、板木をたたきながらヒエやアワなどの餌が引堀に撒かれます。
 (右写真は「小覗」の拡大写真ですが、右端に写っているのが板木です。)

 餌が食べられるので、囮のアヒルが引堀に入ってきます。そして、アヒルの後を野生の鴨も後をついてきます。
c0187004_8535977.jpg 小覗で鴨の様子を確認し鷹匠やお客様に手信号で知らせます。
 鷹匠とお客様は引堀をはさむようにして配置につき、小土手に片足をかけ、びっくりして逃げようとする鴨を捕獲します。
 江戸時代には、鴨を捕えるのは鷹でしたが、明治になってからは叉手網(さであみ)で捕えました。
 叉手網の見本も展示されていました。
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by wheatbaku | 2014-06-11 08:52 | 大江戸散歩 | Trackback
海手御茶屋(浜離宮⑥)
 今日は、浜離宮の6回目です。
 「将軍お上り場」を過ぎて「新樋の口山」の脇を通って進むと「水門」が見えてきます。

 「水門」は、浜離宮の中にある泉水の海水の出入りを調整しています。
c0187004_15232528.jpg 浜離宮にある池は、「潮入りの池」と呼ばれています。
 「潮入の池」というのは、海水を池の中に導きいれて、潮の満(み)ち干(ひ)によって池周辺の景観の趣を変えるもので、海辺の庭園で多く用いられていた様式です。
 旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園、旧安田庭園なども昔は潮入の池でした。
 しかし現在、実際に海水が出入りしているのは、浜離宮だけです。
 水門は、潮の干潮を利用して池の水位を上下させ、 庭の趣に変化を持たせるように作られた「潮入の池」にはなくてはならないものです。

 横堀沿いに進み、「海手お伝い橋」まで来ると海側に、礎石があります。
 これが「海手(うみて)御茶屋跡」です。
c0187004_15234596.jpg 海手御茶屋は、別名汐見の茶屋といい、宝永4年(1707)、徳川家宣が、舟遊びや漁夫達の漁の様子を見る為に建てた休憩所です。
 海手御茶屋は、関東大震災で焼失してしまい、現在は礎石が残されているだけとなりました。
 茶屋は、浜御殿にいくつもありました。
 茶屋というと、茶室をイメージする人もいますが、浜離宮の茶屋というのは、茶室とは異なります。茶室は、茶を楽しむためのものですが、浜離宮の茶屋は、会話を楽しんだり、食事をとったりする場所で、いってみれば休憩所です。
 海手御茶屋は、海沿いに設けられていて、遠くの海の風景を見られるように遠メガネいまでいう望遠鏡ですが、それも用意されていたそうです。
 最も海の眺望にすぐれていたため、浜離宮を訪れた人は、必ずここを訪ねたそうです。
 ちなみ、浜離宮を江戸時代に訪ねた人の平均滞在時間は約12時間だそうです。
 ですから、いってみればほぼ一日中、ここで過ごしたことになります。
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by wheatbaku | 2014-06-10 08:19 | 大江戸散歩 | Trackback
将軍お上り場(浜離宮⑤)
 今日は、「浜離宮」の5回目で、「将軍お上り場」のご案内です。

 「 将軍お上り場」は、将軍が船で浜御殿に来た際に上陸する場所です。
c0187004_9465957.jpg 11代将軍家斉は、隅田川で遊覧した後に浜離宮に寄ったり、直接、江戸城からここに船で来りしたようです。
 将軍が乗った御座船は、「天地丸」といい、船の科学館に模型が展示されています。
  この御座船「天地丸」は、3代将軍家光が御座船として建造したものです。
 「天地丸」は、数回にわたる大修理がされていますが、文久2年(1862)に廃船となるまで、230年間以上、将軍の御座船として利用されました。
 「天地丸」は廃船から12年後の明治7年撮影の写真も現存しているそうです

