鳥居強右衛門、救援を求めて岡崎に向かう(「どうする家康」69)
「どうする家康」第21回では、武田軍に包囲され窮地に陥った長篠城から岡崎に救援を訴えた鳥居強右衛門の英雄的行動がドラマ的に描かれました。鳥居強右衛門が岡崎に向かい、徳川家康や織田信長に長篠城の窮状を伝え救援をお願いしたことは史実と考えられています。
この鳥居強右衛門の働きは、『寛政重修諸家譜』の奥平信昌について書いた中に触れられていますので、その概略を紹介したいと思います。
『寛政重修諸家譜』は、もともと、大名や旗本諸家の由緒・功績を述べたものです。鳥居強右衛門の子孫は、江戸時代も奥平松平家(幕末は忍藩藩主)に仕えましたが、大名でも旗本でもありません。しかし、鳥居強右衛門の功績が、彼が仕えた奥平信昌(子孫は江戸中期以降は豊前国中津藩主となる)の経歴・功績の中に特記して書かれています。それだけ、鳥居強右衛が長篠城攻防戦で果たした功績が、奥平家にとって大きかったということを如実に表していると私は思いました。
以下、『寛政重修諸家譜』に書かれていることをまとめたものです。
武田軍の包囲を受けて、味方も死傷者が多く、兵粮も少なってきたので、長篠城主の奥平信昌は家臣を集め、徳川家康に援兵を要請にいくように話したが、家臣は、城と一緒に討死したいというばかりで、使いに走ろうという人は一人もいなかった。そうした中、鳥居強右衛門が進みでて、私が岡崎に向かいますと申し出た。そして、信昌の父奥平貞能への書を持って、その夜、約束を決めて城を忍び出て、川に潜り、川をこえて、15日の未明に長篠城の向いの山に合図の狼煙(のろし)を挙げた。鳥居強右衛門は、直ぐに岡崎に走り岡崎に着くと、奥平貞能に面会し、長篠城の窮状を伝えた、奥平貞能は、すぐに鳥居強右衛門を伴い、家康の前に出で言上すると、家康は「織田信長公は、すでに援兵を率いて岡崎到着している。まもなく長篠に向かう予定である。私も今夜出陣するので、お前も、一緒に長篠に付いてこい」と言った。鳥居強右衛門は、その言葉に喜んだが、「この事を一刻も早く奥平信昌に知らせたい」と申しあげ、奥平貞能の返事をもって、一晩中道を急ぎ、16日城外に着いた。そして、敵兵にまぎれて隙をみて城中に這入り込もうしたが、馬場美濃守信房が鳥居強右衛門の脛巾(はばき)の色の違っているのを見咎めて、捕えて、貞能の返事を奪い取って武田勝頼に報告した。勝頼が鳥居強右衛門を糺間して、武田逍遙軒(信廉)を通じて、武田勝頼のいう事すなわち織田軍の援軍はこないのですぐに開城するようにと言えば、罪を許すうえ、厚く恩賞を与えると説得した。鳥居強右衛門は、本心を隠してこれを承諾した。そこで、武田方は、兵士に護らせて長篠城近くに向かわせた。鳥居強右衛門は、城に向って大声で、「織田信長公は上様と一緒に救援に向かっている、あと数日で到着するので、その間は堅固に城を守って欲しい。これが今生の別れだ」と叫んだ。すると、驚いた武田軍は、鳥居強右衛門が、言い終わらないうちに、鎗をつきあげて、柵の前で鳥居強右衛門を磔にした。
以上が『寛政重修諸家譜』に書かれた鳥居強右衛門の功績ですが、亀姫とのやりとりは全く書かれていませんので、「どうする家康」で描かれていた亀姫とのやりとりや亀姫の気持ちの変化は、「どうする家康」での創作だと思われます。しかし、ドラマとして面白かったように思います。
なお、『寛政重修諸家譜』では、鳥居強右衛門が信長に会えたとは書いてありませんが、天正6年に地元の乗本村の阿部四郎兵衛が書いたという長篠合戦記である「長篠日記」には、鳥居強右衛門が信長に会って長篠城の窮状を申し上げたことが記録されています。(丸山彭著「烈士鳥居強右衛門とその子孫」p168より)
