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関口大砲製造所(幕末の大砲製造所②)

関口大砲製造所(幕末の大砲製造所②)


 湯島大小砲鋳立場を移転させることが検討され、その候補として挙げられたのが関口水道町でした。ここに設立された大砲製造所が「関口大砲製造所」です。

 この関口水道町への移転についての上申書「鋼製大砲鋳立方之義に付御内意奉伺候書付」が海舟全集第6巻「陸軍歴史上」の中に記載されています。原文は漢文ですが、わかりやすいようにいくらか修正して記載します。 

「取調べ候ところ小日向水道町にて町人所持の水車場2ヶ所これあり、右北手へお取建て相成り候えば水掛り十分しかるべき場所に相見え。もっとも右のほかにもなるたけ製作所が最寄りの方便利につき牛込船河原橋際の方も大曲あたりより水盛りいたし候ところ地勢平坦勾配少く自余しかるべき場所も御座なく」

 これによると関口水道町(上申書では小日向水道町となっている)には、民間の水車が昔から2基あるので、その北側に建設すれば水勢は十分な場所と考えられる。

 また、関口水道町より下流の牛込舟河原町付近も候補地に挙げられたようですが、ここは地形が平坦で水勢が弱く関口水道町より劣ると判断されたようです。

 

新たな大砲製造所が設置された関口水道町は現在の江戸川橋の南一帯にありました。下写真は江戸川橋の交差点ですが、この辺りが関口水道町でした。

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江戸川橋の南のたもとには関口水道町についての説明板が設置されています。
関口大砲製造所(幕末の大砲製造所②)_c0187004_18310130.jpg

江戸川橋交差点の北西側に「プラザ江戸川橋」がありますが、この辺りに「関口大砲製造所」が設置されていたようです。下写真が「プラザ江戸川橋」です。ビルの一画には「江戸川橋交番」があります。

関口大砲製造所(幕末の大砲製造所②)_c0187004_18311973.jpg

 関口水道町での大砲製造所建設にあたってのキーポイントは水車の建設ですが、水車の建設に関する文久210月付の江戸南町奉行であった小栗豊後守あての文書が「関口大砲製造所」(大松騏一著)に載っています。

 それによると神田上水の大洗堰から神田上水の北側に堀を開削し、神田上水を懸樋(かけひ)で渡して水利を確保したようです。

 神田上水と関口大砲製造所の関係がわかるものが江戸川橋の橋上から撮った下写真です。

 写真中央を流れているのが神田川(江戸時代は江戸川と呼ばれていました)です。江戸川橋の上流約400メートルのところに大洗堰がありました。

 この写真左手の建物が「プラザ江戸川橋」で、この付近に関口大砲製造所がありました。

 

関口大砲製造所(幕末の大砲製造所②)_c0187004_18310170.jpg

 関口大砲製造所には、最新式の工作機械も設置されていたようです。

 従来の大砲は、砲身の内部が滑らかでした。しかし、砲身の内部に螺旋状の溝(ライフル)を切ることにより、射程距離も長くなり、命中率も高くなります。ヨーロッパでは、螺旋状の溝を切った大砲が普及し始めていました。


 そこで、関口大砲製造所でも、螺旋状の溝を切った大砲を製造しようとしたようです。

文久元年12月には大砲に螺旋を切る工作機械をオランダに発注する「便利之器械御買上げの義に付申上候書付」が海舟全集第6巻「陸軍歴史上」に収録されています。原文は漢文ですが、読みやすいように一部修正してあります。


「当時西洋にて專(もっぱ)ら相用い候大小砲ともすべて集中へ螺旋(らせん)をつけ、在来の形の分をも追々同形に相直し候ほどの義にて武備要用に相聞え候につき御試のためまず大小砲を右形に製作仕り候器械御買上げに取計り、右御入り用一同取り束ね精々吟味仕り候ところ別紙の通にて不相当の義も御座なく候」


 このように大砲に螺旋を切る工作機械や小銃を操る工作機械を外国に発注するよう上申されています。

なお、この上申書は、竹内下野守(勘定奉行)、松平石見守(外国奉行)、京極能登守(目付)の連名で出されています。この三名は文久元年12月に、江戸・大坂両市の開市と兵庫・新潟二港の開港延期交渉ためヨーロッパ各国に派遣された正使竹内下野守保徳、副使松平石見守康直(後の松平康英)、目付京極能登守高朗の三名です。




