お七の井戸と太鼓橋(目黒史跡散歩⑤)

「お七の井戸」と太鼓橋(目黒史跡散歩⑤)

 行人坂を下っていくと、八百屋お七の恋人西運に関係する史跡として「お七の井戸」と『太鼓橋』があります。 今日は、その二つを紹介します。

《お七の井戸》

 目黒雅叙園のエントランスに向かう歩道脇に「お七の井戸」があります。

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雅叙園のエントランスから庭園にかけて明治18年頃まで、明王院というお寺がありましました。

幕末の切絵図をみると、明王院は大円寺より大きなお寺として描かれています。

 明王院は、八百屋お七の恋人吉三が出家した後の西運がいたお寺です。

 西運は、目黒不動と浅草観音に、隔夜一万回の日参念仏行を行ったと言われています。

 雅叙園の駐車場入り口にある井戸は、西運が念仏行に出かける際に水垢離とったといわれている井戸です。

《夕日の岡》

 下写真は、お七の井戸を遠くから撮った写真ですが、お七の井戸の後ろ側にある斜面一帯は、江戸時代は、夕日の岡と呼ばれ、紅葉の名所でした。

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 江戸の紅葉の名所としては、品川の海晏寺が有名でしたが、海晏寺と並ぶ名所だったようです。

 しかしながら、「江戸名所図会」には、「いまは楓樹少なく、ただ名のみ存せり」と書かれていますので、江戸時代後期の天保の頃には、紅葉はほとんど見られなくなったようです。

《太鼓橋》
 太鼓橋は、目黒川にかかる橋で、現在の橋は平成3年に完成したものです。

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江戸時代の橋は、太鼓の胴の形をしていたため「太鼓橋」と呼ばれました。(下段の広重の浮世をご参照ください。)

江戸で最初に架橋された唐式の石拱橋(せっこうきょう:石造のアーチ橋)で、建設された当時としては珍しく目黒の名物でした。 

太鼓橋を造った人物は、八百屋お七の恋人西運である説があります。

それによれば、西運は、目黒不動と浅草観音に毎日参詣し、往復の途中、江戸の市民から寄進を集めて太鼓橋を造ったといわれています。

また、諸国を回遊する木喰上人が架けたとも、八丁堀の町人が資金を出し合い完成させたという説もあります。

『江戸名所図会』には、「柱を用ひず、両岸より石を畳み出して橋とす。故に横面よりこれを望めば、太鼓の胴に髣髴たり。故に世俗、しか号く。享保の末、木食上人これを制するとなり」と木食上人が造ったと書いてあります。

太鼓橋を描いた浮世絵として有名なものが、歌川広重の名所江戸百景のうちの「目黒太鼓橋夕日の岡」(下写真)です。橋の欄干にもそのレリーフがはめ込まれています。

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「目黒太鼓橋夕日の岡」で描かれた風景は、すっかり変わっていますが、一つだけ変わらないものがあります。それが、目黒雅叙園側の橋のたもとにある椎の木です。

 下写真は、椎の木を近くで写した写真です。

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広重が描いた太鼓橋は、大正9年の豪雨で流されてしまい、昭和7年になって先代の鉄橋が架けられ、そして、平成3年に現在のものになりました。

今は、桜の季節には、花見客でごったがえす桜の名所となりました。

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# by wheatbaku | 2018-04-20 11:06 | Trackback
八百屋お七の恋人吉三〔大円寺③〕(目黒史跡散歩④)

八百屋お七の恋人吉三〔大円寺③〕(目黒史跡散歩④)


大円寺は、八百屋お七の恋人吉三ゆかりの寺でもあります。

八百屋お七は、愛しい恋人に会うために火をつけ、その罪により処刑されたヒロインとして大変有名ですが、お七が避難したお寺や恋人の名前については、書物によって様々です。

そのなかで、井原西鶴が書いた「好色五人女」では、吉祥寺に避難しそこの寺小姓の吉三が恋人とされています。

その恋人吉三と大円寺は縁があるお寺であると寺伝で伝えられています。

そのため、西運ゆかりの建物として本堂西側の阿弥陀堂(下写真)があり、阿弥陀堂には、西運上人像やお七地蔵がお祀りされています。

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《八百屋お七の恋人西運》

 八百屋お七の恋人吉三は、お七が処刑された後、出家して西運を名乗りました。

下写真は阿弥陀堂内にお祀りされている西運上人像です。

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そして、出家後、お七の菩提を弔うため、念仏を唱えながら諸国を巡りました。

