金王八幡宮④渋谷川支流の面影(渋谷散歩④)

金王八幡宮④渋谷川支流の面影(渋谷散歩④)

 前回紹介した金王八幡宮の宝物館の中に、中世の頃の渋谷城の模型が置いてあります。下写真がその模型です。

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 左側の大きな流れが渋谷川です。渋谷川が渋谷城の西側の重要な防御ラインとなっていました。

 渋谷川があることが渋谷城が金王八幡宮の場所に築かれた大きな要因と考えられます。

 

 さらに、模型をみると渋谷城の防御ラインは渋谷川だけでないことがわかります。それは、渋谷城の手前にある小さいな川です。これも渋谷城を護る防御ラインとなっています。

 しかし、現在は、金王八幡宮の神門の前は、アスファルト舗装されていて、小さな川の面影など、まったくありません。(下写真)

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しかし、昭和30年頃まで、門前には小さな川が流れていました。この小さな流れは、「黒鍬谷」と呼ばれる谷間を流れる渋谷川の支流で金王八幡宮の周りを流れてから渋谷川に合流していました。
渋谷城があった頃は、この流れが、渋谷城の掘割としての機能を持っていました。

そして、その川には、太鼓橋が架けられていました。それを写した古写真も残されています。

小さな川に架かっていた太鼓橋の一部が金王八幡宮境内に残されています。

手水舎の手前にある5つの石材がそれです。写真左が手水舎になります。

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 なお、上流の青山学院大学の西側辺りに、江戸時代に「黒鍬者」の屋敷がありましたが、その屋敷の近くにあった谷であるため『黒鍬谷』と呼ばれています。

「黒鍬者」と呼ばれる人たちは、江戸城内の土木工事や建築工事、荷物の運搬などを担当し、将軍の遠出の際にも雑用のためお供する幕府の下級役人です。








# by wheatbaku | 2019-01-17 21:00 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
金王八幡宮③「宝物館」(渋谷散歩③)

金王八幡宮③「宝物館」(渋谷散歩③)

 金王八幡宮の社殿の右手に社務所があり、そこに併設されている宝物館はかなり充実しています。今日は宝物館に展示されているものの中で代表的なものだけを紹介します。

《神輿と鳳輦》

宝物館の中央には、神輿と鳳輦が飾られています。下写真の手前が神輿で奥が鳳輦です。

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金王八幡宮の神輿は、作者は不明なものの鎌倉時代のもので、都内最古の神輿だそうです。この神輿は、江戸時代の初期に、金王八幡宮の氏子であった青山百人組の人たちが鎌倉八幡宮の祭礼に参詣した際、鎌倉から担いできて、金王八幡宮に奉納したものです。この神輿を追ってきた人々は、途中で日が暮れたため神輿を見失ってしまったと言われ、その場所は「暗闇坂」と呼ばれているそうです。

鳳輦は、昭和31年に新調したもので、9月の例大祭には氏子地域を渡御します。

《算額》   

金王八幡宮の宝物殿には三面の算額が展示されています。

算額は数学の問題が書かれた絵馬のことで、江戸時代になってから神社仏閣に奉納されるようになりました。

金王八幡宮の算額は、幕末に奉納されたもので、今でも図形が鮮やかで美しい算額です。金王八幡宮の算額の難易度は高校レベルだそうです。

①嘉永3年(1850)5月に、中渋谷村の海老澤摠右衛門正泰が奉納した数列の問題を出題した算額です。

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②安政6年(1859)4月に、関流の伊予国西條藩の藩士山本庸三郎貴隆が奉納された算額で、問題は3問あります。

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③元治元年(1864)に、関流の野口富太郎貞則が奉納した扇形の算額です。扇形の算額は珍しいものです。

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冲方丁(うぶかたとう)の時代小説「天地明察」に金王八幡宮が登場します。
 「天地明察」は江戸時代の天文学者渋川春海の改暦事業を題材にした小説で、岡田准一主演で映画化もされました。

小説で、渋川春海は金王八幡宮に奉納されている算額を通して、和算家の関孝和を知ることになりますが、金王八幡宮は算額が奉納されることで有名な神社として描かれています。

「天地明察」を機に算額に興味をもった読者が大勢金王八幡宮に参詣するようになったそうですが、渋川春海が金王八幡宮に算額を奉納した記録はないそうです。

《東郷実氏奉納の額》

渋谷氏の子孫は全国各地に広がっていますが、薩摩にも鎌倉時代に渋谷氏が下向し、東郷氏、祁答院氏、鶴田氏、入来院氏、高城氏の一族がいます。有名な東郷平八郎元帥も渋谷氏の子孫の一人です

