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織田信長、長篠にむけて出陣する(「どうする家康」73)

織田信長、長篠にむけて出陣する(「どうする家康」73

 長篠城を包囲された徳川家康は、徳川家単独で武田軍と戦い長篠城を救援するのは困難と考え、織田信長に援軍を要請しました。

 家康の要請を受けて、信長は、『信長公記』によれば、513日に嫡男信忠とともに岐阜を出陣し、その日は熱田まで進み、14日は岡崎に着陣し15日まで滞在しています。この時、鳥居強右衛門が救援依頼の使いとして岡崎に到着し信長に謁見しています。その後、16日には牛久保城に入り、17日は野田原に野陣し、18日には設楽原の極楽山に本陣を構えたと書いてあります。

武田勝頼が長篠城を包囲したのは51日と言われています。前年天正2年(1574)の遠江高天神城の場合は、512日に包囲が開始され、その救援のため信長が出陣したのは614日で、19日に今切(静岡県湖西市)まで来た時に、高天神城が開城してしまい、救援が間に合いませんでした。それに比べると、かなりスピーディに信長が出陣したように思われます。おそらく、前年の救援失敗を教訓に、早めに出陣をしたものと思いますし、長篠城が落城した場合の影響度の大きさを考慮したうえでの決断だったのではないかと考えます。

なお、「どうする家康」第21回では、徳川家康が織田信長の援軍が派遣されるのが遅いことに憤り、信長との同盟を破棄すると伝え、それに対して信長が怒りをあらわにするというストーリーでした。

 この話は、「どうする家康」の創作とばかり言えないように思われます。『甲陽軍鑑』に次のような話が書かれているからです。

 『甲陽軍鑑』には、家康は、譜代の小栗大六を使いとして信長に2回にわたり援軍を要請したが、信長からは2回とも出陣できないという返事であったと書いてあります。

そこで、家康は三度目の使いを小栗大六に命じる際に、「信長殿と起請文を交わし、『互いに援軍を送り合う』と約束したのに従い、近江箕作(みつくり)からこれまで、若狭・姉川と加勢してきました。今度信長殿の御出馬がなければ、勝頼に遠江を差し出し、自分は三河一国のみを治めるという条件で、すぐにでも勝頼と和睦しようと思います。信長殿が、すぐに長篠の後詰めを送らなければ、起請文をそちらから破ったことになるので仕方ありません、誓約を破棄し勝頼と和睦して先鋒をつとめ尾張に撃って出て、遠江の代わりに尾張を頂戴しようと思います。その場合には徳川家は勝頼の旗本として働きますので、尾張は一日で制圧できるとお考えください。」と言えと命じました。

これを受けて、小栗大六は、岐阜に向かい、信長に3度目の要請をしたが、信長がこれを断ったので、やむえず信長の家臣を通じて家康の意向を伝えたところ、ついに信長が出馬したと『甲陽軍鑑』に書いてあります。なお、『甲陽軍鑑』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。

この『甲陽軍鑑』の記述を踏まえて、丸島和洋氏は『武田勝頼』(平凡社)の中で、「家康が使者に述べさせたとされる発言は、事実の可能性があるばかりか、外交上の駆け引きとも言い切れない。武田勢の攻撃に独力で対処できない状況が長期化し、信長が本腰をいれて援軍を出さないようであれば、武田氏との和睦に動いても何ら不思議ではないのだ。『清須同盟』と一般にいわれる信長と家康の同盟が破綻しなかったのは結果論であって、この時、最大の危機を迎えていた。」と書いています。

