南参道の神橋・ワイン樽・大鳥居(原宿散歩④)

南参道の神橋・ワイン樽・大鳥居(原宿散歩④)

明治神宮へ参拝するには、三方向からの参道があります。原宿駅方面の南参道、代々木駅方面の北参道、参宮橋方面の西参道の三つです。

 そのうちメインの参道が南参道です。今日は南参道の見どころをご紹介します。

《神橋》

 南参道の第一鳥居から50メートルほど進むと、神橋があります。

この神橋を多くの人が渡っていますが、その下を流れる細流には注目する人は少ないだろうと思います。

 神橋の下を流れている細い流れは、明治神宮御苑の南池から流れ出たものです。昔は、この流れが隠田川に流れ込んでいました。その隠田川は、渋谷駅付近で西から流れてきた宇田川と合流して渋谷川となります。下写真は神橋から見た南池から流れ出る小川です。

c0187004_19280814.jpg

《ワイン樽》

神橋をさらに進むと参道左手にワイン樽が飾られています。明治天皇はワイン好きで知られています。このワイン樽は、フランスのブルゴーニュ地方の醸造元から奉納されたものです。数えてみたら60樽ありました。ワイン樽の向かい側には清酒の菰樽(こまだる)が飾られています。

c0187004_19281603.jpg

《大鳥居(第二鳥居)》

南参道には三つの鳥居がありますが、ワイン樽を越えて参道を左手に折れると大きな鳥居があります。

鳥居の高さが12メートル、幅が17.1メートル、柱の太さが直径1.2メートル、重さが13トンもあり、木造の明神鳥居としては日本一の大きさを誇っています。

c0187004_19282367.jpg

現在の大鳥居は2代目で、初代の大鳥居は明治神宮が創建された大正9年に完成しました。

初代の大鳥居は、明治神宮造営の時に台湾総督府より献納された台湾産檜で、檜の樹齢は1200年以上に達していたといわれます。

 ところが昭和41年7月22日、右側(北側)の柱に雷が落ち破損してしまいました。

明治神宮としては老朽化も進んでいたため、落雷によって破損したことで鳥居を立て直したいと考えましたが、日本にはこれほどの大鳥居が作れる檜はありませんでした。

 その時、東京で材木商を営む篤志家・川島康資という人が明治神宮の大鳥居が破損したことを聴き、なんとか明治神宮に奉納したいと考え、わざわざ台湾まで檜材を探しに行き、標高3300メートルの山中に樹齢1500年を超える巨木を発見しました。

その後、断崖に道をつけ、山を切り拓いて運び出したもので、完成したのは昭和50年のことでした。

元の大鳥居は埼玉県の大宮氷川神社の鳥居として利用されているそうです。




[PR]
# by wheatbaku | 2018-11-21 19:07 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
明治神宮の森は人工林(原宿散歩③)

明治神宮の森は人工林(原宿散歩③)

 原宿散歩の3回目は明治神宮の森についてご紹介します。

 明治神宮をお参りすると神宮の森がうっそうとしていてい深山にいる雰囲気があります。
 下写真は第一鳥居を写した写真ですが、クスノキの大木などでうっそうとした樹林となっています。

c0187004_15575195.jpg

 ですから、この神明治宮の森を見て、人工林だと思う人は少ないだろうと思いますが、この明治神宮の森は、人工的に造られた森です。

 明治神宮が鎮座した場所一帯は南豊島御料地(皇室の所有地)でしたが、その景観は、畑や草原がほとんどで、全体の五分の一ほどの現在の神宮御苑一帯に林があるだけという状態だったようです。それが、再来年に明治神宮は鎮座100年を迎えますが、いまや神宮の森は自然林同様の森となっています。下写真は南参道とその周辺の森です。

c0187004_16014501.jpg
 明治神宮の森を見るとシイ・カシ・クスノキが多く、伊勢神宮や日光東照宮のような杉や檜はあまり多くありません。

 畑地中心の土地をうっそうとした樹林にするために当時の最先端をいく植物学者や造園学者たちが集められました。

 その人たちは、明治神宮に何を植えたら立派に育つか、また100年後自然の状態になっていくにはどんな樹種がよいのか等について検討を重ねました。

検討の結果、この土地の気候風土にあったカシ、シイ、クスノキなどの照葉樹を植えることに決定したのです。

 しかし、当時の内閣総理大臣であった大隈重信は「神宮の森は杉林にするべきだ」として伊勢神宮や日光東照宮の杉並木のような雄大で荘厳なものを望んでいました。

しかし当時の造苑関係者は大隈重信の意見に反対し、谷間の水気が多いところであれば杉は育つが、関東ローム層の代々木では不向き、杉は都会に適さないこと等を説明してようやく納得させたそうです。