その後、江戸に戻った西運は、大円寺の下(今の雅叙園の一部)にあった明王院に身を寄せたといいます。

そして、西運は明王院境内に念仏堂を建立するための勧進とお七の菩提を弔うために目黒不動尊と浅草観音に隔夜1万日日参の悲願を立て、往復10里の道を、雨の日も風の日も首から下げた鉦をたたき、念仏を唱えながら日参しました。こうして27年5ヶ月後に満願となりました。

 この修行の中で、寄進が集まり、集まった浄財で、行人坂を石畳に修繕し、目黒川に架かる橋を石の橋に造り替え、明王院境内に念仏堂を建立しました。

しかし、明王院は明治初めごろ廃寺となってしまい大円寺に統合されました。

明王院にあった仏像などは大円寺に移され、西運の木像やお七地蔵などが現在の阿弥陀堂にお祀りされています。

阿弥陀堂は、西運に深い関心を持っていた大円寺住職によって、昭和18年、再建されました。

阿弥陀堂の御本尊は阿弥陀三尊像(下写真)です。

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大円寺の阿弥陀如来像は、半跏像です。半跏というのは右足を曲げ左足を下に垂れた姿です。そして、印相は中品下生です。

半跏の阿弥陀如来像や中品下生の阿弥陀如来像は大変珍しいそうです。

阿弥陀如来像の前に、お七地蔵(下写真)がお祀りされています。満願の日に、西運の夢に出てきたお七の姿を刻んだものだそうです。

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阿弥陀堂前には、西運の姿を刻んだ碑が建てられています。(下写真)

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その碑には大円寺の福田実衍(じつえん)師が、昭和18年、阿弥陀堂を再建した際に描いてもらった「お七吉三縁起絵巻」の一部、木枯らしが吹きすさぶなかを、念仏鉦を力一杯たたき、念仏を唱えながら、日参する西運の姿が刻まれています。また、上部に書かれている賛は「吉三発心 只たのむ かねの音きけよ 秋の暮」と書かれているそうです。



 さらに、境内には、元禄16年に西運が建てた「行人坂敷石造道供養碑」(下写真)があります。

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 それには、行人坂を利用する念仏行者たちが、目黒不動尊と浅草観音に参詣し、人々から喜捨を受け、行人坂に敷石の道を造るため、この成功と往来の安全を供養祈願したことが書かれているようです。

【4月20日追記】

 大円寺の本堂手前の五百羅漢像側に、西運が造ったとされる太鼓橋の石材がベンチとして残されています。

 写真の左手のベンチ風に設置されている石が、太鼓橋として使用されていたものです。

 写真右手には、そのことを説明した石柱が写っています。

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# by wheatbaku | 2018-04-19 13:01 | Trackback
目黒行人坂の火事〔大円寺②〕(目黒史跡散歩③)

目黒行人坂の火事〔大円寺②〕(目黒史跡散歩③)

大円寺は、振袖火事、車町の火事と並んで江戸三大火のひとつに挙げられる目黒行人坂の火事の火元といわれています。  

そのため、それに関連する五百羅漢像(下写真)が残されています。

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《目黒行人坂の火事》

振袖火事、車町の火事と並んで江戸三大火のひとつに挙げられるのが明和9年(1772年)におきた行人坂の火事です。この行人坂の火事は、大円寺が火元といわれています。

大円寺から出火した火事がどんどん延焼していって、上野浅草まで燃えつくし千住でようやく消し止まり、死者は『天下大変 江戸の災害と復興』によれば約15千人という大火事になりました。

当時、目黒は江戸から離れた田舎で、人家もそれほど多くなかったと思われます。その目黒で起きた火事が江戸市中まで延焼していったのは、南西の強風のせいだと思われます。

この火事の原因は放火といわれています。『目黒区史』にも大円寺に住んでいた悪僧眞秀が住職に怨みをもち火をつけたのがもとであるといわれていると書いてあります。

その放火犯を捕まえたのが火付盗賊改の長谷川平蔵宣雄つまり長谷川平蔵宣以(鬼平)の父でした。

この火事では、江戸城の櫓も焼失しました。このことから大円寺は以後76年間も再建を許されませんでした。

「江戸名所図会」では、大円寺は、行人坂の項目のなかで、「この寺。いま亡びたり」と触れられているだけです。また、行人坂を描いた絵図にも五百羅漢像が描かれているだけです。これにより、天保の頃には、お寺としては残されていなかったことが明らかです。

