タグ:霞が関赤坂散歩 ( 12 ) タグの人気記事
赤坂不動尊(威徳寺)(霞が関赤坂散歩12)
 今日は「霞が関赤坂散歩」の最後で、「赤坂不動尊」をご案内します。

 赤坂不動尊は、正式には、智剣山威徳寺といい、真言宗智山派のお寺です。
c0187004_9122591.jpg 赤坂不動尊は、伝教大師ゆかりのお不動様です。
 延暦24年(805)伝教大師(最澄)が唐より帰国の途中、暴風雨で船が沈みそうになりました。伝教大師は御自作のお不動様を海に沈めて祈願しました。すると忽ち風雨が止んで無事帰国することができました。
 それから50年程たった天安2年(858)越後出雲崎の漁師が、不漁が続いた上に、毎夜海上に不思議な光が現れるので、海を探したところ、伝教大師が沈めたお不動様があらわれました。漁師たちそれ拾い上げ、丁重にお祀りし以後村の人たちに深く信仰されました。
c0187004_944020.jpg  その後、源義義が「前九年の役」で奥州を征伐する途中、戦勝を願って祈願しました。前九年の役が終わった際、康平6年(1063)源頼義は、お不動様を下総の米沢(現在の千葉県香取郡神崎(こうざきまち)町)に迎えました。
 さらに時代が下り江戸時代直前になって、お不動様から良台というお坊さんに赤坂の一ツ木に行くようにという夢のお告げがあり、慶長5年(1600)に赤坂一ツ木へ移転しました。
c0187004_915178.jpg 江戸時代には、近くに紀州徳川家の赤坂邸があったことから、紀州徳川家の祈願寺となったそうです。
 祈願時というのは、天下国家の安寧鎮護を祈願するお寺です。
 山門脇には、右写真のように「紀州徳川家御祈願所」という石碑が設置されています。

 また、祈願所であった縁から、内陣の中には、紀州家大奥から寄進された厨子や仏具が残されています。
 赤坂不動尊の案内書に紀州家から寄進された厨子や仏具が残されていると書いてあるところから、拝観できるかお願いしましたら、先代御住職自らご案内をいただき、さらに講座本番では、受講生の皆様にご説明までしていただきました。

c0187004_95829.jpg ご本尊のお不動様は、伝教大師御自作ということから秘仏で拝観できません。紀州徳川家の大奥から寄進されたという厨司に安置されています。
 そのため、厨司の前のお前立のご本尊様を拝観できます。
 御前立のご本尊様は、正徳年間につくられたものだそうです。御前立のご本尊の両脇には、五大明王も安置されていて、こちらも拝観させていただきました。

c0187004_96177.jpg 御前立の御本尊の前には、紀州大奥から寄進されたという供物台が置かれたいました。
 右写真がそれでですが台の部分に「紀州大奥」と刻まれています。ご本尊が安置されている御堂は、大正11年、関東大震災の直前に建立されたもので土蔵造りとなっています。
 御堂が土蔵造りとなっていますので、関東大震災も被害を受けることがなかったそうでう。また、昭和20年5月の大空襲の際も、周辺がほとんど焼失した中で、奇跡的に御堂は焼失を免れたそうです。
 先代御住職には、いろいろご案内・ご説明をしていただきました。改めて御礼申し上げます。

 赤印が「赤坂不動尊」(威徳寺)です。

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by wheatbaku | 2014-02-17 08:47 | 大江戸散歩 | Trackback
豊川稲荷東京別院(霞が関赤坂散歩11)
 今日は、「霞が関赤坂散歩」で「豊川稲荷東京別院」をご案内します。

