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「鏡子悪妻説」について考える。

「鏡子悪妻説」について考える。

夏目漱石の妻鏡子は悪妻だという説が広く流布しています。さすが鏡子自身は自分が悪妻だといっていませんが、漱石・鏡子夫妻の三男伸六は『父・夏目漱石』のなかの「母のこと」で「恐らく、読者の大半は、すでに、御承知のことと思うけれども、私の母ほど、天下の悪妻として、喧伝されている女も珍しいのである」(p254)と書いていますから、鏡子悪妻説は漱石の身内の耳にも届くほど有名だったようです。

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 しかし、実際に漱石の『道草』や鏡子の『漱石の思い出』を読んでみると、悪妻と言われるほど漱石と鏡子の夫婦仲が本当に悪かったのか、少し疑問に思いました。そこで、鏡子悪妻説について調べてみました。

 夏目鏡子が悪妻だと広く流布しているため、そのことを書いた人は大勢いるのだろうと思って、どんな人が悪妻説を書いているのかと思って探しました。すると、意外にも、悪妻説を書いた人物がなかなか見つかりませんでした。

 そうした中で、夏目伸六が、『父・夏目漱石』の中で、「この悪妻説を振回す大部分の連中が、小宮さん(小宮豊隆のこと)を除いて、ほとんど、母とは、面識のない人間ばかりであって、それでは、何で、彼等が、そうそうこの母を中傷するのかというと、父の日記、あるいは書簡のところどころに、母の悪口が書いてある。それと小宮さんの著書などを読んで、さぞかし、漱石は、この細君に、苦しめ、悩まされたのでなかろうかと思い込んでしまったに違いない。が実を云うと、そう思い込んだ筆頭は、小宮豊隆さん自身なのであった、他はすべてその亜流であるといった方が、適当であるかもしれない。」と書いています。これからすると鏡子悪妻説の主唱者は小宮豊隆だということになります。

小宮豊隆は漱石の直弟子で、鏡子の『漱石の思い出』にもしばしば登場しますが、その小宮豊隆が『夏目漱石』の中の「再び神経衰弱」で「鏡子が悪妻であった」という趣旨の事を書いています。これが鏡子悪妻説の元凶のようです。

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 「再び神経衰弱」は19ページにわたる文章ですので全文を引用するわけにはいきませんが、『漱石の思い出』に書かれていることをかなり引用したうえで、最後に次のように書いています。

「私から言わせれば、漱石の当時の肝癪(かんしゃく)の根本は、鏡子の無理解と無反省と無神経から来ているのである。もともこれはあながち鏡子のみではなく、誰が漱石の妻になっていても、漱石はその無理解と無反省と無神経に悩まなければならなかったのかも知れない。漱石は自分に最も近いものを最も憎んだと言われるが、正しい漱石は、自分が最も愛する者、自分が最もよく知っている者、自分に最も近い者の中に、最も醜いものを発見する場合、愛し、知り、近いという理由だけで、見て見ぬふりをするというような、そんなだらしのない真似はできなかったのである。そのうえ人は、自分に近い者でなければ、真正の意味で、愛しも憎みもするわけに行かない。最も近いが故に最も憎まれるということは、その人に救いようのない『悪』が巣喰(すく)っているためである。」(『夏目漱石(上)』p185

少し分かりにくい文章ですが、要は鏡子が漱石を理解しない悪妻であり、漱石が最も憎んでいたと小宮豊隆は語っていると私は解釈しました。

 なお、小宮豊隆以外の人が鏡子悪妻説を書いているかどうか可能な限り探してみましたが、夏目伸六らが書いている通り小宮豊隆以外の人物が書いた文章はみつかりませんでした。念のため新宿区の「漱石山房記念館」に問い合わせてみましたが「小宮豊隆以外の人が書いているかどうかわからない」という回答でした。

 前述の小宮豊隆の鏡子悪妻説に対して、漱石と鏡子の様子を身近で見ていた漱石・鏡子の子供や孫たちは、ちがう意見をもっていますので、いつか紹介します。

 漱石の長女松岡筆子は『夏目漱石の「猫」の娘』(半藤末利子著『漱石の長襦袢』所収)で、漱石と鏡子の思い出を書いた後で、次のように書いています。

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「後になって母は、多くの方々に悪妻呼ばわりされ、漱石はあの悪妻を持ったればこそ、傑作を生めたとか、母が悪妻でなかったら作風も変ったろう等と、ずい分無責任な事を云われて参りましたが、私からみますと、あの母だからこそあの父とどうやらやっていけたのだと、むしろ褒めて上げたい位な節が数多くあるのです。父の神経衰弱の為、実際、身の毛がよだつような危機が何度もあったのです。

それにしても、母の人柄の良さや気ッ風の良さを利用していらした方々までが、平然として、母を悪妻呼ばわりしているのをみると、ちょっとあきれる感じがいたしてまいります。」(『漱石の長襦袢』p244

 また、漱石の次男夏目伸六は『父・夏目漱石』の中で、次のように書いています。

「(小宮豊隆は)たしかに、あまり男性的な性格であったとは思えないのだが、そのせいか、自分より目下の者の言論が、意に満たぬ場合には、あくまでこれを論難しようとする反面、尊敬する相手の言葉には、ただただ無条件に、頭を下げるといった傾向も、多分にあって、一名『漱石神社の神主』などとかげ口をきかれる理由も、こんなところにあるのだけれども、それだけに、彼にとって、父の言葉は、片言隻句といえども、絶対なのである。尤も、小宮さん自身にしたところで、若い学生の頃は勿論のこと、父の死後もずっと、私の母とは親しくもし、随分と世話にもなった関係上、個人的には、別に、この母に、それほどの悪感情を抱いているという訳でもないのだろうが、ただ、絶対の父と俗物の母とを一対にして、おのが祭壇に安置してみて、始めて、異質に悩まされる御神体が、何ともいとおしくてならなくなったのに違いない。

