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上野公園を散歩してきました。(「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」)

上野公園を散歩してきました。(「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」)

昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で上野公園を、参加者の皆さんと一緒に散歩してきました。

 少し暑い程度の陽気で、上野公園は、大勢の行楽客や外国からの観光客ぐらいあふれていました。

 寛永寺の開山堂などは以前は拝観客などほとんどいませんでしたが、昨日はかなりの拝観客がいました。そうした中で、楽しく散歩することができました。下写真は、寛永寺開山堂で説明をきく参加者の皆様ですが、ご参加いただいた皆様ありがとうございました。

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昨日は、次のコースで散歩してきました。

国立西洋美術館 ⇒ 両大師・寛永寺旧本坊表門 ⇒ 根本中堂跡 ⇒ 旧因州屋敷表門 ⇒ 東照宮(大石鳥居、水舎門、燈籠、唐門、透塀、社殿) ⇒ 上野大仏 ⇒ 時の鐘 ⇒ 時忘れじの塔 ⇒ 清水観音堂 ⇒ 秋色桜 ⇒ 彰義隊の墓 ⇒ 西郷隆盛銅像 

 主なご案内ポイントをスナップで紹介します。

 最初のご案内場所は、世界遺産に登録されている国立西洋美術館です。設計者はフランス人のル・コレビュジエです。西洋美術館は、松方コレクションを所属するために建てられた美術館です。前庭には、「考える人」をはじめとするロダンの作品が展示されています。これらのロダンの作品は、すべて本物であると説明したところ、皆さんは大変喜んでいました。下写真は「考える人」を見る参加者の皆様です。

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寛永寺の本坊は、御住職が起居する場所でしたが、上野戦争で焼失してしまいました。その中で、唯一焼失を免れたのが表門です。明治になって、帝室博物館(現在の国立博物館)の表門として利用されたあと、博物館の建直しに伴い、開山堂の東側に移築されました。

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上野公園には、寛永寺本坊表門のほか、もう一つ立派な門があります。それが国立博物館の中にある旧因州池田屋敷表門です。池田家の上屋敷は、現在の丸の内にありました。明治になって、高輪にあった東宮御所の正門として使用されたあと、昭和29年に国立博物館に移築されたものです。鳥取藩は32万石でしたが、その格式に則った立派な門です。

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 上野の東照宮は、元々は藤堂高虎が寛永4年(1627)、自分の屋敷に創建したものです。 現在の社殿は、慶安4年(1651)、3代将軍家光が大規模に造り替えたものです。

 東照宮の大石鳥居は、寛永10年(1633)上州厩橋(現在の前橋)藩主で老中を勤めた酒井忠世が奉納したものです。この石鳥居は基礎工事が万全だったため、安政の大地震、関東大震災の折にも少しも傾かなかったことで有名です。

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東照宮の参道から、上野動物園にある五重塔が見えます。

この五重塔は寛永8年(1631)に、江戸幕府の老中で土井大炊頭利勝の寄進により、上野東照宮の塔として建てられました。しかし竣工の8年後の寛永16年(1639)の春に花見客の過失によって焼失してしまい、現在見ることのできる五重塔は、その年のうちに再建されたものです。明治になって、東照宮から寛永寺に移され、さらに寛永寺から東京都に寄付されたものです。

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上野では、慶応4515日、新政府軍と彰義隊の戦いが起きました。敗北した彰義隊の人々の遺骸を焼いた場所に建てられたのが彰義隊の墓です。政府をはばかって「戦死之墓」とだけ刻まれています。字は山岡鉄舟が揮毫したものです。

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最後に案内したのは、西郷隆盛の銅像です。上野のランドマークの西郷隆盛さんの銅像は、高村光雲と後藤貞行の二人のコンビにより製作されました。明治31年の序幕式で、西郷隆盛の糸子夫人が「うちのひとはこんなひとじゃなかった」とつぶやいたといわれていますので、その背景などを説明しました。

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 上野公園内だけの散歩でしたので、歩く距離は、あまり長くありませんでしたが、そのかわり、各所でじっくりと説明しましたので、終了したのは5時直前でした。