丸島和洋氏の説によれば、家康と信長の同盟は、本当に破綻したかもしれなかったようです。





# by wheatbaku | 2023-06-09 22:30 | 大河ドラマ「どうする家康」
奥平信康への亀姫の輿入れ決まる(「どうする家康」72)

奥平信康への亀姫の輿入れ決まる(「どうする家康」72

 「どうする家康」第21回で、亀姫が奥平信昌に輿入れする話が出ていました。今日は、その話について触れてみたいと思います。

 作手亀山城の奥平定能・信昌父子に対する調略は、家康側から働きかけが行われたようです。一方、奥平家側では、東三河の牛久保領の配分をめぐって田峯菅沼氏との争いがあり甲府に訴え出たにもかかわらず武田勝頼から門前払いを喰らったため、武田氏に対する不満がありました。そうした状況のなかで、徳川家から本領安堵・さらに加増のほか、家康の長女亀姫を輿入れさせてという破格の条件での申し入れがあったことから、秘密裏に交渉が進められました。そして、天正元年(1573820日付の起請文の中で家康は、奥平貞能・信昌父子に対し、①奥平信昌と家康長女亀姫の祝言を来る9月に行う。②本領、日近奥平家の領地および遠江の知行も安堵する、③田峯菅沼氏の所領も必ず与える、④長篠菅沼氏の所領も与える、⑤新知行として三千貫文を三河と遠江で半分ずつ与える。⑥三浦氏の名跡も今川氏真の許可を得て与えるよう努力すると約束しています。(愛知県史資料編11p458より)以上のように、家康が奥平父子に与えた起請文は、奥平家にとって破格のものでした。

また、起請文の最後には、「信長御起請文取り、これを進ずべく候。信州伊奈郡の義、信長へも申届くべき事」と書かれています。これは、「織田信長からの起請文をもらいそちらに与える。信濃国伊那郡が欲しいとの要請も信長に伝える」という意味ですが、起請文は奥平貞能・信昌と家康との約束ですが、両者の交渉に織田信長も関与しているように見えます。

このことについて、『敗者の日本史⑼ 長篠合戦と武田勝頼』で平山優氏は、「その待遇といい、織田氏の関与が色濃く見られることといい、信長の意向が強く働いており、むしろ家康はそれに沿って動いていたとはいえないであろうか。このことは、信長在世中、奥平父子は織田氏に厚遇され、徳川氏に帰属しつつもその家格は他の三河国衆よりも傑出して高く、しばしば岐阜城(後に安上城)に徳川家臣の中で単独から呼ばれ、信長に拝謁していることなどからも窺われる。」と書いています。

「どうする家康」では、信長の意向を受けて家康が交渉したと描かれていましたが、平山優氏がそう考えていることはまちがいないようです。

 また、「どうする家康」で、松平信康が亀姫の輿入れに反対していましたが、『三河物語』に信康が反対したが、信長がなだめたので信康も了解したと書いてあります。信康は、父家康が妹亀姫を奥平信昌に輿入れさせようとしていることを知り、「なぜ信昌を妹婿にするのか」と強く反対したため家康はやむえず信長に相談しました。信長は、「信康のいうことはわかった。しかし、奥平氏は忠節を尽くそうとしているし、非常に重要な境目を預け置く重要な役割を命じている国衆である。信康は、反対意見を堪忍して、家康に任せるのがいいのではないか」と答えてきたといいます。これに対して、信康は、「親たちがそういうのであれば、思うままにやっていただきたい」と返答したと書いてあります。

徳川氏と奥平定能・信昌の交渉は秘密裏に行われていましたが、まもなく奥平父子が家康に内通しているとの噂が流れ、奥平貞能は黒瀬の陣屋(塩平城)に呼び出され尋問されました。貞能はそれを否定しつづけ、作手に帰城することに成功しました。しかし危険を感じた奥平貞能・信昌は、すぐに徳川方と連絡を取り、一族を連れて亀山城を説出しました。このことは昨日書きました。

この出奔を受けて、武田氏に出されていた奥平家の人質三人が処刑されました。このことは、丸山彭編『戦国人質物語』(長篠城址史跡保存館発行)に詳しく説明されていますので、それを参考に書いていきます。この時処刑されたのは、奥平貞能の次男仙丸(信昌の弟、13歳)、「おふう」(日近奥平貞友の娘16)、虎之助(荻奥平勝次次男、16)の三人であったといいます。武田氏は、わざわざ甲府から人質を奧三河まで護送してきて処刑したといいます。仙丸は切腹、「おふう」と虎之助は磔(はりつけ)にされたといいます。

この時、処刑された「おふう」について平山優氏が『敗者の日本史⑼ 武田勝頼と長篠合戦』の中で、奥平氏から武田氏に差し出された「おふう」は奥平信康の妻だったのではないかという興味深いことを書いています。

平山氏によれば、武田方の『軍鑑』には、彼女は奥平信昌の妻と明記されており、『松平記』にも「奥平九八郎が妻を人質に甲州に置しをハタモノにかけらるる、信長是を聞召し、奥平九八郎は人質を捨て味方になし事、無双の忠節なりとて信長の御肝煎にて家康の聟(むこ)になり」と記されているそうです。こうしたことから「これらの記述は事実の可能性が高く、磔にされた『おふう』こそ奥平信昌の正室であったが、武田方を離叛する際に、徳川家康息女亀姫を正室とする約束により見捨てられ、近世になると神君家康と信昌の正室となったその息女亀姫を憚って、奥平氏の正史からも彼女が正室であった事実が消されてしまったのではなかろうか記して後考をまちたいと思う。」と書いています。

