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岡田啓介首相の記念植樹の槙(まき)〔大宮普門院⑤〕 《小栗上野介ゆかりの地5》

岡田啓介首相の記念植樹の槙(まき)〔大宮普門院⑤〕 《小栗上野介ゆかりの地5

普門院の駐車場と墓地との境に小さな植え込みがあります。その植え込みの中央部に「岡田啓介首相の記念植樹の槙(まき)」があり、手前の本堂側に「徳富蘇峰手植えの松」があります。二本の記念樹は、それぞれ槇と松と言う異なる樹木ですので、間違えることはないと思います。下写真が「岡田啓介首相の記念植樹の槙(まき)」です。

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 今日は、この二本の記念樹のうち「岡田啓介首相の記念植樹の槙(まき)」をご案内します。「徳富蘇峰手植えの松」については次回ご案内します。

 昭和10630日、当時の内閣総理大臣であった岡田啓介が小栗上野介忠順の首塚(当時)をお参りしました。その際に記念に槙(まき)を植樹しました。それが「岡田啓介首相の記念植樹の槙(まき)」です。

 下写真が岡田啓介です。(国立国会図書館デジタルコレクション「近代日本人の肖像」より)

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岡田啓介は、福井市に生まれ、旧制福井中学(現:福井県立藤島高等学校)を卒業し、海軍兵学校に入学・卒業したあと、日清・日露戦争に従軍し、大正9年(1920) 艦政本部長、大正12年(1923) 海軍次官となり、大正13年(1924)海軍大将に昇進し同年連合艦隊司令長官に就任し、大正15年(1926)に横須賀鎮守府司令長官となり、翌昭和2年(1927)田中義一内閣で海軍大臣となり、さらに昭和7年(1932)斎藤実内閣で海軍大臣を務めました。そして昭和9年(1934)に斎藤実の後を継いで内閣総理大臣となりました。岡田啓介首相は、昭和11年(1936226日におきたいわゆる「二・二六事件」で陸軍反乱部隊に襲われましたが、義弟の松尾伝蔵陸軍大佐が身代わりとなり、九死に一生を得ました。

「岡田啓介首相の記念植樹の槙」の脇には、「岡田啓介首相の展墓と記念植樹()解説」と題した説明板があります。(下写真が説明板)

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それには、『海軍の先駆者 小栗上野介忠順正伝』(阿部道山著)の文章を引用して筆記体で次のよう書かれています。なお、タイトルの中にある「展墓」とは墓参りのことです。

「岡田啓介首相の展墓と記念植樹()解説

 私の生涯の思い出として、又小栗上野介顕揚についてこれほど忘れがたいことはない。それはかなり難事業の一つである小栗研究がこれがため大きな刺戟ともなり、又世人が現職の顕官が小栗公の展墓をすると云うことだけで小栗の再検討に眼がそそがれるようになったからだ。

 昭和十年六月三十日、蒸暑い曇天だ。昨夜から村の駐在巡査は大宮署の刑事と共に警護のため普門院に詰めた。そして私の知り合いのA警官はこう云った。『和尚さん、とうとう本物になりましたね』と。

 実はそれほど世人は小栗上野介と云う人物に対しては或る幕末に於ける怪物ぐらいに思っているらしい。そして又何となく、勤王とか志士とかと云うものに反抗でもして斬られた悪人の様に思っていたらしい。まあこれは社会通念上事実であったのだ。それが一躍現職の首相と逓相それに床次大臣は世間では副総理だと称せられていた。その人が揃って来られたのであるから「いよいよ本物になりましたね」と云われるのも無理もないことだと思う。

 午前十時半、首相と逓相とは、斉藤知事の案内で普門院に到着した。懇に小栗上野介の展墓を済ませ、書院で小栗公について色々と語られた。そして私を激励してくれた。本堂で上野介の追善法要が勤修された。首相は講演のあと私に云った。「国家的大偉業の人物を悲惨な最期に終らせたことは誤りであった。今日はお詫びにきた訳です。」大きな人物だなあと私は思った。

 阿部道山著「小栗上野介正伝」より

平成三年五月吉祥  普門四十三世徳山道誌」

 なお、岡田啓介首相は一人だけでお墓参りしたわけではなく、副総理格の逓信大臣床次(とこなみ)竹二郎も一緒にお墓参りをしています。

 また、この説明板に書いてある通り、岡田啓介首相は、小栗上野介忠順のお墓参りをした後、普門院の本堂で講演も行っています。その時の内容が『オール読物』に載ったようで、『海軍の先駆者 小栗上野介正伝』に、記録されています。その全文が次です。

「小栗上野介は我が海軍に取って忘れることの出来ない恩人であります。

小栗上野介は万延元年遣米使節の一人として彼の地に渡り、滞在すること数ヶ月、米国の文物を仔細に見学して世界的の見識を得たのでありますが、その後、文久元年、露国軍艦の対州に来って発砲した時には外国奉行として同地に出張、露国艦長と折衝した際、日本の国防は海に在る。どうしても立派な軍艦を造り強力なる海軍を作らなければ、外国と対抗出来ないと痛感したのであります。

