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高輪大木戸(赤穂浪士の引き揚げルート37)
 さて、赤穂浪士の引き揚げルートも、いよいよ泉岳寺に近づいてきました。
 今日は、高輪大木戸です。

 高輪大木戸は、都営地下鉄「泉岳寺」駅のすぐそばにあります。
 高輪大木戸は、東京都の史跡に指定されています。

 東京都教育委員会の説明板があり、それに基づいて書くと次のようになります。

c0187004_224618.jpg 高輪大木戸は、芝口門が新橋に移転した年の宝永7年(1710年)に芝口門にたてられたのが始まりといわれています。
 そして、享保9年(1724年)に現在地に移されました。
 また、現在地に宝永7年(1710年)に造られたという説もあります。

 高輪大木戸は、道幅約6間(約10m)の旧東海道の両側に石垣を築き、夜は閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていました。
 天保2年(1831年)には、ここより北にある「札の辻」から高札場も移されました。
 江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は石垣だけとなっています。
 
 東海道を行く旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿に至る海岸の景色もよく、月見の名所でもありました。

c0187004_2252441.jpg 歌川広重の名所江戸百景の中に「高輪うしまち」というのがあります。
 高輪大木戸を出た岡側に、車町、俗称「牛町」という町がありました。
 寛永11年(1634)、増上寺安国殿を普請するにあたり京都から牛持ち人足を呼び、木材や石材の運搬にあたらせたことに始まります。
 この牛は江戸城の拡張にも用いられ、これらの工事が完了すると、牛持ち人足は江戸に定住し、車町(いわゆる牛町)が作られました。
 それ以来、江戸では牛車による荷物の運搬が行われ、牛は山王祭や神田祭にも使われるようになりました。
 この絵には、手前に大きく牛車が書かれています。
 そして、絵をよく見ると遠く海の中にはお台場が見えています。
 この絵が描かれたのが、 安政4年(1857)です。
 お台場は、嘉永6年(1853)8月から安政元年(1854)5月の間に作られましたので、描かれていて不思議はありません。

 赤印が高輪大木戸です。間もなく泉岳寺です。

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by wheatbaku | 2012-12-26 08:08 | 忠臣蔵 | Trackback
御田神社(赤穂浪士引き揚げルート36)
 「住友不動産三田ツインビル西館」を右手に見て品川方面に向かうと、右手に「セブンイレブン」があります。
 そのセブンイレブンの先にあるのが「箕田八幡神社」です。第一京浜から少し奥に入り、石段を上った上に社殿があります。

 箕田八幡神社は、和銅2年(709)に、牟佐志国牧岡(むさしのくにまきおか】(現在の白金近辺)というところに、東国鎮護の神様としてまつられました。鎮座後1300年が経つという大変歴史のある神社です。
c0187004_20271873.jpg その後、寛弘8年(1011)に、武蔵野国御田郷久保三田(みたごうくぼみた)の地に遷座されました。
 この辺りは、源頼光の四天王一人として有名な嵯峨源氏の渡辺綱が誕生した地との伝説があります。
 綱町三井倶楽部の中には渡辺綱の産湯の井戸といわる古井戸が残されています。また、江戸時代には「綱町」とも呼ばれていました。
 こうしたことから御田八幡神社は渡辺氏の氏神として崇拝され、渡辺綱にちなんで俗に「綱八幡」と呼ばれました。

 そして、江戸幕府が開かれた後、別当寺の僧快尊が元和5年(1619)に占いにより現在地に造営を開始し、寛永5年(1628)に遷座したといいます。
 明治になり神仏分離により別当僧が神主職に就いたそうです。
 明治2年9月稗田神社と称した後、明治7年に三田八幡神社と改称し、さらに明治30年三田を御田の旧名に復し御田八幡神社と称するようになりました。
 元々「御田」と書いたのが「三田」と書かかれるようになったのは、宮司の水野様のお話では、御田のふりがなとして「ミタ」とふっていたのが、いつしか「三田」と書かれるようになり、「三田」が一般化したとののことでした。
 ですから、本来は「御田」なのだそうです。
 昭和20年5月に、米軍による空襲により、江戸時代のご社殿を焼失し、昭和29年に、本殿、幣殿・拝殿・神楽殿・社務所が再建されました。
 平成21年には鎮座して1300年を祝う大祭が行われました。


