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内藤新宿で幼少期を過ごした夏目漱石(新宿御苑④)

内藤新宿で幼少期を過ごした夏目漱石(新宿御苑④)

 現在の新宿は、江戸時代の甲州街道の宿場であった内藤新宿が発展したものです。

 甲州街道が開かれた江戸時代初期は、甲州街道の最初の宿場は、高井戸でした。日本橋から高井戸までは四里(約16キロ)あり、距離が長すぎたため、高井戸の手前に新しい宿場をつくろうということになりました。

 この請願を幕府にしたのは、浅草阿部川町の名主であった高松喜六を中心とした人たちでした。幕府は、この請願を受け入れ、請願のあった翌年元禄10年(1697)に新たに宿場を開設しました。

 宿場開設にあたって、幕府は高遠藩内藤家に屋敷の一部上地を命じました。そして、内藤家から上地された土地を利用して新たに宿場が開設されたことから内藤新宿という名前がついたと言います。

 この内藤新宿に、夏目漱石が幼い頃に住んでいたことがあります。そこで、今日は、内藤新宿時代の漱石について書いてみます。なお、夏目漱石は、本名は金之助といいますが、ここでは、漱石で統一します。

 夏目漱石は、慶応3年(186729日、江戸牛込馬場下横町(現在の新宿区喜久井町)で夏目直克の五男三女の末っ子として生まれました。

夏目家は、馬場下横町をはじめ神楽坂から高田馬場辺りまで11ヶ町を支配する名主でした。漱石が産まれた時、父直克は50歳、母千枝は41歳でした。母千枝は、直克の後妻で、先妻との間には二人の娘(さわ・ふさ)がいました。

千枝は四谷大番町の質屋福田庄兵衛の三女で、若い頃御殿奉公を勤め、一度質屋に嫁いだものの離縁となった後に直克の後妻となり、五男一女、すなわち大一(大助)、栄之助(直則)、和三郎(直矩)、久吉、ちか、そして漱石を産みました。

夏目漱石は、その誕生が両親から歓迎されたものではなかったようです。そうしたこともあって、生後まもなく四谷の古具屋(八百屋という説も)に里子に出されました。漱石は『硝子戸の中』で次のように書いています。

「私は両親の晩年になってできたいわゆる末子(すえっこ)である。私を生んだ時、母はこんな年歯(とし)をして懐妊するのは面目ないと云ったとかいう話が、今でも折々は繰返えされている。

単にそのためばかりでもあるまいが、私の両親は私が生れ落ちると間もなく、私を里にやってしまった。その里というのは、無論私の記憶に残っているはずがないけれども、成人の後聞いて見ると、何でも古道具の売買を渡世にしていた貧しい夫婦ものであったらしい。

私はその道具屋の我楽多(がらくた)といっしょに、小さい笊(ざる)の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に曝(さら)されていたのである。それをある晩私の姉が何かのついでにそこを通りかかった時見つけて、可哀想とでも思ったのだろう、懐(ふところ)へ入れて宅(うち)へ連れて来たが、私はその夜どうしても寝つかずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいうので、姉は大いに父から叱しかられたそうである。」

こうして、里子から生家に戻った漱石ですが、生家で育てられることはありませんでした。生家に戻ってまもなく1歳の時に 内藤新宿の名主であった塩原昌之助(まさのすけ)・やす夫妻のところへ養子に出されました。

塩原昌之助は、父が四谷大宗寺門前の名主をしていましたが、幼い時に父親が亡くなったため、夏目直克が昌之助を引き取って育てて、父親と同じ名主にしてやりました。そして、妻のやすも、もともと夏目家で奉公をしていた女性であり、夏目直克は、この二人の仲をとりもち結婚させたといいます。しかし、この塩原昌之助夫妻には子供ができなかったため、金之助が養子に出されることになりました。

塩原昌之助の自宅は太宗寺裏手にあたる内藤新宿北町(現在の新宿二丁目)にありましたが、甲州街道沿いにあった「伊豆橋」という夏目家と縁のある遊女屋も管理していました。この「伊豆橋」での漱石の記憶が、漱石の自伝的小説と言われる『道草』三十八に書かれています。

そうしてその行き詰りには、大きな四角な家が建っていた。家には幅の広い階子段のついた二階があった。その二階の上も下も、健三の眼には同じように見えた。廊下で囲まれた中庭もまた真四角(まっしかく)であった。

