菊屋の鰻重(成田山新勝寺③) 

菊屋の鰻重(成田山新勝寺③) 

 成田山新勝寺での御護摩祈祷をしていただいたのは11時でした。御護摩祈祷が終了するとお昼時ですので、表参道にある「菊屋」で鰻を食べました。下写真は菊屋を斜めからとったものですが、成田山新勝寺の参道が坂になっているのがわかると思います。坂下が成田山新勝寺方面です。

 

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 成田は、鰻が名物で鰻のお店が60以上もあるそうです。また、名店と呼ばれる店も数多くあって、どれを選ぶか迷うほどです。

 そんな中で、江戸時代から続く「菊屋」を選びました。(下写真は菊屋正面からの写真です)

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 「菊屋」は、成田山新勝寺の門前で煮売屋をしていました。天保年間(18301844)に残された文書に、成田山門前の煮売屋「菊屋」として名が記されているそうですので、少なくとも 170年以上前から営業していることになる老舗です。

屋号の「菊屋」は、新勝寺より拝領した菊の御紋に由来しているそうです。

お店でいただいた、明治40年頃の地図には、現在地に「菊屋名物店」とありますので、明治時代後半には、既に現在地で営業していたということになります。

なお、「菊屋」の隣は、店先で鰻をさばいていることで有名な「川豊」ですが、「川豊」は、明治40年頃の地図には載っていませんでした。

また、建物は明治に建てられてものだそうですが、店内はあまり古さを感じることはありませんでした。それだけ手入れが行き届いているということです。(下写真店内)

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「菊屋」では、懐石料理もあるそうですが、鰻重を頼みました。鰻重には3800円の鰻重と4500円の国産鰻重があります。鰻重は台湾産の鰻を使っているので、鰻重のほうが安いとのことでしたが、国産鰻重をお願いしました。

 しばらくすると鰻重が出てきましたので、早速いただきました。

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 鰻はふっくらとしていて大変やわらかでした。タレは少し甘めですが程よい甘さで、鰻とベストマッチでした。

 鰻は大好きですので、あちこちの鰻重を食べていますが、「菊屋」の鰻重はトップクラスの味でした。

成田には数多く名店があるので、菊屋を訪ねる前には、次の機会は別のお店の鰻重を食べてみようと思っていました。しかし、実際に食べてみて次回も菊屋にしようと思いました。

店内には福沢諭吉の自筆の書が架けられていました。

 「独立自尊」と書かれています。(下写真)

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 この書の由来について、店長の中里さんが丁寧に教えてくださいました。

 中里店長さんのお話では、福沢諭吉と成田は、明治に起きた長沼事件という事件を通じて深い関係があるということでした。 長沼事件については後述しましたが、長沼という沼の占有権をめぐったおきた事件に対して福澤諭吉は大変な支援をしました。そこで、長沼事件を支援してくれた福沢諭吉には成田の人々は特別の感慨をもっていて、福澤諭吉と成田の人々の交流が行なわれていたそうです。

そうした中で、福沢諭吉が成田に来て菊屋に寄った際に、当時の御主人が揮毫をお願いして書いてもらったものだそうです。 中里店長さん、丁寧な語説明ありがとうございました。

長沼事件とは次のような事件です。

 現在は成田市となっている千葉県埴生郡長沼村にあった「長沼」は、江戸時代、長沼村が幕府に一定の年貢を納めることで、沼の占有権を得、生活の糧のために沼を利用してきましたが、明治になって、周辺村落15カ村を含んだ入会地に変更されることになり、長沼村は大いに困窮することになってしまいました。長沼の人々は県庁に嘆願しても聞き入れてもらえませんでした。その時、たまたま『学問のすゝめ』を読んだ村代表の小川武平が明治7年、福澤諭吉を訪ね、援助を求めました。話を聞いた福澤諭吉は、当時の柴原和県令宛に直々に手紙を出したり、小川武平を励ますなど支援を行い、ついに明治33年には長沼は長沼村に払い下げられ、所有権は回復しました。