ご参加いただいた皆様ありがとうございました。







# by wheatbaku | 2019-05-19 14:37 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
「江戸検1級合格虎の巻」講座の開講(予告)

「江戸検1級合格虎の巻」講座の開講(予告)

 

 江戸楽アカデミーで、810日に、『江戸検1級合格虎の巻』講座を開講することになりましたので、早めにご案内させてもらいます。

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 過去6年にわたり、江戸検1級合格のお手伝いをしてきましたが、昨年までで延べ50人の方が1級に合格しました。

 この間の1級合格のお手伝いをする中で学んだ合格するための勉強方法や心構えを、昨年「1級合格虎の巻」という小冊子にまとめました。この小冊子には多くの合格のためのノウハウが詰まっています。

 昨年、その「1級合格虎の巻」を解説する講座を開講したところ、大勢の人に受講いただき、大変好評でした。しかも、受講いただいて人たちの中から9名もの1級合格者がでました。

 昨年の1級合格者は全体で36名でしたので、その四分の一の人が講座受講者ということになり、大変うれしく思いました。

 こうしたことから、江戸検受検者の皆さんから、今年もぜひ「1級合格虎の巻」講座を開講して欲しいという要望がありましたので、次の日程で開講することになりました。

《江戸楽アカデミーの講座概要》

これを聞けば合格に必ず近づく!『江戸検1級合格虎の巻』講座

開催  8月10日(土)12:30~15:30

受講料(税込) 4,860円

会場  小学館集英社プロダクション・SP第3ビル

定員  38名

 昨年と同じように、合格のための勉強方法や心構えを詳しく説明しますが、今年はさらに、多くの人が苦手と考えている記述問題対策を追加します。そして、昨年この講座を受講して見事1級に合格した人の合格体験談も話していただくことにしました。

 ですから、今年の講義は、昨年の2時間から3時間と、講義時間を1時間長くして、虎の巻解説と合格体験談の発表をさせていただきます。

 まだ、虎の巻講座を受講していない方にはもちろんですが、昨年受講し今年も江戸検を受検される方にもお役に立つ講座だと思います。多くの人の受講をお待ちしています。

 なお、江戸楽アカデミー事務局からの正式な告知は、5月下旬になると思われます。(⇒最新情報では6月初旬になるかもしれません)
 江戸楽アカデミーの公式ホームページを適宜チェックしていただき、早めにお申し込みください。






# by wheatbaku | 2019-05-16 23:22
神田祭宮入と獏塾友の会江戸散歩
神田祭宮入と獏塾友の会江戸散歩

 昨日は、獏塾友の会の仲間と、御茶ノ水から神田を通って日本橋まで、江戸散歩してきました。
 そして、昨日は、ちょうど神田祭の宮入でした。
 そこで、散歩の集合時間前に、神田明神に行って、宮入を見てきました。9時過ぎにいきましたが、下写真のように鳥居の前には、宮入を待つ神輿の担ぎ手で一杯でした。手前の 揃いの法被は、神田五軒町町会です。

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 神輿の担ぎ手でごったがえす参道をかき分け随神門までいきました。ちょうど同朋町の神輿が随神門を通る時でしたのシャッターを切りました。

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 続いて、随神門をでてくるところもパチ! 後ろには大国様の像も写っていました。

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振り返って社殿方向をみると、社殿前も大勢の人々でごった返していましたが、そこには神田元佐久間町会の神輿がありました。

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 初めて、神田祭の宮入をみましたが、心沸き立つ感じで楽しかったです。やはり、祭りはいいですね。




 さて、江戸散歩のほうですが、御茶ノ水に集合して、ニコライ堂、湯島聖堂、昌平橋、須田町老舗街を通り、中央通りをまっずぐ日本橋までというコースでした。

参加者が大勢でしたので、二班に分かれて散歩しました。

私の班を案内してくれたのは城南の朱鷺さんでしたが、丁寧な説明で楽しい散歩となりました。 城南の朱鷺さんありがとうございました。また、ご一緒した皆さん、ありがとうございました。

 おもな地点でのスポット写真をアップしておきます。

 案内の初めはニコライ堂でした。明治24年竣工した建物で国の重要文化財に指定されています。

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 湯島聖堂では、楷の木も案内してくれました。楷書という言葉の語源となった木ですが、日本には数少ない貴重な木だそうです。