# by wheatbaku | 2022-07-06 18:23 | 近代化に貢献した幕臣
湯島大小砲鋳立場(幕末の大砲製造所①)

湯島大小砲鋳立場(幕末の大砲製造所①)


 文京学院大学の「日本の近代化に貢献した幕臣たち」の講義では、小栗上野介の生涯と業績についてお話しました。

 小栗上野介の最大の業績は、横須賀製鉄所(造船所)を建設したことですが、その他、兵庫商社の設立、フランス軍事顧問団の招聘、横浜フランス語学伝習所の設立など多くの功績があります。

 そうした功績の中で、大砲など近代兵器の製造所の建設についても小栗上野介が関与していたことは、あまり知られていないように思います。そこで、今日からは大砲製造所の建設についての小栗上野介の功績について数回にわたって書いてみます。


 ペリー来航により、江戸湾防衛の強化の必要性を強く認識した幕府は、江戸湾の品川沖に台場を築造することにしました。

 この築造を命じられたのが江川太郎左衛門でした。

 台場は、当初11基築造される計画でした。(御殿下台場は当初の計画にありませんでした。)

 第1号から第3号の台場は嘉永6年(1853821日に着工しました。そして、翌年安政元年4月には完成しました。着工から完成まで、わずか8ヶ月という短期間での寛政でした。5号と6号の二基の台場と御殿山下台場は、安政元年(18541月に着工し11月に竣工しました。しかし、4号と7号は、着工はしたものの工事途中で築造が中止され、8番以降の台場は財政難のため着工もされませんでした。

 このお台場には、大砲が備えられました。下写真は、台場公園(もとの第三台場)に設置されている砲台跡です。ただし復元したものだそうです。

湯島大小砲鋳立場(幕末の大砲製造所①)_c0187004_15571149.jpg

 台場に備えられた大砲は、これまで大砲を製造した実績のある佐賀藩に注文し、江川太郎左衛門も大砲製造を命じられ韮山で製造しました。佐賀市史によれば、幕府から佐賀藩は52門の大砲の注文を受けています。

湯島大小砲鋳立場(幕末の大砲製造所①)_c0187004_15571162.jpg

 その後、分散発注では問題があると考えた幕府は、大砲を幕府自身で製造することとして、湯島聖堂の西隣にある「桜の馬場」に大砲を製造する「湯島馬場大筒鋳立場」を建設しました。ここは、のちに小銃も製造することとなり「湯島大小砲鋳立場」となりました。

 「湯島大小砲鋳立場」は、現在は、東京医科歯科大学となっています。下写真は、御茶ノ水駅西口に架かる御茶ノ水橋の南たもとから撮影した東京医科歯科大学です。


 当時の大砲は青銅製のもので、土中に筒形の鋳型を設置し、それに青銅を流し込み製造する方式でしたが、この方式には欠点がありました。

 その欠点とは、外側と内部から少しずつ冷えるため砲身に間隙(気泡)ができて発射の衝撃で破損してしまうことでした。

 こうした欠点をクリアするため、西洋では、型に熔解した銅を注いで棒状の砲身に鋳立て、その後、棒状の砲身の芯をくりぬいて筒状に仕上げる方式が採用されていました。この方式は「錐(きり)入れ」と呼ばれていたようですが、この方式を採用するにあたっては、砲身をくりぬく動力として水車の力が必要でした。


 しかし、「湯島大小砲鋳立場」は、御茶ノ水の台地上にあり、台地を切り裂いて流れる神田川から水を取り入れるのは非常に困難でした。

 そこで、水力を動力源とするのに適した水車場を探したところ湯島より上流で神田上水の関口大洗堰近くの小日向水道町に二つの水車があり、これを利用して神田川の水を取り込んで関口水道町に大砲製造所を建設することが上申されます。こうした建設されることとなったのが「関口大砲製造所」ですが、これについては次回説明します。





