内藤新宿で幼少期を過ごした夏目漱石(新宿御苑④)
現在の新宿は、江戸時代の甲州街道の宿場であった内藤新宿が発展したものです。
甲州街道が開かれた江戸時代初期は、甲州街道の最初の宿場は、高井戸でした。日本橋から高井戸までは四里(約16キロ)あり、距離が長すぎたため、高井戸の手前に新しい宿場をつくろうということになりました。
この請願を幕府にしたのは、浅草阿部川町の名主であった高松喜六を中心とした人たちでした。幕府は、この請願を受け入れ、請願のあった翌年元禄10年(1697)に新たに宿場を開設しました。
宿場開設にあたって、幕府は高遠藩内藤家に屋敷の一部上地を命じました。そして、内藤家から上地された土地を利用して新たに宿場が開設されたことから内藤新宿という名前がついたと言います。
この内藤新宿に、夏目漱石が幼い頃に住んでいたことがあります。そこで、今日は、内藤新宿時代の漱石について書いてみます。なお、夏目漱石は、本名は金之助といいますが、ここでは、漱石で統一します。
夏目漱石は、慶応3年(1867)2月9日、江戸牛込馬場下横町(現在の新宿区喜久井町)で夏目直克の五男三女の末っ子として生まれました。
夏目家は、馬場下横町をはじめ神楽坂から高田馬場辺りまで11ヶ町を支配する名主でした。漱石が産まれた時、父直克は50歳、母千枝は41歳でした。母千枝は、直克の後妻で、先妻との間には二人の娘(さわ・ふさ)がいました。
千枝は四谷大番町の質屋福田庄兵衛の三女で、若い頃御殿奉公を勤め、一度質屋に嫁いだものの離縁となった後に直克の後妻となり、五男一女、すなわち大一(大助)、栄之助(直則)、和三郎(直矩)、久吉、ちか、そして漱石を産みました。
夏目漱石は、その誕生が両親から歓迎されたものではなかったようです。そうしたこともあって、生後まもなく四谷の古具屋(八百屋という説も)に里子に出されました。漱石は『硝子戸の中』で次のように書いています。
「私は両親の晩年になってできたいわゆる末子(すえっこ)である。私を生んだ時、母はこんな年歯(とし)をして懐妊するのは面目ないと云ったとかいう話が、今でも折々は繰返えされている。
単にそのためばかりでもあるまいが、私の両親は私が生れ落ちると間もなく、私を里にやってしまった。その里というのは、無論私の記憶に残っているはずがないけれども、成人の後聞いて見ると、何でも古道具の売買を渡世にしていた貧しい夫婦ものであったらしい。
私はその道具屋の我楽多(がらくた)といっしょに、小さい笊(ざる)の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に曝(さら)されていたのである。それをある晩私の姉が何かのついでにそこを通りかかった時見つけて、可哀想とでも思ったのだろう、懐(ふところ)へ入れて宅(うち)へ連れて来たが、私はその夜どうしても寝つかずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいうので、姉は大いに父から叱しかられたそうである。」
こうして、里子から生家に戻った漱石ですが、生家で育てられることはありませんでした。生家に戻ってまもなく1歳の時に 内藤新宿の名主であった塩原昌之助(まさのすけ)・やす夫妻のところへ養子に出されました。
塩原昌之助は、父が四谷大宗寺門前の名主をしていましたが、幼い時に父親が亡くなったため、夏目直克が昌之助を引き取って育てて、父親と同じ名主にしてやりました。そして、妻のやすも、もともと夏目家で奉公をしていた女性であり、夏目直克は、この二人の仲をとりもち結婚させたといいます。しかし、この塩原昌之助夫妻には子供ができなかったため、金之助が養子に出されることになりました。
塩原昌之助の自宅は太宗寺裏手にあたる内藤新宿北町(現在の新宿二丁目)にありましたが、甲州街道沿いにあった「伊豆橋」という夏目家と縁のある遊女屋も管理していました。この「伊豆橋」での漱石の記憶が、漱石の自伝的小説と言われる『道草』三十八に書かれています。
「そうしてその行き詰りには、大きな四角な家が建っていた。家には幅の広い階子段のついた二階があった。その二階の上も下も、健三の眼には同じように見えた。廊下で囲まれた中庭もまた真四角(まっしかく)であった。