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 昌平橋では、明治41年(1908)からわずか4 年ほど開業していた昌平橋駅を案内してもらいました。写真左手のレンガ造りの高架部分が昌平橋駅のなごりだそうです。

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江戸時代にオランダ商館長が江戸にやってきた時にとまる定宿「長崎屋」がJR新日本橋駅の地上部分にありました。長崎屋の説明板は、新日本橋駅の地下への入口の脇にあり、そこで説明してくれました。


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日本橋には、江戸の豪商越後屋がありました。現在は、三井本館と三越百貨店になっています。三井本館の最上部には三井財閥の栄光を映し出したレリーフがあります。写真はそのレリーフを見上げる参加者の皆さんです。写真中央奥に三越が見えています。

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日本橋は、江戸時代は五街道のスタート地点で、現在は日本国道路原標も埋め込まれています。現在の日本橋の文字は、最後の将軍徳川慶喜が書いたものだと、城南の朱鷺さんが教えてくれました。朱鷺さん、最後までありがとうございました。

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 昨日は、快晴で、気温も暑くなく、絶好の散歩日和でした。仲間との会話もおもしろくて、江戸散歩を楽しむことがました。参加者の皆さん、ありがとうございました。


 





# by wheatbaku | 2019-05-13 14:54
「稲むらの火」とは(濱口梧陵②)

「稲むらの火」とは(濱口梧陵②)

 今日は「稲むらの火」とは何かについて書いていきます。

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 今から約160年前の嘉永7年(1854)11月に連続して大地震が起きました。安政東海地震と安政南海地震です。11月4日に駿河湾沖から紀伊半島沖を震源としてマグニチュード8.4の巨大地震が起きました。これが「安政東海地震」です。

 それ安政東海地震の発生から約31時間後の翌11月5日午後4時頃、南海(紀伊半島沖から四国沖)を震源域とする大地震が、西日本を襲いました。これが「安政南海地震」と呼ばれる大地震です。

 「安政南海地震」では、四国・紀伊半島を中心に、東海地方から九州にかけての地域が大きな被害を受けました。

また、この地震では、地震による被害より津波による被害のほうが大きかったといわれています。

紀伊半島の南西岸から四国の太平洋岸を襲った津波は、紀伊国串本で15メートル、土佐国久礼(現高知県高岡郡中土佐町)で16メートルに達しました。

紀伊半島では、熊野から西の海岸沿いで多くの家屋が流失し、大勢の死者もでています。紀州藩領では流失家屋約8500軒、死者約700人と言われています。

この「安政南海地震」が起きたとき、ヤマサ醤油の7代目当主の濱口梧陵は、故郷の広村に里帰りしていました。

津波が押し寄せた時、濱口梧陵は、「稲むら」に火をつけて逃げ惑う村民を高台へと誘導し、津波から救いました。下写真は、広川町役場の玄関前にある「稲むらの火広場」にある濱口梧陵の像です。

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なお、稲むらというのは、刈り取った稲を乾燥させるために積み重ねたものです。下写真は、広川町役場近くの広村堤防に作られて展示されている稲むらです。

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この話を小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が「A Living God(生き神様」」として取り上げられました。

それを基に創作されたのが「稲むらの火」です。「「稲むらの火」は、昭和12年から22年まで国語教材として小学校5年の教科書に掲載され、広く知られるようになりました。

 広川町の耐久中学校の校庭には、この全文が書かれて掲示板が設置されていました。(下写真)

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 また、「稲むらの火の館」では、無料で配布されていました。(最上段写真)

 そこで、長くなりますが、稲むらの火を掲載しておきます。

 お時間がありましたら、下の文章を読んでみてください。

【稲むらの火】

 「これはただ事ではない」とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきた。今の地震は、別に烈しいというほどのものではなかった。しかし、長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであった。

 五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下ろした。村では豊年を祝う宵祭りの支度に心を取られて、さっきの地震には一向に気が付かないもののようである。

 村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこに吸いつけられてしまった。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、みるみる海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れてきた。

