白子屋お熊のお墓(江戸のヒロインのお墓 ) 

白子屋お熊のお墓(江戸のヒロインのお墓 ) 

「浅岡飯炊きの井」のある良源院跡のすぐ近くに常照院があります。常照院も増上寺の子院です。。(下写真は常照院の山門です)

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 この常照院に白子屋お熊のお墓があります。

 山門を入ってすぐ右に白子屋お熊のお墓があります。
 下写真の左側が白子屋お熊のお墓、中央が供養碑、右が案内の標柱です。

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白子屋お熊は、日本橋新材木町の材木商白子屋庄三郎の娘で、お熊は手代の忠七と密通したうえ、養子の又四郎を追い出そうとし、母のお常が、下女菊に又四郎を襲わせた事件を起しました。

この白子屋お熊(おくま)一件は、大岡越前守忠相の活躍ぶりを描いた「大岡政談」の中で、唯一大岡越前守忠相が裁いた事件として有名です。

白子屋は、江戸日本橋の新材木町にある材木問屋でした。

主人白子屋庄三郎の娘お熊は、下女お久の仲立ちにより、店の手代忠八と密通していました。しかし、持参金目当てで又四郎を養子にもらうこととなり、結婚をしました。

結婚後も、お熊は忠八との関係は続き、なんとか又四郎を追い出したいと考えました。母親のお常もお熊の企てに加担し、下女のお菊に又四郎を襲わせました。下女お菊に襲われた又四郎は怪我をした程度ですみましたが、このことが表沙汰となり、南町大岡越前守忠相の吟味が行なわれ、享保12年(1827)2月25日に判決が下りました。

その判決では大勢の人が処罰されています。中公新書「大岡越前守」(辻達也著)に引用されている「享保通鑑」巻十一享保12年によると次のような処罰となっています。

まずお熊ですが、お熊(21歳)は市中引廻しの上死罪

密通の相手の手代忠八は市中引廻しの上浅草にて獄門、

母親お常は遠島、父親庄三郎江戸払

下女きく死罪、下女久市中引廻しの上死罪

お熊と獄門としている本もありますが、中公新書「大岡越前守」(辻達也著)に書かれている「享保通鑑」によれば、お熊は死罪となっていますので、死罪が正しいと思います。

また、この事件の15年後の寛保2年(1742)に完成に定められた公事方御定書でも、その48条「密通御仕置之事」で、「密通をした妻は死罪で、相手も死罪」と定められていますので、お熊は獄門ではなく死罪だったと思います。

なお、死罪は、小伝馬町牢屋敷で斬首される刑ですが、獄門と云うのは、小伝馬町牢屋敷で斬首された後、刑場に首をさらす刑で、獄門の方が重い刑罰です。

本来は、犯罪者の埋葬や墓の建立は許されないケースが多いのですが、白子屋阿熊の場合には、お墓が建てられています。

「享保通鑑」によれば、「くま死骸は、早速首を継ぎ、施主の願いにより、増上寺内念仏堂常照院に、これを葬る」と書かれていて、特別に許可されたものと思われます。

こうして建てられた白子屋阿熊のお墓ですが、常照院のホームページによれば次のような経緯があります。(下写真は常照院の本堂です)

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阿熊の遺骨は、昭和9年の墓地改葬に伴い、当院墓地の無縁塔に合祀されました。一方、墓石は残りましたが、太平洋戦争の戦災で焼かれ、破砕がひどく、戒名等も一部しか判読できない状態となりました。

そこで、お熊の260回忌に相当した昭和61年に墓石の一部を復元し、供養碑を建立しました。



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# by wheatbaku | 2018-09-23 16:34
「浅岡飯炊きの井」―良源院 (江戸のヒロインゆかりの寺社)

「浅岡飯炊きの井」―良源院 
(江戸のヒロインゆかりの寺社) 

前回、三沢初子(浅岡局)のお墓をご紹介しました。

 その三沢初子(浅岡局)ゆかりのお寺が増上寺にあります。(正確に言うと、ありました)

 現在の港区役所の敷地の南西の角に「浅岡飯炊きの井」があります。

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港区役所の敷地には、江戸時代、増上寺の子院である良源院がありました。

 この良源院は、仙台藩伊達家の藩主が増上寺参詣する際に支度所として使用されていました。

 万治3年(1660)に仙台藩で起きた有名な伊達騒動の際、2歳の亀千代(のちの伊達綱村)を毒殺から守るため、母の三沢初子(側室である浅岡局)が自らこの井戸で水を汲んで調理したと伝えられています。

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 もともとは、旧庁舎の中庭にあったものを、昭和62年の庁舎新築の際に移転したものだと説明板に書かれています。

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良源院は、現在は、なくなっていて存在しません。

いつ廃寺となったのかはっきりしませんが、幕末の江戸切絵図では、良源院は、現在の港区役所のある場所に描かれています。

しかし、明治17年(1884)の参謀本部陸軍部測量局作成の地図には記載されていませんので、少なくとも明治17年までに廃寺となったものと思われます。

伊達騒動は、伊達亀千代(綱村)の後見人になった伊達兵部が、藩政を専権したため、伊達安芸が、幕府に訴えでて、幕府の裁定により、伊達兵部が土佐藩山内家に預けられて結着しました。 

