人気ブログランキング | 話題のタグを見る
旧前田家本邸和館は迎賓機能を持っていた!(駒場散歩➂)

旧前田家本邸和館は迎賓機能を持っていた!(駒場散歩➂)

旧前田家本邸は、洋館と和館からなりたっています。洋館は前田家の日常生活を営む場所で、和館はお客様を接待する迎賓施設でした。洋館については既にご紹介しましたので、今回は和館について私が注目したところを紹介します。下写真は和館の門と塀です。これらも重要文化財です。

旧前田家本邸和館は迎賓機能を持っていた!(駒場散歩➂)_c0187004_17381802.jpg

和館は木造二階建てで、一階北面に玄関を設け、西側は渡廊下で洋館と接続しています。和館の設計は、帝室技芸員・佐々木岩次郎らが行いました。下写真は玄関です。

旧前田家本邸和館は迎賓機能を持っていた!(駒場散歩➂)_c0187004_17322997.jpg

1階は「御客間」と「御次之間」となっていて、全体で40畳もある大きな広間となっています。「御客間」の床の間は二間ある大きな床で、窓側は付書院となっています。そして違い棚は鳥居型をしています。下写真は鳥居型の違い棚です。

旧前田家本邸和館は迎賓機能を持っていた!(駒場散歩➂)_c0187004_17322855.jpg

「御客間」の欄間は、素晴らしい透かし彫りでした。

旧前田家本邸和館は迎賓機能を持っていた!(駒場散歩➂)_c0187004_17322852.jpg

和館の2階は通常非公開でガイドの案内がないと見学できないそうですが、今回の散歩ではガイドの方の案内が準備されていたので、2階も見学することができました。

2階への階段踊り場には白タイルの浴室とトイレがありました。

旧前田家本邸和館は迎賓機能を持っていた!(駒場散歩➂)_c0187004_17345207.jpg

階段を登り切った2階の手すりは蝙蝠(こうもり)の形となっていました。

旧前田家本邸和館は迎賓機能を持っていた!(駒場散歩➂)_c0187004_17345179.jpg

2階は「御居間」と「御書斎」の二部屋があります。「御書斎」の杉戸絵は橋本雅邦が描いたもので、本郷邸で使用されていたものです。

旧前田家本邸和館は迎賓機能を持っていた!(駒場散歩➂)_c0187004_17345277.jpg

2階の窓は火灯窓となっている窓もあります。

旧前田家本邸和館は迎賓機能を持っていた!(駒場散歩➂)_c0187004_17345022.jpg

2階から見下ろした庭園は見事でした。

旧前田家本邸和館は迎賓機能を持っていた!(駒場散歩➂)_c0187004_17345084.jpg




# by wheatbaku | 2024-05-27 17:30
旧前田家本邸の洋館は華族の邸宅のすごさがわかる(駒場散歩②)

旧前田家本邸の洋館は華族の邸宅のすごさがわかる(駒場散歩②)

今回は、駒場散歩の2回目で、旧前田家本邸のうち洋館をご案内します。旧前田家本邸は、旧加賀藩主の前田家第16代当主の前田利為(としなり)が自邸として建てたもので、洋館と和館からなります。下写真は洋館の玄関です。前面に張り出した車寄が特徴となっています。

旧前田家本邸の洋館は華族の邸宅のすごさがわかる(駒場散歩②)_c0187004_22021657.jpg
 江戸時代、加賀藩前田家の上屋敷は、現在は東大本郷キャンパスとなっている本郷にありました。明治になって、約10万坪あった上屋敷の大部分は文部省の管轄下となり、のちに東京帝国大学となりました。一方で前田家は、上屋敷の南西部1万坪を本邸としていました。前田家本邸には洋館が明治40年に建設され、明治天皇が行幸したこともあります。前田家当主前田利為(としなり)は、15代前田利嗣には男子がなかったため、加賀藩の支藩である上州七日市藩前田家から前田利為(としなり)が養子となり、明治33年家督を相続し16代当主となりました。下写真は館内に掲示されていた前田利為(としなり)一家の集合写真です。軍服姿が前田利為(としなり)です。昭和17年にボルネオ方面軍最高司令官として出征する直前に撮られたものです。ちなみに、前田利為(としなり)は、昭和17年、ボルネオで飛行機事故により戦死しています。
旧前田家本邸の洋館は華族の邸宅のすごさがわかる(駒場散歩②)_c0187004_22120703.jpg