勿論、小宮さんの、自分の学問的な研究には、いっさい、私情をさしはさまぬと厳しい態度のうちには、まじめな、学者としての良い一面を、充分に現わしているとは思うけれども、そうかといって、母が父にとって、それほどの悪妻であったかということになると、話はまた、おのずから、別問題になって来る。」(『父・夏目漱石』p285286

 さらに、漱石の孫(長女筆子の三女)の半藤末利子は『漱石の思い出』の解説の中で次のように書いています。

「鏡子ほど歯に衣着せず直戴に物を言う人を私は知らない。しかも、年寄にありがちな繰り言としての愚痴や手柄話の類や、漱石に関しての悪口を、祖母の口から私は一度たりと聞いたことがない。祖母はお世辞を言たり、自分を良く見せるために言葉を弄したり蔭で人の悪口を言うこともなかった。あれほど悪妻呼ばわりされても、自己弁護をしたり折をみて反論を試みようなどとはしない人であった。堂々と自分の人生を生きた人である。

いつか二人で交わした世間話が、漱石の門下生や、鏡子の弟や二人の息子や甥達に及んだ時、

『いろんな男の人をみてきたけど、あたしやお父様が一番いいねえ』

と遠くを見るように目を細めて、ふと漏らしたことがある。

また別の折には、もし船が沈没して漱石が英国から戻ってこなかったら、『あたしも身投げでもして死んじまうつもりでいたんだよ』

と言ったこともある。何気ない口調だったが、これらの言葉は思い出すたびに私の胸を打つ。筆子が恐い恐いとしか思い出せなかった漱石を、鏡子は心の底から愛していたのであろう。」(『漱石の思い出』p461462

 これらのように鏡子の子供や孫たちは鏡子は悪妻ではなく漱石を非常に愛していたと語っています。

 いずれが、正しいのかひとそれぞれの受け止め方だとは思いますが、最近は、鏡子悪妻説に異論を唱える研究者の発信もありますので、紹介しておきます。

『夏目漱石から読み解く「家族心理学」読論』の「おわりに」で亀口憲治東京大学名誉教授は次のように書いています。

「本書で取り上げた夏目漱石も、一世紀以上前にこの問題(*家族の心理状態を安定的に保つための知恵が求められるという課題を指すと思われる。)に直面し、苦闘したのではなかったでしようか。同時に、縁あって妻となった鏡子夫人の功績も見直されるべきだと考えます。少なくとも、『悪妻』のレッテルのみが貼られたままで済まされるとは思われません。そのような私の判断は、従来の漱石研究が漱石個人に傾きがちであったのと異なり、本書が家族の関係性を重視する「家族心理学」の視点に立っていたことからすれば、当然のことといえます。漱石夫妻の子ども世代のみならず、孫世代の証言を重視したことも、家族の多世代関係を重要視する観点からは、自然な成り行きとして理解していただけたのではないでしようか。漱石の子孫の方々は、まぎれもなくわれわれと同じ時代を生きています。その連綿たる命の流れに、畏敬の念を抱かずにはいられません。」

 また、『漱石と熊楠 同時代を生きた二人の巨人』で児童文学作家三田村信行氏は次のように書いています。

「漱石夫人鏡子は、世間に悪妻として通っている。小宮豊隆をはじめとする門下生たちによれば、「先生がもっといい奥さんをもらっていたら、もっとすごい傑作を書いていたかもしれない」ということになるようだが、果たしてどうだろうか書いたかもしれないし、書かなかったかもしれないというほかはない。要するに門下生たちの不満は、鏡子が漱石の偉大さを理解していなかったということになるらしい ある意味ではこれは無理な注文というものだろう。門下生たちにとっては漱石は神のような存在だったかもしれないが、鏡子にとっては作家であるまえに、夫であり、子どもたちの父親であった。もし鏡子が家庭内で門下生たちと同じように漱石を神のような存在として敬っていたとしたら、漱石はいたたまれなかったにちがいない。」(『漱石と熊楠 同時代を生きた二人の巨人』P217

 以上、鏡子悪妻説について書いてある文献を紹介しましたが、鏡子悪妻説は有名なわりには思いのほか詳しく究明したものがあまりありません。

 紹介した本を読んだかぎりでは、鏡子が悪妻であったと述べているのは漱石の弟子たちであり、彼らが信仰している漱石の偉大さが否定されることを怖れるあまり鏡子を悪妻に仕立て上げたという気がしないではありません。

 また、弟子たちが生きていた時代で理想とされていた良妻賢母の姿が、現在では通用しなくなっていることを考えると、弟子たちが唱えた鏡子悪妻説が否定される趨勢にあるように思います。

 今回紹介した本以外にも鏡子悪妻説について書いた本が他にあるかもしれません。これからも関係書物を探して、鏡子悪妻説について考えていきたいと思います。




# by wheatbaku | 2025-07-12 19:00
夏目鏡子『漱石の思い出』を読む

夏目鏡子『漱石の思い出』を読む

夏目漱石は幼少の頃に内藤新宿に住んでいたことを調べているうちに『漱石の思い出』を読むたくなり、この間『漱石の思い出』を読んでいましたが、ようやく読了しましたので、気づいたこと等を書きます。

