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「帰ってきた軍師」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第24回)
 今日は、「軍師官兵衛」に関連する記事を書きますが、その前に「江戸の食文化」に関連するお知らせをしておきます。

 
c0187004_13194468.jpg 月一回、模擬試験問題を出題していますが、今月は、今週金曜日に出題しようと思っています。
 出題は、前回同様大久保洋子先生の「江戸のファーストフード」からとします。
 前回は、四大和食に関してだけの出題でしたが、今回は、それ以外の項目について出題します。本を持っている方は、軽く斜め読みに読んでおいてください。


 
 さて、「軍師官兵衛」ですが、今回のタイトルは「帰ってきた軍師」でした。
 竹中半兵衛亡き後の秀吉の軍師として官兵衛の活躍を描いていますが、その冒頭は、三木城の別所長治に対する降伏の勧告でした。
 今日は、この三木城攻防戦について書いてみたいと思います。
 三木城攻防戦は、俗に「三木の干殺し」と呼ばれました。
 秀吉が徹底した兵糧攻めを行ったからです。

 三木城主別所長治は、天正6年(1578年)3月、織田方に敵対しました。
 これに対して羽柴秀吉は、竹中半兵衛と黒田官兵衛の策をいれて、三木城近くの平井山に本陣を設け、三木城を包囲するため、多くの付城を築き、兵糧攻めを行いました。
c0187004_13223189.jpg 三木城包囲開始後に荒木村重の謀反が起こり、情況は大きく変わりましたが、秀吉は、無理に攻撃をしかけるとういうことはせず、城から出てくる敵をたたく程度の攻防戦をおこなっているだけで、三木城の包囲の手をゆるめませんでした。
 天正7年(1579年)5月には、丹生山明要寺と淡河城が落城するなどし、三木城への兵糧の補給が困難となります。
 そして、ついに天正7年11月には、有岡城が落城します。
 既に、備前の宇喜多直家は、織田方に加わっており、毛利方の援軍、兵糧補給も絶望的となり、三木城内の食料はすでに底をついて城内の兵士は飢餓状態にありました。
 これがいわゆる「三木の干殺し」です。
 三木城の兵糧が尽きて、城兵の士気が衰えてきたと判断した秀吉は天正8年(1580年)1月、三木城の支城に対して総攻撃を開始します。
 1月11日には別所長治の叔父別所賀相が守る鷹尾山城を攻めました。
 別所賀相は、城を脱出し、三木城に入りました。
 ここで、秀吉は、別所長治のもう一人の叔父で織田方についていた別所重宗を通じて三木城の開城勧告を行いました。
 「軍師官兵衛」では、黒田官兵衛と別所重宗が、三木城で勧告をしたと描いています。
 この勧告をうけて、別所長治は、開城することを決意します。
 開城の条件は、別所長治はじめ一族が切腹する代わりに城兵の命を助けるというものでした。
 正月17日、長治以下城主一族が切腹し、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了します。
 長治の辞世の歌は
   いまはただうらみもあらず もろ人の命に代わるわが身と思へば
 でした。

 秀吉は、この経験から、因幡の鳥取城を攻める際に、兵糧攻めを行っていますが、「軍師官兵衛」の中では、詳しくは取り上げられないようです。
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by wheatbaku | 2014-06-17 07:49 | 大河ドラマ | Trackback
「半兵衛の遺言」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第23回)
有岡城は、織田の軍勢の総攻撃を受けて、落城します。
荒木村重の反逆に立腹していた織田信長は、世間のみせしめにするため、残虐な処刑を命じました。
 最初の処刑は、荒木村重とその嫡男村次が籠城する尼崎城近くで行われ、婦女子のみ120人あまりが処刑されました。
 次いで、名使い女や若党らの非戦闘員が、四戸の農家に押し込まれ、外から釘づけにされ、周囲に枯草を積んで火をつけ、焼き殺しました。
 信長公記」でさえ「肝魂を失い、二目とさらに見る人なし」と書いています。
 さらに、京都六条河原で、村重の妻だしをはじめ、村重の一族が処刑されました。

c0187004_9113480.jpg このように、荒木村重に対する信長の怒りは尋常ではなく、荒木一族に対する追及は非常に厳しいものでした。
 それでは、荒木村重自身はどうなったでしょうか。
 村重は、逃げのびるのです。

