広尾稲荷神社(広尾・恵比寿史跡巡り⑪)

広尾稲荷神社(広尾・恵比寿史跡巡り⑪)

東京メトロ広尾駅の1番出口から徒歩2分の至距離に、広尾稲荷神社があります。

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広尾稲荷神社は、慶長年間に徳川秀忠が鷹狩りの際に稲荷社を勧請したと伝えられています。

富士見稲荷も合祀しているように書いたものもありますが、広尾稲荷神社の由緒書きには、富士見稲荷は広尾稲荷とは別物であると書いてあります。

広尾稲荷神社は、弘化2年11月に起きた火事により焼失し、弘化4年に再建されました。

しかし、この時に再建された土蔵造りの本殿は、大正12年に起きた関東大震災で大変壊れたため、大正14年に木造で再建されました。

一方で拝殿は関東大震災で壊れることがなく、現在も弘化4年築造のものが残されています。(下写真)

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広尾稲荷神社の拝殿の天井に墨絵の龍が描かれています。(下写真)

この墨絵の龍は、近代洋画の父とも呼ばれる高橋由一が描いたものです。

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高橋由一は、江戸の下野国佐野藩邸内に生まれ、之助(いのすけ)と名乗っていましたが、明治維新後に由一と改めました。

はじめ狩野派を学びますが、洋画法を志して、文久2年蕃書調所画学局に入り、川上冬崖の指導を受けました。

その後、横浜居留地のワーグマンや貿易商ショイヤー夫人にも指導を受けました。代表作に「花魁(おいらん)」「鮭」などがあります。

この墨絵の龍は、弘化4年に拝殿が建築された際に描かれたものと考えられていますので、高橋由一が狩野派の技法を学び、その画法によって水墨画を描いていた時期のものです。

その証拠に絵の中には、「藍川藤原孝経拝画」の著名と「藍川」の印章が見られます。(下写真参照)

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高橋由一のお墓は、祥雲寺境内内にある香林院の山門の東側にあります。

小さな四角い形の墓石で、表面に「喝」と刻まれています。

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赤印が広尾稲荷神社です。





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# by wheatbaku | 2018-06-22 18:18 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 | Trackback
狭山藩北条家のお墓〔祥雲寺に眠る有名人⑦〕(広尾・恵比寿史跡巡り⑩)

狭山藩北条家のお墓〔祥雲寺に眠る有名人⑦〕
(広尾・恵比寿史跡巡り⑩)

祥雲寺には、これまで紹介してきた有名人のお墓のほか、狭山藩北条家、飯田藩堀家、郡上藩森家、小野藩一柳家、岡部藩安部家など大名家の墓地があります。

 その中で、今日は河内国狭山藩北条家のお墓をご案内して、祥雲寺についての記事を終わりにします。

 河内国狭山藩北条家の墓所は、以前は広大だったそうですが、現在は庫裏の手前の木立の中に、2代藩主北条氏信のお墓が一基だけあります。

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河内国狭山藩北条家は、戦国大名の小田原北条氏の血を引き継ぐ大名家です。

豊臣秀吉が、小田原の北條氏を攻め、時の当主北条氏直が降伏した際、父の北条氏政は切腹を命じられました。
 しかし、北条氏直は、命は助けられ、高野山に上るよう命じられました。

この時、狭山藩北条家の藩祖となる北条氏盛も一緒に高野山に上るように命じられました。

狭山藩藩祖の北条氏規は、北条氏康の五男です。従って、北条氏直にとっては叔父ということになります。

豊臣秀吉の北條攻めの際には伊豆国韮山城主でしたが、徳川家康の勧告を容れて開城しました。

北条氏直に従って高野山に入った後、豊臣秀吉から河内国内に所領を与えられました。

江戸時代になって嫡男の氏盛が11,000石の大名となりました。

そして、氏盛の長男の北条氏信が、元和2年(1616)、狭山の地に陣屋を営なみ狭山藩を立藩しました

この北条氏信の墓が、祥雲寺の庫裏の前に残っているのです。

北条氏信は、河内国狭山藩の第2代藩主で、初代藩主北条氏盛の長男、藩祖の北条氏規の孫です。わずか8歳で家督を継ぎ、25歳の若さで死去しました。 

法号は龍興院です。


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# by wheatbaku | 2018-06-21 19:24 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 | Trackback
荒井郁之助のお墓〔祥雲寺に眠る有名人 〕(広尾・恵比寿史跡巡り⑨)