 この「将軍お上り場」は、13代将軍家定までは、浜御殿で遊覧するための楽しい上陸地点でしたが、14代将軍家茂と15代将軍慶喜にとっては悲しみの上陸地点でもありました。
c0187004_9472313.jpg 14代将軍家茂は、3回上洛しています。
 第1回目と第3回目は陸路で上洛し、第2回目は海路で上陸しましたが、江戸に帰ってくる際には、3回とも、海路で帰ってきて、「お上り場」で上陸しました。特に3回目の帰還は、亡骸となっての帰還でした。
☆第1回の帰還
 文久3年5月13日昼ごろ、大坂を幕府軍艦順動丸で出航し、16日の朝8時頃、品川到着しました。
 正午頃、お上がり場に上陸した後、中島の茶屋で昼食をとり、御座船で辰ノ口まで行き、江戸城に帰りました。
☆第2回目の帰還
 元治元年5月16日大坂の天保山出航し、5月20日品川到着、浜御殿に上陸し駕籠で江戸城に帰っています。
☆第3回目の帰還
 家茂は、慶応2年7月20日に長州征伐の最中大阪城で死亡します。
 家茂の亡骸を乗せた幕府軍艦長鯨丸は、9月3日午前11時30分頃、大坂天保山を出航し、9月5日午後7時頃品川に到着し、そこで、大茶船に移され「将軍お上り場」から上陸しました。
 上陸した後は、亡骸は陸路江戸城まで運ばれました。
 大茶船というのは、一般的には、沖に停泊した大型の廻船の積荷を移し換え、河岸や物揚げ場との間を往復するはしけのことを言います。

 
 また15代将軍慶喜は、鳥羽伏見の戦いで敗れ、大阪城から、会津藩主松平容保や桑名藩主松平定敬、老中板倉勝静らごく少数の人たちと軍艦開陽丸で江戸に逃げ帰り、慶応4年1月12日8時30分過ぎに「将軍お上り場」に上陸しました。
 勝海舟らの出迎えを受け、浜御殿に上陸したのを出迎えた勝海舟は、慶喜に対して「敗戦の責任はあなたにある」といったそうです。
 また、慶喜は朝食をすましていなかったため、木村芥舟から出されたビスケットで軽い朝食をとった後、騎馬で江戸城に向かいました。

c0187004_9474363.jpg 現在は「お上り場」は、「将軍お上り場」一カ所だけですが、江戸時代は、すぐ近くにもうひとつの石段があり、そこが、家臣たちが上陸する場所で「御付お上り場」と呼ばれていました。
 この「御付のお上り場」は、昭和24年のキティ台風の際に海中に崩れ落ちてしまい、その後復元されていません。
 しかし、干潮の時には、その「御付のお上り場」の痕跡をみることができます。
 右上写真の左下段の石塊が「御付お上り場」の痕跡です。
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by wheatbaku | 2014-06-07 12:30 | 大江戸散歩 | Trackback
船蔵跡と灯台跡(浜離宮④)
 浜離宮の4回目は、「水上バス発着所」と「灯台」のご案内をします。

 浜離宮は、いまでは、すっかり庭園ですが、江戸時代には、庭園だけでなく、幕府水軍の拠点でもありました。
 水上バスの発着所がある地区には、江戸時代は、幕府の水軍の拠点がありました。
 発着所の場所には船蔵があり、発着所の北側に船手組屋敷があり、南の端には、船の通行や船荷をチェックするための船番所がありました。
c0187004_11144345.jpg 浜御殿が、水軍の基地となったのは、江戸湾では、浜御殿前面の海だけが深く、浜御殿は江戸湾口から隅田川への唯一の航路に面していたという理由があるように思います。
 航路の深さは約1間だったようでした。

 水上バスの発着所は、実は江戸時代の船蔵の跡を利用したものです。
 水上バスは、昭和28年に、許可されましたが、水上バスの発着所をよくみると、船蔵のなごりがあります。
 船を御船蔵に格納するためには、海から坂になっている必要がありますが、それが確認できるのです。
 右上写真をご覧ください。右端が水上バスの桟橋ですが、石垣と地面が斜めになっているのがおわかりいただけると思います。