 有岡城が落城した後も、荒木村重の籠る尼崎城は抵抗したものの織田軍の攻撃を受けて、村重は花隈城に逃げ込みました。
 しかし、ここも織田方の池田恒興と嫡男元助、次男輝政の軍勢に攻撃され、落城します。
 荒木村重は、村次とともに、毛利氏の芸州に落ち延び、毛利輝元の庇護を受け、備後国尾道に閑居しました。
 
 織田信長が本能寺の変で暗殺されると、豊臣秀吉は、大坂に呼び、堺に住まわせました。そして、千利休と親交を重ね、茶人として暮らし、茶道にいそしみました。
 村重は、剃髪して「道糞」と号していましたが、秀吉が、「道薫」に改めさせたと言われています。
 そして、秀吉のお伽衆として厚遇され、天正14年(1588)、堺でなくなりました、享年52歳でした。

 荒木村重は、利休七哲の一人に加える説もあるほど、茶道にはすぐれていました。
 講談社「利休七哲」の中では、百瀬 明治がその生涯を書いています。
 「軍師官兵衛」でも再三、茶器を愛でたり、茶杓を削る場面が出ていたのは、そのためです。
 現在は徳川美術館が所蔵している高麗茶碗「荒木」は、荒木村重が所有していて、千利休、徳川家康の手を経て、尾張家初代義直に伝えられた茶碗だと言われています。(右上写真)
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by wheatbaku | 2014-06-09 09:08 | 大河ドラマ | Trackback
「有岡最後の日」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第22回)
  「軍師官兵衛」ですが、第22回「有岡最後の日」の記事がまだでしたので、今日は「軍師官兵衛」関連の記事を書きます。

 今回は、毛利の援軍がこないことに我慢しきれなくなった荒木村重が、天正7年(1579)9月2日毛利の援軍を自ら要請するために有岡城を抜け出して、嫡男荒木村次が守る尼崎城に入城しました。
 しかし、城主自らが城を抜け出すようでは、有岡城を守りきれるはずがありません。
c0187004_1215947.jpg まもなく、織田軍の総攻撃を受けて、10月19日、有岡城が開城します。そして幽閉されていた黒田官兵衛が、栗山善助たちに救出されるまでが描かれていました。

 さて、荒木村重が、織田信長に背いたのは、毛利の援軍があることになっていたからです。
 これは、荒木村重だけでなく、別所長治や小寺政職も事情は同じでした。

 しかし、毛利は、荒木村重や別所長治、小寺政職に対して援軍を送りませんでした。
 実は、これは毛利としては、援軍を送りたくても送れなかったのかもしれません。

 その要因として、大きな要因が二つあります。
 一つは、備前の宇喜多直家の寝返りです。
 もう一つが、大坂湾内の木津川口での毛利水軍の敗北です。
 このうち、 宇喜多直家の寝返りについては、「軍師官兵衛」で描かれていました。
 しかし、毛利水軍の敗北については、全く触れられていませんでした。
 そこで、今日は、毛利水軍の敗北について書きます。

 木津川口の戦いは、2回あります。
 第一次木津川口の戦いは、天正4年(1576)に、石山本願寺へ兵糧を搬入しようとした毛利水軍と、それを阻止しようとする織田水軍との間に起こった戦いです。
 この戦いで、毛利水軍が使用した焙烙火矢により、織田水軍は完敗しました。

 第二次木津川口の戦いは、天正6年11月6日に起きた毛利水軍と織田水軍の間の戦いです。
 この戦いで、毛利水軍は大敗をしてしまいました。荒木村重が叛旗を翻したのが天正6年10月ですので、毛利水軍は、村重の叛旗からまもなく完敗したことになります。