私には根拠があるわけではありませんが、平山優先生のこの見解には説得力があると感じました。今後、このテーマについての研究成果が発表されるといいなぁと思っています。




# by wheatbaku | 2023-06-08 22:29 | 大河ドラマ「どうする家康」
奥平信昌、父貞能とともに武田家から離反(「どうする家康」71)

奥平信昌、父貞能とともに武田家から離反(「どうする家康」71

 長篠合戦の際に、長篠城を死守していた奥平信昌は、武田家から離反したうえで長篠城に入城していました。「どうする家康」の中で、奥平信昌が、武田家には絶対戻れないと言っていました。奥平信昌が、武田家を離反し徳川家康に帰属した経緯を知ると、そういう奥平信昌の心情が理解できると思います。そこで、今日は、奥平信昌が、父貞能(さだよし)とともに武田家を離反し徳川家に帰属した経緯について書いてみます。

まず、奥平氏の歴史について書いてみます。奥平氏の発祥は上野国奥平(現在の群馬県吉井町下奥平)であるとされています。8代貞俊は、南北朝時代の天授年間(13751381)に三河国作手(つくで)に移り、川尻城(新城市作手高里城山)を築いた後、亀山城(新城市作手清岳)を築城して、そこを居城としたとされています。戦国時代に入り、今川家が三河に進出してくるなかで、11代奥平貞勝までは駿河の今川氏の傘下にありました。

 奥平氏は、作手の亀山城を拠点として勢力を拡張し、田峯城の田峯菅沼氏、長篠城の長篠菅沼氏とともに山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)と呼ばれました。

 永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、三河統一をめざす徳川家康の攻勢を受け家康に帰属しました。しばらく徳川家の傘下にあった奥平家は、元亀2(1571)、武田家武将秋山信友による三河侵攻を受けました。その際、信昌の父奥平貞能は、引続き徳川家に帰属することを考えていたものの、既に周辺の田峯菅沼氏や長篠菅沼氏が武田方となっていたため、信昌の祖父奥平貞勝や貞昌の弟常勝が武田家に従うよう主張したため、奥平貞能および信昌もやむえず最終的に武田方に帰属することになりました。この際、奥平家は、3人の人質を武田方に出しています。※『徳川家康と武田氏』(本多隆成著)や『徳川家康と武田信玄』(平山優著)によると武田信玄が奥平家を帰属させたのは元亀3年としています。

元亀4(1573)武田信玄が亡くなり、徳川家康は、三河領内の武田方諸城に対する働きかけを強めていましたが、奥平貞能・信昌に対しては、家康の長女亀姫を信昌へ輿入れさせることや領地加増などを条件として徳川家に帰参するよう秘密裏に交渉しました。

 こうしたことから、奥平貞能は徳川家への内通を疑われ、武田方から尋問されましたが、なんとか武田方の疑いを晴らして亀山城に戻ることができました。

 状況は急を要することを認識した奥平貞能・信昌父子は、作手の亀山城を退散し徳川のもとに奔ることを決意し一族郎党とともに退去し滝山城(岡崎市宮崎町)に移りました。一方、武田派の奥平貞勝・常勝は亀山城に残りました。

 奥平貞能・信昌が出奔したのに気付いた武田軍は滝山城を攻撃しましたが、奥平軍の反撃を受け攻略することができませんでした。さらに、徳川家の援軍がやってきたため、武田軍は引き払いました。

 その後、奥平信昌は、家康から長篠城の城主となるよう命じられました。そこで、奥平貞能より約300人の軍勢を譲りうけ、長篠城に入りました。一方、父奥平貞能は、残り100人ほどの軍勢を率いて家康の旗本として戦うことなりました。

 こうした経緯があるため、武田軍は奥平信昌が守る長篠城を徹底的に攻める一方、奥平信昌も、武田家に降伏するという選択肢はありえず、頑強に抗戦したのでした。

 奥平家では、武田家に人質として信昌の妻や弟など三人を差し出していましたが、貞能・信昌の離反により、この三人は殺害されました。

 家康の娘亀姫が奥平信昌の妻となりますが、奥平信昌自身にとっては妻を殺害されるという災禍があったうえでの結婚だったわけです。このことについては、次回、説明したいと思います。