前田利為(としなり)は、元加賀100万石の大名家の当主でありながら時代の趨勢を考慮して質素・簡易な生活を志向していたそうです。一方、関東大震災で大きな被害を受けた東京帝大はキャンパスの拡張を企図しました。そこで、東京帝大は、前田利為(としなり)に、駒場の農学部敷地4万坪との土地交換を申し入れました。前田利為(としなり)は、この土地の交換に応じ、駒場に本邸が移ることになりました。そして、洋館が昭和4年(1929)、和館が昭和5年に建てられました。現在は、洋館は東京都、和館と敷地は目黒区が管理しており、平成25年に「旧前田家本邸」として国の重要文化財に指定されています。

旧前田家本邸の洋館は華族の邸宅のすごさがわかる(駒場散歩②)_c0187004_22021745.jpg
 最初は洋館のみを建設する予定だったそうですが、のちに賓客をもてなすための施設として和館も建設されました。上写真は南面から写した旧前田家本邸の全景です。南面のベランダの上をよく見ると、翼を持ったライオン像があります。(下写真)
旧前田家本邸の洋館は華族の邸宅のすごさがわかる(駒場散歩②)_c0187004_22021697.jpg

洋館1階は社交の場で、2階は家族の生活の場でした。旧前田家本邸洋館の平面図を見ると西向きにある玄関を入ると階段広間があり、階段広間の南側に西から東に順に応接室、サロン、小客室、大客室の各室が並んでいて、東側には大食堂と小食堂があります。下写真は玄関ホールを入って正面の階段広間です。

旧前田家本邸の洋館は華族の邸宅のすごさがわかる(駒場散歩②)_c0187004_22123645.jpg

階段の下にはイングルヌックが設けられています。イングルヌックとは暖炉脇の小さなスペースをいい、ここでは、小さな談話室のような役割を果たしていたようです。(下写真)

旧前田家本邸の洋館は華族の邸宅のすごさがわかる(駒場散歩②)_c0187004_11425406.jpg

ここの窓ガラス(上写真の右手)はステンドグラスでした。中庭側から差し込む光の効果を考えて上部のほうが色が濃くなっています。(下写真)

旧前田家本邸の洋館は華族の邸宅のすごさがわかる(駒場散歩②)_c0187004_11423989.jpg

玄関ホールの左手にあるサロンは、玄関ホールに続いたお客様の待合です。黒色大理石のマントルピースとその上の大きな鏡が注目されます。黒色大理石はヨーロッパから輸入したもので、大きな鏡は部屋を広く見せるための工夫だそうです。下写真は、大鏡とマントルピースの説明を聞く参加者たちです。

旧前田家本邸の洋館は華族の邸宅のすごさがわかる(駒場散歩②)_c0187004_22042560.jpg

「大食堂」は晩餐会用で、最大で26人までのディナーができたとのことです。白大理石のマントルピースが中央に据えられていますが、これは暖房用ではなくいわば「床の間」で正面をはっきりさせるためだそうです。下写真は大食堂で説明を聞く参加者たちです。写真中央がマントルピースです。

旧前田家本邸の洋館は華族の邸宅のすごさがわかる(駒場散歩②)_c0187004_22042585.jpg
 
 小食堂は、家族の食事に使用されていました。厨房は地下にあり料理は小型エレベーターで運ばれたそうです。下写真は小食堂で説明を聞く参加者たちです。
旧前田家本邸の洋館は華族の邸宅のすごさがわかる(駒場散歩②)_c0187004_22044705.jpg