 「豊川稲荷」は、稲荷というので、神社だと思っている方が多いと思いますが、実は豊川稲荷は神社ではありません。曹洞宗のお寺なんです。正式には「円福山妙厳寺(えんぷくざん みょうごんじ)」といい、本山は愛知県豊川市にあります。 
c0187004_9414484.jpg 豊川稲荷の由緒書によれば、豊川稲荷にお祀りしているのは豊川荼枳尼真天(とよかわだきにしんてん)といいます。
 荼枳尼天(だきにてん)は、元々、インドのヒンドゥー教の神様ですが、稲穂を荷って、白い狐に跨っていることからいつしか、神道の稲荷信仰と習合しました。
 そうしてことから、「豊川稲荷」という名前が通称として広まり、現在に至っているということです。
 東京の豊川稲荷は、江戸時代、大岡越前守忠相が信仰していた由緒ある像を、明治20年に、この近くに有った大岡家の屋敷からここに移されて鎮座されたものだそうです。

 ところで、なぜ、大岡越前守忠相が豊川稲荷を信仰していたのかということですが、私なり考えて二つのことが考えられます。
 まず、一つは、大岡家の代々の当主が豊川稲荷を信仰していたのかもしれないということです。
 大岡家の発祥は、三河国大岡(現在の愛知県新城市黒田字大岡)だと言われています。
 この大岡は、豊川のすぐ近くですので、大岡家は昔から代々豊川稲荷を信仰していたのかもしれません。
c0187004_9432320.jpg  また、もう一つは、大名となった大岡越前守忠相が信仰し始めたのかもしれないということです。
 大岡越前守は、南町奉行を勤めた後、寺社奉行の時に加増され、三河国西大平(現在の愛知県岡崎市大平町)1万石の大名になりました。
 町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて忠相一人だけであり、極めて異例なことです。
 西大平は豊川とは近かったため、豊川稲荷の信仰につながったということも当然考えられます。

 境内には、大岡越前守の御廟(右写真上)もあり、七福神もお祀りされていますので、豊川稲荷に参拝した際には、境内を一巡りしてみてください。

 
大岡越前守中屋敷跡 
 大岡越前守の中屋敷跡は、豊川稲荷の向かい側の旧赤坂小学校跡地にあります。
c0187004_943524.jpg 平成4年3月の学校統合以来、利用が検討されていましたが、学校法人国際医療福祉大学が誘致されて、今春から工事が始まる予定のようです。
 右写真は現在の写真ですが、まもなく、この姿は消えてしまいます。
 江戸の切絵図を見ると、大岡紀伊守となっていますが、6代藩主大岡忠愛(ただよし)が、一時期、紀伊守を名のっていたためと思われます。
 豊川稲荷が鎮座していたのは、この屋敷の中と思われます。
 明治になってから、現在地に祀られたといいます。


 
 赤印が「豊川稲荷東京別院」です。 青印が「大岡越前守中屋敷跡(旧赤坂小学校)」です。

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by wheatbaku | 2014-02-14 09:30 | 大江戸散歩 | Trackback
赤坂見付(霞が関赤坂散歩10)
 今日も「霞が関赤坂散歩」の続きで、「赤坂見附」のご案内をします。

 赤坂見附は、昨日書いた衆議院議長公邸と青山通りを挟んで向かい側にあります。
c0187004_849574.jpg 見附という言葉は「城門」のことを言い、「見付ける」からついた名前と言われています。
 赤坂見附は、江戸城から相模大山方面に通ずる大山街道に建てられた門です。
 赤坂見附は、溜池を見下ろす高台上に右折枡形門として築かれました。
 赤坂見附は、寛永13年(1636)に、筑前福岡藩主黒田忠之によって枡形の石塁が築かれ、寛永16年に、櫓や門が築かれました。
 黒田忠之は、黒田官兵衛の孫で、福岡藩2代目藩主です。 
c0187004_8544235.jpg 石垣の前にある説明板に書いてあるように、石垣の大部分は江戸時代のものです。
 右の復元された石垣には刻印が残されています。
 四角と丸の組み合わされたもので、黒田家の刻印かと思いいろいろ調べましたが、黒田家のものだという確認はできませんでした。