 明治神宮の造営工事は、大正4年から始まりましたが、まず、最初に手がけられたのが、神宮の森の造営でした。

全国から植樹する木を奉納したいと献木が集まり、北は樺太から南は台湾まで、さらに満州、朝鮮からも届き、全部で10万本を超える木が献上されたといいます。その種類は在来種等を含め365種だったそうですが、東京の気候にそぐわない種類もあり、現在では234種類になっているそうです。

 樹木数は50年後の調査では約17万本に増えていたそうで、再来年には鎮座百年を迎えますが、それ以上に増えているだろうと想像されます。

明治神宮の森は、現在では、すっかり当初の造園関係者たちが期待していた自然林の状態になっています。




[PR]
# by wheatbaku | 2018-11-19 15:49 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
明治神宮の鎮座(原宿散歩②)

明治神宮の鎮座(原宿散歩②)

 明治神宮は、初詣客が300万人を超え、全国一初詣客の多い神社として有名です。しかし、これほどの参拝客がありながら、明治神宮がいつ鎮座したかについてはよく知られていないそうです。そこで、今日は明治神宮の鎮座について書いてみます。下写真は第一鳥居です。

c0187004_10572697.jpg

明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后をお祀りする神社で、大正9年11月1日に鎮座した神社です。

明治天皇は明治45年7月30日に、数え年61歳で崩御され、大正元年9月13日に青山練兵場(現在の神宮外苑)で大葬が行われました。

明治天皇の崩御の報を聞いた当時の東京市長阪谷芳郎や渋沢栄一を中心とした東京の人々は、明治天皇陵を東京に誘致したいと考え、誘致運動を始めました。

しかし、明治天皇は、明治天皇の遺言によって京都の桃山御陵に埋葬されることとなり、東京の人々の願いは消えました。

そこで、明治天皇陵を誘致しようとしていた人々から、明治天皇をお祀りする神社を創建しようという案が出されました。

明治天皇をお祀りする神社を創建する場所として、東京以外にも、神奈川県の箱根、埼玉県の朝日山(飯能市)、千葉県の国府台、茨城県の筑波山、静岡県の富士山など多くの立候補があり、誘致運動が展開されました。 

そうした中で、大正21220日、政府は明治天皇を奉祀する神社の創建について調査するため伏見宮貞愛親王を総裁とする神社奉祀調査会を設置し、大正3115日に神社奉祀調査会が東京府下に明治天皇をお祀りする神社を創建すると決定しました。 下写真は本殿前の楼門です。

c0187004_10570219.jpg

しかし、東京府下に創建するといっても、東京にもいくつの候補地があり、その中でどこに創建するかというのが次のテーマとなりました。

東京府下では、陸軍戸山学校敷地(現在の新宿戸山公園辺り)、白金火薬庫跡(現在の白金の自然教育園)、代々木御料地(正式名は南豊島御料地、現在の明治神宮)のほか、青山練兵場跡(現在の神宮外苑)、さらに青梅の御嶽山といった候補地もありました。

こうした候補地のうち、候補地への実地調査などを行い、大正3215日に、最終的に代々木御料地に創建すると決定されました。

代々木御料地が選ばれた理由について伊東忠太は次のように語っています。

候補地の第一であった戸山学校は、広さはまず充分であるが、一部に老樹があるが概して樹林に乏しく、土地が渓谷によって両断されて社殿を配置するに適していないこと。次に白金の火薬庫の敷地は老樹巨木鬱蒼として茂っているが、敷地が狭く、広い参道を取るのに不便な地勢だったこと。 

そして、第三の候補として代々木御料地があり、土地は高燥であり地盤も堅牢であり、元来加藤清正の邸であったと伝えられ、その後井伊家の下屋敷になったので美しい御苑があり、昭憲皇太后は行啓あり、明治天皇も行幸になったことがある土地でした。代々木御料地は、いくつかの欠点があり、理想的な敷地ではないけれども、戸山学校や白金火薬庫跡に比べればすぐれていたし、やこの他には東京市の内外にこれに優る候補地が見当たらない。

地鎮祭が大正4年10月に行われ、まず、境内に樹木を植える工事が始まりました。樹木は、日本全国から献納されました。そして、大正87月に上棟祭が行われ、大正9年11月1日に鎮座しました。 11月1日当日は、天気は雲だったものの1日だけで50万人もの参拝者があったと当時の東京朝日新聞は報じています。下写真は現在の本殿です。

c0187004_10571911.jpg

また、神宮の造営工事には全国から延べ11万人もの青年団が勤労奉仕として参加しています。樹木の献納とともに、明治神宮の創建が、当時の国民全体にとって待ち望まれたものであったことを表しているように思います。



[PR]
# by wheatbaku | 2018-11-15 10:40 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
原宿駅(原宿散歩①)

原宿の地名と原宿駅(原宿散歩①)

