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三廻り同心(町奉行17)
 さて、今日は、与力同心の分掌の最後として同心の花形「三廻り」についてお話します。

 与力同心の分掌の中で、裁判・警察を担当する分野では、主に裁判を担当したのが与力で、警察つまり犯人逮捕を担当したのが同心でした。
c0187004_17102865.jpg その犯人逮捕を担当したのが「三廻り」と呼ばれる同心だけで組織した分掌です。
 三廻りとは、「定廻り」「臨時廻り」「隠密廻り」を言います。
 三廻りの仕事は、「捕物並びに調べもの」と言われ、盗賊の逮捕と探索がねらいでした。
 三廻りは、同心の中でも最高の地位でした。

 最初に「定廻り」について書きます。
 「定廻り」の職務は、法令違反者の摘発・逮捕、風聞の探索です。
 江戸市中を同じ道順を毎日巡回したので、その名がつきました。
 市中を歩きながら異変を取調べ、挙動不審の者がいれば取り押さえます。
 また、町々の自身番に立ち寄って異変がないかどうか尋ねます。
 「定廻り」は、働き盛りの健康な者が勤めます。だいたい45.6から50歳がらみだったようです。このように 年輩の同心が勤めたのは、江戸町内のことは複雑でよほどの熟達者でないと難しかったからだそうです。
 同心は、髪も小銀杏と言う独特の結い方をして朱房の十手を後に指して歩いたので、一目見て、すぐそれと分かったようで、江戸三男に数えられていました。

 次は、「臨時廻り」です。
 「臨時廻り」は定町廻りの多忙を補うために設けられたと言われています。
 「定町割り」のように大体定まった道順を巡察するのではなく、臨時に各方面に出かけました。
 「臨時廻り」は「定町廻り」を引き上げて「臨時廻り」にするため、「定町廻り」より少し格が上であったと言われ、事実「臨時廻り」の方が権力もあり、すべて威勢もあったという回顧談があるようですが、南先生によると臨時廻りから定町廻りに異動している同心がいることから、少なくとも文政~嘉永年間は該当しないとされています。

 「隠密廻り」は三廻りの筆頭とされ、江戸市中においても特別に権威あるものとみなされていました。
 「隠密廻り」は、まさに名前の通り人に知られずに仕事しました。
 その職務は、探索が第一の役目でした。江戸市中の風聞や風説を敏感にとらえ報告したり、町奉行の命令を受けて捜査するものでした。
 それは、犯罪検挙よりも治安維持・風俗取締りが重点とされていました。
 「隠密廻り」の行動範囲は、江戸市中に止まらず、江戸以外にまで出張って捜査することもありました。
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by wheatbaku | 2013-12-20 08:30 | 町奉行 | Trackback
天保期以降の与力同心の分掌(町奉行16)
 今日から、このブログ、6年目に入りました。
 昨日はコメントでもお祝いいただきましたし、メールでもお祝いをいただきました。
 お祝いをいただいた皆様ありがとうございました。
 これからもがんばりますのでどうそよろしくお願いいたします。

 さて、 今日のテーマは、「町奉行」与力同心の天保期以降の分掌についてです。
 今回も南和男先生の論文に基づいて書いていきます。

  
 天保の改革により新たに設けられた分掌は次の通りです。、
c0187004_923097.jpg 北町奉行所では、
市中取締掛、
町入用減少掛、
十組跡調掛、
市中風俗取締掛であり、
南町奉行所では、
市中取締諸色調掛、
御肴青物掛、
市中沽券市中人別取調掛、
御番方取締役、
市中見世幷河岸地建物取調掛などです。
 市中取締掛は、市中の風俗取締のほか、芝居取締り、新吉原など盛り場の見廻りや出版統制に関する事柄などを取り扱います。
 諸色調掛のおもな職務は、物資の江戸市中潤沢と物価の引き下げでした。
 人別掛は、人別令の出た翌月天保14年(1843)4月に設置されました。
 その他、設置された掛では、
 下馬廻りは、礼日その他大手門などの下馬所が登城者の供などで混雑する所を見廻り非法をいさめる掛です。
 門前廻りとは、大老・老中・若年寄の毎月の面会日に門前が混雑するのと取締りました。