元治元年幕府の勘定奉行を兼ねて軍奉行、今でいえば大蔵大臣兼海軍大臣にも相当する要職に就いたのでありますが、日本の国防のために米国から軍艦を買ひ入れました。そして日本海軍を築きあげるには国内で立派な軍艦を造らなければならないという意見から、横須賀に造船所及鉄工所を創設したのであります。

日清の役、日露の役において、如何にこの横須賀造船所が我が日本のために大きな働きを為したかということは今更述べるまでもありません。

当時、幕府の財政は窮乏に瀕し、僅か千両二千両の金にも困っていたのでありますが、上野介は凡庸俗吏の群議を排して、責任を一身に負い、日本将来の国防という見地から、二百四十万ドルの経費を以て横須賀に造船所を建設し、今日の日本海軍の基を築いたのであります。上野介が造船所建設の案を立てたのは元治元年十一月、仏国全権公使ロセスに諮り、横浜在泊の仏国艦隊司令長官ジョーライスの推薦により仏国海軍技師ウエルニーを造船所建設主任として招くことにしたのであります。

そして翌年慶応元年正月ウエル二ーが上海から来着したので直ちに具体案を定め、九月には工事に着手したのであります。

仏国ツーロン造船所にならい、その規模を三分の二に縮め四ケ年計画として工事を急いだのであります。

当時ニ百四十万ドルは今日の數千万円にも当るでありましょうが、 一日もゆるがせにすることの出来ない国家の急務として断行したものであります。幕府の財政は窮乏し、幕府の権威は衰え、幕府の存在は望み少くなった当時にあって、かかる多額の支出を為して、工事を急いだのは、日本国全体のためであり、一徳川氏のためではなかったのであります。

小栗上野介の尽力で出来上った横須賀造船所及び鉄工所は、明治雄新に際し朝延の収むるところとなり 、始めて神奈川裁判所の管轄に属したのでありますが、明治五年十月海軍の所管となり今日に及んでいるのであります。

慶応四年四月、知行地たる上州権田村に隠棲していた時、逆賊の名の下に殺されたのでありますが、去る大正四年、横須賀海軍工廠開設五十年祭の折、上野介が 造船所創立に致したる国家的功績を認めて、鋼像を建てた次第であります。

小栗上野介は我が海軍に取って忘れることの出来ない恩人であります。この恩人の墓を弔(とむら)うと、ずっと以前から必掛けていたのでありますが、今日始めてかねての希望を逹することが出来ました。これで大きな借金をなくしたような気が致すのであります。

(昭和十年六月三十日、埼玉 大宮在日進村大成山普門院に於ける講演::文責在記者) (九月号「オール讀物」掲載)

 以上が、岡田啓介首相の講演内容です。講演としては決して長いものではありませんが、小栗上野介の生涯および功績を端的かつ見事に語った素晴らしい内容だと思います。


 私が調べた限りでは、岡田啓介首相がこれほどまでに小栗上野介に思いを寄せる理由について明確に書いたものはありませんでした。しかし、その理由は阿部道山師が書いた『海軍の先駆者 小栗上野介正伝』の序文を読むとわかるような気がします。

 そこには、「(前略)私は海軍軍人として感謝に堪えないのは横須賀海軍工廠の紀元である横須賀造船所を万難を排し、巨費を投じて創設せられたことであります。彼は已(すで)に幕末に於て所謂(いわゆる)高度国防施設を断行したといえます。

この点から見ても我海軍建設の祖と謂(い)うも過言ではないのであります。彼は吾が海軍にとりまして忘れることの出来ない恩人であります。(後略)」と書かれています。

岡田啓介首相は、前述の通り艦政本部長や横須賀鎮守府長官を歴任しています。横須賀海軍工廠は横須賀鎮守府に直属している組織であり、海軍艦政本部とは「旧日本海軍の艦船の計画、審査、建造、修理などをつかさどった機関」(「コトバンク」より)で、艦政本部長も横須賀海軍工廠を管理する立場にあります。 

こうしたことから横須賀海軍工廠(もとは横須賀造船所)の歴史もよく知る立場にいたことから横須賀造船所の創設に果たした小栗上野介忠順の功績の大きさを熟知していたものと思います。そうしたことから、岡田啓介首相がお墓参りをしたのは、小栗上野介を海軍の恩人と考えていたからだと私には思えます。



# by wheatbaku | 2026-07-05 10:00 | 小栗上野介
「小栗上野介招魂碑」、海軍省より下付された錨・機雷および横須賀海軍工廠寄贈の大砲〔大宮普門院④〕 《小栗上野介ゆかりの地4》

「小栗上野介招魂碑」、海軍省より下付された錨・機雷および横須賀海軍工廠寄贈の大砲〔大宮普門院④〕 《小栗上野介ゆかりの地4

 

普門院の境内への入口を入ると左手が駐車場となっています。その駐車場の道路側の一画に「小栗上野介招魂碑」が建っていて、その石碑の前に大砲、そして石碑の脇に錨と機雷が設置されています。下写真が「小栗上野介招魂碑」です。招魂碑の題字は、徳川宗家16代の徳川家達です。