 この御田八幡神社は、赤穂浪士引き揚げ時のエピソードがあります。
c0187004_20274494.jpg 
 赤穂浪士の引き揚げの途中で、この御田八幡神社の前で、高田郡兵衛が現れ、お祝いを述べたと言われています。
 しかし、高田郡兵衛は江戸急進派の一人でありながら、討ち入りから脱落したため、赤穂浪士一行は無視したそうです。

25.9.11追記
 赤穂浪士を預かった細川家の「堀内伝右衛門筆記」には、このことが詳しく書かれています。
 高田郡兵衛が現れた時、赤穂浪士一行は無視しましたが、堀部弥兵衛だけが討入りが成功し吉良上野介の首を泉岳寺に持っていくところと話すと、郡兵衛は、安堵されたことでしょう。私も御田八幡に討入りの成功を祈願するために立ち寄ったのですと答えた。
 その後、郡兵衛は、酒を持って泉岳寺に現れたが、酒を返すように門番に伝えたという。


 これに関して、御田八幡神社の宮司の水野様が言うには、赤穂浪士一行は御田八幡神社の前を通らなかったのではないかというふうに言っていました。
 その理由は、御田八幡神社の上を通った方が、人が少なくかつ泉岳寺に近いという点、それに神様は血の穢れを嫌うので、生首を持って、神社の前を通ることはなかったのではないかというものです。
 確かに、元禄時代には服忌令という法令が発令されて、けがれについては大変厳しく決められたという時代でもありますので、そうしたことが考えられると思いました。

 赤印が御田八幡神社です。

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by wheatbaku | 2012-12-25 07:17 | 忠臣蔵 | Trackback
「元和キリシタン遺跡」碑(赤穂浪士引き揚げルート35)
 JR田町駅から第1京浜を品川方面に進むと、札の辻交差点を過ぎて泉岳寺方面に向かうと第一京浜の西側に「住友不動産三田ツインビル西館」があります。
c0187004_22392274.jpg 「住友不動産三田ツインビル西館」は広い敷地があります
 。その北側と西側が広い広場になっていて、「元和キリシタン遺跡」の碑がツインビル西館の北側から奥に入ったところにあります。
 広場を通って、広くゆるやかな階段を上りつめると正面に碑があります。

 「元和キリシタン遺跡」は昭和34年に都旧跡に指定されました。
 東京都教育委員会の説明板には次のように書かれています。

 徳川3代将軍家光が元和9年(1623)10月13日、江戸でキリシタンを処刑したことは徳川実紀によって知られている。c0187004_22394245.jpg 処刑された者はエロニモ、デアンゼルス神父、シモン、遠甫、ガルウェス神父、原主水ら50人で、京都に通ずる東海道の入口にある丘が選ばれたと、パジェスの「日本キリシタン史」にあるが、その他は恐らくもとの智福寺のあった西の丘の中腹の辺であろうと考えられる。
 その傍証としては智福寺開山一空上人略伝記にこの地が以前処刑地で長い間空地となっていたが、そこに寺を建てることは罪人が浮かばれると考えたとあることなどがあげられる。
 なお、寛永15年(1638)12月3日にも同じ場所でキリシタンらが処刑されている。
 昭和43年3月1日建設  東京都教育委員会      