 ペリー来航後は、さらにさまざまな掛が増設されました。
 安政年間には、外国掛、神奈川開港掛などが設置されました。
 外国掛は、外国および外国人に対する事務を担当しました。
 安政4年(1657)11月に同心4名を任命したのが最初だったようです。
 その後、外国掛は、増員され、万延元年(1860)11月には一方の奉行所で外国掛下役だけで54人としました。
 しかし、その後、外国奉行が設置されたため、奉行所の負担は軽減され、慶応元年には、与力5人、同心5人宛となっています。
 神奈川開港掛は安政5年11月に設置されました。

 文久年間には海陸御備向御用取扱掛、神奈川表取締掛、鉄砲稽古世話役が設置され、さらに慶応元年には御進発御用取締掛、諸色値段引下方取扱方、硝石会所見廻り、非常町廻り、剣術世話役、柔術世話役などが設置されました。
 このように幕末になると多くの担当が設置され、南先生の論文に掲載されている慶応岩塩の奉行所の分掌は41掛にもなっています。


 右写真は、JR東京駅日本橋口を出た場所から写した丸の内トラストタワーです。
 右側が日本橋口で、中央の高い建物が丸の内トラストタワー本館、左手が丸の内トラストタワーN館です。
 北町奉行所は、丸の内トラストタワー本館辺りにありました。
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by wheatbaku | 2013-12-19 09:06 | 町奉行 | Trackback
寛政期の与力同心の分掌(町奉行15)
 今日は、寛政期を中心にした与力同心の分掌について書いてきたいと思いますが、11月に実施された江戸検の結果が届いたという情報が届きました。
合格された方、本当におめでとうございます。
涙をのまれた方、本当に残念でした。できるだけ早く心の整理をされて、捲土重来を期されるよう願っています。頑張ってください。

さて、享保以降、寛政までの間に設けられた与力同心の分掌は、
c0187004_16443578.jpg①高積見廻り
②吟味方 
③赦帳幷撰要方 
④例繰方 
⑤江戸川神田川見廻り
などです。
 隠密廻り、臨時廻りもこの時期に設置されたと考えられています。

 
寛政の改革にともない町奉行所に新たに設けられた分掌は、
⑥諸色取調方 
⑦江戸向橋掛 
⑧浅草会所見廻り 
⑨籾蔵定掛(のち町会所掛) 
⑩人足寄場掛 
⑪古銅吹所見廻り 
⑫酒造掛
などです。

1、高積廻りは、元文4年の火災を機に設けられたもので、防火上河岸に薪材木などを5尺以上高積みするのを禁止しましたが、それを取り締まるのが高積廻りです。

2、吟味方は、民事事件の審理・和解勧告、刑事事件の審糾および終結・執行に関する事務を取り扱う掛です。
 吟味方は、享保期には明確な分掌としては区分されていませんが、天明期にははっきりと一分掌となったとのことです。

3、恩赦が行われる時に遠島以下のものを御家人・雑人に分類した「科書帳面」が提出されますが、赦帳掛は、その作成にあたります。また、撰要方は、「撰要類集」作成のため日常書類を書き抜き、分類整理する担当です。

4、例繰方は、諸帳を調査して罪状を分類整理した書抜帳作成しておき、判決の案を示されると、その書抜帳を確認して類例を報告する掛です。

5、江戸川・神田川の常浚は、寛延3年(1750)から北町奉行所の掛となり、常浚見廻りは、北町奉行所の与力2人、同心4人で、毎月5~6度づつ陸又は船で見廻りました。

6、寛政の改革では、物価引下策や町法改正は重要な政策でした。
諸色取調方は、諸問屋の帳簿類の調査や町入用の節減、積金・囲い米などの取り扱いについて寛政2年2月に設けられました。勘定組頭、支配勘定と町方の与力同心ら15人からなっていました。