 江戸時代を通じて水軍の基地であったことから、浜離宮は、幕末になると、幕府海軍の基地となりました。
 嘉永6 年(1853) には、浜離宮に24ポンドカノン砲5門が設置されました。
 慶応2年には、浜離宮が海軍所となり、ここを管理していた浜御殿奉行の職務が海軍奉行に受け継がれています。
 さらに、慶応3年には築地から軍艦操練所が移転していきています。
 軍艦操練所は、海軍の士官を育てる教育機関です。
 浜離宮は、幕末は、のんびり遊ぶ庭園というより、有事に備えた海軍の基地だったようです。

c0187004_11151877.jpg 水上バス発着所の先には、灯台跡があります。
 ここには、三重県の安乗崎に明治9年に建設された木造の洋式灯台が、昭和24年に移され設置されていました。 昭和30年に横浜港に移されました。そのため、礎石だけが残っています。
 安乗崎灯台は、現在は、船の科学館で保存展示されているそうです。
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by wheatbaku | 2014-06-04 09:00 | 大江戸散歩 | Trackback
浜離宮の歴史(浜離宮③)
 今日は、浜離宮の三回目ですが、「延遼館」の説明と浜離宮の歴史をご紹介します。

 浜離宮のサービスセンター後ろには、広い芝生広場があります。
c0187004_1135487.jpg ここには、明治時代の初期、迎賓館として使用された「延遼館」が起っていました。
 延遼館は、当初、慶応2年に海軍所の建物として建設を開始され、明治2年に完成した日本最初の洋風建築でした。
 それは、延遼館と名付けられました。延遼館とは遠来の客を引き寄せる宿舎という意味を表しているそうです。
 延遼館は、コの字形をした建物で、明治16年に鹿鳴館ができるまでは迎賓館として利用されました。
 明治12年、第18代アメリカ大統領グラント将軍が引退後来日した際には、延遼館に2ケ月も滞在し、明治天皇とも交流を深めたところとして知られています。
 当時の建物は明治20年の地震により損壊し、明治22年に取り壊されました。


 延遼館の説明板の手前に浜離宮の歴史を書いた説明板が設置されています。
 そこで、浜離宮の歴史をお話します。
 浜離宮に大きいな関係がある将軍は、6代将軍家宣、8代将軍吉宗、そして11代将軍家斉の三人です。

 浜離宮は、元々は、承応3年(1654) 3代将軍家光の次男徳川綱重が、兄である4代将軍家綱(3代将軍家光の長男)より1万5千坪の土地を賜り屋敷を構えたのが始まりです。このころは、「浜屋敷」「海手屋敷」「甲府宰相屋敷」などと呼ばれました。
c0187004_11352717.jpg 綱重の子綱豊が、宝永元年(1704)に、世継のいなかった5代将軍綱吉の養子となり、家宣と改名します。このことに、いままで甲府宰相の屋敷であったものが将軍家の別邸となります。
 家宣は、宝永6年 (1709)に6代将軍となりますが、この時に、庭園を大改修し、「浜御殿」と呼ばれるようになります。第一回目にご案内した「三百年の松」はこの時に植えられました。
            
 8代将軍吉宗は、浜御殿を、諸々の実験場所として利用しました。
 享保14年(1729)には、ベトナムから渡来した像を園内で飼育したり、オランダ人馬術師ケイズルが浜御殿に宿泊、西洋騎馬術を上覧しています。
 そして、朝鮮ニンジンやサトウキビの栽培も、浜御殿で行っています。
 また、5代将軍綱吉の側室寿光院と6代将軍家宣の二人の側室(蓮浄院、法心院)の館建設しています。

 浜離宮を、最も利用した将軍が11代将軍家斉です。
 家斉は、浜御殿に248回も御成りになったと言われています。
 その主な目的が鴨場での鷹狩りでした。
c0187004_11355391.jpg 浜離宮の中には、鴨場が二つあり、今では貴重なものとなっていますが、そのうちの一つ庚申堂鴨場は、安永7年(1778)に10代将軍家治が、三人の側室の館の跡に設けたものです。
 さらに、寛政3年(1791)11代将軍家斉が新銭座鴨場設けました。
 この二つの鴨場で、家斉は、鷹狩りを大いに楽しんだようです。