「小栗上野介招魂碑」、海軍省より下付された錨・機雷および横須賀海軍工廠寄贈の大砲〔大宮普門院④〕 《小栗上野介ゆかりの地4》_c0187004_17014050.jpg


昭和91125日に除幕式が行われました。この除幕式には黒井悌次郎海軍大将(元横須賀海軍工廠長)、横須賀海軍工廠長村田豊太郎海軍中将が出席したほか、総理大臣岡田啓介・海軍大臣大角岑生・文部大臣松田源治のそれぞれ代理が祝辞を述べています。

下写真は除幕式の記念写真です。(国立国会図書館デジタルコレクション「阿部道山著『海軍の先駆者小栗上野介正伝』」より)

「小栗上野介招魂碑」、海軍省より下付された錨・機雷および横須賀海軍工廠寄贈の大砲〔大宮普門院④〕 《小栗上野介ゆかりの地4》_c0187004_18481346.jpg


招魂碑の前に説明板があり、それには筆記体で次のように書かれています。(説明板写真は後記)

小栗上野介招魂碑、大砲、機械水雷、錨 解説

小栗家代々の菩提所たる普門院では、幕末の英傑小栗上野介忠順公のため雄大なる招魂碑を建設することになった。勿論檀家と一致協力した結晶であって色々な苦心と努力の跡でもあった。

昭和九年十一月廿五日芽出度く除幕式が挙行せられた。そこで私は熟慮の末ひとり決意をして、翌年十月二十一日左の如き文書を海軍省に提出した。

  廃兵器無償下附の件出願

普門院ハ小栗上野介祖先以来三百有餘年ノ菩提所ニシテ曹洞宗ノ名刹ニ有之候。小栗上野介殿ハ幕末ニ於ケル偉人ニシテ殊ニ俗論ヲ排シ横須賀ニ造船所ヲ建設シ以テ国防海軍ノ基礎ニ偉大ナル功績ヲ貽シタルモノニ候。吾人ハ此ノ高大ナル気魄ト甚深ナル忠誠ヲ後昆ニ傅フル為メ普門院境内ニ地ヲトシ小栗上野介招魂碑ヲ建立シ除幕式ヲ挙行シタルハ實ニ昭和九年十一月二十五日ニ有之候。当日ハ岡田総理大臣閣下ヲ初メトシテ海軍顕官ノ御臨席並ニ祝辞ヲ賜リタルハ最モ光栄トスル所ニ候。護国興禅ハ本宗ノ命脈ニシテ小栗上野介我ガ海軍ニイタシタル功績ハ萬世不朽ニシテ碑前ニ廃兵器ヲ設置スル事ヲ得バ意義深キコトニシテ碑ヲ拝スル者皆襟ヲ正シ我ガ海軍ノ思慮ヲ感得スルハ勿論、海軍思想普及上効果大ナルコトヲ信ジ候條、特別御詮議ニ依リ御下附願上候也。

これに対し、海軍大臣は、調査協議の上愈々小栗上野介は功臣也、海軍功労者也と断ぜられ、横須賀鎭守府司令長官に訓令を発し、碑前に錨と大砲と機雷各一個宛を下附するようにと命を下した。

そこで該長官から埼玉県庁を通じ、村役場を経て、三月十日私に海軍省公達があったわけだ。

小栗上野介公の汚名は已に前記した事実において雪がれているわけである。

 

私は先年小栗家の子孫である小栗貞雄翁から直接聞いた話であるが、「もし世は何んとしても、上野介の子孫として、少しの思い残す所はありません。然かも小栗の心血を注いだあの軍港を見渡して永遠に小栗の胸像が立てられた。又畏くも皇后陛下様の御下賜金を拝受し、更に小栗の写真が宮中に於て、皇后陛下様の御台覧の光栄に浴し、実に忝けない極みであります。」

とあのときの翁の感激は今なお私の眼底に彷彿と残っている。

 この一事こそ、私の生涯を通じてどうしても消え得ない

   阿部道山著「小栗上野介正傳」より

  昭和六十二年七月吉祥  普門四十三世徳山道誌」

「小栗上野介招魂碑」、海軍省より下付された錨・機雷および横須賀海軍工廠寄贈の大砲〔大宮普門院④〕 《小栗上野介ゆかりの地4》_c0187004_17020615.jpg

この説明により、「小栗上野介招魂碑」は、昭和9年に建立されたものがわかりますが、その建立の経緯ははっきりしません。しかし、普門院の阿部道山師が建立を主導し、大成村の村民たちの協力を得て建てられたものと思います。

なお、説明板には、「阿部道山著『小栗上野介正傳』より」と書いてありますので、阿部道山師の『海軍の先駆者 小栗上野介正伝』と比べてみました。ごく一部で表現が異なっていたり、前段の部分と後段の部分の構成が異なっていたりしていますが、大方は『海軍の先駆者 小栗上野介正伝』に沿っていました。


招魂碑の隣には「招魂碑寄付芳名」と刻まれた石碑があります。(下写真の中央が招魂碑、その右が説明板、芳名碑はその右の四角の石碑)