 第一次木津川口の戦いで、毛利水軍の使用する焙烙火矢の前に大敗したことを知った織田信長は、九鬼嘉隆に命じて、船に鉄を貼った鉄甲船を建造させました。
 この鉄甲船は、船に鉄板を張り、焙烙火矢による攻撃を受けても燃え上がらないようにしてありました。
 その上に、大鉄砲を3門備えた大型船で、鉄甲船は6隻建造されました。
 そして、天正6年(1578)7月、完成した6隻の鉄甲船は、大坂湾へ廻送されました。
途中、紀州の雑賀衆が、多数の小船で攻撃してきましたが、九鬼嘉隆は敵を引きつけて大鉄砲を一斉に発射し、撃沈してしました。

 天正6年9月30日には、織田信長により観艦式が行われました。
 この観艦式に列席していた奈良興福寺の多聞院は、鉄甲船の大きさを横12メートル、縦22メートルあったと「多聞院日記」に書いています。

 そして、11月6日、石山本願寺に兵糧を運び込もうとして、毛利水軍が木津川口付近に姿を現しました。
 6隻の鉄甲船は、敵船近くに漕ぎ寄せて、毛利水軍の大将が乗っていると思われる船を大鉄砲で攻撃しました。
 これを恐れた毛利水軍はそれ以上近づくことはできず、数百隻の船が退却していきました。

 この戦いにより、毛利水軍は、大坂湾に侵入できなくなり、大坂湾の制海権を失とともに、播磨の海での航行に大きな危険を感じるようになりました。
 これにより、毛利氏は、水軍により海上から大軍を播磨に送ることができなくなってしました。
 陸路は、備前の宇喜多直家が遮断していました。このため、毛利方は、荒木村重から矢のような催促があっても、援軍を送ることはできなかったのです。

 こうした事情があったため、いくら荒木村重が有岡城を抜け出して自ら毛利方に要請したとしても、毛利方は動きようがなかった訳です。
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by wheatbaku | 2014-06-06 11:52 | 大河ドラマ | Trackback
「松寿丸の命」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第21回)
 今日は、「軍師官兵衛」について書きます。

 黒田官兵衛が、荒木村重に幽閉され連絡がとれなくなったことにより、官兵衛が村重に加担した誤解した織田信長は、人質になっていた松寿丸を殺害するように命じます。

 秀吉も反論しますが、抗しきれず。信長の命令に服します。
 黒田家譜によると、竹中半兵衛も信長に抗弁しますが、信長が成敗を強く指示したため、やむえず承諾します。

 通常であれば、松寿丸の命は、ここでなくなったでしょう。
 しかし、竹中半兵衛は、こっそりと松寿丸を自分の領地菩提山城下に匿います。
c0187004_11203534.jpg 竹中半兵衛の領地は、現在の岐阜県不破郡垂井町にありました。有名な関ヶ原の東になります。
 右は、垂井町にある江戸時代の竹中家の陣屋跡です。竹中家は、江戸時代は交代寄合でした。

 竹中半兵衛は松寿丸を家臣の不破矢足の屋敷に匿いました。
 不和矢足は、半兵衛の重臣だったようです。矢足というのは変わった名前ですが、戦いの時に足に矢が刺さったのにもかかわらず、敵を討ち取ったことによるようで、「やそく」と読むようです。
 
 有岡城から官兵衛が助け出されると、松寿丸も許され岩手を去るとき、不破矢足の屋敷に銀杏の木を植えたと伝えられています。
 今、不破矢足の屋敷跡は、五明神社となっていて、松寿丸が植えた銀杏は、大河ドラマの最後に放映されたように現在も残っています。
 また、松寿丸は、菩提山を離れる時に、半兵衛の妻得月院にいつも肌身離さずもっていた守り本尊を譲るとともに、腰に指していた太刀も進呈したといいます。
 命を守ってくれたことに対する感謝を表したわけです。

 それだけでなく、松寿丸(成長して黒田長政)は、関ヶ原の戦いの後、福岡藩52万石の藩主となった際に、竹中半兵衛の孫重次を3千石で、不破矢足の子喜多村太郎兵衛を1千石で召し抱え、竹中家の恩に報いました。
 