# by wheatbaku | 2022-06-30 15:46 | 近代化に貢献した幕臣
文京学院大学での講座「日本の近代化に貢献した幕臣たち」、開講‼

文京学院大学の講座「日本の近代化に貢献した幕臣たち」、開講‼


昨日は、6月としては異常な暑さのなか、文京学院大学で開講された講座「日本の近代化に貢献した幕臣たち」の講師をやってきました。

コロナの感染が拡大した中で、史跡案内や講座の講師を控えていたため、2年半ぶりの対面での講義となりました。

 今回の講座は、教室での対面講義とオンライン講義をミックスした方式でした。そのため、最初は少し緊張したものの、対面で講義を聞いてくれる受講者の皆さんの反応も直接見ながら講義できましたし、久しぶりにお会いできた方も多かったので、楽しく講義をすることができました。

文京学院大学での講座「日本の近代化に貢献した幕臣たち」、開講‼_c0187004_12545105.jpg


 今回の講座は、日本の近代化に貢献した多くの幕臣の中から、小栗上野介、前島密、杉浦譲の三人に光をあてて解説する講座ですが、昨日は、三人のうち、小栗上野介の功績や生涯についてお話しました。下写真は国立国会図書館「近代日本人の肖像」より転載

文京学院大学での講座「日本の近代化に貢献した幕臣たち」、開講‼_c0187004_12545304.jpg

 

 小栗上野介が、遣米使節の一員の目付に選ばれたものの、実質的には正使であったこと、小栗上野介は、辞任したり罷免されたりしてもすぐに改めて任命される有能な人物であったことなどを話したあと、横須賀製鉄所(造船所)などの小栗上野介の功績を詳しく解説しました。

そして、最後は、“罪なくして斬られた”斬首の様子をお話し、斬首された烏川の水沼河原に建てられている顕彰慰霊碑(下写真)の様子なども説明しました。

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受講された方々は非常に熱心に話を聞いていただきましたので、話す側もつい熱が入り、気持ちよく講義することができました。受講いただいた皆さんありがとうございました。



 講義が終了した後に、15回江戸文化歴史検定(江戸検)1級に合格した人たちと懇談することができました。

 2年前の15回江戸検は、江戸検最後の検定でしたので、合格をめざす人々のための応援講座を開講する予定にしていましたが、コロナ禍のため、結局、開講できませんでした。しかしながら、メール等を通じて、個別に応援した結果、1級に合格した人が大勢いました。

その1級合格者の人たちに今回の講座を案内したところ多くの方が受講してくれました。この講座が15回江戸検1級に合格した人たちと初めてお目にかかる機会となりましたので、前々からお会いしたと思っていた人たちと会うことができて大変うれしかったです。受講していただいた江戸検1級合格者の皆さんありがとうございました。




# by wheatbaku | 2022-06-26 12:51 | 近代化に貢献した幕臣
横浜製鉄所(横須賀軍港ものがたり⑯)

横浜製鉄所(横須賀軍港ものがたり⑯)


 「横須賀軍港ものがたり」の最後に「横浜製鉄所」についてお話します。

 JR石川町駅の中華街口(北口)を出てほんの少し歩くと目の前に「横浜製鉄所跡」と書かれた説明板が見えてきます。 下写真は石川町駅北口方向から撮った写真です。

横浜製鉄所(横須賀軍港ものがたり⑯)_c0187004_14453423.jpg


 横浜市教育委員会が立てた説明板には次のように書かれています。

「横浜製鉄所は、幕府がフランスと提携し、幹線の修理と洋式工業の伝習を目的として設置した官営工場である。慶應元年(1865)二月に着工、九月下旬には開業し、艦船修理のほか、横須賀製鉄所建設に必要な各種器具や船舶用機械の製造などで繁忙を極めた、首長(初代ドロール、のちゴートラン、ルッサンら)以下多くのフランス人技師・職工が建設や操業に携わり、我が国における近代的産業技術の導入、発展に大きな役割を果たした。慶應四年(1868)閏四月、横浜製鉄所は横須賀製鉄所とともに新政府に引き継がれた。管轄は神奈川裁判所、さらに大蔵省、民部省、工部省と移り、明治四年(1871)、横浜製作所と改称(横須賀製鉄所は横須賀造船所と改称)、同五年、海軍省に移管し、横浜製造所と改められた。明治六年(1873)、大蔵省に移り、横須賀造船所と所管庁を異にした。同七年、内務省に移管。翌八年、高島嘉右衛門らに貸渡され、民営化の先駆けとなった。明治十一年(1878)、再び海軍省所管。明治十二年(1879)には石川島平野造船所(現・株式会社IHI)の平野富二に貸与されて横浜石川口製鉄所と改称、明治十七年(1884)に建物と機械はすべて本社工場に移設され、約一・四ヘクタールの敷地は翌年海員掖済会(現・社団法人日本海員掖済会)に貸与された。」