荒井郁之助のお墓〔祥雲寺に眠る有名人⑥〕
(広尾・恵比寿史跡巡り⑨)

 祥雲寺に眠る有名人、今日は荒井郁之介について書きます。

 荒井郁之介を知っている人は少ないかもしれませんが、幕末・維新にかけて活躍した人物で、幕末は主に海軍畑で活躍し、明治になってからは、開拓使や内務省で活躍した人物です。

 荒井郁之介のお墓は、祥雲寺の一段と高くなった墓域にあります。


 黒田長政のお墓の東側を通って石段を登った先にあります。(下写真)

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荒井郁之介は、江戸に生まれ、昌平黌に学んだ後。幕府の軍艦操練所頭取を勤めた後、海軍を離れ、講武所取締役、歩兵頭を歴任します。

その後、慶応3年(1867)に海軍奉行となり、海軍に戻りました。

江戸城開城後は、新政府軍への恭順を拒否した海軍副総裁の榎本武揚とともに品川沖を脱走しました。

この時、荒井郁之介は、榎本艦隊の指揮官として箱館に向かいました。

箱館占領後の榎本政権では海軍奉行に選出されました。

新政府軍に渡った甲鉄艦を奪取するために計画された宮古湾海戦では、司令官として回天に乗り込み、宮古湾に突入しましたが、この作戦は失敗に終わり、回天艦長の甲賀源吾が戦死するという結果となりました。

明治2年5月15日に五稜郭が開城され箱館戦争に敗れた後は、東京で獄に下りました。

明治5年に許されて開拓使出仕となり、北海道測量などにあたりました。

明治9年に開拓使を辞任したものの、翌年には、内務省地理局に出仕し、測量業務に携わりました。

そして、明治23年中央気象台が独立するとその初代台長となりました。

メートル法を早い時期に取り入れたことでも知られています。

祥雲寺の入口に「荒井君碑」が建てられていますが、気が付く人は少ないのではないでしょうか。

荒井郁之介の篆額は徳川宗家16代の徳川家達が書いたもので、碑文には荒井郁之介の業績が書かれています。大正4年に建てられたものです。

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# by wheatbaku | 2018-06-20 20:12 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 | Trackback
岡本玄冶〔祥雲寺に眠る有名人⑤〕(広尾・恵比寿史跡巡り⑧)

岡本玄冶〔祥雲寺に眠る有名人⑤〕(広尾・恵比寿史跡巡り⑧)

祥雲寺に眠る有名人、曲直瀬玄朔に続いて、その弟子の岡本玄冶も祥雲寺に眠っていますので、今日は岡本玄冶のお墓を紹介します。

 岡本玄冶のお墓は、祥雲寺の墓地の一段と高くなった場所の一番奥にあります。入口には扉がついていますし、「史跡岡本玄冶法印之墓」と刻んだ石柱もあるので、見つけるのは比較的容易だと思います。下写真の中央が岡本玄冶のお墓です。

 

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岡本玄冶は、江戸時代前期に活躍した医者です。

初名は宗什といい、のち諸品と改めました。玄冶という名前が有名ですが玄冶は通称です。

京都に生まれ、曲直瀬玄朔の学塾で医学を学んで、玄朔門下第一の高弟と称され、玄朔の3女と結婚しています。

元和9年(1623)に将軍徳川秀忠の侍医となり、それ以後、隔年に江戸に下ることとなり、のち江戸に定住しました。

元和9年(1623)に、岡本玄冶は日本橋人形町に屋敷を拝領しています。

寛永5年(1628)法印に進み、初代道三の院号の啓迪院を賜りました。

岡本玄冶の墓標には、この「啓迪院」が刻まれています。(下写真)