 この説明に書かれている智福寺は、幕末の切絵図には「知福寺」と書かれています。
 昭和41年に上石神井に移転し、現在は上石神井にあります。

 碑の前の道をさら進むとエレベーターがあり、済海寺方面への抜けられるようになっています。

 赤印が「元和キリシタン遺跡碑」です。 青印は「住友不動産三田ツインビル西館」です。

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by wheatbaku | 2012-12-24 10:31 | 忠臣蔵 | Trackback
札の辻 (赤穂浪士引き揚げルート34)
 赤穂浪士は現在の田町駅前を通り泉岳寺に向かいました。
 現在の田町駅の目の前には、元禄時代には、岡崎藩主であった水野家の中屋敷がありました。
c0187004_0513196.jpg 藩主水野忠之は、8代将軍吉宗の時に筆頭老中となり、吉宗の享保の改革を担う重要な役割をはたしますが、当時は、元禄12(1699)年実家の兄忠盈の死により遺領を継ぎ岡崎藩主となったばかりでした。
 しかし、刃傷事件発生時には、鉄砲洲の上屋敷に行き、藩士の動揺を取り押さえていました。
 泉岳寺に向かった赤穂浪士一行は、当日中に、大名4家に御預けとなりますが、その一つが岡崎藩水野家でした。
 この水野家については、過去に書いていますので、 「水野忠之と水野監物邸跡碑」 をご覧ください。

 さて、浜松町駅前にから泉岳寺にむかうと「札の辻」交差点になります。
c0187004_043116.jpg 左写真は田町駅側から見た札の辻の交差点です。
 札の辻は、江戸時代のはじめ、ここに高札場が設けられていたことから札の辻と呼ばれるようになりました。
 「札の辻」というの地名は固有名詞ではなく一般名詞です。そのため、各地の城下町には、札の辻という地名が残っています。
 埼玉県の川越市にも「札の辻」という地名が残っています。
 また、高札場というのは、幕府の法令などを掲示する場所で、江戸市中においては、各所にありました。
 その中で最も重要な高札場が日本橋南詰にあり、その他主要な高札場が江戸市中に5か所あり合わせて  六大高札場と呼ばれていました。 六大高札場とは日本橋南詰、常盤橋外、浅草橋内、筋違橋、半蔵門外と高輪とされていて、高輪大木戸もその一つでした。

c0187004_0432390.jpg 元和2年(1616)には、芝口門が現在の札の辻に建てられて、江戸の入口としての形式を整えました。
 そして、高札場は、後に 天和3年(1683) に南方の高輪(後の大木戸の場所)に移されましたと港区教育委員会の説明板には書かれています。
 なお、高輪大木戸の東京都教育委員会の説明板では、天保2年(1831年)移設とのことこっちが正しいのは確認できていません。
 高輪大木戸に高札場が移設された後は、ここは「元札の辻」と呼ばれるようになりました。そして、明治維新後は 「元」を略して「札の辻」と呼ばれるようになったそうです。
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by wheatbaku | 2012-12-23 09:05 | 忠臣蔵 | Trackback
西郷隆盛・勝海舟会見の地(赤穂浪士の引き揚げルート33)
 今日は、江戸城無血開城を決めた西郷隆盛と勝海舟が会談した場所のご紹介です。

c0187004_16161362.jpg JR浜松町駅から徒歩3分の場所に、三菱自動車工業の本社ビルがありますが、そのビルの歩道わきに「西郷南洲・勝海舟 会見之地」と書かれた記念碑が立てられています。 
 ここで新政府軍の江戸城総攻撃の前日にあたる慶応4年3月14日、幕府陸軍総裁勝海舟と新政府軍の西郷隆盛が会見し江戸無血開城を取り決めました。

 江戸城無血開城に至る経緯を書くと次のようになります。
3月6日 山岡鉄舟江戸を出発

 3月9日 山岡鉄舟駿府到着、西郷と会談
 山岡は西郷と会談を行い、江戸城総攻撃の回避条件として西郷から山岡へ提示されました。

 それは以下の7箇条です。

c0187004_16133651.jpg  1.徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。
 2.江戸城を明け渡すこと。
  3.軍艦をすべて引き渡すこと。
  4.武器をすべて引き渡すこと。
  5.城内の家臣は向島に移って謹慎すること。
 6.徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること。
 7.暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること。