# by wheatbaku | 2023-06-07 19:50 | 大河ドラマ「どうする家康」
長篠城攻防の歴史(「どうする家康」70)

長篠城攻防の歴史(「どうする家康」70

 「どうする家康」第21回では、長篠城に奥平信昌が籠城していました。ここでの攻防戦が、長篠の戦いの前哨戦となります。長篠城は、奥三河にあり、信州と国境を接しており、周辺は、有力な戦国大名今川氏、徳川氏、武田氏に囲まれていることからしばしば激しい攻防の場となっています。その頂点が長篠の戦いです。今日は、長篠城攻防の歴史について書いてみます。

 奥平信昌が籠城した長篠城は、南を流れる寒狭川(現豊川)と東側を流れる大野川(現宇連川)の合流部(ここが渡合と呼ばれている)の断崖の上に築かれていて、この二つの川が外堀の役を果たしていました。下写真は南側から見た長篠城址です。昨秋、長篠城を訪ねた時に撮ったものです。

長篠城攻防の歴史(「どうする家康」70)_c0187004_18290970.jpg

長篠は、信州飯田と三河の吉田(現在の豊橋市)を結ぶ交通の要衝であり、遠江の浜松にも通じていました。現在でも、長野県飯田市と愛知県豊橋市をつなぐJR飯田線には「長篠城駅」があり、城跡を飯田線が横切っています。また、長篠城跡近くを通る国道257号線は静岡県浜松市と岐阜県高山市を繋いでいます。

長篠城は、戦国時代の永正5年(1508)に、山家三方衆の一つ長篠菅沼氏2代目の菅沼元成が築城しました。菅沼氏は、もともとは土岐一族とも言われ、東三河の山間の作手(つくで)村菅沼を拠点としたことから、菅沼氏を称したとされています。その後、作手村から田峯(だみね)城(現在の愛知県北設楽郡設楽町田峯)に拠点を移し勢力を拡大しました。田峯城を拠点とする菅沼氏は田峯菅沼氏と呼ばれ、奥三河の一大勢力となりました。菅沼元成は、田峯菅沼氏から分かれた長篠菅沼氏の2代目で、その当時、三河に進出していた今川氏親(義元の父)に帰属していました。

長篠城は、周辺の戦国大名今川氏、徳川氏、武田氏からしばしば攻撃をうけ、その度に勝った方に帰属先を変えています。初代長篠城主菅沼元成以降、長篠菅沼氏は代々今川氏に属していましたが、永禄3年(1560)に桶狭間の戦いで今川義元が戦死し、三河統一をめざす徳川家康により攻撃され家康に帰属するようになりました。

 しかし、元亀2年(1571)、三河侵攻をめざす武田信玄は、奥三河に武将秋山信友を派遣し、諸城を攻撃させました。この時に、田峯城を拠点とする田峯長沼氏や作手亀山城を拠点とする奥平氏が武田氏に属するようになり、そして、時の長篠城主菅沼正貞も城を開き武田氏に属することになりました。こうして、山家三方衆と呼ばれる奥三河の有力武将はすべて武田方となりました。

 ところが、元亀4年(1573)、武田信玄が亡くなると、徳川家康は、長篠城の奪回をめざし、7月から攻撃を開始しました。これに対して、武田勝頼は、長篠城救援のため、馬場信春、武田信豊、土屋昌次を派遣しましたが、救援軍が到着する前の9月初め、菅沼正貞は、城を開き家康に降伏しました。この時、長篠城を脱出した菅沼正貞は、武田氏側から、家康への内応を疑われ、小諸城に幽閉されています。

 長篠城を攻略した家康は、落城した長篠城に松平(五井松平家)景忠を城番として入城させ守らせました。

 一方、長篠城が落城する直前のの天正元年(15738月、武田氏に服属していた山家三方衆の一人の作手亀山城の奥平信昌が、居城の亀山城から出奔し徳川家康に帰属することになりました。そこで徳川家康は、天正3年(1575228日、奥平信昌を長篠城主として長篠城を守らせることとしました。