小食堂の壁面には前田家で使用していた銀食器類も展示されていました。中央はグレープスタンド、右手は奥から、ぶどう鋏、くるみ割、ナッツピッカーと書かれていました。

旧前田家本邸の洋館は華族の邸宅のすごさがわかる(駒場散歩②)_c0187004_22134370.jpg

階段を登って2階に向かいます。2階は家族の生活の場でした。平面図を見ると、階段を登ると南面して西から東に書斎、次女居室、夫人室、寝室と続き、東に曲がって三女居室があります。長女の居室と三男の居室が西側にあります。下写真は階段を登り、2階ホールからみた階段です。

旧前田家本邸の洋館は華族の邸宅のすごさがわかる(駒場散歩②)_c0187004_11213465.jpg

階段脇の窓ガラスはステンドグラスとなっています。上部のほうが少し濃くなっていますが、採光を考えたものだそうです。

旧前田家本邸の洋館は華族の邸宅のすごさがわかる(駒場散歩②)_c0187004_11222366.jpg

ところで、平面図をみると長男の居室がありません。このことについて特にガイドの方から説明がありませんでしたが、長男は既に独立していたためではないでしょうか。ちなみに次男は幼いうちに亡くなっています。

2階の最西部には利為の書斎があります。

旧前田家本邸の洋館は華族の邸宅のすごさがわかる(駒場散歩②)_c0187004_22052960.jpg

利為が使用した書斎は、当時の様子が復元されていますが、室内に入ることはできません。書斎の中央には利為が使用した机、右手には応接セットがセットされていました。上写真が応接セット、下写真が机です。

旧前田家本邸の洋館は華族の邸宅のすごさがわかる(駒場散歩②)_c0187004_22132513.jpg


上写真の右上に肖像画ありますが、菊子夫人の肖像画です。ちなみに菊子夫人は利為の後妻で、姫路藩主であった酒井雅樂頭家25代当主酒井忠興の次女として生まれました。利為の最初の妻漾子(なみこ)夫人(前田家15代当主前田利嗣の長女)は、利為とともにフランスに滞在している際に病に倒れ大正12年にフランスで亡くなりました。

下写真は夫妻の寝室です。ここも室内に入れませんでしたが、説明によるとベッドはロンドンの高級家具店ハンプトン社製で船便で送られてきたものだそうです。また枕元には前田家当主の守り刀が納められているそうです。

旧前田家本邸の洋館は華族の邸宅のすごさがわかる(駒場散歩②)_c0187004_22060352.jpg

洋館は見どころ満載です。今回紹介したのはほんの一部です。旧前田家本邸のすごさをを知るためには事前に調べていくほうがよいと思います。ただ、インターネットで検索しても詳しく説明したものがありません。従って、手軽に昭和初期の華族の御屋敷のすごさを知るには、ガイドツアーを利用するのがいいと思います。旧前田家本邸のガイドツアーは毎週金曜・土曜・日曜・祝日の午前10時30分~、11時30分~、午後1時30分~、2時30分~の1日4回開催されています。

最後に、玄関前の庭には、色とりどりのバラが満開で、こちらも見事でしたので、それをアップしておきます。

旧前田家本邸の洋館は華族の邸宅のすごさがわかる(駒場散歩②)_c0187004_07144944.jpg



# by wheatbaku | 2024-05-20 22:00
東大駒場キャンパスに残る旧制一高の面影(駒場散歩①)

東大駒場キャンパスに残る旧制一高の面影(駒場散歩①)

 先日の日曜日(512日)に江戸検仲間で作っているグループ「獏塾友の会」の駒場散歩があり参加してきました。今回は、R@彰義隊さんの案内で、東大駒場キャンパスと旧前田家本邸を散歩してきました。R@彰義隊さんの準備万端のガイドと仲間たちとの気楽な会話で楽しい散歩となりました。皆さん、ありがとうございました。下写真は、東大教養学部正門前から写した正門と教養学部1号館です。