 山岡は、第1条は絶対飲めないといって反論したので西郷が折れました。
 山岡はその足で江戸へと戻り、勝に西郷との会談の内容、そして降伏の条件等を報告しました

 3月13日、勝と西郷が高輪の薩摩屋敷において会談します。
 この日、西郷と勝の間では、江戸開城に関する重要な交渉事は何もありませんでした。
 ただ、明日もう一度、芝の田町の薩摩屋敷で会うことを約束して別れたのです。

 そして迎えた翌14日、勝は西郷が山岡に提示した条件についての嘆願書を携えて、西郷の元を訪れました。
 西郷は勝の嘆願書を読み、勝と恭順の条件について話した後、隣室に控えていた薩摩藩士・村田新八、桐野利秋を呼び、明日の江戸総攻撃の中止を伝えました。
 この両雄の会談が江戸百万の市民を救うことになったのです。

c0187004_16164033.jpg 勝はその14日の会談のことを後年『氷川清話』の中で次のように語っています。

 「いよいよ談判になると、西郷は、おれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。 「いろいろむつかしい議論もありましょうが、私一身にかけてお引き受けします。」西郷のこの一言で江戸百万の生霊(人間)も、その生命と財産を保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。このとき、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判のときにも、終始坐を正して手を膝の上にのせ、少しも戦勝者の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような風が見えなかったことだ」


  会見の場所となった薩摩藩の田町藩邸は、薩摩藩の蔵屋敷でした。
  この蔵屋敷の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られてくる米などは、ここで陸揚げされていました。

 実は、3月14日の西郷・勝の会談が行われた場所については、田町藩邸のほか、高輪藩邸、愛宕山、田町の橋本屋など諸説があるようです。

 田中惣五郎氏は、人物叢書「西郷隆盛」の中で、「田町藩邸」としています。
 勝部真長氏は、「勝海舟」の中で、「田丁(たまち)の蔵屋敷」としています。
 海音寺潮五郎氏は、「江戸開城」の中で、「芝田町の薩摩屋敷」としています。
 このように、「田町藩邸」とする人が多いようです。

 しかし、
 犬飼隆明氏は、岩波新書「西郷隆盛」の中で、「田町の橋本屋というしもた屋」としています。
 また、
 吉村昭氏は、「彰義隊の」の中で、3月13日の会談は高輪の薩摩藩邸で行われ、その後、愛宕山に一緒に登ったとしており、3月14日の会談も(高輪の)薩摩藩邸としています。
 
赤印が「西郷南洲・勝海舟会見之地」の碑です。三菱自動車工業の本社前にあります。

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by wheatbaku | 2012-12-21 07:51 | Trackback
金杉橋(赤穂浪士の引き揚げルート32)
 旧東海道である第一京浜を南下していきます。
 すると大門の交差点の手前西側に芝大神宮があります。
 芝大神宮は、社伝によれば、一条天皇の御代、寛弘2年、伊勢の内外両宮を勧請して創建したといい、鎮座 以来1000年が経つという大変古い神社です。
 芝大神宮は、東京十社の一つですので、以前書いていますので、 「芝大神宮(十社めぐり)」 をご覧ください。
 また、大門の交差点を西に向かうと増上寺がありますが、こちらも「増上寺散歩」で書いていますのでお読みください。

 第一京浜を南下すると金杉橋があります。
 現在の金杉橋は大正8年に架けられました。
c0187004_16433120.jpg 金杉橋の下を流れるのは、古川と言います。
 古川の上流は渋谷川といいます。  
 渋谷川は、新宿御苑の湧き水を源流としていますが、玉川上水完成(1653年)後、四谷大木戸(現在の四谷四丁目)の水番所から上水の余った水を渋谷川へ流したので、水量が多くなりました。
 新宿と渋谷区を流れる間は渋谷川と呼ばれ、渋谷区と港区の境界である天現寺橋(笄川合流点)から下流は古川(ふるかわ)と呼ばれています。