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徳川家光も、岡本玄冶を重用して、寛永10年と寛永14年には将軍家光の病を直し、1000石の領地を得ました。

正保2年4月20日、59歳で亡くなりました。

元和9年(1623)に岡本玄冶が拝領した日本橋人形町の屋敷は、この屋敷は町人への貸家とされ「玄冶店(げんやだな)」と呼ばれました。

寛保沽券図によると1500坪の広さがあった大きな御屋敷でした。

この屋敷には、岡本玄冶以降9代にわたり子孫が明治まで住んでいたそうです。

幕末に大当たりをとった歌舞伎「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」の舞台「源氏店」は、玄冶店をモデルに考えられたものです。

日本橋の人形町の交差点角には、中央区教育委員会が設置した「玄冶店」の説明板があります。(下写真)

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# by wheatbaku | 2018-06-19 10:36 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 | Trackback
曲直瀬玄朔(2代目道三)〔祥雲寺に眠る有名人③〕(広尾・恵比寿史跡巡り⑥)

曲直瀬玄朔(2代目道三)〔祥雲寺に眠る有名人③〕

(広尾・恵比寿史跡巡り⑥)

祥雲寺に眠る有名人ですが、今日は、曲直瀬玄朔のお墓をご案内します。

 曲直瀬玄朔のお墓は、祥雲寺の墓地のほぼ中央にあり、墓地の真ん中を通る道の南側にあります。下写真の右側2番目が曲直瀬玄朔のお墓です。

 

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曲直瀬玄朔は、安土桃山時代から江戸前期に活躍した医者で、名は正紹(まさつぐ)、通称は玄朔のち2代目道三を襲名しました。院号は延命院、延寿院といいました。

曲直瀬玄朔は、初代曲直瀬道三の妹の子として京都に生まれ、幼くして両親を失い曲直瀬道三に養育され、道三の孫娘を娶って、道三の養子となり、曲直瀬家を継ぎました。

天正14年に法眼から法印に進み延命院の号を賜りました。のちに慶長2年に延寿院と改めました。

関白豊臣秀次の診療にも当たりましたが、豊臣秀次切腹に連座して常陸国に流され、佐竹義宣に預けられました。

まもなく、後陽成天皇が病に倒れましたが、他のどの医師の手当も効果がないため、赦免されて帰京し、後陽成天皇の病気の治療にあたり、病気を治癒し、恩賞を賜りました。

幕府が開かれた後は、徳川家康や秀忠に仕え、慶長13年に徳川秀忠の治療のため江戸に招かれ、それ以後は隔年に江戸に下ることとなり、江戸屋敷と麻布に薬園地を与えられました。

江戸で没し、祥雲寺に葬られました。お墓は生前に建てたため、逆修と刻まれています。

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曲直瀬玄朔が江戸に与えられた屋敷は、「武州豊島江戸庄図」を見ると、「延寿院、道三」と書かれていて、現在の大手町付近にあることが確認できます。

曲直瀬玄朔が江戸に与えられた屋敷の北側にある堀は、曲直瀬玄朔が2代目道三を名のっていたことから道三堀と呼ばれるようになったといいます。

また、道三堀に架かっていた道三橋の架橋については、曲直瀬玄朔(道三)が、ある時、江戸城から呼ばれてから登城した際に遅れて、御咎めがあった時、「自分は堀をぐるっと廻ってきたので遅れました」と答えたところ、それならば堀に橋を架けよということになって、新たに橋が架けられ道三橋ができたという逸話が残されています。