その間、御本尊(目黒区史では大日如来)や過去帳は隣の明王院に預けられていました。

そして、幕末の嘉永元年(1848)になって薩摩藩主島津家の帰依を得て、その祈祷所としてようやく再建されました。

嘉永元年の薩摩藩主は島津斉興ですので、大円寺の再興は島津斉興の尽力によるものと思われますが、大円寺には、その記録は残されていないとのことです。

《五百羅漢像》

大円寺には、この火事の犠牲者を供養するための石仏群があります。

山門を入った左手にずら~っと並ぶ石仏群は、中央に釈迦如来像そして左右に文殊・普賢像を配した釈迦三尊像が祀られています。(下写真が釈迦如来像です。)

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釈迦三尊像の周りを十六羅漢像・十大弟子像が取り巻き、背後に491基の羅漢像が並んでいます。

釈迦如来像に天明元年(1781)の刻銘があることから、多くの像はこれ以降につくられたと考えられています。

石仏群は、多くの人からの浄財で石工が50年という歳月をかけて完成したといわれています。昭和45年、都有形文化財に指定されています。

通常の五百羅漢像は男性ですが、大円寺の五百羅漢像の中には女性と思われるものも安置されています。

《とろけ地蔵》

石仏群の手前、釈迦三尊像の横の向かって右手に顔や手が溶けたような異様なお地蔵様が立っています。(下写真)

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このお地蔵様は「とろけ地蔵」と呼ばれています。江戸時代に漁師が品川の海から引き上げたもので、昔から悩み事をとろけさせてくれる、ありがたいお地蔵様として信仰されてきたそうです。

先日お邪魔した大円寺でのお話(下写真参照)では、この「とろけ地蔵」という名前は大円寺がなづけた名前ではなく、檀家の人たちの間に自然と広まった名前とのことです。

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# by wheatbaku | 2018-04-18 12:14 | Trackback
大円寺①(目黒史跡散歩②)

大円寺①(目黒史跡散歩②)

 目黒史跡散歩の2回目、今日は、大円寺についてお話します。

大円寺は行人坂の中腹にあるお寺です。

山門も近年再建され、行人坂から大変目立つお寺になりました。

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大円寺は、江戸の初期の元和年間(16151624)に湯殿山の修験僧(行人)大海法印が大日如来を奉じて祈願道場を建てたのが始まりと伝えられています。

《大黒天》

山門を入ると正面に本堂があります。(下写真)

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この本堂は、芝白金のお寺の本道を譲り受けて移築し嘉永元年に再建されたものです。

本堂の中には、正面に大黒天がお祀りされています。

この大黒天は、徳川家康をモデルにして天海上人が彫ったものともいわれていて、薩摩藩島津家から寄進されたものです。

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さらに、大円寺には、江戸城の裏鬼門鎮護のため、比叡山から伝教大師作と伝わる大黒天を勧請してお祀りした大黒天もあります。この大黒天は、上野護国院、小石川福聚院の大黒とならんで江戸三大大黒の一つでもあります。

上野護国院は、東叡山寛永寺の塔頭ですが、上野護国院は、江戸城から表鬼門の方向にあります。一方、大円寺は裏鬼門の方向にあり、裏鬼門守護としてお祀りされているそうです。

この大黒天は、秘仏として、釈迦堂にお祀りされていて、一般には公開されていないそうです。

《十一面観音像》

 大黒天の後ろに、十一面観音像がお祀りされています。

 この観音像は、藤原期に製作されたものと考えられていて、髙さ約168センチの仏様です。こちらは、明治になって廃寺となった明王院にお祀りされていた観音様で、目黒区の文化財に指定されています。

 木の肌の保存状態があまり良くないことから、露天にお祀りされている時期があったのではないかとの大円寺では推測しているようです。

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《釈迦如来像》

大円寺のご本尊は、釈迦如来像で、昭和32年に国の重要文化財に指定されています。

この釈迦如来像をお祀りしてあるのが釈迦堂です。(下写真)

