タグ:箱館戦争 ( 9 ) タグの人気記事
新政府軍反攻(箱館戦争史跡めぐり⑩)

 新政府軍反攻(箱館戦争史跡めぐり⑩)

 箱館を占領された新政府は、榎本軍が蝦夷を領有するのを見逃していたわけではありません。

 10月25日青森に逃れた清水谷公考は、翌26日には新政府に軍勢の派遣を要請しました。

 新政府は、津藩、岡山藩、久留米藩の藩兵約1千名を青森への派遣を命じました。

 また秋田にいた長州藩兵約1500名も青森に向かわせました。

 そして、11月9日、山田顕義を青森口参謀に任命しました。

 山田顕義は、寒さが厳しく雪が激しい冬季に、蝦夷地を攻撃するのは無理と考え、明春に攻撃することしました。

 この後も、新政府は軍勢を増強し明治2年2月には6000名を超える軍勢が青森に集結しました。

 そして、黒田清隆が2月30日に参謀に任命され4月1日に青森に到着しました。

 一方、新政府の海軍は、榎本艦隊に劣っていましたが、アメリカが局外中立を解除したため、「甲鉄艦」が新政府に渡されることとなり、一挙に海軍力が高まりました。

 甲鉄を含む新政府海軍は、蝦夷政権が計画した甲鉄艦奪取のための奇襲作戦から起きた宮古湾海戦に勝利し、3月26日27日に青森港に入港しました。

 こうして、蝦夷地進攻の態勢が整った新政府軍は、4月6日に第一陣1500名が青森を出航し、9日に江差北東の乙部に上陸しました。

 下写真は、五稜郭タワーの歴史回廊にある乙部上陸のジオラマです。

c0187004_20285210.jpg

 蝦夷政権は新政府軍を向かい討ちましたが、多勢に無勢、さらに海からの艦砲射撃もあり、太刀打ちできませんでした。

 新政府軍は、江差に向かい、江差を守備していた蝦夷政権は戦わず松前に退却しました、

 新政府軍の第二陣400名が4月11日に江差に向かい、第三陣約3000名が4月15日に出港しました。

 こうして、本格的な新政府軍の攻撃が始まりました。

 


[PR]
by wheatbaku | 2017-09-04 20:23 | 『幕末』 | Trackback
蝦夷政権樹立(箱館戦争史跡めぐり⑨)

蝦夷政権樹立(箱館戦争史跡めぐり⑨)

箱館戦争の歴史について、今日は蝦夷政権の樹立について書きます。

 松前藩との戦いに勝利した旧幕府軍は、五稜郭に凱旋しました。

 そして、蝦夷地全島が旧幕府軍により占領されたため、12月15日、蝦夷地領有宣言式が行われました。

そして同日、士分以上の者の入札(投票)によって蝦夷地経営のための首脳部が選ばれました。

 その結果、総裁に榎本武揚、副総裁には松平太郎がなり、それ以下の首脳は次の通りでした。

総裁    榎本武揚

副総裁    松平太郎

海軍奉行  荒井郁之助

陸軍奉行  大鳥圭介

陸軍奉行並 土方歳三

箱館奉行   永井尚志

松前奉行   人見勝太郎

開拓奉行  澤太郎左衛門

海軍頭並  甲賀源吾、古川節蔵等

歩兵頭    古屋佐久左衛門ほか

歩兵頭並   伊庭八郎、星恂太郎等

砲兵頭並   中島三郎助ほか

器械頭並  渋沢成一郎ほか

 榎本武揚に同行した人の中には、元老中の板倉勝静や小笠原長行、前桑名藩主松平定敬、請西藩主林忠崇などがいましたが、彼らは、一人も選出されていないのが、注目されます。

c0187004_18054835.jpg

 この政権を、「蝦夷共和国」と評価する説もあります。江戸検お題のテキスト「疾走!幕末・維新」にも、「のちに『蝦夷共和国』と呼ばれるようになる」と書かれていて、「共和国」と評価する説にたっているように思われます。

しかし、「共和国」ではないという説のほうが有力のように思われます。

ご参考にいくつか紹介します。

石井孝著「戊辰戦争論」では、「『蝦夷政権』の役員が公選されたことから、この政権を『蝦夷共和国』とよぶものもあるが、役員を公選したのが士官であることからも、このような名称をもちいるのは誤りである」と明確に否定しています。