先週の土曜日に、毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で明治神宮に参拝して原宿を散歩してきました。

 そこで、今日から、明治神宮と原宿の見どころを紹介していきます。

 最初は、原宿という地名についてお話します。

原宿という地名は非常になじみのある地名です。多くの人が原宿といえば若者でにぎわう東京の原宿を思い起こすと思います。

しかし、意外なことに、現在、原宿という地名は行政上の住居表示としては存在しません。つまり原宿という地名は東京にないと言えます。

現在、俗に原宿と呼ばれている地域の住居表示は「神宮前」です。

「神宮前」という町名が昭和40年に誕生しました。それの際に、それまであった「原宿1丁目、2丁目、3丁目」「穏田1丁目、2丁目、3丁目」「竹下町」という7個の町名がなくなりました。下写真は昭和7年当時の住居表示です。

c0187004_15370602.jpg

「神宮前」となったのも「原宿」「穏田」の町名が、両方ともに歴史のある地名であるためにどちらにも決めかね、明治神宮の前にある地域ということで「神宮前」に落ち着いたという経緯があるようです。

詳しいことはわかりませんが、「原宿」「穏田」の意地の張り合いで原宿という名前がなくなったのであれば、残念なことですね。

「原宿」という地名は、昔からありました。

鎌倉時代以降、鎌倉から奥州に向かう鎌倉道が現在の神宮外苑近くを通っていて、その宿駅があったことから原宿という地名が起きたといわれます。

宿駅があった当時は、周辺が草で生い茂る原っぱ状態の宿駅だったのではないでしょうか。

「原宿」以外の町名のうち、「竹下町」は竹下通りに名前が残っています。

しかし、「穏田」という地名は、以前は村の名前のほか、隠田川にもその名前が付けられていましたが、現在は、「隠田神社」の名前として残るぐらいで、ほとんど忘れられた地名となっています。下写真が隠田神社です。右手に「隠田神社」と刻まれています。

c0187004_15365598.jpg

現在、原宿の名前を冠した公共施設はあまりありません。その数少ない建物の一つが原宿駅です。

原宿駅は明治39年に開設し、現在の駅舎は、大正13年に建築され、都内の木造駅舎としては最古の建物です。

原宿駅は、中央に尖塔があるヨーロッパ風ハーフティンバーの駅舎が特徴です。(下写真)

c0187004_15370049.jpg
 

現在、原宿駅は、2020年完成をめどに駅改良工事が実施されています。

新しい「原宿駅」は、線路及びホームをまたぐ2層の「橋上駅舎」が新設され、神宮橋方面には、既存の「表参道口」のほかに「明治神宮口」が新設されます。

また、年始のみ使用している明治神宮側の「臨時ホーム」は、「山手線外回り専用ホーム」に改良します。これにより、内回り・外回りの動線が分離されることになります。

新設する外回り専用ホームは、地下通路で竹下口改札にも接続します。

 新しい原宿駅が完成するにともなって、現在の原宿駅の駅舎がどうなるのか注目されます。
 

 


[PR]
# by wheatbaku | 2018-11-13 15:31 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
絶好の行楽日和の中、原宿を散歩してきました。
絶好の行楽日和の中、原宿を散歩してきました。

 昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で、原宿を散歩してきました。

 昨日は絶好の行楽日和で日中は少し暑いくらいの陽気で、下の明治神宮の写真のように大勢の人出で明治神宮や原宿はにぎわっていました。
 ご参加いただいた皆さん、お疲れ様でした。

c0187004_15073576.jpg

 

昨日の散歩は次のコースで歩いてきました。

原宿駅 ⇒ 明治神宮(神橋、代々木由来の木、大鳥居、参拝)⇒神宮御苑(清正井、菖蒲田、隔雲亭) ⇒ 竹下通り ⇒ 東郷神社 ⇒ 村越の水車跡 ⇒ 旧渋谷川(隠田川)遊歩道 ⇒ 表参道散歩(参道橋跡、表参道ヒルズ「同潤館」等)⇒ 青山善光寺 ⇒ 高野長英隠れ家跡 ⇒ 表参道駅

最初に明治神宮に御参拝しました。

明治神宮は明治天皇の昭憲皇太后をお祀りする神社で、大正9年11月1日に鎮座しました。

明治神宮の森は、自然林のように見えますが人工の森です。明治神宮の造営は、大正4年から始まりましたが、一部を除くと農地であった代々木の地に、全国から献納された10万本の樹木が植えて、神宮の森ができあがりました。