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釈迦如来像は、通常は非公開で、通常は非公開で、花祭り、大黒様の縁日、大晦日から正月七日までなど限られた時にしか拝観できません。そのため、釈迦堂は、上記写真のように、閉堂されています。

大円寺の釈迦如来像は、京都の清凉寺の釈迦如来立像を模したものです。

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清凉寺の釈迦如来像には、胎内に人間の体内にある五臓が絹や錦の布で作られ、文書や経巻・宝玉などと一緒に納められているそうです。

清涼寺の釈迦像は美しいため盛んに模刻され、現在は大円寺のほか、鎌倉の極楽寺などにも安置されているそうです。

大円寺の釈迦如来像の体内には鏡や女性の毛髪や紙片が納められていて、解体修理の際に、それらが見つかったそうです。

 


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# by wheatbaku | 2018-04-17 12:52 | Trackback
行人坂(目黒史跡散歩①)

行人坂(目黒史跡散歩①)

 今日から、目黒不動尊周辺の史跡をご案内していきます。

 今日は、まず、行人坂についてご案内します。

 目黒駅西口を出て、南側の交差点の南西方向に向かいます。そこから、急な下り坂がありますが、それが行人坂です。

《行人坂》

行人坂の中ほどに、石造の勢至菩薩がお祀りされています。

その勢至菩薩についての案内板の下に行人坂について説明されています。(下写真)

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それによれば、行人坂という名称は、湯殿山の行者(法印大海)が大日如来堂(現大円寺)を建てて修行を始めたところ、次第に多くの行者が集まり住むようになったので行人坂となづけられたといいます。

ちなみに行人とは、仏の道を修行する人をいい、行者ともいいます。

行人坂は、江戸時代には、江戸と目黒を結ぶ重要な道路で、目黒のお不動様へ参詣するための道としてにぎわった道でもあります。

行人坂が大変急な坂であるのは、この辺りの地形によるものです。

 目黒区史には、目黒川を挟んで北側が急斜面で、南側が緩やかになっているのは、氷河期の気候の影響によるものと書かれています。

《目黒側架橋供勢至菩薩石像》

 行人坂の途中の大円寺の入り口前に「目黒川架橋供養勢至菩薩石像」という52センチの像が祀られています。

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勢至菩薩像は下から台座、蓮座、頭上に宝瓶(ほうびょう)のついた宝冠をかぶり、両手合掌、半跏趺座(はんかふざ)の勢至菩薩像の3段になっています。

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その台座の全面と両側面に、江戸中期における目黒川架橋のことを述べた銘文が刻まれているとのことですが、実際に読むのはなかなか困難です。

銘文には、宝永元年(1704)に西運という僧が、目黒不動と浅草観音を1万回一日おきに参詣し、往復の途中江戸市民の寄進をうけ、目黒川の両岸に石壁を築いて橋を架けたと刻まれているそうです。

西運というお坊さんは、お七火事で有名な八百屋お七の恋人であった吉三が、お七の処刑後に出家した姿と言われています。

《富士見茶屋》

行人坂の上は、江戸時代は、大変風向が明媚な場所で、西側を見ると富士山がよく見えたそうです。

下の浮世絵は「江戸自慢三十六興 目黒行人坂富士」という歌川豊国の浮世絵ですが、これを見ると、富士山が非常によく見えたことがわかります。

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そうした富士山が眺めれる風光明媚なところであったため、ここの茶屋は富士見茶屋と呼ばれていました。

それを説明した説明板が行人坂の途中にあります。(下写真)

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その説明板の場所から西を見るとホリプロダクションの本社が正面に見えます。(最下段写真)

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# by wheatbaku | 2018-04-16 09:01 | Trackback
「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」目黒駅編

「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」目黒駅編

 昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」があり、目黒駅から目黒不動尊周辺の史跡を案内してきました。

 昨日は、雨が降りそうな曇り空でしたが、皆さんの心がけがよかったのでしょう、最後まで雨に降られることなく、楽しい散歩となりました。

 ご参加いただいた皆さんありがとうございました。

昨日の散歩コースは次のコースでした。

 目黒駅 ⇒ 行人坂 ⇒ 大円寺 ⇒お七の井戸 ⇒ 太鼓橋 ⇒ 蟠龍寺 ⇒ 青木昆陽の墓 ⇒ 海福寺 ⇒ 五百羅漢寺 ⇒ 目黒不動尊(龍泉寺) ⇒ 成就院 ⇒ 行元寺

