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北区飛鳥山博物館(新江戸百景めぐり⑫)

北区飛鳥山博物館(新江戸百景めぐり⑫)

 飛鳥山公園には博物館ゾーンがあり、北区飛鳥山博物館、渋沢史料館、紙の博物館の3つの博物館があります。

 これら、俗に飛鳥山の3つの博物館と総称されています。
 本郷通り側の公園入口には「飛鳥山3つの博物館」の看板が立てられています。

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 その中の、北区飛鳥山博物館が、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)のP53に紹介されています。

そこで、今日は、北区飛鳥山博物館を紹介し、さらに渋沢史料館と紙の博物館もあわせて紹介しようと思います。

北区飛鳥山博物館は、北区の歴史・自然・文化などに関する展示や調査研究などが行なわれています。(下写真は博物館の正面入り口です)

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 入口は、建物の2階となっていて、受付も2階にあります。

 常設展示は、1階にありますが、2階からはいるため、地下1階におりる感覚となります。

 古代以前から現代までに関する展示がされていますが、江戸時代の展示で私が注目して展示を中心に紹介します。

 飛鳥山といえば花見ということになります。そこで、名所飛鳥山についてのコーナーがあり、そこには、花見の際のお弁当が、上・虫・下の3種類に分けて再現されています。下写真は上の花見弁当です。

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 王子権現と王子稲荷の別当寺であった金輪寺は、代々の将軍が、日光東照宮へ社参したり王子方面での鷹狩りの際に、休憩所となりました。

 そのため3代将軍家光の時に御座所が造られ吉宗の代に増築されています。その御座所が再現されていますが、残念ながら照明が暗くて、はっきりとは写りませんでした。

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 王子は、日光御成道の街道筋にあたります。そのため、「日光山道中絵図」が展示されていて日光御成道の全容がわかるようになっています。

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 現在の北区滝野川は、江戸市民を対象とした野菜栽培が江戸時代から盛んでした。その代表が、滝野川人参、練馬大根、滝野川牛蒡です。その三種の野菜の見本が展示されています。

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 北区飛鳥山博物館のほかの二つの博物館についても紹介しておきます。

 渋沢史料館は、名前の通り、渋沢栄一の生涯とその事績を紹介するための博物館です。(下写真は正面入り口です)

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常設展示では、渋沢栄一の生い立ちや渡欧の様子、明治になって設立に関わった企業・団体などが展示されています。

1万円札を飾るようになったので、展示内容に変化があるか注目していましたが、1年前に訪ねた時とは変化していないそうです。


渋沢史料館は館内撮影禁止ですので、直接現地を訪ねて確認してください。

ただ、渋沢史料館はリニューアル工事のため、201991()2020327()の期間を休館となります。

行かれる方は早めに行ってください。

 渋沢資料館の東側の公園内に、渋沢栄一ゆかりの
青淵文庫(せいえんぶんこ)と晩香蘆があります。
 両方とも国の重要文化財に指定されています。

青淵文庫(せいえんぶんこ)は、渋沢栄一が傘寿(80歳)となったお祝いと子爵になったお祝いを兼ねて贈呈された文庫です。

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大正14年に竣工しました。2階の書庫に収蔵する予定であった「論語」をはじめ多くの漢籍が関東大震災で焼失したため、震災後は、主に接客の場として使用されました。

青淵文庫という建物の名称は、栄一の雅号青淵(せいえん)から名付けられたものです。


晩香蘆は、渋沢の喜寿を祝して清水組(現清水建設)四代目当主、清水満之助が贈呈した建物です。晩香蘆は大正6年に竣工しました。木造平屋建て、屋根は赤色の桟瓦葺きとなっていて、西欧の山小屋を思わせる建物です。

お晩香蘆の名前の由来は渋沢自作の漢詩「菊花晩節香」にちなんだものとされています。

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 飛鳥山3つの博物館のうち最後に紹介するのは紙の博物館です。紙の博物館は、紙の歴史や文化を紹介しています。

紙には、和紙も洋紙もありますが、紙の博物館では、その両方が展示されています。

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 1階には近代製紙工程の展示がされています。そして、3階は和紙のコーナーとなっていて、和紙に関する情報が提供されています。(下写真)

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3階の和紙コーナーには、金唐革紙(きんからかわし)が展示されていて、その製作過程の展示もあり、非常に興味深いです。

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また、紙で作られた衣装、これを紙衣(かみこ)といいますが、実際に昭和62年の公演で中村扇雀が着用したものが展示されています。

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 こちらの博物館も一見の価値があると思います。

 ただし今年2019年の91日(日)から2020316日(月)まで創立70周年を迎えるにあたり、館内リニューアル工事が行なわれるため休館となります。こちらも早めに行かれるのが良いと思います。

赤印が北区飛鳥山博物館です。

青印が渋沢史料館です。

緑印が紙の博物館です。







# by wheatbaku | 2019-07-16 08:30 | 新江戸百景めぐり
飛鳥山公園(新江戸百景めぐり⑪)

飛鳥山公園(新江戸百景めぐり⑪)

 新江戸百景めぐり、今日は、飛鳥山公園をご案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)P52第11景に紹介されています。

 飛鳥山公園は、JR王子駅の西側駅前にあります。

 飛鳥山は、山手台地の末端にある丘で、王子駅から見ると、急な崖となっています。そのため、桜の季節に王子駅のホームから飛鳥山を見ると桜の壁があるように見えます。(下写真)

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飛鳥山は、この地の豪族豊島氏が鎌倉時代末期の元亨年間に紀州新宮の飛鳥明神を勧請したことから飛鳥山と呼ばれるようになりました

飛鳥山の名前の由来となった飛鳥明神がどこか調べてみたら、現在の和歌山県新宮市にある阿須賀神社のようです。阿須賀神社の裏山蓬莱山は別名飛鳥山と呼ばれているようですし、阿須賀神社の境内の案内板には『元享2年(1322)阿須賀権現が現在の東京北区飛鳥山に勧請される』と書かれてあるそうです。

この飛鳥明神は、寛永年間に王子権現造営のとき山上から移され合祀されたたと江戸名所図会に書かれています。ですから、現在の飛鳥山公園には飛鳥明神は鎮座していません。

合祀されたという王子神社は、王子という地名の由来となった由緒ある神社です。(下写真)

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もともと、元享2年(1322)にこの地の豪族豊島氏により熊野から若一王子(にゃくいちおうじ:王子権現)を勧請しお祀りしたのが始まりです。それ以来、それまで岸村と呼ばれていた当地が王子と呼ばれるようになりました。

江戸に入った徳川家康は、天正19年(1591)に200石の所領を与えて、江戸時代には、王子権現と呼ばれました。

その王子神社にもお参りして、飛鳥明神の合祀のことを訪ねたところ、神官の答えでは、戦災にあっていることもありはっきりしないけれど、現在の王子神社には合祀されてはいないということでした。

飛鳥山公園には、飛鳥山の由来を書いた「飛鳥山碑」があります。(下写真)

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元文2年(1737年)金輪寺住持が建立し、碑文は儒官成島年筑、篆額は尾張の医官山田宗純の書です。