その東郷平八郎元帥の二男で海軍少将まで昇進した東郷実氏が奉納した額が宝物館に展示されています。

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# by wheatbaku | 2019-01-14 18:11 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
金王八幡宮②「金王丸」(渋谷散歩②)

金王八幡宮②「金王丸」(渋谷散歩②)


渋谷散歩の2回目ですが、今日も金王八幡宮について説明します。

金王八幡宮は、古い昔は単に八幡宮又は渋谷八幡宮と言われていましたが、渋谷金王丸の名声が高いことから、金王八幡宮と呼ばれるようになりました。それでは、金王丸とはどういう人物かからお話します。

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《金王丸》

 金王八幡宮という名前は、渋谷金王丸という人物に由来するものです。

 渋谷金王丸についても諸説がありますが、金王八幡宮の由緒によると次のようです。

渋谷金王丸常光(こんのうまるつねみつ)は、渋谷重家の子です。

渋谷重家には子がなく夫婦で金王八幡宮に祈願を続けていると、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢をみて立派な男子を授かりました。そこで、その子に明王の上下二文字を戴き「金王丸」と名付けました。

金王丸が17歳の時、源義朝に従って保元の乱で手柄を立て、その名を轟かせました。

その後の平治の乱では義朝は敗れ、東国に下る途中立ち寄った尾張国野間であえない最期を遂げました。金王丸は、京に上り常磐御前にこのことを報じたのち渋谷で剃髪し、土佐坊昌俊(しょうしゅん)と称して義朝の御霊を弔いました。

金王丸は、義朝の子である頼朝との交わりも深く、頼朝が挙兵する際は、密かに金王八幡宮に参籠して平家追討の祈願をしました。

 平家滅亡後、源頼朝は源義経に謀反の疑いをかけ、これを討つよう土佐坊昌俊(金王丸)に命じました。土佐坊昌俊は断ることもできず、文治元年(1185)10月、百騎ばかりを率いて京都に上り、同月23日夜義経の館に討ち入りました。しかし、土佐坊昌俊は、はじめから義経を討つ考えはなく、捕らえられて勇将らしい立派な最期を遂げました。

金王丸は、「平治物語」に書かれているだけでなく、土佐坊昌俊として「平家物語」、「源平盛衰記」、「吾妻鏡」などに書かれています。さらに、金王丸のゆかりの地は、全国に広がってありますので、鎌倉時代には、金王丸という人物は、かなり有名人だったと考えられます。

《金王丸御影堂》

金王八幡宮の境内にある金王丸御影堂には、金王丸が17歳で出陣の折、自分の姿を彫刻し母に形見として残した木像が納められています。金王丸の木像は、3月最終土曜日に斎行される金王丸祭で御影堂の開帳があり、特別公開されます。

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《金王桜》  

本殿向かって左手にある金王桜(下写真)は、渋谷区指定天然記念物で、長州緋桜という種類で、雄しべが花弁化したものも交じり、一枝に一重と八重が入り混じって咲く珍しい桜です。

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 金王八幡宮の「社傳記」によれば、文治5年(1189)7月7日 源頼朝が藤原泰衡退治の下向の時、渋谷高重の館に立ち寄り当神社に太刀を奉納しました。その際金王丸御影堂へ参り、父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節を偲び、金王丸の名を後世に残すべしと厳命し、鎌倉亀ヶ谷の館にあった憂忘桜をこの地に移植させ、金王桜と名付けたとされています。

また、江戸時代盛んに作られた地誌にも紹介されており、江戸三名桜の一つに数えられました。金王桜は、現在に至るまで代々実生より育て植え継がれ、守り伝えられています。

なお、傍らには、松尾芭蕉の句碑も建立されています。(下写真)

 しばらくは 花のうえなる 月夜かな

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# by wheatbaku | 2019-01-11 19:58 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
金王八幡宮(渋谷散歩①)

金王八幡宮(渋谷散歩①)