これが、歌舞伎に取り上げられて「伽羅千代萩」では、幼君鶴喜代の乳母政岡が、幼君を敵から守るためわが子千松を犠牲にする場面は大変有名な場面となっています。

しかし、仙台市史を読む限りでは、綱村の毒殺の企みがあったとは書いてありませんので、脚色されたものと思います。

伊達騒動と言えば、山本周五郎の「樅の木は残った」が大変有名です。

これは、従来、伊達兵部の一味として藩政を専権していた家老原田甲斐を悪人としてでなく、大老酒井忠清の伊達家改易の企みを阻止するために、闘った人物として描き、原田甲斐悪人説を覆す小説だと言われています。

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そこで、今回、仙台市史と「樅の木は残った」を読んでみましたが、仙台市史では、原田甲斐は伊達兵部の一味であり、時の大老の酒井忠清の屋敷で、伊達騒動に対する尋問がおこなわれた際に、原田甲斐が突然伊達安芸に斬りかかり、伊達安芸を殺害したと書かれています。

現時点での伊達騒動に対する公式的な見解が仙台市史の立場なのだと思います。

一方、「樅の木は残った」では、最後の場面では、酒井忠清邸で、酒井忠清の家臣が、原田甲斐や伊達安芸らを殺害したものの、原田甲斐がなくなる直前に、「自分の乱心である」として、それが公式なものになり、原田甲斐一族が厳罰に処せられたとなっています。

一般に言われているように、原田甲斐が忠義の人物という風に書かれていて、仙台市史の立場からすれば、確かに違ったものとなっているように思ったと書いておきます。

最後に、「樅の木は残った」のタイトルとなっている樅の木はどこにあったかについて書きます。

「樅の木は残った」を読むまでは、原田甲斐の館であった船岡城(宮城県柴田郡柴田町)付近にあった樅の木を指していたものだと思っていました。

しかし、「樅の木は残った」の樅の木は、今回紹介した良源院にあったようです。

「樅の木は残った」は、「冬の章」が最後の章ですが、この章は良源院の舞台となっています。

その中で、樅の木は次のように描かれています。

雪はしだいに激しくなり、樅の木の枝が白くなった。空に向かって伸びているその枝々は、雪を衣(き)て凛と力づよく、昏れかかる光の中に独り、静かに、しんと立っていた。

まさに、良源院にある「樅の木は残った」のです。



 赤印が「浅岡飯炊きの井」です。







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# by wheatbaku | 2018-09-20 18:52 | 江戸のヒロイン
三沢初子のお墓(江戸のヒロインのお墓⑰)

三沢初子のお墓(江戸のヒロインのお墓⑰)

 江戸のヒロインのお墓、今日は三沢初子のお墓をご案内します。

 三沢初子という人はあまり有名でないので、ご存知の方は少ないと思いますが、歌舞伎の『伽羅先代萩』の政岡のモデルとなった女性です。

 三沢初子のお墓は、中目黒の正覚寺にあります。

正覚寺は、中目黒駅から徒歩5分の山手通りに沿ってあります。

正覚寺は、実相山正覚寺といい、日蓮宗のお寺です。

元和5年(1619)に日栄上人によって創建されました。最初は日蓮宗の不受不施派のお寺でしたが、幕府によって不受不施が弾圧された際に、受布施派の身延山久遠寺の系統になりました。

 正覚寺は、江戸三大鬼子母神に数えられた伝教大師作と伝えられている鬼子母神像が有名ですが、鬼子母神が祀られている鬼子母神堂は現在修復工事中です。

 下写真は11代将軍徳川家斉が江戸城中で深く帰依していたという日蓮聖人木像が安置されている祖師堂です。

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 三沢初子のお墓は、本堂の東側の墓所内にあります。墓所の中央にありますので、比較的容易に見つけられると思います。

 三沢初子は、寛永16年(1639)、鳥取藩士三沢清長の長女として生まれ、13歳のとき母と死別してしまいました。そこで、初子は、叔母の紀伊局に養育されることになりました。

 紀伊局は、徳川家康の次女の督姫と池田輝政の間に産まれた振姫の侍女でした。

 振姫は、伊達政宗の嫡男忠宗と元和3年に結婚しました。

 紀伊局は振姫とともに伊達家の奥向きに入ることとなり、初子も同じように伊達家で振姫に仕えました。

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 初子は美しいうえに利発であったことから、忠宗の嫡男綱宗の側室に選ばれることになりました。

 初子は、明暦3年(1657)には、正室となり、浅岡局と呼ばれるようになりました。

万治元年(1658)、伊達忠宗が亡くなったため、綱宗は3代仙台藩藩主になりました。

そして、翌年の万治2年(1659)、初子は江戸屋敷にて亀千代(後の伊達綱村)を産みました。

しかし、万治3年(1660年)伊達綱宗は、遊蕩が過ぎ、幕府から隠居を命じられました。そして、次期仙台藩藩主となったのが、まだ2歳の亀千代でした。

2歳では、とても藩政を取り仕切ることはできないため、後見役とされたのが伊達兵部宗勝と田村右京太夫宗良でした。この伊達兵部宗勝が藩政を牛耳ろうとしたため、いわゆる伊達騒動が起こります。