大きな石碑の石材は、江戸城吹上庭園にあった紀州産の青石だそうです。

この飛鳥山碑は漢文で書いてあり、石の傷等も避けて刻まれていて、非常に難解で多くの人に読めませんでした。
そのため、

飛鳥山何と読んだか拝むなり

飛鳥山どなたの墓とべらぼうめ

この花を折るなだろうと石碑見る

などと川柳に詠まれています。

その難解な飛鳥山碑の全文が、江戸名所図会で読み下されています。

それを読むと、豊島氏が熊野の神様を祀ったことから王子と呼ばれるようになり、山が飛鳥山と呼ばれるようになり、川が音無川と呼ばれるようになったこと、将軍吉宗が、飛鳥山を王子権現に与えたこと。そして桜を植えさせ、大勢の人々に整備させたため、美しい土地となったことなどが書かれています。

この飛鳥山碑は、飛鳥山の名物であったため、いろいろな浮世絵に描かれています。下の浮世絵は歌川広重の「東都三十六景飛鳥山」ですが、飛鳥山碑が左手下段にしっかりと描かれています。

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飛鳥山碑に書かれているように、飛鳥山が桜の名所となったのは、吉宗が桜の木を植えさせて一般に開放したからです。

吉宗は享保5年(1720)に270本、翌享保6年には1000本を植えたとされています。

こうして、桜の名所となった飛鳥山を歌川広重も名所江戸百景のうちの「飛鳥山北の眺望」という絵を描いています。(下写真)

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これには飛鳥山碑は描かれていませんが、飛鳥山から北方面を見た絵で、大きく筑波山が描かれていて、桜の時期に飛鳥山で遊ぶ人々が描かれています。この絵を拡大して見ると飛鳥山の名物であった素焼きの皿を投げる土器(かわらけ)投げをする人も描かれています。



飛鳥山公園には、桜の賦の碑という石碑もあります。(下写真)

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これは、明治14年に、佐久間象山の書いた「桜の賦」を勝海舟が中心となって碑を建立したものです。

勝海舟は、佐久間象山の弟子であり、義理の兄(海舟の妹の順が佐久間象山の正室となっているため)です。

最後に、扇屋の話をしておきます。扇屋は慶安元年(1648)創業ということですので、創業以来350年以上経っています。

以前は料亭として営業をやっていましたが、現在は、料亭はやめて、王子駅前(北口徒歩2分)のお店で玉子焼きを販売しています。

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 下写真は、幕末・明治期の扇屋です。
 (写真は「長崎大学附属図書館所蔵」のものを借用させていただきました。)
 目の前の川が、音無川です。この写真の右側が飛鳥山側だそうで、左側が、王子稲荷側だそうです。昔の「扇屋」は飛鳥山側にありましたが、現在は、反対側に移っています。これは音無川の改修工事によるものだそうです。
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 なお、音無川、和歌山県本宮町を流れ、熊野本宮大社旧社地近くで熊野川に注ぐ熊野川の支流の名前が音無川ですので、それに由来するものと思われます。
 

赤印が飛鳥山碑です。

青印が桜の賦の碑です。

緑印が王子神社です。

ピンク印が扇屋です。








# by wheatbaku | 2019-07-14 20:04 | 新江戸百景めぐり
名主の滝公園(新江戸百景めぐり⑩)

名主の滝公園(新江戸百景めぐり⑩)

 王子稲荷神社のすぐ近くに名主の滝公園があります。

 そこで今日は名主の滝公園についてご案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では第85景としてP148で紹介されています。下写真は公園入口です。

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 名主の滝は、もとは、江戸時代の安政年間に王子村の名主畑野孫八が自分の屋敷に開いたのが始まりとされています。

名主の屋敷にある滝ということで「名主の滝」という名前がつけられました。

庭園として整備されたのは、明治の中頃で、垣内徳三郎という人の所有になってからだそうです。昭和13年には、株式会社精養軒が買収し、食堂やプールなどが作られ公開され続けてきましたが、昭和20年4月に空襲により焼失してしまいました。

昭和35年に「都立名主の滝公園」として再び公開されるようになりました。

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王子近辺には滝が多く、「王子七滝」と呼ばれる7つの滝がありました。

しかし、そのほとんどが姿を消して、現在は「名主の滝」だけが唯一残されています。

 「名主の滝公園」には、男滝(おだき)、女滝(めだき)・独鈷の滝(どっこのたき)・湧玉の滝(ゆうぎょくのたき)の4つの滝があります。

 この中で、水が落下しているのは、男滝だけです。それも午前10時から午後4時まで間だけ滝の水が流れています。

こうなっているのは、ポンプでくみ上げた水を落下させる仕組みとなっていて、自然の水が流れおちているわけではないからです。とはいいものの、男滝は、落差4メートルもありそうですので、見ごたえがある滝です。(下写真)

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しかも、水が流れ落ちている滝壺近くにいくと水しぶきが飛んで、気温の高い時は、非常に爽快です。

男滝以外の3つの滝は、水が流れていませんので、枯滝の状態となっています。

名主の滝公園には、ケヤキやシイなどの外、ヤマモミジが植えられていて、昼間でもうっそうとした雰囲気がする公園です。また、モミジが黄葉する時期は、大変見事だそうです。

訪ねた時には、男滝から流れ出している小さな流れに鴨のつがいが楽しんでいました。とても23区内とは思えない風情です。(下写真)

 

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王子近辺に、「王子七滝」と呼ばれほど滝が多かったのは、王子が武蔵野台地の突端の崖線にあるためです。

「王子七滝」と呼ばれた滝は、名主の滝、権現滝、不動の滝、弁天の滝、稲荷の滝、大工の滝、見晴らしの滝の7つの滝です。

現在、ほぼ元の姿をとどめているのは「名主の滝」です。

しかし、それ以外の滝も、かすかに、その名残りが残されています。次にそれを順にご紹介します。

権現の滝

権現の滝は、王子神社の東側周辺にあった滝だと思われます。

権現というのは、江戸時代には、王子神社が王子権現と呼ばれていたため、王子権現にある滝という意味だと考えられます。

現在、王子稲荷の東側の石神井川の旧流路に「音無親水公園」が整備されています。

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石神井川は、昭和30年代から始まった改修工事によって、飛鳥山公園の下に2本のトンネルが掘られ、飛鳥山の下を直線的に流れています。この工事により、残された旧流路は、石神井川の水は一切流れなくなりましたが、音無親水公園が整備され、昔の渓流が復活しています。

その音無親水公園の一画に権現の滝を模した滝が整備されています。(下写真)

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訪ねた時には、水が流れていませんでしたので、北区役所に電話したところ、夏場の暑い時期だけ水を流しているということでした。

不動の滝

不動の滝は、正受院本堂裏の石神井川の岸にありました。
 正受院の参道に、次のように書いた北区教育委員会が設置した説明板があります。(下写真)

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 室町時代、大和国に学仙坊という不動尊の祈祷を修行する僧侶がいた。ある時、霊夢を見て東国の滝野川の地を訪れ、庵をむすんで正受院を草創した。この年の秋、石神井川が増水したが、水の引いた川から不動の霊像をすくいあげた。学仙坊は、これを不動尊修法の感得した証と喜び、滝の傍に安置したと伝えられます。不動の滝は、滝の傍に不動尊が祀られていたことから付けられた名称です。