 「どうする家康」で奥平信昌が城主として、長篠城に籠城していましたが、こうした経緯を経て、長篠城に籠城していたのでした。

 長篠城主となった奥平信昌は、それまでの長篠城を大改造し濠を深くし土塁を築くなどして、武田軍の来寇に備えました。現在、城跡に濠の跡や土塁が残されていますが、その多くが、奥平信昌が修復・築造させたものです。下写真は、長篠城跡に残る土塁と堀ですが、これも奥平信昌の手によるものだそうです。
長篠城攻防の歴史(「どうする家康」70)_c0187004_18290807.jpg



# by wheatbaku | 2023-06-06 18:18 | 大河ドラマ「どうする家康」
鳥居強右衛門、救援を求めて岡崎に向かう(「どうする家康」69)

鳥居強右衛門、救援を求めて岡崎に向かう(「どうする家康」69

 「どうする家康」第21回では、武田軍に包囲され窮地に陥った長篠城から岡崎に救援を訴えた鳥居強右衛門の英雄的行動がドラマ的に描かれました。鳥居強右衛門が岡崎に向かい、徳川家康や織田信長に長篠城の窮状を伝え救援をお願いしたことは史実と考えられています。

 この鳥居強右衛門の働きは、『寛政重修諸家譜』の奥平信昌について書いた中に触れられていますので、その概略を紹介したいと思います。

 『寛政重修諸家譜』は、もともと、大名や旗本諸家の由緒・功績を述べたものです。鳥居強右衛門の子孫は、江戸時代も奥平松平家(幕末は忍藩藩主)に仕えましたが、大名でも旗本でもありません。しかし、鳥居強右衛門の功績が、彼が仕えた奥平信昌(子孫は江戸中期以降は豊前国中津藩主となる)の経歴・功績の中に特記して書かれています。それだけ、鳥居強右衛が長篠城攻防戦で果たした功績が、奥平家にとって大きかったということを如実に表していると私は思いました。

 以下、『寛政重修諸家譜』に書かれていることをまとめたものです。

 武田軍の包囲を受けて、味方も死傷者が多く、兵粮も少なってきたので、長篠城主の奥平信昌は家臣を集め、徳川家康に援兵を要請にいくように話したが、家臣は、城と一緒に討死したいというばかりで、使いに走ろうという人は一人もいなかった。そうした中、鳥居強右衛門が進みでて、私が岡崎に向かいますと申し出た。そして、信昌の父奥平貞能への書を持って、その夜、約束を決めて城を忍び出て、川に潜り、川をこえて、15日の未明に長篠城の向いの山に合図の狼煙(のろし)を挙げた。鳥居強右衛門は、直ぐに岡崎に走り岡崎に着くと、奥平貞能に面会し、長篠城の窮状を伝えた、奥平貞能は、すぐに鳥居強右衛門を伴い、家康の前に出で言上すると、家康は「織田信長公は、すでに援兵を率いて岡崎到着している。まもなく長篠に向かう予定である。私も今夜出陣するので、お前も、一緒に長篠に付いてこい」と言った。鳥居強右衛門は、その言葉に喜んだが、「この事を一刻も早く奥平信昌に知らせたい」と申しあげ、奥平貞能の返事をもって、一晩中道を急ぎ、16日城外に着いた。そして、敵兵にまぎれて隙をみて城中に這入り込もうしたが、馬場美濃守信房が鳥居強右衛門の脛巾(はばき)の色の違っているのを見咎めて、捕えて、貞能の返事を奪い取って武田勝頼に報告した。勝頼が鳥居強右衛門を糺間して、武田逍遙軒(信廉)を通じて、武田勝頼のいう事すなわち織田軍の援軍はこないのですぐに開城するようにと言えば、罪を許すうえ、厚く恩賞を与えると説得した。鳥居強右衛門は、本心を隠してこれを承諾した。そこで、武田方は、兵士に護らせて長篠城近くに向かわせた。鳥居強右衛門は、城に向って大声で、「織田信長公は上様と一緒に救援に向かっている、あと数日で到着するので、その間は堅固に城を守って欲しい。これが今生の別れだ」と叫んだ。すると、驚いた武田軍は、鳥居強右衛門が、言い終わらないうちに、鎗をつきあげて、柵の前で鳥居強右衛門を磔にした。

 以上が『寛政重修諸家譜』に書かれた鳥居強右衛門の功績ですが、亀姫とのやりとりは全く書かれていませんので、「どうする家康」で描かれていた亀姫とのやりとりや亀姫の気持ちの変化は、「どうする家康」での創作だと思われます。しかし、ドラマとして面白かったように思います。