 松寿丸が、許されて、姫路に帰るのは、有岡城が陥落して、官兵衛が救出された時です。
 しかし、この時には、竹中半兵衛は、すでにこの世の人ではありませんでした。

 竹中半兵衛は、天正7年6月13日に、三木城包囲の最中、平井山麓の農家でなくなりました。享年36歳でした。
 黒田官兵衛が、有岡城から救出されたのは、天正7年10月12日のことです。
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by wheatbaku | 2014-05-27 11:21 | 大河ドラマ | Trackback
「囚われの軍師」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第20回)
 今回の「軍師官兵衛」は、「囚われの軍師」です。
 叛旗を翻した荒木村重の説得のために有岡城に入った官兵衛は、村重に囚われてしまいました。

 荒木村重の反逆に対して、織田信長は天正6年11月安土城から出馬します。
 総勢5万の軍勢で、荒木村重の守る有岡城をはじめ高槻城や茨木城を包囲しました。
 しかし、織田信長は、ひたすら力攻めという戦いはしませんでした。
 織田信長は高山右近と中川清秀に対する調略を行いました。
c0187004_13432265.jpg 高山右近が守る高槻城は要衝の地でした。(右写真はウィッキペデイアより)
 また、中川清秀は猛将でした。
 そのため、力攻めをすれば多くの犠牲がでると考えたからです。
 
 高山右近はキリシタンでした。
 そこで、宣教師のオルガンチーノを説得に向かわせました。
 そして、右近が降伏しなければ、キリスト教を弾圧し、宣教師とキリシタンを皆殺しにすると脅迫しました。
 高山右近は、妹と息子を人質として有岡城に差し出していました。
 右近が信長に味方すれば、人質の妹と息子は殺害されてしまいます。
悩みぬいた高山右近は、信長にも村重にも味方せず、神に仕えるために、城主の地位を棄て、家族も捨てて、紙衣一枚で城を出て信長のところに向かいました。
 一方、右近の父高山飛騨守は、有岡城の人質を救うため、有岡城に行き、自ら人質となるので娘と孫を助けるよう村重に嘆願しました。 
 荒木村重は、大変怒りましたが、人質を殺すことはしませんでした。
 高山右近が、身一つで信長の所に向かったため、高槻城は結果として無血開城となりました。
 これで、荒木村重の重要な拠点が一つ崩されました。
 
 高山右近に次いで、茨木城を守っていた中川清秀も信長に味方することになりました。
 中川清秀の調略にあたったのは、中川清秀の妹せんと結婚していた古田重然(しげなり 後の古田織部)です。
 中川清秀に対して、古田織部を通して、織田信長は、娘鶴姫を清秀の息子秀政に嫁がせるという条件を出して降伏を誘いました。
 こうした好条件を出されて、中川清秀は織田信長に味方することになりました。

 思い返せば、荒木村重の謀反のきっかけは、中川清秀の家来が本願寺に兵糧を横流ししたということでした。
 また、村重が安土城に申開きに行こうとした際に、それに強く反対したのは中川清秀でした。
 いってみれば、荒木村重の謀反の元凶は、中川清秀ともいえるのですが、その元凶があっさり、信長に味方することとなりました。
 戦国時代は権謀術数が世の習いですが、この裏切りの報を聞いた時、荒木村重はどう感じたのでしょうか
  中川清秀は、この後、織田信長に仕え、信長死後は秀吉に仕えました。そして賤ヶ岳の戦いで、猛将佐久間盛政に攻撃され戦死しました。
 家督は長男の秀政が相続し、秀政没後、次男の秀成が豊後岡藩初代藩主となり、中川家は岡藩藩主として幕末まで存続しました。
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by wheatbaku | 2014-05-17 16:03 | 大河ドラマ | Trackback
「非情の罠」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第19回)
今日は、「軍師官兵衛」について書きます。

 今回のタイトルは「非情の罠」です。
 荒木村重が、本気で、織田信長に対して叛旗を翻しました。
 これは、織田方にとって重大なことです。荒木村重は、摂津の国守であり、茨木城の中川清秀、高山右近など有力武将を傘下に抱えていました。
 そのため、村重が叛旗を翻し、中川清秀、高山右近が同調するということは、摂津一国が反織田となるということです。
 摂津一国が反織田となれば、播磨で毛利と戦っている秀吉は、後方を分断されることとなります。
 そのため、秀吉は必死になって村重を説得しますが、村重は翻意しません。
 「軍師官兵衛」では、秀吉が自ら説得をする場面があるようですが、秀吉のほか、蜂須賀小六なども説得にあたったようです。
 しかし、誰の説得にも応じません。そこで、最後に黒田官兵衛が有岡城に向かいました。
c0187004_19573481.jpg しかし、黒田官兵衛が有岡城で荒木村重に会うとまもなく捕えられ幽閉されてしまいます。
 これは、実は、 御着城主の小寺政職の謀略によるものだったのです。
 これがタイトルの「非情の罠」の意味です。