 この橋の上流に「将監橋」がありますが、その近くに病身の磯貝十郎左衛門の母がいるので立寄って暇乞をしてくるようにと、大石内蔵助が勧めましたが、磯貝十郎左衛門は立寄りませでした。
「母は兄の処にいますが、目立つ装束で訪ねてはお屋敷に対して(兄の主君に対して)、失礼と存じ、また僅かの時間でも異変が起るとも限らぬと思い、立寄らずにしまいました」と後日語っています。
 
c0187004_16465164.jpg 現在の「将監橋」は、昭和43年7月に架けられた長さ約234m、幅17mの鋼橋です。
 橋の名前の由来は、岡田将監(おかだしょうげん)の屋敷が近くにあったからという説、岡田将監が橋を掛けたためその名とがついたという説など諸説あるようです。
 写真は金杉橋からみた上流の将監橋方向を写したものです。将監橋がわずかに写っています。

 江戸時代には、ここから島送りの舟が出ました。
 実は、このことが本当かどうか、いろいろな資料・書物を調べましたが、なかなか、明確に書いているあるものが見つかりませんでした。
c0187004_16473737.jpg しかし、いろいろ探した結果、名和弓雄著「拷問刑罰史」(雄山閣出版)の「遠島御仕置」の中に書かれているのを見つけ出しました
それによると
①江戸からの島流しは、伊豆七島すなわち大島、八丈島、三宅島、新島、神津島、御蔵島、利島に島流しになりました。
②江戸では、永代橋と金杉橋から船が出ました。
永代橋から出帆する流人は、どんなことがあっても、死ぬまで島から帰って来られない者で、船にたてる幟には、ひらがなで「るにんせん」と書かれていたそうです。
金杉橋から出帆する流人は、何年か後には、特赦の沙汰があって、本土に帰ってこられる望みのある者たちで、船の幟には漢字で「流人船」と書かれていたそうです。
③見送りの近親者たちが涙を流して別れを惜しむことは黙許されていて、島尾久利の役人たちも、いつもながらの愁嘆場を大儀な役目と嘆いたそうです。

 現代では、遠島船の悲しみなど割れたかのように金杉橋のたもとには東京湾遊覧の屋形船が一杯停泊しています。
 このあたりには船宿があり、屋形船は15名以上の貸切で1万円以上からのようです。
 
 赤印が金杉橋です。 緑印が芝大神宮です。 青印が将監橋です。


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by wheatbaku | 2012-12-20 07:14 | 忠臣蔵 | Trackback
慶応義塾跡(赤穂浪士引き揚げルート31)
 赤穂浪士の引き揚げルートも、浜松町近くになりました。
 赤穂浪士一行は、 現在の浜松町一丁目交差点で、東海道(現在の第一京浜)に出てきました。
 これ以降は、東海道を泉岳寺まで引き上げていきました。
 
 浜松町駅北口から徒歩3分で、第一京浜からは少し東に入った「港区立エコプラザ」 (旧神明小学校)  に「福沢・近藤両翁学塾跡」と書かれた碑が建っています。
c0187004_209633.jpg ここに、慶応4年(1868)から明治4年(1871)まで慶応義塾がありました。
 慶応義塾の始まりは、築地鉄砲洲の中津藩奥平家の屋敷内(総坪数約4063坪)に在った福沢諭吉の家塾ですが、慶応4年、鉄砲洲一帯の海岸地が外国人居留地となったため、奥平家中屋敷を引き払わなければならなくなり、芝新銭座(しんせんざ)の有馬家中屋敷の一部を買い取りました。
そして、新たに建物を建てて時の年号に因んでこれを慶応義塾と名付けました。
 「義塾」という言葉は福沢諭吉は学校という普通名詞と同じ意味で命名したのだそうです。