下写真は、第一鳥居の前で神宮の森を見ながら説明を聞く皆さんです。

c0187004_15072950.jpg

代々木という名前は、代々木の地に、代々続く樅(もみ)の木があったことから代々木という名前がつきました。

その代々木の名前の由来となった木が、原宿からの参道わきにあります。

参道わきにありながら、ほとんどの人がきがついたことがなく、説明にびっくりしていました。

c0187004_15072410.jpg

明治神宮御苑には、加藤清正が掘ったと伝わる清正井(きよまさのいど)があります。清正井(下写真)から湧き出ている水は15度前後で年中ほとんどかわらないそうです。

c0187004_15071860.jpg

清正井は狭いところにある湧水ですので、順番に並らばないとみることができません。下写真は、清正井の前にならぶ参加者の皆さんです。

c0187004_15071378.jpg

東郷神社は、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎元帥を祀る神社です。東郷神社は、昭和15年5月27日に鎮座しました。

下写真は、表門前で説明を聞く参加者の皆さんです。

c0187004_15070455.jpg

青山善光寺は信州善光寺の東京の別院です。江戸時代初期には谷中に創建されましたが、元禄年間に水戸様火事により焼失し、青山に移転して再建されました。浄土宗のお寺です。

c0187004_15065624.jpg

青山善光寺の境内には、高野長英の顕彰碑が建てられています。現在のものは2代目で昭和39年に建てられたものです。(下写真は、顕彰碑前で説明を聞く参加者の皆さんです)

c0187004_15064957.jpg

高野長英は蛮社の獄で小伝馬町牢屋敷に投獄されましたが、脱獄し日本各地に潜伏し一時期は宇和島に隠れていたこともあります。その後、江戸に戻り青山百人町で、町医者を開業しました。しかし町奉行所がそれを察知し嘉永3年に隠れ家を急襲され、自害して果てました。下写真は、東京メトロ表参道駅近くの隠れ家跡に設置されている石碑です。

c0187004_15063935.jpg




[PR]
# by wheatbaku | 2018-11-11 15:03 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
一見の価値あり!「江戸東京たてもの園」

一見の価値あり!「江戸東京たてもの園」

 江戸検が終了しました。

 江戸検を受検された皆さん、お疲れ様でした。

 結果は、それぞれ悲喜こもごもであったようです。合格点に達した皆さんおめでとうございます。12月下旬の合格通知が届くのが待ち遠しいことと思います。一方、惜しくも合格点に達しなかった皆さん、しばらくの間はのんびりして、また、新たな気持ちで来年に向けてスタートしてください。

 さて、先日、「江戸東京たてもの園」に旧自性院霊屋を見にいってきましたが、「江戸東京たてもの園」には、江戸時代以降の貴重な建物が集められていて、実際に江戸から昭和にかけての建築物の様子を実体験でき、一見の価値があると思います。

 そこで、数多くある建物の中から、私が注目した建物をいくつか紹介します。

【三井八郎右衞門邸】

c0187004_15092583.jpg

 三井惣領家である三井八郎右衛門の屋敷を移築したものです。

 戦前は、麻布区今井町にありましたが、今井邸が戦災で焼失し、敷地はGHQに接収されたため、第11代三井八郎右衛門高公は、麻布笄町(現港区西麻布三丁目)に場所を移して本邸を再建しました。

 新しい本邸は京都の油小路邸の奥座敷や大磯別邸の部材を用い再建しました。 しかし、三井八郎右衛門髙公が亡くなったことにより、建物が江戸東京たてもの園に移築復元されました。下写真は、客間です。

c0187004_15092057.jpg


【高橋是清邸】

c0187004_15091612.jpg

高橋是清邸は、明治34年に赤坂の約2000坪の敷地に建てられました。

その後、昭和11年の226事件で高橋是清が殺害されるまでこの家で過ごしました。

戦前に多磨霊園に移されて休憩施設として利用されていたために戦災を免れ、平成5年(1993)に江戸東京たてもの園に移築されました。

2・26事件で高橋是清が青年将校に殺害された部屋も残されています。(下写真)

c0187004_15091175.jpg


【旧宇和島藩伊達家の門】

c0187004_15090387.jpg

 旧宇和島藩伊達家が、大正年間に東京に居住するために建てた屋敷の表門です。

タイトルだけを見ていると江戸時代の宇和島藩邸の表門だと思いましたが、大正期の建築であったのが意外でした。しかし、片方に番所があり、堂々たる大名屋敷の風格が感じられます。冠木には伊達家の家紋が設置されています。(下写真)

c0187004_15085934.jpg


【八王子千人同心組頭の家】

c0187004_15085134.jpg

八王子千人同心とは、甲斐武田家に仕えていた同心衆が徳川家に仕え、国境警備のために八王子に配備されました。その後東照宮の防火と警備が主任務とする日光の火の番が主な役割になりました。10人の千人頭、100人の組頭、1000人の同心がいたことから千人同心と呼ばれます。