代々木駅からの散歩については、前回で一区切りとして、今日からは昨年9月に行った毎日文化センターの渋谷駅からの江戸散歩で訪れた史跡についてご案内します。

 その時のコースは次のようなコースで、渋谷駅から南西方向の文教地区にある史跡を散歩しました。

渋谷駅 ⇒ 金王八幡宮 ⇒  八幡通り(鎌倉街道跡) ⇒ 國学院大学博物館 ⇒ 吸江寺 ⇒ 塙保己一史料館 ⇒ 渋谷区郷土博物館 ⇒ 常盤松碑(薩摩藩下屋敷跡) ⇒ 並木橋(鎌倉街道跡)⇒ 渋谷駅  


 今日は、まず、金王八幡宮についてご案内します。

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 金王八幡宮は、渋谷駅から徒歩約7分の所にあります。しかし、金王八幡宮は江戸城の方向つまり東側を向いているため、渋谷駅から歩いていくと裏側から入ることになります。上写真が渋谷駅側の鳥居です


金王八幡宮は、渋谷・青山の総鎮守で、金王八幡宮の社殿(下写真)は、慶長17年(1612)の建立された大変歴史のあるものです。

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徳川家光は徳川秀忠とお江(崇源院)の間に生まれましたが、両親の愛情は弟の徳川忠長に注がれて、3代将軍は徳川忠長のほうが有力でした。

そのため、家光の乳母春日局、さらい家光の教育役であった青山伯耆守忠俊は大変心配して、青山伯耆守忠俊は熱心に金王八幡宮に祈願し、春日局は祈願料80両を奉納しました。

その後、春日局の徳川家康への直訴もあり、家光が次期将軍と決ったので、祈願成就の礼として社殿と門が造営されました。青山伯耆守は材木を奉納し、春日局は金100両を寄進しています。

拝殿正面左には虎、右側に獏の彫刻が彫られています。

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金王八幡宮の神門の建立年代は、明確ではありませんが、明和6年(1769)建立と書いた資料もあることから明和6年(1769)建立説と享保元年(1801)に丹波篠山藩青山忠裕から金150両の寄進があり建物が修理されていることから享和元年(1801)に造られたとする二説があります。

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金王八幡宮の御由緒は社伝によると次のようです。

金王八幡宮は平安時代中期の寛治6年(1092)鎮座したとされています。

桓武天皇の曽孫である高望王の後裔で秩父別当平武基は源頼信による平忠常の乱平定において功を立て、軍用八旒の旗を賜り、その内の日月二旒を秩父の妙見山に納め八幡宮と崇め奉りました。

武基の子武綱は、嫡子重家と共に後三年の役の源義家の軍に300騎余を従え1番で参向し、仙北金沢の柵を攻略しました。その大功により名を河崎土佐守基家と賜り武蔵谷盛庄を賜りました。義家は、この勝利は基家の信奉する八幡神の加護なりと、基家が拝持する妙見山の月旗を乞い求め、この地に八幡宮を勧請しました。

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重家の代となり禁裏の賊を退治したことにより堀河天皇より渋谷の姓を賜り、金王八幡宮を中心に館を構え居城としました。これが渋谷の発祥ともいわれ、現在も境内に渋谷城砦の石が保存されています。(下写真)

渋谷氏は代々金王八幡宮を氏族の鎮守と崇めました。

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赤印が金王八幡宮です。





# by wheatbaku | 2019-01-09 20:11 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
福泉寺と斎藤弥九郎の墓(代々木散歩⑦)

福泉寺と斎藤弥九郎の墓(代々木散歩⑦)


 今日は、福泉寺についてご案内します。

 福泉寺は、江戸時代、代々木八幡宮の別当寺でした。

 そのため、福泉寺は代々木八幡宮の参道の東側に接してあり、代々木八幡宮の参道からお参りできます。戦前に建てた本堂が昭和20年の戦災で全焼しため、昭和34年に現在の本堂(下写真)が再建されました。

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福泉寺の創建は、寺伝によれば、源頼家の旗本近藤三郎是茂の家人、荒井外記(げき)智明という武士が、修禅寺事件(1203)以後代々木の地に隠居し、夢の中で神から宝珠のような鏡を感得したので、名を宗友と改め、鶴岡八幡宮を勧請して庵を創建したといいます。

創建以後久しく荒廃していましたが、江戸時代に至り、正保元年(1644)浄土宗より天台宗に改めました。

寛文4(1664)第3世長秀法印(中興開基)のとき、紀州藩徳川頼宣の側室円住院殿の後援を得て、寛文11(1671)より翌12年にかけて、代々木八幡宮と共に、現在の地に移りました