主な散歩先をスナップでご紹介します。

大円寺

 大円寺は、行人坂の南にある山手七福神の一つ大黒様で有名です。

大円寺さんのお坊さんに、通常では見られないお堂の中を特別にご案内いただきました。

下写真は、阿弥陀三尊像のほか、お七地蔵などもお祀りされている阿弥陀堂でのご説明の様子です。

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また、大円寺は、江戸三大大火の一つ行人坂の火事の火元となったお寺です。

行人坂の火事でなくなった人たちを供養する五百羅漢がありますが、その前でもご説明をしていただきました。

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青木昆陽の墓

青木昆陽のお墓は、目黒不動尊の墓地の中にあります。

青木昆陽は、生前に自分で「甘藷先生墓」と書いたお墓をたてていました。

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海福寺

 海福寺は黄檗宗のお寺で、江戸時代には本所にありました。

 文化4年に永代橋が落橋し大勢の人々が亡くなる大惨事がありました。

 その際に身元不明の人々が海福寺に埋葬され、百日忌と五十回忌に建立された供養塔があります。

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目黒不動尊

 目黒不動尊は、正式な名称は瀧泉寺といいますが、その寺号の由来となったのが独鈷の瀧です。先日の大河ドラマ『西郷どん』でも紹介されました。

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 独鈷の瀧、前不動堂、鷹居の松などの説明のあと、目黒のお不動様にお参りしていただきました。下写真は、お参りのため、本堂の階段を登る参加者の皆さんです。

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成就院

 成就院は蛸薬師として知られたお寺です。

 ここには、会津藩藩祖の保科正之のお母さんが、子供の懐妊のお願い・生まれた正之の無事な成長のお願い・そして高遠藩主となったお礼をこめた「お静地蔵」が祀られています。

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# by wheatbaku | 2018-04-15 10:47 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 | Trackback
『ふるあめりかに袖はぬらさじ』読了しました(江戸のヒロインたち)

『ふるあめりかに袖はぬらさじ』読了しました(江戸のヒロインたち)

有吉佐和子さんの「ふるあめりかに袖はぬらさじ」を読了しましたので、今日は「ふるあめりかに袖はぬらさじ」について書いていきます。

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 江戸検1級の第9回の問題に次のような問題がありました。

85】〈露をだにいとふ倭の女郎花 ふる(  )に袖はぬらさじ〉

 これは文久2年(1862)、横浜にあった外国人専用の遊女屋「岩亀楼」の遊女喜遊が、外国人への身請けを強要されて自害する際に詠んだ辞世です。(  )には身請けしようとした男の国籍が入りますが、それはどこでしょう? この事件は有吉佐和子の戯曲でも知られています。

 い)あめりか     ろ)いぎりす

 は)おらんだ     に)ふらんす

この問題文に『ふるあめりかに袖はぬらさじ』の概要が書かれています。

私は、「ふるあめりかに袖はぬらさじ」は小説だとばっかり思っていたので、手に取って見てみると戯曲なのでちょっと驚きました。

 しかし、江戸検の問題文にも、ちゃんと戯曲と書いてありましたね。

解説の磯田光一氏によると、岩亀楼の喜遊は、医師太田正庵の娘で、両親の死後、吉原で遊女を勤めた後、岩亀楼に住みかえて喜遊と名乗り、アメリカ人イルウスに見込まれたが拒否して「短剣にて咽を刺串(さしつらぬ)き」て死んだと伝えられているそうです。

 しかしながら、磯田氏も指摘していますが、有吉佐和子さんは、こうした伝承を基礎にしていますが、伝承とはまったく別の作品に仕上げています。

 この戯曲は、4幕ものとなっています。

 このなかで、喜遊は最初の2幕だけに登場します。4幕を通じて登場するの芸者のお園です。つまり、有吉佐和子さんの『ふるあめりかに袖はぬらさじ』では、想像の人お園が主人公です。1幕目では、喜遊とお園、そして喜遊の恋人(と思われる)藤吉が登場します。