『漱石の思い出』は、漱石の妻夏目鏡子が語った話を漱石の娘婿(長女筆子の夫であり漱石晩年の弟子)である松岡譲が書き留めたものです。

 『漱石の思い出』は、400ページを超える分量(その構成は最下段目次参照)がありますが、漱石の生い立ちから死ぬまでの二人の様子、さら日常の漱石の様子が詳しく書かれています。

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これを読むことにより、明治の文豪夏目漱石が、隣にいる身近な人に感じられるようになりました。

 『漱石の思い出』を読んでみて、「そうか!」と初めて知ったことや気が付いたことが多々ありました。そこで、私なりに気がついたこと等を目次に沿ってアットランダムに書いてみます。なお、全体の目次は、後記しておきましたので、ご参照下さい。

 『漱石の思い出』は冒頭が「松山行」で、漱石が松山中学校に赴任した事情について書いていますが、まず「二 お見合い」の中で初めて知ったことから書いてみます。

 ◆漱石の妻鏡子は、当時貴族院書記官長であった中根重一の長女で、漱石と鏡子のお見合いは、明治281228日、松山から上京してきた漱石が、当時虎ノ門の官舎に住んでいた中根家を訪ねて行われた。 「二 お見合い」p22

 ◆結婚式は、熊本で行われたが、新郎新婦のほかは、鏡子の父中根重一が出席しただけで、鏡子と重一についてきた中根家の女中が三々九度の盃をまわした。「三 結婚式」p32

鏡子は、昔から朝寝坊で、早起きをしようと努力するが、非常につらく、朝ご飯を食べさせずに学校に出すことも時々あった。「三 結婚式」p35

漱石が養子に行った養母の塩原やすから金を工面してほしいと長い手紙が届き、漱石の養子の頃の話を聞いた。「七 養子に行った話」p62

漱石は、鏡子と結婚した翌年の正月には五高の友人山川信次郎と一緒に熊本の西北にある小天(おあま)温泉で過ごした。この小旅行が『草枕』の題材となっている。「八 『草枕』の素材」p69

長女は筆子というが、これは鏡子が字が下手であったため、娘は字が上手になるようにという願いを込めて「筆」となづけた。「十 長女誕生」p86

漱石はロンドンに出発する際に「秋風の一人を吹くや海の上」という句を残していった。鏡子は、これを床の間の横に架けておいた。しかし、漱石は帰朝した際にびりびりに裂いて捨ててしまった。「十三 洋行」p100

ロンドンに留学中に漱石はしばしば手紙を留守宅に出したが、返事を催促されても筆不精の鏡子は返事を書くことができなかったので、一工夫して長女筆子の日記という形で近況を知らせたら漱石は非常に喜んだ。「十四 筆の日記」p102

子規が亡くなる前に一度だけ、鏡子は子規のお見舞いのため、子規庵を訪ねている。「十七 帰朝」p118

留学から帰って3日目か4日目に、理由なく長女の筆子が殴られるという事件が起きた。 この部分は、そのまま引用しておきます。

「長女の筆子が火鉢の向こう側にすわておりますと、どうしたのか火鉢の平べったいふちの上に五厘銭が一つのせてありました。へつにこれを筆子が持って来たのでもない、またそれをもてあそんでいたのでもありません。ふとそれを見ますと、こいついやな真似をするとか何とかいうかと思うと、いきなりびしやりとなぐったものです。何が何やらさっばりわかりません。筆子は泣く、私もいっこう様子がわからないから、だんだんたずねてみますと、ロンドンにいた時の話、ある日街を散歩していると、乞食があわれっぽく金をねだるので、銅貨を一枚出して手渡してやりましたそうです。するとかえってきて便所に入ると、これ見よがしにそれと同じ銅貨か一枚便所の窓にのってるというではありませんか。小癪な真似をする、常々下宿の主婦さんは自分のあとをつけて探偵のようなことをしていると思っていたら、やっばり推定どおり自分の行動は細大洩らさす見ているのだ。しかもそのお手柄を見せびらかしでもするように、これ見よがしに自分の目につくところにのっけておくとは何といういやな婆さんだ。実にけしからんやつだと憤慨したことがあったのだそうですが、それと同じような銅貨が、同じくこれ見よがしに火鉢のふちにのっけてある。いかにも人を莫迦にしたけしからん子供だと思って、一本参ったのだというのですから変な話です。」「十七 帰朝」 p120

 ◆漱石は熊本第五高等学校から留学したので、帰朝したら五高に戻らなければならなかったが、漱石は東京に止まりたいと希望したため、紆余曲折があったもののともかく東京に止まることができた。「十七 帰朝」p121

 ◆『吾輩は猫である』の猫は、夏目家にどこからともなく入り込んだ猫であった。捕まえるたびに外につまみだしていたが、いつのまにか家の中に入ってきた。ある日、やってきたあんまに足の爪まで黒いこの猫は福猫だいわれて飼いだした。「二十四 『猫』の話」p153

漱石が小説を書き始めた初期は、小説を書くのが楽しそうで、書くのも短時間で書いていた。『坊ちゃん』『草枕』は書き始めて5日か1週間で書いていたように思う。「二十四 『猫』の話」p159