また、事件解決後、福澤諭吉は、教育普及のため、小学校建設のために500円を寄付し、これを元手に長沼小学校が建てられたそうです。

 しかし、福澤諭吉は事件が解決した翌年の明治34年に亡くなってしまいました。そこで、福澤諭吉に対する感謝の念をいただいていた長沼の人々は、事件が解決した3月29日を記念日として村を挙げてお祭りが行われました。この日、各家では福澤諭吉の写真を床の間に飾っていたそうです。

 現在、長沼小学校は廃校となりましたが、学校跡地には長沼保育園が建ち、その一室が「福澤諭吉記念子ども館」として開放されているそうです。

また、長沼事件を支援してくれた福沢諭吉に対する長沼地区の感謝の気持ちは現在まで続いていて、福澤家は福澤諭吉の曾孫の代になっていますが、福澤家に年3回長沼地区の人々がお礼に訪れているそうです。

赤印が菊屋です。ピンク印が、前回紹介した延命院旧跡です。
青印は成田山新勝寺の総門です。







# by wheatbaku | 2019-03-18 20:01
7代目団十郎ゆかりの延命院旧跡(成田山新勝寺②)

7代目団十郎ゆかりの延命院旧跡(成田山新勝寺②)

成田のお不動様にお参りしたのは、成田のお不動様の御利益をいただくこととが一番の目的でしたが、それとともに、市川団十郎のゆかりの地を訪ねることも目的でした。

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 先週316日の文京学院大学で「江戸の刑罰」についてお話しました。その中で江戸時代の追放刑についてもお話しました。

 追放刑というのは、ある地域から追放して、その地域の居住できなくなるようにする刑です。

 追放刑は、門前払いから遠島まで8段階の刑があります。

 その中で、江戸十里四方追放という刑があります。その刑に処せられた有名人が7代目市川団十郎でした。

 そして、江戸十里四方追放の刑を受けた7代目団十郎が身を寄せたのが成田山新勝寺の塔頭延命院でした。

 この延命院は、現在は、成田に残っていませんが、その旧跡は残されているというので、そこを訪ねることも今回の成田山お参りの目的の一つでした。

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7代目団十郎は、10歳で団十郎を襲名し、のちに名人とうたわれました。

今でも演じられる歌舞伎十八番は、7代目団十郎が定めたものです。

この市川団十郎は、老中水野忠邦が始めた天保の改革により、その豪奢ぶりが咎められました。

当時の南町奉行鳥居耀蔵が呼び出された団十郎は、天保13年(1842)、2か月間手鎖の上家主預かりとなり、622日に江戸十里四方追放の刑に処せられました。

江戸十里四方追放と云うのは、日本橋を中心に五里四方の地域から追放する刑で、日本橋から五里圏内には、住むことができませんでした。

そこで、625日、7代目団十郎は 江戸を発ち、成田山新勝寺の塔頭である延命院に身を寄せました。

延命院は、成田駅から成田山新勝寺に向かう表参道の坂を下りきった辺りにありましたが、延命院は、明治年間に横浜に移転して、現在は横浜別院となっています。

そのため、現在、延命院は成田にはなくて、延命院があった場所には 「延命院旧跡」という標柱が建てられています。(最上段写真)

表参道を下っていくと右手に鉄砲漬で有名な「江戸久」があります。その先の「お食事処ひしや」との間に路地があり、そこに「延命院旧跡」の標柱があります。下写真が標柱がある場所の全体像です。写真右手が「江戸久」、左手が「ひしや」です。

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その標柱を右手に入る路地の先に木戸があります。(下写真)

その木戸の先に、延命院があったそうです。

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7代目団十郎は、成田山新勝寺の延命院には、半年ほど住んでいて、その後  駿府に移り、そして大坂に向かいました。

そして、嘉永2年(184912月に恩赦により追放が解除されました。

 赤印が延命院旧跡の標柱です。
 青印が成田山新勝寺の総門です。







# by wheatbaku | 2019-03-15 13:51
成田のお不動様お参り(成田山新勝寺①)

成田のお不動様お参り(成田山新勝寺①)

昨日は、成田のお不動様(成田山新勝寺)にお参りに行ってきました。

成田のお不動様は以前から数年おきにお参りしていますが、しばらくお参りに行っていなかったので、久しぶりのお参りということになります。

 護摩修行は、いつもの通り厳粛に行われ、お不動様の御利益を授かってきました。下写真は本堂です。

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 昨日は、天気も良く気温も4月中旬の気温で、絶好のお参り日和となりました。そこで、本堂での護摩修行のあと、これまでお参りしていなかった本堂以外の諸堂もお参りしてきました。そこで、今日は、成田山新勝寺の諸堂について簡単に紹介しておきます。