 ここで、喜遊と藤吉が、お互いに愛情をもっていて、お園はそれに気が付いているということが描かれています。

 そして、2幕目では、アメリカ人イルウスが登場し、岩亀楼の主人と喜遊を見請けする話がまとまります。しかし、席をはずしていた喜遊が剃刀で喉をきって死んだところで2幕目が最後となります。

 そして3幕目で、お園は「喜遊は、藤吉と添えるあてもなく、情けなく、死んでしまった」と真実を語ります。

 しかし、その真実とは関係なく、喜遊は、アメリカ人に買われるのがいやで、懐剣で喉を突いて見事な最期をとげ、その時、『露をだにいとふ倭の女郎花 ふるあめりかに袖はぬらさじ』という辞世を詠んでいたという虚像がつくりあげられていくことになっていきます。

すっかり攘夷の風潮が納まった慶応3年7月に設定された4幕目では、それまで作り上げた喜遊に対する虚像がすっかり壊れることになり、最後は、「みんな嘘さ、嘘っぱちさ。おいらんは、喜遊さんは、淋しくって、悲しくって、心細くって、ひとりで死んでしまったのさ。」とお園が語りながら幕となります。

 

 昨年のお題のテキスト『疾走!幕末・維新』をよく読んでみると「(喜遊の)死の原因は恋人との未来に悲観しただけで、しかも喜遊は読み書きができず、この話は攘夷論者の創作といわれている」と書かれています。

有吉佐和子さんの『ふるあめりかに袖はぬらさじ』は、まさにお題テキストの説明どおりの展開の作品でした。


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# by wheatbaku | 2018-04-12 19:04 | 江戸のヒロイン | Trackback
『華岡青洲の妻』読了しました。(江戸のヒロイン)
『華岡青洲の妻』読了しました。(江戸のヒロイン)


 華岡青洲は、世界で初めて全身麻酔下で乳がんの手術を行ったことで知られています。

 『華岡青洲の妻』は、この華岡青洲の妻・加恵を主人公とした小説です。

 華岡青洲が、全身麻酔に成功するためには、家族の献身的な協力があり、『華岡青洲の妻』は、その家族の協力の様子を中心に描いた小説です。

しかし、単なる成功談として描かれなく、妻加恵と姑於継との争いが底流として流れているのが、女流作家有吉佐和子さんらしい描き方だと思いました。

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この小説では、華岡青洲は脇役です。それは、小説の前半にまったく華岡青洲が現れないことでもわかります。

主人公は、タイトルの通り華岡多恵です。

華岡多恵は、紀州紀ノ川沿いの那賀郡市場村の名門妹背家から華岡家に嫁ぎました。

多恵が嫁いだ時、相手の華岡青洲(当時は雲平と名のっていた)は、京都に遊学したばかりで、華岡青洲のいない華岡家に、姑於継から望まれて嫁ぎました。

嫁いで3年後に、ついに雲平が京都から帰ってきます。

大喜びで雲平を迎える家族ですが、それまで加恵をかわいがってきた於継はなぜか加恵を排除しようとし、仲むつまじかった姑と嫁との間でいわゆる嫁姑の争いがはじまります。

 雲平が帰って4年後、青洲の妹於勝が乳癌に冒され、於勝は、青洲が実験を重ねていた麻酔を使っての外科手術を望みますが、青洲は手術を行わず、於勝はまもなくなくなりました。

 こうした中で、華岡青洲は、犬や猫を使っての実験を重ね、効果を高めていき、人体実験のレベルに到達します。

 そこで、姑於継と加恵は、自分の身を実験に使って欲しいと願い出ます。

最初に実験台となったのは於継ですが、青洲は母親の老齢を思い麻酔レベルの低い麻酔薬の実験に留めます。

一方、加恵は、自分こそが真の実験台になることを申出て、半年後、青洲は本当の意味での麻酔薬の実験を、加恵を使って行います。

加恵は、三日目に無事目を覚ましますが、麻酔薬の副作用は甚大で健康状態を取り戻すのに半月を要しました。

その後、加恵に対抗意識をもつ於継から強い申出があり、2回目の実験を行いますが、この時の麻酔レベルも本来の麻酔薬からは低いものでした。

一方、加恵は、1回目の実験から2年経った時期に、青洲の最終的な実験に自らを捧げます。

華岡青洲は、非常に迷った中で、通仙散と名づけられた麻酔薬の実験を決断します。

多恵の献身により、二度目の実験も成功しますが、2回の実験に自身を捧げた加恵は視力を失ってしまいました。

 視力を失った多恵は2人目の子供をみごもります。なお、一人目の女の子は、幼くしてなくなっています。

 この子供は無事出産しますが、視力を失った加恵にかわり、嫁に行かず華岡家を支えていた華岡青洲の妹小陸が子育てします。

 しかし、この小陸も乳がんにより亡くなります。

 