『吾輩は猫である』の重要人物の「苦沙弥先生(くしゃみせんせい)」と「迷亭(めいてい)」は漱石自身が持っている性格を二人に分けて書いたようである。「二十四 『猫』の話」p167

四女愛子が生れた時は産婆が間に合わず、漱石が取り上げた。「二十七 生と死」p178

夏目は涙もろい性(たち)で、人の気の毒な話などにはすぐ同情してしまうほうだったし、また頼まれれば欲得を離れて、かなり骨折って何かとめんどうを見る質の人であった。「二十九 朝日入社」p192

『虞美人草』を書いている頃、総理大臣西園寺公望から西園寺主催の文士の会合への招待があったが、ハガキにお断りの俳句を書いて謝絶してしまったことがあった。「二十九 朝日入社」p196

漱石は長年胃の具合が悪く、長与胃腸病院で胃潰瘍と診断され、入院したが、まもなく退院し、療養のため伊豆の修善寺の菊屋旅館に転地療養した。しかし、体調が悪化し大量の血を吐き、脈が止まるという危篤状態に陥いった。付き添いの森成麟造医師らの懸命の治療により一命をとりとめた。漱石が吐血した際には鏡子の着物の胸から下が真っ赤に染まるほどだったと書いてある。「三十七 修善寺の大患」p228

修善寺大患の時に、親友である満鉄総裁の中村是公(よしこと:通称ぜこう)が、療養していた宿の宿泊代などの支援をしてもらった。中村是公は、漱石の大学以来の親友「四十一 病院生活」p263

文部省が文学博士号を贈るといってきたのに対して断固として受け付けなかった。「四十二 博士号辞退」p274

漱石はお金には恬淡でのんきであった。鏡子が紙入れにいくらか入れておいても、それがいくら入っているか知らない様子であった。誰かが来て泣きついて金を借りていったり、自分で好きな書画骨董を買う程度であった。「四十三 良寛の書など」286

娘たちに小説を読ませるのは大嫌いで、ほどんど厳禁であった。「四十九 私の迷信」p318

 岩波書店は当初は微々たる出版社で、時々お金を融通していた。岩波書店で最初に出版したが『こころ』であるが、その費用は岩波で用立てできなかったため、漱石が自費で出版した。「五十三 自費出版」p341

漱石が亡くなる前の1年間の木曜会には午前中から中央公論の名編集者でもあった滝田樗陰(ちょいん)がやってきて、盛んに書画を描かせた。漱石は頼まれればよく書画を書いたが、鏡子自身が書いてもらったものはほとんどない。「五十八 晩年の書画」p378

 漱石が亡くなった際に、鏡子から遺体の解剖を願い出た。これは五女雛子が幼くして亡くなった後に、死因を明らかにするには解剖したほうが良かったと後悔しいたからだという。「六十一 臨終」p410

 漱石のデスマスクを残そうと言い出したのは森田草平である。「六十一 臨終」p411

 漱石が亡くなった際に、雑司ヶ谷霊園に埋葬した。これは、五女雛子が亡くなった際に雑司ヶ谷にお墓を建てていたことによる。その後、雑司ヶ谷霊園が拡大され、新墓地が出来た際に、現在地に移転した。安楽椅子型のお墓は、鏡子の妹婿の鈴木禎次(ていじ)が設計した。「六十四 その後のことども」p437


《参照》『漱石の思い出』 目次

一 松山行  二 見合い  三 結婚式  四 新家庭  五 父の死 六 上京  七 養子に行った話  八 「草枕」の素材  九 書生さん  長女誕生  十一 姉さん  十二 犬の話 十三 洋行 十四 筆の日記 十五 留守中の生活 十六 白紙の報告書 十七 帰朝 十八 黒板の似顔 十九 別居 二十 小刀細工 二十一 離縁の手紙 二十二 小康 二十三 「猫」の家 二十四 「猫」の話 二十五 ありがたい泥棒 二十六 「猫」の出版 二十七 生と死 二十八 木曜会 二十九 朝日入社 三十 長男誕生 三十一 最後の転居 三十二 坑夫 三十三 謡の稽古 三十四 いわゆる「煤煙」事件 三十五 猫の墓 三十六 満韓旅行 三十七 修善寺の大患 三十八 病床日記 三十九 経過 四十 帰京入院 四十一 病院生活 四十二 博士号辞退 四十三 良寛の書など 四十四 善光寺行 四十五 二つの縁談 四十六 朝日講演 四十七 破れ障子 四十八 雛子の死 四十九 私の迷信 五十 のんきな旅 五十一 二度めの危機 五十二 酔漢と女客 五十三 自費出版 五十四 芝居と角力 五十五 京都行 五十六 子供の教育 五十七 糖尿病 五十八 晩年の書画 五十九 二人の雲水 六十 死の床 六十一 臨終 六十二 解剖 六十三 葬儀の前後 六十四 その後のことども 



# by wheatbaku | 2025-06-19 20:00
夏目漱石と樋口一葉は、義理の姉弟になっていたかもしれない!

夏目漱石と樋口一葉は、義理の姉弟になっていたかもしれない!