「武州豊島江戸庄図」を見ると、確かに、曲直瀬玄朔(道三)の屋敷の目の前に、橋が架けられています。


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# by wheatbaku | 2018-06-18 11:50 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 | Trackback
大給恒の墓〔祥雲寺に眠る有名人③〕(広尾・恵比寿史跡巡り⑤)

大給恒の墓〔祥雲寺に眠る有名人③〕
(広尾・恵比寿史跡巡り⑤)

祥雲寺に眠る有名人ですが、今日は、大給恒について書いていきます。

 大給恒は、奥殿藩松平(大給)8代目で、幕府時代には、松平乗謨(のりかた)と名乗っていて、明治になって大給恒と改名しました。

大給恒は、若い頃から有能で、幕府の要職を歴任し、明治になっても明治新政府で活躍し人物です。

 大給恒のお墓は、祥雲寺の墓域の上の台にありますが、菩提寺は、祥雲寺の塔頭であった香林院です。

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 香林院は、祥雲寺の東側にあり、奥殿(おくどの)藩松平(大給)家の菩提寺として、寛文5年(1665)に建立されました。

開基は旗本松平(大給)真次で、その法名から寺号を香林院としました。

 大給松平氏は、松平一門として徳川家康に仕え、松平真次の子供乗次の代に1万石の大名となりました。

香林院の山門脇に大給恒についての渋谷区教育委員会の説明板が設置されています。(下写真)

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大給恒(ゆずる)は、幕府時代には、大番頭から若年寄となり、陸軍奉行、老中格陸軍総裁を歴任しました。

文久3年には、信濃国田野口に陣屋を移し、田野口藩(のち龍岡藩に改称)と呼ばれました。

龍岡城(現長野県佐久郡臼田町。国指定史跡)は、大給恒が造った江戸時代の最後の城郭で、函館の五稜郭と同じような星形をした洋式の城です。

 大給恒の初名は松平乗謨(のりかた)ですが、明治維新後に姓を祖先の旧領地の名に因んで大給恒と改めました。

明治新政府の要職に就き、明治28年には、賞勲局総裁となり、日本の勲章制度の礎を築くとともに、大給恒が考案した勲章のデザインは現在も使われているそうです。

また、明治10年(1877)に起きた西南戦争の際、佐野常民たちと日本赤十字社の前身である博愛社を創設し、佐野常民とともに初代副総長となり、日本赤十字社の基礎を築きました。明治4316日死去しました。72歳でした。

 大給恒の墓は、祥雲寺の墓地にあり、大きな墓碑には「枢密院顧問官 正二位勲一等 伯爵 大給恒墓 明治四十三年一月六日甍」と刻まれています。(下写真)

 

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# by wheatbaku | 2018-06-16 22:07 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 | Trackback
久留米藩有馬家のお墓〔祥雲寺に眠る有名人②〕(広尾・恵比寿史跡巡り⑤)

久留米藩有馬家のお墓〔祥雲寺に眠る有名人②〕
(広尾・恵比寿史跡巡り④)

 祥雲寺に眠る大名家で、黒田家に次いで大きな大名は、久留米藩有馬家です。

 現在は、祥雲寺の北側の一段と高くなった台地上の西側奥にありますが、戦後まもなくまでは、本堂の西側に、約1千坪もの広さがある大きな墓所でした。

 多分、黒田家と並ぶくらいの広さだったのではないでしょうか。

久留米藩有馬家のお墓

 久留米藩有馬家の藩祖は有馬豊氏で、大坂夏の陣の戦功で久留米藩21万石を与えられました。

 有馬家の墓域は、祥雲寺の本堂の西側の広大な地域(約千坪)を占めていましたが、昭和29年の本堂火災の後、歴代のお墓を改葬し墓域を開放しました。その際に、連姫のお墓を残し、これを累代の墓としました。(下写真)