 

総門

 成田山新勝寺で、最初に参拝者を迎えるのが総門です。

 総門は、平成19年に建てられたもので、髙さが19メートルもある立派なものです。

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仁王門

 総門を入ると正面に見えるのが仁王門です。

 天保元年(1830)に建立されたもので、国の重要文化財となっています。

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本堂

 本堂は仁王門の先の石段を登ると正面に見えてきます。

 本堂は、昭和43年に建立された近代的な建物です。内陣は296畳の広さがある大きな建物です。本堂右は重要文化財の三重塔です。

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釈迦堂

 釈迦堂は、本堂の西側にありますが、現在の本堂ができるまでの本堂でした。

現在は、釈迦如来をお祀りしていますので、釈迦堂と呼ばれています。安政5年(1858)に建立された建物で、国の重要文化財です。

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光明堂

 光明堂は、本堂や釈迦堂より一段と高い場所にあります。

 元禄14年(1701)に建立された建物で、元々本堂でした。国の重要文化財です。

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平和大塔

平和大塔は、新勝寺の境内の一番奥まった所にあります。奥が平和大塔です。手前の建物は医王殿です。

昭和59年に建立されたものです。内部には、成田山の歴史がわかる展示コーナーや写経場があります。

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白木蓮

 平和大塔の手前にある医王殿の裏側に大きな白木蓮があります。小石川植物園と明治神宮外苑とともに白木蓮の三大銘木の一つに数えられている白木蓮です。

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医王殿の裏側ですので、ほとんどの人が気が付かないと思いますが、暖かい陽気に誘われて花が咲き始めていました。まもなく満開になると思います。

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# by wheatbaku | 2019-03-13 12:18
「江戸の刑罰」について話してきました!

「江戸の刑罰」についてお話してきました!

昨日は、江戸楽アカデミーで「江戸の刑罰~お白州からお咎めまで~」というタイトルの講座で、江戸時代の刑罰について話をしてきました。

 江戸時代は、磔や獄門などの残虐な刑罰が行なわれていたことはよく知られていますし、刑罰というテーマ自体が堅いものですから、受講していただく人はあまり多くないのでないかと思っていましたが、意外と受講者が多かったので、驚くとともに大変うれしく思いました。

 また、受講者の皆様には、大変熱心に聞いていただきました。

 受講していただいた皆様、ありがとうございました。

 

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江戸での犯罪捜査や犯人逮捕の中心となったのは、三廻りと総称される「定廻り」「臨時廻り」「隠密廻り」ですが、昨日の講義では、まず、この人たちの説明から始めて、逮捕から判決までのプロセスについて話をさせていただきました。
 死刑判決の言い渡しは、町奉行ではなく、小伝馬町牢屋敷で与力が行なっていたことを説明しましたが、そのことに多くの人が驚いていました。 

 江戸時代には死刑は6種類ありました。軽いものから①下手人(げしゅにん)、②死罪(しざい)、③火罪(かざい)、④獄門(ごくもん) 、⑤磔(はりつけ)、⑥鋸挽き(のこぎりびき)の6種類となります。

江戸時代の刑罰は、これら死刑と追放刑を中心とした体系となっていましたが、この部分は、かなりの時間をとって、個別に詳しく説明させていただきましたが、皆さん、非常に熱心に聞いていただきました。

 受講された皆様は、全員、江戸検を受検される人たちでしたので、講義のなかでは、江戸検1級の過去問についても触れさせていただきました。

 江戸の刑罰に関係する1級の過去問の中には、超難問だというものがありますが、この超難問をたやすく解いた人がいて、熱心な勉強ぶりには大変驚きました。

 講義終了後は、懇親会を開催させていただきました。10人以上の参加者の皆さんに自己紹介をお願いしながら懇親を深めましたが、皆さん、江戸検とのかかわりや今年の江戸検への意気込み等が語られ、楽しいひと時となりました。