【万徳旅館】

c0187004_15082647.jpg

青梅市に幕末に建設され、明治初期に増築された旅館(旅籠)です。青梅街道に面して建っていたこの旅館は、富山の薬売りなどの行商人が多く利用していました。

 江戸時代の旅籠が実感できる建物で、建物の中に入ると江戸時代の旅人になった気分になれます。(下写真が建物内の様子です。)

c0187004_15082082.jpg



【子宝湯】

c0187004_17211681.jpg
 

 江戸東京たてもの園には、昭和の建物も残されています。

子宝湯もそんな建物の一つです。子宝湯は、足立区千住元町にあった銭湯で、昭和4年に開業したそうです。

玄関は、神社やお寺にあるような大型の唐破風になっています。

 建物の中に入ると、壁にはペンキ絵が描かれていて、洗い場にはタイル絵が描かれているなど、昔なつかしい銭湯のスタイルが残されています。(下写真)

c0187004_17211047.jpg


江戸東京たてもの園には、このほか数多くの建物が移築復元されていて、ただ建物を眺めて回るだけでも小1時間、少し丁寧にみると3時間~4時間程度は必要です。でも、1日かけてじっくり見るだけの価値があると思います。
 ご興味がある方は、一度ご覧ください。


[PR]
# by wheatbaku | 2018-11-06 15:06
江戸検本番、頑張ってください!

江戸検本番、頑張ってください!


 いよいよ江戸検本番が明後日になりました。

 江戸検を受検される皆さん、これまでの努力の成果をいかんなく発揮してください。多くの方が合格されることを祈っています。

c0187004_11373764.jpg

 さて、先日、加賀騒動の当事者の一人「お貞の方(真如院)」について書きました。その際に、歌舞伎の『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』について触れませんでしたので、ここで、それについて付記しておきます。

 まず、次の模擬問題を解いてみてください。

【模擬問題】 次の歌舞伎の演目で、仇討を題材としたものでない演目はどれでしょう?

 い)「仮名手本忠臣蔵」  ろ)「加賀見山旧錦絵」 

 は)「伽羅先代萩」    に)「助六由縁江戸桜」

 今年のお題のテキスト「江戸のヒロインたち」をよく読んでいる人は、すぐにわかると思います。正解は、は)です。

ところで、過去に次のような問題が出題されました。

【第3回76問】 次の「御家騒動」とそれを題材とした歌舞伎の演目の組み合せで、正しくないのはどれでしょう?

い)伊達騒動-「伽羅先代萩」 
 ろ)加賀騒動-「加賀見山旧錦絵」

は)鍋島騒動-「百猫伝手綱染分」
 に)黒田騒動-「妹背山婦女庭訓」

 また、『江戸博覧強記』には、「加賀見山旧錦絵」は加賀騒動を取り扱った演目と書かれています。
 そのため、「加賀見山旧錦絵」は、御家騒動だけを扱った歌舞伎だと思っていた人も多いと思います。

しかし、「加賀見山旧錦絵」は、加賀騒動のほか、浜田藩主松平周防守の江戸屋敷でおきた仇討事件を組み合わせたものです。

その仇討事件とは、享保8年(1723年)3月、浜田藩主松平周防守の屋敷で、中老の滝野が沢野に叱責されたことを苦に自害し、その滝野に仕えていた下女の山路が主人の仇を晴らすため沢野を討った事件です。この事件を「草履打ち事件」と書いている本もあります。

「加賀見山旧錦絵」には、この「草履打ち事件」も脚色して採りいれられていますので、「加賀見山旧錦絵」には、仇討の内容も入っています。

 このことはお題テキスト『江戸のヒロインたち』にも書かれていますので、留意しておいてください。

8月の『江戸検1級合格虎の巻講座』を受講していただいた皆さんやこのブログを読んでいただいている皆さん、江戸検終了後、受検しての感想や喜びの声をお送りください。

特に『江戸検1級合格虎の巻講座』を受講していただき自己採点で80点以上となった方はぜひ喜びの声をご連絡ください。

江戸検受検の感想や喜びの声等
 ※上の赤字部分をクリックすると送信画面が開きます。



[PR]
# by wheatbaku | 2018-11-02 20:09 | 江戸検定
 お振の方(自性院)の霊屋(江戸のヒロインの墓㉘)

 お振の方(自性院)の霊屋(江戸のヒロインの墓㉘)

江戸検が近づいてきました。皆さん、頑張って準備されていることと思います。江戸のヒロインに関する記事の最後として、お振の方(自性院)の霊屋(おたまや)をご案内します。

c0187004_18390846.jpg

お振の方は、3代将軍徳川家光の最初の側室です。

3代将軍家光は、当寺は男色に熱心で女性にはあまり関心を示さなかったと言われています。そこで、春日局が心配してお振の方を大奥に招いたと言われています。

お振の方の出自は諸説あるようですが、江戸検お題テキスト「江戸のヒロインたち」では、石田光成の孫の岡吉右衛門、母は春日局の姪祖心尼の娘となっています。「徳川妻妾記」(高柳金芳著)には、春日局の姪祖心尼の孫で、後に祖心尼の養女となったとされています。