 有馬豊氏の正室は、徳川家康の養女(松平康直の娘)連姫です。

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 久留米藩有馬家の墓地は改葬されていて合葬墓となっているため、個別のお墓はありませんが、久留米藩出身の主な有名人について書いておきます。

☆有馬頼徸(よりゆき)

大名の数学者として有名。数学を山路主住(ぬしずみ)に習い、関孝和、建部賢弘たちの業績をまとめ、しかも自分の工夫も含めて多くの著書を著す。刊行されたのは『拾璣算法(しゅうきさんぽう)』(1769)だけであるが、点竄(てんざん)のよい教科書として大いに歓迎された。巻末に、弧の長さに関する三つの無限級数(円理)の公式を示した。藤田貞資(さだすけ)・嘉言(かげん)父子のほか多くの数学者を家臣にして庇護した。関流が他の流派より評判を高くしたのは有馬頼徸の援助によるところが大きい。久留米に生まれ、久留米で死去。

☆有馬頼寧(よりやす)

旧久留米藩主有馬家の当主、東大卒業後、母校東京帝大の助教授をへて,大正13年衆議院議員、昭和4年貴族院議員となり、昭和12年第1次近衛内閣の農相、昭和15年大政翼賛会事務総長となる。A級戦犯として収容されたが不起訴。戦後は中央競馬会理事長となり,競馬の「有馬記念」は有馬頼寧にちなんだもの。昭和32110日死去。72

有馬家墓地内に、有馬頼寧の顕彰碑「頼寧公遺徳碑」が建てられています。(下写真)

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☆有馬頼義(よりちか)

小説家。東京の生まれ。頼寧(よりやす)の子。1954年『終身未決囚』で直木賞を受賞。その後『四万人の目撃者』などで、松本清張と並んで戦後の推理小説ブームの一翼を担う。映画「兵隊やくざ」シリーズの原作者としても知られる。昭和55415日死去。62歳。

有馬家の墓地が改葬された経緯を書いた碑が墓所の入口に建てられていますが、これは有馬頼義が建てたものです。(下写真)

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吹上藩有馬家
 久留米藩有馬家は大大名ですが、分家は一つだけです。

 それが吹上藩有馬家です。

 吹上藩有馬家の墓地も祥雲寺にあります。(下写真)

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吹上藩は江戸時代に下野国都賀郡吹上(現在の栃木市吹上)に陣屋を置いた藩で、初代藩主は、8代将軍徳川吉宗の御側御用取次を勤めた有馬氏倫(うじのり)です。

吹上藩有馬家は、久留米藩初代藩主の有馬豊氏の三男である頼次を祖とし、頼次の養子の吉政以来紀州藩に仕えていました。

吹上藩有馬家は、久留米藩初代藩主の有馬豊氏の三男である頼次を祖とし、頼次の養子の吉政以来紀州藩に仕えていました。

有馬氏倫は徳川吉宗が紀州藩主から将軍になった際に、幕臣となり、享保の改革に大きな役割を果たしました。有馬氏倫は切れ者できつい性格であったといいます。

当初陣屋は、上総国五井にありましたが、後に吹上に陣屋を移して吹上藩と呼ばれました。



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# by wheatbaku | 2018-06-15 15:56 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 | Trackback
黒田長政のお墓〔祥雲寺に眠る有名人①〕(広尾・恵比寿史跡巡り④)

黒田長政のお墓〔祥雲寺に眠る有名人①〕
(広尾・恵比寿史跡巡り④)

広尾の祥雲寺は江戸時代後期には大名19家の菩提寺であったことから、現在も多くの大名や有名人のお墓が残されています。

 そこで、今日から、祥雲寺の有名人のお墓を順にご案内します。

 祥雲寺で、もっとも有名なのが黒田長政のお墓です。そこで、まず、最初に黒田長政をはじめ黒田家ゆかりの人々のお墓をご案内します。

《黒田長政のお墓》

祥雲寺で、もっとも有名なのが渋谷区の史跡に指定されている黒田長政のお墓です。

 黒田長政のお墓は、大きな覆いがかけられたお墓は5メートルほどの大きなものです。(下写真)