円住院殿は大和添上郡岩掛城主山田政秀の六女と伝えられ元和8(1622)紀伊藩祖徳川家頼宣の側室となり、当寺三世長秀と同族との関係によって、当寺で法要など営んだということです。

福泉寺の墓域には、円住院殿のお墓があります。(下写真)

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円住院の娘松姫は上野吉井藩の始祖となる松平氏に嫁したところから、福泉寺は吉井松平家の崇敬をも得て次第に寺運は隆盛し、「江戸名所図会」所載の如き堂宇が整いました。円住院及び松平家では、仏像、仏具、田畑など多く当寺に寄進し、その存続発展に資するところが多かったといいます。しかし、現在は吉井松平家ゆかりのものは福泉寺には残されていないと御住職がおっしゃっていました。

《斎藤弥九郎のお墓》

斎藤弥九郎のお墓が福泉寺墓所の松の木の下にあります。(下写真の松の木の下の三角形のお墓が斎藤弥九郎のお墓です)

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斎藤弥九郎は、幕末の剣術家で、彼が始めた練兵館は、千葉周作の玄武館,桃井春蔵の士学館とともに幕末江戸3大道場ひとつに数えられました。斎藤弥九郎の名は善道、晩年篤信斎(とくしんさい)と号しました。墓正面には「贈従四位 篤信斎斎藤先生之墓」と刻まれています。(下写真)

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斎藤弥九郎は、越中国(富山県)氷見郡仏生寺村の農家に生まれました。文化9年(1812)志をたてて江戸に出て、旗本能勢祐之丞(のせすけのじょう)の家僕となり、15年神道無念流岡田十松吉利の撃剣館に入門し、初めて剣術を学びました。撃剣館では、江川太郎左衛門,藤田東湖らと親交を結びました。斎藤弥九郎の修業ぶりは目覚ましく、わずか数年の間に先輩たちを凌駕して、代稽古を勤め、岡田十松の没後は、嗣子利章を補佐して道場の経営にあたりました。この間、剣術だけでなく、儒学、馬術、兵学を学び、のちに砲術も学んでいます。同門の江川太郎左衛門英龍と特に親しく、江川太郎左衛門英龍の援助により、29歳で九段坂下俎橋(まないたばし)畔に道場練兵館をおこし独立しました。その後、天保9年(1638)三番町に移しました。現在の靖国神社の境内です。天保6(1835)江川が伊豆韮山の代官になるとその手代として、西洋銃隊調練や品川台場の築造などに当たりました。また、このころ渡辺崋山とも知り合っています。

練兵館には、全国から入門者が集まりましたが、長男の新太郎(2代弥九郎,182888)が萩で長州藩士の剣術指導をしていたことから,練兵館には長州の志士が多く集まり,門下三千余人ともいわれた。当時盛んになってきた竹刀打ち込みの剣術稽古を採用し,門下から桂小五郎,高杉晋作,品川弥二郎らが出ています。

明治維新後、新政府に出仕し、会計官権判事となり、造幣局権判事を務め大坂に在職しました。

それ以前、安政5(1858)開墾地として福泉寺から3375坪の土地を購入し、三番町の道場から月に数回、門下生を連れて来て、自ら指揮をして開墾を行わせ、砲台築造の練習もしました。その後代々木付近一帯に茶園を開き、代々木茶の名をおこしました。

晩年は、隠居場を「代々木山荘」と名付け代々木に移り住みました。

明治41024日没、享年74歳でした。遺言で代々木山荘に葬られますが、のちに小石川昌林院に改葬し、弥九郎の遺志を生かすため、改めて明治38年福泉寺に改葬しました。墓碑には明治40年に建立されたことが刻まれています。

赤印が福泉寺です。青印が代々木八幡宮です。



# by wheatbaku | 2019-01-07 12:18 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
代々木八幡宮(代々木散歩⑥)

代々木八幡宮(代々木散歩⑥)

 今日から仕事始めで、お仕事をされている方が多いと思います。今年も頑張ってください。

 さて、今日は、年末までに書き終わらなかった代々木散歩の続きとして、代々木八幡宮について書きます。

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 代々木八幡宮は、社伝によれば、鎌倉時代の初め建暦2年(1212)に、鎌倉幕府の第2代将軍源頼家の家臣近藤三郎是茂の家来荒井外記智明(ともあきら)によって創建されたとされています。