また、函館市史には次のように書かれています。

 終始「徳川脱藩家臣」を標傍した彼らの仮政権には「蝦夷共和国」と呼べるようなものはなく、公選という行為のみに目を奪われた幻影のようなものである。しかもこの入札による公選は、入札者が士官以上(脱走軍総数の3分の1ほどか)に限定され、箱館市民はさて置き、脱走軍だけをとっても共和制といえるような公選ではなかったのである。

 12月15日に樹立された政権が「共和国」かどうかはともかく、この日、全島平定を告げる101発の祝砲が、箱館の冬空にこだまし、港内の船は五色の旗が翻えりました。

また、五稜郭周辺では、騎乗の幹部が率いる賑々しい行進も行なわれ、五稜郭では、各国領事、外国艦隊の上級士官、箱館の有力市民などが招かれ、盛大な祝賀会が催されたようです。

最上段写真は、五稜郭タワーの歴史回廊のジオラマです。榎本武揚はじめ蝦夷政権の幹部の記念撮影の様子です。


[PR]
by wheatbaku | 2017-09-01 18:01 | 『幕末』 | Trackback
松前城攻略と開陽沈没(箱館戦争史跡めぐり⑧)

松前城攻略と開陽沈没(箱館戦争史跡めぐり⑧)

箱館と五稜郭を占領した旧幕府軍は、土方歳三を総指揮者とした700名の部隊が、松前城攻撃に向かいました。大鳥圭介は五稜郭に残りました。

土方歳三が率いた部隊は、彰義隊、額兵隊、陸軍隊などでした。

松前城攻撃に向かう部隊に新選組は含まれていません。しかし、攻撃軍の指揮は土方歳三がとりました。

もうすでに、土方歳三は、新選組の指揮者にとどまらず、旧幕府軍の重要な幹部になっていたのです。

11月5日、土方歳三ひきいる旧幕府軍は、松前城を攻撃します。

 この攻撃には、海からも回天と蟠龍が砲撃を加えました

 両艦の砲撃などにより城内では火災が生じ、その中を旧幕府軍がなだれ込み、松前城は陥落しました。

 松前藩兵は、江差にむけて落ちていきました。

この戦いで松前城下では火事が盛んとなり、城下の4分の3が焼失しました。

さらに15日には、旧幕府軍に備えて急造された館城も、松岡四郎次郎率いる一聯隊約200名の攻撃を受けて落城しました。

この戦いでは、左手に俎板、右手に大刀をふりかざして、今弁慶さながら奮戦、戦死した松前法華寺住職の三上超順の名が伝えられています。

五稜郭タワーの歴史回廊にもジオラマで三上超順の門前で奮戦する姿が描かれています。

c0187004_22045423.jpg

1119日、松前藩主松前徳広は、蝦夷地を離れ、津軽まで逃れ、弘前の薬王院に入りました。まもなく、松前徳広は肺結核が悪化し25歳の若さで病死しました。

こうした陸軍の速攻と奮闘によって松前攻略に成功しましたが、旧幕府軍には海で悲劇が起こりました。

陸軍の江差攻撃の応援のため江差沖に碇泊中の開陽が、15日夜暴風雨に襲われて座礁し、数日後に沈没してしまったのです。

開陽はオランダで建造された軍艦で、当時世界でも最新鋭の軍艦で、開陽の進水式はオランダで話題になったほどです。

当然のことながら日本でも最新鋭で、榎本武揚および同行の旧幕府軍全員が最も頼りにしていた軍艦です。

これがあっけなく沈没してしまいました。

しかも開陽の救援に向かった神速丸も座礁し沈没してしまいました。旧幕府軍にとっては大きな痛手でした。

この開陽沈没はあまりにも衝撃的であったため、江差攻略を指揮していた土方歳三が、沈没する開陽を眺めながらそばにある松の木を殴りつけたという逸話が残っています。

下写真は、五稜郭タワーの歴史回廊のジオラマですが、土方歳三がこぶしを松にたたきつけている場面を描いています。

この時の松は、現在も江差町郷土資料館の前に「土方歳三嘆きの松」として現存しているそうです。

c0187004_22050061.jpg


[PR]
by wheatbaku | 2017-08-29 21:57 | 『幕末』 | Trackback
五稜郭入城(箱館戦争史跡めぐり⑦)

五稜郭入城(箱館戦争史跡めぐり⑦)