「大変だ。津波がやってくるに違いない」と、五兵衛は思った。

このままにしておいたら、四百の命が、村もろとも一のみにやられてしまう。もう一刻も猶予はできない。

「よし」

と叫んで、家に駆け込んだ五兵衛は、大きな松明を持って飛び出してきた。そこには取り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んであった。

「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ」と、五兵衛は、いきなりその稲むらのひとつに火を移した。風にあおられて、火の手がぱっと上がった。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めていた。

日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなってきた。稲むらの火は天をこがした。 山寺では、この火を見て早鐘をつき出した。

「火事だ。庄屋さんの家だ」と、村の若い者は、急いで山手へ駆け出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追うように駆け出した。

高台から見下ろしている五兵衛の目には、それが蟻の歩みのように、もどかしく思われた。やっと二十人程の若者が、かけ上がってきた。彼等は、すぐ火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声で言った。

「ほおっておけ。大変だ。村中の人に来てもらうんだ」

村中の人は、おいおい集まってきた。五兵衛は、後から後から上がってくる老幼男女を一人一人数えた。集まってきた人々は、もえている稲むらと五兵衛の顔とを、代わる代わる見比べた。その時、五兵衛は力いっぱいの声で叫んだ。

「見ろ。やってきたぞ」

たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指差す方向を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。その線は見る見る太くなった。広くなった。非常な速さで押し寄せてきた。

「津波だ」

と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のように目の前に迫ったかと思うと、山がのしかかって来たような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきとをもって、陸にぶつかった。人々は、我を忘れて後ろへ飛びのいた。雲のように山手へ突進してきた水煙の外は何物も見えなかった。

人々は、自分などの村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。

高台では、しばらく何の話し声もなかった。一同は波にえぐりとられてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見下ろしていた。

稲むらの火は、風にあおられて又もえ上がり、夕やみに包まれたあたりを明るくした。はじめて我にかえった村人は、この火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。

 「稲むらの火」は以上です。最後までお読みいただきありがとうございました。





# by wheatbaku | 2019-05-09 18:48
稲むらの火の館(濱口梧陵①)

稲むらの火の館(濱口梧陵①)

「稲むらの火」で知られる濱ロ梧陵は、紀州広村で生まれ、広村に津波を防ぐ堤防を築き、その堤防が残されていることは、以前から知っていました。

 その濱口梧陵ゆかりの地広村(現在の広川町)が、湯浅町の隣町で、しかも、最寄駅が湯浅駅であることを、和歌山に行く事前準備のなかで知り、これ絶対訪ねてこようと思って、和歌山に行きました。

 

 そこで、今日からは、濱口梧陵ゆかりの地について、紹介していきますが、その最初に「稲むらの火の館(やかた)」を紹介します。

 「稲むらの火の館」は湯浅駅から徒歩約15分で行けます。また湯浅駅前でレンタサイクルを借りれば10分あれば楽々到着します。(下写真が記念館の外観全体写真です)

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 「稲むらの火」で知られる濱口梧陵は、文政3年(1820)紀州広村(現在の広川町)で生まれました。そして、安政の大地震津波時、稲むらを燃やして、その火で多くの村人を救いました。

 この話が、「稲むらの火」というタイトルで戦前の国定教科書に取り上げられ、濱口梧陵の功績が広く知られるようになりました。そうしたことから、「稲むらの火」は、濱口梧陵の代名詞ともなっています。

 「稲むらの火の館」は、濱口梧陵ゆかりの広村の邸宅を広川町が入手し、平成194月に建てられたもので、濱ロ梧陵記念館と津波防災教育センターから構成されています。

 濱ロ梧陵記念館のほうは、木造平屋建ての建物で、濱口梧陵の子供の代に建設されたものを改修したものそうです。(下写真は記念館の入り口周辺の写真です)

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 この記念館には、濱口梧陵の生涯が展示されていて、濱口梧陵の偉大な功績や教訓、人柄を感じられるような展示となっています。

下写真は玄関を入るとすぐに展示されている濱口梧陵の銅像で、渡辺長男が製作したものです。あまり注目されていませんでしたが、渡辺長男は朝倉文夫の実兄で、知る人ぞ知る彫刻家ですので、もっと注目されてもよいのではないかと思いました。