不思議な事に、その広い宅うちには人が誰も住んでいなかった。それを淋しいとも思わずにいられるほどの幼ない彼には、まだ家というものの経験と理解が欠けていた。
彼はいくつとなく続いている部屋だの、遠くまで真直まっすぐに見える廊下だのを、あたかも天井の付いた町のように考えた。そうして人の通らない往来を一人で歩く気でそこいら中(じゅう)馳廻(かけまわ)った。」
ここで「大きな四角な家」(上記赤字部分)と書かれているのが遊女屋「伊豆橋」だと言われています。「伊豆橋」の跡取り息子福田庄兵衛に漱石の長姉さわが嫁いでいました。しかし、明治5年10月2日に娼妓解放令が出され「伊豆橋」は閉鎖され、その管理を塩原昌之助が任されていました。そうしたことがあり、漱石の記憶のなかに「伊豆橋」のことが残っていると言います。
『道草』では、続いて「伊豆橋」で遊んでいた思い出を漱石は次のように書いています。
「彼は時々表二階へ上って、細い格子の間から下を見下した。❶鈴を鳴らしたり、腹掛を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。❷路(みち)を隔てた真ん向うには大きな唐金(からかね)の仏様があった。その仏様は胡坐(あぐら)をかいて蓮台(れんだい)の上に坐(すわ)っていた。太い錫杖(しゃくじょう)を担いでいた、それから頭に笠を被(かぶ)っていた。」
❶の部分は、甲州街道を通り過ぎる馬のことを書いてあります。❷の部分は、江戸六地蔵の一つである太宗寺の地蔵菩薩を描いています。
太宗寺の地蔵菩薩については過去に記事にしたことがあります。
漱石は、地蔵菩薩に登って遊んだこともあるようで、続いて、『道草』の中で次のように書いています。
健三は時々薄暗い土間へ下りて、其所からすぐ向側の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ攀上(よじのぼ)った。着物の襞(ひだ)へ足を掛けたり、錫杖の柄(え)へ捉(つらま)ったりして、後(うしろ)から肩に手が届くか、または笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。」
続けて、漱石は、次のように書いていますが、下赤字の「赤い門の家」が、塩原昌之助の自宅のようです。
「彼はまたこの四角な家と唐金の仏様の近所にある赤い門の家を覚えていた。赤い門の家は狭い往来から細い小路を二十間も折れ曲って這入(はい)った突き当りにあった。その奥は一面の高藪で蔽(おおわ)れていた。」
こうして、塩原昌之助・やすの養子となった漱石ですが、塩原昌之助・やすが離婚することとなり、明治9年、漱石9歳の時に夏目家に戻りました。 しかし、塩原家と夏目家との間でもめ事があり、夏目家への復籍は21歳まで実現しませんでした。
しかも、夏目家に復籍した後も、塩原昌之助・やすとの関係は絶たれることはなく、漱石が東京帝大の教授となった頃には、金銭的な援助を求められるようになったといいます。その頃の事情をベースとして書かれた自伝的小説が『道草』です。
『道草』は、大正4年(1915)6月3日から9月14日まで『朝日新聞』に掲載され、岩波書店から同年10月10日に出版された長編小説です。現在は、岩波文庫のほか新潮文庫でも出版されています。私は、新潮文庫のほうで読みました。

この小説の主人公は海外留学から帰って大学の教師をしている健三ですが。健三は夏目漱石自身がモデルとされています。
主人公健三は、海外留学から帰り大学の教師をしていましたが、実姉や実兄から金銭支援を頼まれる度に、それに応えていました。そこに、15.6年前に縁が切れたはずの養父島田(塩原昌之助がモデル)が現われ、お金の援助を頼まれます。最初は低姿勢であったものが段々横柄に要求されるようになります。さらに。養父ばかりか、養母や細君(鏡子がモデル)の父までがお金の援助を依頼するようになってきて、健三が金銭問題で多々悩ませられます。その上、細君との間もうまくいかず、健三が四苦八苦する姿が描かれています。