7、江戸向橋掛は、幕府が寛政2年2月、江戸の橋梁の掛替や修理を幕府請負と改め、町奉行・勘定奉行の支配としたことに設置された掛です。のちに定橋掛を呼ばれるようになりました。

8、棄悁令によって打撃を受けた札差の資金融通のため幕府は寛政元年(1789)12月に浅草猿屋町に会所を建てました。

9、人足寄場は、最初町奉行の支配するところではなかったが、寛政7年より町奉行も関与することとなって、人足寄場掛が設けられました。

10、古銅吹所見廻りは、寛政6年古銅吹所を江戸に設置する下調査として与力同心各一人が吹所見廻りとして任命されました。寛政8年8月本所横川町に吹所ができた以後も町方に関連あるときは同所を見廻り、新銅試吹などの場合には連日吹所に詰めました。


  右写真は、JR東京駅日本橋口の東にある丸の内トラストタワー本館の入り口です。
  江戸時代には、この辺りに北町奉行所がありました。
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by wheatbaku | 2013-12-14 19:52 | 町奉行 | Trackback
享保期の与力同心の分掌(町奉行14)
 南和男先生の論文の与力同心の分掌については、享保期、寛政期、天保~幕末期に分けて変遷が説明されています。
 今日は、享保期の与力同心の分掌について、南和男先生の論文をもとに書いていきたいと思います。

c0187004_9363621.jpg 南先生の論文によると享保期の与力同心の分掌は次の10個です。
 ①歳番(年番)、
 ②本所見廻り、
 ③牢屋見廻り、
 ④養生所見廻り、
 ⑤出火之節人足改、
 ⑥火事場建具改、
 ⑦風烈廻り、
 ⑧新地家作改
 ⑨地方(じかた)改、
 ⑩町廻り

 享保以前からの分掌は歳番、牢屋見廻り、町廻りの三つだけでした。
 残りの七つは享保2年の大岡越前守の町奉行就任以降に設置されたもので、大半は防火など時代の必要性により新設したものです。

1、歳番は、のちに年番と書くようになりました。
 昨日書きましたが、享保期には、年番の名前の通り、毎年交替したいたようです。
 しかし、その後、年功を経た老練な与力が任命され、毎年交替することはなくなりました。
 人数は、当初は南北奉行所それぞれに一名でしたが、その後2名宛となり、幕末には3名となりました。
 その任務は、町奉行のもとで、町奉行所の財政・人事をはじめ総括的な事項を取り扱う最も重要な職でした。

2、本所見廻りは、享保4年(1719)4月、本所奉行の廃止にともない、本所・深川は町奉行が支配するようになりました。
 そのため、南北奉行所から与力1名宛、計2名が本所見廻りとして享保4年9月に任命されました。
 本所見廻りは、本所深川方面の橋普請、川浚い、道路普請、建物調査などを担当しました。

3、牢屋見廻りは、小伝馬町の牢屋の見廻りですが、従来与力が毎日牢屋に詰めていたのをやめて、必要により2~3日連続して見廻るなど不定期としました。また、南北4人合計8人の与力が2か月ごとに交替していたのを改めて、享保5年からは南北奉行所各一名刑人が一か年交替としました。

4、幕府の常設の社会事業施設として特色のある養生所は、享保7年12月に設置されましたが、それに先立ち諸準備のため2月から係与力が任命されました。与力は病人出入りの改め、総賄入用の吟味、病人部屋見廻りなど一切の指図を行い、同心は賄所取締り、諸物受け払いの吟味、薬煎の立ち会い、病人部屋見廻り、錠前預かりなどを行いました。

5、享保期の防火策として町火消の設置があります。火事場に規定の火消人足が出動しているかを調査するのが、町火消人足改です。享保5年8月の創設で、南北奉行所から7人の与力が任命されました。後に消火の指揮監督にもあたるようになりました。

6、火事建具改は、火災時に建具をはずして持ち出すことを再三禁止しましたが、それが改まらないため、享保10年3月取締りのために与力3人、同心3人を任命しました。ただし、この担当は、天明期にはないそうです。