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 一方、「津波防災教育センター」は、実践的な地震・津波防災を学ぶための施設です。こちらは鉄筋コンクリート造り3階建ての建物です。

館内には、安政津波が襲った時の濱口梧陵の対応や地震津波の恐ろしさとその威力を体感できる3Dシアターや、長さ16mの津波実験水槽があります。 (下写真は3Dシアター入口の写真です。)

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濱口梧陵の生涯を知るには、濱口梧陵記念館のほうが良くわかります。しかも、記念館だけであれば、無料で入ることができます。

記念館内には、展示室1から4、土間シアターのほか、交流・談話室や茶室もあります。

展示室1から4は、濱口梧陵の生涯が展示品で理解できるようになっています。土間シアターでは、12分間のビデオで浜口梧陵の生涯がわかるようになっています。(下写真は展示室1方向を写した写真です。)

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赤印が「稲むらの火の館」です。





# by wheatbaku | 2019-05-06 22:13
角長の「濁り醤(にごりびしお)」(醤油発祥の地③)

角長の「濁り醤(にごりびしお)」(醤油発祥の地③)

 太田久助吟製を訪ねたあと、同じ伝建地区にある角長に向かいました。 

湯浅で醤油屋さんといえば「角長」です。(下写真)

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角長は、天保12年(1841)創業の老舗の醤油メーカーです。 -

湯浅には、最盛期には92軒の醤油屋がありました。醤油が興国寺のある紀伊由良でなく湯浅で発展したのは、湯浅のほうが「水」が良かったからだそうです。つまり、由良の水系は、鉄分が多くて、醤油の醸造にはあまり適していなかったそうです。

しかし、それだけあった醤油屋も、戦後20数軒となり、その後、徐々に減少し、現在は、江戸時代から続く醤油屋は角長だけとなりました。

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角長は、江戸時代から受け継ぐ醸造蔵で、昔からの手法に基づき手づくりを続けています。

 角長でも醤油を買ってきました。

 角長での一番人気は、「濁り醤(にごりびしお)」 です。(下写真)

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 「濁り醤(にごりびしお)」は、多くの醤油は火入れといって加熱する行程が加えられますが、圧搾も加熱もせず、麹が原料を分解してできた汁のみを取り出す、人の手を全く加えていない醤油です。

 角長のお店のそばに「醤油資料館」(下写真)があります。

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 その2階で「濁り醤(にごりびしお)」の製造方法をビデオを見せてもらえます。そのビデオで濁り醤油の作り方がよくわかりました。

醤油資料館の内部は写真撮影できませんので、外観だけ撮影しました。

できあがった醤油は、酵母の影響で通常の醤油に比べ少し濁った色になることから「濁り醤」と名付けられました。

この醤油は、完成させるまでに約10年かかったそうです。

いつも使っているものに比べて大変まろやかなものでした。保存期間が1年あるということなので、少しづつ、味わっていきたいと思います。

 角長の裏側は大仙堀という堀が残されています。昔、この堀を利用して船に積んだ醤油を運びだしたものだそうです。醤油蔵と堀がみごとにマッチして素晴らしい景観を作り出していました。

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 赤印が角長です。青印が太田久助吟製です








# by wheatbaku | 2019-05-03 22:04
太田久助吟製の「金山寺味噌」(醤油発祥の地②)

太田久助吟製の「金山寺味噌」(醤油発祥の地②)

心地覚心(法燈国師)により宋から伝えられた金山寺味噌の製法は、興国寺だけでなく周辺の人々にも伝わりました。

金山寺味噌は、湯浅にも伝わり、現在でも金山寺味噌の製造メーカーが多くあります。その一つが、太田久助吟製です。太田久助商店といった商号zでなく、「太田久助吟製」全体が商号のようです。(下写真はお店の正面です)

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湯浅町には、「重要伝統的建造物群保存地区」があります。

「重要伝統的建造物群保存地区」は、宿場町、城下町、門前町、港町、山村集落など、単体の建造物だけではなく、通りの両側のように連続した空間や、面的な広がりのある町並みや集落全体を保存するため、昭和50年文化財保護法改正によって設けられました。しばしば「伝建地区」あるいは「伝建」と略称でよぶことがあります。