 懇親会までご参加いただいた皆様ありがとうございました。





# by wheatbaku | 2019-03-10 13:00 | 江戸講座
塙保己一の生涯(渋谷散歩⑩) 

塙保己一の生涯(渋谷散歩⑩) 

塙保己一史料館は塙保己一の業績を顕彰する役割も持っているようです。

史料館の玄関先には、塙保己一の銅像が設置されています。(下写真)

そこで、今日は、塙保己一の生涯を簡単に書いておきます。

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 塙保己一は、江戸時代中期の延享3年(1746)5月5日、武蔵国児玉郡保木野村(現在、埼玉県本庄市児玉町)に、父荻野宇兵衛、母きよの長男として生まれました。生まれつき丈夫な方ではなく、7歳の時、肝の病がもとで失明しました。

 宝暦10年(1760)、15歳の時に江戸に出て、雨富須賀一検校の門人となり、鍼・灸・按摩、琴・三味線などの手ほどきを受けました。

しかし、いっこうに上達せず、一年たった時、絶望から自殺を決意しました。しかし、直前に思いとどまり、当初よりの大願である学問をしたい旨を雨富検校に打ち明けました。

雨富検校は、保己一の願いを許してくれました。それから保己一は一心に学問に打ちこみ、それにつれ、按摩の腕も上がり、18歳で衆分という位にあがりました。この時に、生まれ故郷の保木野村から保木一と名のりました。

安永4年(1775)に勾当に進んだのを機に、師匠雨富検校の苗字をもらい塙姓を名乗り、名も保己一と改めました。本名の荻野を名のらず塙を名のったのは、当時、名古屋に平家琵琶の名人荻野智一という検校がいたため、荻野が名乗れなかったという事情があります。

保己一は、中国の文選という書物に「己を保ちて百年を安んず」という言葉あり、それからとったと言われています。

安永8年(1779)34歳の時、『群書類従』の編纂をはじめました。この事業によってわが国の貴重書が散逸から免れさすこととなりました。

 寛政5年、国史・律令の研究機関としての「和学講談所」の設立を幕府に願い出て許され、後に。林大学頭(述斎)の支配下におかれ、講談所は幕府の官学に準ずる機関となりました。

 生涯をかけた『群書類従』は文政2年(1817)、72歳の時に完成しました。

文政4年(1819)2月には、盲人の最高位である総検校となりました。総検校に就任したものの就任後まもなくの文政4年9月12日になくなりました。享年76歳でした。

お墓は、四谷の愛染院にあります。お墓には「前総検校塙先生之墓」と刻まれています。(下写真)

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塙保己一は、記憶力を養うため、毎日般若心経を100回読経、生涯で220万回読んだとも言われています。

また、現在使われている400字詰めの原稿用紙の形式は、塙保己一が「群書類聚」の出版事業を手掛ける際に考案されたものと言われています。







# by wheatbaku | 2019-02-28 19:42 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
塙保己一史料館(温故学会会館)(渋谷散歩⑨) 

塙保己一史料館(温故学会会館)(渋谷散歩⑨) 

渋谷郷土資料館・文学館からあまり遠くない場所に塙保己一史料館(温故学会会館)があります。

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塙保己一史料館は温故学会が運営しています。温故学会は、塙保己一の業績を顕彰するため、明治42年に渋沢栄一らにより設立された公益社団法人です。

 保己一の精神である温故知新(論語・ふるきをたずねてあたらしきをしる)の趣旨に基づき活動するとともに、重要文化財指定の『群書類従』版木の保管、盲人福祉事業、各種啓発事業に努力しています。

温故学会会館(塙保己一史料館)は、昭和23月に建てられた建物で、会館は、平成124月文化庁より『登録有形文化財』に指定されました。(下写真は建物全景です)

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昭和124月には、三重苦の生涯をおくったヘレン・ケラーが温故学会を訪れています。

ヘレンケラーが訪れて、塙保己一の銅像に触れたという2階の講堂は、現在も当時のまま残こされています。

私たちが訪ねた際に、齊藤代表理事様が、塙保己一についてお話いただいたのが、ヘレンケラーが訪ねた場所だそうです。その話を聞いて大変感激しました。下写真は、講堂で参加者の皆さんにお話される齊藤代表理事様です。