 高麗門があった石垣(最上段写真)の下部に几号(きごう)水準点があります。
c0187004_84924100.jpg 写真右にある漢字の「不」という字に似ている記号が几号(きごう)水準点です。
 これは、明治初期に内務省地理寮において用いられたイギリス式の水準点のマークです。
 その後、陸軍参謀本部の陸地測量部がドイツ式の測量方式を採用して現行の水準点に代えたため、まさに遺物となってしまいました。 
 このマークは几号水準点と呼ばれています。
 それは、この「不」の記号が三脚のついた机に似ており、机は几に通じるということから几号水準点と呼ばれました。
 「不」の横棒が標高を示す位置です。
 この水準点は、明治初期に刻まれたものですが、多くが石造物に刻まれたので、現在でも各地に残されています。
 江戸城の大手門や桜田門にも残されています。

 赤印が赤坂見附です。

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by wheatbaku | 2014-02-12 08:38 | 大江戸散歩 | Trackback
松江藩松平家上屋敷跡(霞が関赤坂散歩9)
 「霞ヶ関赤坂散歩」の続きです。
 今日は、「松江藩上屋敷跡」をご案内します。
 青山通り沿いに、衆議院議長公邸と参議院議長公邸が並んでいあります。
合わせて1万1942坪あるそうです。
c0187004_13481974.jpg ここに、江戸時代、松江藩松平家の上屋敷がありました。
 松江藩松平家の初代松平直政(なおまさ)は、徳川家康の孫で、越前福井藩主結城秀康の三男になります。
 結城秀康は、徳川家康の二男で、2代将軍の徳川秀忠の兄にあたります。
 秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)として差し出され、二人の名前をとって秀康となづけられました。
 その後、秀康を北関東の名族結城氏の養子となって結城秀康と名乗りました。
 関ヶ原の戦いの後、越前一国を拝領しましたが、越前松平家は、秀康は将軍秀忠の兄であったため御三家などの序列とは別格の待遇を受け、制外の家とされました。
 この秀康の三男の松平直政が、寛永15年(1638)、松江藩主となり、以後明治維新まで、越前松平家10代が続きました。
 特に7代藩主の治郷(はるさと)が有名です、治郷は号を不昧(ふまい)といい、茶人としても有名です。
 現在、松江は文化都市と呼ばれますが、その基礎を作ったのは、松平不昧公であると言われています。
 
 衆院議長公邸内には、徳川家康が駿河城で使っていたものを松平直政が拝領し、ここに移して使っていたと伝えられている井戸枠が残っているそうです。
 「徳川家康駿河城内居 金水輪 慶長十三年戊申四月大安日」と刻印された井戸枠は、  一枚岩をくりぬいた石製の枠で大きさは二メートル四方。重さ約2トンあるそうです。
 井戸は明治以降、閑院宮家があった昭和まで使用されていたといわれますが、地下鉄やビル工事、議長公邸の改築もあって現在は井戸枠だけが残っているそうです。

 この井戸枠を見るために、議長公邸に入れるのか衆議院事務局に問い合わせましたが、一般参観は受け付けていないということでした。

c0187004_13475578.jpg 衆議院議長公邸の正門を赤坂見附交差点に向って進むと歩道橋手前の左手壁面に「東京女学館発祥の地」のプレートが埋め込まれています。
 小さなプレートですので、注意してみていないと見落としてしまいそうです。
 東京女学館の歴史は、120年余りにもなります。
 明治19年に内閣総理大臣伊藤博文が創立委員長となり、「女子教育奨励会創立委員会」がつくられました。創立委員は、伊藤博文の他に、澁澤栄一、岩崎彌之助、外山正一(東京帝国大学総長)などがいました、
 翌年発足した女子教育奨励会が、明治21年に松江藩上屋敷跡に設立したのが東京女学館です。
 東京女学館は、その後、虎の門の旧工部大学校を経て、関東大震災後、広尾に移転し、。現在は、小学校から大学までそろえた学校法人となっています。