 この間、夏目漱石は幼少期を内藤新宿で過ごしたことがあったことを調べてきましたが、その過程で、夏目漱石は樋口一葉と義理の姉弟になったかもしれなかったということを知りました。樋口一葉は、2024年までは五千円札の表面も飾っていたので、皆さんはよくご存じだと思います。夏目漱石も千円札の肖像でした。そのことを考えるとますます不思議な縁ですね。そこで、本日は、その事について書きます。

 夏目漱石の父直克には五男三女の子供がいました。先妻との間に二女、後妻である千枝との間に五男一女がいました。夏目漱石こと夏目金之助は五男の末っ子でした。

直克と先妻との間に生まれた二人の姉は、長女佐和(さわ)、次女房(ふさ)と言いました。前回、里子に出された漱石がかわいそうだと思って姉が生家に連れ帰った話を書きましたが、この姉が次女の房だとされています。なお、房は、従兄である筑土の名主高田家の長男庄吉と結婚しました。『道草』に庄三の姉夫婦として比田とその妻お夏が登場しますが、そのモデルが高田庄吉と房だとされています。

そして、後妻千枝との間には五男一女が生まれました。長男大一(大助)、次男栄之助(直則)、三男和三郎(直矩)、四男久吉、三女ちか、そして、末っ子の五男金之助です。( )内は元服後の名前

 長男大一は元服して大助と名乗ります。開成学校(現在の東京大学)在学中に中退し、警視庁の翻訳係をしていましたが、明治20年3月21日に、肺結核でこの世を去りました。31歳の若さでした。

 この長男大助と樋口一葉との間で、縁談話があったと『漱石とその時代』(江藤淳著)に書いてあります。

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「彼(大助のこと)とのちに一葉女史として知られた樋口夏子とのあいだには縁談が持ちあがったことがある。夏子の父樋口則義は警視庁で夏目小兵衛の下僚であり、父親の引きで翻訳係に採用されて一時山下町の官舎に住んでいた大助とも面識があった。則義もまた同じ官舎に住んでいたから、娘を行く行くは大助の嫁にという話がはじまりかけたのである。このとき夏子はまだ十四、五歳の少女であった。しかしこの縁談は、樋口家に財産がないことを知った小兵衛直克の反対でつぶれた。」

 樋口一葉 明治5年(1872)年325日生まれですので、14.5歳の時の話とすれば、明治19年(1886.20年(1887)の頃の話だと思われます。

 夏目大助は、安政3年(1856218日生まれですので、大助は30歳もしくは31歳で、漱石は19.20歳の頃の話だったと思われます。

 この部分を読んだ際に、あまりにも予想外のエピソードなので驚きました。しかし、その典拠は特に書いてありませんでしたので、この話の出所がどこなのか調べたました。すると、この話は、江藤淳氏独自の見解ではなく、もともとは漱石の妻鏡子が述べた『漱石の思い出』に書かれているものでした。『漱石の思い出』の「五 父の死」の中で鏡子は次のように語っています。

 「一番上の大一さんという兄さんは、大学にもはいり、学問もあり、また男前も立派な方だったそうですが、惜しいことに肺が悪くて病身だったので、大学も途中でやめたような按排(あんばい)です。そのころ父は府庁から警視庁に回ってそこで勤めていたのだそうですが、その下役に樋口一葉女史のお父さんが勤めておられまして、父は歳も歳でしたし、それに名主のいい顔で腕利きだといっても学問はなし、小うるさく働くのも億劫(おっくう)だったのでしょうが、樋口さんのほうは学問もあり、それに誠にこまめに立働くので、父はたいそう調法がって使っておりまして、時々は金を貸してやったものだと申します。一葉女史の貧乏は有名な話ですが、お父さんが生きていられる時から楽ではなかったらしいのです。しかし何しろよく働いてくれるし、いわば大事な片腕といったぐあいで、いいなりに金を用立てていたものの、なかなか返してくれるということがありません。

樋口さんはその頃山下町の官舎におられ、大一兄さんもやはり父の引きで、そこの翻訳をやる役についていて、同じ山下町の官舎に住んでいました、父だけは牛込から通っていたものと見えます。大一兄さんも勤めているくらいだからまだ丈夫でしたでしょうし、年頃ではあり、男前はよし、それに名主の長男ではありあり、まずまず申し分のないところから、樋口の娘に(*「は」の間違いかも)字も立派だし歌もつくるし、第一大層な才援がある、あれをもらっちゃどうかという話が持ち上がりました。ところが考えたのはお父さん、ただの下役でさえこれくらい金を借りられるのに、娘を貰ったりなどしたら、それこそどうなることかとこう算盤(そろばん)を弾(はじ)いたものと見えまして、この話はそれなりきりで、あたら一葉女史を夏目の家に貰いそこねたという話がございます。」

漱石の妻鏡子が語っていることですので、嘘はないと思います。

 樋口一葉は、明治5年に山下町(現在の千代田区内幸町)に生れました。当時は、江戸時代の大和郡山藩柳沢家の上屋敷を利用していた東京府庁構内の武家長屋に生れました。その地は、現在は「内幸町ホール」となっていますが、その前に「樋口一葉生誕地」の説明板が設置されています。(下記写真)

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そこには次のように書かれています。

「樋口一葉、名は奈津、なつ、夏子とも自署した。明治5325日、内幸町にて、東京府庁に勤める樋口則義と母たきの次女に生まれる。14歳で中島歌子の歌塾萩の舎に学ぶ。本が好きで親孝行だった。身長五尺足らず、髪はうすく、美人ではないが目に輝きがあった。

 士族の誇りを胸に、つつましく見えてときに大胆。心根はやさしくときに辛辣。女であることを嘆きつつ、ときに国を憂えた。

 文学を志し、明治27年より「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「われから」と次々に発表、奇跡の14か月と評される。