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会館の倉庫には国重要文化財に指定されている「群書類従」の版木が1094枚保管されています。倉庫内は、依頼すれば見させていただけますし、写真撮影も可能です。下写真が倉庫内の様子ですが、両側の棚にぎっしりと積まれているのが板木です。その様子は壮観でした。

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なお、板木が保管されている倉庫は、耐火倉庫ではないため、火の元には大変気をつかっているそうです。

この板木を使用して、現在も印刷が可能だそうです。それを利用した和装本は一冊からでも販売しているそうです。

『群書類従』については、「ブリタニカ国際大百科事典」が大変詳しく書いていますので、「ブリタニカ国際大百科事典」より引用させてもらいます。

日本の古代から江戸時代初期にいたるまでの古書を集大成した叢書。編者は塙保己一を中心に,子の忠宝 (ただとみ) ,孫の忠韶 (ただつぐ) ,弟子の屋代弘賢 (やしろひろかた),黒川春村。正編は 1270種の文献を 530巻に,続編は 2103種の文献を 1150巻に収め,正続ともに神祇,帝王,補任,系譜,伝,官職,律令,公事,装束,文筆,消息,和歌,連歌,物語,日記,紀行,管絃,蹴鞠,鷹,遊戯,飲食,合戦,武家,釈家,雑の 25部に分れる。正編は安永8 (1779) 年に編纂に着手,文政2 (1819) 年に刊行された。(ブリタニカ国際大百科事典より)



# by wheatbaku | 2019-02-25 19:41 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
薩摩藩下屋敷跡(渋谷散歩⑧)

薩摩藩下屋敷跡(渋谷散歩⑧)

 渋谷博物館・文学館の前あたりには幕末に薩摩藩下屋敷がありました。

 現在は、薩摩藩下屋敷の面影を残すものは「常盤松」の石碑だけです。

 下写真は、「常盤松」の石碑がある場所を写したものです。マンションの1階部分にあります。

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「渋谷区史」によると薩摩藩下屋敷が渋谷に設置された経緯は次のようです。

 薩摩藩下屋敷がある場所は、江戸時代初期の万治元年(1658)に大和柳本藩主織田源十郎秀一が拝領しました。

 その後時代が下がり、江戸時代後期の文化5年に、越後村上藩内藤家の深川清住町にあった下屋敷と相対替で、この屋敷が内藤家の屋敷となりました。

 この土地が、嘉永5年(1852)に相対替で薩摩藩の下屋敷となりました。

 さらに、内藤家の土地の一部は、幕府に上知され三根山藩牧野家を経て大和芝村藩織田家の下屋敷となっていました。薩摩藩島津家はその土地も相対替で入手しました。

 これで合計1万8千坪の広大な屋敷となりました。

 薩摩藩が、ここに下屋敷を構えたのは、芝の屋敷が海岸近くにあるため、外国船が襲撃してきた際には危険にさらされるため、その危険を避けるためでした。

 安政2年(1855)10月2日に、安政江戸地震が起き、三田藩邸、高輪屋敷、桜田屋敷も被害を受けました。一方、渋谷の下屋敷は、被害がほとんどなかったことから、翌日3日に奥はすべて渋谷に移ることになりました。

 その引っ越した奥一同の中に、天璋院(篤姫)もいました。

 天璋院(篤姫)は、家定に輿入れするために三田の藩邸に滞在していましたが、安政大地震に遭遇したため、渋谷の下屋敷に引っ越していました。

 篤姫が輿入れしたのは、安政江戸地震が起きてから、約1年後の安政3年11月11日のことでした。

 篤姫の輿入れの様子は宮尾登美子著「天璋院(篤姫)」には次のように描かれています。

『安政3年11月11日、その朝、これがおそらく見納めであろうと思われる、天球儀のある表書院で斉彬と篤姫は親子別れの盃ごとを執り行なった。

 女子一たび嫁しては再び帰らずという古訓にのっとり、熨斗はすべて結び切り、二度と同じ動作を繰返さず、そして次の間に下って将軍名代で御台所お迎えの役、大奥総取締滝山との挨拶が交わされたのち、いよいよ行列は出発となる。

 渋谷村から江戸城お広敷まで、先頭は滝山、続いて近衛家より母親役として下向した老女村岡、介添えの幾島のつぎに篤姫は朱塗鋲打ちの駕寵に乗り、その両脇に近衛家から篤姫付きとなった亀岡、花乃井が付従う。