湯浅町の「伝建地区」は、平成18年に文部科学省から選定され、湯浅駅から徒歩15分ほどの場所にあり、伝統を感じさせる家並みが残っています。下写真が伝建地区の家並みです。

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 太田久助吟製は、その伝建地区にあります。現当主が5代目となる老舗です。(下写真)

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金山寺味噌はウリ・ナス・しょうが・しその入ったなめ味噌ですが、店頭に金山寺味噌の保存桶が置いてありました。

奥様がその桶のふたをとってみせてくれましたが、表面に水分が溜まっていました。下写真が保存桶の金山寺味噌です。液が溜まっているのがわかりますか。奥様が、これが醤油の発祥のもととなった液だと説明してくれました。

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この液は、カビの発生や腐敗の元にもなるため、捨てるだけでしたが、昔ある時、その汁を利用してみると、これがなかなか美味しいことから、最初から、この液体を製造すれば良い調味料になるとして、工夫して作り出されたのが醤油だそうです。

 金山寺味噌からしみ出た液から醤油が作り出されたということが、実物をみてよくわかりました。そして、太田さんのお店で、金山寺味噌を買ってきました。(下写真)

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 興国寺で買った金山寺味噌より賞味期限が短いので、太田さんのものから食べ始めましたが、まろやかな味で、大変おいしい味でした。


 赤印が太田久助吟製です。






 


# by wheatbaku | 2019-05-01 11:44
金山寺味噌で有名な興国寺(醤油発祥の地①)

金山寺味噌で有名な興国寺(醤油発祥の地①)


 先週、和歌山県の湯浅町・広川(ひろがわ)町に行ってきました。今回のテーマは、「醤油」と「浜口梧陵」です。二つの町はともに「きのくに線」の湯浅駅を最寄り駅とする隣どうしの町です。新大阪駅から湯浅まで特急くろしおを利用して約1時間30分で行くことができました。予想外に近いという印象です。
 
 今日は、まず醤油の話からしていきたいと思います。

 醤油の由来について、ほとんどの本が、紀伊由良の興国寺の開山覚心が宋から径山寺(きんざんじ)味噌の製法を日本に伝え、径山寺味噌の底にたまった汁から醤油が発明されたとしています。

 そこで、醤油発祥に関係した興国寺は、湯浅町の近くにある由良町にあります。その興国寺も訪ねてきましたので、興国寺からご紹介します。

 興国寺は、醤油発祥の地湯浅町の隣にある由良町にある臨済宗のお寺です。(下写真は山門です。)

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 紀伊由良駅から山門(上写真)までは徒歩10分の距離にあります。
 行く前に興国寺に問い合わせた際にはタクシーが便利ということでしたので、紀伊由良駅からタクシーで行きましたが、タクシーの運転手の話では多くの参拝者が歩いていくとのことです。帰りは歩きましたが、山門からは10分で到着しました。ただし、参道が長いため、法堂(はっとう:本堂に当るお堂)からは15分くらいはかかると思います。なお、駅からお寺まではフラットですが、道路わきにある山門をくぐると参道は少し登り道となります。

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 さて、興国寺ですが、そもそも興国寺は、鎌倉幕府三代将軍源実朝の菩提を弔うために、葛山五郎景倫という武士が出家し願性と名乗り、鎌倉時代前期の安貞元年(1227)に建てられたもので、当時は「西方寺」として称していました。

のちに心地覚心(法燈国師)を住職に迎え、宗旨を臨済宗に改め、大いに栄えました。

 心地覚心(法燈国師)は建長元年(1249)中国・宋に渡り、宋で禅を極めた後、建長6年(1254)に帰国し、後に、興国寺(当時は西方寺)の住職に迎えられました。

 心地覚心(法燈国師)は、永仁6年(1298)に亡くなりましたが、その後に国師号を授かり、興国元年(1340)に、南朝の後村上天皇から興国寺の寺号を賜り、それ以降興国寺と呼ばれるようになりました。(下写真は法堂です)

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 元号を寺号としているお寺は、私が知る限りは延暦寺、仁和寺、建長寺、寛永寺の四ヶ寺で、いずれも錚々たる有名寺院ですが、この四ヶ寺に新たに興国寺が加わることになります。

