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赤坂離宮に行ってきました(大江戸散歩)
 一昨日、迎賓館赤坂離宮に行ってきました。
 迎賓館赤坂離宮は、年に一度、公開されています。
 迎賓館赤坂離宮は、江戸時代には、紀州徳川家の屋敷であった場所にあります。一度は観に行きたいとおもっていた場所です。
c0187004_173174.jpg 参観は、事前申し込み制となっていますが、6月ごろ、一級2期会の極骨さんから案内をもらっていたので、申し込んでおきました。
 今回も大勢の申込者がいるため、抽選になりましたが、幸運にも拝観日26日分に当選しましたので、月曜日にいってきました。

 東京の元赤坂にある現在の迎賓館の建物は、東宮御所として明治42年に建設されました。
 片山東熊設計の、日本で唯一のネオ・バロック様式の洋風宮殿建築です。
 皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)がこの御所を使用することはほとんどなかったようですが、嘉仁親王が天皇に即位した後は離宮として扱われることとなり、その名称も赤坂離宮と改められた。
 その後、昭和天皇が皇太子の時代に、赤坂離宮は再び東宮御所として利用されました。

c0187004_173383.jpg 戦後は、国立国会図書館や東京オリンピック組織委員会などに使用されました。

 その後、旧赤坂離宮を改修してこれを迎賓施設とすることになり、昭和42年に決定され、村野藤吾が改修の指揮をとり、昭和49年3月に現在の迎賓館赤坂離宮が完成しました。

 迎賓館赤坂離宮は、現在は、国賓・公賓が宿泊するとともに歓迎行事や会談など様々な催しの舞台や東京サミットなどの重要な国際会議の舞台として使用されています。
c0187004_1742535.jpg 平成21年に、旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)本館、正門、主庭噴水等が国宝に指定されました。

 本館は、東西125メートル、南北89メートル、高さ23.2メートルあり、地上2階・地下1階の鉄骨補強煉瓦造りです。
 外壁は、すべて茨城県産の花崗岩が使用されています。

 正面玄関の屋根に兜・鎧で武装した鎧武者が一対置かれていますのが目立ちましたが、これはあたかも阿吽の仁王像のように一体は口を開け、もう一体は口を閉じているんだそうです。


c0187004_175241.jpg 入り口近くには参観順路を示した掲示板があります。
 赤坂離宮内は、外観を観た後、離宮内の各部屋を巡ります。 
 離宮内は、彩鸞の間(さいらん の ま)、花鳥の間、中央ホール、朝日の間、羽衣の間の順に拝観しました。
 その後、主庭を拝観しました。

 それでは各部屋の紹介を下に書きますが、室内は撮影禁止ですので、部屋の写真は、販売されていた絵葉書を利用してあります。

彩鸞の間(さいらん の ま)
 最初に拝観できる部屋は「彩鸞の間」と呼ばれています。
c0187004_1753690.jpg この部屋の名前は、東西の大きな鏡の上と、ねずみ色の大理石の暖炉の両脇に、「鸞」と呼ばれる架空の鳥をデザインした金色の浮き彫りがあることに由来しているそうです。
 室内は、アンピール様式であり、金箔と石膏のレリーフで装飾されています。
 そして、10枚の鏡が部屋を広く見せています。
 天井は、楕円形上のアーチ状となっていて、天幕が張られてように見えます。
 この部屋は、晩餐会の招待客が国・公賓に謁見したり、条約・協定の調印式や国・公賓とのインタビュー等に使用されています。広さは約140平方メートルあるそうです。