 当日この道筋にあたる諸大名には通達が出され、篤姫通行並びに諸道具送りが屋敷の前を通過するときには、熨斗目麻上下着用の家来、羽織着用の足軽等、禄高に応じて相当の人数を差出し、見物人を払い、土下座して見送るよう、固く指示があった。

 この行列は陸続と続き、先頭が江戸城へ入ったあとでも、後尾はなお渋谷邸を出発しておらず、早朝から日没まで毎日毎日、人を送ったあとは調度品送りとなって、都合65日間続いたという。』

《常盤松の碑》

 島津家下屋敷には常盤松と呼ばれる銘木がありました。その常盤松があったはことを示す嘉永6年に島津藩士が建立した「常盤松の碑」(下写真)があります。現在では、この常盤松の碑だけが、この辺りが薩摩藩下屋敷であったことを示す唯一の名残りとなってしまいました。

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 常盤松の名前の由来には二説あります。

 一つは源義朝の側室であり義経の母である常盤御前が植えたからという説で、もう一つの説は世田谷城主吉良頼康の側室の常盤が植えたからという説です。

 渋谷金王丸は義朝・頼朝に仕えていたので、源氏と深い関係のある常盤御前がこの地に来て松を植えたということになったのだろうが、最初は常緑の松として常盤の松という名前で呼ばれていたものが、常盤御前の名前が当てられたのではないかと渋谷区史は書いています。

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 常盤松は金一千両と言われたとこの地に伝わっていることから、この松は銘木として評価が高かったようです。

 この常盤松は樹齢400年ほどの巨木でしたが惜しくも太平洋戦争で燃えてしまったそうです。
現在は、後継樹が植えられています。(上写真)

この常盤松にちなんで、昔は、常盤松町という町名がありましたが、現在は、常盤松小学校の名前にその面影が残されています。

  なお、常盤松之の碑設置場所の隣地は常陸宮邸ですが、昭和39年のご成婚以来の住居で、常陸宮邸の前には、皇太子明仁親王(当時)の御殿で、第二次世界大戦前までは東伏見宮邸でした。



# by wheatbaku | 2019-02-22 19:53 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
松崎慊堂宅地跡 (渋谷散歩⑦)

松崎慊堂宅地跡(渋谷散歩⑦)

 今日は渋谷散歩の続きで、松崎慊堂宅地跡をご案内します。 
 前回ご案内した吸江寺の東に、渋谷区郷土博物館・文学館があります。(下写真)

 渋谷区の歴史・民族に関する展示のほか地下1階には渋谷区にゆかりのある作家の作品・資料などの展示がされています。

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 渋谷区郷土博物館・文学館がある場所は、江戸後期の有名な儒学者松崎慊堂(まつざきこうどう)の宅地だった場所です。

松崎慊堂は、熊本の百姓の子に生まれ16歳で江戸に出て、幕府の昌平黌に学びました。32歳のとき掛川藩に招かれ藩政に参画しました。

掛川藩は太田道濯の血を引く太田氏が藩主で、歴代老中など幕府の重職を担ってきた名門でしたが、藩校を新設しようという計画があり、松崎慊堂が招聘されました。掛川藩に仕えながらも、松崎慊堂は、林述斎を補佐して、朝鮮通信使と対応するなど行ない、その評価は大変高かいものでした。

しかし、文化11年(181444歳のときに、息子に跡を譲り隠居し、文化12年から、下渋谷村羽沢に石経山房(せっけいさんぼう)と名付けられた山荘を営み研究と門弟の教育に尽力し、弘化元年(1844)74歳で没しました。

『渋谷区史』によれば、松崎慊堂が亡くなったあと、その屋敷には、杉田玄白の孫杉田成卿が住んでいたこともあるようです。そうしたことは、渋谷郷土博物館・文学館の東側に建てられている渋谷区教育委員会の説明板にも書かれています。(下写真)

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松崎慊堂は、江戸時代後期の大学者として、知る人ぞ知る大学者です。

 その大学者としての松崎慊堂の名声を一層高めているのが、蛮社の獄(渡辺崋山・高野長英ら蘭学者に対する弾圧事件。蛮社とは蛮学社中の略)で逮捕された渡辺崋山の救援のために必死に奔走したことです。