現在も、正受院に不動堂(下写真)がありますが、石神井川が改修され、岸辺がすっかりコンクリートで補強されているため、不動の滝の面影はありません。

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江戸時代の不動の滝をイメージするには、歌川広重の名所江戸百景の「王子不動之滝」が一番だと思います。

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広重が描いた不動の滝はすごい勢いで水が落ちています。

「この滝は不動明王が持っている剣をイメージして描いたのだろう」という説があるそうですが、その説の通りだと思います。

弁天の滝

正受院から石神井川に沿って西に向かうと間もなく、金剛寺が見えてきます。その金剛寺の先が、音無もみじ緑地となっています。もともとこの辺りは、石神井川が蛇行して流れていた場所ですが、石神井川の改修工事の際に緑地公園にしたもののようです。(下写真)

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北区の説明板によると、「現在都営住宅が建っている付近の崖に滝があり、弁天の滝と呼ばれていました。」と書いてあります。

下写真が音無もみじ緑地を上流側から撮った写真ですが、写真の右手都営住宅がありますので、写真の右手の現在はコンクリート壁となっている辺りもしくは音無もみじ緑地の土手付近に、弁天の滝があったものと思います。

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弁天の滝は、歌川広重が描いた名所江戸百景「王子滝の川」にも描かれています。(下写真)

 絵の右手手前の滝が弁天の滝です。赤い鳥居が岩屋弁天(松橋弁天ともいう)です。
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現在、岩屋弁天は、金剛寺の境内の弁天堂に鎮座しています。(下写真が弁天堂) 

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赤印が名主の滝公園です。 
青が音無親水公園です。 
緑印が正受院です。 
ピンクが金剛寺です。 
オレンジが音無もみじ緑地です。





# by wheatbaku | 2019-07-11 21:42 | 新江戸百景めぐり
装束稲荷神社(新江戸百景めぐり⑨)

装束稲荷神社(新江戸百景めぐり⑨)

 前回、王子稲荷神社を案内しましたが、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)の王子稲荷神社の説明の中では、装束稲荷神社についてもかなり解説されていますので、今日は、装束稲荷神社のご案内をします。

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 「装束稲荷神社」は、王子稲荷神社とは、京浜東北線を間に挟んだ北側にあります。 

 王子稲荷神社から行くには、「稲荷前ガード」という歩行者と自転車だけが通行できる小さなトンネルが利用できますので、この道を行けば5分ほどで行けます。

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王子駅から直接行く場合は北口からですと徒歩で5分で行けます。

北本通りの一本北側の通りに鎮座していますので見落とさないようにしてください。

 装束稲荷神社は、装束榎の根元に祀られた小さな祠が始まりです。

 装束榎は、大晦日にここで関東一円の狐が衣装と整えたことで江戸時代から有名な榎です。

 「江戸名所図会」には、下図のような挿絵が載っています。

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 そして、見出しには『装束畠 衣裳榎(しょうぞくばたけ いしょうえのき)』とあり、挿絵には次のように書かれています。

 『毎歳十二月晦日の夜、諸方の狐おびただしくここに集まり来たること、恒例にして今に然(しか)り、その灯せる火影によりて土民明年の豊凶を卜(うらなう)とぞ、このこと宵にあり、また暁にありて、時刻定まることなし』。

 そして、この装束榎を有名にしているのが、歌川広重の名所江戸百景の「王子装束ゑの木大晦日の狐火」です。

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 この浮世絵を見た方は多いと思います。

 この装束榎の根元に祀られたのが装束稲荷です。

 装束稲荷神社の説明板には次のように書かれています。下写真中央にあるのが説明板です。

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『今から約千年の昔この附近一帯は野原や田畑ばかりでその中に榎の大木があり、そこに社を建てて王子稲荷神社の摂社として祭られたのがこの装束稲荷であります。

 この社名の興りとして今に伝えられるところによれば毎年十二月の晦日の夜関東八ヶ国の稲荷のお使いがこの村に集まりここで装束を整えて関東総司の王子稲荷神社にお参りするのが例になっていて当時の農民はその行列の時に燃える狐火の多少によって翌年の作物の豊凶を占ったと語り伝えられています。」

 これにちなんで、王子では、毎年大晦日に「王子狐の行列」が行われています。大晦日まで時間はかなりありますが、もうパンフレットが置いてありました。

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「王子 狐の行列」のパンフレットには、次のように書かれています。
 「この浮世絵をもとに、王子の街の人たちが数十年前から「かがり火年越し」や「狐ばやし」で事起こしをし続けています。そして、近年、大晦日から新年を迎える伝承行事として「狐の行列」が誕生しました。

 除夜の鐘とともに、夜空の下、人が狐に化けて紙の裃やきつね面で装束を整えちょうちんの灯をかざし、関東総司の王子稲荷へと行列します。

 新年を迎える人たちにふるさとの心を伝え残す行事となっています」

 江戸時代の装束榎は、現在の装束稲荷神社近くの現在の北本通り沿いにあったそうです。
 その装束榎は、明治中期には枯れて、それを惜しんだ地元の齋藤さんという方が、「装束榎」と刻まれた石碑を、枯れた榎の根元に建てました。

 その後、その石碑は、お稲荷さんの祠とともに一時期別の場所に移転し、その後、現在地に、装束稲荷神社が鎮座され、その境内に移されたそうです。 下写真が2代目(?)の装束榎です。 

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最後に4代目歌川広重こと菊池貴一郎が書いた「絵本江戸風俗往来」に「王子の狐火」について詳しく書かれています。

 菊池貴一郎は、若い頃、王子の狐火を見に行ったことがあり、その実見体験を書いていますので、紹介しておきます。 

 王子稲荷神社の門前なる畑中に、いとも大きな榎あり。これを装束榎と称したり。

 年々12月大晦日の深夜、数千の狐この榎の下に集まりて榎を飛び越すとかや。とぶこと高きに随いて狐の官位の高下のつくとぞ。故にこの榎を装束榎といいける。年々大晦日の夜は必ずこの辺に数点の狐火むらがりて上下せり。

 己れ蘆の葉若年の頃、二とせばかり見に行きしことあり。実に聞く所に違わず数百と思うばかりの狐火見たり。

 (中略)

 かの狐火は見ゆるかとすれば失せ、失せるかとすればまた光り、身の毛もよだつばかりなり。

 勿論空高く東天紅の映ずるに従い、夜明けてはその跡もとどめざるよしなり。


 赤印が装束稲荷神社です。

 青印が稲荷前ガードです。
 緑印が王子稲荷神社です。

 




# by wheatbaku | 2019-07-08 13:04 | 新江戸百景めぐり
王子稲荷神社(新江戸百景めぐり⑧)

王子稲荷神社(新江戸百景めぐり⑧)

 

新江戸百景めぐり、今日からは王子駅周辺の新江戸百景に選定された名所を案内していきます。 

今日は、王子稲荷神社を案内します。「新江戸百景めぐり」(小学館刊)P149に第86景として載っています。

 王子稲荷神社は、JR王子駅から徒歩6分程度のところにあります。
 王子稲荷神社は、千年もの昔に、「岸稲荷」として創建されました。

社記には「源頼義が奥州追討時に深く信仰し関東総司とした」とあるそうです。(下写真はいなり口にある鳥居です)