塾を移転した慶応4年は江戸時代最後の年で江戸城の無血開城や上野戦争が起きた年です。
 こうした騒々しい時期にも、福沢諭吉は、教育中心の生活をおくっていて、上野戦争中の授業はやめませんでした。 
c0187004_2095486.jpg  「上野と新銭座は2里も離れているので鉄砲玉の飛んでくる気遣いはないというので、丁度あのとき私は英書で経済の講釈をしていました。」と福翁自伝に書いています。
 慶応義塾は明治4年に現在慶応大学のある三田に移りました。
 この移転のきっかけは明治3年に福澤諭吉が発疹チフスに罹ったことにありました。
 福沢諭吉は命は事なきを得ましたが、慶應4年に鉄砲洲から移ったばかりの新銭座の土地でしたが、実際に住んでみると「何か臭いように鼻に感じる。また事実湿地でもあるから、どこかに引き移りたい」(福翁自伝)と考えるようになりました。
 そこで手分けして適当な場所を物色した末、三田にある島原藩の中屋敷が乾燥しているし海浜の眺望もよいということで明治新政府に拝借を働きかけて実現したそうです。

c0187004_1958997.jpg 慶応義塾が移転した後、ここは「攻玉社」という学校が築地の海軍兵学校内から移転してきました。
 「攻玉社」は、現在、東急目黒線「不動前」駅そばの品川区西五反田に、中学校と高校があります。
 一世紀以上の歴史を有する伝統校で、戦前は海軍兵学校への予備校的存在として位置づけられていたそうです。

 攻玉社は明治時代の六大教育家の一人である近藤真琴により創設された学校です。
 校名は詩経の「他山の石以て玉を攻(みが)くべし」から引用したものだそうです。
 明治の六大教育家とは次の6人をいいます。
 大木喬任(文部卿)、森有礼(文部大臣)、中村正直(同人社創者)、新島襄(同志社創立者)、 福澤諭吉(慶應義塾創立者)、そして、近藤真琴です。
 近藤真琴という人は、現在はあまり知られていませんが、福沢諭吉や新島襄と並ぶ偉大な人物ですね。


赤印が「福沢・近藤両翁学塾跡」の碑がある場所です。 

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by wheatbaku | 2012-12-19 07:34 | 忠臣蔵 | Trackback
日比谷神社(赤穂浪士引き揚げルート30)
 今日は、日比谷神社について書いていきます。

c0187004_9135880.jpg 日本テレビタワーを通りすぎ真っ直ぐ西に向かうと工事中の環状2号線に突き当たります。
 ちょうど、JRの線路が高架になって環状2号線と跨いでいます。
 しかし、環状2号線を突っ切る交差点がありません。そこで一旦、第一京浜に出ます。
 すると環状2号線沿いに、日比谷神社が見えます。


c0187004_19511095.jpg 日比谷神社は、以前鎮座していた場所(新橋4丁目)が、環状2号線の用地となったため、平成21年にここに移転したばかりです。
日比谷神社は、元は現在の日比谷公園内の大塚山(現在の日比谷公園入口の交番裏手にある心字池の池畔)に鎮座していたと伝えられているようです。
しかし、創建年代はハッキリしません。
 徳川家康が江戸に入府した後の慶長年間に江戸城を拡張するに当たり、日比谷神社は、氏子とともに芝口(現在の東新橋)に移されました。
 そして、明治になって、東海道線が敷設されることになり、21年まで鎮座していた現在の新橋4丁目に遷座しました。
 そして、前述したように、今度は環状2号線の用地に掛かったため、現在に三度遷座しました。
 第一京浜から日比谷神社を見ると高層ビルが背後にそびえたっていて、神社と高層ビルが立ち並ぶ対照的な風景となっています。