 
 赤印が衆議院議長公邸です。 青印の場所の石垣壁面に「東京女学館発祥の地」のプレートがあります。

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by wheatbaku | 2014-02-11 08:09 | 大江戸散歩 | Trackback
渡辺崋山誕生地(霞が関赤坂散歩8)
三宅坂交差点の脇に小さな公園があります。最高裁判所の南西です。
 この公園は三宅坂小公園といいます。
 ここに渡辺崋山誕生地の説明板があります。
c0187004_955887.jpg 現在最高裁判所のある場所には、三河国田原藩三宅家の上屋敷がありました。
 三宅坂という坂の名前はよく聞かれると思いますが、その三宅坂というのは三宅家の前の坂という意味です。
 この三宅家の上屋敷で渡辺崋山が生まれました。
 渡辺崋山は、画家であり蘭学者であり、三河国田原藩の家老でした。

 渡辺崋山は、寛政5年(1793)、田原藩士渡辺市郎兵衛定通の長男として、田原藩上屋敷裏門脇長屋に生まれました。
 少年時代から家計の窮迫を救うため得意の画筆で内職に努め、花鳥画家金子金陵や谷文晁 に教えを乞い、写生派画家として大成しました。
 また、西洋画の陰影法を用いて写実的な肖像画を描くことに成功しました。
 渡辺崋山が描いた「鷹見泉石像」は有名で、現在国宝になっています。

 また、佐藤一斎に入門して儒学を学びました。
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 若いころから代々の藩主の身辺に仕えましたが、天保3年(1832)に年寄役(家老)となり、藩政に取り組みました。
 天保7年(1836)および8年の「天保の大飢饉」では、「報民倉」を建設し、藩内で一人も餓死者を出さず、翌年、全国で唯一幕府から表彰を受けています。

 渡辺崋山は、年寄となり海防掛を命じられたことや絵を描くにあたり西洋画の方式を学ぶ中で、32才頃から外国事情に関心をもち、蘭学や兵学の研究を始めました。
そして、高野長英、小関三英、鷹見泉石、江川坦庵ら洋学者とも交わり、「蘭学にて大施主」と呼ばれるまでになりました。
 これら蘭学者を弾圧した事件が「蛮社の獄」というものでした。
 「蛮社」というのは、南蛮の学問を学ぶ集団という意味です。
c0187004_9554651.jpg  これは、天保10年に、後に南町奉行となった鳥井甲斐守耀蔵が、目付の時に仕掛けた弾圧事件です。
 それ以前、渡辺崋山は、天保8年(1837)の米船モリソン号打ち払いの事件に刺激されて日本の危機を告発する「慎機論」を執筆していました。
 これが、家宅捜索で発見され、幕政誹謗のかどで入牢し、天保11年田原に蟄居を命ぜられ、高野長英は永牢という終身禁固の刑を受けました。
 渡辺崋山は、地元に蟄居しましたが、蟄居中絵を描いて生活費を得ていましたが、このことが、藩内で批判され、天保12年、渡辺崋山は切腹しました。

 ところで、小公園にある銅像が気になると思いますが、これは広告会社の電通が広告業界の発展に尽くした物故功労者を顕彰したもので、「平和の群像」と名付けられています。(右上写真)
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by wheatbaku | 2014-02-07 09:51 | 大江戸散歩 | Trackback
憲政記念館(霞が関赤坂散歩7)
 昨日ご案内した「日本水準原点標庫」から50メートルほどの距離に「憲政記念館」があります。
 今日は、「憲政記念館」のご案内です。

c0187004_8303663.jpg  もともと、ここに昭和35年に、「憲政の神様」と呼ばれる尾崎行雄を記念して、尾崎記念会館が建設されました。
その後これを吸収して、憲政記念館は、昭和45年にわが国が議会開設80年を迎えたのを記念して、議会制民主主義についての一般の認識を深めることを目的として設立され、昭和47年に開館しました。