花鳥の間(かちょう の ま)
 天井に描かれた36枚の油絵や欄間に張られたゴブラン織り風綴織、そして壁面の七宝に花と鳥の絵が描かれていることから「花鳥の間」と呼ばれています。、
c0187004_1755148.jpg 室内はアンリー2世様式であり、腰壁は茶褐色のジオン材を板張りしており、重厚な雰囲気となっています。
 広さは約300平方メートルあります。
 この部屋は、主に国・公賓主催の公式晩餐会が催される大食堂であり、最大約130名の席が設けることができるそうです。

c0187004_1034965.jpg 壁面には木曾産のシオジ材が利用されて、30面の七宝焼きが飾れています。
 七宝焼きは、下絵は渡辺省亭が書き、濤川惣助が「無線七宝」という技術で作りあげられました。
 従来の七宝は、釉薬を挿す際の色の仕切り兼図柄の輪郭線として金線や銀線を利用していました。
 無線七宝というのは、釉薬を焼き付ける前の段階で、その輪郭線を取り外してしまうそうです。
 そこから「無線」という名前が生まれました。
 図柄の輪郭線がなくなることによって、微妙な色彩のグラデーションが生まれ、立体感のある表現や軟らかな表現を生み出すことが可能になったそうです。
 現在では、この「無線七宝」の技術を継承している人は数少なっているようです。
 右写真は、「尉鶲(じょうびたき)に牡丹」です。

朝日の間(あさひ の ま)
 天井に「朝日を背にうけた暁の女神オーロラが左手に月桂冠を持ち馬車を走らせている姿」の絵が描かれていることから「朝日の間」と呼ばれています。
c0187004_1761172.jpg 天井画は長径8.26メートル、短径5.15メートルの大きな楕円形の絵です。
 室内は古典主義様式であり、壁には京都西陣の金華山織の美術織物が張られています。
 広さは約180平方メートルあります。
 ここで国賓・公賓の表敬訪問や首脳会談などの行事が行われます。

羽衣の間(はごろも の ま)
 天井には、謡曲の「羽衣」の景趣を描いた200平方メートルの曲面画法による大壁画があります。
c0187004_1762384.jpg そのため、「羽衣の間」と呼ばれます。
 ただし、日本的な「羽衣」ではなく、西洋的な「羽衣」となっています。
 室内の内装は、古典主義様式で装飾されています。
 部屋の中央には迎賓館の中で最も大きいシャンデリアが3つあります。
 シャンデリアの重さは800キロもあります。部屋の広さは約300平方メートルあります。
 この部屋は、雨天の際に歓迎式典を行ったり、在日外交団が国賓に謁見したり、晩餐会の招待客に食前酒や食後酒が供される場所として使用されます。


c0187004_843078.jpg 本館の南側には主庭と呼ばれる西洋風庭園があります。
 庭園は、全面に化粧砂利が敷き詰められています。
 庭園に中央には、大噴水池があり、7.8メートルの噴水施設があり、噴水した時の高さは8.5メートルになるんだそうです。

 赤坂離宮に入ったら、偶然にもこの特別公開を教えてくれた極骨さんに会いました。 
 そこで、拝観が終わった後は、極骨さんと四谷で一杯ということになりました。
 極骨さん、お蔭で滅多にみられない「赤坂離宮」をみることができました。ありがとうございました。
 お酒と会話もおいしかったですよ。
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by wheatbaku | 2013-08-27 17:01 | 大江戸散歩 | Trackback
麻布高校【高鍋藩上屋敷跡】(六本木散歩)
今日は、六本木散歩に戻ります。

 テレビ朝日通りを六本木から広尾に向かってあるくと、右手に中華人民共和国大使館が見えてきます。

c0187004_1742685.jpg さらに進むと盛岡町交番があります。。その交差点を左に曲がり、南に向かうと間もなく麻布高校があります。

麻布高校は、開成高校と並ぶ私立名門校で、現在は中高一貫制の男子校です。
 麻布高校は現役国会議員出身高校ランキングでは3位(1位慶応義塾、2位開成高校)閣僚経験者出身高校ランキングでは2位(1位日比谷)だそうです。
 元総理や国会議員では、橋本龍太郎元総理、福田康夫元総理、谷垣禎一元総裁、与謝野馨、平沼赳夫、中川昭一など錚々たる人たちが卒業生です、
 その他、有名人では倉本聡、堤義明、小沢昭一、北杜夫などが卒業生です。