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 「江戸名所図会」にも次のように書いてあります。
 王子権現社北の方にあり、往古は岸稲荷と号けしにや。いま当社より出だすところの牛黄宝印にしか記せり

実は、この辺りは、昔は岸村と呼ばれ、現在の町名も岸町です。
 そして、時代が下り、豊島氏が紀州の熊野神社を勧請し、王子神社を祀った処から周辺の地名も王子となり、それに伴い神社名が王子稲荷神社と改称されました。(下写真は拝殿正面)

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 江戸時代には、徳川将軍家の祈願所となり、3代将軍家光は、寛永11年に社殿を造営し、その後、5代将軍綱吉により元禄16年、10代将軍家治により天明2年に修繕された後、11代将軍家斉が文政5年に、社殿を再建しました。
 本殿は、昭和20年の空襲で焼失しましたが、拝殿は焼失を免れ、現在も、文政5年の姿を残してくれています。(下写真社殿全体)
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 王子稲荷神社の社門脇には幼稚園が併設されているため、平日は正面入り口の門(下写真)から入れずいなり坂入口(最上段写真)から入るようになっています。
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王子稲荷神社の拝殿は、11代将軍家斉が再建したものが、残されたものです。その拝殿のうちの外拝殿に昇殿して天井絵を見ることができます。

以前は、内拝殿と外拝殿の天井にそれぞれ谷文晁の絵がありましたが、そのうち外拝殿の天井絵は史料館に保管されていて、現在は、東京砂糖王子稲荷奉賛会から奉納された「鳳凰」となっています。「鳳凰」は関口正男が描いたもので極彩色の見事な天井絵でした。

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本殿西側には 願掛けの石と狐の穴跡 があります。

まず願掛けの石です。説明書きには「御石様」と書いてありますが、インターネットでは「おもかる石」ともなっています。

願をかけて持ち上げ、予想していたより軽く感じれば願い事が叶いやすく、重く感じたら、叶いづらいのでまだまだ努力が必要ということだそうです。

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願掛けの石がお祀りされている場所から石段を登って行くと狐の穴跡があります。下写真のように急斜面に御社が作られています。

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その奥に狐穴があります。(下写真)

このあたりには、落語の「王子の狐」で語られるように、昔は狐が住んでいたようで、その穴の跡です。

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なお、いなり坂入り口の鳥居の右にある狐の石像は、非常に可愛いらしい表情をしています。


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 初午の日には、王子稲荷神社で「凧市」が開かれます。
 「凧市」は、江戸時代中期から始まっているそうです。
 当時、江戸のまちはよく火事に見舞われ、風が大火につながることから、風を切って上る凧を火事除けのお守りにと、民衆が同神社の奴凧を「火防の凧(ひぶせのたこ)」として買い求めたのが始まりだそうです。その「火防の凧」が社務所の上に飾られていました。
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王子稲荷神社の史料館には「額面著色鬼女図」があり、初午の日には、それが公開されます。以前、初午の日にお参りして見てきていますので紹介します。

これは、天保11年(1840)、江戸の住吉明徳講(東京砂糖元売商組合の祖)が柴田是真に委嘱して描かせ、業界の守護神と崇敬するこの神社に奉納した絵馬だそうです。 渡辺綱に腕を切られた羅生門の鬼が、渡辺綱の叔母に化けて館を訪れ、すきをみて切られた腕を持って逃げる姿を図にしたものです。

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 社殿を改修する際に、天井絵を現在の「鳳凰」に変えられましたが、外拝殿に飾られていたという谷文晁の龍の絵も初午の日には公開されます。 こちらの絵も以前見ていますので、アップしておきます。この天井絵は、谷文晁の龍の絵も迫力のある絵でした。

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赤印が王子稲荷神社です。




 


# by wheatbaku | 2019-07-06 19:26 | 新江戸百景めぐり
戸山公園(新江戸百景めぐり⑦)

戸山公園(新江戸百景めぐり⑦)

 「新江戸百景めぐり」ですが、前回までは、深川の小名木川近辺について書いてきましたが、今日は、ず~っと西にとんで、戸山公園をご案内します。

『新江戸百景めぐり』(小学館刊)ではP90の第41景で取り上げられています。

戸山公園は、現在は都立の公園となっていますが、江戸時代は、尾張藩徳川家の下屋敷でした。

戸山公園は大久保地区と箱根山地区に大きく分かれていますが、尾張藩の下屋敷であったのは箱根山地区のほうです。

現在、下屋敷の名残を残している代表的なものは、箱根山です。(下写真)

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箱根山への最寄駅は幾通りもあります。東京メトロ副都心線の「東新宿」「西早稲田」さらに東西線の「早稲田」からも行くことができます。

どの駅からいっても大きな差がありません。西早稲田から行くのが多少近いかなという感じでしょうか。

尾張藩下屋敷は、別名「戸山荘」と呼ばれました。戸山荘には、小田原宿を模した宿場町が再現されていたり、25景と呼ばれる景勝地もありました。しかし、箱根山を除くと戸山荘の面影はまったく残されていません。

戸山荘時代と現在の戸山公園とを比較した「尾張戸山荘今昔めぐり」というパンフレットを戸山公園サービスセンターで配布しています。下写真は、パンフレットの裏面で戸山荘の今昔比較地図が載っています。

これを貰ってから戸山公園を散歩すると、江戸時代の戸山荘と現代の戸山公園が比較できて便利です。
 なお、「今昔比較地図」を見て、まず気がつくのは、大きな池があったのだということです。

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戸山荘は、尾張藩2代藩主の徳川光友が築いたもので、新宿区史には、寛文7年(1667)に2町ほどの畑を購入したのが始まりで、その後、寛文9年には牛込済松寺の開基でもあった祖心尼から寺領4万6022坪を譲られ、さらに寛文11年(1671)には将軍(時代的には4代将軍家綱)からは8万5018坪を拝領したと書いてあります。

ちなみに、祖心尼は、春日局の義理の姪で、孫娘のお振の方が3代将軍家光の寵愛をうけて、長女千代姫を産みました。そして千代姫は尾張藩の徳川光友に嫁ぎました。つまり光友にとって、祖心尼は、義理の曾祖母にあたります。
 【R1年7月7日付記】なお、新宿区史を読み直したところ、振姫は、祖心尼の娘と書いてありました。どちらが正しいのか調査が必要と思いました。


 「明治庭園記」という本によれば、戸山荘は13万6271坪もある広大な庭園で、東京ドームに換算すると約9.5個分になります。(国立国会図書館月報695号より)