 憲政記念館には、記名するだけで、無料で入館できます。
c0187004_8544622.jpg 館内には、1階には、議場体験コーナー(右写真)などがあります。
 2階には、「憲政の歩みコーナー」があったり、「永年在職表彰元議員肖像画」が掲示されたりしています。
 「憲政の歩みコーナー」では、明治維新から帝国議会を経て現在の国会に至る憲政の歩みを、文書類をはじめ、関係資料・写真などで見ることができます。
 この中には、いろいろな資料が展示されていますが、私がいつも良く眺めるのが、「薩長同盟裏書(複製)」です。
 これは、薩長同盟の合意ができた際に、長州の桂小五郎から、確認を求めた手紙の裏側に、坂本龍馬が、薩長間の合意内容について確認した旨を朱書きしたものです。

 
c0187004_8311227.jpg さて、ここは、もともと「尾崎記念会館」でもありましたので、中庭には尾崎行雄の銅像があります。
 そこで、尾崎行雄の経歴について書いておきます。
 尾崎行雄は、神奈川県の津久井(現在の相模原市)に生まれました。
 そして、幼少期は、三重県の伊勢市で育ちました。
 大きくなり東京に出て、慶応義塾などに学んだ後、報知新聞の論説委員を経て、政治の世界に進みました。
 そして、尾崎行雄は、明治23年に行われた第1回総選挙に三重県から出馬し当選しました。
 以後、尾崎行雄は昭和27年の総選挙が行われるまで25回連続当選し、昭和27年選挙で初めて落選し、翌年昭和28年に亡くなりました。96歳でした。
 当選25回、議員勤続63年、95歳まで議員在職は、それぞれの日本記録だそうです。

 尾崎行雄の業績で忘れてはならないのが、アメリカに桜を送ったことです。
 ワシントンのポトマック河畔の桜は大変有名ですが、この桜の苗木をおくったのが、当時東京市長であった尾崎行雄です。
c0187004_11104875.jpg 尾崎行雄は、アメリカ大統領タフト夫人が、日本の桜をワシントンのポトマック河畔に植えたいと希望していることを知りました。
 日露戦争の際に、日本に対して好意的であったことに感謝していた尾崎行雄は、明治42年に苗木3000本を贈りました。
 しかし、アメリカに贈られた苗木は、害虫が発見され、すべて焼却処分とされました。
 残念に思った尾崎は、興津園芸試験場で育成してもらった3000本の苗木3000本を再度アメリカに贈りました。 
 明治45年(1912年)のことです。
 平成24年(2012年)には寄贈100周年を迎え、盛大に100周年記念事業が行われました。 
 日本から贈られた桜のかわりにアメリカから贈られてきたのがアメリカハナミズキです。
 こうした縁からだと思いますが、 国会前庭には、桜とアメリカハナミズキが数多く植えられています。右写真は、そのうちの「関山」です。

   
c0187004_8394567.jpg なお、当時は、衆議院議員と東京市長の兼務は可能でした。尾崎行雄は9年間東京市長を勤めました。
 憲政記念館内には、尾崎行雄のコーナーである「尾崎メモリアルホール」もあります。
 その中に『ワシントン市から贈られた鍵」も展示されています。
 昭和25年、尾崎行雄91歳の時に高齢にもかかわらず、元駐日大使クルーの招きを受けワシントンを訪れ元気に育った桜並木を見ました。
 尾崎を迎えたワシントンでは、市中を挙げて大歓迎をしました。 
 右写真の鍵が、尾崎の好意に敬意を表し尾崎にワシントン市から贈られた鍵です。


 赤印が「憲政記念館」です。

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by wheatbaku | 2014-02-06 08:47 | 大江戸散歩 | Trackback
日本水準原点標庫(霞が関赤坂散歩6)
 国会前庭は、国会議事堂のまさに前庭にあたりますが、江戸時代は、彦根藩井伊家の上屋敷でした。
 この国会前庭の中に「日本水準原点」がありそれを保護する「日本水準原点標庫」があります。