お振の方が大奥に入ったのは、寛永3年(1626)ですが、春日局の期待通り、家光の最初の子供千代姫を産んだのは、寛永14年(1637)でした。

千代姫は、出生の翌年、尾張藩の世子徳川光友と婚約し、3歳で市ヶ谷の尾張藩邸に輿入れしました。

お振の方は寛永17年(1640821日に亡くなり、法名「自証院殿光山暁桂大姉」となづけられ、牛込の法常寺に葬られました。

そして、徳川家光はお振の方を葬るため1万坪余を下賜し、法常寺を市ヶ谷に移し自証院を建立しました。(下写真は、参道から写した現在の自性院です。中央奥に見えるのが本堂です)

c0187004_18344556.jpg

慶安5年(1652)には、千代姫が施主となって生母お振の方の霊屋(たまや)を自証院境内に建立しました。これが江戸東京たてもの園に現存する旧自証院霊屋です。

寛文元年(1661)、千代姫によって本堂が建立されています。

元禄11年(1698)に千代姫はなくなりましたが、尾張家は、千代姫没後も、自証院を庇護していました.しかし、明治になると尾張家の庇護がなくなり、自性院は荒廃してしまいました。

さらに、明治4年、明治政府の社寺上地令により境内地と墓地の一部を残して寺領の大半は国有地として没収されました。

明治末年には、経済的な困難もあって、墓地は現在の中野区上高田に移転、改葬が行われ、広大な寺域も宅地として売却され、さらに昭和3年、境内地の一部が、小学校建設用地として東京都に譲渡されたことにより、境内地は非常に狭くなっています。

旧自証院霊屋は、昭和32年西武鉄道によって買収され、赤坂プリンスホテル内に移築されていましたが、平成7年、江戸東京たてもの園に移され復原されています。(下写真参照)

c0187004_18305223.jpg

そこで、昨日、江戸東京たてもの園を訪ねて旧自証院霊屋を見てきました。

 江戸東京たてもの園は、小金井市の都立小金井公園の中にあります。

 中央線武蔵小金井駅北口から西武バスで5分の小金井公園西口バス亭から公園の中を5分程歩くと江戸東京たてもの園の正面入口になります。

下写真が入り口建物です。

c0187004_18305843.jpg

 西武バスはかなりの本数が出ていますので、交通は便利です。

旧自証院霊屋は、10月28日から11月4日までは東京文化財ウィークの一環として、内部が公開されていましたが、日曜日・祝日には内部が公開されるということを現地で知りました。(下写真は正面から撮った写真です。) 

c0187004_18303332.jpg

旧自証院霊屋の建築に当たった大工は幕府作事方大棟梁甲良宗賀です。

建物の外観は漆と極彩色で飾られていて、創建当初の姿になっていて、須弥壇等内部の移築当時の状態を残して修復されたそうです。

赤印が江戸東京たてもの園です。





[PR]
# by wheatbaku | 2018-10-31 18:16 | 江戸のヒロイン
お貞の方(真如院)のお墓(江戸のヒロインのお墓㉗)

お貞の方(真如院)のお墓(江戸のヒロインのお墓㉗)

江戸のヒロインのお墓、今日は加賀騒動の当事者の一人お貞の方(真如院)のお墓をご案内します。

 お貞の方(真如院)のお墓は、文京区向丘の長元寺にあります。

 東京メトロ本駒越駅1番出口から徒歩3分の距離にあります。また、東大前駅2番出口からでも徒歩5分の距離にあります。

 長元寺は日蓮宗のお寺です。(下写真は本堂です)

c0187004_21362852.jpg

谷中感応寺を中興した日長上人が開山となり寛永4年(1627)千駄木に創建され、寛文2年(1662)現在地へ移転したといいます。中興開基は、前田吉徳の母預玄院でした。

お貞の方(真如院)のお墓は本堂の北側にあります。

墓表には「眞如院殿照月日清大姉」と刻まれています。

c0187004_21362092.jpg

 お貞の方(真如院)は、加賀騒動の重要な人物ですので、まず加賀騒動についてお話します。

加賀騒動は、江戸時代の中期に加賀藩で起こった御家騒動です。

6代藩主前田吉徳に可愛がられた大槻伝蔵が、前田吉徳の側室お貞の方(真如院)と密通し、お貞の方(真如院)の産んだ利和(としかず)を藩主とするために、前田吉徳および7代藩主前田宗辰(むねとき)を暗殺し、さらに8代藩主前田重煕(しげひろ)を暗殺しようとしましたが、重臣前田土佐守直躬(なおみ)らが中心となって、大槻伝蔵が捕えられ、大槻伝蔵は流刑地五箇山で自害したというのが加賀騒動のストリーです。