東大駒場キャンパスに残る旧制一高の面影(駒場散歩①)_c0187004_08221466.jpg

 現在東大教養学部がある駒場キャンパスには、戦前は旧制第一高等学校(以下一高と略します。)がありました。それ以前は、駒場には東京帝大農学部がありました。一高は、もともと本郷(江戸時代には水戸家中屋敷であった土地:現在の東大農学部がある弥生キャンパス)にありました。キャンパスを本郷に集中したい東京帝大と敷地が狭くて校地を広くしたいと願っていた一高との思惑が一致して、昭和10年に本郷の一高と駒場の東京帝大農学部の土地を交換することになりました。こうした経緯を経て、戦前には駒場に一高がありました。そのため、現在の東大駒場キャンパスには、一高時代の建物が数多く残っています。それらを中心に案内してもらいました。なお、帝大農学部時代の建物は、東京大空襲や戦後の建物解体により一つも残っていないようです。そこで、日曜日の散歩の際には駒場キャンパス内の一高時代の建物や一高に関係する石碑などを中心とした案内がされました。(下写真は、学内案内図の前で東大駒場キャンパスの歴史の説明を聞く参加者たち)

東大駒場キャンパスに残る旧制一高の面影(駒場散歩①)_c0187004_18223794.jpg

東大教養学部正門(一高正門)

 井之頭線駒場東大前駅東口を降りると真正面に正門があります。ここは一高正門として造られたものです。そのため、門扉には一高の校章が残されています。(下写真)

東大駒場キャンパスに残る旧制一高の面影(駒場散歩①)_c0187004_08525257.jpg

 一高の校章は、「柏の葉」と「オリーブ」を図案化したもので、「柏の葉」はギリシャ・ローマ神話に登場する武神マルスの象徴といわれています。一方の「オリーブ」は学問・平和・道徳の女神であるミネルヴァ(アテネ)を象徴するものといわれています。この柏の葉とオリーブの校章は「文武両道」を意味しているといいます。門は昭和13年頃に完成したものですが、門扉は平成20年に復元されたものです。(下写真は説明を聞く参加者たち)

東大駒場キャンパスに残る旧制一高の面影(駒場散歩①)_c0187004_18223769.jpg

教養学部1号館(旧一高本館)

 正門を入ると正面に見えるのが教養学部1号館です。時計台があり駒場キャンパスの象徴となっている建物ですが、旧制第一高等学校の本館でした。登録有形文化財です。昭和8年に完成したもので、設計は内田祥三(よしかず)です。内田祥三は本郷にある安田講堂も設計しており、雰囲気が安田講堂に良く似ています。(下写真は説明を聞く参加者たち)

東大駒場キャンパスに残る旧制一高の面影(駒場散歩①)_c0187004_18223862.jpg

《内田祥三(よしかず)》

内田祥三は、明治18年に東京深川に生れ、東京帝国大学を卒業し、大正10年東京帝大教授となりました。関東大震災後に東京帝大学営繕課長を兼務して、関東大震災後のキャンパス復興を主導しました。安田講堂をはじめ東京帝国大学の多くの建物を設計しています。また、昭和18年には東京帝大総長となり、学徒出陣に立ち会い、戦後のGHQとの交渉にもあたりました。昭和18年の学徒出陣に際しては、内田祥三が設計した安田講堂で東大の学徒壮行会が行われ、そこで内田祥三自身が総長として学徒たちに対して壮行の挨拶をしています。出征する東大学徒たちは安田講堂前の銀杏並木を通り皇居前まで行進し出征したそうです。内田祥三は昭和47年文化勲章を受章しましたが、その年の1214日死去しました。87歳でした。 


《護国旗レリーフ》

1号館真裏の中庭入口アーチ上部に一高の校旗「護国旗」のレリーフがあります。柏葉とオリーブの徽章の中央に「國」の字を配してあります。明治22年に校旗として制定されました。「護国旗」は文武両道をもって国を護るという一高教育の神髄を表しているそうです。(上写真)

東大駒場キャンパスに残る旧制一高の面影(駒場散歩①)_c0187004_19271718.jpg


駒場博物館(旧一高図書館)