 明治291123日、本郷丸山福山町四番地で死去。享年満24歳。(森まゆみ「一葉の四季」より)」




# by wheatbaku | 2025-05-13 13:59
内藤新宿で幼少期を過ごした夏目漱石(新宿御苑④)

内藤新宿で幼少期を過ごした夏目漱石(新宿御苑④)

 現在の新宿は、江戸時代の甲州街道の宿場であった内藤新宿が発展したものです。

 甲州街道が開かれた江戸時代初期は、甲州街道の最初の宿場は、高井戸でした。日本橋から高井戸までは四里(約16キロ)あり、距離が長すぎたため、高井戸の手前に新しい宿場をつくろうということになりました。

 この請願を幕府にしたのは、浅草阿部川町の名主であった高松喜六を中心とした人たちでした。幕府は、この請願を受け入れ、請願のあった翌年元禄10年(1697)に新たに宿場を開設しました。

 宿場開設にあたって、幕府は高遠藩内藤家に屋敷の一部上地を命じました。そして、内藤家から上地された土地を利用して新たに宿場が開設されたことから内藤新宿という名前がついたと言います。

 この内藤新宿に、夏目漱石が幼い頃に住んでいたことがあります。そこで、今日は、内藤新宿時代の漱石について書いてみます。なお、夏目漱石は、本名は金之助といいますが、ここでは、漱石で統一します。

 夏目漱石は、慶応3年(186729日、江戸牛込馬場下横町(現在の新宿区喜久井町)で夏目直克の五男三女の末っ子として生まれました。

夏目家は、馬場下横町をはじめ神楽坂から高田馬場辺りまで11ヶ町を支配する名主でした。漱石が産まれた時、父直克は50歳、母千枝は41歳でした。母千枝は、直克の後妻で、先妻との間には二人の娘(さわ・ふさ)がいました。

千枝は四谷大番町の質屋福田庄兵衛の三女で、若い頃御殿奉公を勤め、一度質屋に嫁いだものの離縁となった後に直克の後妻となり、五男一女、すなわち大一(大助)、栄之助(直則)、和三郎(直矩)、久吉、ちか、そして漱石を産みました。

夏目漱石は、その誕生が両親から歓迎されたものではなかったようです。そうしたこともあって、生後まもなく四谷の古具屋(八百屋という説も)に里子に出されました。漱石は『硝子戸の中』で次のように書いています。

「私は両親の晩年になってできたいわゆる末子(すえっこ)である。私を生んだ時、母はこんな年歯(とし)をして懐妊するのは面目ないと云ったとかいう話が、今でも折々は繰返えされている。

単にそのためばかりでもあるまいが、私の両親は私が生れ落ちると間もなく、私を里にやってしまった。その里というのは、無論私の記憶に残っているはずがないけれども、成人の後聞いて見ると、何でも古道具の売買を渡世にしていた貧しい夫婦ものであったらしい。

私はその道具屋の我楽多(がらくた)といっしょに、小さい笊(ざる)の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に曝(さら)されていたのである。それをある晩私の姉が何かのついでにそこを通りかかった時見つけて、可哀想とでも思ったのだろう、懐(ふところ)へ入れて宅(うち)へ連れて来たが、私はその夜どうしても寝つかずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいうので、姉は大いに父から叱しかられたそうである。」

こうして、里子から生家に戻った漱石ですが、生家で育てられることはありませんでした。生家に戻ってまもなく1歳の時に 内藤新宿の名主であった塩原昌之助(まさのすけ)・やす夫妻のところへ養子に出されました。

塩原昌之助は、父が四谷大宗寺門前の名主をしていましたが、幼い時に父親が亡くなったため、夏目直克が昌之助を引き取って育てて、父親と同じ名主にしてやりました。そして、妻のやすも、もともと夏目家で奉公をしていた女性であり、夏目直克は、この二人の仲をとりもち結婚させたといいます。しかし、この塩原昌之助夫妻には子供ができなかったため、金之助が養子に出されることになりました。

塩原昌之助の自宅は太宗寺裏手にあたる内藤新宿北町(現在の新宿二丁目)にありましたが、甲州街道沿いにあった「伊豆橋」という夏目家と縁のある遊女屋も管理していました。この「伊豆橋」での漱石の記憶が、漱石の自伝的小説と言われる『道草』三十八に書かれています。

そうしてその行き詰りには、大きな四角な家が建っていた。家には幅の広い階子段のついた二階があった。その二階の上も下も、健三の眼には同じように見えた。廊下で囲まれた中庭もまた真四角(まっしかく)であった。

不思議な事に、その広い宅うちには人が誰も住んでいなかった。それを淋しいとも思わずにいられるほどの幼ない彼には、まだ家というものの経験と理解が欠けていた。

 彼はいくつとなく続いている部屋だの、遠くまで真直まっすぐに見える廊下だのを、あたかも天井の付いた町のように考えた。そうして人の通らない往来を一人で歩く気でそこいら中(じゅう)馳廻(かけまわ)った。」

 ここで「大きな四角な家」(上記赤字部分)と書かれているのが遊女屋「伊豆橋」だと言われています。「伊豆橋」の跡取り息子福田庄兵衛に漱石の長姉さわが嫁いでいました。しかし、明治5102日に娼妓解放令が出され「伊豆橋」は閉鎖され、その管理を塩原昌之助が任されていました。そうしたことがあり、漱石の記憶のなかに「伊豆橋」のことが残っていると言います。