今日は、旧幕府軍の五稜郭入城について書いていきます。

c0187004_19521354.jpg

10月20日に鷲ノ木沖に到着した榎本艦隊は、人見勝太郎を使者として箱館府に派遣し、翌日21日に全部隊が上陸しました。

この時期の箱館はすでに新政府に接収されていました。

慶応4年閏4月、最後の箱館奉行杉浦誠は、旧幕府の指示で、新たに箱館府知事に任命された新政府の清水谷公考に、五稜郭にある箱館奉行所を引き渡していました。

旧幕府軍は、この清水谷公考あてに嘆願書を提出するために使者を派遣したのです。

 人見勝太郎を派遣した後、旧幕府軍は、本隊と分隊に分れ、本隊は大鳥圭介が指揮し伝習隊・遊撃隊・新撰組が、大沼の西を通って五稜郭への本道を進み、海沿いの道を通って五稜郭へ向かう分隊は土方歳三が額兵隊などを指揮して進軍しました。

 10月22日の夜、旧幕府軍の本隊と新政府軍は、峠下村(亀田郡七飯町)で戦闘状態に入ります。

新政府軍が人見隊を夜襲したのが箱館戦争の始まりです。

しかし、新政府軍の夜襲は失敗し、旧幕府軍の追撃を受けることになりました。

大鳥圭介は、10月24日、部隊を2つに分けて、大野村(同郡大野町)と七重村(七飯町)に進軍します。

大野村には大鳥率いる伝習士官隊と伝習歩兵隊が向かい、七重村には人見勝太郎が指揮する遊撃隊・新撰組・工兵隊が進みました。

大野村の新政府軍は五稜郭へ引揚命令があったため、大鳥圭介隊は楽勝でした。

一方、七重村では両軍が激突し、数に勝る新政府軍が優勢で旧幕府軍は苦戦を強いられますが、斬りこみによる白兵戦で形勢を逆転し、新政府軍は敗退しました。

 敗戦の報せを受けた清水谷知事は、25日青森への撤退することにします。

諸藩の兵も外国船に高い乗船料を払って、次々に箱館港から脱出しました。

七重村に集結した旧幕府軍の大鳥圭介隊は、五稜郭を攻めるに慎重に対応し、25日は、五稜郭近くまで前進しただけです。

そして、10月26日、いよいよ総攻撃にかかり、五稜郭に向かいましたが、五稜郭はもぬけのからで、無血入城することができました。

一方、海沿いの道を進んだ土方歳三が指揮する額兵隊等の部隊は、新政府軍の抵抗はなく、25日には湯の川まで到着しており、26日、土方歳三が五稜郭に入城しました。
 鷲ノ木沖で舵の修理をしていた開陽は11月1日箱館に入港し、榎本武揚も五稜郭に入城しました。

 五稜郭タワーの歴史回廊には、五稜郭入城時のジオラマが展示されています。

 上段の写真と下の写真が、そのジオラマです。

c0187004_19522384.jpg



[PR]
by wheatbaku | 2017-08-25 19:47 | 『幕末』 | Trackback
千代ケ岡陣屋(箱館戦争史跡めぐり⑤)

 千代ケ岡陣屋(箱館戦争史跡めぐり⑤)

 箱館戦争史跡めぐりの5回目は「千代ケ岡陣屋跡」を紹介します。

 函館駅から五稜郭にむかう市電の「「千代台(ちよがだい)」電停の近くにある千代台公園の陸上競技場近くに説明板が設置されています。(下写真参照)

c0187004_20504886.jpg

 昔は鶴が飛来する岡だったので、江戸中期に八代松前藩主の室自正院文子が「千世の岡」と名づけた所とされ、「干代ヶ岡」や「千代ヶ台」と呼ばれましたが、「千代ヶ岱(ちよがたい)」とも呼ばれたそうです。

 現在の説明板では、上記の写真でお分かりになると思いますが、「千代ケ岡陣屋跡」となっています。

千代ヶ岡陣屋は、幕府直轄時代の文化5年に蝦夷地出兵を命じられた仙台藩が陣屋を設営したのが最初になります。

その後、蝦夷地が再び幕府直轄となった安政2年に津軽藩が陣屋を設営しました。そのために津軽陣屋ともいわれたようです。

周囲には約3.6mの土塁が築かれ、その周りには約12メートルの堀が掘られていてき、そのなかに本陣や兵舎など建物がありました。

五稜郭を占領した榎本武揚軍は大砲を備えて陣営とし、中島三郎助らが守り、そして、ここで最期を遂げました。

c0187004_20505762.jpg

中島三郎助は、浦賀奉行所与力でした。嘉永6年、浦賀沖に突如現れた黒船に最初に乗り込みアメリカ側と交渉した経歴があります。その後、長崎海軍伝習所の第一期生となり、3年後には軍艦操練所教授方となりました。