 現在の大久保通りに面した側に御殿があり、その西側および北側に広大な御庭が広がっていました。

 戸山荘の景勝については、宝暦11年(1761)の9代藩主宗睦の時代に、儒学者細井平州に25景を選ばせています。

この25景の名称は、次のような景色です。(詳しく書きましたが、とばしていただいて結構です)これらがどこにあったかが前述の「尾張戸山荘今昔めぐり」に載っています。

  鈴慶堂、荻苓坂、琥珀橋、養老泉、傍花橋、随柳亭、望野亭、招隠里、古駅楼世外寺、称徳場、両臨堂、修仙谷、塩遥亭、錦明山、鳴鳳渓、竹倚門、水廬山、吟涼橋、古道岐、拾翠台、臥辨渓、彩雲塘、濯槽川、玉円峰

 このほとんどのものが現在は失われていますが、唯一残っているのが玉円峰です。玉円峰は、池を掘った土で作った山でした。それまでは麻呂が嶽と呼ばれていて、25景選定以降、玉円峰と呼ばれ、さらに、明治以降、箱根山と呼ばれるようになりました。

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箱根山は、標高44.6メートルあり、山手線内最高峰です。山頂には、水準点があり、標高44.6メートルと刻んだ石碑も埋めてあります。(下写真)

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 この戸山荘には、宿場町も再現されていました。小田原の宿場町を模して作ったという御町屋(おまちや)です。この御町屋は、庶民の生活を知るため、小田原の宿場のたたずまいを取り入れた実物大の家並だったそうです。町屋には、米屋、鍛冶屋、問屋場、炭屋、油屋などが軒を並べていたそうです。将軍御成や藩主滞在の折には、各々店を開いて、そこでの売買の様子を実現させました。
 こうしたことで、庶民の生活に直に触れることになり、藩主や妻妾や子供たちに、庶民の生活を学ばせたのではないかと私は思っています。(個人的な見解です) 

 この御町屋の建造は寛文12年(1672)と言いますので、戸山荘が造られた初期に造られたことになります。御町屋は現実の町以上に、山間のひなびた雰囲気を持つ宿場町だったそうです。
 25景のなかに「古駅楼」というものがあります。前述の赤字部分です。この古駅楼は、宿場にある本陣を意味していて、虎屋という外郎屋でした。

 現在の西早稲田駅との中間辺りに古駅楼があり、「古駅楼跡」と書かれて標柱が建てられています。下写真は北側からとった写真ですが、この辺りから南方向に小田原宿を再現した御町屋があったようです。写真の右手に写っているのが新宿区立戸山シニア活動館ですが、このシニア活動館が目印になります。

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 この戸山荘には多くの来客がありましたが、11代将軍徳川家斉の御成の記録も残されています。

11代将軍家斉の御成は4回あったともいいますが、寛政5年(1793)3月23日が最初でした。事前に幕府から尾張家に御成のことが伝えられましたが、この御成は建前上、将軍が高田筋に鷹狩に出た際に、戸山屋敷の庭を通り抜けるというものでした。

これは、正式な御成とすると膨大な経費がかかるので、ふらっと立ち寄った形にするというものです。

 御成の当日の3月23日、家斉は午前8時ころに江戸城を出て、高田方面に向かい、そこで鷹狩をおこなった後、高田の放生寺(穴八幡の西隣に現在もある)で昼食を取りました。そして、戸山荘北側の御成門(神明車力門)から、庭園に人り、帰りは、西南にある車力門から帰っています。

このとき徳川家斉は鷹狩で得た獲物を尾張家に与えていて、尾張家では、4月4日にそれを開いて御吸物とし、家来たちにも分け与えています。

寛政9年(1797)の御成の折りには、町屋に飾りつけられていた花菖蒲、小菊1桶などが家斉の目に留まり、待ち帰っています。

こうした将軍の御成にあたっては、庭園の整備も大変でした

文化15年(1818)4月15日にも、将軍家斉と世嗣の家慶が鷹狩りの途中に御成になっています。この事前に通知を受けた尾張藩では、3月7日から4月4日までの約1ヶ月間、庭園整備のため、近隣の農民を動員していて、延べ人数が、掃除人足2734人、杣人足(少しレベルの高い作業をする人)が222人、合計で約3000人もの農民が動員されたと「大名屋敷の謎」(安藤優一郎著)に書いてあります。

農民は、農繁期に迷惑だとおもったのか?それとも小遣い稼ぎができると喜んだのか?さて、どうでしょうか。

 また、戸山荘では、戸山焼といわれる焼き物が造られたことが知られています。また尾張藩の市ヶ谷の上屋敷でも楽々園焼という焼物がつくられました。

 

 明治になると戸山荘は、陸軍戸山学校として利用されました。

 明治政府が廃藩置県を実施する際の不測の事態に備えるため薩長土の藩兵8千名を御親兵としました。この御親兵の屯所の一つとして戸山荘が利用され、その後、明治7年に陸軍戸山学校が設置されました。
 陸軍戸山学校には、当初、戦術科・射撃科・体操科があり、戦術科は各部隊の歩兵中尉を集めて訓練し、射撃科は各部隊の歩兵中尉・少尉を集めて射撃教官を育成し、体操科では、体操・剣術の訓練を行ったようです。

箱根山の近くに設置されている箱根山の石碑には、中央に「箱根山」とあり、左には「陸軍戸山学校址」と刻まれています。(下写真)

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 また、戸山学校には、陸軍軍楽隊もあり、陸軍戸山学校軍楽隊といいました。箱根山の石碑の前の窪地が、戸山学校軍楽隊の野外演奏場だと言われています。(下写真)

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敗戦により、陸軍戸山学校の用地は国有地となり、昭和23年には、平屋建ての木造住宅が建設され、戸山ハイツとなづけられました。さらに昭和44年から昭和55年にかけて高層アパートに建てかえられました。

戸山公園は、非常に広い公園で、しかも新大久保地区と箱根山地区に分かれています。

江戸に興味を持つ人にお勧めなのは、当然箱根山です。この箱根山に登ると「登頂証明書」が発行されます。(下写真)

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しかし、この登頂証明書を発行してくれるのが、箱根山から徒歩10分余りかかる新大久保地区にあるサービスセンターです。箱根山に登ってから貰いにいくのが大変という方は、先に発行してくれますので、「尾張戸山荘今昔めぐり」のパンフレット(下写真は表面)を貰いながら登頂証明書ももらうのが良いと思います。西早稲田駅からは徒歩約5分です。

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なお、グループで箱根山に登るといった際には、箱根山に出張して登頂証明書を発行してくれるそうですから、サービスセンターに問い合わせてみてください。

赤字が箱根山です。

青字が、古駅楼跡の標柱です。

ピンク印が戸山公園サービスセンターです。










# by wheatbaku | 2019-07-04 12:52 | 新江戸百景めぐり
新大橋(新江戸百景めぐり⑥)

新大橋(新江戸百景めぐり⑥)

 芭蕉記念館の近くに新大橋があります。

 新大橋も、新江戸百景の一つに挙げられていて、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)第19景P66に紹介されています。

 現在の新大橋は、都営地下鉄新宿線「森下駅」A1出口から約5分のところにあります。(下写真)

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 しかし、もともとの新大橋は、現在の新大橋が架けられている地点より約250mほど下流に架けられていました。

 万年橋から芭蕉記念館に向かう万年橋通りの西側歩道に「旧新大橋跡」と刻まれた石柱が建てられています。(下写真)