 今日は、この「日本水準原点標庫」についてのご案内です。

c0187004_1519385.jpg 「日本水準原点標庫」は、水準原点を保護するために建てられた建物です。
 この建物は大きくはありませんが、ローマ風神殿建築に倣い、トスカーナ式オーダー(配列形式)をもつ本格的な様式建築であり、明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重なものだということで、東京都指定有形文化財となっています。
 設計は、佐立七次郎が行っています。
 建物は石造で平家建。建築面積は14.93㎡で軒高3.75m、総高4.3mあります。
 正面のプロポーションは柱廊とその上部のエンタープラチュア(帯状部)とペディメント(三角妻壁)のレリーフの装飾で特徴づけられています。
 良く見ると三角妻壁の下には「大日本帝国」と刻まれています。
c0187004_15365838.jpg



c0187004_15193550.jpg 水準点というのは、標高を計る際に基準となる点のことですが、その原点がここにあります。
 水準原点そのものは、標庫の下部にある黒い蓋の部分の奥に入っています。
 当初の原点は、24.5mでしたが、関東大震災の影響で、24.414mに改定されました。
 さらに、平成23年3月11日の東北地方太平洋沖地震によって24.39mに改定されました
 当初の標高が24.5mとしたのは、原点が明治24年5月に完成したからだという説もあるようです。


 それでは、ここになぜ水準原点が設置されているかということです。
 そして、戦前、明治以降、日本国土の測量は、参謀本部陸地測量部が行っていました。
c0187004_15202642.jpg 実は、終戦まで、ここに参謀本部がありました。そして、陸地測量部もここにありました。そうしたことから、ここに水準原点があります。

 それでは、陸地測量部というはどういう組織でしょうか?
 陸地測量部は、参謀本部の外局で、国内外の測量と地図を管理等していました。戦後は、国土地理院となりました。
 陸地測量部ができたのは明治21年のことです。
 この年、参謀本部陸軍部・海軍部が、陸軍参謀本部と海軍参謀本部(後に軍令部)に分離され、それと同時に参謀本部測量局から、参謀本部長直属の独立官庁となりました。
 明治中頃には、内務省にも地理局があり測量を担当していました。測量が複数の部署で所管されていたwかですが、測量は統合される必要が唱えられ、明治17年に内務省地理局は参謀本部陸地測量部に統合されていました。

 陸地測量部は、発足時には三角科、地形科、製図科の三科が置かれ、初代部長には小菅智淵工兵大佐が任命されました。
 その後は、陸軍中将若しくは陸軍少将又は工兵大佐が陸地測量部長に任命されています。

 国会前庭前の内堀通りはゆるやかな坂になっていて「三宅坂」と呼ばれています。 
 参謀本部の北側には、陸軍省も置かれていました。
 そのため、「三宅坂」という言葉は、戦前は、陸軍省や参謀本部、さらには陸軍全体の代名詞として使われました。
 なお、陸軍省・参謀本部は、昭和16年に市ヶ谷に移転しています。

赤印が「日本水準原点標庫」です。国会前庭の中にあります。

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by wheatbaku | 2014-02-05 08:56 | 大江戸散歩 | Trackback
桜の井戸(霞が関赤坂散歩5)
 「霞ヶ関赤坂散歩」では、法務省旧本館をご案内した後、警視庁の玄関前で、「桜田門外の変」について詳しく説明しました。
 「桜田門外の変」については、このブログの中で過去に書いているので、そちらをご覧ください。
 桜田門外の変(八重の桜 第5回「松陰の遺言」)

  警視庁前の説明の後、国会前庭にある「桜の井戸」をご案内しました。
 そこで、今日は、「桜の井戸」のご案内です。
 なお、国会前庭は「まえにわ」ではなく「ぜんてい」と読みます。

 国会前庭の外側の道路(内堀通り)沿いに「桜の井戸」があります。
c0187004_16302346.jpg ちょうど高速道路のトンネルになる部分の上部になります。
 この「桜の井戸」は、 昭和43年道路工事のため交差店内から原形のまま10メートル離れた現在地に移設復元されたものですが、江戸時代には彦根藩井伊家上屋敷の表門の脇にありました。
 彦根藩井伊家の屋敷は、元は加藤清正の屋敷でした。
 そのため、「桜の井戸」は加藤清正が掘ったと伝えられています。
 その後、加藤家が2代目忠広の時に改易され、その跡を井伊家が拝領しました。そして幕末まで井伊家の上屋敷でした。
 「桜の井戸」には三本の釣瓶を下ろし、一度に桶3杯の水が汲め、屋敷前を通る通行人に豊富な水を提供し、重宝がられたといいます。