「小栗上野介招魂碑」、海軍省より下付された錨・機雷および横須賀海軍工廠寄贈の大砲〔大宮普門院④〕 《小栗上野介ゆかりの地4》_c0187004_17024120.jpg

その石碑により寄付した人たちの名前がわかります。冒頭に「日進村補助金」とありますが、ほとんどの寄付者が個人ですが、総数で個人557名、4団体、2ケ寺となっているようです。なお、大成村は、明治22年に合併により日進村となっていますので、寄付者の多くは旧大成村の人々だと思われます。


招魂碑の前に設置されている大砲は横須賀海軍工廠から寄贈されたものです。(下写真) 青銅製の大砲とのことですが、その由来等は不明です。

「小栗上野介招魂碑」、海軍省より下付された錨・機雷および横須賀海軍工廠寄贈の大砲〔大宮普門院④〕 《小栗上野介ゆかりの地4》_c0187004_17041320.jpg


招魂碑の左右に設置されている機雷と錨は海軍省から下付されたもので、機雷と錨は第一次世界大戦で地中海派遣艦隊の一艦としてヨーロッパに遠征した二等駆逐艦「榊(さかき)」のものです。下写真は錨です。

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「榊」の錨は上写真で、機雷が下写真です。

「小栗上野介招魂碑」、海軍省より下付された錨・機雷および横須賀海軍工廠寄贈の大砲〔大宮普門院④〕 《小栗上野介ゆかりの地4》_c0187004_17044309.jpg

駆逐艦「榊」は、大正4年に佐世保海軍工廠で建造され、第一次世界大戦では、第二特務艦隊の一隻として地中海に派遣され連合国の艦船の護衛任務にあたりました。その任務の最中にはドイツ外軍の潜水艦Uボートからの攻撃を受けて沈没しようとするイギリス艦船を救援しイギリス国王から勲章を授与されるほどの栄誉に浴しました。しかし、その護衛任務中に水雷攻撃をうけ多くの乗組員が戦死するという悲劇もありました。

駆逐艦「榊」の第一次世界大戦での活躍については長崎県佐世保市の「佐世保市民文化ホール(愛称:凱旋記念ホール)」のホームページに詳しく書かれていますので、下記リンクからご覧ください。

佐世保市民文化ホールは旧海軍佐世保鎮守府凱旋記念館とも呼ばれ、「榊」をはじめとした第二特務艦隊の活躍を称えて大正125月に建設されたもので、平成9年(1997年)に国の有形文化財に登録された貴重な建物です。(下記写真は佐世保市民文化ホールからお借りしました。)

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# by wheatbaku | 2026-06-26 17:00 | 小栗上野介
小栗上野介忠順の供養塔〔大宮普門院➂〕 《小栗上野介ゆかりの地3》

小栗上野介忠順の供養塔〔大宮普門院➂〕 《小栗上野介ゆかりの地3》

 大宮普門院の小栗一族の墓所の中に小栗上野介忠順の供養塔もあります。(下写真)

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現在の普門院のHPでは供養塔とされていますが、これが建てられた当初は首塚と呼ばれていて、小栗上野介忠順の首が埋葬されていたとされていました。

 普門院四十二世住職の阿部道山著の『海軍の先駆者 小栗上野介正伝』の中の「小栗上野介の首級とその墓」によれば、小栗上野介の用人武笠祐左衛門の息子の武笠銀助という人物が、上州の烏川の畔でさらし首にされた小栗上野介の首を大宮の普門院まで持参したと次のように書かれています。

「銀助は父(*用人武笠祐左衛門)の命に従って群馬、権田に行った。そして、又一(*小栗上野介の養子)に従って高崎藩に預けられた。無謀にも慶応四年四月六日上野介外三名を斬首した翌日、同じく斬首した。小栗又一、従者塚本真彦、従者多田金之助、従者沓掛藤五郎の諸氏である。銀助も勿論斬られる数に入っていたのである。彼はどうしたことか、厳重な監視の眼をくらまして逃亡した。そして烏川畔に梟(きょう)された上野介の首を持って関東に下り、菩提所の普門院に到り、大猷和尚に面し始祖忠政公墓側に秘葬して、身を母方実家たる永田家に隠したのである。(後略)」と書いてあります。これに従えば、小栗上野介忠順の首級は普門院の小栗忠政のお墓の側に埋葬されたことになります。

 しかし、小栗上野介忠順のお墓のある群馬県高崎市の東禅寺のホームページには、この小栗上野介忠順の首級が普門院に埋葬されていることを疑問視する見解が「お殿様のお首級(おくび)迎え」の中に書かれています。それには、小栗上野介忠順の首級は、烏川畔に一時(いっとき)さらされた後に高崎に送られ、翌日には養子又一の首級とともに舘林にあった東山道鎮撫総督に送られているので、武笠銀助が烏川畔から小栗上野介の首級を持ち帰ることは不可能であると書いてあります。詳しくは、インターネットで「お殿様のお首級(おくび)迎え」で検索すると「参考ページ『小栗上野介正伝』の錯誤-東禅寺」と書かれたページがありますので、それを御覧ください。