不思議な事に、その広い宅うちには人が誰も住んでいなかった。それを淋しいとも思わずにいられるほどの幼ない彼には、まだ家というものの経験と理解が欠けていた。

 彼はいくつとなく続いている部屋だの、遠くまで真直まっすぐに見える廊下だのを、あたかも天井の付いた町のように考えた。そうして人の通らない往来を一人で歩く気でそこいら中(じゅう)馳廻(かけまわ)った。」

 ここで「大きな四角な家」(上記赤字部分)と書かれているのが遊女屋「伊豆橋」だと言われています。「伊豆橋」の跡取り息子福田庄兵衛に漱石の長姉さわが嫁いでいました。しかし、明治5102日に娼妓解放令が出され「伊豆橋」は閉鎖され、その管理を塩原昌之助が任されていました。そうしたことがあり、漱石の記憶のなかに「伊豆橋」のことが残っていると言います。

『道草』では、続いて「伊豆橋」で遊んでいた思い出を漱石は次のように書いています。

「彼は時々表二階へ上って、細い格子の間から下を見下した。❶鈴を鳴らしたり、腹掛を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。❷路(みち)を隔てた真ん向うには大きな唐金(からかね)の仏様があった。その仏様は胡坐(あぐら)をかいて蓮台(れんだい)の上に坐(すわ)っていた。太い錫杖(しゃくじょう)を担いでいた、それから頭に笠を被(かぶ)っていた。」

 ❶の部分は、甲州街道を通り過ぎる馬のことを書いてあります。❷の部分は、江戸六地蔵の一つである太宗寺の地蔵菩薩を描いています。

太宗寺の地蔵菩薩については過去に記事にしたことがあります。



 漱石は、地蔵菩薩に登って遊んだこともあるようで、続いて、『道草』の中で次のように書いています。

 健三は時々薄暗い土間へ下りて、其所からすぐ向側の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ攀上(よじのぼ)った。着物の襞(ひだ)へ足を掛けたり、錫杖の柄(え)へ捉(つらま)ったりして、後(うしろ)から肩に手が届くか、または笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。」

 続けて、漱石は、次のように書いていますが、下赤字の「赤い門の家」が、塩原昌之助の自宅のようです。

「彼はまたこの四角な家と唐金の仏様の近所にある赤い門の家を覚えていた。赤い門の家は狭い往来から細い小路を二十間も折れ曲って這入(はい)った突き当りにあった。その奥は一面の高藪で蔽(おおわ)れていた。」

 

 こうして、塩原昌之助・やすの養子となった漱石ですが、塩原昌之助・やすが離婚することとなり、明治9年、漱石9歳の時に夏目家に戻りました。 しかし、塩原家と夏目家との間でもめ事があり、夏目家への復籍は21歳まで実現しませんでした。

 しかも、夏目家に復籍した後も、塩原昌之助・やすとの関係は絶たれることはなく、漱石が東京帝大の教授となった頃には、金銭的な援助を求められるようになったといいます。その頃の事情をベースとして書かれた自伝的小説が『道草』です。

『道草』は、大正4年(191563日から914日まで『朝日新聞』に掲載され、岩波書店から同年1010日に出版された長編小説です。現在は、岩波文庫のほか新潮文庫でも出版されています。私は、新潮文庫のほうで読みました。

内藤新宿で幼少期を過ごした夏目漱石(新宿御苑④)_c0187004_21175713.jpg

この小説の主人公は海外留学から帰って大学の教師をしている健三ですが。健三は夏目漱石自身がモデルとされています。

主人公健三は、海外留学から帰り大学の教師をしていましたが、実姉や実兄から金銭支援を頼まれる度に、それに応えていました。そこに、15.6年前に縁が切れたはずの養父島田(塩原昌之助がモデル)が現われ、お金の援助を頼まれます。最初は低姿勢であったものが段々横柄に要求されるようになります。さらに。養父ばかりか、養母や細君(鏡子がモデル)の父までがお金の援助を依頼するようになってきて、健三が金銭問題で多々悩ませられます。その上、細君との間もうまくいかず、健三が四苦八苦する姿が描かれています。




# by wheatbaku | 2025-05-07 22:30
水野忠邦が浜松藩に転封できたのは井上正甫のお陰?(新宿御苑⓷)

水野忠邦が浜松藩に転封できたのは井上正甫のお陰?(新宿御苑⓷)