 「桜の井戸」は浮世絵にも描かれています。
 歌川広重が描いた「名所江戸百景」のうちの「外桜田弁慶堀糀町」という浮世絵に描かれているのです。
 「外桜田弁慶堀糀町」は、安政3年に描かれたもので、桜田門外の変の4年前の、井伊家上屋敷の表門の近辺の様子が描かれています。
c0187004_1692122.jpg これを見ると、3本の釣瓶井戸がわかりますし、表門の脇に、この井戸があったこともわかります。
 この「外桜田弁慶堀糀町」は、桜の井戸」の外に、いろいろなものが描かれています。
 順に説明しますが、「桜の井戸」の手前に小屋があります。
 また、中程右手に柳の木が描かれていますが、このそばにも小屋が描かれています
 なお、柳のそばのお濠端には「柳の井戸」と呼ばれる名水がありました。
 この小屋は、辻番所といって、警備したり通行人の中に不審者がいないか見張ったりする番人が詰めていた詰所です。
 江戸切絵図で確認してみると、確かに辻番所が、「桜の井戸」と「柳の井戸」のそばにあります。
 また、右手奥には、火の見櫓が描かれています。
 江戸切絵図を見ると、半蔵門外に定火消屋敷があります。
 定火消屋敷には火の見櫓がありましたので、この絵に描かれている火の見櫓は定火消屋敷の火の見櫓だと思われます。
 このように見てくると、歌川広重は、当時の姿をかなり正確に描いてくれているように思われます。
 とすると、「桜田門外の変」が起きた頃の、井伊家上屋敷の表門は、桜田門の方を向いていて、赤く塗られていた門であるということも想像がつきます。
 井伊大老は、この表門をでてわずか300~400mの所で暗殺されたことになります。

 赤印が「桜の井戸」のある場所です。

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by wheatbaku | 2014-02-04 09:40 | 大江戸散歩 | Trackback
法務省旧本館(霞が関赤坂散歩4)
 桜田門から南方を見ると、赤いレンガ造りの明治の旧館が目に入ります。
 これが「法務省旧本館」です。ここも「霞が関赤坂散歩」でご案内しました。
 「法務省旧本館」は、姿の通り「赤レンガ棟」とも呼ばれているドイツネオバロック様式の庁舎で重要文化財に指定されています。
 明治のはじめ、明治政府は、官庁を集中させる計画をたて、ドイツ人建築家エンデとベックマンをドイツから招聘しました。
c0187004_1631725.jpg そして、 基本設計はエンデとベックマンが行い、実施設計と工事監理は河合浩蔵が行って、明治28年に竣工したのが司法省建物(現在の法務省旧本館)です。

 なお、中央官庁集中計画ですが、司法省を起工しましたが、敷地が非常に悪かったため、計画の全体を変更せざるをえませんでした。
 そのため、日比谷練兵場跡の海側半分を占める軟弱地は公園(現在の日比谷公園)とし、司法省の隣地に裁判所を設置することになりました。
c0187004_1713331.jpg 地盤が軟弱であったのは当然だと思います。家康が江戸に入った頃には、日比谷は海であったのですから。

 司法省建物は、施工中の明治24年に濃尾地震が発生したため、耐震性の強化にも力を注いで建設されました。
 そのため、関東大震災では、煉瓦外壁が鉄材で補強されていたことでほとんど被害がありませんでした。
 しかし、昭和20年の空襲では、壁面と床以外を全て焼失してしまいました。
 その後、戦災で大きな被害を受けた建物は昭和25年に修復され法務省本館として利用されていましたが、平成7年当初の姿に復原されました。

この敷地は江戸時代は、米沢藩上杉家の上屋敷でした。
c0187004_1631369.jpg  この斜め向かい側は、総務省ですが、そこには、広島藩浅野家の上屋敷がありました。
 上杉家と浅野本家といえば、まさに忠臣蔵の敵同士となります。
 その二藩の上屋敷がごく近くにあったことになります。
 もっとも、上杉家の表門は、江戸城を向いていましたので、表門同士が向き合うという位置関係ではありませんでした。 
 桜田門寄りの法務省の敷地の縁に米沢市が設置した「米沢藩上杉家江戸藩邸跡」の碑が設置されています。(右写真)