 日比谷神社は、 別名を「鯖稲荷」といいます。
 元々日比谷にある頃に、「旅泊稲荷」と書いて「サバイナリ」と呼んでいたそうです。
 江戸時代になって「鯖稲荷」と書くようになったそうです。
c0187004_19513576.jpgこれは、ある時期にこのあたり一帯に疫病が蔓延した折、平癒祈願に際し「鯖断ち」をして大難から逃れたと言われ、霊験殊に著しいとして里人とともに篤い信仰を得るようになったと言われています。
 そうしたことから、かつては虫歯に苦しむ人は鯖を断って日比谷神社に祈願すると虫歯がなおったと伝えられているようです。
 そこで、虫歯がなおった人々は鯖を奉納する習わしだったそうです。
 手水の後ろには「日鯖講」と刻まれた石が設置されています。

 赤印が日比谷神社です。 高架となっているJRと環状2号線が交差する地点の脇にあります。

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by wheatbaku | 2012-12-18 07:40 | 忠臣蔵 | Trackback
仙台藩上屋敷と江戸検の「今年のお題」(赤穂浪士引き揚げルート29)
 旧新橋停車場は、江戸時代は龍野藩脇坂家の上屋敷がありましたが、その隣が仙台藩伊達家の上屋敷でした。
 現在は、日本テレビの「日本テレビタワー」になっています。
 赤穂浪士一行は、日本テレビタワーの北側を通り泉岳寺に向かいました。

 日本テレビタワーの北玄関に「仙台藩上屋敷」の説明板があります。
c0187004_2142560.jpg 江戸時代、藩祖伊達政宗の時代には、外桜田や愛宕下などに仙台藩の江戸屋敷を構えていました。
 その後、寛永18年(1641)には、浜(芝口)屋敷(港区東新橋)に屋敷替えが行われ、延宝4(1676)年以降は幕末まで仙台藩の江戸の拠点として機能していました。
 浜屋敷の表門では、元禄15年(1702)12月15日、本所吉良邸への討ち入りから主君浅野匠頭長矩の墓所高輪泉岳寺へ向かう赤穂浪士たちを仙台藩士が呼び止め粥を振舞ったといわれています。
 この時にもてなされた粥は、レトルト食品のように一瞬に作られたそうですが、このときの米は糒(ほしいい、粳米を蒸して乾燥させたもの)で、軍糧として作られていたもので、仙台糒として特に製造所を定めていた藩の特産品であったようです。
 粥でもてえなしをしたというのは、仙台市の説明です。

 しかし、中央義士会の説明では、赤穂浪士一行は、仙台藩士に尋問を受けたと書いてありました。

 大石内蔵助は、討ち入り成功後、幕府に自首することにしていました。c0187004_21424448.jpg 
 そして、愛宕下のあった大目付仙石伯耆守の屋敷に自首したのが吉田忠左衛門と富森助右衛門です。
 その吉田忠左衛門と富森助右衛門は、汐留橋から仙台藩上屋敷の間あたりで、赤穂浪士一行と別れて自首に赴いた言われています。


【江戸検お題「忠臣蔵」について】
 さて、今年の江戸文化歴史検定の結果発表がありましたね。
 一級の合格者があまりにも少ないので驚きました。
 合格者が6名で、合格率が0.7パーセントというはすごいです。
 問題が相当難しかったのでしょう。
 そうした難関を突破し合格された皆さん、本当におめでとうございます。
 一方、合格点に届かなかった皆さん、本当に残念ですね。捲土重来を期して頑張ってください。

 受験結果と同時に、「今年のお題」が発表されました。
 江戸検今年のお題は、「これが本当の『忠臣蔵』~赤穂事件が“物語”になるまで~」ですね。
 これがテーマというのも驚きました。
 今年、毎日文化センターで「忠臣蔵ゆかりの地を行く」という講座を開いていて、現在も進行中です。
 その準備をするために、「忠臣蔵」関連の本を読んでいますが、なかなか奥が深いというのが実感でした。
 そう思っている最中ですので、「今年のお題」について、感じたことをいくらか書きます。