 御着城主の小寺政職が荒木村重の謀反に応じて毛利方に寝返る決意をしたという情報が官兵衛に届きます。
 そこで、官兵衛は御着城に向かい、小寺政職に会い説得をします。
 毛利に着く不利、織田方に止まることの大切さを説いて小寺政職を説得した結果、小寺政職は、「村重が翻意すれば、自分も従う」と回答します。
 そのためもあって、官兵衛は、村重を説得するため、有岡城に乗りこみます。

 しかし、荒木村重のところには、小寺政職から密使が来ていて「官兵衛が有岡城に行くから官兵衛を殺してくれ」という依頼があったのです。
 小寺政職は、織田信長に叛旗を翻すことを決めており、官兵衛が邪魔になります。
 そこで、官兵衛を亡き者にしたいと考えますが、自分の手で殺したくないと考え、小寺政職に殺害を依頼したのです。

 この小寺からの殺害の依頼があっても、さすが、荒木村重は、黒田官兵衛を殺害はしませんでしたが、有岡城内に幽閉してしまいます。

 ところで有岡城ですが、別名伊丹城と言われるごとく、現在の兵庫県伊丹市にあります。
 関東の人は、大阪空港が別名伊丹空港と呼ばれることから、伊丹市は大阪府内にあると思いがちですが、伊丹市は兵庫県にあります。
 大阪空港は、兵庫県伊丹市と大阪府豊中市と池田市にまたがっているのです。
 有岡城跡は、JR福知山線伊丹駅のすぐ西側にあります。
 有岡城は、もともと摂津の豪族伊丹氏の居城でしたが、天正2年に伊丹氏を滅ぼした荒木村重の居城となっていました。
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by wheatbaku | 2014-05-10 19:51 | 大河ドラマ | Trackback
「裏切る理由」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第18回)
 先週の「軍師官兵衛」について書いていなかったので、今日、書きます。

 前回の「軍師官兵衛」では、荒木村重の謀反について描かれていました。
 天正6年(1578年)7月、荒木村重は、突然、織田信長に謀反を起こしました。
 「軍師官兵衛」では、織田信長は、荒木村重を信任していたにもかかわらず村重が謀反を起こしたというトーンで描かれていました。
c0187004_105147.jpg それでは、なぜ村重は謀反を起こしたのか知りたくて、荒木村重について書いた書物を探しました。
 しかし、戦国史の中では、荒木村重の謀反は結構重大事件だと思いますが、これ荒木村重について書いた物が、意外と少ないのに驚きました。
 
 その少ない本のどれをとっても、荒木村重の謀反の理由は次の2説を代表に諸説ありますが、本当の理由はわからないというものでした。
 (1)村重の家臣の中川清秀の家来が石山本願寺に兵糧を運び込んでいるのが安土に知られたため
  「軍師官兵衛」で描かれていたのはこの説によるもの
 (2)謀反は戦国武将の習いで去就は定まらないものだ、村重も、その思惑によって方向を転換したため
  徳富蘇峰が「近世日本国民史」で主張しているそうです。
 (3)奇想天外な説に、、明智光秀の謀略説というのがあります。
   それによると、明智光秀は、後年、織田信長を倒すためには、近くに荒木村重がいたのでは邪魔になると考え、村重に謀反を起こさせたというものです。
 「陰徳太平記」に書かれている説だそうです。