この伊達騒動は、家老の原田甲斐が、伊達安芸に斬りつけ殺害するという結末を迎えます。

これにより、幕府は、伊達兵部を土佐藩山内家にお預けとしますが、伊達綱村に対しての御咎めはありませんでした。

騒動中、伊達綱村は毒殺の怖れがあったため、三沢初子を必死になって、綱村を守りました。
 騒動が解決した後、綱宗と仲睦まじく暮らし、48歳でなくなり、法名は浄眼院殿了岳日巌大姉と号しました。
 この法名は、正覚寺のお墓にも刻まれています。

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伊達騒動は、歌舞伎などに取り上げられ、「伽羅千代萩」や「伊達競阿国戯場」が有名です。

この中の女主人公が「乳母の政岡」です。幼君毒殺をおそれ、自ら飯を炊き、毒入りの菓子を我が子千松に食べさせてまで、綱村を守りぬく忠義の女性と描かれています。

この政岡のモデルとなったのが三沢初子です。

正覚寺の鐘楼脇に、3メートル余りもある三沢初子の銅像が建てられています。

この三沢初子の銅像をよく、見ると嫋やかな女性ではなく、ごつい女性の銅像です。

それもそのはず、この銅像は、6代目尾上梅幸の弟子尾上梅朝が演じた先代萩の政岡を元にデザインされたものです。つまり女形が演じた三沢初子の銅像です。

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赤印が正覚寺です。












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# by wheatbaku | 2018-09-18 11:09 | 江戸のヒロイン
毎日文化センター主催の渋谷散歩が開催されました。

毎日文化センター主催の「渋谷散歩」が開催されました。

昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で、渋谷駅周辺の史跡散歩をしてきました。

 昨日は、午前中は本降りの雨でしたが、散歩を始めて30分ほどで雨もあがりました。

渋谷というと西口では渋谷スクランブル交差点付近や道玄坂、あるいは東口ではヒカリエや宮益坂周辺を散歩する人が多いのですが、今回は、渋谷駅から南東方向の文教地区を訪ねて散歩しました。

多くの参加者の皆さんもあまり訪ねたことがない場所とのことで散歩に参加された皆さんにも大変喜んでいただきました。

散歩にご参加いただいた皆さんありがとうございました。

昨日の散歩コースは次の通りです。

渋谷駅 ⇒ 稲荷橋(渋谷川) ⇒ 金王八幡宮 ⇒  八幡通り(鎌倉街道跡) ⇒ 國学院大学博物館 ⇒ 吸江寺(安中藩板倉家墓所) ⇒ 塙保己一史料館 ⇒ 渋谷区郷土博物館 ⇒ 常盤松碑(薩摩藩下屋敷跡) ⇒ 並木橋(鎌倉街道跡)⇒ 渋谷駅。

今回は、金王八幡宮、塙保己一史料館、白根記念渋谷博物館・文学館で、それぞれ、ご説明をしていただきました。そこで、それらを中心にご紹介します。

まず最初に向かった金王八幡宮は、社伝によれば、平安時代中期の寛治6年(1092)鎮座したとされている大変古い神社です。

平日は渋谷の繁華街とは思えない静かな空間となっています。しかし、昨日は、金王八幡宮の例大祭で大勢の人出があり境内は大勢の人でにぎわっていました。

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金王八幡宮では、田所権禰宜様に、金王八幡宮の御由緒、金王桜の由来、社殿の建立経緯などをご説明いただきました。

金王八幡宮という名前は、源義朝・頼朝父子に仕えた渋谷金王丸から付ららた名前であり、渋谷氏は、秩父平氏の一族であることなどを丁寧にお話いただきました。

田所権禰宜様、お祭りの最中で大変お忙しいところ懇切なご説明いただきありがとうございました。

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國學院大學博物館では、昨日から、特別展『キリシタン―日本とキリスト教の469年―』が開催されています。

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そこで、30分ほど時間をとって見学しました。

重要文化財の「踏絵」や「マリア像」、シドッチの頭骸骨の復元像など興味深いものが展示されています。下写真は、博物館入口での説明の様子です。

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塙保己一史料館では、塙保己一が編纂した群書類従の版木が保管されています。

その群書類従の板木は、倉庫に整理されて山のように積まれていました。

それを見ながら、温故学会の斎藤理事長様(下写真左下)が詳しく説明してくださいました。

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群書類従の説明の前に、斎藤理事長様が2階講堂で塙保己一について説明してくださいました。

塙保己一は、武蔵国児玉郡保木野村(現在、埼玉県本庄市児玉町)に生まれ)、15歳の時に江戸に出て、雨富須賀一検校の門人となり、学問の道に進み、34歳の時、『群書類従』の編纂をはじめ、72歳の時に完成しましたこと等を丁寧に話してくださいました。