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 新大橋は、隅田川に架かる3番目の橋として元禄6年(1683)に架けられました。この橋の架設により江戸市中との交通が便利になり、深川の発展に大きく貢献しました。

 新大橋という名前は、万治2年に架けられた両国橋が、当初は「大橋」と呼ばれていたため、「新しい大橋」という意味でつけられました。

松尾芭蕉の住まいつまり芭蕉庵近くに新大橋が架けられたため、芭蕉は期待を込めて「初雪や かけかかりたる 橋の上」と詠み、竣工した後は、新大橋に感謝して「ありがたや いただいて踏 橋の霜」と詠んでいます。

新大橋は、明治45年(1912)鉄橋となり現在地に架替えられました。

この鉄橋は、大正12年の関東大震災の折には、他の鉄橋が落ちる中で、この新大橋だけが残り避難の道として多数の人命を救いました。また、太平洋戦争の大空襲にも耐え、多くの人の命が助かったため、「人助けの橋」といわれるようになりました。

明治に架橋された新大橋は、昭和52年(1977)、現在の新大橋に架替えられ、旧鉄橋は明治の面影をとどめる橋であることから、愛知県の明治村へ移され保存されています。

新大橋の南東のたもとには、明治45年の新大橋の親柱が残されています。明治の雰囲気を残す貴重なものです。(下写真)

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 また、親柱の建っている広場の東側の一段低くなった場所に現在の新大橋の江東区側の東南たもとに「御船蔵跡」の石柱が建っています。 (下写真)

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 現在の新大橋のある地点から北にかけて、幕府の船を格納する御船蔵がありました。幕末の切絵図を見ると次のように、江戸時代の新大橋の北側に御船蔵が描かれています。また、新大橋の東側に幕府の「籾蔵」があったこともわかります。ただ、現在は、その名残りを残すものは全くなく、多くの住宅が建ち並ぶ住宅地をなっています。

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 幕府の船として有名な安宅(あたけ)丸も、寛永9年(1632)この付近に伊豆から回航され格納されていましたが、天和2年(1682)に解体されました。

御船蔵一帯の地域は、安宅丸にちなみ安宅と呼ばれていて、明治2年、深川安宅町となづけられましたが、昭和の初めに新大橋一丁目となっています。 

 新大橋を描いた絵として大変有名なのが、歌川広重の描いた「名所江戸百景の」の一つ「大はしあたけの夕立」です。この絵をゴッホが模写したことで大変有名ですが、この絵は、日本橋側から新大橋を描いたもので、左上部の遠くに黒く描かれた部分が「御船蔵」だと言われています。

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赤印が新大橋です。

青印が旧新大橋跡の石碑設置の場所です。
ピンク印が芭蕉記念館です。







# by wheatbaku | 2019-07-01 19:21 | 新江戸百景めぐり
芭蕉記念館(新江戸百景めぐり⑤)

江東区芭蕉記念館(新江戸百景めぐり⑤)

 芭蕉稲荷神社から万年橋の通りを北に真っ直ぐ歩いていくと江東区芭蕉記念館があります。芭蕉記念館自体は、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)記載の新江戸百景の中にカウントされていませんが、『新江戸百景めぐり』のP154に紹介されていますので、今日は、江東区芭蕉記念館をご案内します。
 芭蕉記念館は、深川が芭蕉ゆかりの地であるため、芭蕉関係の資料を展示するために昭和56年に開館しました。
 最寄駅は都営地下鉄新宿線の森下駅でA1
出口から徒歩で約7分です。芭蕉記念館に直接行くときは森下駅からいくのがよいと思います。

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 入口には、芭蕉の名前のもととなっている芭蕉が植えてあります。(下写真)

 

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1階が受付となっていて、2階、3階が展示室となっています。展示スペースは2階展示室のほうが圧倒的に広いので、展示は2階がメインということになると思います。下写真は2階展示室の様子です。

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現在、そこで、「芭蕉の肖像・俳人の肖像」という企画展を行なっています。

展示期間が4月25日から10月27日までの長期の企画展ですので、ご興味のある方は見に行かれるとよいと思います。

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この企画展では、江戸時代の多くの画家が描いた芭蕉の肖像画が展示されていますが、それらの中に英一蝶、小川破笠、与謝野蕪村、渡辺崋山、蠣崎波響(かきざき-はきょう)などの有名な画家が描いた芭蕉の肖像画も展示されています。

芭蕉に興味がある人だけでなく、江戸時代の画家に興味のある人にとっても一見の価値があると私は感じました。そこで前述の有名画家の作品を紹介します。なお、写真撮影は特に制限はありませんでした。

英一蝶(はなぶさいっちょう)

英一蝶は、京都に生まれました。江戸に出て狩野安信に師事しましたが、後狩野派から離れて、一蝶派の祖となります。俳諧を松尾芭蕉に学んで暁雲と号し、宝井其角とも交流がありました。初め多賀朝湖と称しまし「たが、幕府の怒りに触れて伊豆三宅島に流され、赦免後、英一蝶と改名しました。深川が製作活動の拠点であり、晩年も深川で過ごしています。展示されている作品は「芭蕉と柳図」で「奥の細道」での場面を書いているものだそうです。

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小川破笠(おがわはりつ)

小川破笠は、伊勢に生まれ、江戸に出て、俳諧をはじめ福田露言に学んだ後芭蕉に学び、さらに、英一蝶に絵を学びました。小川破笠は、蒔絵・象嵌は優れていて、「破笠細工」とよばれる独特の蒔絵をつくりあげました。小川破笠は芭蕉を深く尊敬していて数多くの芭蕉像を残しているそうです。展示されている作品は「いかめしき句 芭蕉座像図」です。.

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与謝野蕪村

与謝野蕪村の名前はご存知の方が多いと思います。

芭蕉を深く尊敬し、蕉風復興運動を進めました。

展示されている作品は、「芭蕉座像像」で、多くの皆さんが見たことがあると思います。座像の上に書かれている文字は、全て芭蕉の句です。

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渡辺崋山

渡辺崋山も有名です。田原藩の家老の時に、蛮社の獄で投獄され、地元蟄居の沙汰がくだり蟄居していた三河国田原で自刃したことで有名ですが、画家としても大変有名で、崋山が描いた「鷹見泉石像」は国宝となっています。

渡辺崋山は、芭蕉のほか、其角など6人の肖像画を描いているそうですが、展示されていたのは、其角(下写真)、嵐雪、支考、許六で、芭蕉の肖像画はありませんでした。

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蠣崎波響(かきざき-はきょう)

蠣崎波響は、松前藩の家老です。松前藩主松前資広(すけひろ)5男として生まれ、家老の蠣崎家の養子となりました。江戸で宋紫石(そうしせき)などに学んだ後、京に上り円山応挙に師事しました。 

松前藩は、文化4(1807)年、陸奥梁川に転封されましたが、蠣崎波響は家老として藩主の松前復帰につとめ、文政4(1821)年復領にこぎつけました。

波響の代表作として27歳のときアイヌの首長を描いた「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」があります。展示されている作品は、「芭蕉と二哲の図」で、旅姿の芭蕉、それに双璧と称された其角と嵐雪の二哲を描いたものです。