 しかし、加賀騒動は、実録ものと言われる小説から広がった物語です。

 実録ものというのは、事実に虚構をまじえて興味本位につくられたもので講釈師の口述を書き留めた講談台本などを書写した読み物です。

 こうしたことから、いわゆる加賀騒動の話には、事実と異なることが多いようです。

 実際は、加賀藩で、財政再建のため前田吉徳が、茶坊主あがりの大槻伝蔵を重用し、経費の節減や上方での金融に独自の腕を振るわせ、それが成功したことから、大槻伝蔵が異例の出世をとげました。これに対して、保守派の重臣たち特に前田直躬が大槻伝蔵を嫌い、延享2年(1745)前田吉徳が亡くなりと、大槻伝蔵は後ろ楯がなくなり失脚し、寛延1年(1748)越中五箇山に流され、同年配所で自殺しました。 

 また、お貞の方(真如院)による前田重煕(しげひろ)を暗殺や大槻伝蔵との密通についても、これという罪状もつかめないところから、前田直躬らが両者の密通・密謀をでっち上げたのではないかという説もあるようです。


お貞の方(真如院)は、芝神明の神職鏑木政幸の娘で、同じく前田吉徳の側室心鏡院(次男・重熙の生母)は、お貞の方(真如院)の妹もしくは姪といわれています。

前田吉徳の側室となり、富山藩主前田利幸に嫁いだ長女総姫はじめに、利和(勢之佐)、楊姫、益姫、八十五郎の23女を産みました。(うち益姫は夭折)

延享2年(1745年)に前田吉徳が没したため、落飾し真如院と称しました。

前田吉徳の跡は、その長男の宗辰(むねとき)が継ぎました。

前田宗辰は、大槻伝蔵に対して厳しくあたり、大槻伝蔵を失脚させています。

しかし、前田宗辰は、延享3年(1746)に死去し、続いて次男の重熙(しげひろ)が藩主となりました。宗辰はわずか1年6ヶ月だけ藩主でした。

寛延元年(1748年)、お貞の方(真如院)の子供八十五郎が加賀藩の重臣・村井長堅の養子と決まったため、真如院は八十五郎とともに江戸を出発し、7月11日に金沢に到着しました。

ところが、お貞の方(真如院)の旅行中の6月26日と7月4日、江戸藩邸で、茶釜に毒をいれ、藩主の前田重熙や浄珠院(6代藩主宗辰生母)を毒殺しようという事件が起こりました。 


調査の結果、お貞の方(真如院)の娘の楊姫付きの中臈浅尾に疑いがかけられ、浅尾はお貞の方(真如院)の命令によって行ったと自白しました。

そのため、お貞の方(真如院)は、金沢の金谷御殿に幽閉されました。

さらにお貞の方(真如院)の居室から、大槻伝蔵の手紙が見付かったとされ、大槻伝蔵と密通していたと疑いを掛けられました。(これは今では前述したようにでっちあげだと考えられています。)


これらによって、お貞の方(真如院)は終身禁固と決められたが、体調を崩していたため、そのまま金谷御殿の縮所で幽閉されました。

お貞の方(真如院)は、寛延2215日、病死しました。享年42歳でした。

そして、金沢の経王寺に葬られました。

江戸の長元寺のお貞の方(真如院)のお墓は、後日、建てられた供養墓のようです。


赤印が長元寺です。





[PR]
# by wheatbaku | 2018-10-29 21:26 | 江戸のヒロイン
大橋巻子のお墓(2)(江戸のヒロインの墓㉖)

大橋巻子のお墓(2)(江戸のヒロインの墓㉖)

 今日も大橋巻子の続きです。昨日は大橋巻子の夫大橋訥庵について書きましたが、今日は大橋巻子について書きます。

 大橋巻子のお墓は、大橋家の墓所のうちの大橋訥庵の隣に建っています。墓表には大橋氏巻之墓と刻まれています。

c0187004_17454147.jpg

 大橋巻子は、江戸日本橋の豪商大橋淡雅の娘として生まれました。

父親の大橋淡雅は、医師大橋英斎の子どもとして生まれ、15歳の時宇都宮の豪商佐野屋治右衛門(菊地孝古)の養子となりました。

大橋淡雅は菊池孝古の一人娘であった民子を嫁に娶って菊地の養子となりましたが、菊池姓は名のらず大橋姓を名のりました。

また、家督を継ぐ立場でしたが、大橋淡雅が26歳の時、養父菊池孝古は、大橋淡雅に江戸日本橋に出店することを許しました。

大橋淡雅は、商売上手で、一代で木綿を取り扱う豪商へと商売を発展させました。

しかし、大橋淡雅は若い頃から学問をしたいという希望をもっていて、大橋家を継ぐ後継者は学者から迎えたいと考え、娘巻子の婿養子に佐藤一斎の弟子で儒家として有望な清水順蔵(大橋訥庵)を迎え、大橋家の名籍を継がせました。