 村重の謀反に至る全体の流れも、概ね次の通りで、「軍師官兵衛」で描かれていたものとほぼ同じです。

 天正6年10月20日、大坂天王寺砦を守る細川藤孝から織田信長に、村重が毛利と通じて謀反をおこすという報告が入り、翌日には諸方面から同様な報告が届きます。
 織田信長は驚、「不実におぼしめされ、何篇(なへん)の不足侯や」として、明智光秀、松井友閑、万見千千代を有岡城に派遣しました。
 なお、村重の嫡男村次の妻は、明智光秀の娘で、有名な細川ガラシアの姉にあたる倫子です。
 「軍師官兵衛」で、信長が光秀に対して「縁続きである」と言っていたのはこうした関係があったためです。

 村重は、三人の事情聴取に対して、「謀反の考えはない。安土に行って釈明する」と述べたので、三人は安堵して信長に復命しました。
 そして、10月23日に村重は 嫡男村次とともに安土城へ向かいました。 
 しかし、恭順を示そうとする村重に対し、途中で、茨城城主中川清秀や家老の荒木久左衛門などから「信長は一度疑いを持った者は絶対許さない。一度謀反の噂がたった以上許されることはないだろう」と言って安土に行くことに反対します。
 そうした時に、安土にいた家来から「安土では、村重が到着したら取り押さえられ処分される模様である」との情報が伝わります。
 そのため、村重は、やむをえず有岡城に帰り籠城することとなったというのです。

 史料価値が高いと言われる「信長公記(しんちょうこうき)」には、村重の謀反について、次のようにかかれています。
十月廿一日荒木摂津守、逆心企つるの由、方々より言上候。
不実におぼしめされ、何篇の不足侯や、存分を申し上げ候はゞ、仰せ付けらるべき趣にて、宮内卿法印、惟任日向守、万見仙千代を以て仰せ遣はさるるのところに、少しも野心御座なきの通り、申し上げ侯。
御祝着され、御人質として、御袋様差し上げられ、別儀なく侯はゞ、出仕侯へと、御諚侯と雖も、謀叛をかまへ侯の間、不参侯。

 「信長公記」には、このように荒木村重が謀反を起こしたことは記録されていますが、謀反を起こした理由は書かれていません。
 それは、織田信長やその側近くに仕えた人たちも、村重の謀反の理由はわからなかったためだろうと言われています。
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by wheatbaku | 2014-05-08 10:03 | 大河ドラマ | Trackback
「見捨てられた城」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第17回)
 昨日の「軍師官兵衛」は、「見捨てられた城」ということで、上月城の落城について描かれていました・

 今回は、個人的に興味のある人物が登場していましたので、今日はその人物について書こうと思います。
 その人物は、亀井進十郎です。
 昨日の「軍師官兵衛」では、羽柴秀吉に呼ばれ、上月城に籠城する尼子勝久と山中鹿介に対して「ここまでよく戦った。かくなる上は毛利に降伏せよ」と秀吉の伝言を伝えるよう指示されていました。
c0187004_11563920.jpg  そして、黒田官兵衛とともに上月城に入り、尼子勝久と山中鹿介にその旨を伝えました。
 しかし、尼子勝久は降伏せず、見事に切腹して果て、囚われの身となった山中鹿介は毛利方に殺害されます。

 亀井新十郎は、津和野藩亀井家の藩祖です。
 津和野は、山陰の小京都と呼ばれ掘割の鯉(右写真)で有名ですし、明治の文豪・森鷗外が生まれた土地としても有名です。
 江戸検では、津和野藩の藩校名養老館(右下写真)を問う問題が出題されたこともあります。
 こうしたことから津和野は、昔から関心もあり、行ってみたい観光地でもありましたので、この津和野を江戸時代の初めから250年に亘って、藩主として治めていた亀井家にも興味がありました。