そこで、松崎慊堂と渡辺崋山との関係についても触れてみたいと思います。

〔渡辺崋山救出に尽力した松崎慊堂〕

  渡辺崋山は、田原藩三宅家の海防掛も兼ねた家老でした。当時、海防問題は各藩とも大きな問題であり、特に田原藩は海に接した部分が長く、無視できませんでした。そのため、海防掛を拝命していた渡辺崋山は蘭学に興味を覚えたと言われています。

 渡辺崋山自身は蘭学の知識がなかったため蘭学の知識が深かった高野長英・小関三英らと交わるようになり、渡辺崋山はその蘭学グループのリーダーと目されるようになります。

 これに対して、当時目付であった鳥居耀蔵(のちに南町奉行となり鳥居甲斐守耀蔵と名のったことから「ようかい」とあだ名される)の策略により、政治批判と無人島渡航計画等の嫌疑で、天保10年(1839514日に逮捕されました。

 渡辺崋山逮捕の報に、崋山の知人は大変驚き、救援に尽力する人がいる一方で、崋山から遠ざかっていく人もいました。そうした中で、松崎慊堂は、高齢であるにもかかわらず、すぐに崋山救出に乗り出し、松崎慊堂の友人で渡辺崋山の師でもある佐藤一斎や事件の当事者ともいえる鳥居耀蔵訪ねています。しかし、鳥居耀蔵は告発の張本人ですので、当然良い返事をするはずもなく、佐藤一斎も積極的には動いた形跡はありません。

そうした状況の中で渡辺崋山に対して重罪が下される怖れがあると考えた松崎慊堂は、ついに時の最高実力者である老中水野忠邦に寛大な処置を嘆願した意見書を提出しました。

水野忠邦はこの意見書を熟読したといわれています。

一時は死罪も噂された渡辺崋山に対して出された判決は国許蟄居で、一命を取り留めることができました。渡辺崋山が死をまぬがれたのは、渡辺崋山を心配する人たちの救援活動の結果でしたが、その中心にいたのが松崎慊堂です。

渡辺崋山も松崎慊堂の尽力を知っており、赦免後松崎慊堂にあてた手紙にあわせて白羽二重と秩父絹を贈って深く感謝しています。

こうして助命された渡辺崋山は、地元田原に蟄居していましたが、天保12年(1841)、藩主に迷惑がかかることを怖れ自害しています。
 

赤印が渋谷区郷土博物館・文学館です。 
青印が吸江寺です。







# by wheatbaku | 2019-02-20 16:56 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
文京学院大学の「江戸の仇討ち」講座開講

文京学院大学の「江戸の仇討ち」講座開講

昨日は、文京学院大学生涯学習センター主催の「いざ 尋常に勝負しろ!江戸の仇討ち」の2回目講義があり、江戸の仇討ちについて話してきました。

今回も熱心な受講者の皆様のおかげで気持ちよく講義をさせていただきました。受講いただいた皆様ありがとうございました。下写真が講座の様子です。

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 先週開かれた第1回の講座では江戸三大仇討ちの一つに数えられる伊賀越の仇討ちを中心にお話ししましたが、昨日は、江戸三大仇討ちの一つに数えられる浄瑠璃坂の仇討ちを中心に話しました。

 浄瑠璃坂の仇討ちは、寛文12年(167223日、江戸市ヶ谷の浄瑠璃坂で、父奥平内蔵丞(くらのじょう)を殺害された奥平源八が、敵(かたき)の奥平隼人を討ち果たした事件です。約30年後に起きた赤穂浪士の討入りのモデルともなったともいわれる仇討ちです。

 事件の発端から仇討ち成就そしてその後の展開までお話ししました。

 浄瑠璃坂は、あまり知られていない坂ですので、どこにあるか写真と地図を示しながら解説しました。浄瑠璃坂の場所や雰囲気がよくわかったという感想をいただきました。下写真が現在の浄瑠璃坂です。

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 浄瑠璃坂の仇討ちの後は、仇討ちに53年間かかったともせ母子の仇討ち、護持院が原の仇討ち、最後の仇討と呼ばれる臼井六郎の仇討ちなどの有名な仇討ちを説明させていただきました。