一方、商売の方は、巻子の実弟菊池教中(きょうちゅう)に継がせました。

下写真が大橋淡雅のお墓です。墓表に淡雅大橋知良之墓と刻まれています。

c0187004_17453698.jpg

大橋巻子は、幼いころから母民子に学び和歌に優れ、国学も修めました。

巻子は、大橋訥庵を婿養子に迎えた後は、大橋訥庵の開いた思誠塾や尊王運動を助けました。

文久2(1862)113日、夫の大橋訥庵が、坂下門外の変の首謀者として逮捕され、さらに実弟菊池教中(きょうちゅう)も坂下門外の変に関与したことから逮捕されました。

大橋訥庵の逮捕後、思想塾の家宅捜索が行われましたが、大橋巻子は事前に証拠となるような文書は破棄しておきました。また、奉行所にも呼ばれ尋問を受けましたが、それにも屈せず、大橋訥庵の留守を守り通しました。

しかし、77日に出獄した大橋訥庵は、大橋巻子の看病の甲斐もなく、文久2712日に亡くなり、実弟教中も88日なくなりました。

この時期に大橋巻子が書いたのが、有名な『夢路日記』です。

『夢路日記』は、夫訥庵と実弟教中が投獄された文久2年正月から約半年間の大橋巻子の心情を40首の歌とともに綴ったものです。

この『夢路日記』は尊攘派の志士の間で評判となりました。

勤皇思想と大橋訥庵や菊池教中への思いを豊かな表現力を駆使して綴られたこの日記は、当時の尊攘志士たちの間で評判となりました。

遠く離れた九州福岡の野村望東尼も『夢路日記』を読んだと言います。

大橋巻子は、大橋訥庵が亡くなった後、思誠塾を継いだ養子陶庵と一緒に暮らし、明治14年12月23日58歳で亡くなりました。

そして谷中天王寺の大橋家の墓所に大橋訥庵と並んで眠っています。
 下写真の右が大橋巻子のお墓、左が大橋訥庵のお墓です。

c0187004_22121004.jpg

 


[PR]
# by wheatbaku | 2018-10-26 17:27 | 江戸のヒロイン
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
by 夢見る獏(バク)
プロフィールを見る
画像一覧
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30
以前の記事
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
ブログパーツ
最新のコメント
ツユクサさん 江戸城散..
by wheatbaku at 12:53
獏様 江戸城散策、お疲..
by ツユクサ at 08:26
宮越さん コメントあり..
by wheatbaku at 11:42
今回のブログで、霊厳寺が..
by 宮越重遠 at 10:51
やぶひびさん 本妙寺は..
by wheatbaku at 13:05
「江戸から東京へ1」を図..
by やぶひび at 09:30
ツユクサさん 土曜日は..
by wheatbaku at 21:00
獏さん 案内お疲れ様で..
by ツユクサ at 11:10
小ツルさん 「むさしあ..
by wheatbaku at 09:50
バクさま、加州そうせい公..
by 鶴ヶ島の小ツル at 16:57
加州そうせい公様 私も..
by wheatbaku at 07:34
バクさん 昨日の江戸楽..
by 加州そうせい公 at 17:31
mikawaさん 先日..
by wheatbaku at 12:55
宮越さん コメントあり..
by wheatbaku at 09:03
宮越さんからコメントをい..
by wheatbaku at 09:00
mikawaです。先日は..
by mikawa ケンイチ at 08:17
ツルさん 名古屋に住ん..
by wheatbaku at 16:18
獏さま ははあ、あの石..
by 鶴ヶ島の小ツル at 15:20
やぶひびさん NHKB..
by wheatbaku at 17:54
今夜3/3.20:00~..
by やぶひび at 12:49
最新のトラックバック
『西郷どん』、恋愛ごっこ..
from Coffee, Cigare..
各合戦の動員人数について..
from Coffee, Cigare..
天ぷらの歴史 (天麩羅処..
from グドすぴBlog
天ぷらの歴史 (天麩羅処..
from グドすぴBlog
天ぷらの歴史 (天麩羅処..
from グドすぴBlog
再出発が始まる
from 哲学はなぜ間違うのか
穴八幡宮
from Coffee, Cigare..
風景印  28.4.30..
from としちゃんの風景印・郵趣日誌
山王日枝神社@溜池山王
from たび☆めし☆うま BLOG
浮世絵の誕生・浮世絵の歴..
from dezire_photo &..
お気に入りブログ
江戸・東京ときどきロンドン
ファン
ブログジャンル
歴史