江戸城無血開城後、榎本武揚と共に蝦夷地にやってきました。

そして、中島三郎助は箱館奉行並として千代ヶ岡陣屋の守備につきました。

明治2年5月11日の新政府軍の総攻撃により箱館市内の大部分が制圧されると、新政府軍は、中島三郎助に降伏勧告をしましたが、中島はそれを拒絶して戦闘を続け、516日に長男恒太郎や次男英次郎と共に戦死しました。

「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」という辞世の句を残しています。

 陸上競技場近くの函館税務署の入口の緑地帯には、中島三郎助父子最後之地の石碑が建てられています。

c0187004_20510919.jpg
c0187004_20511680.jpg

 毎年5月の箱館五稜郭祭では碑前祭が行われるそうです。

千代台公園の隣は中島町という町名で、中島小学校という小学校もありますが、これは中島三郎助に由来する町名です。

中島小学校のある場所が千代ケ岡陣屋の本陣があった場所だそうです。

明治時代には陣屋付近一帯が函館重砲兵連隊の陣地となり、第二次世界大戦後まで兵営所でしたが、戦後、競技場や野球場のある運動公園となったそうです。

町名も干代ヶ岱町だったが昭和43年千代台となったため、市電の電停も「千代台」となっています。



[PR]
by wheatbaku | 2017-08-16 20:20 | 『幕末』 | Trackback
弁天岬台場(弁天台場)  (箱館戦争史跡めぐり④)

弁天岬台場(弁天台場)  (箱館戦争史跡めぐり④)

箱館戦争史跡めぐりの4回目には、弁天岬台場(もしくは弁天台場ともいうようです)について書いていきます。

 弁天岬台場は、現在の函館ドックの場所にありましたが、明治29年に港湾改良工事のため解体されました。

そのため、弁天岬台場そのものは残されていません。

函館市電「函館どつく前」電停のすぐそばの児童公園に「弁天岬台場跡」の説明板が設置されています。(下写真参照)

c0187004_19020801.jpg
 

 箱館奉行は安政元年12月9日、外国船に備える砲台などが整っていないとして、矢不来、押付、山背泊、弁天岬、立待岬、築島、沖の口番所の七か所をあげて、台場の修築ないし新築の必要を老中へ上申しました。

しかし、幕府は一挙に取りかかるのは無理と判断し、最も重要と思われる弁天岬、築島から築造することになりましたが、実際に着工できたのは弁天岬台場だけでした。

 弁天岬は港内第一の要地であるため、海岸の暗礁の上に、三方面に対応した台場を造れば、函館港と市中の防衛になると考えられました。

 台場の設計は五稜郭と同じ武田斐三郎が担当し、台場の建設費用は10万両の計画で、安政3年から工事が始まり、土や石は箱館山のものを使い、重要部分は備前御影石を大坂から運んで、文久3年に完成しました。

台場の形状は不等辺六角形をしていて、周囲は390間余(約710メートル)あり、高さ約37尺(約11.2メートル)ありました。

台場には、15個の大砲が据え付けられ、山背泊からと合わせて十字射撃できるという構想でした。大砲のうち数門はロシアのディアナ号に備えつけられた大砲を贈られたものでした。

 箱館戦争では、榎本武揚艦隊は、明治元年10月20日に蝦夷地鷲ノ木に錨をおろし、翌日上陸しますが、直接、箱館に向かわなかった大きな理由の一つに箱館港には弁天岬台場があり、そこからの砲撃を避けることがあったようです。

 榎本武揚軍が五稜郭に入城してからは、新選組など守備しました。

新政府軍が総攻撃をかけてきた明治2年5月15日に弁天岬台場は海上と箱館山側から攻撃されて台場に立て籠もっていた新選組さらに箱館奉行であった永井尚志らは降伏しました。