7、風列廻りは、享保17年3月に設置された担当で、放火を防止するため、強風の折に、牛込・大塚・小石川・本郷・丸山辺りを巡視し、特に強風の時には麻布・青山辺りまで巡視し、風体挙動の怪しいものを捕えました。

8、新地家作改は、新開町並地における家作の建坪、畳坪、地坪などを調査する掛ですが、享保16年には廃止されています。

9、大岡越前守忠相は、享保7年6月、町奉行のまま関東地方の新田開発や治水などの農政を担当する地方(じかた)御用掛を兼務することになりました。
このため、南北町奉行所にそれぞれ与力一人、同心2人が任命され、新田開発等に関する事務を担当しました。

10、町廻りは、寛文2年(1662)に設置された掛で、同心だけの分掌です。
 これについては、後日詳しく書きます。
 

 右写真は、有楽町駅前の「有楽町イトシア」です。ここに江戸時代には南町奉行所がありました。
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by wheatbaku | 2013-12-13 09:36 | 町奉行 | Trackback
与力同心の勤務(町奉行13)
 「八丁堀八重洲散歩」のご案内の途中ですが、八丁堀の与力同心組屋敷跡のご案内まできたところで、与力同心の仕事について、ちょっと触れたいと思います。

c0187004_9554664.jpg 「江戸町人の研究」第4巻に、南和男氏が「町奉行-享保以降を中心として-」という論文を書いていますが、そこに与力同心の分掌について、時代変遷とともに詳しく書かれています。
 与力同心の分掌については、幕末の分掌を例に出したり、時代変遷を考慮せずに、いろいろな時代の分掌を一括して説明したりしているケースが多いのですが、この論文では、時代とともに分掌が変わってきたことがよくわかります。
 そこで、それに基づいて、与力同心の分掌について書いてみたいと思います。

 その前に、①与力同心が何歳まで勤めたか、②異動はあったのか についても触れられていました。これも興味深いテーマですので、今日は、その2点について書いてみます。
 まず①の何歳まで勤めたかですが、2人の例が書かれています。
  与力服部仁左衛門    文化10年現在76歳 48年
  同心神田造酒右衛門  文政6年現在 71歳 57年

 これを見ると、健康である限り、年齢に関係なく勤めていたようです。
 こうして老練な与力同心がいるから、少人数の与力同心でも、江戸の治安や町政を維持できていたんですね。
 

 次いで②の異動があったかですが、これも都築十左衛門の例が書かれています。
  
 文化13年(1804) 抱入
 文政2年(1819)  高積見廻
 文政3年(1820)  例繰方
 文政7年(1824)  永代橋掛直御修復増掛
文政8年(1825)  例繰方
 文政9年(1826)  牢屋見廻
 文政11年(1828) 本所方
 天保13年(1842) 吟味方
 天保14年(1843) 町会所掛
 天保14年(1843) 本所方
 天保14年(1843) 年番米方掛
 この後、安政4年(1857)12月25日に年番米方御免になるまで、川浚掛や古銅吹所見廻、下田表取締筋取扱など、諸々の掛を兼任しています。
 年番米方という担当について説明はありませんが、年番という分掌のうちの一担当だと思われます。
 年番という分掌は、年功を経た老練な与力が任命され、町奉行所の財政・人事をはじめ総括的な事項を取り扱う最も重要な役職でした。
 年番は、享保の頃は、年番与力は、その名前の通り毎年交替していたようですが、後期になると毎年交替しなくなりました。都築十左衛門は、年番を14年間に亘って勤めています。

 都築十左衛門の例を見ると、目まぐるしく担当が変わっています。与力同心は一つの掛に長年担当するイメージがありましたが、そうでないケースもあるということが良くわかります。
 現在のサラリーマンと変わらなかったようですね。