前回、浜松藩主井上正甫(まさとも)が、高遠藩内藤家下屋敷(現在の新宿御苑)で不祥事を起こし、棚倉藩に懲罰的に転封されたことを書きました。そして、この時の転封は、浜松藩⇒棚倉藩⇒唐津藩⇒浜松藩の三方領知替であったことも書きました。

 この時の三方領知替の当事者の一人に天保の改革を行ったことで有名な水野忠邦がいました。この水野忠邦が唐津藩から浜松藩に転封となったことについて、水野忠邦は、幕閣になりたいと願ったが、唐津藩は長崎警護の役目を負っていて、幕閣に昇進するのは不可能であったため、唐津藩から江戸近くに転封を希望したとされています。このことは定説とされています。

この転封を説明する際に、浜松藩主井上正甫が起こした不祥事に触れることなく、水野忠邦は、早い段階から浜松藩に的を絞った転封を画策していたかのような論調があります。

 例えば、『教科書にでてくる人物124人』(あすなろ書房刊)の「水野忠邦」の項では「唐津藩は、幕府から長崎の警備という役目をおおせつかっていたために、藩主は老中になれないというきまりがつくられていました。(中略)そこで、忠邦は、江戸に近い浜松藩に国がえを願いでたのです。浜松藩は、徳川幕府を開いた家康ゆかりの地でもありますので、一生けんめい働きかけました。1817(文化14)年、24歳の時に浜松藩への国がえが認められ、同じ6万石の藩主になることに成功しました。」と書いてあります。

 また、ウィキペディア(Wikipedia)では「文化14年(1817年)9月、実封253,000石の唐津から実封153,000石の浜松藩への転封を自ら願い出て実現させた。」とだけ書いてあります。

 しかし、浜松藩主井上正甫が起こした不祥事で三方領知替が行われたことを考えると、水野忠邦が浜松藩へ転封てきたのは偶然の結果であり、事件の起きる前から浜松藩への転封を願っていたという論調には疑問が生じます。そこで、水野忠邦が、早い時期から浜松藩への転封を願って幕閣に運動していたのかどうか調べてみました。

 水野忠邦は、『国史大辞典』によると、「寛政6年(1794623日江戸に生まれる。肥前国唐津藩主水野忠光の次男。母は側室中川氏、名は恂(中川氏から大住氏の養女となる)。兄芳丸の死去により世子となる。文化4年(1807)元服し、従五位下式部少輔に叙任せられた。98月、父忠光隠居のあとをうけて19歳で唐津6万石を襲封し、和泉守となる。すぐに藩政改革の断行を宣言し、祖父忠鼎以来の改革を強力に推進しようとした。同時に幕府の要職に就くことを狙い、1211月に幕閣への登竜門とされた奏者番となったが、唐津藩主は長崎警固役を課されていて、幕閣の一員となることができないので、転封して昇進するため盛んに運動を行なった。149月念願の寺社奉行加役となり、左近将監に転じ、その翌日に浜松に所替となった。」と書かれていて、転封の運動をおこなったものの浜松藩に的を絞った転封の運動とは書いていませんでした。(赤字部分参照)

 また、水野忠邦に関する最も詳しい研究書は人物叢書『水野忠邦』(北島正元著)ですが、この中では概ね次のように書かれています。

水野忠邦は、昇進と転封を同時に成功させるために、はげしい運動を開始したが、時の筆頭老中は「寛政の遺老」と呼ばれた松平信明であり、忠邦は食い込むことができなかった。しかし、文化14年(181783日に同族の水野忠友が側用人を兼帯のまま老中格となり、さらに、松平信明が、文化14年(1817816日に亡くなり、忠邦にとって形勢が好転した。そして、水野忠朝の斡旋のおかげで文化14910日、水野忠邦は寺社奉行の発令を受けるとともに、その翌日に唐津から浜松への国替えを命ぜられた。 

 さらに、北島正元氏は、この転封には、浜松藩主井上正甫の不祥事が介在したことを詳しく説明しています。水野忠邦の浜松への転封に関係して浜松藩主井上正甫の不祥事に触れたものは、私が見た限りでは人物叢書『水野忠邦』だけでした。

 そのうえで、「井上正甫を棚倉藩に左遷したのは忠成が忠邦を浜松へ移すために、松平信明が穏便にすませようとした事件を、政道を正すと称して摘発して、正甫を辺地へ追いやったものとみられぬこともない。」(人物叢書『水野忠邦』p107,108より)と書いています。

