岡田啓介首相の記念植樹の槙(まき)〔大宮普門院⑤〕 《小栗上野介ゆかりの地5》
普門院の駐車場と墓地との境に小さな植え込みがあります。その植え込みの中央部に「岡田啓介首相の記念植樹の槙(まき)」があり、手前の本堂側に「徳富蘇峰手植えの松」があります。二本の記念樹は、それぞれ槇と松と言う異なる樹木ですので、間違えることはないと思います。下写真が「岡田啓介首相の記念植樹の槙(まき)」です。

今日は、この二本の記念樹のうち「岡田啓介首相の記念植樹の槙(まき)」をご案内します。「徳富蘇峰手植えの松」については次回ご案内します。
昭和10年6月30日、当時の内閣総理大臣であった岡田啓介が小栗上野介忠順の首塚(当時)をお参りしました。その際に記念に槙(まき)を植樹しました。それが「岡田啓介首相の記念植樹の槙(まき)」です。
下写真が岡田啓介です。(国立国会図書館デジタルコレクション「近代日本人の肖像」より)

岡田啓介は、福井市に生まれ、旧制福井中学(現:福井県立藤島高等学校)を卒業し、海軍兵学校に入学・卒業したあと、日清・日露戦争に従軍し、大正9年(1920) 艦政本部長、大正12年(1923) 海軍次官となり、大正13年(1924)海軍大将に昇進し同年連合艦隊司令長官に就任し、大正15年(1926)に横須賀鎮守府司令長官となり、翌昭和2年(1927)田中義一内閣で海軍大臣となり、さらに昭和7年(1932)斎藤実内閣で海軍大臣を務めました。そして昭和9年(1934)に斎藤実の後を継いで内閣総理大臣となりました。岡田啓介首相は、昭和11年(1936)2月26日におきたいわゆる「二・二六事件」で陸軍反乱部隊に襲われましたが、義弟の松尾伝蔵陸軍大佐が身代わりとなり、九死に一生を得ました。
「岡田啓介首相の記念植樹の槙」の脇には、「岡田啓介首相の展墓と記念植樹(槇)解説」と題した説明板があります。(下写真が説明板)