 なお。南論文では、「同心都築十左衛門」と書かれていますが、十分確認していませんが「与力都筑十左衛門」が正しいような気がします(為念)。
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by wheatbaku | 2013-12-11 12:42 | 町奉行 | Trackback
重大事件発生時の町奉行出馬(町奉行12)
 前回は、町奉行の大火出役に書きましたが、
 「江戸町奉行事蹟問答」には次のように書かれています。
 「(前略)火災水災あれば町火消或は水防夫を集め奉行自ら出馬して指揮をとり、狼藉乱妨(暴)人あれば与力同心を派出してこれを鎮め、重大の事件は自ら出馬して其の責任に充るなり」

c0187004_9252152.jpg このうち、大火出役については書きましたが、重大事件での出馬の例が書かれています。
 それは、天保の改革を行った老中水野忠邦が老中を罷免された際に、水野邸に江戸市民が集まり投石を繰り返した事件に、時の南町奉行鳥井甲斐守が出馬しています。

 「江戸町奉行事蹟問答」には次のように書かれています。
 天保13年9月13日、御老中水野越前守御役御免に相成り。西ノ丸下屋敷引払いの節、誰発意なるや、夕刻より追々門前へ見物集り来り、門番これを制したるより事起り、石を投げ始め、追々乱妨(暴)はなはだしく、御目付より月番町奉行鳥井甲斐守へ達しありにより、奉行は談合与力同心を引具して速やかに出張せり。
 其の時、余(佐久間長敬)が父なども出役せしと聞く。多くは近辺の仲間・小者など姿をかへて来りしもあり。或は先に免職になりし役々の仲間など所々に離散しありしが、此の時に至りて兼て遺恨を晴らさんと、誰申し合せたるになく集り来り、仲間同士の口論を仕かけんと巧しなり。四、五人召し捕りのありしが、其の実を得ずして事済みたり。

 水野忠邦が免職なった際に、自然発生的に市民が、水野邸に集まっていましたが、門番がこれを制したところ、投石を開始し、狼藉が激しくなったため、目付の指示により月番の南町奉行鳥井甲斐守が出馬したと書かれています。
 結果として四,五人を逮捕して、事件は解決したようです。

 なお、水野忠邦が、罷免された際に、江戸市民が屋敷投石したということは知っていましたが、その記録は、こんなところに残っていたんだと驚きました。


 「江戸町奉行事蹟問答」には、町奉行の市中巡察の様子も書かれています。
 これによると、町奉行の市中巡察は、就任時の一度行ううようです。
 これは、事前に道筋が通知され、町役人も出迎えるようですので、新任町奉行のお披露目という性格が強いように思います。
 
 「市中巡察は御役拝命後一度、其の他臨時巡行なり。前もって道筋を定め触れ渡し、名主始め町役人出迎え、鳶人足鉄棒を置き、先立(さきだち)にて通行の町人を制し、下座触をなさしめ通行するなり。其の日は紋付、表白裏金陣笠、羽織、馬乗袴にて乗馬にて巡るなり。与力同心は羽織白衣にて多人数付添い前後を固めて通行し、昼飯は弁当にて金銀座、其の外支配内役所にて弁じ、町人宅などへは立寄ること一切なし。若し模様により弁当都所が差支(さしつ)える時は寺院を借り受け立寄るなり。」
 
 昼食を食べるところも、金銀座など町奉行管轄下の役所を利用し、町人宅は利用することはないようです。


 右写真は、東京都教育委員会の「北町奉行所跡」の碑です。先日の「南北奉行所跡」散歩の際に、「えぇー、こんな所にあるのっ」とびっくりされたものです。
 詳しくは、後日、ブログアップします。
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by wheatbaku | 2013-11-25 09:22 | 町奉行 | Trackback
大火の際の町奉行の任務(町奉行11)
 明日は、毎日文化センターの「名奉行ゆかりの地を行く」のガイドがあるので、その準備をしながら、町奉行の記事を書いています。

 町奉行について調べると調べるほど、激務だということがわかってきます。
 町奉行は、大火の際には自ら出動しますが、その責任も大変です。
 火事場出動の時の様子が、「江戸町奉行事蹟問答」には次のように書かれています。

c0187004_1036228.jpg 奉行出馬の節、月番は火先へ駆け付け候、非番は後口(風上の方面)へ賭け。火事場掛の与力同心をして火元を糺(ただ)し、消防方指揮し御場所柄大切の場所危うし駈け見るか何か異状ある出火と認める時は即刻騎馬供公用人(内与力)を以て大城(江戸城)当直の御目付老中(在宅の刻限であれば役宅)注意し、臨機の職掌を施すこと兼ての心掛なり。
 通常なる時は供方同心を駈けて注意し、消防の手配、火勢の模様等時々供方公用人、火事場掛与力と協議し、右筆に命じ注進状を筆記せしめ前の如す。