 赤印が「法務省旧本館」です。青印が「米沢藩上杉家江戸藩邸跡」の碑です。

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by wheatbaku | 2014-01-31 08:45 | 大江戸散歩 | Trackback
霞が関跡(霞が関赤坂散歩3)
 「霞が関赤坂散歩」では「霞が関跡」もご案内しました。

 現在は、「霞が関」と言えば中央官庁街の代名詞になっています。
c0187004_15563687.jpg しかし、この「霞が関」という名前が関所の名前だという事をどれだけ多くの方が知っているでしょうか。
 霞ヶ関という名前は、元々は、関所の名前で、古代までさかのぼり、日本武尊(やまとたけるのみこと)が蝦夷の襲撃に備えて、武蔵国に置いた関所が「霞ヶ関」と名付けられたといいます。
 霞が関という名前は「武蔵野地名考」に、「その名前は関所から雲や霞の向うに景色を眺めることができるということに由来している」と書かれているそうです。

 霞が関がどこに置かれたかということは正確にはわかりません。
 今のところ、霞が関のあったとされる場所として、千代田区、東京都多摩市、そして埼玉県狭山市が考えられています。
 いずれも、江戸時代までは「武蔵国」と言われた地域です。
 江戸名所図会では、「霞が関の旧蹟」として次のように書いてあり、千代田区の霞が関を「霞が関」としていいます。
 桜田御門の南、黒田家と浅野家との間の坂をいう。往古(むかし)の奥州街道にして関門のありし地なり。(中略)「武蔵風土記」に、「荏原郡、東は霞が関に限る」とあり。この地いまは豊島郡に属せり
 
 

 「霞が関跡」の説明柱は東京メトロ「霞ヶ関」駅A2番出口を出たところに設置されています。(右上写真)
 なお、住居表示名は「霞が関」で、東京メトロの駅名は「霞ヶ関」です。
 住居表示名は「が」で、駅名は「ヶ」となっています。昭和42年まで、住居表示名が「霞ヶ関」だったそうですので、駅名が元のままなのだと思われます。
c0187004_15575052.jpg この説明柱の前の建物は、合同庁舎で、主に総務省が入っていますが、江戸時代には、秋広島藩浅野家の屋敷がありました。
 総務省の南側には外務省があります。
 外務省の場所は、江戸切絵図を見ると、江戸時代には、松平美濃守となっています。
 この松平美濃守とは、福岡藩黒田家の事です。
 江戸時代には、一国を拝領している外様大名に対して、松平姓を与える松平賜姓が行われたため、外様大名で松平姓を名乗っていた大名がいます。
 福岡藩黒田家もその一つです。
 そのため、松平美濃守と切絵図には表示されています。c0187004_1557610.jpg  ちなみに、総務省の安芸広島藩の上屋敷は、松平安芸守となっています。
 これも松平賜姓の一つです。
 その、外務省と総務省の間にある坂が、「霞が関坂」です。
 これも、坂下に霞が関があったことにちなむ坂名です。
 右中段の写真は、坂下から眺めた「霞が関坂」です。左にある建物が外務省です。
 右最下段の写真は、坂の上から眺めた「霞が関坂」です。

 今年の大河ドラマは「軍師官兵衛」です。
 福岡藩黒田家は、官兵衛の息子黒田長政が初代藩主です。
 黒田官兵衛ゆかりの地は、姫路・福岡などで、東京にはゆかりの地はあまりありません。
 福岡藩黒田家屋敷跡は、数少ない東京の黒田官兵衛ゆかりの地です。


 赤印が「霞が関」の説明柱がある場所です。 青印が「霞が関坂」です。

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by wheatbaku | 2014-01-30 09:08 | 大江戸散歩 | Trackback
  

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