 

水野忠邦は、井上正甫の不祥事が起きる前から、江戸近くの地への転封を画策していましたが、文化13年秋に浜松藩主の井上正甫が不祥事を起こしたので、これを好機として浜松藩に的を絞った転封を働きかけ、翌年の8月に老中格となった水野忠成によって、それが実現したということだろうと思います。

 つまり、水野忠邦は、井上正甫の不祥事が起きる前には、浜松藩への転封でなく江戸近くの藩であればどこでも良くて浜松藩に限定していたわけではなかったものの、新宿御苑での不祥事が起きた後には、浜松藩への転封を願い出たということではないかと思います。

 こうしたことから、井上正甫が新宿御苑で起こした不祥事は、江戸近くへの転封を願っていた水野忠邦にとって、「渡りに船」の好機だったのではないかと思います。

北島正元氏は、水野忠邦の転封には、同族の水野忠成(ただあきら)の力が大きかったと書いており、忠邦が転封できたキーパーソンは水野忠成だったようです。『参謀の器量学』(奈良本辰也編著)でも、次のように書いてあります。「忠邦は、昇進だけでなく移封をも目標として、激しい運動をはじめた。頼みこむ相手は、11代将軍家斉の寵臣だった水野忠成(ただあきら)だった。『水の出て もとの田沼となりにけり』とうたわれた人物で、賄賂を取るのは上手なことに定評があった。これに取りいるのが、栄達へのもっとも近い道である。それに忠邦にしてみれば、家が違うが同じ水野一族だというよしみがあった。」

 水野忠成(ただあきら)は、もともと旗本岡野知暁の次男として生まれ、旗本水野家の養子となりましたが、沼津藩主水野出羽守忠友が養子であった田沼意次の四男田沼忠徳を離縁したのちに、水野忠友の養子となりました。水野忠友が亡くなった後、家督を継ぎ出羽守と改称し、奏者番、寺社奉行 (兼務)、若年寄、側用人と出世し、11代将軍徳川家斉の信任をえて、文化 14 8月老中格となり、文政元年 年(1818)には老中となり、徳川家斉の治政を支えました。

 この水野忠成が老中格となる前年に新宿御苑での井上正甫の不祥事があり、さらに、水野忠成が老中格となるという幸運が重なって水野忠邦の浜松転封が実現したようです。

ところで、この転封について、唐津藩の藩主であった水野忠邦は喜んだものの、財政難に苦しむ唐津藩の大半の藩士にとっては迷惑なことだったようです。そのため、転封の話が唐津藩に伝わると、家老二本松大炊義廉が、藩士の総意をもって転封を辞退するよう進言しましたが、水野忠邦はその進言を受け入れることはなかったため、二本松大炊義廉は文化1410月自宅で切腹して果てています。




# by wheatbaku | 2025-05-02 22:15
新宿御苑で起きた名門大名の不祥事(新宿御苑②)

新宿御苑で起きた名門大名の不祥事(新宿御苑②)

 江戸時代、高遠藩内藤家下屋敷(または中屋敷)と呼ばれた新宿御苑(以下、新宿御苑とします)で、文化年間に譜代の名門大名による不祥事が起きました。そこで今日は、そのお話をします。

 不祥事を起こした大名は、浜松藩主井上正甫(まさとも)です。井上家は、母が2代将軍秀忠の乳母であった井上正就(まさなり)を初代とする名門譜代大名で、正甫の祖父井上正経は9代将軍家重の時代に老中を勤めました。

 井上正甫は、文化13年(1816)に、同じ奏者番をつとめていた内藤頼以(よりもち)の招待で、新宿御苑を訪ねました。その際に、井上正甫は、新宿御苑の広大な屋敷内(もしくはその近隣)にあったある農家に立ち寄り、そこにたまたまいた農婦に性的暴行を加えるという事件を起こしました。当初。井上家は事を内密に処理しようとしましたが、やがて、これが巷のうわさとなり、井上正甫は「密夫大名」と罵声をあびるようになったといいます。

 この事件については、身近に読める本としては、八幡和郎氏が光文社新書『江戸三〇〇藩バカ殿と名君』の中で簡略に触れています。

 江戸時代の文献としては『文化秘筆』や『続徳川実紀(文恭院殿御実紀)』に書かれています。『文化秘筆』は巷間のうわさばなしをまとめたものですが、『続徳川実紀(文恭院殿御実紀)』の幕府の公式記録です。そこで、『続徳川実紀(文恭院殿御実紀)』を私なりに現代文に書き改めて引用します。なお、『続徳川実紀(文恭院殿御実紀)』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。 