 なお、高崎市の東禅寺のHPには小栗上野介忠順に関する情報が満載です。下記リンクからご覧ください。


 このような否定的な見解についても配慮したのか、現在の普門院のホームページには、「前記三十基の墓の内、上野介忠順の墓については、それがはたして首塚であるか否かには諸説あり、史料による確証はありません。」と書いてあり、小栗上野介忠順の墓とは明言していません。

 私自身は、小栗上野介忠順の首が埋葬されているのは群馬県の東禅寺ではないかと考えていて、普門院のそれは供養墓だと思っています。

 小栗上野介忠順の曽孫である漫画家小栗かずまた氏は、「小栗上野介のお墓は都内某所と群馬県の二箇所にありますが、小栗上野介の遺骨は現在、群馬県の東善寺というお寺に移してあるので、お墓参りをしたい方は、そちらでよろしくお願いします」 (2025-03-03オリコンニュース “『テンテンくん』作者、先祖が大河ドラマ化で驚き 『逆賊の幕臣』主人公の小栗上野介忠順「信じられません」” より)

小栗かずまた氏は小栗家の現当主ですので、現在の小栗家では、群馬県高崎市にある東禅寺の墓が小栗上野介忠順の墓と考えているようです。

下写真が東禅寺にある小栗上野介忠順のお墓です。本堂の裏山の山中にあります。小栗上野介忠順と一緒に養子の小栗又一忠道も眠っています。

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下写真は、本堂の脇にある小栗上野介忠順と小栗又一忠道の供養墓です。右側が小栗上野介忠順の供養墓です。

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 小栗上野介忠順がどこに眠っているかの議論は脇におくとして、小栗上野介忠順は、大宮の普門院には特別の思いを持っていたようです。小栗上野介が幕府が崩壊したあと普門院に家康から拝領した信国の鎗を預けたり、上州権田村に隠棲するために中山道を下る途中で普門院に立ち寄ったりしています。

 小栗上野介忠順が残した『小栗上野介日記』の中に普門院に関連する事項が書かれていますので、紹介します。

⑴慶応四年一月十九日に次のように書かれています。(原文はカタカナまじり文ですので、適宜読みやすいように私なりに修正しています)。

「一 大成村普門院へ祠堂金五十両祐左衛門へ持たせ今朝出立致す。此節からにつき拝領御鎗ならび具足当分のうち同寺に預け置き申し候。」

ここで、小栗上野介忠順は、用人の武笠祐左衛門に普門院へ祠堂金五十両を届けさせたうえで、時節柄から家康より拝領した家宝の信国の鎗と具足を普門院に預けたことが書かれています。

⑵慶応四年 二十八日には次のように書かれています。(原文はカタカナ交じり文で少し読みにくいので、読みやすく修正しています)

「一 朝五時前、御母様、お道(*上野介の妻)、およき*上野介の養女)を出立させる。引き続き自分ならびに又一(*上野介の養子)同道にて発足いたす。夕七つ半時すぎ桶川宿へ着泊候

一 途中大成村普門院へ参詣致し候」

 小栗上野介忠順は、権田村に向かう途中で、普門院に立ち寄ってお参りしたようです。

 ところで、「小栗上野介日記」は、現在は、群馬県の重要文化財に指定されていますが、この日記は、戦後の昭和27年の渋川市で発見されました。それが発見された経緯は不思議な経緯ですが、「渋川郷学5人の師匠たち~ゆかりの地めぐり~」というPDFに次のように書かれていますので、引用して紹介します

「小栗上野介日記及び家計簿 (中略) 上州諸藩の軍事的指揮権のすべてを握った大音龍太郎の命により、藍園の子・堀口文平や後藤八郎右衛門らが権田村に行き、小栗の残した荷物の整理をしました。このとき、大音の許可を得て渋川へ持ち帰られた書物の中にあったのが、この小栗上野介日記及び家計簿です。この小栗の日記等は、当時朝敵とされた小栗の所有物であったため筺底に秘蔵されていましたが、郷土史研究家の本多夏彦が昭和279月、史料調査の折に発見し、世に出ることになったとのことです。」

 ここに出ている「藍園」とは、幕末から明治にかけて渋川を拠点に活躍した学者・教育者の堀口藍園のことです。

 堀口文平が小栗上野介日記や家計簿を持ち帰り秘匿しておいてくれたお陰で、小栗上野介忠順の様子がよくわかることになったようです。



# by wheatbaku | 2026-06-19 17:00 | 小栗上野介
小栗信由・小栗信友の墓〔大宮普門院②〕 《小栗上野介ゆかりの地2》

小栗信由・小栗信友の墓〔大宮普門院②〕 《小栗上野介ゆかりの地2》

 大宮の普門院の小栗忠政一族の墓の中には忠政の二男小栗信由(のぶよし)と三男信友の墓の墓もあります。今日は、この二人について書いてみます。

小栗信由の墓(下写真が忠政の二男信由の墓です)