 このため、新選組にとって最後の拠点でした。そこで近くの児童公園の弁天台場の説明板の脇には「新選組最期の地」と書かれた標柱が建てられていました。(下写真参照)

c0187004_19021984.jpg

弁天台場には、明治20年まで陸軍省函館砲隊が入り、明治29年港湾改良で壊され、跡地に函館ドックができました。

この時の港湾改良を記念した石碑「函館港改良工事記念碑」が防波堤そばに設置されています。石碑の石は、弁天台場の土塁石垣に使用されていた備前産の御影石を再利用したものです。(写真右手が記念碑です)

c0187004_19022589.jpg




[PR]
by wheatbaku | 2017-08-14 19:00 | 『幕末』 | Trackback
箱館奉行所(箱館戦争史跡めぐり③)

 箱館奉行所(箱館戦争史跡めぐり③)

前回、五稜郭は箱館奉行所を守るための堡塁だとかきました。

 今日は、五稜郭が守っている箱館奉行所についてご案内します。

 下写真が、箱館奉行所です。

c0187004_15492878.jpg

 箱館奉行所は、実は二度にわたって設置されています。

 まず、最初は、ロシアが南下政策をとるなかで、ロシア船が蝦夷地近海に頻繁に表れるようになりました。

 そのした中で、幕府は、寛政11年(1799)に松前藩が統治していた東蝦夷地を直轄地にしました。

そして、享和2年(1802)には蝦夷奉行(同じ年に箱館奉行と改称)を設置しました。

さらに、享和3年には箱館の港を見おろす現在の元町公園に奉行所が建てられました。

元町公園には、元箱館奉行所跡と書かれた標柱が建てられています。(下記写真参照)

c0187004_15531301.jpg
 

 その後、ロシアとの関係が落ち着いたことから、蝦夷地の直轄管理体制が解かれ、箱館奉行所も廃止されました。

 しかし、安政元年の日米和親条約により、安政2年に箱館が開港されることになり、箱館奉行所が再び設置されました。

 その際の箱館奉行所は、元の箱館奉行所の設置場所、現在の元町公園がある場所に設置されました。

奉行所からは、箱館の港と町を一望できましたが、箱館港に出入りする外国の軍艦からは、格好の標的になる不用心な場所に奉行所は建っていました。

そこで、安全な場所へ箱館奉行所を移転することとなり、亀田村に移転することになりました。

亀田村は、箱館港から約3km離れていて、当時の大砲の射程距離から外れていました。また、亀田川から水を引くことができました。

ここが、現在の五稜郭のある場所です。

五稜郭が万延元年年(1860)にできあがり、翌元治元年(1861)に箱館奉行所も完成し、当時の箱館奉行小出秀実が移転しました。

現在の箱館奉行所には奉行の執務室である表座敷が復元されていて、床の間には掛け軸は最後の箱館奉行杉浦兵庫頭誠の書が架かられていました。(下写真)

c0187004_15494551.jpg

 その後、箱館戦争の際には、旧幕府軍の榎本政権の本拠地となりました。

 その箱館戦争が明治2年に終了した後、開拓使が設置され、新政府による北海道の統治が始まりましたが、五稜郭を役所として利用することはありませんでした。

そして、明治4年には、札幌に新築する開拓使本庁舎の材料とするために、旧箱館奉行所と付属建物の大部分が解体されました。

そして、その後、箱館奉行所の姿はありませんでしたが、平成22年に、元の姿に忠実に復元されました。

ただ、旧奉行所が元の大きさのままに復元された訳ではなく、奉行所の主要部分を中心として、元の奉行所の3分の一の大きさで復元されています。

 復元された奉行所には大広間や奉行の執務室であった表座敷が再現されています。

 大広間は72畳もの広さがあるそうです。

c0187004_15493329.jpg



[PR]
by wheatbaku | 2017-08-12 15:41 | 『幕末』 | Trackback
五稜郭(箱館戦争史跡めぐり②)

 五稜郭(箱館戦争史跡めぐり②)

 今日から、箱館戦争史跡めぐりについて書いていきます。

 まず、最初は「五稜郭」です。

 五稜郭は、星型をした西洋式城郭として大変有名です。

 城郭というイメージが強いですが、天守はありませんでした。

 中央にあるのは箱館奉行所でした。

 五稜郭は、箱館奉行を防御するために造られたのです。

c0187004_12014212.jpg

 安政元年(1854)3月3日に締結された日米和親条約によって、下田と箱館が開港されることになり、下田は即日開港され、箱館は翌年の安政2年3月から開港されることになりました。