さて、心地覚心(法燈国師)は、入宋した際、径(金)山寺味噌の製造を習得し、その製法を日本に伝えました。

それが、広まり、醤油の発明ということになるわけですが、興国寺は、金山寺味噌発祥の地であることから、興国寺の売店では、金山寺味噌を販売しています。(下写真は売店です。お坊さんが販売してくれます)

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売店では、その歴史にちなみ、金山寺味噌のほか、湯浅の老舗醤油屋角長の醤油や天狗の面なども販売されています。

 興国寺で販売している金山寺味噌は、興国寺で製造しているものではなく、御坊のというメーカーが製造したものですが、興国寺と銘打ってあるものは、興国寺でしか手に入りません。そこで興国寺ブランドの金山寺味噌を買ってきました。包装紙には「紀伊由良 開山興国寺」と書かれています。

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 この金山寺味噌から、醤油が発明されたわけですが、その話は次回にして、興国寺は、金山寺味噌発祥の地であるだけでなく、日本における尺八発祥の地でもあり、天狗でも有名ですので、そちらの話を書いておきます。

心地覚心(法燈国師)は宋での修行中に尺八を学び、帰国の際には名手4人を伴い帰国しました。これが日本における尺八のはじまりです。

時代劇でよく深編み笠の虚無僧が尺八を演奏しながら旅する場面がでてきますが、虚無僧は普化宗に属しています。日本における普化宗は、心地覚心(法燈国師)の孫弟子である金先(こんせん)が広めました。普化宗は、明治になって廃宗となりましたが、興国寺は、いまでも、尺八を演奏する人たちの間で高い地位を保っているそうです。(下写真は、開山堂からみた興国寺法堂方向です。)

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さらに、興国寺は、天狗でも有名です。昔、本堂などが火災に見舞われた後、天狗が現れ一夜にして寺を建て直したという伝説が残されています。

その伝説にちなんで、法堂裏に天狗堂があります。

法堂の裏にまわり、石段を登っていくと、天狗堂が現れ、天狗堂のなかに、長さ2.4m、幅2.7㎡の巨大なお面が祭られています。(下写真)

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興国寺では、毎年1月の成人の日に行われる天狗祭りが行われ、中門下の広場(下写真の右手)で天狗の舞が披露されます。

大天狗を中心にして、中天狗たちは、大きなノコギリやノミ、木槌などの大工道具を手にし、お堂を建設する様子が表現され、小天狗は、棒を持って、お堂の建設に協力する踊りのようです。

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 天狗堂の中の天狗の面の前に、天狗命根石(てんぐめいこんせき)という岩が飾られています。

そばに建てられている説明板によれば、天狗命根石は、地球創世記のころ、地核の噴出による火山岩からできた世界最大の大きさを誇る貴い石で、中には数億年前の水が溜まっているのだそうです。

そして、石をなでながらお願いすると願い事がかなうとも書かれています。

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醤油のもととなった金山寺味噌で有名な興国寺は、金山寺味噌以外にもいろいろな見どころがありました。 境内には人影はありませんでしたが、非常に境内が掃き清められていて、まさに静寂のなかでお参りができ、非常に良い気分になりました。 

 下赤印が興国寺です。





# by wheatbaku | 2019-04-28 21:51
塙保己一の生家(塙保己一記念館⑤)

塙保己一の生家(塙保己一記念館⑤)

 塙保己一記念館から車で少し行った場所に塙保己一が生まれた家が残されています。塙保己一旧宅というタイトルもありますが、ここではあえて塙保己一の生家としておきます。

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 塙保己一は、塙姓を名乗っていますが、これは師匠であった雨冨検校の苗字です。本来の姓は荻野姓です。

 塙保己一は、延享三年(1746)、武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市児玉町保木野)で荻野宇兵衛の子供として生まれました。しかし7歳の時に失明し、15歳のとき江戸へ出て、雨宮検校の弟子になりました。

 その塙保己一が生まれ育って家が、本庄市児玉町保木間に残されています。

 塙保己一記念館から、車で5分ぐらいのところです。記念館からのルートは記念館で確認したほうがよいと思います。

 