それには、『海軍の先駆者 小栗上野介忠順正伝』(阿部道山著)の文章を引用して筆記体で次のよう書かれています。なお、タイトルの中にある「展墓」とは墓参りのことです。
「岡田啓介首相の展墓と記念植樹(槇)解説
私の生涯の思い出として、又小栗上野介顕揚についてこれほど忘れがたいことはない。それはかなり難事業の一つである小栗研究がこれがため大きな刺戟ともなり、又世人が現職の顕官が小栗公の展墓をすると云うことだけで小栗の再検討に眼がそそがれるようになったからだ。
昭和十年六月三十日、蒸暑い曇天だ。昨夜から村の駐在巡査は大宮署の刑事と共に警護のため普門院に詰めた。そして私の知り合いのA警官はこう云った。『和尚さん、とうとう本物になりましたね』と。
実はそれほど世人は小栗上野介と云う人物に対しては或る幕末に於ける怪物ぐらいに思っているらしい。そして又何となく、勤王とか志士とかと云うものに反抗でもして斬られた悪人の様に思っていたらしい。まあこれは社会通念上事実であったのだ。それが一躍現職の首相と逓相それに床次大臣は世間では副総理だと称せられていた。その人が揃って来られたのであるから「いよいよ本物になりましたね」と云われるのも無理もないことだと思う。
午前十時半、首相と逓相とは、斉藤知事の案内で普門院に到着した。懇に小栗上野介の展墓を済ませ、書院で小栗公について色々と語られた。そして私を激励してくれた。本堂で上野介の追善法要が勤修された。首相は講演のあと私に云った。「国家的大偉業の人物を悲惨な最期に終らせたことは誤りであった。今日はお詫びにきた訳です。」大きな人物だなあと私は思った。
阿部道山著「小栗上野介正伝」より
平成三年五月吉祥 普門四十三世徳山道誌」
なお、岡田啓介首相は一人だけでお墓参りしたわけではなく、副総理格の逓信大臣床次(とこなみ)竹二郎も一緒にお墓参りをしています。
また、この説明板に書いてある通り、岡田啓介首相は、小栗上野介忠順のお墓参りをした後、普門院の本堂で講演も行っています。その時の内容が『オール読物』に載ったようで、『海軍の先駆者 小栗上野介正伝』に、記録されています。その全文が次です。
「小栗上野介は我が海軍に取って忘れることの出来ない恩人であります。
小栗上野介は万延元年遣米使節の一人として彼の地に渡り、滞在すること数ヶ月、米国の文物を仔細に見学して世界的の見識を得たのでありますが、その後、文久元年、露国軍艦の対州に来って発砲した時には外国奉行として同地に出張、露国艦長と折衝した際、日本の国防は海に在る。どうしても立派な軍艦を造り強力なる海軍を作らなければ、外国と対抗出来ないと痛感したのであります。
元治元年幕府の勘定奉行を兼ねて軍奉行、今でいえば大蔵大臣兼海軍大臣にも相当する要職に就いたのでありますが、日本の国防のために米国から軍艦を買ひ入れました。そして日本海軍を築きあげるには国内で立派な軍艦を造らなければならないという意見から、横須賀に造船所及鉄工所を創設したのであります。
日清の役、日露の役において、如何にこの横須賀造船所が我が日本のために大きな働きを為したかということは今更述べるまでもありません。
当時、幕府の財政は窮乏に瀕し、僅か千両二千両の金にも困っていたのでありますが、上野介は凡庸俗吏の群議を排して、責任を一身に負い、日本将来の国防という見地から、二百四十万ドルの経費を以て横須賀に造船所を建設し、今日の日本海軍の基を築いたのであります。上野介が造船所建設の案を立てたのは元治元年十一月、仏国全権公使ロセスに諮り、横浜在泊の仏国艦隊司令長官ジョーライスの推薦により仏国海軍技師ウエルニーを造船所建設主任として招くことにしたのであります。
そして翌年慶応元年正月ウエル二ーが上海から来着したので直ちに具体案を定め、九月には工事に着手したのであります。
仏国ツーロン造船所にならい、その規模を三分の二に縮め四ケ年計画として工事を急いだのであります。
当時ニ百四十万ドルは今日の數千万円にも当るでありましょうが、 一日もゆるがせにすることの出来ない国家の急務として断行したものであります。幕府の財政は窮乏し、幕府の権威は衰え、幕府の存在は望み少くなった当時にあって、かかる多額の支出を為して、工事を急いだのは、日本国全体のためであり、一徳川氏のためではなかったのであります。
小栗上野介の尽力で出来上った横須賀造船所及び鉄工所は、明治雄新に際し朝延の収むるところとなり 、始めて神奈川裁判所の管轄に属したのでありますが、明治五年十月海軍の所管となり今日に及んでいるのであります。
慶応四年四月、知行地たる上州権田村に隠棲していた時、逆賊の名の下に殺されたのでありますが、去る大正四年、横須賀海軍工廠開設五十年祭の折、上野介が 造船所創立に致したる国家的功績を認めて、鋼像を建てた次第であります。
小栗上野介は我が海軍に取って忘れることの出来ない恩人であります。この恩人の墓を弔(とむら)うと、ずっと以前から必掛けていたのでありますが、今日始めてかねての希望を逹することが出来ました。これで大きな借金をなくしたような気が致すのであります。
(昭和十年六月三十日、埼玉 大宮在日進村大成山普門院に於ける講演::文責在記者) (九月号「オール讀物」掲載)」
以上が、岡田啓介首相の講演内容です。講演としては決して長いものではありませんが、小栗上野介の生涯および功績を端的かつ見事に語った素晴らしい内容だと思います。
私が調べた限りでは、岡田啓介首相がこれほどまでに小栗上野介に思いを寄せる理由について明確に書いたものはありませんでした。しかし、その理由は阿部道山師が書いた『海軍の先駆者 小栗上野介正伝』の序文を読むとわかるような気がします。
そこには、「(前略)私は海軍軍人として感謝に堪えないのは横須賀海軍工廠の紀元である横須賀造船所を万難を排し、巨費を投じて創設せられたことであります。彼は已(すで)に幕末に於て所謂(いわゆる)高度国防施設を断行したといえます。
この点から見ても我海軍建設の祖と謂(い)うも過言ではないのであります。彼は吾が海軍にとりまして忘れることの出来ない恩人であります。(後略)」と書かれています。
岡田啓介首相は、前述の通り艦政本部長や横須賀鎮守府長官を歴任しています。横須賀海軍工廠は横須賀鎮守府に直属している組織であり、海軍艦政本部とは「旧日本海軍の艦船の計画、審査、建造、修理などをつかさどった機関」(「コトバンク」より)で、艦政本部長も横須賀海軍工廠を管理する立場にあります。
こうしたことから横須賀海軍工廠(もとは横須賀造船所)の歴史もよく知る立場にいたことから横須賀造船所の創設に果たした小栗上野介忠順の功績の大きさを熟知していたものと思います。そうしたことから、岡田啓介首相がお墓参りをしたのは、小栗上野介を海軍の恩人と考えていたからだと私には思えます。