なお、2階講堂は、昭和12年に、奇跡の人ヘレンケラーが訪れて、塙保己一の銅像に手を触れた場所です。

斎藤理事長様、本来は長時間必要な塙保己一について、コンパクトにご説明していただきありがとうございました。

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渋谷郷土博物館・文学館では、企画展「ハチ公と忠犬ハチ公像」が10月8日まで開かれています。

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そこで、学芸員の松井様に、上野教授が亡くなった後もハチ公が渋谷駅に迎えに行った経緯、ハチ公が全国の人から忠犬として讃えられるようになった経緯、そしてハチ公が亡くなった時の様子などハチ公について詳しく解説していただきました。

 松井様、わかりやすいご説明ありがとうございました。

なお、企画展会場は、写真撮影禁止ですので、会場外から望遠で撮影した写真です。

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昨日は、それぞれ、御専門の方からご説明いただき、実多い散歩となりました。田所様、斎藤様、松井様、そしてご参加いただいた皆様ありがとうございました。








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# by wheatbaku | 2018-09-16 15:05 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
祖心尼のお墓(江戸のヒロインのお墓⑯)

祖心尼のお墓(江戸のヒロインのお墓⑯)

江戸のヒロインのお墓ですが、今日から、東京にあるヒロインのお墓をご紹介していきます。

 今日は、祖心尼のお墓をご紹介します。

 祖心尼のお墓は、新宿区早稲田にある済松寺(さいしょうじ)にあります。

 済松寺は、東京メトロ早稲田駅1番出口から7分の距離にあります。

 祖心尼のお墓にお参りするには、事前に予約が必要で、突然お邪魔してもお参りはできませんので、ご注意ください。

 済松寺は、3代将軍家光が祖心尼のために1万5千坪の寺領を寄進し建立された寺院ですので、現在でも広い境内を誇っていて、緑が多い静かなお寺です。下写真は本堂です。

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 祖心尼のお墓は、本堂の手前左手の墓所の中の歴代御住職が眠っている区域にあります。お墓の形式は無縫塔で、墓の手前に「当山開基 祖心尼公」と書かれた表示がされています。

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祖心尼は、伊勢国岩手城主牧村利貞の娘として生まれ、「おのう」(済松寺のホームページでは「おなあ」)といいました。

 おのうの母親は、稲葉重通の娘でした。稲葉重通は春日局の義理の父ですので、おのうは春日局の義理の姪ということになります。

 

 牧村利貞は、豊臣秀吉の命令により朝鮮出兵に出陣し、朝鮮で亡くなりました。父が亡くなった後、おのうは、前田利家に引き取られ養育されます。

牧村利貞は、千利休のもとで茶を習い、前田利家とは、ともに「利休七哲」に数えられるほどの仲でした。こうしたことも影響したのだろうと思言われます。

成長したおのうは前田家の一族である小松城主前田長種に嫁ぎ、2人の男の子を産みますが、前田家から離縁されてしまいます。

 離縁の理由は、姑との仲がよくなかったなどの説がありますが、はっきりはしていないようです。

おのうは、前田家を離縁された後、父親の牧村利貞が建立した京都の妙心寺塔頭「雑華院(ざっけいん)」へ身を寄せます。

そこで、雑華院住職で叔父の一宙禅師から、「禅」について学びます。

 やがて、再婚の話が持ち上がり、21歳で会津藩蒲生家の重臣町野幸和と再婚し、二人の女の子を産みます。このうちの一人の娘が産んだ娘が家光の側室お振りの方となります。

しかし、蒲生家が世嗣がなく改易となったため、おのう一家は江戸に戻りました。 

江戸に帰ったおのうは、叔母である春日局を頼り、大奥に入ります。

夫町野幸和がなくなった後、おのうは剃髪し祖心尼となりますが、春日局の信頼も厚く、春日局の死後は大奥取締を継いでいます。

また、家光からも厚い信頼をえたうえ、祖心尼の孫娘が家光の側室お振の方となり、家光最初の子供(千代姫)を産んでいるため、大奥で絶大な力を振るいました。

家光は祖心尼に1万5千坪の寺領を寄進し、寺院建立を指示します。

建立された寺は臨済宗の「済」と松平家の「松」の字を取り、済松寺と名づけられました。

家光の死後、祖心尼は大奥を去り、済松寺で暮らしました。

延宝3年(1675年)311日に88歳で祖心尼は静かにこの世を去りました。

 赤印が済松寺です。







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# by wheatbaku | 2018-09-13 18:17 | 江戸のヒロイン
寺田屋お登勢のお墓(江戸のヒロインのお墓⑮)

寺田屋お登勢のお墓(江戸のヒロインのお墓⑮)

この間、京都にある「江戸のヒロインのお墓」を紹介してきましたが、最後に、寺田屋のお登勢のお墓をご紹介します。

 寺田屋お登勢は、伏見にある松林院に眠っています。

 松林院は、伏見区役所の真北近くにあり丹波橋駅から徒歩で10分弱で到着します。

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 門の左手の潜り戸を空けて中に入ります。墓地はあまり広くなく、寺田屋お登勢の墓と書かれて標識もあるので、容易に見つかります。