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こうした芭蕉の肖像画のほかに、今年がちょうど「おくのほそ道」に旅立って330年になる節目の年ですので、その記念として、紀行文なども展示されています。

芭蕉記念館の庭園には芭蕉堂と3つの句碑がありますので、それらも紹介しておきます。

芭蕉堂は、芭蕉の250回忌にあたる昭和18年に芭蕉庵跡(芭蕉稲荷神社)に再建されたものです。石造りであるため、昭和20年の東京大空襲ででは焼失を免れました。

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記念館入口近くにある句碑が、奥の細道にある「草の戸も住替る代ぞひなの家」の句碑です。祈念館に入るときにすぐきがつくと思います。

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上で紹介した芭蕉堂の手前にあるのが、「ふる池や 蛙飛びこむ 水の音」の句碑です。

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芭蕉堂の右奥にある、小さな句碑が、先日紹介した小名木川五本松で詠んだ「川上とこの川しもや 月の友」の句碑です。
 

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《2019年6月29日追加》
【芭蕉庵の絵】

江戸名所図会には、芭蕉庵のことが「芭蕉庵の旧址」として書かれていて、下写真の絵が芭蕉庵として描かれています。

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芭蕉庵というと、この構図をよくみると思います。前述の企画展では、この構図で芭蕉庵を描いた最初のものが展示されています。小林風徳が編集した「芭蕉文集」地之部という書物の挿絵として描かれています。まさに江戸名所図会と同じ構図です。

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【芭蕉の生家】

芭蕉は、寛永21年(1644)、現在の伊賀市で生まれました。伊賀市には現在も芭蕉の生家が残されています。昨年暮に伊賀市に旅行した際に訪ねていますので、簡単に紹介します。下写真が生家で伊賀市指定文化財ですが、耐震等工事などのため、令和3331日(予定)まで休館となっています。

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芭蕉は、士分待遇の農家の出身で、両親と6人の兄弟の中で育ちました。大きくなった芭蕉は、藤堂藩伊賀付の侍大将藤堂新七郎家に奉公に出て嫡男の良忠に仕えることとなりました。良忠の縁で、京都の北村季吟に俳諧を学びました。しかし、良忠が亡くなり、致仕した芭蕉は、俳諧師として生きるために江戸へ出ます。父の死後、当主は兄となっていましたが、江戸へ出た後も幾度ともなく帰省しました。自筆の遺言状も実家の兄半左衛門宛に送られているそうです。下写真の奥に写っているのは、生家の裏の道路沿いにある句碑で「ふるさとや 臍の緒に泣 年の暮」の句が刻まれています。

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赤印が、江東区芭蕉記念館です。
青印が、芭蕉稲荷神社です。







# by wheatbaku | 2019-06-28 13:08 | 新江戸百景めぐり
深川芭蕉庵(新江戸百景めぐり④)

深川芭蕉庵(新江戸百景めぐり④)

 万年橋の北のたもと近くに芭蕉稲荷神社があります。

 芭蕉稲荷神社が『新江戸百景めぐり』(小学館刊)のP154第89景「深川芭蕉庵」として紹介されています。そこで、今日は深川芭蕉庵=芭蕉稲荷神社を案内します。

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 万年橋を南から渡り、最初の十字路を左折すると芭蕉稲荷神社が見えてきます。芭蕉稲荷神社は、大正6年に地元の人たちの手で祀られたもので、境内に芭蕉庵跡の碑があります。

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芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、芭蕉庵と称して延宝8年から元禄7年に大阪で病没するまでここを本拠としていました。

ところが芭蕉が亡くなった後、この芭蕉庵のあった場所は、武家屋敷となり明治になると芭蕉庵がどこにあったかわからなくなりました。

 そうした中で、たまたま大正6年に津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見されたことから、ここが芭蕉庵の跡だと考えられました。

こうしたことから、芭蕉稲荷神社の隣には「芭蕉庵旧跡」と刻まれた石碑がたっています。

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 松尾芭蕉は、延宝8年(1680)に深川にある門人の杉山杉風が所有する生簀(いけす)の番小屋に移り住みました。草庵は最初「泊船堂」といいましたが、門人が贈ってくれた芭蕉がよく茂ったことから草庵を芭蕉庵とよぶようになり、自らの俳号も「芭蕉」と名乗るようになりました。

 そして、延宝8年(1680)以後、没年の元禄7年(1694)に至る15年間にわたり、旅に出ている時期を除き、深川の芭蕉庵を拠点に活動しました。

 芭蕉庵は、実は3期に分かれて営まれました。

芭蕉が最初に住んだ第一次芭蕉庵は、天和2年(1682)に起きた大火により焼失してしまいました。この大火は、「お七火事」と呼ばれる大火で白山の大円寺が火元でした。白山から出火して、隅田川を越えて深川まで延焼したということになります。江戸の大火の怖さを知らせる例の一つです。この時、芭蕉は、池の中に逃れて助かったといわれています。

 翌年の天和3年(1683)には第二次芭蕉庵が完成し、そこに芭蕉は住みました。その後、元禄2年(1689)に「奥の細道」に出立するため、芭蕉庵を処分しました。

処分した後、一時的に仮寓したのが、杉山杉風の採茶庵(さいとあん)です。

採茶庵(さいとあん)から芭蕉は「奥の細道」の旅に出発しています。芭蕉稲荷神社から少し歩きますが、清澄庭園の南側を流れる仙台堀川の南に「採茶庵(さいとあん)跡」の説明板があります。

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説明板のそばには縁側に腰掛けている芭蕉像が設置されています。
 ところで、余談ですが、芭蕉庵を提供したり、「奥の細道」に出立するまで採茶庵に芭蕉を宿泊させたりして、芭蕉を支援していた杉山杉風のご子孫が女優の山口智子さんです。NHKの朝ドラ「なつぞら」に現在出演していますので、「なつぞら」に山口智子さんがでてくるたびに、杉山杉風そして芭蕉のことが思い浮かびます。

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 「奥の細道」の旅の終了後、伊賀上野に帰郷した後京都などで遊んだ後、江戸に帰り、元禄5年(1692)に第三次芭蕉庵が完成し、そこで活動します。そして、元禄7年(1694)に上方に旅に出て、京・伊賀上野、奈良を経て大坂に入り、10月12日、大坂で芭蕉はなくなりました。

 芭蕉がなくなった後、芭蕉が暮らした芭蕉庵は、武家屋敷となりました。
 江戸名所図会によれば、松平遠州侯の屋敷内にあると書いてありますが、幕末の切絵図を見ると、紀伊殿と書かれている屋敷内に芭蕉の古跡があると記されていますので幕末には紀州藩の下屋敷内に変わったものと思います。下写真は江戸切絵図のうちの「本所深川絵図」の一部です。左中央に「紀伊殿」と書かれた右に「芭蕉庵の古跡、庭中にあり」と付記されています。

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 しかし、それ以降、明治になって、芭蕉庵がどこかわからなくなってしまいました。そして、たまたま大正6年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造りの蛙が発見されました。そこで、地元の人々により、石造りの蛙が発見された場所に芭蕉稲荷が祀られたことは前述の通りです。