 町奉行が出馬する時、月番は風下に出動し、非番は風上に出動します。
 そして、重大な大火の際には、老中に内与力を注進に派遣し、通常の火災の場合には同心を派遣します。なお、公用人(内与力)というのは、町奉行個人の家臣で奉行の腹心となって勤めました。

 火事見廻(旗本)、御使番(旗本)、御目付(旗本)いづれも火事場へ出馬し来るなり。幕府の定火消役人数其他藩より出る消防人数等駈け集まり(侍火消という)江戸町中より町火消駈け付け候故、消防混雑を生ぜざる様に主務の持ち場を分かち町火消には与力同心を以て指揮し、或は公用人(内与力)馬上にて奉行の意を与力同心へ通し候。伝令使に遣い駆け引きいたし侍火消の進退駈引は前の役々と協議して取扱い、火事場先重立役人は町奉行に付、消防の指揮号令駈引は其責任重く、前の役々も町奉行の指揮に随い、これを助けて取扱候は勿論なれども、非常混雑の場合なれば様々の紛擾を生ずることあり、然るときは出馬の御目付へ奉行の意を陳べて侍火消の者役々へ指揮せしむるなり。御目付は監察の職権を以て、能くこれを料理するなり。

 火事場には、定火消や大名火消、町火消が出動します。
 これらの全体を指揮するのは、町奉行の任務です。
 赤字部分にそれが書いてありますのでお読みください。この中に「火事場先重立役人」という言葉でてきますが、これは「かじばさきおもだちやくにん」と読み火事場での重要な役人という意味だろうと思います。
 また、火事場が混乱する場合には、目付と協議の上指揮を執ると書かれています。

 幕府時代の火事場は泰平の戦争所と同じく、侍火消も町火消も共に必死の覚悟にて死を恐れずして働き、己の職掌と消し口聊(いささか)の争いより怪我人、死人を生じ、忽ち大紛擾と相成り、敲き合い、抜剣の大争動を起こして、町火消仲間にても夫々組に分かれ励み合い候故、 指揮の行違いより忽ち命掛けの紛擾を起し見る見る怪我人死人を生じ、死を以て争い候。死事出来候。
 町奉行と雖も、自分勝手の駈引きはでき難く火事場掛の与力同心練熟の者と謀り、規矩を正し、指揮よろしきを得て、鎮火後、町火消の働き、組下与力同心の働きも公平に取調べ賞誉を与え、巳後を奨励するものなり。


 火事場は、戦場と同じで、争いごとが絶えません。
 町奉行は、練達して火事場掛の与力同心とよく協議し指揮をしていきます。
 火事場掛の与力同心とは、正式には「町火消人足改」と呼ばれる掛で、町火消の取締・指揮を担当しました。

 火事場での総指揮者が町奉行とは知りませんでした。
気の荒い定火消や町火消を指揮して鎮火させていくわけですから、相当の統率力が必要になりますから大変の仕事ですね。

 
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by wheatbaku | 2013-11-22 10:29 | 町奉行 | Trackback
白洲における町奉行は激務(町奉行10)
 今日は、お白州の様子について書いてみます・

 幕末から維新にかけて、町奉行与力として勤務した佐久間長敬が著した「江戸町奉行事蹟問答」は、町奉行や奉行所の様子を書いた貴重なものです。

 その中で、白州における町奉行の様子が書かれています。

c0187004_107743.jpg 「平常、刑事事件席は民事裁判席と同所にて白州なり。民事裁判も同じことなり。下調吟味方主任の与力出る時は、呼出の公用人と代わり畳縁へ出て、その他は白州中仕切り際に待座す。呼出本人は、身柄により、畳縁、板縁、砂利と区別して出席し、同心警衛、別に挟み警護の役人なし。万一本人乱心(の)体とか殺害の含みありと見認(めた)者は、特別に命じて、同心をして挟み警衛を付けることあり。臨時の取計いなり。」