 『続徳川実紀(文恭院殿御実紀)』の文化14年(1817914日の項に浜松藩主井上正甫が棚倉藩に転封されたことが次のように書かれています。

「(9月)14日 陸奥国棚倉城小笠原主殿頭長昌は肥前国唐津城へ、肥前国唐津城主水野左近将監忠邦は遠江国浜松城へ、遠江国浜松城主井上河内守正甫は陸奥国棚倉城へ転封を命じられた。(そして注意書きとして)世に広まっている話では、今日の転封は、はじめ井上河内守正甫が奏者番をつとめしていた折、内藤大和守頼以の四谷別荘で酒盛りをして遊びましたが、殿様一人である農家に至って、たまたまそこに居合わせた農婦を可愛がったところ、農婦の夫が帰ってきて、非常に怒って井上正甫をなぐりつけた。そのとき、井上正甫の家来がやってきて、この様子をみて、甘い言葉で農夫をなだめ、たくさんの黄金を与えるなどして、ようやく内々にして事を済ませた。(中略)しかし、世間の評判はよくなてく、ある日、江戸城に登城した際に、大下馬先(*大手門前のこと)にて、ほかの大名家の下僕たちが声高に罵って、「密夫大名」と呼んで恥辱を与えた。またある日に四谷辺りを馬に乗って通行した際に、町人が葬送していたが、それを怒って馬で駈け抜けたので、町人たちは棺を捨て逃げさっていった。これらのこともまた世間の評判を落とした。そして、ついに奏者番を罷免されていたが、こうして、本日、痩地(やせた土地のこと)に移封されたという。)

新宿御苑で井上正甫の不祥事が起きたのが、文化13年(1816)の秋の事と言われています。そして、井上正甫は、文化131223日に、奏者番を罷免されています。

そのうえで、『徳川実紀(文恭院殿御実紀)』に書かれているように、井上正甫は、文化14年(1817914日に陸奥棚倉藩への転封を命じられました。その頃、棚倉藩への転封は懲罰的な処置とされていました。(『徳川実紀』でも「瘦地」と記しています。) 幕府は、井上正甫の行為を問題ありとして処罰したのだろうと思います。

幕府の正史である『徳川実紀』に記録されるほどですから、幕閣は井上正甫の不祥事を重大な事件とみなしていたと思います。

この浜松藩主井上正甫の転封により、棚倉藩主小笠原長昌は肥前国唐津藩に転封となり、唐津藩主水野忠邦が浜松藩主となる三方領知替えとなりました。

この時、唐津藩から浜松藩に転封となった水野忠邦は、のちに老中となって天保の改革を実行した水野忠邦その人です。水野忠邦は、かねて、江戸周辺への転封を願っていましたので、この転封命令を大喜びしたことと思います。




# by wheatbaku | 2025-04-28 22:30
新宿御苑は、高遠藩内藤家の下屋敷だったか?中屋敷であったか?(新宿御苑①)

新宿御苑は、高遠藩内藤家の下屋敷だったか?中屋敷であったか?(新宿御苑①)

久しぶりのブログ更新です。

来月、江戸の仲間が新宿御苑を探訪します。その案内を私がするわけではないのですが、現在、新宿御苑について調べています。そこで、新宿御苑についての話題をいくつか書いてみます。

新宿御苑について、ネット等で調べると多くの記事が高遠藩内藤家の下屋敷であったと書いてあります。私も、そうだと思っていました。私が下屋敷と思っていたのは、幕末の江戸切絵図で下屋敷を意味する●がついていたからです。(下図の右中央の内藤駿河守の左に●がついています。)

新宿御苑は、高遠藩内藤家の下屋敷だったか?中屋敷であったか?(新宿御苑①)_c0187004_20544235.jpg

    『国立国会図書館デジタルコレクション』より転載


しかし、新宿歴史博物館は、高遠藩内藤家の下屋敷というのは通称であり、正確には中屋敷であったという見解です。

ちなみに、ネットで見ることのできる新宿歴史博物館の常設展示解説シート⑲「江戸のくらしと内藤新宿(内藤家)」の中の「信州高遠藩内藤家の四谷下屋敷」の冒頭部分に「現在の新宿御苑が江戸時代において高遠藩(現在の長野県伊那市高遠町)の江戸下屋敷(「四谷下屋敷」と通称。正確には中屋敷)だった・・・・」と書いてあります。