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黒田長政は、安土桃山から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、秀吉の参謀であった黒田官兵衛の子供で秀吉子飼いの武将でした。

しかし、石田三成とは仲が悪いため、関ヶ原の戦いでは、東軍に属して戦い戦功をあげました。そのため、戦後、福岡藩523千石を与えられて福岡藩の初代藩主となりました。

元和9年(1623年)、京都知恩寺で、56歳で死去しました。

黒田長政のお墓の「興雲院殿前大中大夫筑州都督古心道卜大居士」と刻まれた文字には金粉が塗られています。(下写真)

 祥雲寺の墓地には黒田長政の遺骨ではなく、遺髪が埋葬されているそうです。

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《黒田長政の妻子》

長政の前にあるお墓は、右手が、正室の栄姫(大涼院)のお墓です。(下写真)

栄姫は保科正直の娘で、徳川家康の養女となって、黒田長政の正室になりました。大河ドラマ「黒田官兵衛」では、吉本実憂が演じていました。

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 そして、左が黒田長政の長女亀子姫(清光院)のお墓です。(下写真)
 この亀子姫は、姫路藩主池田輝政の六男で赤穂藩主となる池田輝興に嫁ぎます。

しかし、池田輝興は、正保2年(1645年)315日、突如として発狂して、正室をはじめ侍女数人を斬り殺すという騒動を起こしました。殺害された亀子姫はここに埋葬されました。

この事件により赤穂藩池田家は改易となりました。その後に転封されたのが笠間藩主浅野長直でした。この浅野長直の孫が、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭です。

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《福岡藩黒田家の分家直方(のうかた)藩》

直方藩の藩祖は黒田長政の四男高政です。4代で無嗣改易となりました。祥雲寺には初代高政(雲心院)、2代之勝(乾徳院)のお墓があります。

下写真は初代藩主黒田高政のお墓です。

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《福岡藩黒田家の分家秋月藩》

秋月藩の藩祖は黒田長政の三男長興です。

陣屋は筑前国秋月(現在の福岡県朝倉市)にありました。

祥雲寺には、江戸時代に亡くなった秋月藩の全藩主のお墓があります。全藩主とは次の人々です。 初代長興(東陽院)、2代長重(英雲院)、3代長軌(ながのり:興陽院)、4代長貞(興願院)、5代長邦(興徳院)、6代長恵(岱源院)、7代長堅(霊雲院)、8代長舒(ながのぶ;朝暘院)、9代長韶(ながつぐ:龍徳院)、11代長義(太陽院)

下写真は初代藩主黒田長興のお墓です。

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# by wheatbaku | 2018-06-14 14:52 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 | Trackback
祥雲寺(広尾・恵比寿史跡巡り③)

祥雲寺(広尾・恵比寿史跡巡り③)



 祥雲寺は、臨済宗大徳寺派のお寺です。祥雲寺は、東京メトロ広尾駅から徒歩3分の至近距離にあります。

しかし、参道と山門(下写真)は東側にありますので、恵比寿駅方面から行くと境内の周りをまわって山門に向かうことになります。

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祥雲寺は、江戸時代を通じて臨済宗大徳寺派の「触頭」(寺院統制のため寺社奉行からの指示事項を下達し、本山および一般寺院からの上申事項を寺社奉行に届け出る仲介をした寺)でした。

また「独札」(江戸城に登城し将軍に単独謁見でき、乗輿も許される)の格式を誇っていました。
その面影は、現在も残っていて、境内は大変広く、庫裏も緑の中にあります。(下写真)

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祥雲寺は、福岡藩2代藩主の黒田忠之が、父の黒田長政の冥福を祈るために黒田長政が亡くなった元和9年(1623)に創建したお寺です。