1、「忠臣蔵」となっていることに注意が必要
 俗に「忠臣蔵」とは、浅野内匠頭が松の廊下で刃傷事件を起こし切腹し浅野家は改易となり、翌年12月14日に四十七士が討ち入りし、元禄16年2月4日に切腹した「赤穂事件」と同義語と一般的には考えられています。
 しかし、江戸検では、「赤穂事件」と「忠臣蔵」とは別の物であるととらえる必要があると思います。
 前述した政治上の事件が「赤穂事件」です。
 そして、「忠臣蔵」とは、「赤穂事件」をもとに描かれた浄瑠璃・歌舞伎・小説・浮世絵・落語・映画・TVドラマを指していると考えておいたほうがよいと思います。
 つまり、「お題」の名前からすれば、文化面が重視されているともいえると感じます。
 ですから、受験勉強は、政治面だけでなく、文化面の分野も勉強する必要があるように思います。

2、「赤穂事件」を知ること
 文化面まで受験準備が必要とは言っても、赤穂事件をよく知らないことには始まりませんので、勉強の一歩は、赤穂事件について勉強するというのがオーソドックスなのではないでしょうか。
 赤穂事件についての基礎的な知識をしっかりマスターし、それから文化面にまで勉強範囲を広げていくというのがよいのではないかと私は考えています。

3、細かい知識が必要では! 
 赤穂事件は、元禄14年3月14日から元禄16年2月4日までの約3年の出来事です。
 そのため、短期間の出来事が対象となります。そうなりますと、赤穂事件に関係する問題は細かい部分まで対象にせざるをえないと思います。
 すると、赤穂事件関係については細かいところまでの知識を吸収する必要があるんではないでしょうか。
 その傾向は、江戸文化歴史検定協会のHPに載っている例題をみてもわかります。

 以上、直感的に感じたことを書きましたが、鶴ヶ島の小人さんからも、参考図書のご紹介依頼を受けていますので、おいおい、参考図書を紹介してきたいと思います。

 赤印が、日本テレビタワーの北玄関です。玄関わきに説明板が設置されています。 青印は旧新橋停車場です。

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by wheatbaku | 2012-12-17 07:32 | 忠臣蔵 | Trackback
赤穂義士祭り(赤穂浪士引き揚げルート28)
昨日は、泉岳寺で行われた赤穂義士祭りに行ってきました。
今日は、その様子をお知らせします。

11時から墓前供養が行われました。その頃にはもう大勢の参拝客でした。
 
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 山門前にも屋台も出ているんです。人も一杯です。
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11時からの墓前供養は、浅野内匠頭のお墓の前で、泉岳寺一山の僧が参加して行われました。
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観音経が読まれ、浅野内匠頭・瑤泉院・赤穂浪士の戒名が読み上げられ供養が行われました。
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こちらは、赤穂浪士の墓所ですが、お線香の煙がモウモウと立ち込めるなか、次々と参拝しています。
写真がボヤケているのは線香の煙です。覆いがあるのが大石内蔵助のお墓です。
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赤穂浪士の墓所の入り口は狭いため、お参りする人の行列ができます。
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墓所が大混雑になると、墓所の門の前で入場停止になる場面もありました。
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 ブロ友の鶴ヶ島の小人さんのお話だと12月14日は参拝客で一杯ということでしたので、朝早々(と言っても8時30分頃ですが)に一旦行ってみました。この頃は、さすがガラガラでした。

山門はいつもは閉じられていますが、昨日は開かれていました。
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本堂も、義士祭りの飾りつけがされています。屋台も準備中でした。
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こちらは墓所への入口です。この後の混雑がウソのようです。
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墓所もほとんど人がいないので、ゆっくりお線香をあげてお参りできました。
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大石内蔵助の隣にある吉田忠左衛門、原惣右衛門、片岡源吾右衛門のお墓ですが、菊の花が供えられて、名札も立てられていました。
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by wheatbaku | 2012-12-15 07:30 | 忠臣蔵 | Trackback
  

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