 ところで、江戸時代、ここは日向国高鍋藩(宮崎県高鍋町など)の上屋敷がありました。
 高鍋藩は、豊臣秀吉により筑前から秋月種実が移封されました。その後、初代藩主となる秋月種長が関ヶ原の戦いで東軍に寝返って本領を安堵されました。石高は3万石です。
c0187004_1745539.jpg この高鍋藩出身で非常に有名な人物が、米沢藩上杉家中興の祖上杉鷹山(治憲)です。
 杉鷹山は高鍋藩主の秋月種美(たねみ)の次男としてここで生まれました。
 幼名は松三郎といいました。
 母は筑前国秋月藩の黒田長貞の娘の春姫です。
 黒田長貞の正室は上杉綱憲の娘豊子です。
 つまり、母方の祖母が米沢藩第4代藩主上杉綱憲の娘でした。この
 ことが縁で、松三郎は1 0歳で米沢藩の第8代藩主・重定の養子となりました。
 重定は綱憲の長男吉憲の四男つまり綱憲の孫になります。春姫も綱憲の孫になるため、重定の従兄弟になります。

 ところで、上杉綱憲が、吉良上野介の実子であることは、既にこのブログでも書きましたので、ご存じの方が多いと思います。
 このことを思い出していただきたいと思います。
 もう一度、上杉綱憲と上杉鷹山の関係を復習すると、鷹山は、綱憲の孫の孫です。孫の孫は玄孫や「やしゃご」といいます。つまり鷹山は「やしゃご」になります。
 そして、綱憲は吉良上野介義央の子供であすから、鷹山は吉良上野介からみると「孫の孫の子」です。「孫の孫の子」は「来孫」というそうです。つまり、鷹山は、吉良上野介の「来孫(らいそん)」となります。

 有名な上杉鷹山には、吉良上野介の血が流れているんですね。驚きました。

 赤字が麻布高校です。

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by wheatbaku | 2013-04-23 07:57 | 大江戸散歩 | Trackback
専称寺(六本木散歩)
 今日は専称寺のご案内です。
 桜田神社の前のテレ朝通りを広尾に向かい2分程度のところにあります。
c0187004_17202796.jpg 寛永7年(1630年)に創建された浄土宗の寺で、沖田総司の墓があることで新撰組ファンには有名です。
 専称寺という名前は、「専らに称える」、つまり、専修念仏、称名念仏の意であるため、浄土教系の寺院に「専称寺」という名前が多くつけられているようです。

  沖田総司は、陸奥白河藩士・沖田勝次郎の長男として、江戸の白河藩下屋敷で生まれました。
 幼くして両親をなくし、姉に育てられたと言われています。
 9歳の頃に、市谷にあった天然理心流の道場「試衛館」の内弟子となりました。剣の実力は天才的とも評され、若くして試衛館塾頭を務めました。
新撰組の近藤勇、土方歳三とは同門であり、浪士組結成の際に、近藤・土方らとともに 京都に上りました。
 浪士組が江戸に戻らされた際にも、近藤・土方らと一緒に京都に残り、新選組の結成に加わりました。
 新撰組では、一番隊組長として活躍しましたが、肺結核を発病し、有名な池田屋事件の際には、戦っている最中に血を吐いたともいわれています。
c0187004_17203229.jpg  鳥羽伏見の戦い後、江戸に戻り、療養を続けましたが、慶応4年5月30日になくなりました。
 沖田総司の父沖田勝次郎は奥州白河藩の家臣で麻布の下屋敷に詰めていました。
 この専称寺は白河藩阿部家の下屋敷の藩士たちの檀家寺だったそうです。
 幕末の切絵図を見ると、阿部家下屋敷は、専称寺の西側のごく近いところにあります。
 その縁で、この専称寺に沖田総司のお墓があります。
 しかし、沖田総司のお墓詣りは制限されています。
 庫裏には、左上のような張り紙がされていて、お参りができない旨が書かれています。