 駒場博物館は、一高時代には図書館でした。この建物も内田祥三の設計です。博物館の入り口の上部には円形の装飾がありますが、その中の十字はオリーブの文様となってます。1号館を挟んで真西には一高の講堂(現在は900番教室)がありますが、そこに柏の葉が図案化されています。一高時代には、図書館と講堂が一体として設計されていたていたようです。

この建物は、現在では駒場博物館として利用されていて、先日行った時も「日本農芸化学会創立100周年記念展」いう展覧会が開催されていました。(下写真は説明を聞く参加者たち)

東大駒場キャンパスに残る旧制一高の面影(駒場散歩①)_c0187004_18233540.jpg

駒場池(一二郎池)

キャンパスの東端に駒場池があります。この池は目黒川の水源の一つだったそうですが、現在は、流出路はないようです。(下写真が駒場池)

東大駒場キャンパスに残る旧制一高の面影(駒場散歩①)_c0187004_18233530.jpg

農学部時代には養魚場として利用されていたそうで、数少ない農学部時代の名残りです。池の別名は「一郎二郎池」といいますが、駒場には1・2年生が通学し本郷には3・4年生が通学することから、本郷にある「三四郎池」と対になった名前となっているようです。しかし、「一二郎」は「一浪・二浪」にも通じることから、この池を見た受検生は合格しないとかこれをみた学生は留年するといった言い伝えもあって、駒場池を見に来る東大生は少ないそうです。(下写真は駒場池を見ながら説明を聞く参加者たち)

東大駒場キャンパスに残る旧制一高の面影(駒場散歩①)_c0187004_18233593.jpg

900番教室(旧一高講堂)

1号館の西にある建物が900番教室で、一高時代に講堂として建設されました。1号館の東にある駒場博物館(旧一高図書館)と対になっています。正面上部の円形の装飾の中の十字ですが、駒場博物館のそれはオリーブでしたが、こちらは柏の葉となっています。(下写真は説明を聞く参加者たち)

東大駒場キャンパスに残る旧制一高の面影(駒場散歩①)_c0187004_18233638.jpg

一高ここにありき碑

 900番教室の南側の空き地に「一高ここにありき」と刻まれた石碑があります。一高同窓会が、同窓会としての本格的活動を終了する際に建立されたものです。(下写真は説明を聞く参加者たち)

東大駒場キャンパスに残る旧制一高の面影(駒場散歩①)_c0187004_18245271.jpg

駒場農学碑

 900番教室の南側に「駒場農学碑」があります。木陰に隠れていて見落としがちです。一高とキャンパスを交換して農学部が弥生に移る際の昭和11に、駒場が農学発祥地であることを伝えるために建てられました。(下写真は説明を聞く参加者たち)

東大駒場キャンパスに残る旧制一高の面影(駒場散歩①)_c0187004_18245226.jpg

嗚呼玉杯之碑

「嗚呼玉杯」は、「嗚呼玉杯に花うけて」で始まる代表的な一高寮歌です。「嗚呼玉杯之碑」は、一高卒業生が昭和31年に建立したものです。一高には全寮制をとっていました。そして、毎年紀念祭が開催され、寮歌が募集され、それが歌い継がれました。「嗚呼玉杯」は、そうした一高寮歌のなかでも最も有名なもので明治35年に開催された「第12回紀念際」に作られた寮歌です。 旧一高同窓会館であった「ファカルティハウス」の庭に建っています。(下写真は碑を見ながら説明を聞く参加者たち)

東大駒場キャンパスに残る旧制一高の面影(駒場散歩①)_c0187004_18245232.jpg

 東大駒場キャンパスの紹介だけでだいぶ長くなりましたので、旧前田家本邸については次回アップします。




# by wheatbaku | 2024-05-14 18:21
「銀座発祥の地」碑は銀座役所のあった場所に建っている(銀座②)

「銀座発祥の地」碑は銀座役所のあった場所に建っている(銀座②)