 荒井外記智明は、源頼家が伊豆の修善寺で暗殺されてから代々木の地に隠棲し、名も宗祐(または宗久)と改めて、日夜亡き主君らの冥福を祈っていましたが、ある夜夢の中で八幡様のお告げを聞き、目がさめると手には宝珠のごとき鏡が残されていました。そこで、代々木の地に小さな祠を建て 鶴岡八幡宮の分霊を勧請したのがはじまりです。

 代々木八幡宮は、小田急線代々木八幡駅北口から3分、東京メトロ千代田線代々木公園駅八幡口からは徒歩4分で、大鳥居に到着します。山手通りからは急な石段を登ることになり、代々木八幡宮が高台にあることが実感されます。

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《稲荷社・天神社・榛名社》

 代々木八幡宮の本殿の東側には、稲荷社、天神社、榛名社があります。

 稲荷社は、紀州家側室の延寿院が守護神としてお祀りしていた稲荷社に明治以降に掘出稲荷を合祀したそうです。

 天神社は、紀州家側室の延寿院が守護神としてお祀りしていたものです。そして、そこに、玉川上水脇にあった銀杏天神社を合祀したものです。

 榛名社は、雨乞いのため、周辺の村などにお祀りされていたものがここ移されたものと考えられています。

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《出世稲荷社》

 三社の隣には、出世稲荷社があります。

 このお稲荷さんは、昭和20年5月25日に代々木周辺が爆撃された際、被害を受けた稲荷社の祠や狐像を集めて、八幡宮の境内に合祀したのが始まりだそうです。

 最近は、出世稲荷と呼ばれ、霊験あらたかなお稲荷さんだとして、地元の人々は篤く信仰していると地元の人が教えてくれました。

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《代々木八幡遺跡》

代々木八幡宮は標高約32メートルの台地上にあり、その境内からは、石器時代の遺物が発見されていました。

 代々木八幡遺跡は、昭和25年の夏國學院大學と地元の上原中学校の生徒によって発掘調査が始まりました。そして、同じ年に渋谷区史編纂委員会が発掘調査を行われました。2回の調査で多くの遺物が出土したうえ、関東ローム層を浅く掘りくぼめた住居と、その中に掘られた柱穴が発見されました。

 ここから加曾利E式土器と呼ばれる土器の種類が多数出土したことから、ここには約4500年まえに人が住んでいたと推定されました。

そして、昭和26年には、國學院大學の樋口清之名誉教授により縄文人の住居が復元され、現在も境内には、竪穴式の古代住居が復元されています。

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《代々木八幡遺跡の出土品陳列館》

 本殿の南西側に、代々木八幡遺跡から出土した品を展示した出土品陳列館があります。(下写真は夕暮れ時の陳列館です)

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出土品陳列館には、代々木八幡遺跡発掘の経過、縄文時代の竪穴住居やそこで暮らす縄文人の男女が復元されています。また、遺跡から出土された土器や石器が展示されています。

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赤印が代々木八幡宮です。






# by wheatbaku | 2019-01-04 18:09 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
新年あけましておめでとうございます。


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 読者の皆様もよい年をお迎えのことと思います。
 今年も、読者の皆様のご支援をバックに少しづつ江戸を深めていきたいと思います。

 江戸検1級に合格した後、江戸の史跡散歩の案内や江戸学講座の講師を勤めさせていただいています。充実した講義にするためには、周到な準備がかかせないと考えて、いろいろ調査してから、本番に臨みますが、その中で、しみじみと感じるのが「江戸は深い」ということです。初めて知ることが次々と出てきます。

 まだまだ、調べることが多いと実感していて、今年も、一歩一歩江戸をきわめていこうと思います。

 そうした中で、知ったことは、順次、このブログでアップしていこうと思います。

 本年も引き続きご愛読いただきますようお願いします。

 さて、今年の書きはじめは、松坂のミニレポートです。
 今年の7月に文京学院大学の生涯学習センターで「江戸の豪商」についてお話します。その調査のため、「豪商のふるさと 松阪」に12月に行ってきました。
 松阪では多くのことを知ることができました。そこで、今日は、松阪について簡単に写真でご紹介します。