さて、『寛政重修諸家譜』の原文は国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができます(ご興味のある方は検索してみて下さい)ので、下記に参考に書いておきます。『寛政重修諸家譜』は、もともとは古文ですので、読みやすくするため、一部修正して記載します。なお、鳥居強右衛門は、『寛政重修諸家譜』では「勝商(かつあき)」と諱(いみな)で書かれています。
14日武田勢また渡合(どあい)の門をかこむ。信昌等城を出でて防ぎ、戦い、これを追払う。初めよりの戦いに、敵しばしば利を失いしにより、しばらく合戦をやめて遠巻す。味方もまた討死手負多く、兵粮もまた乏しく4.5日の貯(たくわえ)にすぎず。ここにおいて信昌諸士を集め、これらのことを父貞能が許(もと)につげ、かつ東照宮(徳川家康のこと)の援兵を乞い奉らむとはかる。
家臣奥平次左衛門勝吉は水練達せしにより、これをして使(つかい)たらしめむとすといえども、その出城ののち(城をでたあと)、もし落城に及ばば末代までの恥辱なりとてうけがはず(肯はず、了解しないという意味)。その余の士(さむらい)もあえてこれを諾するものなく、各(それぞれ)言葉をおなじうして、とてもこの囲を出むこと叶い難かるべし。もし又逃れ出むにも、事すでに急なり、後詰(ごづめ:救援)遅滞に及ばば、運を開きがたかるべし。突(つい)て出て、こころよく討死せむには如(し)かじと答う。
信昌やむこと得ずして、しからば某(それがし)ひとり腹切て諸卒を助くべしという。この時、家臣鳥居強右衛門勝商すすみ出で、某(それがし)罷(まか)り向かわんとて、すなわち貞能(信昌の父)に贈るところの書を齎し、この夜、約を定めて城をしのび出で、潜に滝川をこえ、15日の未明に長篠城の向いの山に相図(あいず)の狼煙(のろし)をあぐ。
これよりただちに岡崎に馳参じ、貞能にまみえて城中のことをつぐ。貞能すなわち(鳥居強右衛門)勝商を伴い、御前に出で言上せしかば、織田右府(信長)すでに援兵の事を諾し、当地に到着あり、不日に(ふじつ:すぐに)長篠に向かわべし、我もまた今宵出陣すべきあひだ、従い参るべしと仰(おうせ)出さる、(鳥居強右衛門)勝商よろこび領掌(了承)す。「しかれども、この事、速(すみやか)に信昌にしらせ申たし」とて、貞能が返状を持、よもすがら道をいそぎ、16日城外にいたり、敵の仕寄(※城を攻める際に防衛や攻撃のために用いる竹などの大きな束)の者にまぎれ、竹東を持ち、隙を伺いて城中に馳入むとす。馬場美濃守信房、(鳥居強右衛門)勝商が脛巾(はばき)の色の異なるを見咎め、これを捕え、貞能が返状を奪い取り、そのよしを勝頼につぐ。勝頼これを糺問し、武田逍遙軒(信廉)をして諭(さと)さしめていはく、汝我ことばに従わば、死を免るるのみにあらす、厚く賞を行うべし。城下にいたりて親しき者を呼出し、信長所々の軍事に暇あらずして援兵の事を肯(うけがわ)ず。故に速やかに城を避(さけ)よというべしと、(鳥居強右衛門)勝商偽りて諾す。ここにおいて、勇士十余人を添えて城下に至らしむ。(鳥居強右衛門)勝商城に向って大に呼わりて曰(いわ)く、織田右府(信長)、吾君とともに、当城の後詰として御発向あらむこと両三日を過ぐべからず、その間は堅固に城を守りて、あえて怖ることなかれ、此言今生の別れなりと、いまだ言いも終らざるに、衆兵鎗を把(とっ)てつきあげて、柵の前に磔(はりつけ)にす。