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お登勢は文政12年、近江国大津で旅館を営む大本重兵衛の次女として生まれました。

18歳で京都伏見の船宿寺田屋6代目伊助に嫁ぎましたが、伊助は怠け者で京都木屋町の妾宅に入り浸って寺田屋へは帰らなかったといいます。

寺田屋は江戸初期から続く伏見の老舗の船宿で船頭も多く抱え、船足が速く評判の船宿でした。寺田屋は、現在もその姿を残しています。(下写真)

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元治元年、夫伊助は放蕩が祟り35歳の若さで没すると、気難しい姑によく仕え、一男二女を育てながら、お登勢は寺田屋を一人で切り盛りをしていました。

お登勢は人の世話が好きで、人から頼まれれば喜んで引き受け、捨て子を5人育て上げました。

寺田屋は早くから薩摩藩の定宿になっていたため、お登勢の性格から多くの尊王攘夷の志士達を支援しました。その一人が後で述べる坂本龍馬です。

寺田屋と言えば、文久3年、島津久光の命によって差し向けられた鎮撫使により有馬新七たち過激尊王攘夷派の9藩士が殺害された寺田屋事件が有名です。

この時、お登勢は子供達をかまどの裏に隠して一人で帳場を守り、騒動後は血で染まった畳やふすまをすべて取り替え天井の血糊をきれいにふき取らせ翌日には商売を始めたといいます。

下写真は、寺田屋事件の現場となった現在の寺田屋の一室です。1階の入口そばにあります。

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また、薩摩藩は騒動で亡くなった有馬新七ら9人を罪人として扱いましたが、お登勢は9人の位牌を作り寺田屋の仏壇で自ら供養しました。

寺田屋事件で亡くなった9人は、伏見の大黒寺に眠っています(下写真)が、その大黒寺は、お登勢のお墓がある松林院の真向かいにあります。

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お登勢といえば、坂本龍馬との関係も有名です。

坂本龍馬は、薩摩藩の定宿であった寺田屋を京都の活動拠点としました。

下写真が、坂本龍馬がいつも使っていた部屋です。

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坂本龍馬が寺田屋を利用するようになったのは、薩摩藩からお登勢に依頼があったからだと言われています。

坂本龍馬は、龍馬もお登勢を「おかあ」と呼んで親しんでいたうえにお登勢を「学問のある大人物也」と高く評価しています。

そして、禁門の変後、京都の半分は焼け出された楢崎龍の面倒を頼み、お登勢はお龍の面倒を見て、お龍を自分の妹のように可愛がりました。

慶応2年、薩長同盟を締結して間もなく、寺田屋で坂本龍馬が幕府の捕方に襲撃された際に、お龍が素裸で二階にいる坂本龍馬に知らせ、坂本龍馬が怪我を負いながらも逃走できたことも有名な話です。

先日の大河ドラマ「西郷どん」でも描かられていました。

現在の寺田屋にも、お龍(楢崎龍)が入っていた風呂が残されています。

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龍馬暗殺後は土佐でしばらく暮らしていたお龍が龍馬の姉乙女との不仲で京都に出てきた時に庇護したとも言われています。

明治10年、お登勢は49歳の若さで亡くなりました。法名は喜道院妙持信女です

赤印が松林院です。青印が大黒寺です




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# by wheatbaku | 2018-09-11 14:50 | 江戸のヒロイン
お江(崇源院)・春日局・阿茶局のお墓―金戒光明寺 (江戸のヒロインのお墓⑭)
お江(崇源院)・春日局・阿茶局のお墓―金戒光明寺

(江戸のヒロインのお墓⑭)

池玉瀾が眠る金戒光明寺には、お江(崇源院)のお墓、春日局のお墓、阿茶局のお墓など、江戸検お題テキストに取り上げられている女性のお墓があります。そこで、今日は、それらのヒロインのお墓を紹介します。

金戒光明寺の墓地は、境内の東側の山腹に広く広がってあります。

そのため、金戒光明寺でのお墓詣りは石段を上がっていくので結構大変です。前回書いた池玉瀾のお墓も石段を何段も登って先にあります。

 下写真は、西雲院近くにある三重塔の前から山門方向を撮ったものです。金戒光明寺の境内の広大さおよび高低差がおわかりになると思います。

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今日紹介するヒロインのお墓のうち、お江(崇源院)と春日局のお墓は墓地の入口、阿茶局のお墓は御影堂のすぐそばにありますので、石段を登る必要はありません。

 下写真は、金戒光明寺の御影堂です。昭和9年に焼失し昭和19年に再建されたものです。

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お江(崇源院)のお墓は、墓地に入ってすぐの左側の石段を上った正面に建っている大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。

このお墓は、寛永5年(1628)に春日局がお江(崇源院)の追善供養のために建てて供養墓で、お江(崇源院)の遺髪が埋葬されているそうです。

お江(崇源院)と春日局は、将軍継嗣問題などで対立することが多かったわけですが、お江(崇源院)の死後の菩提を弔うために建てたものです。

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そのお江(崇源院)の供養墓の右手奥には、徳川忠長の供養墓があります。この徳川忠長のお墓を建てたのも春日局です。