 明治になると、明治3年に浜御殿は、御庭が皇室所有となり浜離宮と称されるようになりました。
 そして、昭和20年11月3日に東京都に下賜され、「浜離宮恩賜庭園」と呼ばれるようになりました。
 昭和27年文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定されました。
 特別史跡と特別名勝の二重指定を受けているのは、東京では浜離宮と小石川後楽園の二つだけです。
 全国でも京都市の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院、奈良県の平城京左京三条ニ坊宮跡、広島県の厳島、岩手県の毛越寺庭園、福井県の一乗谷朝倉氏庭園を合わせ9ヶ所だけです。

 なお、歴代将軍の御成の回数は次のようになっています。
 5代綱吉 ゼロ、6代家宣7回、7代家継ゼロ、8代吉宗4回、
 9代家重ゼロ、10代家治19回、11代家斉248回、12代家慶99回、
 13代家定6回、14代家茂5回、15代慶喜ゼロ
 このうち、家斉の御成りの67%が鷹狩、家慶の御成りの46%が鷹狩ということのようです。
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by wheatbaku | 2014-06-03 08:30 | 大江戸散歩 | Trackback
内堀と籾蔵跡(浜離宮②) 
 今日も浜離宮のご案内です。
 浜離宮には、内堀があります。 そこで、今日は内堀のご案内です。
 
 「三百年の松」を過ぎると堀が目の前に見えてきます。これが内堀です。
c0187004_944653.jpg 庭園の中に内堀があるなんて、不思議な気がします。
 実は、浜離宮は、現在では庭園というイメージが強いのですが、江戸時代には、庭園以外に、様々な機能を持っていました。
 それは、飢饉に備えた貯蔵蔵であったり、江戸城で必要とする物資の荷揚げ場であったりしました。
 その他、水軍の拠点であったり、薬園であったりもしました。

 内堀の東側は、広場となっていますが、 ここに、江戸時代には、籾蔵がたっていたのです。(右写真参照)
 浜離宮にある内堀は、築地川とつながっていて、諸国から籾蔵に米を運ぶ運河として使用されました。 また、江戸城での必要物資を運び入れる港湾施設としても使われていました。

c0187004_845199.jpg 堀をよく見ると右写真のように石段がありますが、これは物資を陸揚げするためにつくられた石の階段です。
 現在、東京では、堀の脇に荷揚げ場が残された景色はほどんどなくなってしまいました。
 浜離宮にある荷揚げ場、身近に見られる非常に貴重な風景です。

 現在は、広場となっている場所に籾蔵を建てたのは、寛政の改革を行った老中松平定信です。 
 松平定信が、老中になる直前の天明年間には、天明の大飢饉と呼ばれる大飢饉がありました。
 この時、松平佐定信が藩主であった白河藩では餓死者がでませんでした。
 こうしたこともあって、松平定信は名君との評判がたち、老中にまでなれました。
 こうした経験から、松平定信は諸大名に対して、寛政元年(1789)に飢饉に備えて米穀の備蓄を命じました。これを「囲い米」と言います。
c0187004_8454556.jpg そして、諸大名に命じるだけでなく、幕府も寛政元年と寛政7年に、浜御殿内の内堀広場周辺に、各年それぞれ2棟、合計4棟の籾蔵を建てました。
 長さは三十五間あったようです。
 広場にある説明板(右写真)をみると、その後の変遷はあるものの、籾蔵は、昭和19年まであったようです。
 そして、昭和19年の空襲で焼失してしまいました。

 さらに、説明板に付属してある絵図をよくみると、「小普請方」と「小普請方役所」と書かれた建物がありました。
 小普請方というのは、幕府の役職の一つで、江戸城や増上寺・寛永寺、伝奏屋敷など幕府が管理していた建造物の営繕を担当した役職です。
 浜離宮に、小普請方役所があるのは、江戸城や増上寺などのほか、浜御殿も小普請方の分担とされたためだと思われます。

 なお、「小普請方」とよく似た言葉に「小普請組」というのがありますが、こちらは、200石以下の旗本。御家人が無役となった場合に編集される組織です。
 いってみれば、窓際族の人たちが所属する組織が「小普請組」です。
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by wheatbaku | 2014-06-02 08:27 | 大江戸散歩 | Trackback
  

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