 沖田総司の墓を訪れることはできませんが、寺の脇の小径から墓地の中にある墓を望むことができます。
c0187004_17211530.jpg  屋根のあるお墓が沖田総司のお墓です。
 他のお墓と比べると小さめのお墓です。しかし、きれいに整っているのは、さすが新撰組人気ナンバーワンだけのことはあります。
 通常の日はお墓参りはできませんが、新選組友の会が、年に一度「総司忌」を開催していて、総司忌には専称寺のご厚意により、お墓詣りが可能です。
 今年の総司忌は6月22日に開催されるようです。
 新撰組友の会のHPによると、今年の総司忌は次のようだそうです。
 第39回沖田総司忌
 日 時:平成25年(2013年)6月22日(土)
 墓参11:00~12:30

 赤字が専称寺です。 青が昨日紹介した桜田神社です。

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by wheatbaku | 2013-04-17 08:03 | 大江戸散歩 | Trackback
桜田神社(六本木散歩)
 今日は、六本木散歩の続きです。
 六本木ヒルズのすぐ近くに桜田神社があります。
 江戸で桜田をいえば桜田門を思い浮かべますし、桜田門のあたりが桜田と呼ばれていたと考えます。
 その桜田を神社名とした「桜田神社」がなぜ六本木にあるのでしようか。

 桜田神社は、治承四年(1180)に源頼朝の命により、渋谷重国が霞山(現在の霞ヶ関桜田門外)に祀ったことに起こるといいます。
c0187004_1703937.jpg 文治5年(1189)には、奥州征伐の奉賽として、源頼朝から30貫の田畑を寄進されました。
 この寄進された田の境界に、一般農家の田と区別するため、御神田の畔に桜を植えたことから、その田地は「桜田」と呼ばれるようになり、村の名も桜田村と称したと伝えられています。
 文明年間(1469~87)には太田道潅が社殿を再興し、太刀甲冑を奉納しました。
 寛永元年(1624)、江戸城の整備に伴い、氏子とともに霞ヶ関から現在の社地に遷りました。
 そのため、桜田神社が六本木にあることになります。
 また、桜田神社の前の通りいわゆるテレ朝通り両側の江戸時代の町名は、麻布桜田町といい、桜田村から移ってきたことを占めす町名でした。
 また、桜田と名前のついて町名は、芝にはもありました。
 芝には、桜田本郷町、桜田伏見町、桜田和泉町、桜田鍛冶町、桜田久保町、桜田備前町、 桜田善右衛門町、桜田太左衛門町などの桜田を冠した町名がありました。
 これらも、桜田村から移転した町名だそうです。

 また、桜田神社で、港七福神の寿老人がお祀りされています。
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by wheatbaku | 2013-04-16 07:55 | 大江戸散歩 | Trackback
六本木ヒルズ毛利庭園(六本木散歩)
 今日は、赤穂浪士ゆかりの地である六本木ヒルズの毛利庭園のご案内です。
 ここは、長府藩毛利家の上屋敷でした。屋敷の広さは約1万1千坪ほどありました。
c0187004_932375.jpg 長府藩は、長州藩の支藩で、長門府中藩とも言います。
 初代藩主は毛利秀元で、毛利元就の四男、穂井田元清の長男として生まれましたが、実子に恵まれなかった従兄の毛利輝元の養子となりました。天正20年(1592)朝鮮出兵に向かうために毛利氏の本拠であった広島城に入った秀吉によって毛利輝元の養嗣子となることが認められました。
 しかし、後に輝元に嫡男(後の秀就)が誕生すると、秀元は家督相続を固辞しました。
 関ヶ原の戦いの後に、毛利家が長門周防を領する長州藩となった際に長州藩から分かれて長府藩を立藩しました。

 毛利庭園は、慶安3年(1650)、毛利秀元が甲斐守となり、麻布日ヶ窪(現在の六本木六丁目他)に上屋敷を設けた際に、その屋敷の庭園として築造されたものです。
 
 長府藩毛利家には、赤穂浪士のうち次の10人が預けられました。
  岡嶋八十右衛門常樹、小野寺幸右衛門秀富、勝田新左衛門武堯、
  倉橋伝助武幸、杉野十平次次房、 武林唯七隆重、
  間新六光風、前原伊助宗房、村松喜兵衛秀直、吉田沢右衛門兼貞