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徳川忠長は、秀忠とお江(崇源院)の間に生まれ、両親の愛情を一身集め、3代将軍の有力候補でした。

しかし、春日局の徳川家康への直訴により、次期将軍は徳川家光ということになりました。

その後、徳川忠長は駿河50万石を領し、駿河大納言と呼ばれましたが、次第に悪くなってきたため、高崎藩に預けられ、寛永10年に高崎の大信寺で自害しました。お墓も大信寺にあります。

春日局は、徳川忠長がこういったことになったことの責任の一端は、春日局にもあると思い、寛永11年に徳川忠長の供養墓を建立しました。

二人の供養墓を建てた春日局自身のお墓が、お江(崇源院)のお墓の左手前にあります。(下写真)

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金戒光明寺には阿茶局のお墓もあります。

御影堂の西側におおきな宝篋印塔(ほうきょういんとう)が四つありますが、その最も北側の宝篋印塔が阿茶局のお墓です。

阿茶局は、武田氏の家臣飯田直政の娘として生まれ、今川家臣神尾忠重に嫁ぎ、夫の死後、徳川家康に仕えました。阿茶局は、才知に優れ、側室よりも側近といったほうがよい活躍をし、大坂冬の陣では徳川方の和議の使者となました。徳川家康没後でも、東福門院和子の入内の際には、母代わりをつとめ,のち従一位をさずけられ神尾一位,一位の尼とよばれました。

阿茶局は、東福門院和子の母親代わりでしたので、東福門院和子の幸せと天皇家と徳川家の繁栄を祈念して、金戒光明寺に雲光院(のちに清心院)を建立しました。

阿茶局は、寛永14年正月22日に83歳でなくなりました。

「幕府祚胤伝(そいんでん)」には、神尾氏が、雲光院に碑を建てたと書いてあるので、阿茶局の一族が、供養墓として建立したのかもしれません。

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# by wheatbaku | 2018-09-08 20:43 | 江戸のヒロイン
池玉瀾のお墓(江戸のヒロインのお墓⑬)

池玉瀾のお墓(江戸のヒロインのお墓⑬)

 江戸のヒロインのお墓、今日は、池玉瀾のお墓をご案内します。

池玉瀾のお墓は、京都の金戒光明寺の塔頭の一つ西雲院にあります。

金戒光明寺は、浄土宗の大本山、承安5年法然上人が比叡山の黒谷を下り草庵を結ばれたという由緒がある浄土宗最初の寺院です。

幕末には、京都守護職となった松平容保が本陣を構えたことで有名です。

現在も万延元年(1860)に完成した山門が当時の威容をそのまま感じさせてくれます。(下写真)

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西雲院は、金戒光明寺の広い境内のうち、境内の東の高台にそびえている文殊塔の北側にあります。西雲院は、幕末に京都でなくなった会津藩士を埋葬した「会津墓地」の菩提寺としても有名です。下写真が西雲院の本堂です。本堂の手前にあるのは蓮の花で、西雲院は、四季折々の花が美しいことで知られています。

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池玉瀾のお墓は、この西雲院が御守しています。

西雲院を訪ねたのは、大文字の送り火の翌日8月17日のことです。

ちょうどお盆明けの大変忙しい時期で来客がひっきりなしにあるにもかかわらず、御住職の橋本周現様(下写真)がお時間をつくっていただき池玉瀾についてお話しくださり、わざわざお墓までご案内していただきました。橋本御住職様大変ありがとうございました。

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 池玉瀾のお墓は、西雲院の山門を出て15メートルほど南側にあります。表面に玉瀾墓、左側に天明四甲辰九月二十八日帰漢、右側に祖族代代精霊 感光清月 百合事 裏面には井上泰山建之と刻まれています。

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池玉瀾は、池大雅の妻で、旧姓徳山町といいました。

池玉瀾の母は祇園のお茶屋の主人で歌人としても有名であった百合です。また、歌集『梶の葉』で知られる歌人梶が祖母です。梶、百合、町は祇園三女として有名です。

百合は、梶の養女となり、祇園のお茶屋の主人となりましたが、江戸の旗本の子供徳山某と結婚し、女の子を産み、その子は町となづけられました。
 この徳山町が、池大雅と知り合い結婚し池玉瀾となりました。

池大雅は、祖父の代まで京都の百姓で、池の傍に住んでいたので池野を姓にしたと言われています。池大雅は、池野という姓を中国風に一字で表し池と称しました。

池大雅の父池野嘉左衛門は京都の銀座役人中村氏の下役を務めた富裕な町人でしたが、大雅の幼いころに死別し、大雅は教育熱心な母の手で育てられ、数え年7歳のときに早くも宇治万福寺住職の杲堂元昶(こうどうげんちょう)からその能書を褒められ神童と激賞されました。