『道草』では、続いて「伊豆橋」で遊んでいた思い出を漱石は次のように書いています。

「彼は時々表二階へ上って、細い格子の間から下を見下した。❶鈴を鳴らしたり、腹掛を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。❷路(みち)を隔てた真ん向うには大きな唐金(からかね)の仏様があった。その仏様は胡坐(あぐら)をかいて蓮台(れんだい)の上に坐(すわ)っていた。太い錫杖(しゃくじょう)を担いでいた、それから頭に笠を被(かぶ)っていた。」

 ❶の部分は、甲州街道を通り過ぎる馬のことを書いてあります。❷の部分は、江戸六地蔵の一つである太宗寺の地蔵菩薩を描いています。

太宗寺の地蔵菩薩については過去に記事にしたことがあります。



 漱石は、地蔵菩薩に登って遊んだこともあるようで、続いて、『道草』の中で次のように書いています。

 健三は時々薄暗い土間へ下りて、其所からすぐ向側の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ攀上(よじのぼ)った。着物の襞(ひだ)へ足を掛けたり、錫杖の柄(え)へ捉(つらま)ったりして、後(うしろ)から肩に手が届くか、または笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。」

 続けて、漱石は、次のように書いていますが、下赤字の「赤い門の家」が、塩原昌之助の自宅のようです。

「彼はまたこの四角な家と唐金の仏様の近所にある赤い門の家を覚えていた。赤い門の家は狭い往来から細い小路を二十間も折れ曲って這入(はい)った突き当りにあった。その奥は一面の高藪で蔽(おおわ)れていた。」

 

 こうして、塩原昌之助・やすの養子となった漱石ですが、塩原昌之助・やすが離婚することとなり、明治9年、漱石9歳の時に夏目家に戻りました。 しかし、塩原家と夏目家との間でもめ事があり、夏目家への復籍は21歳まで実現しませんでした。

 しかも、夏目家に復籍した後も、塩原昌之助・やすとの関係は絶たれることはなく、漱石が東京帝大の教授となった頃には、金銭的な援助を求められるようになったといいます。その頃の事情をベースとして書かれた自伝的小説が『道草』です。

『道草』は、大正4年(191563日から914日まで『朝日新聞』に掲載され、岩波書店から同年1010日に出版された長編小説です。現在は、岩波文庫のほか新潮文庫でも出版されています。私は、新潮文庫のほうで読みました。

内藤新宿で幼少期を過ごした夏目漱石(新宿御苑④)_c0187004_21175713.jpg

この小説の主人公は海外留学から帰って大学の教師をしている健三ですが。健三は夏目漱石自身がモデルとされています。

主人公健三は、海外留学から帰り大学の教師をしていましたが、実姉や実兄から金銭支援を頼まれる度に、それに応えていました。そこに、15.6年前に縁が切れたはずの養父島田(塩原昌之助がモデル)が現われ、お金の援助を頼まれます。最初は低姿勢であったものが段々横柄に要求されるようになります。さらに。養父ばかりか、養母や細君(鏡子がモデル)の父までがお金の援助を依頼するようになってきて、健三が金銭問題で多々悩ませられます。その上、細君との間もうまくいかず、健三が四苦八苦する姿が描かれています。




# by wheatbaku | 2025-05-07 22:30
水野忠邦が浜松藩に転封できたのは井上正甫のお陰?(新宿御苑⓷)

水野忠邦が浜松藩に転封できたのは井上正甫のお陰?(新宿御苑⓷)

前回、浜松藩主井上正甫(まさとも)が、高遠藩内藤家下屋敷(現在の新宿御苑)で不祥事を起こし、棚倉藩に懲罰的に転封されたことを書きました。そして、この時の転封は、浜松藩⇒棚倉藩⇒唐津藩⇒浜松藩の三方領知替であったことも書きました。

 この時の三方領知替の当事者の一人に天保の改革を行ったことで有名な水野忠邦がいました。この水野忠邦が唐津藩から浜松藩に転封となったことについて、水野忠邦は、幕閣になりたいと願ったが、唐津藩は長崎警護の役目を負っていて、幕閣に昇進するのは不可能であったため、唐津藩から江戸近くに転封を希望したとされています。このことは定説とされています。

この転封を説明する際に、浜松藩主井上正甫が起こした不祥事に触れることなく、水野忠邦は、早い段階から浜松藩に的を絞った転封を画策していたかのような論調があります。

 例えば、『教科書にでてくる人物124人』(あすなろ書房刊)の「水野忠邦」の項では「唐津藩は、幕府から長崎の警備という役目をおおせつかっていたために、藩主は老中になれないというきまりがつくられていました。(中略)そこで、忠邦は、江戸に近い浜松藩に国がえを願いでたのです。浜松藩は、徳川幕府を開いた家康ゆかりの地でもありますので、一生けんめい働きかけました。1817(文化14)年、24歳の時に浜松藩への国がえが認められ、同じ6万石の藩主になることに成功しました。」と書いてあります。

 また、ウィキペディア(Wikipedia)では「文化14年(1817年)9月、実封253,000石の唐津から実封153,000石の浜松藩への転封を自ら願い出て実現させた。」とだけ書いてあります。