横浜製鉄所(横須賀軍港ものがたり⑯)_c0187004_14453462.jpg


 この説明板には、主に明治以降の横浜製鉄所の変遷が書かれています。

 そこで、ここでは横浜製鉄所がどのように創設されたのかについて書いてみます。

 横浜製鉄所設立の経緯は、横須賀製鉄所(造船所)の建設と深く関わっていることが栗本鋤雲の「匏庵遺稿(ほうあんいこう)」の中の「横須賀造船所経営のこと」に書かれています。

 それによると次のような経緯があります。

 佐賀藩では、鍋島閑叟の指示のもと、オランダから艦船の修理する機械一式を購入し工場を建設しようと計画しました。

 しかし、その経営には莫大な経費がかかることとそれを操作する人がいないことが判明し、佐賀藩でそれを建設することを断念しました。

 しかし、その時には、すでに購入した機械類は日本に到着していました。

 そこで、佐賀藩では、その機械類を幕府に献納しました。


 元治元年、横須賀製鉄所(造船所)の建設にむけて、小栗上野介や栗本鋤雲がフランス公使ロッシュたちを交渉を始めた際には、佐賀藩から献納された機械の3分の2は横浜港に保管されていて、残りは長崎港に保管されていました。

 小栗上野介は、この機械が横須賀製鉄所(造船所)の建設の際に活用できないかと考え、フランス側に、活用できるかどうか調査を依頼しました。

 フランスのジンソライという海軍士官が調査したところ、この機械は全体的に小振りで馬力もあまり強くないので大きな艦船の造船・修理に活用するのは無理があるものの横浜近辺に据え付けて小さな艦船の修理に活用するのであれば大変有効だという結論でした。

 そこで、横浜港に近い太田川の低沼地を埋め立てて製鉄所を建てることになりました。

 これが横浜製鉄所の発端です。


 「横浜市史」によれば、横須賀製鉄所(造船所)建設のため招かれたヴェルニーは、横須賀製鉄所(造船所)の設立原案の中で、横浜製鉄所についても触れていて、①緊急に着工し年内に竣工すること、②艦船の修理と洋式技術の伝習、製鉄、鋳造、旋盤、製罐、製帆、木工などの工場を建設、鉄工場の中央と後方に蒸気機関を据え付けて工作機械を運転させることなどを提案しています。

 幕府はフランス人海軍士官ドロールを首長(所長)に任命し、慶応元年23日に起工し、建物は早くも824日竣工し、各工作機械を据えて、9月下旬には横浜製鉄所が完成し開業しました。

 幕府が倒れても横浜製鉄所は存続し明治新政府に引き継がれました。

 明治以降の変遷は、横浜市教育委員会の説明のとおりです。


 石川町中華街口は、名前の通り、中華街に行く人々も多く利用する出口ですので、中華街に向かう前に、幕末から明治初期には、当時の最新鋭を誇る機器を備えた工場があったことに思いを巡らしてみてはいかがでしょうか。






# by wheatbaku | 2022-06-20 14:43 | 近代化に貢献した幕臣
横浜の老舗料亭「田中屋」(江戸の老舗)

横浜の老舗料亭「田中屋」(江戸からの老舗)

 坂本龍馬の妻の「おりょうさん」は、坂本龍馬が暗殺された後、土佐の坂本家に引き取られましたが、のちにそこを離れ各地を流転した後、晩年は横須賀で過ごしました。

 その「おりょうさん」がしばらく仲居として働いていたのが横浜の老舗料亭「田中屋」です。「田中屋」は京急神奈川駅からは徒歩5分ですが、横浜駅西口からでも徒歩8分の距離にあります。

  先日、横須賀の「おりょうさん」のお墓をお参りしたあと、この「田中屋」に行ってきました。そこで、今日は「田中屋」のご案内をします。下写真は「田中屋」のエントランスです。