15歳のときには扇子に絵を描いた扇絵を売る店を開き生計をたてました。

やがて中国の明・清の画法、傾倒して大和郡山藩家老で文人画家でもあった柳沢淇園(やなぎさわきえん)にも見いだされ、新進の画家として注目されるようになりました。

26歳のとき江戸から東北地方に旅し、江戸で指頭画(しとうが)が評判となり、京都に帰った後さらに北陸地方を遊歴しています。

28歳の時には紀州藩に文人画の祇園南海(ぎおんなんかい)を訪れるなど各地の一流の人物と交渉をもち、腕と人格を磨いていきました。

こうして腕を磨いている30歳直前の頃に徳山町(のちの池玉瀾)と結婚しました。※江戸検お題テキスト「江戸のヒロインたち」には結婚をしたのは宝暦元年(1751)と書いてあります。

池玉瀾は、やさしい女性で、奇行の多い池大雅によく仕え、仲睦まじい夫婦だったそうです。

池大雅は、こうした池玉瀾の内助の功もあり、30歳代以降、文人画(南画)派の指導者と目され、目覚ましい活躍をしました。

池玉瀾も大雅や柳沢淇園に絵を学び、当時一流の女流画家として知られました。

玉瀾という名前は、柳沢淇園の別号である玉桂から一字をもらったものと寛政2年に編まれた伴蒿蹊(ばんこうけい)の「近世畸人伝」に書かれています。

「近世畸人伝」には、少々風変わりな夫婦だった逸話も書かれています

「近世畸人伝」によれば池大雅が難波に出立した際に筆を忘れてしまい、玉瀾がそれを見つけて走って追いかけ建仁寺の前で追いついて筆を届けた際、大雅は届けた人が玉蘭だと気が付かず「(筆を)おしいただき、いづこの人ぞ、よく拾い給りしとて別れ去る」そして玉瀾も「また言なくて帰れり」だったそうです。

また、玉瀾は大雅と一緒に冷泉家で和歌を学びましたが、初めて冷泉家に行った時の様子が大原女のようで冷泉家の人々が大変驚いたことが「近世畸人伝」に次のように書かれています。

御内の女房たち、今や今やと町たるに、思いの外糊こわき綿衣(わたいれ)、魚籠を引提げたる様、大原女のわらうづ(藁沓:わらを編んで作ったくつ)はかぬごとくなれば、大きに驚きけり。

池大雅の画法は40歳頃に完成し、この頃に描かれた作品の中が特にすぐれていると評価されています。池大雅の代表作には、高野山遍照光院の襖絵や、「十便図」「楼閣山水図」などがあります。

池大雅は、安永5年(1776)54歳で没しました。

池玉瀾も、池大雅が亡くなった8年後の天明4年(1784)9月28日亡くなりました。享年57歳でした。

法名は宝誉玉蘭信女といい、金戒光明寺の西雲院に埋葬されました。

池大雅のお墓は京都市上京区にある浄光寺にありますので、池大雅とは違うお寺に埋葬されたことになります。

橋本御住職様のお話では、「大雅さんと玉瀾さんのお墓がそれぞれ別のお寺にあるのは、何らかの事情があると思われます。場合によっては、玉瀾さんは大雅さんの正式な妻ではなかったということも考えられます」とおしゃっていました。

また、池玉瀾の祖母の梶、そして母親百合のお墓があるかどうか尋ねたところ、「祖母の梶のお墓は西雲院にはありません。百合さんは玉瀾さんのお墓の脇に『祖族代代精霊 感光清月 百合事』と刻まれているので、百合さんも一緒に供養されているのだろうと思っています」というお答えでした。
 (下の写真は池玉瀾の墓碑の右側を撮った写真ですが、左下に小さく「百合事」と刻まれています。)

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ご丁寧にお教え頂いた橋本御住職様に改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。 



赤印が西雲院です。青印が金戒光明寺の御影堂です。ピンクが真如堂です。








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# by wheatbaku | 2018-09-06 18:26 | 江戸のヒロイン
 春日局ゆかりの寺―真如堂

春日局ゆかりの寺―真如堂

真如堂の境内の中でも、とても印象的な建物が三重塔です。

本堂の手前にそびえていますが、緑とのコントラスも素晴らしかったです。

三重塔は、高さは約30メートルで文化14年(1817)に再建され、昭和9年に修理が加えられました。

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 真如堂は、三井高利・かねの菩提寺でもありとともに春日局ゆかりの寺でもあります。

 今日は、春日局ゆかりの「たてかわ桜」と春日局の父親斎藤利三のお墓のお話しをします。

真如堂には、春日局ゆかりのものがあります。

それが本堂右手横にある「たてかわ桜」です。(下写真の奥に見えるのが本堂です)

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春日局が父である斎藤利三の菩提を弔うために植えたとされています。

「たてかわ桜」という名前は、ソメイヨシノの樹皮には横に筋が入るのに対して。この桜は樹皮に縦に筋が入ることから、こう呼ばれるようになりました。

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「たてかわ桜」はエドヒガン系の桜で寿命が長い桜の品種で、樹齢300年以上、直径1メートルもある巨樹でしたが、1959年の伊勢湾台風で倒木しました。ところがその数年後、折れた幹から芽が吹き出し、花を咲かせるまでに回復しました。