 しかし、浜松藩主井上正甫が起こした不祥事で三方領知替が行われたことを考えると、水野忠邦が浜松藩へ転封てきたのは偶然の結果であり、事件の起きる前から浜松藩への転封を願っていたという論調には疑問が生じます。そこで、水野忠邦が、早い時期から浜松藩への転封を願って幕閣に運動していたのかどうか調べてみました。

 水野忠邦は、『国史大辞典』によると、「寛政6年(1794623日江戸に生まれる。肥前国唐津藩主水野忠光の次男。母は側室中川氏、名は恂(中川氏から大住氏の養女となる)。兄芳丸の死去により世子となる。文化4年(1807)元服し、従五位下式部少輔に叙任せられた。98月、父忠光隠居のあとをうけて19歳で唐津6万石を襲封し、和泉守となる。すぐに藩政改革の断行を宣言し、祖父忠鼎以来の改革を強力に推進しようとした。同時に幕府の要職に就くことを狙い、1211月に幕閣への登竜門とされた奏者番となったが、唐津藩主は長崎警固役を課されていて、幕閣の一員となることができないので、転封して昇進するため盛んに運動を行なった。149月念願の寺社奉行加役となり、左近将監に転じ、その翌日に浜松に所替となった。」と書かれていて、転封の運動をおこなったものの浜松藩に的を絞った転封の運動とは書いていませんでした。(赤字部分参照)

 また、水野忠邦に関する最も詳しい研究書は人物叢書『水野忠邦』(北島正元著)ですが、この中では概ね次のように書かれています。

水野忠邦は、昇進と転封を同時に成功させるために、はげしい運動を開始したが、時の筆頭老中は「寛政の遺老」と呼ばれた松平信明であり、忠邦は食い込むことができなかった。しかし、文化14年(181783日に同族の水野忠友が側用人を兼帯のまま老中格となり、さらに、松平信明が、文化14年(1817816日に亡くなり、忠邦にとって形勢が好転した。そして、水野忠朝の斡旋のおかげで文化14910日、水野忠邦は寺社奉行の発令を受けるとともに、その翌日に唐津から浜松への国替えを命ぜられた。 

 さらに、北島正元氏は、この転封には、浜松藩主井上正甫の不祥事が介在したことを詳しく説明しています。水野忠邦の浜松への転封に関係して浜松藩主井上正甫の不祥事に触れたものは、私が見た限りでは人物叢書『水野忠邦』だけでした。

 そのうえで、「井上正甫を棚倉藩に左遷したのは忠成が忠邦を浜松へ移すために、松平信明が穏便にすませようとした事件を、政道を正すと称して摘発して、正甫を辺地へ追いやったものとみられぬこともない。」(人物叢書『水野忠邦』p107,108より)と書いています。

 

水野忠邦は、井上正甫の不祥事が起きる前から、江戸近くの地への転封を画策していましたが、文化13年秋に浜松藩主の井上正甫が不祥事を起こしたので、これを好機として浜松藩に的を絞った転封を働きかけ、翌年の8月に老中格となった水野忠成によって、それが実現したということだろうと思います。

 つまり、水野忠邦は、井上正甫の不祥事が起きる前には、浜松藩への転封でなく江戸近くの藩であればどこでも良くて浜松藩に限定していたわけではなかったものの、新宿御苑での不祥事が起きた後には、浜松藩への転封を願い出たということではないかと思います。

 こうしたことから、井上正甫が新宿御苑で起こした不祥事は、江戸近くへの転封を願っていた水野忠邦にとって、「渡りに船」の好機だったのではないかと思います。

北島正元氏は、水野忠邦の転封には、同族の水野忠成(ただあきら)の力が大きかったと書いており、忠邦が転封できたキーパーソンは水野忠成だったようです。『参謀の器量学』(奈良本辰也編著)でも、次のように書いてあります。「忠邦は、昇進だけでなく移封をも目標として、激しい運動をはじめた。頼みこむ相手は、11代将軍家斉の寵臣だった水野忠成(ただあきら)だった。『水の出て もとの田沼となりにけり』とうたわれた人物で、賄賂を取るのは上手なことに定評があった。これに取りいるのが、栄達へのもっとも近い道である。それに忠邦にしてみれば、家が違うが同じ水野一族だというよしみがあった。」

 水野忠成(ただあきら)は、もともと旗本岡野知暁の次男として生まれ、旗本水野家の養子となりましたが、沼津藩主水野出羽守忠友が養子であった田沼意次の四男田沼忠徳を離縁したのちに、水野忠友の養子となりました。水野忠友が亡くなった後、家督を継ぎ出羽守と改称し、奏者番、寺社奉行 (兼務)、若年寄、側用人と出世し、11代将軍徳川家斉の信任をえて、文化 14 8月老中格となり、文政元年 年(1818)には老中となり、徳川家斉の治政を支えました。

 この水野忠成が老中格となる前年に新宿御苑での井上正甫の不祥事があり、さらに、水野忠成が老中格となるという幸運が重なって水野忠邦の浜松転封が実現したようです。

ところで、この転封について、唐津藩の藩主であった水野忠邦は喜んだものの、財政難に苦しむ唐津藩の大半の藩士にとっては迷惑なことだったようです。そのため、転封の話が唐津藩に伝わると、家老二本松大炊義廉が、藩士の総意をもって転封を辞退するよう進言しましたが、水野忠邦はその進言を受け入れることはなかったため、二本松大炊義廉は文化1410月自宅で切腹して果てています。




# by wheatbaku | 2025-05-02 22:15
  

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