 今回、その亀井家の藩祖の亀井新十郎が登場しましたので、亀井新十郎のちの亀井茲矩(これのり)について書きます。

 亀井新十郎は、弘治3年(1557)、尼子氏の家臣の湯永綱の長男として出雲国八束郡湯之荘(現在の島根県松江市玉湯町)に生まれました。

 新十郎は、成長した後、尼子勝久を奉じて山中鹿介が集めた尼子再興のための軍勢に加わり、天正元年(1573)には、但馬に出陣しています。
 そして、天正2年には、尼子の旧臣亀井秀綱の娘を娶り、亀井氏を継ぎました。
 山中鹿介は、亀井秀綱の娘を娶り、亀井氏を継いでいましたが、山中氏に復籍したためという説もあるようです。
 この説によれば、山中鹿介とは義兄弟の関係になります。
c0187004_1159359.jpg 尼子再興軍は人数が少なく、大大名となった毛利氏にはかなわなくなったため、織田家の力を頼るようになりました。
 そこで、亀井新十郎は、羽柴秀吉軍に組み込まれて、毛利氏と戦うようになります。
 尼子勝久と山中鹿介が上月城に入った時に、なぜ、亀井新十郎が入城しなかったのかわかりませんが、亀井新十郎は上月城陥落の際も命は助かり、以後、羽柴秀吉のもとで戦います。
 天正8年(1580年)の鳥取城攻略の際には、因幡国鹿野城の守備を命じられました。
 また、本能寺の変後の秀吉の中国大返しの際には後詰めとして鹿野城に残留したと言われています。
 また、中国大返しの際に、羽柴秀吉から、欲しい国を言えといわれたとき、「日本はすべて秀吉様のものになるので、できれば琉球国を拝領したいといって、秀吉から琉球守という名をもらったというエピソードがあります。
 文禄・慶長の役では朝鮮に出兵し、虎を仕留めたとも伝えられています。

 秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方に与して戦い、戦後、加増され、3万8000石の鹿野藩初代藩主となります。
 慶長17年に鹿野城で56歳でなくなります。
 亀井茲矩の子政矩の時、津和野藩主であった坂崎家が改易されたため、坂崎家の跡を受けて4万3千石で津和野に転封しました。
 以後、明治維新まで、津和野藩は亀井家が治めていました。

 なお、国民新党の幹事長であった亀井久興氏は、津和野藩主亀井家の15代当主です。
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by wheatbaku | 2014-04-28 11:53 | 大河ドラマ | Trackback
「上月城の守り」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第16回)
  今回の「軍師官兵衛」は、尼子勝久と山中鹿助の守る上月城に対して毛利軍が大軍を差し向けてきます。
  そこで、今日は、敵方毛利において、「毛利両川」と称され重要な役を果たしていた「た吉川元春」と「小早川隆景」について書きます。

 吉川元春は、毛利元就の次男として安芸吉田郡山城で生まれました。
c0187004_153192.jpg 長兄の毛利隆元より「元」の字を貰い元春と名乗りました
 18歳の時に、母方の従兄の吉川興経の養子となります。
 これは吉川家臣団の求めがあったとされているようですが、毛利元就は興経を強制的に隠居させ、元春に家督を継がせた後に、興経とその実子・千法師を殺害して、吉川家を事実上乗っ取ったりました。
 吉川家は、藤原家の流れを汲む名族で、元々は、駿河国吉川(現在静岡市清水区吉川)に由来した姓です。鎌倉時代末期に安芸国に移住し、以後、小倉山城(北広島町)を拠点にしていた一族で、毛利元就は、この吉川家から妻を娶っています。
 吉川を継いだ吉川元春は、拠点が中国山中にあることから、主に、山陰地方の政治・軍事を担当しました。
 尼子氏を滅ばした第二次月山富田城の戦いでは主力として戦い、尼子氏を滅亡させています。
 元亀2年(1571)、毛利元就が死去すると、その跡を継いだ毛利輝元(元就の孫)を弟の小早川隆景と共に補佐しました。
 吉川元春は、勇猛果敢な武将であり、攻撃を主張する強硬派の面が強く、後に本能寺の変が起き、羽柴秀吉が、高松城から引き揚げる際にも追撃を主張したと言われています。