 黒田長政は大徳寺の龍岳宗劉和尚を尊敬していたため、龍岳を招いて開山として、赤坂溜池の屋敷に建立し、長政の法名「興雲」をとって龍谷山興雲寺といったのが始まりです。

寛永6年(1629)、麻布市兵衛町(いまの東京メトロ六本木一丁目駅がある周辺)に境内地を拝領し、そこに移り、瑞泉山祥雲寺と寺号を改めました。
この麻布市兵衛町の境内地は、曲直瀬玄朔の屋敷であったようです。

寛文8年(1668)火災に遭い、祥雲寺の境内は御用地になって、かわりに現在地を拝領し移転しました。

 こうした創建の経緯から、祥雲寺は黒田家の菩提寺となっています。

さらに、黒田家だけでなく、そのほか多くの大名家の菩提寺となっていて、渋谷区史に書いてある天保14年の書上では、檀家は武士ばかり64家で、大名の檀家が19家、旗本が33家、諸藩士12家となっているそうです。

《鼠塚》

 墓地入口の右手に見える大きな石碑は、明治32年から数年間ペストが流行したとき、予防のために、東京市は1匹あたり5銭で鼠を買い上げました。

その際に殺された鼠の霊を供養するために明治35年に建てられた慰霊碑です。

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赤印が祥雲寺です。青印は東北寺です。





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# by wheatbaku | 2018-06-13 16:38 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 | Trackback
吉良富子のお墓〔東北寺②〕(広尾・恵比寿散歩②)

吉良富子のお墓〔東北寺②〕(広尾・恵比寿散歩②)

 東北寺の中興開基は、上杉定勝の側室生善院です。

 そのため、東北寺には、中興開基の上杉定勝の側室生善院とその娘である吉良上野介の正室富子のお墓があります。

 そこで、今日は、二人のお墓、さらに佐土原藩島津家のお墓も紹介します。

《上杉定勝正室と吉良富子の墓》

 東北寺の本堂の西側の墓域の中に、上杉定勝の側室生善院と吉良富子のお墓があります。下写真の左が生善院、中央が吉良富子のお墓です。

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上杉家の江戸の菩提寺は白金の興禅寺ですが、生善院は、自信が中興した東北寺に眠っています。

生善院のお墓には中興開基と刻まれています。(下写真)

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 吉良富子は、上杉定勝と生善院の間に上杉綱勝の四女として生まれました。

上杉家時代には三姫と呼ばれていました。

そして、万治元年、吉良上野介に嫁ぎました。

吉良家に嫁いだ後、富子と改名しています。

松の廊下の刃傷事件後、吉良家の屋敷が呉服橋から本所へ移された時、富子は吉良上野介と一緒に本所に行くことをせずに芝白金にあった上杉家下屋敷へ移りました。

元禄15年(17021214日の討ち入りで吉良上野介が死去すると、富子は落飾して梅嶺院と号し、その菩提を弔いました。

そして、吉良富子は吉良上野介がなくなった2年後の宝永元年(170462日には息子の上杉綱憲がなくなり、息子の後を追うようにして、綱憲の死去2ヶ月後の宝永元年88日に上杉家下屋敷で死去しました。

墓碑には戒名は梅嶺院殿清巌栄昌尼大姉と刻まれています。(下写真)

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《佐土原藩島津家の墓地》

東北寺には、島津忠寛を始めとした佐土原藩島津家の一族のお墓もあります。
 佐土原藩島津家のお墓は、本堂の裏側の山腹にあります。

島津忠寛は、日向国佐土原藩の最後の藩主です。

佐土原藩主島津忠徹の次男として江戸三田藩邸に生まれ、父の急逝により12歳で襲封しました。

戊辰戦争では島津忠寛に錦旗節刀が下賜されたそうです。

上野から会津・米沢方面へと転戦し、その戦功で明治2年に賞典禄3万石が給されました。

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# by wheatbaku | 2018-06-12 17:36 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 | Trackback
  

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