 銀座が駿府から江戸に移転してきたのは慶長17年(1612)で、『近世銀座の研究』(田谷博吉著)など銀座に触れた本にしばしば引用されている『銀座書留』には、「慶長17年、江戸において銀座を設置する旨が仰せ付けられ、通町京橋より南に四町を拝領し、銀座役所や銀座人の屋敷、さらに常是吹所が四町のなかの三町にあり、四町のうち一町は銀座に関係する両替商買人に与えた。」と書いてあります。(*『銀座書留』の原文は漢文ですが、私なりに現代語訳しました。)

 ここに書かれているように江戸時代の新両替町1丁目から4丁目(現在の中央通りに面する銀座1丁目から4丁目にあたる)には、銀座人(後述)や銀座両替商買人(銀座両替商買人は、銀座の支配下にあって、諸国灰吹銀の買集めに従事した商人達をいう)などの銀座に関わる町人の屋敷が建ち並び、「銀座役所」や「常是吹所(銀貨鋳造所)」も建てられていました。

 「銀座発祥の地」碑には、江戸時代に銀座役所があった場所に碑を建てたと書いてありますので、ここに銀座役所があったようです。

 この銀座役所とは、『近世銀座の研究』(田谷博吉著)に記載されている『慶長17年銀座四町絵図』によれば、新両替町2丁目東側にあり、間口が10間あったことが確認できます。

 現在はティファニー銀座本店が入居しているティファニー銀座ビル一帯に銀座役所があったことになります。(下写真)「銀座発祥の地」碑は、このティファニー銀座ビルの前に設置されています。

「銀座発祥の地」碑は銀座役所のあった場所に建っている(銀座②)_c0187004_17074857.jpg

ところで銀座役所とは、『図解日本の貨幣Ⅲ 近世幣制の展開』によると「銀座役所は銀座会所ともいい、銀座人が詰めて事業の運営にあたった事業所である。」ようです。また、『近世銀座の研究』には「銀座役所あるいは銀座会所は、銀座人が会同し、公儀御用のことを取り扱ったところである。」とも書いてあります。

 銀座は、銀貨を鋳造していたことから幕府直属の組織と思われがちですが、銀座自体は、町人が運営していた組織でした。『近世銀座の研究』にも、「銀座は、官営の鋳造所ではなく、銀座として特許された町人の一団によって組織されていた」と書かれています。

銀座を組織していた町人は銀座人と呼ばれ、頭役、勘定役、平役などの職階にわかれ、慶長17年(1612)には51人いました。

この中で、銀座の経営にあたったのは頭役とよばれた人たちで、時代により、その人数は変わりますが、当初の頭役は10人いました。


 「慶長17年銀座四町絵図」によると、銀座役所の南隣りにあたる新両替町2丁目東側の南角に大黒長左衛門の屋敷があります。これが『銀座書留』に「常是役所」と呼ばれている屋敷で間ロ15間となっています。

 この場所は、現在はBVLGARI(ブルガリ)が入居している第一三共銀座ビルがある一帯になります。

「銀座発祥の地」碑は銀座役所のあった場所に建っている(銀座②)_c0187004_17074828.jpg

 大黒長左衛門は、伏見銀座の開設に際して徳川家康からとくに銀吹人として吹所(鋳造所)を任せられた大黒常是湯浅作兵衛)の次男です。長男の作右衛門は京都銀座の吹所を任せられ、次男の長左衛門は駿府の銀吹所を任せられ、駿府の銀座が江戸に移転したのに伴い、江戸の銀座で銀貨の鋳造や包銀(つつみぎん)を担当していました。そのため、大黒長左衛門の屋敷には吹所(鋳造所)と包所(銀貨を包銀に包装する部門)もありました。

 包銀とは、銀座で一定量の銀貨を紙包みにしたもので、包銀は開封することなくそのままの状態で譲渡されました。この金貨や銀貨を紙で包んで使用する方法は中世に砂金を布袋や紙に包んで受け渡したことに由来しているようです。(『日本史小百科 貨幣』p90より)