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信由は、『寛政重修諸家譜』によれば、徳川家康に仕え、大坂冬の陣・夏の陣で功績をあげており、元和2年に父の采地のうち武蔵国足立郡で550石を拝領し、後に200石を加増され、都合750石となったと書いてあります。

信由が大成(おおなり)を治めたことから、信由の系統は代々普門院を菩提寺としており、普門院には、二代信政、三代信行、四代信倚(のぶより)、五代信霽(のぶはる)、六代信崇(のぶたか)、八代信任の墓が現存しています。

下写真が小栗一族のお墓群です。写真の最左端の笠塔婆形の墓石が小栗信由のお墓です。 その右隣の板碑型の墓石が信友のお墓で、さらにその右手に続く笠塔婆型の墓石が信由家の歴代当主のお墓です。

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ところで、小栗信由の通称は仁右衛門ですが、インターネットで小栗仁右衛門を検索すると『講談社デジタル版日本人名大辞典+Plus』 に次のように書かれています。

「小栗仁右衛門おぐりにえもん 15891661 江戸時代前期の武士,武術家。

天正17年生まれ。徳川家康・秀忠につかえて小姓組番士となる。柳生門下で,『鞠身(きくしん)』といわれる秘術で知られる小栗流和(やわら)術の祖。門人に山鹿素行、朝比奈可長(よしなが)がいる。寛文元年66日死去。73歳。三河(愛知県)出身。名は正信(一説に信由)。」

 小栗流とは、坂本龍馬が高知で習っていた武術・剣術としてよく知られています。

 また『ウィキペディア(Wikipedia)』の「小栗正信」の項で、「通称は仁右衛門。諱は信由(のぶよし)とも」として、同様な内容が書かれています。

 これらによれば、小栗信由は、通称が仁右衛門で、本名は小栗正信とも呼び、小栗和(やわら)術の創始者とだされています。本当であれば、小栗信由は坂本龍馬とも縁があることとなり、興味深いことになります。

 しかし、『寛政重修諸家譜』では、小栗信由の通称は仁右衛門ですが、その別名が正信とは書かれていませんし、武道家だったとは一言も書いてありません。『寛政重修諸家譜』は小栗家が幕府に提出した由緒書に従って書かれているものです。その『寛政重修諸家譜』に書かれていないので、この件については、私自身は現時点では確証がありません。また機会があったら調べてみようと思います。


小栗信友の墓(下写真が忠政の三男信友の墓です)

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 上記の小栗一族のお墓群の写真の説明の中で、最左端の笠塔婆方のお墓が小栗信由のお墓で、その右隣の板碑型のお墓が小栗信友のお墓だと説明しましたが、小栗信友のお墓は板碑型で、信由系の当主のお墓が笠塔婆型であるのと比べて、少し違和感があり、板碑型のお墓が信友のお墓なのか疑問に思いました。そこで少し調べてみました。

『寛政重修諸家譜』で確認してみると信友が亡くなったのが「天和元年六月八日」、法名は「夢成」と書かれています。

 墓石の表面もかなり薄れていますが、よく見てみると延宝九辛酉月八〇と読めました。(※延宝9929日に「天和」に改元されています。そのため、信友が亡くなった時点での元号は『延宝』です。『寛政重修諸家譜』には天和元年とされていますが、改元の日にちまで厳密に考えなかったことから延宝9年を天和元年としたものと思います。) さらに法名の「夢成」も墓石に刻まれているように思われました。 

 そうしたことから、信由の右隣のお墓が信友のお墓だと判断しました。〔万が一間違いでしたらお許し下さい。〕

 さて、信友は忠政の三男として生まれ、『寛政重修諸家譜』によれば、2代将軍徳川秀忠に仕え、大坂冬の陣・夏の陣に小姓組の番士として出陣し、戦後三百三十石を拝領して、のちに五百五十石に加増されています。信友の系統も代々続きますが、子孫のお墓は普門院ではなく、麹町福寿院にありました。福寿院は、現在は杉並区高円寺南2丁目に移転しています。

 千代田区の水道橋駅近くに「小栗坂」という坂があります。 江戸時代の「切絵図」にも「小栗坂」と書かれていますので、江戸時代から「小栗坂」と呼ばれていたようです。下図の上部の緑色の部分が神田川で左端が水道橋です。その右が神田川に架かっていた神田上水掛樋(かけひ)です。その中間の南側に「小栗坂」があります。下地図の赤で囲った部分です。

小栗信由・小栗信友の墓〔大宮普門院②〕 《小栗上野介ゆかりの地2》_c0187004_16480775.jpg
 


 千代田区が設置した標示板には「千代田区内に多く存在する人名にちなんで名付けられた坂道の一つで、江戸時代の初めに、坂下の路地を入ったところに七百三十石取りの旗本小栗家の屋敷があったことから名付けられました。」と書かれています。(下写真)