 当時の長府藩主は、3代目毛利甲斐守綱元でした。
c0187004_935887.jpg 毛利綱元は江戸城にて命令を受取ると、藩士200名余りと乗物10挺を用意し仙石伯耆守邸に向かわせ、10人を引き取りました。
 護送の途中では、駕籠の戸に錠をかけ、青網をかけるという扱いであり、上屋敷では、長屋に入れるなど、当初、赤穂浪士は罪人扱いされたようです。
 しかし、細川家の厚遇ぶりなど他家の取り扱いを知って、その待遇も改善され、12月29日には、藩主綱元が赤穂浪士一同を謁見しています。

 赤穂浪士一同は翌元禄16年2月4日、全員がこの地で武士の本懐を遂げました。
 ここ預けられた10人の中に、間新六もいました。当時は切腹といっても実際に払えお斬ることはなくなっていたようです。しかし、間新六だけが実際に切腹をしています。
c0187004_941468.jpg また、間新六は、近親者から遺骸引き取りの申し出があり。引き渡しがされ、築地本願寺に埋葬されました。 従って、間新六だけが唯一泉岳寺に埋葬されていません。
 また、この屋敷では、嘉永12年(1849)に陸軍大将「乃木希典」が生まれ、幼年期9年をこの「日ヶ窪屋敷」で過ごしました。
 また、幕末には、長州藩が朝敵となり長州征伐がおこなわれ、江戸にある長州藩邸は取り上げられました。 そして、元治2年(1865)、堀田相模守がこの日ヶ窪屋敷を拝領します。
 明治20年(1887)には、中央大学の創始者であり、弁護士、法学者、法学博士でもあった「増島六一郎」がこの地を取得し、庭園を「芳暉園」と名づけました。
 昭和27年にはニッカウヰスキーの東京工場となり、昭和52年にはテレビ朝日が当地を取得し、池はニッカ池と通称されていました。
 その後、平成10年に六本木六丁目地区市街地再開発組合が設立され、平成12年4月に、再開発事業が着工し、平成15年4月に「六本木ヒルズ」がオープンし、現在の「毛利庭園」も誕生しました。
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by wheatbaku | 2013-04-10 08:53 | 大江戸散歩 | Trackback
檜町公園(六本木散歩)
 今日は、赤坂にある檜町公園についてご案内します。
 昨日の勝海舟邸のすぐ近くに檜町公園はあります。
 檜町公園といってもピンとこない人が多いと思いますが、東京ミッドタウンは御存じの方が多いと思います。
 檜町公園は、東京ミッドタウンに隣接した港区立の公園です。
c0187004_8504892.jpg 檜町公園がある場所一帯は、江戸時代は長州藩毛利家の下屋敷があったところで、庭園は「清水園」と呼ばれ、江戸の大名屋敷の中でも名園のひとつとして知られていたそうです。
 ここの屋敷には檜の木が多かったことから毛利家の屋敷は「檜屋敷」とも呼ばれ、屋敷の東側にある坂は檜坂と呼ばれています。
 右写真は、檜坂とその標柱です。
 また、明治になってからは、檜屋敷の名前から、下屋敷があった一帯は檜町と名付けられました。

 明治時代からは大日本帝国陸軍の歩兵第一連隊の駐屯地となっていました。
 第二次世界大戦での日本の敗戦後にはアメリカ合衆国に接収され、米軍将校の宿舎として使用されました。
c0187004_8514219.jpg ここが昭和35年に日本に返還され、陸上自衛隊の駐屯地となりました。
 それとともに、防衛庁も霞が関から移転してきました。
 敷地の大部分に防衛庁が設置され、残りの部分が檜町公園として整備され昭和38年に都立公園として開園し、その後港区に移管されました。
 平成12年には、防衛庁(現在は防衛省)が市谷に移転しました。
 その跡地に平成19年に東京ミッドタウンが開発され、檜町公園も再整備されました。

 檜町公園の隣にある東京ミッドタウンは、ショッピングセンター、オフィスビル、ホテル、美術館、ホール、医療機関、駐車場、公園など、いろいろな施設から構成されています。
 最も大きな建物のミッドタウン・タワーは、地下5階・地上54階・高さ248mあり、東京都内で最も高いビルです。
 右写真は、檜町公園の池越しにみるミッドタウン・タワーです。