 松阪については、いくつかの切り口がありますが、今日は、①本居宣長 ②江戸の豪商 ③松阪城 ④松浦武四郎 に分けて紹介します。

1、本居宣長関連

①本居宣長旧宅跡

 松阪と言えば、本居宣長がまず挙げられると思います。

 本居宣長の旧宅「鈴屋」は松阪城跡にある本居宣長記念館の一画に移築されていますが、その旧宅跡も市街地に残されています。

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②本居宣長記念館 
 松阪城跡にあります。展示されている物は、ほとんどが重要文化財です。
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③本居宣長旧宅「鈴屋」
 本居宣長記念館の一画に移築されたものです。本居宣長の書斎が「鈴屋」と呼ばれ、後に自宅も「鈴屋」と呼ばれるようになりました。書斎の「鈴屋」の中には入れませんが、外部から眺められるようになっています。
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④本居宣長のお墓
 本居宣長のお墓は、樹敬寺にありました。、法名「高岳院石上道啓居士」は本居宣長自身が付けたと言われています。
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2、豪商関係
①三井家発祥の地 
 三井家初代の三井高利の生家跡が三井家発祥の地として整備されています。非公開ですが、三井高利の産湯の井戸などが整備されています。

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②松阪商人の館
 日本橋にあった小津和紙の当主小津清左衛門の旧宅で、現在は、松阪市が「商人の館」として公開しています。
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③旧長谷川邸
 「丹波屋」を屋号とした松阪屈指の豪商長谷川治郎兵衛家の本宅です。長谷川家は、最近まで日本橋で、マルサン長谷川として、事業を継続していました。 現在は、松阪市が所有しています。旧長谷川邸は、国の重要文化財に指定されています。


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3、松阪城関連
①松阪城の石垣
 松阪城は蒲生氏郷が築いた城です。蒲生氏郷の後、3代の大名の居城となりましたが、その後は、松阪は紀州藩領となり、松阪城には城代が置かれました。
 下写真は本居宣長記念館近くの石垣です。見事な石垣でした。
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②松阪城跡の近くにある御城番屋敷
 御城番屋敷は、松坂城を警護する「松坂御城番」の与力の組屋敷です。
 現在も、与力の子孫の人たちが組織した合資会社が屋敷を所有していて、現在も人々に貸し出しているそうです。
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③同心町
 紀州藩の同心や鳥見60人余りが住んでいた役宅の跡で、生け垣が整えられています。御城番屋敷とともに、江戸時代の組屋敷がどんなものか想像させてくれる景色です。
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4、松浦武四郎
①松浦武四郎記念館
「北海道」の名付け親である松浦武四郎は、伊勢国一志郡須川村(現在の松阪市)にう生まれました。そのため、松阪市内に記念館があり、松浦武四郎関連の資料が展示されています。
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②松浦武四郎の生家
 松浦武四郎記念館から徒歩10分の所に、松浦武四郎の生家が残されています。
 家の前の道は、伊勢街道です。松浦家は、元は肥前の水軍の出だそうですが、松浦武四郎の父は庄屋を勤めていたそうです。
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# by wheatbaku | 2019-01-01 18:27
ブログ開設10周年のお礼

ブログ開設10周年のお礼

このブログをお読みいただきありがとうございます。

このブログを開設したのは、20081219日です。

今年が2018年ですので、開設後10が経ちました。

当初は、いつまで続くかわからないままに記事を書き始めましたが、思いがけず10周年を迎えることができました。

 これもこのブログをお読みいただき、新しい記事を待っている読者の皆様の御蔭だと大変感謝しております。

このブログの累計訪問者も昨日で112万人となりました。日々の訪問者も400名~500名で推移しており、私が利用しているエキサイトブログ内でも、訪問者順位が高い方にランクされています。

 このブログの名前を多くの人は「気ままに江戸」と呼んでくれていますが、正式には「気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録」です。

その名前の通り、私が訪ねた史跡や老舗、そして読んだ本の紹介をしようと当初から思っていました。そのため、自分で見たり聞いたり読んだことを記録するという性格から、内容も次第に難しい内容となっていった面は否めません。

それにもかかわらず、史跡案内をする人たちからは、「気ままに江戸」の記事は大変参考になると言われたり、江戸検お題のテーマについてよくわかったなどの感想を寄せられますので、多少難しい内容であっても日々読んでいただいている皆様に本当に感謝しています。

 また、このブログは江戸文化歴史検定の1級合格を支援しようということから、江戸文化歴史検定の「今年のお題」関連の記事も書いてきました。 

そうした中で、私が応援してきて1級に合格した人が、延べ50人を超えました。合格にこのブログも一部役にたったのであればそれに勝る喜びはありません。

 10周年を迎えて、「10周年はゴールではなく通過点である」と改めて感じました。

これからも、随時江戸文化歴史検定関連の記事も書きつつ、東京における江戸史跡を中心に、それこそ{気ままに!}書いていこうと思います。

これからも末永くどうぞよろしくお願いします。

最後になりますが、今年一年間、このブログをお読みいただきありがとうございました。本日のお礼の記事で2018年の書き納めとします。

読者の皆様、良いお年をお迎えください。



# by wheatbaku | 2018-12-30 17:33
「春の小川」(代々木散歩⑤)

「春の小川」(代々木散歩⑤)