「たてかわ桜」の花はソメイヨシノより少し早く開花します。

 真如堂の境内には、約70本の桜が植えられていますので、桜の季節も見事なものだと思います。

 「たてかわ桜」の脇に齊藤利三のお墓の案内板がありました。 

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 三井高利・かね夫妻のお墓の少し西側に春日局の父斎藤利三のお墓があります。墓碑には「斎藤内蔵介利三墓」と刻まれています。

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 斎藤利三は、明智光秀の重臣でした。明智光秀は、本能寺の変で織田信長を討ち取ったものの、中国から急遽走り戻った豊臣秀吉により山崎の戦いで敗れ、小栗栖で土民に殺害されてしまいました。明智光秀と行動を共にしていた斎藤利三は、戦場を無事脱出したものの、近江堅田で捕まり六条河原で斬首されました。

 この首を、斎藤利三と親しかった海北友松(かいほうゆうしょう)が秘かに奪いとって、真如堂にある海北家の墓地に埋葬したと言われています。

 こうしたことから、斎藤利三のお墓の隣には海北友松のお墓があります。

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# by wheatbaku | 2018-09-04 23:21
三井かねのお墓(江戸のヒロインの墓⑫)

三井かねのお墓(江戸のヒロインの墓⑫)

 今日は、三井越後屋の創業者三井高利の妻三井かねのお墓を紹介します。

 三井かねのお墓は、京都の真如堂にあります。

 真如堂は、正式には真正極楽寺という天台宗のお寺です。

 今までは観光客にはあまり知られていなかったようですが、最近は秋の紅葉が名所として有名になってきたそうです。

京都駅から京都市バスで約40分の真如堂前バス停から徒歩10分弱で到着します。(下写真は本堂です)

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 三井かねのお墓は、本堂の南側の墓所の三井家墓所の中央に三井高利のお墓と並んであります。下写真の左が三井高利、左が三井かねのお墓です。

 三井高利のお墓「松樹院長誉宗寿居士」、三井かねのお墓には「栄昌院殿長空壽讃大姉」と刻まれています。

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 三井高利は、14歳の時、江戸に出て、長兄俊次の商売を手伝っていましたが、高利の商才の高さを怖れた俊次により、母親孝養を理由として松坂に帰されてしまいました。

 この後、高利は俊次が亡くなる延宝元年(1673)54歳まで松坂で暮らすことになります。

 慶安2年(1649)松坂に帰ってきた高利(28歳)が妻として迎えたのがかねでした。

かねは伊勢の豪商中川清右衛門の長女として生まれ、高利と結婚した時は15歳であり。高利との年齢差は13歳でした。

かねが高利を結婚した時には三井家には、しまり屋で有名な三井高利の母珠法がいました。

高利の長男高平が書いた『家伝記』にも、珠法は「千人に勝れて激しき姑」と書かれているそうで、かねも苦労したと思われるが、かねは姑珠法によく仕え、珠法にとってはお気に入りの嫁であったそうです。

がねは高利との間に15人の子どもを産み、そのうち男子8人、女子3人が成長しました.そのため、家計の支出も多く、子供たちの衣類は極めて質素なもので、子供たちが着物をいためても珠法の許しがなければ新調することができませんでしたが、それでも外からみて見苦しくないように取り繕って着せていました。また、かねの実家は当初は繁盛していたため、かねが嫁入りする際には着物をたくさん持参しましたが、それらは娘たち着せてやることが多かったようです。子供たちの着物がこのようでしたので、自分のものは、年に一枚でも新調することは滅多ありませんでした。

越後屋が大きくなると手代や丁稚など奉公人が大勢となりますが、奉公人の世話をよくし、時には奉公人が高利に叱られた場合には、その者に変わって機嫌をとりなすなどしました。

また、手代が夜明け前に旅立つようなときには、その都度起きて丁寧に暇乞いを言って送り出しました。さらに、奉公人の者の親や兄弟まで気にかけ、訪ねてきた奉公人の親族には一人残らず会って接待をしたそうです。
 こうしたことから店員たちの感謝の的になっていました。

貞享3年(1686)に高利が本拠を京都に移しても、かねは松坂に留まりました。

しかし、常に高利の様子は気にしていたようで、高利が小刀で怪我をした際には、子供たちが心配しているから、その養生について気をつけるように年老いた夫をたしなめる手紙を書き送っています。

三井高利は、元禄7年(1694)に73歳で亡くなり、かねは、高利が亡くなった2年後に夫のあとを追うように亡くなりました。

真如堂は、現在も三井家の菩提寺として、三井家および三井グループの篤い信仰を得ていて、昭和56年には三井グループによって研修道場「真如山荘」が寄進されたうえに、本堂北側の書院にある「随縁の庭」は、三井家が寄進したお庭です。この庭は、平成22年に造られたものです。

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庭の奥にあるのが、三井家の歴代の位牌を安置する仏堂ですが、その仏堂(位牌殿)の蟇股に三井家の家紋が付けられています。

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「随縁の庭」は、その四つ目の家紋をモチーフにデザインされています。

下写真は庭手前の部分のアップですが、明確に四つ目になっていることがわかると思います。

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赤印が真如堂です。








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# by wheatbaku | 2018-09-03 21:57 | 江戸のヒロイン
  

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