 なお、『寛政重修諸家譜』では、鳥居強右衛門が信長に会えたとは書いてありませんが、天正6年に地元の乗本村の阿部四郎兵衛が書いたという長篠合戦記である「長篠日記」には、鳥居強右衛門が信長に会って長篠城の窮状を申し上げたことが記録されています。(丸山彭著「烈士鳥居強右衛門とその子孫」p168より)


 さて、『寛政重修諸家譜』の原文は国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができます(ご興味のある方は検索してみて下さい)ので、下記に参考に書いておきます。『寛政重修諸家譜』は、もともとは古文ですので、読みやすくするため、一部修正して記載します。なお、鳥居強右衛門は、『寛政重修諸家譜』では「勝商(かつあき)」と諱(いみな)で書かれています。

 14日武田勢また渡合(どあい)の門をかこむ。信昌等城を出でて防ぎ、戦い、これを追払う。初めよりの戦いに、敵しばしば利を失いしにより、しばらく合戦をやめて遠巻す。味方もまた討死手負多く、兵粮もまた乏しく4.5日の貯(たくわえ)にすぎず。ここにおいて信昌諸士を集め、これらのことを父貞能が許(もと)につげ、かつ東照宮(徳川家康のこと)の援兵を乞い奉らむとはかる。

家臣奥平次左衛門勝吉は水練達せしにより、これをして使(つかい)たらしめむとすといえども、その出城ののち(城をでたあと)、もし落城に及ばば末代までの恥辱なりとてうけがはず(肯はず、了解しないという意味)。その余の士(さむらい)もあえてこれを諾するものなく、各(それぞれ)言葉をおなじうして、とてもこの囲を出むこと叶い難かるべし。もし又逃れ出むにも、事すでに急なり、後詰(ごづめ:救援)遅滞に及ばば、運を開きがたかるべし。突(つい)て出て、こころよく討死せむには如(し)かじと答う。

信昌やむこと得ずして、しからば某(それがし)ひとり腹切て諸卒を助くべしという。この時、家臣鳥居強右衛門勝商すすみ出で、某(それがし)罷(まか)り向かわんとて、すなわち貞能(信昌の父)に贈るところの書を齎し、この夜、約を定めて城をしのび出で、潜に滝川をこえ、15日の未明に長篠城の向いの山に相図(あいず)の狼煙(のろし)をあぐ。

これよりただちに岡崎に馳参じ、貞能にまみえて城中のことをつぐ。貞能すなわち(鳥居強右衛門)勝商を伴い、御前に出で言上せしかば、織田右府(信長)すでに援兵の事を諾し、当地に到着あり、不日に(ふじつ:すぐに)長篠に向かわべし、我もまた今宵出陣すべきあひだ、従い参るべしと仰(おうせ)出さる、(鳥居強右衛門)勝商よろこび領掌(了承)す。「しかれども、この事、速(すみやか)に信昌にしらせ申たし」とて、貞能が返状を持、よもすがら道をいそぎ、16日城外にいたり、敵の仕寄(※城を攻める際に防衛や攻撃のために用いる竹などの大きな束)の者にまぎれ、竹東を持ち、隙を伺いて城中に馳入むとす。馬場美濃守信房、(鳥居強右衛門)勝商が脛巾(はばき)の色の異なるを見咎め、これを捕え、貞能が返状を奪い取り、そのよしを勝頼につぐ。勝頼これを糺問し、武田逍遙軒(信廉)をして諭(さと)さしめていはく、汝我ことばに従わば、死を免るるのみにあらす、厚く賞を行うべし。城下にいたりて親しき者を呼出し、信長所々の軍事に暇あらずして援兵の事を肯(うけがわ)ず。故に速やかに城を避(さけ)よというべしと、(鳥居強右衛門)勝商偽りて諾す。ここにおいて、勇士十余人を添えて城下に至らしむ。(鳥居強右衛門)勝商城に向って大に呼わりて曰(いわ)く、織田右府(信長)、吾君とともに、当城の後詰として御発向あらむこと両三日を過ぐべからず、その間は堅固に城を守りて、あえて怖ることなかれ、此言今生の別れなりと、いまだ言いも終らざるに、衆兵鎗を把(とっ)てつきあげて、柵の前に磔(はりつけ)にす。


# by wheatbaku | 2023-06-05 16:10 | 大河ドラマ「どうする家康」
  

江戸や江戸検定について気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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