 小早川隆景は、毛利元就の三男として生まれます。吉川元春は同母兄です。
 8歳の時に、竹原小早川氏の当主小早川興景が死去した際、継嗣が無かったため、小早川家の重臣の求めに応じて、隆景は竹原小早川家の当主となります。
c0187004_1533440.jpg 一方、毛利元就は、小早川氏の本家沼田小早川家の当主繁平を隠居させ、隆景を繁平の妹に娶せ、沼田小早川氏を乗っ取る形で家督を継がせました。
 小早川氏は、その先祖をたどると始祖は鎌倉時代初期の武将土肥実平になります。
実平の子遠平が、相模国小早川(神奈川県小田原市付近)を支配して小早川の名字を称したのが始まりと言われています。
 小早川氏は、安芸国沼田荘(現在の広島県三原市)の地頭職となりました。また、承久の乱以後、安芸国竹原荘(現在の広島県竹原市)の地頭職を加えられました。
 沼田を領した小早川氏は、沼田小早川氏と呼ばれ本家筋でした。一方竹原を領した小早川氏は、竹原小早川氏と呼ばれました。
 両家は、しばらくの間分立していましたが、小早川隆景が両家の当主となることによって、沼田・竹原の両小早川氏が統合されました。
 小早川氏は、瀬戸内海の海賊衆も配下にもっていたことから、小早川隆景は、毛利水軍の指揮者としても活躍します。
 厳島の戦いにおいては、陶晴賢の水軍を破る大手柄をたてています。
 毛利元就が死んだ後には、甥の毛利輝元を補佐し、主に山陽方面の軍事を担当するとともに、小早川隆景は、柔軟な思考も持ち合わせて、毛利家の外交面も担当し、毛利家の存続に大きな役割を果たしました。

 右写真は、ウィッキペデアからの転載です。
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by wheatbaku | 2014-04-19 18:45 | 大河ドラマ | Trackback
「播磨分断」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第15回)
 昨日の「軍師官兵衛」のタイトルは、「播磨分断」でした。
 福原城と上月城の陥落で一旦平定された播磨が、織田方だった三木城の別所長治が叛旗を翻すことなり、再び播磨は戦乱の地となります。
 
 この別所長治の叛旗について、史書でも、大河ドラマで描かれていたように加古川評定でやりとりが切っ掛けとなったと書いているようです。
c0187004_9435255.jpg 三木城の別所長治は、まだ若年であったあったため、別所賀相(よしすけ)と別所重宗の二人の叔父の後見を受けていました。
 このうち、別所重宗はもともと織田支持でしたが、別所賀相はもともと毛利方でした。 
 こうした関係の中で行われた加古川評定で、秀吉別所賀相と秀吉の意見が食い違いが出ました。
 その時の秀吉の態度が高飛車で聞き耳をもたなかったことが要因であったとされているようです。

 また、別所家が織田支持に固まっていなかった背景として、別所家の中に「織田信長は信用できず、別所家は使い捨てられるだけだ」という不信感があったようです。
 そうした情況の中で、毛利家からの働きかけがあったため、加古川評定の不調を切っ掛けとして、別所家は、反織田となったようです。

 右写真は、加古川評定が行われた加古川城跡に建立されてている称名寺(ウィキペデイアより)です。

 東播磨の一大勢力であった別所長治が叛旗を翻したのに呼応して、東播磨の城主たちが一斉に叛旗を翻すこととなり、秀吉は、その平定に2年を要することとなります。
 そして、その中心となった三木城攻防戦は、食糧攻めを中心としたため、いわるゆ「三木の干殺し」と呼ばれる戦いとなりますが、それらのお話は、今後の展開となります。

冒頭で、天正6年正月の茶会の様子が出ていましたので、それについても触れておきます。
この茶会に参加したのは、「信長公記」によれば、織田信忠、滝川一益、明智光秀、丹羽長秀、荒木村重、羽柴秀吉、細川藤孝など12名だったそうです。
 信長は、茶の湯を家臣団統制の一つをとして利用していました。そのため、この茶会に出席できるというのは、特別の意味があったようです。
 同様に、信長から茶器を与えられるということは、特別の意味がありました。
 ですから、秀吉は、信長から名物茶器「乙御前の釜」を与えられ非常に喜んだわけです。
 当時、柴田勝家が「姥口の釜」、丹羽長秀が「白雲の葉茶壺」、明智光秀が「八重桜の葉茶壺」を信長から与えられていました。
 いずれも錚々たる武将たちです。
 秀吉が、名物茶器を与えられたということは、これらの人たちと同様に信長から高く評価されたということになります。
 秀吉が大喜びするはずです。
 
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by wheatbaku | 2014-04-14 09:46 | Trackback
  

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