# by wheatbaku | 2024-05-08 20:20
「銀座発祥の地」碑(銀座①)

「銀座発祥の地」碑(江戸のお金①)

 3月には文京学院大学生涯学習センターで江戸時代の貨幣制度について講義し(下写真)、4月には、毎日文化センターの「山手線一周 ~駅から気ままに江戸散歩~」で新橋駅から京橋駅まで銀座中心に案内するなど、この間、「銀座」に接する機会が何度かありました。

「銀座発祥の地」碑(銀座①)_c0187004_16413088.jpg

 そこで、これから、「銀座」を中心とした江戸時代の貨幣制度について、“気ままに“書いて行きます。

 銀座とは、いうまでなく、江戸時代の銀貨鋳造所です。江戸時代初期から中期にかけて現在の中央区銀座に江戸の「銀座」が置かれました。そこで、中央区銀座二丁目に「銀座発祥の地」の碑が建てられています。(下写真)

「銀座発祥の地」碑(銀座①)_c0187004_16413132.jpg

碑文には、「慶長17年(紀元2272年 西暦1612年)徳川幕府此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す。当時町名を新両替町と称せしも通称を銀座町と呼称せられ、明治2年遂に銀座を町名とする事に公示さる。」と刻まれています。

 銀座が最初に設置されたのは伏見であり、慶長6(1601)に開設されました。その後、慶長11(1606)に駿府にも開設されました。江戸の銀座は慶長17年(1612)に駿府の銀座が移転されて設置されたものです。

銀座は、江戸のほか、京都、大坂、長崎にも置かれました。

京都の銀座は伏見にあった銀座が慶長13年(1608)に移転したものであり、大坂の銀座は、同じく慶長13年に設置されました。大坂の銀座は生野・石見銀山で産出した銀や、粗銅から抽出した銀を京都に回送する役割を担っていした。

 長崎の銀座は、慶長19年(1614)から元和の頃に開設され、銀が海外に流出するのを監視・管理する役割を果たしました。 

四つある銀座のなかで、江戸と京都の銀座が江戸時代を通じて銀貨の鋳造を行ないました。

 江戸の銀座は、江戸時代後期の寛政12年(1800)に蛎殻町(現在の日本橋人形町)に移転して、明治維新まで蛎殻町に存続しました。

 江戸時代に銀座に関係する人々が住んでいた現在の銀座一丁目から四丁目は、 江戸時代の町名は「新両替町」であり、「銀座」という町名は通称でした。銀座が正式な町名となったのは明治2年(1869)のことでした。

 なお、「新両替町」という町名は「本両替町」と対をなす町名で、「本両替町」は、金座のあった日本橋の町名でした。

 下記地図の赤印が「銀座発祥の地」碑です。




# by wheatbaku | 2024-05-03 16:35
  

江戸や江戸検定について気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
by 夢見る獏(バク)
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
以前の記事
2024年 05月
2024年 04月
2024年 03月
2024年 02月
2024年 01月
2023年 12月
2023年 11月
2023年 10月
2023年 09月
2023年 08月
2023年 07月
2023年 06月
2023年 05月
2023年 04月
2023年 03月
2023年 02月
2023年 01月
2022年 12月
2022年 11月
2022年 10月
2022年 09月
2022年 08月
2022年 07月
2022年 06月
2022年 05月
2022年 04月
2022年 03月
2022年 02月
2022年 01月
2021年 12月
2021年 11月
2021年 10月
2021年 09月
2021年 08月
2021年 07月
2021年 06月
2021年 05月
2021年 04月
2021年 03月
2021年 02月
2021年 01月
2020年 12月
2020年 11月
2020年 10月
2020年 09月
2020年 08月
2020年 07月
2020年 06月
2020年 05月
2020年 04月
2020年 03月
2020年 02月
2020年 01月
2019年 12月
2019年 11月
2019年 10月
2019年 09月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
ブログパーツ
ブログジャンル
歴史
日々の出来事