横浜の老舗料亭「田中屋」(江戸の老舗)_c0187004_13074550.jpg
 

 「田中屋」は文久3年(1863)創業ですが、その前身は広重の「東海道五十三次」の「神奈川」に描かれている「さくらや」です。下浮世絵が「神奈川」ですが、右端の道路が東海道で、海側に茶屋が並んでいます。その茶屋の中の坂の頂上から3軒目の茶屋が「さくらや」です。

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 下画像は頂上付近の茶屋の拡大です。奥から3軒目の茶屋の看板が「さくらや」と書かれています。

横浜の老舗料亭「田中屋」(江戸の老舗)_c0187004_13282005.jpg
 

 「田中屋」は現在も旧東海道に面しています。下写真は旧東海道から写した「田中屋」です。歌川広重の絵で茶屋のある場所は上り坂となっていますが、「田中屋」の前の東海道は、写真のとおり保土ヶ谷方向に向かっての上り坂になっています。

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 また、広重の浮世絵で描かれている通り、江戸時代は海が茶屋のすぐ裏側まで迫っていました。現在では「田中屋」の裏側は埋め立てられてビルが立ち並んでいますが、下写真のように急斜面となっていて、地形には、江戸時代のなごりが残っています。

横浜の老舗料亭「田中屋」(江戸の老舗)_c0187004_13074464.jpg
 

 

 「田中屋」は基本的に全席個室とのことで、今回も個室を用意していただきました。(下写真)

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お昼の会席料理をいただきましたので順に紹介します。

前菜

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お椀(あんぺい)

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御造り

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焼物(すずきの蕗味噌焼き)

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煮物(季節の炊合せ)

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御食事・赤だし・香の物

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水菓子(白いおしるこ)

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 料理をいただいている間に、女将さんにご挨拶をいただきました。女将さんは「田中屋」に関する写真をたくさんお持ちいただいて、「田中屋」の歴史について語ってくださいました。非常に気風のよい方でお話が楽しかったです。写真をお願いしたら快諾していただきました。

横浜の老舗料亭「田中屋」(江戸の老舗)_c0187004_13053906.jpg

女将さんのお話では、おりょうさんが「田中屋」で働いたのは、田中屋のすぐそばにアメリカ公使館が置かれた本覚寺があったので、アメリカに渡る準備のためであったと伝わっているそうです。

 女将さんにみさせていただいた写真の中に「おりょうさん」が写っている写真がありました。下写真は田中屋で働いていた人たちが慰安旅行に行った際の写真ですが、赤印が「おりょうさん」だと伝わっているそうです。

横浜の老舗料亭「田中屋」(江戸の老舗)_c0187004_13432884.png

「田中屋」には、明治初期からの写真が多数残されているそうで、階段にその写真が掲示されています。(下写真)

横浜の老舗料亭「田中屋」(江戸の老舗)_c0187004_13464960.jpg


 その中に、「おりょうさん」の写真がありました。

横浜の老舗料亭「田中屋」(江戸の老舗)_c0187004_13074421.jpg

 また、昭和の初めのころの「田中屋」の写真もありました。当時は建物が現在よりも大きくてローマ風呂のある割烹旅館として営業していたようです。

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 おいしい料理と貴重な写真を見させていただき帰る際に玄関で若女将さんにご挨拶をいただきました。

若女将さんも気さくな方で、いろいろお話をさせていただきました。その中で、晝間(ひるま)家は鶴見区の獅子ケ谷の出であるというお話などもありました。

最後に写真をお願いしましたら、「いつもは和服なんですがカフェ風ですみません」と言いながら玄関先にたってくださいました。いや、なかなかカフェ風も素敵だと思います。

横浜の老舗料亭「田中屋」(江戸の老舗)_c0187004_13074498.jpg


実は若女将さんは、2016年5月14日に放送された「ブラタモリ」に出演して、幕末には「田中屋」のすぐ裏手まで海がせまっていたことなどタモリさんに説明しています。

その当時の様子が下記「ブラタモリ 8 横浜 横須賀 会津 会津磐梯山 高尾山」に記されています。

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 家に帰って数日したら女将さんから広重の「神奈川」の浮世絵を使用したお礼のハガキが届きました。美味しい料理、女将さんと若女将さんの楽しいお話、そして貴重な写真、また再訪したいお店です。











# by wheatbaku | 2022-06-09 13:00 | 江戸の老舗
  

江戸や江戸検定について気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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