新宿歴史博物館では、内藤家15代当主の内藤頼博氏の証言等から、新宿御苑は正確には中屋敷であったとしたようです。

江戸時代の大名武鑑には、大名の上屋敷・中屋敷・下屋敷の所在地についても記載されていました。そこで、私の手元にある『文化武鑑』(文化元年~四年・大名編)を見てみると、「内藤大和守頼以」の項(つまり高遠藩内藤家)は、上屋敷が小川町、中屋敷が四谷内藤宿、下屋敷が「しぶや」と書かれています。

これを見ると、新宿歴史博物館の見解のように見ることもできると思います。

一方で『諸向諸向地面取調書』という史料があります。これは、幕府の役職である「屋敷改」が編集した「諸屋敷帳」を元に安政3(1856)に一覧にしたものですが、国立公文書館デジタルアーカイブで見ることができます。

この『諸向地面取調書』を見ると、下屋敷は、「四谷内藤新宿」と「下渋谷」と書かれています。つまり、新宿御苑は下屋敷となっています。(下図の赤字部分)

新宿御苑は、高遠藩内藤家の下屋敷だったか?中屋敷であったか?(新宿御苑①)_c0187004_20583988.png
            『国立公文書館デジタルアーカイブ』より転載

幕府の公式文書『諸向諸向地面取調書』では新宿御苑を下屋敷としている一方、高遠藩では中屋敷と認識しています。また、江戸市中の本屋須原屋が発行していた「武鑑」では中屋敷としている一方、尾張屋が発行した「切絵図」では下屋敷としています。

このように江戸時代でも様々な捉え方をしています。従って、新宿御苑が江戸時代に下屋敷であったか中屋敷であったかは一概に断定できませんので、下屋敷としても間違いでないし、中屋敷としても間違いではないと私は考えます。


ところで、『文化武鑑』によれば、上屋敷は小川町にあるとのことなので、尾張屋の切絵図で確認したところ、文久3年(1863)の切絵図に内藤大和守の上屋敷が確認できました。(下図の赤印) 現在、駿河台下の交差点の西側に三省堂書店神保町本店がありますが、駿河台下交差点の南側一帯が上屋敷でした。なお、下記切絵図は南が上になっています。

  
新宿御苑は、高遠藩内藤家の下屋敷だったか?中屋敷であったか?(新宿御苑①)_c0187004_20544244.jpg
『国立国会図書館デジタルコレクション』より転載

 また、下屋敷は「しぶや」にあるということなので、こちらも切絵図で探しましたが、下屋敷は切絵図からは確認できませんでした。しかし、新宿歴史博物館刊行の『内藤清成と高遠内藤家展』の図録を見ると、元禄11年に四谷屋敷を上地(返納)した代地として下渋谷に4500坪余りの土地を拝領していて、嘉永元年(1848)に上地(返納)しているようです。私がみた切絵図は安政4年(1857)のものですので、切絵図に記載されていないのと思われます。
そこで、下渋谷の下屋敷がどこにあったか調べた結果、現在の恵比寿ガーデンプレイスの東側にあったようです。




# by wheatbaku | 2025-04-26 10:33 | 江戸の庭園
ブログ更新休止のお知らせ

ブログ更新休止のお知らせ

 いつも当ブログをご愛読いただきありがとうございます。

 このブログを書き始めたのは20081219日ですので、ちょうど16年が経ちました。

 長い間ご愛読いただきありがとうございました。

 この間にご訪問いただいた方は300万人を超え、現在も毎日増加しています。

 このようにご訪問いただく方が大勢いらっしゃるなかで、大変心苦しいのですが、満16年になったのを期に、このお知らせを最後として、ブログの更新を休止させていただきます。

 なお、ブログ自体は閉鎖せずに、このまま残しておきますので、過去の記事でご興味が沸いたものがありましたら、改めてお読みください。

 最後に、長い間ご愛読いただいたことに、重ねて御礼申し上げます。

 本当にありがとうございました。

 20241221


# by wheatbaku | 2024-12-21 17:00
  

江戸や江戸検定について気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
by 夢見る獏(バク)
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