代々木散歩、今日は「春の小川」について書いていきます。

「春の小川」といえば、小学生の頃になじんだ童謡です。

春の小川は さらさら行くよ  

岸のすみれや れんげの花に

すがたやさしく 色うつくしく 

咲けよ咲けよと ささやきながら

 この「春の小川」のモデルとなったと言われているのが、代々木を流れていた河骨川(こうほねがわ)です。

《高野辰之住居跡》

「春の小川」を作詞したのは、高野辰之です。

 高野辰之は、長野県豊田村(現中野市)に生まれました。長野師範学校卒業後上京し、後に東京音楽学校(現東京芸大)教授となりました。

 「春の小川」のほか、「春が来た」や」「朧(おぼろ)月夜」「故郷(ふるさと)」など私たちに馴染み深い文部省唱歌を多く作詞しています。

その高野辰之は、現在の代々木3丁目3号に住んでいました。そこの前に道路脇に「高野辰之住居跡」と書かれた標柱が建てられています。

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《春の小川(河骨川)跡》

 春の小川のモデルとなったと言われているのが、渋谷川の支流の河骨川(こうほねがわ)です。黄色のかわいらしい「こうほね」(下写真)が数多く咲いていたので、河骨(こうほね)川と呼ばれました。

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 河骨川は、甲州街道脇の谷間から流れ出し、谷間を南に流れ、小田急線を越えると直角に曲がり、それ以降は小田急線沿いに西に流れて代々木公園駅近くで宇田川と合流します宇田川は、渋谷駅北側で隠田川と合流し渋谷川となります。
下写真の中央が、小田急線沿いを流れていた河骨川跡です。電柱には渋谷区が設置した「春の小川」という表示がされています。

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《「春の小川」歌碑》

 代々木公園西口門近くの小田急線の脇に「春の小川」歌碑があります。碑の説明板には次のように書かれています。(説明板は下写真の左手です。)

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ここはかつて清らかな小川が流れ、黄色のかわいらしい「こうほね」が咲いていたので、河骨(こうほね)川と呼ばれていました。春になると、岸辺にはれんげやすみれが咲く、のどかな所でした。

 明治42年(1909)から代々木山谷(現代々木3丁目3号)に住んでいた国文学者の高野辰之は、このたりの風景を愛して、しばしばこのほとりを散策したといわれています。

そして、今も歌い続けられている『春の小川』を作詩して、大正元年(1912)に発表しました。この詩は、小学唱歌となり、現在に至るまで広く愛唱されています。

 現在、河骨川は暗渠となり、当時のおもかげはありませんが、この詩から明治末ごろの代々木周辺ののどかな様子を知ることができます。

歌碑は、高野辰之の娘の高野弘子さんが揮毫したものです。

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 なお、私たちが知っている春の小川の歌詞は冒頭の歌詞ですが、碑に刻まれている歌詞は、それとは違っていて、次の詩が刻まれています。

春の小川は、さらさら流る    
  岸乃すみれや、れんげの花よ

 にほひめでたく、色うつくしく 
  咲けよ咲けよと、ささやく如く

 高野辰之が書いた歌詞は文語体でしたが、昭和17年に口語体に改められました。そのため、私たちが知っている歌詞と違っている歌詞が、歌碑には刻まれています。

 赤印が高野辰之住居跡です。青印が春の小川歌碑です。




# by wheatbaku | 2018-12-28 11:57 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
正春寺(代々木散歩④)

正春寺(代々木散歩④)

代々木散歩、今日は正春寺をご案内します。

正春寺は、徳川秀忠の乳母であった初台局ゆかりのお寺です。

正式な寺号は、湯島山安養院正春寺といい、もともとは天台宗でしたが、その後改宗して、浄土真宗東本願寺派のお寺となりました。

寺号のうち、安養院(あんにょういん)は、初台局の院号に由来し、正春寺は、開基で初台局の娘梅園局の法名正春院に由来しています。下写真は正春寺の本堂です。

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 初台局は、土井利勝の弟・土井昌勝の妻でしたが、徳川秀忠の乳母となりました。 土井昌勝は、有名な土井利勝の弟です。