小栗信由・小栗信友の墓〔大宮普門院②〕 《小栗上野介ゆかりの地2》_c0187004_09302260.jpg

 しかし、以前の説明板には、現在のものより詳しく説明がされていて、小栗坂という名前は江戸時代の初期に小栗信友の屋敷があったことにより命名されたようです。
「この坂を小栗坂といいます。『江戸惣鹿子名所大全』には「小栗坂、鷹匠町にあり、水道橋へ上る坂なり、ゆえしらず」とあり、『新撰東京名所図会』には「三崎町1丁目と猿楽町3丁目の間より水道橋の方へ出づる小坂を称す。もと此ところに小栗某の邸ありしに因る」とかかれています。明暦3年(1657)頃のものといわれる江戸大絵図には、坂下から路地を入ったところに小栗又兵衛という武家屋敷があります。この小栗家は『寛政重修諸家譜』から、七百三十石取りの知行取りの旗本で、小栗信友という人物から始まる家と考えられます。 昭和50年(19753月 千代田区」

 


[補足】〈『寛政重修諸家譜』に載っている小栗一族〉

 『寛政重修諸家譜』を読んでみると多くの小栗家が記載されています。そこで、小栗一族がどのような関係なのか調べてみました。

数えてみると後記の9家の小栗家が記載されていました。ただし、そのうちの後記の最下段❾の小栗吉次家は、江戸時代前期の天和年間に改易されていますので、『寛政重修諸家譜』を編纂した時代には小栗一族は8家あったということになります。

 [ ]に書かれた名前が、『寛政重修諸家譜』の筆頭に載っている人物名です。

 ❶ 1[吉忠-忠政] 小栗一族の本家。

        小栗上野介忠順は小栗本家の12代当主です。

 ❷ 2[信由]忠政の二男 通称二右衛門 

 ❸ 2-1[信則(のぶのり)]信由の二男 通称源之助・又左衛門 

 ➍ 3[信友]忠政の三男 通称又兵衛

 ❺ 3-1[信常] 信友の三男 半蔵 甚兵衛

 ❻ 3-2[信盛] 信友の四男

 ❼ 3-2-1[信伊(のぶただ)] 信盛の二男

 ❽ 4[忠次] 忠政の四男 半右衛門

 ❾ 1-1[吉次] 小栗仁右衛門吉忠の二男 長男は忠政


                       以  上




# by wheatbaku | 2026-06-12 20:30 | 小栗上野介
小栗忠政の墓〔大宮普門院①〕《小栗上野介ゆかりの地1》

小栗忠政の墓〔大宮普門院①〕《小栗上野介ゆかりの地1》


 2027年のNHK大河ドラマは小栗上野介忠順(ただまさ)を主人公とした『逆賊の幕臣』です。そこで、少しずつですが、小栗上野介忠順に関する事柄について書いてみます。

 最初は、小栗上野介忠順のゆかりの地の一つである大宮の普門院について書いてみます。

普門院は、さいたま市大宮区大成(おおなり)町にある曹洞宗のお寺です。JR大宮駅西口から徒歩で20分の距離にあります。下写真は寺院入口の写真です。

小栗忠政の墓〔大宮普門院①〕《小栗上野介ゆかりの地1》_c0187004_20552240.jpg

普門院は、室町幕府三代将軍足利義満の時代の応永33年(1426)に創立された古いお寺です。 

ここには、小栗上野介忠順の先祖にあたる小栗忠政のお墓があります。

普門院の入口には「大宮市特定文化財 大成領主 小栗忠政一族の墓」と書かれた標柱が建てられています。下写真の左端の白っぽい標柱です。

小栗忠政の墓〔大宮普門院①〕《小栗上野介ゆかりの地1》_c0187004_20554871.jpg

 普門院について、『大宮市史』には次のように書かれています。「寺伝によれば、普門院の開基の金子駿河守家光は、大成(おおなり)および植田谷領佐知川村(現西区佐知川)をながく領知した武士である。家光は金子十郎家忠の後裔で五代の末孫と伝えられ、大成に居館を構えていたという。

たまたま応永三十三年(1426*室町幕府三代将軍足利義満の時代、曹洞宗の巨匠月江正文禅師が東国巡錫(じゅんしゅく)のおり、大宮氷川神社の社頭に仮泊したが、その夜霊夢に感応し、このことを知った神主の案内で、金子駿河守の大成館を訪れた。駿河守は禅師の高徳に帰依し、剃髪し幻公庵主と称し、その居館を寺として山号を大成山、寺号を普門院と称したと伝えられている。」

普門院は、金子駿河守が構えた大成館(おおなりやかた)に創建された寺院であるため、上写真の石製の標柱には、「大宮市指定史跡 大成館跡」と書いてあります。

 下写真が普門院の本堂です。

小栗忠政の墓〔大宮普門院①〕《小栗上野介ゆかりの地1》_c0187004_20560399.jpg

 本堂の裏側に、小栗忠政一族のお墓があります。小栗忠政のほか、大成領を受け継いだ忠政の次男小栗信由(のぶよし)をはじめ信由家の歴代当主の墓、さらに忠政の三男信友の墓もあり、すべてで30基の墓があります。

 下写真は小栗忠政一族の墓全体写真です。

小栗忠政の墓〔大宮普門院①〕《小栗上野介ゆかりの地1》_c0187004_20562289.jpg

 墓の入口脇に下記の内容の説明を刻んだ石製の説明板(写真は下記)が普門院によって設置されています。

大成領主小栗忠政一族の墓  さいたま市指定文化財(史跡)