 

 昨日は、天気もよく、最高気温も14度まであがりましたので、散歩には支障なかったため、講義の後は、本郷周辺の史跡をご案内しました。 

 追分一里塚跡や老舗の高崎屋、明暦の大火の火元をなった本妙寺の跡、樋口一葉が通った質屋の伊勢屋、菊坂の樋口一葉旧居跡などが主なご案内先です。

 下写真は、樋口一葉が通った伊勢屋の店先に設置された文京区教育委員会の説明板を読む参加者の皆さんです。後ろが伊勢屋です。

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 散歩の後は、本郷三丁目近くの中華屋さんで散歩に参加した皆さんとの懇親会を開き、楽しい時間を過ごしました。

 ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。






# by wheatbaku | 2019-02-17 15:28 | 文京学院大学江戸講座
板倉勝該の刃傷事件(吸江寺② 渋谷散歩⑥)

板倉勝該の刃傷事件(吸江寺② 渋谷散歩⑥)

 今日も、安中藩板倉家の菩提寺の吸江寺をご案内します。

吸江寺の板倉家の墓の前にある線香置きには、大きな家紋が刻まれています。

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 下写真がその拡大写真です。

 この家紋は、九曜巴(くようともえ)と呼ばれる家紋です。

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 この家紋を見間違えたことによっておきた江戸城内でおきた板倉勝該(かつかね)の刃傷事件についてお話します。

9代将軍徳川家重の時代の延享4年(1747年)815日、江戸城内での刃傷事件が起こりました。

その日は、月例拝賀の式日で総登城の日でしたが、熊本藩主細川宗孝が、旗本板倉勝該(かつかね)に殺害されたのです。

板倉勝該(かつかね)は城内で取り押さえられ取り調べが行われました。その結果、細川宗孝は板倉勝清と間違えて殺害されたことが判明しました。

板倉勝清は、安中藩板倉家の3代藩主でした。享保2年(1618)に家督を継いだ後、享保20年には、寺社奉行に就任していました。板倉勝清は、明和4年((1767)に西ノ丸老中となり、3年後は本丸老中に進んでいます。

板倉勝該(かつかね)は、下総国芳賀郡6千石を知行する板倉重浮(しげゆき)の息子として生まれました。

父の板倉重浮(しげゆき)は堀田正休の次男で板倉重大(しげもと)の養子となって板倉家を継いでいました。

板倉家を継いだのは兄の勝丘でしたが、勝丘が延享3年の12月に、亡くなったため、勝該(かつかね)が、あとを継ぎました。

しかし、板倉勝該(かつかね)には、性格的に問題があり、家内を治めていけないと思った安中藩主の板倉勝清が、板倉勝該(かつかね)を廃して、別の人物に後を継がせようとしました。それを知った勝該(かつかね)が勝清に恨みを抱き、勝清を亡きものにしようと斬りつけたと言われています。

 それでは、なぜ板倉勝清でなく、細川宗孝に斬りつけたかですが、それは板倉勝該が、背中にあったその家紋を見間違えて、宗孝に斬りかかったのでした。

 板倉家の家紋「九曜巴」紋が、細川家の家紋「九曜星紋」にそっくりだった事から、この日、背中にあったその家紋を見間違えて、宗孝に斬りかかったのでした。

 板倉勝該(かつかね)は、そのまま水野忠辰(ただとき)に預けられ、8日後の23日に切腹、改易となりました。

一方、細川家宗孝は未だ31歳の若さで、世継ぎもおらず、後継者も未定でした。後継者がいない場合には、改易となるため、その日のうちに、弟の細川重賢(しげかた)を養子に迎え、幕府に届け出ました。そして、翌16日になって、その死亡を届け出ました。

この事件以降、細川家では、それまで使っていた九曜星紋から、少し●の小さめデザインの家紋に変更し、さらに、それまでは、背中に一つ、両胸に二つ、両そでの前側に計5つ紋だったのを、背後からも見えやすいようにと、両そでの後ろ側にも家紋を配置した「7つ紋」の特別な物にしたと言われています。

この細川宗孝の後を継いだ細川重賢は、その後、熊本藩の藩政改革を実施し名君と呼ばれています。



# by wheatbaku | 2019-02-15 18:59 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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