そして、同10年東京府により芭蕉稲荷の地が「芭蕉翁古池の跡」として旧跡に指定されました。

石造りの蛙は芭蕉記念館に展示されています。出土直後は、芭蕉稲荷神社の近くにある正木稲荷に収められたあと、芭蕉稲荷神社に併設されていた芭蕉堂に移され、現在は芭蕉記念館で展示されているという経緯があるようです。

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 芭蕉稲荷神社の前の通りの西側に正木稲荷神社があり、その裏手の高台が、芭蕉庵史跡展望庭園になっています。

 隅田川と小名木川の合流地点の岸辺に平成7年に作られた庭園です。 庭園の中にも芭蕉像があります。

 芭蕉庵史跡展望庭園は4時30分閉園で、訪ねた当日は5時近くになってしまったため、中に入れませんでした。そこで、以前に訪ねた時の写真がありますので、それを載せておきます。

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 この芭蕉像は北方向を向いて設置されていますが、午後5時になると写真の向きから直角に像が回転し、ライトアップされると聞いていました。
 先日、訪ねた時の隅田川テラスから撮った写真が下の写真ですが、上記の写真は北方向を見ていますが、それと異なって先日撮った芭蕉像は西方向の隅田川を向いています。確かに向きが変わるんですね。

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赤印が芭蕉稲荷神社です。
青印が芭蕉庵史跡展望庭園です。
ピンク印が昨日紹介した万年橋です。




緑印が採茶庵跡の説明板設置場所です。









# by wheatbaku | 2019-06-25 20:59 | 新江戸百景めぐり
小名木川(新江戸百景めぐり③)

小名木川(新江戸百景めぐり③)

 中川船番所は、前回紹介したように、小名木川と中川(現在は旧中川と呼ばれています)の合流地点にありました。 

 現在の小名木川は、全長約5キロメートル、東端は旧中川、西端は隅田川と合流し両河川を結ぶ人口の河川です。

その小名木川も、新江戸百景巡りの一つに選ばれています。そこで、今日は、小名木川について書いていきます。

『新江戸百景めぐり』ではP55の第13景として取りあげられています。

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小名木川は、天正18年(1590)、徳川家康が江戸に入府した際に、行徳の塩を江戸に運ぶために開削された川でした。徳川家康が入府早々に手掛けた土木工事の一つとされています。

上写真は、小名木川と旧中川の合流地点です。現在は、小名木川と旧中川がTの字型に交わっています。写真左手の岸に、中川船番所がありました。

 しかし、江戸時代には、小名木川の先に、ほぼ直線に川が流れていて、行徳に向かっていました。その様子は、歌川広重の名所江戸百景「中川口」(下写真)を見るとよくわかります。手前が小名木川、横にながれるのが中川、そして画面奥が行徳方向でそちら向けて流れているのが船堀川(現在は新川と呼ばれています)です。右下に柵が描かれていますが、それが中川船番所です。

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小名木川は、開削されたというので、一旦埋め立てた陸地を掘削して河川にしたのかと思っていましたが、中川船番所資料館の説明では、深川地域を埋め立てる際に、浅瀬にある水路を埋めずに水路としたと書いてあり、なるほどと理解しました。

なお、小名木川の名称は開削に携わった「小名木四郎兵衛」に由来しています。

小名木川五本松跡 

 江戸時代、小名木川で有名なものの一つに小名木川五本松がありました。

 小名木川の北岸の九鬼家の屋敷に、枝を張った形の良い老松がありました。

 明治時代に、この松は枯死してしまい、昭和63年に五本の松が植えられています。(下写真)

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 江戸名所図会では、芭蕉がこの場所に船を止め、「川上とこの川しもや 月の友」の句を詠んだ場面が描かれています。(下写真)

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この芭蕉の詠んだ俳句の句碑が、芭蕉記念館の庭園に設置されています。(下写真)小さな句碑ですので、見つけにくいと思いますが、芭蕉記念館に行ったら探してみてください。

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 また、この松は浮世絵にも描かれました。歌川広重が描いた名所江戸百景の「小奈木川五本松」が大変有名です。(下写真)

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広重の絵では、小名木川が曲がっているように描かれていますが、実際の小名木川は直線となっています。下写真が、五本松跡の下流からとった小名木川ですが、直線であることがわかると思います。写真中段の橋(小名木橋です)の右手の緑が五本松です。

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猿江船改番所跡

小名木川が大横川と合流する地点の少し東にある新扇橋の北西たもとに「猿江船改番所跡」と書かれた江東区教育員会が建てた説明板があります。(下写真)

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猿江船改番所は、小名木川と大横川が交差する所の猿江側に、元禄から享保期頃に設置されました。

中川船番所は小名木川を通航する船や人々を取り締まっていましたが、猿江船改番所の役割と中川船番所の役割は異なっていました。

当時、幕府や諸藩の荷物を運搬し、江戸へ出入りする船には幕府の勘定奉行に属する川船改役によって極印が打たれ、年貢・役銀が課せられていました。そのため新たに船を造ったり、売買によって持ち主が替わった場合などは届け出が義務づけられていました。

猿江船改番所の仕事は、こうした年貢・役銀を徴収したり、川船年貢手形や極印の検査を行っていました。

中川番が若年寄に直属しているのに対して、改番所を所管していたのは、勘定奉行に属した川船改役でした。

万年橋

小名木川が隅田川と合流する地点近く架かっている橋が万年橋です。下写真は、隅田川テラス側から撮った万年橋です。

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前回書いたように万年橋の北側には昔、船番所があったので、元番所橋とも呼ばれました。

万年橋が架橋された年代は明らかではありませんが、延宝8年(1689)の江戸図には「元番所のはし」として記されているそうです。江東区内の橋のなかでも古く架けられた橋のひとつです。

小名木川に架けられた橋は、船の通航を妨げないように高く架けられていましたが、江戸時代の万年橋も虹型をした橋でした。

葛飾北斎が描いた「富嶽三十六景・深川万年橋下」には、美しい曲線を描く万年橋が描かれ、橋の下から富士山を望む構図となっています。

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また、安藤広重は「名所江戸百景」のなかで「深川万年橋」としてとりあげています。
 画面上段に大きく描かれた亀は、「鶴は千年、亀は万年」と言われたことから万年橋にかけてシャレて描いているだけでなく、捕らわれた生き物を放すことで功徳を積むという放生会(ほうじょうえ)のための亀と考えられます。深川といえば富岡八幡宮の放生会が大変有名でしたので、この亀は富岡八幡宮の放生会のために売られているものでしょう。そうすると、この絵が描いているのは8月15日ということになります。

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なお、亀が橋の欄干に縛り付けられているようなコメントがあったりしますが、亀が縛り付けられたいるのは黄色の部分です。そお黄色の部分は亀が入れられている桶を描いていると思われます。したがって、亀は橋の欄干に縛られているのでは、桶に縛られていると考えたほうがよいと思います。


赤印が小名木川五本松です。
 青印が「猿江船改番所跡」説明板の設置地点です。 

ともに都営地下鉄新宿線の「住吉駅」が最寄駅です。


 ピンク印が、万年橋です。 最寄駅は「清澄白河」駅です。











# by wheatbaku | 2019-06-23 22:19 | 新江戸百景めぐり
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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