 小栗忠政は十三歳で徳川家康の小姓となった。近江姉川の戦いで、敵が家康近くに攻めてきたのを見て、傍らにあった家康所有の信国の槍を取って渡り合った。人々馳せよってその敵を討ち取った。家康は、忠政がまだ十六歳という若年なのに心利いた働きをした、一番槍にも等しいとその槍を忠政に与えた。その後も数々の戦で随一の働きをしたので又(また一番)と称するように言われた。その功により、武州足立郡大成村五五〇石を含む二五五〇石の采地を与えられた。元和二年(一六一六)に亡くなると普門院に葬られた。

 忠政の采地のうち二〇〇〇石を長男政信が継いだ。代々又ーと称し葬地は牛込保善寺である。大成村五五〇石は二男信由に与えられた。信由は上総長柄郡の内(現茂原市)に二〇〇石を加贈され、都合七五〇石を知行した。寛文元年(一六六一)に亡くなり普門院に葬られた。代々仁右衛門と称し、小姓組番、書院番を勤め、普門院を葬地とした。普門院には小栗忠政夫妻と忠政二男信由一族、そして忠政三男信友夫妻が葬られている。

 [以下、小栗上野介忠順について書かれているがここでは省略する]

下写真が石製の説明板です。

小栗忠政の墓〔大宮普門院①〕《小栗上野介ゆかりの地1》_c0187004_20564244.jpg

小栗忠政の墓は小栗一族の墓所の最奥部にあります。

 小栗家は、徳川家康の先祖である松平家から別れた一族との伝承があり、小栗忠政は、その四代目とされています。小栗忠政とその二男信由、三男信友について、大宮市史第五巻民俗文化財編(昭和44920日発行)には次のように書かれています。

「小栗一族は松平氏の後裔で、徳川将軍家とは関係深い由緒ある家柄である。同家四代忠政は姉川の戦いに功あって家康から「又々一番の功名」とのことから又一の名と、信国の名槍をもらい、その後の歴戦に活躍、二千五百五十石を与えられた高名の旗本である。信由は忠政の二男で、大坂夏の陣に功あって別に一家をおこし、父の采地大成村五百五十石を分知され、さらに寛永2年(1625)上総国で二百石を加増され、七百五十石の旗本となっている。

 采地大成村は信由の息子二代信政、三代信行と襲封、途中信行の代、すなわち延宝元年(1673)に天領となり、明和五年(1768)五代信霽の時、再び小栗家の采地に復し、以後六代信崇、七代信厚、八代信任、九代信将とこれを襲封、明治元年武蔵知事管轄となっている。

 信友は忠政の三男で別に一家をおこし、下総国で五百三十石を知行した旗本である。(後略)」

小栗忠政の墓は下写真です。墓には、右側に「元和二年丙辰 施主」中央に「為 源室宗本大禅定門」左側に「九月十八日 敬白」と、法名や命日が刻まれていたようですが、法名等の多くは崩れていて読み取ることが困難ですが、かろうじて「為 源室○○〇〇定門」「元和」「九月十八」等が読めます。

小栗忠政の墓〔大宮普門院①〕《小栗上野介ゆかりの地1》_c0187004_20570437.jpg

 「寛政重修諸家譜」では小栗忠政についてかなり詳しく書かれています。次はその一部です。原文を私なりに現代語訳して記します。

「永禄10年東照宮につかえて、御小姓をつとめた。時に13歳であった。元年姉川の戦いの際、忠政は16歳であった。敵兵が家康のすわっている床几のすぐそばまで攻めてくるのをみて、家康のそばにあった信国の槍をとってわたりあううちに、ありあう人々が集まってきて、その邸を討ち取った。家康は忠政が若年でありながら心きいた働きに感心して、一番槍に等しい働きであるとして先ほどの槍を賜った。この後もまた随一の働きをしたので、感心のあまり、これからは、又一と改めるようにと言われた。(後略)」(※『東照宮御実紀付録巻二』にも、このことが書かれている。)

 小栗忠政は、小栗家を中興し、上野国邑楽(おうら)郡(現在の群馬県館林市周辺)、多胡(たこ)郡(現在の群馬県高崎市周辺)、武蔵国足立郡(現在のさいたま市周辺)および下総国矢作領(現在の千葉県香取市周辺)に2550石の領地を拝領していました。小栗忠政が死んだあとは、2000石を長男政信が襲封し、大成村は次男信由が襲封しました。そのため、普門院には、大成を襲封した信由系の歴代当主の墓はありますが、小栗家宗家である長男小栗政信は江戸の保善寺に埋葬され、以降政信系の歴代当主は保善寺に埋葬されることとなりました。なお、保善寺は、江戸時代には、牛込にありましたが、現在は、中野区上高田に移転しています。


 小栗忠政の二男信由と三男信友の墓については次回書きます。


 下記地図の赤印が普門院です。右下がJR大宮駅です。







# by wheatbaku | 2026-06-05 20:45 | 小栗上野介
  

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