 東京ミッドタウンに含まれる施設には「ホテル ザ・リッツ・カールトン東京」、「サントリー美術館」などがあります。
 オフィス部分のテナントとしては、シスコシステムズ、ファーストリテイリング、富士フイルムホールディングスの本社が入っています。

 赤印が、檜町公園です。

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by wheatbaku | 2013-04-09 02:14 | 大江戸散歩 | Trackback
勝海舟邸(赤坂六本木散歩)
 今日は六本木散歩に戻りますが、六本木というより赤坂の勝海舟邸跡のご案内です。

赤坂氷川神社の参拝が終わったあと、本氷川坂を下りていくとT字路になります。そのT字路脇に「THE GRAY]というレストランがあります。
c0187004_8465728.jpg ここに勝海舟邸と書かれた木柱と説明板があります。
 ここが、幕末に勝海舟邸がありました。
 幕末の切絵図を見ると、勝林太郎と書かれています。
 江戸時代には、この辺りは氷川坂下と呼ばれていました。
 この辺りの道路は江戸時代とあまり大きな変化はないようです。 
 レストラン「THE GABY」の入っている「ソフトタウン赤坂」のビルから赤坂氷川神社の麓までが勝海舟の屋敷でした。

 勝海舟は、安政6年の6月にここに住み始め、明治元年まで住んでいました。
c0187004_8473190.jpg 勝海舟は、生まれて育ったのは本所ですが、弘化4年(1846)に赤坂田町に引っ越しました。
 勝海舟が、本所から赤坂に住まいを変えたのは、海舟が蘭学を学んだ永井青崖が赤坂
 溜池にある黒田家の中屋敷に住んでいたので、その便を考慮したものだと言われています。
 そして、嘉永3年(1850)に田町で蘭学塾を開きましたが、この頃は、大変貧乏で生活は苦しかったようです。
 その後、ペリー来航を機に、阿部正弘が広く意見を求めた際に、海舟が提出した意見書が大久保忠 の目に留まり、取り立てられました。
 そして、幕臣として活躍していた安政6年に氷川下に引っ越しました。
 そして、翌年正月には、咸臨丸でアメリカに渡っていきました。
 その年の3月3日に桜田門外の変が起きています。勝海舟がサンフランシスコにいた時に桜田門外の変が起きています。
 また、文久2年(1862)に坂本龍馬が海舟を訪ねてきたのもここにあった屋敷でした。
さらに慶応4年3月13日と14日に西郷隆盛と江戸城無血開城の談判をするため薩摩屋敷に出かけたのもこの屋敷からです。
 このように、勝海舟が最も活躍した時期に住んでいたのがこの屋敷でしたが、明治元年45歳の時に、徳川慶喜に従って静岡に移りました。

 静岡から東京に明治5年に戻りますが、それが先日紹介した旧氷川小学校の場所です。

  赤印が勝海舟邸跡です。

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by wheatbaku | 2013-04-08 08:38 | 大江戸散歩 | Trackback
三次藩屋敷跡の赤坂氷川神社(赤坂六本木散歩)
 今日は、赤坂六本木散歩に戻ります。
 今日は、赤坂氷川神社についてご案内します。

 赤坂氷川神社のある場所は、元禄の頃は、現在の広島県の三次にあった備後国三次藩浅野家の屋敷がありました。
c0187004_8172631.jpg 三次藩浅野家は内匠頭の正室瑤泉院の実家でした。
 三次藩は広島藩の支藩です。初代藩主は浅野長治といいました.
 浅野長治は、広島藩初代藩主浅野長晟(浅野長政の次男)の長子として生まれましたが、母が側室であったため、正室から生まれた光晟が、浅野家宗家の家督を継ぎました。
 そして、長兄の長治が、三次藩を立藩しました。