 ここで、注目されるのは、
 1、身分によって、畳の縁、板敷きの縁、砂利と座る場所が異なっていることです。
  詳しく書くと次のようです。
  ①御目見以上は座敷
  ②熨斗目着用の格式以上 白州畳縁側
  ③熨斗目以下 白州板縁
  ④足軽以下 平民地所持  白州砂利 服装は羽織袴
  ⑤中間・小者・平民 白州砂利 ただし服装着流し

c0187004_1051272.jpg2、被告に対して、すべて被告を挟むように同心が警護することはなく、乱暴したり殺害する怖れのある場合のみの特別な対応であるということ
です。

 次いで、白州における町奉行は威儀をただしたもので、時代劇の遠山金四郎のようにお白州で、啖呵をきったりすることはなかったようです。

 「江戸町奉行事蹟問答」には次のように書かれています。
 裁判席にて奉行の行儀は威儀を重んじ、職掌柄謹慎を専らとし行儀正しく座席敷物は勿論寒中と雖も、火鉢多葉粉(たばこ)盆なし。湯茶も喫せず暑中扇遣いもせず、初めより仕舞いまで座を立るなし」

 つまり、
 ①敷物はなく、②湯茶ものまず、③タバコも喫わず、④寒中でも火鉢がなく、⑤暑中でも扇も使わない。
 そして、最初から最後まで席をたつこともない。
という「ないないづくし」で裁判に臨んだようです。

 もうこれだけでもすごいと感心します。
 現代のわれわれにとっては激務なのではないでしょうか。
 私なんか大変でとても耐えられないように感じます。


 右上写真は、南町奉行所の跡から発掘された穴倉の説明板(右上写真)と復元された穴倉(右下写真)です。
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by wheatbaku | 2013-11-21 09:59 | 町奉行 | Trackback
町奉行の裁判②出入筋(町奉行9)
 今日は、町奉行の裁判のうち出入筋について書いてみます。
 

 南和男氏著「江戸の町奉行」に非常に具体的書いてありますので、それに沿って、書いていきます。
 「江戸の町奉行」では貸金返済請求を例に説明してあります。
 
c0187004_9222197.jpg 借家人は、まず家主と五人組にその理由を述べて、彼らの承諾を受けて、相手側の家主に訴えの理由を告げて、預りを依頼します。
 預りとは、訴訟中、被告が現在地を離れないことを保証するものです。
 依頼された家主は、本人と五人組を呼び出して、なるべく示談ですますよう説得します。
 しかし、示談を承知しない場合には、原告の家主に預かりを出します。
 原告の家主は原告の訴状に預かり証を添えて名主に提出します。
 名主は本人と家主を呼びだし、示談をすすめます。
 しかし、やはり承服しない場合には、相手側の名主に通知します。
 被告支配の名主は被告とその家主をよびだし、やはり示談をすすめます。
 しかし、ここでも聞き入れない場合には、その始末を原告側の名主に通知します。
 原告側の名主はここではじめて原告の訴状に奥印して家主にわたします。
 家主は、本人同道で月番の奉行所に行き訴状を提出します。掛役人は訴状の形式・内容などの違法の有無を審査します。
 これがすむと正式の訴状をします。町奉行所では、これに相手方が何日に奉行所へ出頭すべき旨などの裏書をして、加印して訴訟人に渡します。
 裏書を加えられた訴状は、訴訟人が相手方に送ります。相手方は出頭するようにと指定された日(差日)以前に訴状と返答書を奉行所に提出します。