安政元年6月に幕府は松前藩から箱館とその周辺の地を上知させ、箱館奉行をおきました。

箱館奉行には竹内保徳そして堀利煕を任命しました。

 安政元年12月、箱館奉行から、奉行所を箱館より北の亀田村に奉行所を移転しそれを守る土塁を建築したいとの伺書が出され、移転することが決定しました。

 それから、約1年を経て、奉行所を守る土塁は西洋式土塁とすることとなりました。

 これにより、五角形の星型をした五稜郭が築城されることになりました。

 亀田村が選ばれたのは、海から3キロあまり離れていて、設計当初は艦砲射撃の対象にならなかったことと亀田川があり水利の便が良かったことが主な理由です。

 建設工事は、安政4年(1856)に掘割工事が始まり、建物の建築は文久元年(1861)に始まり、完成したのは元治元年(1864)のことです。その後も、付帯工事が行なわれ、すべての工事が完成したのは、慶応2年(1866)です。

 五稜郭は、星型をしていますが、正面入口に一つ、三角形の部分があります。

 下写真の手前部分です。赤い屋根の建物が見える地点一帯です。

 これは、半月堡と呼ばれています。当初の設計図では、星型の外側5か所に設置する計画だったそうですが、費用の面で、正面入口にだけ築造されたそうです。

 当初の設計図どおりであれば、五稜郭は、星形の外に5つの突起部分があるという一層複雑な形となったはずです。

c0187004_17324509.jpg

 この五稜郭を設計したのは、武田菱三郎です。

武田菱三郎は、伊予国大洲藩士の次男として生まれました。18歳の時に大坂の緒方洪庵の適塾に入門しました。その後、江戸に出て佐久間象山のもとで砲術をまなび、象山の推挙で幕府に出仕しました。

安政元年には、堀利熙に従って蝦夷地巡察旅行に加わりました。樺太まで渡りました。

この時に、箱館奉行所が設置され、旅行が終わるとともに箱館詰となります。

安政3年には,箱館港防備のための弁天崎台場,安政4年からは箱館奉行所としての五稜郭の設計や監督を行いました

その一方で、安政3年に語学,航海,築城などを教える諸術調所が開かれると諸術調所教授となり、製鉄。造兵、築城、航海、捕鯨などという多方面の分野にわたって指導しました。

ここでは、幕臣とか陪臣とかの身分を問わずに教育する方針でしたので、希望者が各地から集まって来ました。

御用船亀田丸を指揮してロシアのニコラエフスクまで交易に出掛けるなど実践を重んじた教育を行ない、前島密、井上勝、山尾庸三など明治になってから活躍する人々を育てあげました。

そして、元治元年(1864)開成所教授となり、箱館を去りました。

五稜郭の正面入り口を入ると、武田菱三郎の顕彰碑が建てられています。

c0187004_12014869.jpg



[PR]
by wheatbaku | 2017-08-10 11:56 | 『幕末』 | Trackback
箱館戦争史跡を訪ねてきました。(箱館戦争史跡めぐり①)

箱館戦争史跡を訪ねてきました。(箱館戦争史跡めぐり①)

 先週は、箱館戦争の史跡を訪ねて、1泊2日で函館に行ってきました。

 私は埼玉県に住んでいるため、函館まで飛行機で行く方法のほか、北海道新幹線を利用する方法もあります。旅行会社に聞いたら、新幹線のほうがよいでしょうということなので、北海道新幹線で行ってきました。

 大宮を7時前に出発して函館駅には11時30分に到着しました。(下記写真が函館駅です)

 青函トンネルは25分で通過しました。函館は本当に近いと実感しました。

c0187004_17370112.jpg

 函館でも、箱館戦争関連の史跡を訪ねてきましましたので、これから順にレポートしていきますが、今日は最初ですので、どんなところを訪ねたのか概略をご案内します。

五稜郭

 五稜郭は、箱館戦争を語る際にははずことができませんので、まず、最初に訪ねたのが五稜郭です。

 五稜郭は、星型の西洋式城郭として有名ですが、五稜郭のそばにたっている五稜郭タワーの展望台からは、五稜郭が一望に眺められます。まさに五角形であることが一目瞭然です。