 土井利勝は、三河国刈屋城主水野信元の子で、徳川家康の命令により2歳で土井利昌の養子となりました(これは正春寺に設置されている下記写真の説明板に基づいています。土井利勝の出自には諸説があります)。徳川秀忠と徳川家光に仕え、徳川秀忠時代には老中として将軍を補佐し、家光の時代には大老となり、幕府において重要な役割を果たしました。(土井利勝については最下段に詳細に書きました)

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 初台局は 大河内正頼の妹で土井昌勝の妻となりました。その後、徳川秀忠の母宝台院に仕え、2代将軍秀忠の乳母となり初台局と称しました。その功績により、天正19年(1591)代々木村に2百石の知行地を拝領しました。

初台局は、知行地に菩提寺を建立することを発願しましたが、当時は、新寺建立が禁止されていたため、孫の正入が住職をしていた湯島の専西寺(せんさいじ)を引寺として、代々木にも、元和6年(1620)に専西寺が建立されました。

初台局は、専西寺が創建された翌々年の元和8年に没し、法名は安養院(あんにょういん)釈尼香薫といいます。 

湯島と代々木の2ヵ所の専西寺は、開山の正入が兼任しました。

 専西寺の開基は、初台局の娘梅園局となっています。

 梅園局は2代将軍秀忠の乳母の初台局の娘で、3代将軍家光の乳母で、木村吉次を婿としました。木村吉次は土井吉次となりましたが将軍秀忠の命により、土井を改め柴山と改姓しました。梅園局の法名は正春院釈尼清安といいます。

 二人の間に生まれた子供が 開山正入です。正入の俗姓は土井甚三郎昌興といいました。

専西寺は、寛永4年(1627)改宗して浄土真宗となり、寛永10年(1632)湯島山安養院専西寺と称することとなり、まもなく正保2年(1645)山号を柴山(さいざん)と改めています。その後、天和3年(1683)湯島の専西寺が火災により焼失し、両寺は併合したような形となって代々木の専西寺だけとなりました。

そして元禄5年(1692)に、開山の梅園局の法名正春院釈尼清安にちなみ寺号を正春寺と改めました。

《土井家先祖の供養墓》

本堂裏側の墓所の中に、初台局の子孫である土井利意(としもと:寛政2年没享年68歳)が建てた先祖の供養墓があります。

墓正面に刻まれている七代祖土井小左衛門利昌とは、初台局の夫である土井昌勝の父親土井利昌です。墓石の左側の面に土井昌勝の名があり、その左に「土井次郎左衛門昌勝室 號安養院」と刻まれているのが初台局のことです。

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《初台の地名の由来》

初台という地名は、太田道灌が築いた八ケ所の砦のうち一の砦があった場所から出た名であるという説がありますが、初台の地名は、徳川秀忠の乳母の初台の局が拝領し隠居したことに由来するとも伝えられています。渋谷区役所作成の「渋谷散策マップ」は初台局説を取っています。

《土井利勝》 『江戸時代人名控』をベースに作成 

徳川家康に仕えた土井利昌の長子とされるが、家康の庶子とする説が有力で、家康の母の兄水野信元の子とする説もある。幼時から家康に仕え、1579年(天正7)秀忠誕生とともに秀忠付きとなり、秀忠の終生にわたって近侍してよく任を果たした。慶長7年(1602)に下総小見川(おみがわ)1万石が与えられ、10年加増されて同国佐倉(32000石余)へ転封、以後しばしば加増あって、寛永2年(1625)には142000石を領するに至った。この間従五位下、大炊助(おおいのすけ)の叙任を受けた。土井利勝は酒井忠世、大久保忠隣(ただちか)、本多正信らとともに秀忠補佐の中心におり、家康の信頼も厚く、徳川政権の基礎を固めるために大きな働きをした。家康、本多正信が相次いで没したのちは元老と称され、秀忠政権を支える中心に位置した。秀忠も利勝邸に赴くなど親近の情が厚かった。家光の補導にも努めている。明正天皇即位のときは秀忠の使者を務めた。

秀忠没後も年寄を務め、下総古河へ移され16万石を領した。土井利勝は、72歳で死ぬまで幕閣の重鎮で、知者の名が高く、優れた識見を有していたといわれる。

赤印が正春寺です。







# by wheatbaku | 2018-12-25 20:19 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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