 塙保己一は長男として生まれましたが、江戸に出たため生家は弟卯右衛門が継ぎました。現在も残されている家は、その弟卯右衛門のご子孫が住んでいます。生家の西側に牛舎がありましたので、おそらく酪農を営んでいるのではないかと思います。こうした状況のため、生家の敷地内に入ることはできませんが、外から見ることができます。

 外といっても、生家の正面に下のような説明板が設置されていますので、生家の正面から生家の様子が見られます。

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 説明板によれば、母屋は。塙保己一の父荻野卯兵衛の代に建てられたと伝えられていて、保己一が生まれた延享3年(1746)より幾分遡るものだそうです。

生家は、茅葺き二階建ての入母屋造りで、向かって左側に田字形の部屋、右側に土間、馬屋(現在は子供部屋)等があり、後世に若干の増築や補修されていますが、当時の姿をよく残しているそうです。

よく400年近くの建物が残されたものだと驚くとともに、塙保己一の弟のご子孫がよく維持してくれていると感動しました。下写真が正面からみた生家です。

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生家の裏手西側にある塙保己一公園の一画に、塙保己一の墓があります。(下写真)

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塙保己一の墓は、東京の四谷の愛染院にありますが、もとは同じ四谷の安楽寺に埋葬されました。

本庄市の生家近くにあるお墓は、保己一が埋葬された東京四谷の安楽寺の墳墓の土を生家の荻野家が持ち帰って先祖累代の墓地に碑を建てて慰霊したのが始まりで、その後、明治44年に、一度移転した際、塙保己一の法衣の一部が瓶に納められてお墓の底に埋設されました。

保己一のお墓は平成24年に現在地に移転されましたが、その工事の際に、墓碑の下から瓶が出土しました。埋設されていた瓶は割れており、中には土が詰まっていて法衣は確認できませんでした。そこで、関係者が協議した上で、瓶は修復され菩提寺である實相寺に納められ、瓶内の土は三等分して、新墓所、荻野家の墓地、菩提寺實相寺の瓶に納めることになり、新しい墓所へ納める土は白布に包み、石の容器に密閉して墓碑の真下に埋められました。

こうした経緯が墓碑そばの石碑に説明されています。

赤印が塙保己一生家です。 青印が塙保己一記念館です






# by wheatbaku | 2019-04-26 15:07
般若心経を毎日100回詠んでいた塙保己一 (塙保己一記念館④)

般若心経を毎日100回詠んでいた塙保己一(塙保己一記念館④)

 

 塙保己一は、毎日般若心経を100回読んでいたということを私は昔から知っていました。そして、般若心経を毎日100回読むということは至難の業ではないと思って、塙保己一はすごいと思っていました。

 塙保己一記念館には、それを証明するものが展示されていて感激しました。

 その品は「般若心経数帳(はんにゃしんぎょうすうちょう)」という小冊子で、般若心経を何回よんだかを記録したものです。(下写真)

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 細かい数字は読めませんが、月日と詠んだ巻数がメモしてあります。その月日は一定の間隔ではないように思いますので、適宜、メモしたものだと思います。

 

 般若心経を毎日100回読むと決意したのは、安永8年(1779)に群書類従の編さんを決意した時だそうです。

 群書類従の完成させることは大変な仕事であるので、それが成功するようにと願って100万回詠むことを決意して始めました。そのためには毎日100回詠む必要がありました。

 「般若心経数帳」には、安永8年(1779)から文政4年(1821)に塙保己一が亡くなる直前までの43年間に198万回余り詠んだことが記録されているそうです。

 これは一日あたりの回数に換算すると100回以上詠んだことになります。

 まさに、群書類従の編さんを決意してから、毎日欠かさず般若心経を100回詠んでいたことになります。

 こうしたことから、本庄市教育委員会発行の「盲目の国学者 塙保己一の生涯」(下写真)では、塙保己一は、非常に意思の強い人物だと評価しています。

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 般若心経を詠むには、私の経験では1回80秒程度かかります。これを100回詠むとすると、毎日2時間程度は、般若心経を詠んでいたことになります。その強い決意と持続力に改めて脱帽する思いです。





# by wheatbaku | 2019-04-22 13:37
  

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