 差日には、原告、被告、双方の家主などが腰掛で呼び込みを待ちます。
 やがて表門続きの長屋の窓から中番が原告・被告を呼びます。
原告・被告が揃って白州の潜りに進むと、番人は大きな鍵をもって五尺余りの大きな潜り戸をあけ、白州の内に通して直ちに錠をおろします。
 ここで初めて双方の吟味が始まります。
 この最初の吟味は「初めて対決(初対決、初而公事合、一通吟味)」といい、おおよその吟味にとどまり、通常本格的な吟味は、この後、吟味方与力によって行われます。
 初対決には通常奉行が立ち会います。奉行の出る白州は広く、与力が取り調べる白州は狭い白州です。

 吟味方与力の審理が一応終わると裁判調書に相応する口書が作られ、例繰方は罪状判決の類例を探して提出します。これに基づいて町奉行より双方に判決が言い渡されます。

 こうした手順で出入筋の裁判は進行しますが、幕府はできる限り内済(ないさい)つまり和解を奨励しました。
 訴訟を起こすにあたって、家主や五人組さらに名主の承諾を得なければ訴訟できない仕組みとなっていますので、訴訟を起こすまえにトラブルは相当数解決したものと思われます。もちろん泣き寝入りもあったかもしれませんが。
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by wheatbaku | 2013-11-20 09:18 | 町奉行 | Trackback
町奉行の裁判①吟味筋(町奉行8)
 町奉行の職務は、江戸の町政全般にわたり、幅広いものなので、すべてを詳しく述べるわけにはいきませんが、代表的な仕事について、書いていきます。

 まず、町奉行の裁判についてかいてみたいと思います。

 江戸幕府の裁判所の吟味は、出入筋と吟味筋に分けられます。
c0187004_1035140.jpg 出入り筋とは、訴えを起こす人(原告)と訴えられる人(被告)とが争うもので、出入物または公事といいました。
 吟味筋とは町奉行や与力などが職権をもって被疑者を呼び出し、あるいは逮捕して吟味するもので吟味ものとも言いました。
 まず吟味筋について書きます。 
 当時の裁判では、自白を重要視しました。いろいろな証拠によって犯罪事実が明らかになっていても、本人が自白しないと自白を強要しました。
 この強要の手段として牢問や拷問が行われました。
 江戸時代に拷問と呼ばれたのは釣責めだけです。
 それ以外は牢問と呼ばれました。牢問には、笞打(むちうち)、石抱、海老責の三種類がありました。
 これらは、現代では拷問の一種ですが、江戸時代には拷問とは言いませんでした。
 相当に確実な証拠があっても、自白に基づく口書(くちがき 供述書)と爪印がなければ有罪にできないのが原則でした。
 そのため、笞打、石抱、海老責などによって責めつけることは少なくはなかったようです。
 しかし、拷問は町奉行が勝手に行うことができませんでした。
 「公事方御定書」によれば、拷問が行われる犯罪は、人殺、火付、盗賊、関所破り、謀書・謀判、そして審理中他の犯罪が発覚しその罪が死罪に該当する場合だけで、それ以外は評定所一座の評議が必要とされていました。
  
 町奉行所の取調べは、吟味方与力中心に行われました。
 町奉行は、多忙を極めている上に訴訟も膨大の数がありました。そのため、とても山積みしている訴訟を一つ一つ奉行自身が克明に調べる暇などありません。
 そこで、吟味方与力が、あらかじめ調べておき、例繰方が、擬律(犯罪事実に法律を適用すること)まで行ってから町奉行が調べました。
 被疑者の口書に爪印が押されると、例繰方が過去の犯罪の類例をさがして提出します。
 これらに基づいて判決が決定されます。
 しかし、時代劇のように、町奉行が独断で重罪を申し付けることはできませんでした。
 中追放以下は町奉行の専決(これを「手限り吟味」と言います)となり、町奉行の吟味で判断した処理をおこなえましたが、重追放以上の刑については、お伺書を持って老中または将軍の決済を受けなければなりませんでした。

 従って、犯罪者の取り調べをして、即座にお白州で「首切り獄門」などということはできない仕組みになっていました。


 右上の写真は、丸の内トラストシティタワーの敷地内にある北町奉行所の説明板です。
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by wheatbaku | 2013-11-19 09:51 | 町奉行 | Trackback
  

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