 下写真は展望台から写した五稜郭です。

c0187004_17324509.jpg

箱館奉行所

 五稜郭は、箱館奉行所を防御するために築造されたもののようです。

 箱館戦争の際には、ここが榎本政権の本拠地となった場所です。

 箱館奉行所は、明治になって取り壊されてしまいましたが、平成22年に再建されました。

 念密な検討を加えて昔の姿を復元しているそうです。

c0187004_17331311.jpg

弁天台場跡

 弁天台場は弁天岬台場とも呼ばれて、箱館港を守るために築造されました。

 箱館戦争の際には、ここに永井尚志や新選組が籠城して新政府軍と交戦しました。

 現在は、埋め立てられていて、面影はまったく残っていませんが、近くの児童公園に弁天岬台場の説明板が設置されていました。

c0187004_17333772.jpg

千代ケ岡陣屋跡

 千代ケ岡陣屋は幕末には津軽藩の陣屋として使用されていました。

 箱館戦争の際には、中島三郎助たちが立てこもり、ここを守備しました。

 新政府軍からの最後の攻撃の際に、降伏を勧められましたが、中島三郎助はそれを拒否して、ここで息子たちとともに討死しました。

c0187004_17335821.jpg

一本木関門

 箱館戦争の花形スターは、榎本武揚の外、土方歳三でしょう。

 その土方歳三が亡くなったとされているのが、一本木関門です。

 現在は、総合福祉センターの中庭に「土方歳三最期之地」と刻まれた石碑が建てられています。その脇には一本木関門の模型が作られています。

c0187004_17341812.jpg

碧血碑(へっけつひ)

箱館戦争で亡くなった新政府軍の兵士たちは、護国神社に祀られました。

しかし、旧幕府軍の兵士は、新政府軍の命令により、放置されましたし、その後も、護国神社に祀られることはありませんでした。

 そこで、榎本武揚を筆頭に箱館戦争生き残りの人たちの協賛をえて、箱館戦争で亡くなった人たちを慰霊するために建てられたのが「碧血碑(へっけつひ)」です。

 箱館山の山中にあるため、訪ねるのが一苦労でしたが、苦労した甲斐がありました。

c0187004_17345893.jpg

 その他に訪ねた史跡もありますが、これから順にご案内していきます。



[PR]
by wheatbaku | 2017-08-06 17:29 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
by 夢見る獏(バク)
プロフィールを見る
画像一覧
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
以前の記事
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
ブログパーツ
最新のコメント
ツユクサさん 江戸城散..
by wheatbaku at 12:53
獏様 江戸城散策、お疲..
by ツユクサ at 08:26
宮越さん コメントあり..
by wheatbaku at 11:42
今回のブログで、霊厳寺が..
by 宮越重遠 at 10:51
やぶひびさん 本妙寺は..
by wheatbaku at 13:05
「江戸から東京へ1」を図..
by やぶひび at 09:30
ツユクサさん 土曜日は..
by wheatbaku at 21:00
獏さん 案内お疲れ様で..
by ツユクサ at 11:10
小ツルさん 「むさしあ..
by wheatbaku at 09:50
バクさま、加州そうせい公..
by 鶴ヶ島の小ツル at 16:57
加州そうせい公様 私も..
by wheatbaku at 07:34
バクさん 昨日の江戸楽..
by 加州そうせい公 at 17:31
mikawaさん 先日..
by wheatbaku at 12:55
宮越さん コメントあり..
by wheatbaku at 09:03
宮越さんからコメントをい..
by wheatbaku at 09:00
mikawaです。先日は..
by mikawa ケンイチ at 08:17
ツルさん 名古屋に住ん..
by wheatbaku at 16:18
獏さま ははあ、あの石..
by 鶴ヶ島の小ツル at 15:20
やぶひびさん NHKB..
by wheatbaku at 17:54
今夜3/3.20:00~..
by やぶひび at 12:49
最新のトラックバック
穴八幡宮
from Coffee, Cigare..
風景印  28.4.30..
from としちゃんの風景印・郵趣日誌
山王日枝神社@溜池山王
from たび☆めし☆うま BLOG
浮世絵の誕生・浮世絵の歴..
from dezire_photo &..
小網神社@人形町
from たび☆めし☆うま BLOG
二つの感応寺
from Madam'Blog
江戸検講座「江戸の祭礼と..
from Madam'Blog
浅草寺本尊示現会
from Madam'Blog
江戸料理 八百善
from お気楽マダムの奮闘記
‘七福神’宝船 装飾新調..
from ローカルニュースの旅
お気に入りブログ
江戸・東京ときどきロンドン
ファン
ブログジャンル
歴史