 瑤泉院は長治の娘で、落飾前は「阿久里(あぐり)」と言っていました。
 阿久里は、10歳で内匠頭結婚しました。
 なお、内匠頭と阿久里は従兄同志と書いている本も見ますが、阿久里の母親は、内匠頭神長矩のおじいさん浅野長直の娘ですので、 阿久里は、内匠頭長矩から見ると、おじいさんの妹の娘です。従って、正しくは  「いとこ」ではなく「いとこおば」です。

 瑤泉院は、赤穂事件の後、実家に戻っていました。
 そのため、大石内蔵助が事件前に瑤泉院を訪ねるとすると赤坂の下屋敷を訪ねることになるため、「南部坂」が舞台として登場することになります。
 南部坂は赤坂氷川神社から歩いて5分ほどの所にあります。
c0187004_8175314.jpg 三次藩は、浅野長治 → 浅野長照 → 浅野長澄→ 浅野長経 → 浅野長寔と5代続きましたが、4代長経、5代寔と2代続いて子供がなくて三次藩は断絶しました。
 そして、屋敷も収公されていたようです。

 その後、8代将軍吉宗の時に、この用地を氷川神社としました。
 赤坂氷川神社は、平安時代中期の天暦5年(951)に赤坂一ツ木台地(俗称…古呂故(ころこ)ヶ岡)に祀られました。
 赤坂氷川神社が紀州徳川家の赤坂の中屋敷の産土神であったことから、徳川吉宗が、老中水野忠之に命じ、社殿を造営し、享保15年(1730)一ツ木台地から現在地へ移りました。
 氷川神社の本殿は享保15年(1730)建立されたもので、現在、東京都の重要文化財となっています。

 赤坂氷川神社は、東京十社の一つです。
 すでに十社巡りの中で書いているので、 「氷川神社 (十社巡り4)」  もあわせてご覧ください。


 赤印が赤坂氷川神社です。


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by wheatbaku | 2013-04-03 08:14 | 大江戸散歩 | Trackback(1)
勝安芳邸跡【旧氷川小学校】(赤坂六本木散歩)
 今日も「六本木散歩」の続きです。今日は六本木といっても赤坂地区でのご案内です。
 南部坂を登りきって北に向かうと旧氷川小学校が見えてきます。
 氷川小学校は、平成5年に廃校となり、現在は特別養護老人ホーム「サン・サン赤坂」となっています。

 この旧氷川小学校の敷地は、中央義士会によると、浅野家の下屋敷とされていました。
c0187004_8172793.jpg  そこで、 元禄6年の地図をみましたら、「アサノ内匠」と書かれていますので、確かに浅野内匠頭長矩の屋敷だったようです。
 ここに江戸時代初めは、南部家の屋敷があり、明暦2年の相対替えにより、浅野家の屋敷となったという経緯があるようです。
 ここに江戸時代の初めは南部家の屋敷があったため、昨日ご案内した「南部坂」の名前の由来となっています。
 そして、元禄時代には、赤穂藩浅野家は長矩の代になっているわけです。

 この屋敷の主人が何代変わったかわかりませんが、明治になってからは、ここが勝海舟の屋敷となりました。
 旧氷川小学校の敷地の南東には、「勝安芳邸跡」の石碑および説明板が建っています。
 それが 右の写真です。

 明治元年に、静岡に移住していた勝海舟は、明治5年に東京に戻ってきました。
 その当時、ここには大身旗本の柴田七九郎の御屋敷がありました。
 そのお屋敷は約2500坪ありましたが、それを5百両で勝海舟が購入しました。
 そして、明治32年になくなるまで、ここに住んでいました。

 勝海舟は赤坂の地が気に入っていたらしく、24才の新婚の時から76歳で死ぬまで、基本的に赤坂に住んでいました。
c0187004_8182353.jpg   海舟は、若い頃蘭学を習うために、当時、福岡藩中屋敷に住んでいた永井青崖の所に通っていました。
 そのため、勝海舟は、赤坂について土地勘があったのだと思います。
 そのため、23才で結婚した翌年に、赤坂に引越しました。
 最初は、赤坂田町中通(現在のみすじ通りあたり)に住んでいました。
 その後、安政6年(1859)36歳のから明治元年(1868)の45歳まで約10年間は、赤坂氷川神社の下に住んでいました。
そして、徳川慶喜とともに静岡に移住した後、明治5年に再び東京に戻った際に、ここに住みました。
 海舟は明治5年に50歳で上京し、明治32年に満76歳で亡くなるまでここに住み、海軍卿、伯爵、枢密顧問官として華やかな生活を送る傍ら氷川清話などを書いてくらしました。