 華岡青洲の母と妻の献身により完成した通仙散を使用し、青洲の妹2人の命を奪った乳がんの摘出手術に成功したのは文化元年(180)のことです。

 『華岡青洲の妻』は、華岡青洲という医者を援けた母於継と妻多恵の献身的努力の背景には、華岡青洲の愛を奪い合おうという嫁姑との間の対抗心があるという有吉佐和子さんの視点は大変面白いと思いました。

 また、多恵と於継だけの献身でなく、青洲の妹たちの献身もあったことにも注目している有吉佐和子さんの眼力がすばらしいと思います。

 まさに女性の視点にたった小説であるといえると思います。



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# by wheatbaku | 2018-04-10 14:54 | Trackback
伊豆旅行に行ってきました!! 

 伊豆旅行に行ってきました!! 

昨日まで2日間の日程で、江戸検の仲間と伊豆に旅行に行ってきました。

 同期合格の極骨さんの案内で、東海岸の石丁場の跡、韮山周辺、そして西伊豆の戸田などを廻ってきました。

 詳しい内容は、これから順にアップしていきますが、今日は、主な訪問地を写真でご紹介しておきます。

 富戸の元船石

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 韮山反射炉

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 韮山の江川邸

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 戸田造船郷土資料博物館

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 移動途中で見た山葵田

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 このほか、いろいろな所を案内してもらいましたので、詳しい内容を、今後、順にご紹介していきます。



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# by wheatbaku | 2018-04-08 09:29 | Trackback
女流作家が描く『江戸のヒロインたち』

女流作家が描く『江戸のヒロインたち』

 今年の江戸検のお題は、『江戸のヒロインたち ~百花繚乱の女性像~』ということで、江戸の女性たちが取り上げられます。

 江戸検を受ける人たちの中には、受検準備を始めている人もいると思います。

 私も、お題のテキストが出る前に、少し、参考になる本がないかと気をつけていますが、なかなか、これが良いという本はありません。

 そこで、最近は、江戸のヒロインを主人公とした歴史小説を読み始めています。

女性を描くのは、やはり女流作家が書いたものが良いだろうと思って、特に女流作家が書いたものを選んで読み始めています。 

本をピックアップしてみて、既に「名作」といってよいほどの評価が固まっている本が多いのに、改めて驚いています。

そこで、今日は、私が既に読了したもの、あるいは、今後読みたいと思っている本をご紹介しておきます。

 

1、『華岡青洲の妻』(有吉佐和子) 

主人公;世界初の全身麻酔出術を行った華岡青洲の妻加恵

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2、『ふるあめりかに袖は濡らさじ』(有吉佐和子)

主人公;横浜の遊女屋岩亀楼の遊女喜遊

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3、『和宮様御留』(有吉佐和子) 

主人公;和宮の身代わりとされた橋本家の下脾フキ

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4、『天璋院篤姫』(宮尾登美子)

主人公;大河ドラマ『西郷どん』でも注目されている13代将軍家定の継室となった篤姫

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5、『東福門院和子の涙』(宮尾登美子) 

主人公;2代将軍徳川秀忠の娘として生まれ、後水尾天皇の中宮となった東福門院和子

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6、『婉という女』(大原冨枝) 

主人公;土佐藩家老であった野中兼山の娘として生まれ40年間も幽囚されていた野中婉

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7、『徳川家の夫人たち』(吉屋信子)

主人公;三代将軍家光の側室お万の方(永光院)

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8、『絵島疑獄』(杉本苑子)

主人公;絵島生島事件で有名な7代将軍家継の生母月光院に仕えた大奥年寄絵島

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9、『葛の葉抄 只野真葛ものがたり』(永井路子)

主人公;『赤蝦夷風説考』の著者工藤平助の娘、名は綾子。真葛はペンネーム

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# by wheatbaku | 2018-04-05 12:38 | 江戸のヒロイン | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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