 勝海舟が亡くなったが後に屋敷跡は、昭和2年に東京市により氷川小学校用地として購入され、平成5年春まで氷川小学校として使われていました。
 石碑の脇に大きな銀杏(左上写真)がありますが、この銀杏は、勝海舟邸の中心部にあったものを移植したものだそうです。
 また、建物の中には、勝海舟邸を発掘調査した際に出土した陶器類が展示されています。
 また、勝海舟の略歴も掲示されています。

 赤印が、「勝安房守邸跡(旧氷川小学校)」です。
 青印は、昨日紹介した「南部坂」です。

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by wheatbaku | 2013-03-27 08:20 | 大江戸散歩 | Trackback
福澤諭吉の墓(麻布十番散歩4)
 麻布十番散歩の最後は、善福寺です。
 善福寺は、浄土真宗本願寺派の寺院で、山号は麻布山(あざぶさん)と言います。
c0187004_16545145.jpg 平安時代の天長元年(824)に弘法大師空海によって開山されたと伝えられていて都内では浅草寺についで古いお寺です。
 当初は真言宗の寺院でしたが、鎌倉時代になって越後国に流されていた親鸞上人が善福寺を訪れた際に、浄土真宗に改宗したとされます。

 善福寺は、安政6年(1859)に善福寺はアメリカ合衆国公使館となり、明治8年12月まで公使館として利用されました。
 そこで、参堂入り口には 「最初のアメリカ公使宿館跡」の碑が建てられています。

 善福寺については、以前、書いています(「善福寺 【幕末の公使館① 江戸検定今年のお題 幕末】」)が、福沢諭吉のお墓については触れていませんので、今回は、福沢諭吉のお墓についてご案内します。
右写真は、善福寺の勅使門の写真です。後方に見える近代的なマンションは「元麻布ヒルズ」で、善福寺の隣地に建っています。
 

 福沢諭吉のお墓は、本堂向かって右手の墓域の中の開山堂の手前にあります。
他のお墓より少し広めのお墓です。
c0187004_16552932.jpg 福沢諭吉のお墓は、もともと、上大崎の常光寺にありました。
 それは、生前に福沢諭吉が、そこに埋葬するよう決めていたからだそうです。
 しかし、昭和52年、福沢家の意向で善福寺に改葬されたそうです。
 改葬された理由は確かなことはわかりませんが、福沢諭吉の葬儀が善福寺で行われていたという事情もあるように思います。
 福沢諭吉は明治34年(1901)2月3日になくなりました。
 諭吉の葬儀は2月8日に、慶応義塾をあげて行われ、当日は三田の自宅から善福寺まで「2キロ足らずの道を、1万5千人の会葬者が徒歩して棺に従った」(小泉信三『福沢諭吉』)そうです。

 なお、お墓は福澤諭吉夫妻のもので、福澤家の墓地は多摩墓地にあるそうです、

 明治34年2月8日付けの「東京朝日新聞」には次のうような記事が載ったそうです。
「◎福沢諭吉氏の葬儀・・・・・福沢諭吉氏の葬儀は本日午後一時三田出棺麻布十番善福寺において式を行える上、白金大崎本願寺(瑞聖寺の隣)に埋葬せらるべし。行列は慶応義塾普通部生徒、幼稚舎生徒、商業学校生徒、大学部生徒、次に樒三対、それより導師、香炉、位牌(大観院独立自尊居士)銘旗、次に柩にて棺側は慶応義塾評議員一同なり。次に喪主、親戚、柩台にして塾員及び同窓者も皆徒歩して之に随い、それより会葬者の順序にて一万人以上に達すべく混雑を防ぐため車夫馬丁の心附はせずという。」
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by wheatbaku | 2013-03-13 07:37 | 大江戸散歩 | Trackback
  

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