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文京学院大学での講座「日本の近代化に貢献した幕臣たち」、開講‼

文京学院大学の講座「日本の近代化に貢献した幕臣たち」、開講‼


昨日は、6月としては異常な暑さのなか、文京学院大学で開講された講座「日本の近代化に貢献した幕臣たち」の講師をやってきました。

コロナの感染が拡大した中で、史跡案内や講座の講師を控えていたため、2年半ぶりの対面での講義となりました。

 今回の講座は、教室での対面講義とオンライン講義をミックスした方式でした。そのため、最初は少し緊張したものの、対面で講義を聞いてくれる受講者の皆さんの反応も直接見ながら講義できましたし、久しぶりにお会いできた方も多かったので、楽しく講義をすることができました。

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 今回の講座は、日本の近代化に貢献した多くの幕臣の中から、小栗上野介、前島密、杉浦譲の三人に光をあてて解説する講座ですが、昨日は、三人のうち、小栗上野介の功績や生涯についてお話しました。下写真は国立国会図書館「近代日本人の肖像」より転載

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 小栗上野介が、遣米使節の一員の目付に選ばれたものの、実質的には正使であったこと、小栗上野介は、辞任したり罷免されたりしてもすぐに改めて任命される有能な人物であったことなどを話したあと、横須賀製鉄所(造船所)などの小栗上野介の功績を詳しく解説しました。

そして、最後は、“罪なくして斬られた”斬首の様子をお話し、斬首された烏川の水沼河原に建てられている顕彰慰霊碑(下写真)の様子なども説明しました。

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受講された方々は非常に熱心に話を聞いていただきましたので、話す側もつい熱が入り、気持ちよく講義することができました。受講いただいた皆さんありがとうございました。



 講義が終了した後に、15回江戸文化歴史検定(江戸検)1級に合格した人たちと懇談することができました。

 2年前の15回江戸検は、江戸検最後の検定でしたので、合格をめざす人々のための応援講座を開講する予定にしていましたが、コロナ禍のため、結局、開講できませんでした。しかしながら、メール等を通じて、個別に応援した結果、1級に合格した人が大勢いました。

その1級合格者の人たちに今回の講座を案内したところ多くの方が受講してくれました。この講座が15回江戸検1級に合格した人たちと初めてお目にかかる機会となりましたので、前々からお会いしたと思っていた人たちと会うことができて大変うれしかったです。受講していただいた江戸検1級合格者の皆さんありがとうございました。




# by wheatbaku | 2022-06-26 12:51 | 近代化に貢献した幕臣
横浜製鉄所(横須賀軍港ものがたり⑯)

横浜製鉄所(横須賀軍港ものがたり⑯)


 「横須賀軍港ものがたり」の最後に「横浜製鉄所」についてお話します。

 JR石川町駅の中華街口(北口)を出てほんの少し歩くと目の前に「横浜製鉄所跡」と書かれた説明板が見えてきます。 下写真は石川町駅北口方向から撮った写真です。

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 横浜市教育委員会が立てた説明板には次のように書かれています。

「横浜製鉄所は、幕府がフランスと提携し、幹線の修理と洋式工業の伝習を目的として設置した官営工場である。慶應元年(1865)二月に着工、九月下旬には開業し、艦船修理のほか、横須賀製鉄所建設に必要な各種器具や船舶用機械の製造などで繁忙を極めた、首長(初代ドロール、のちゴートラン、ルッサンら)以下多くのフランス人技師・職工が建設や操業に携わり、我が国における近代的産業技術の導入、発展に大きな役割を果たした。慶應四年(1868)閏四月、横浜製鉄所は横須賀製鉄所とともに新政府に引き継がれた。管轄は神奈川裁判所、さらに大蔵省、民部省、工部省と移り、明治四年(1871)、横浜製作所と改称(横須賀製鉄所は横須賀造船所と改称)、同五年、海軍省に移管し、横浜製造所と改められた。明治六年(1873)、大蔵省に移り、横須賀造船所と所管庁を異にした。同七年、内務省に移管。翌八年、高島嘉右衛門らに貸渡され、民営化の先駆けとなった。明治十一年(1878)、再び海軍省所管。明治十二年(1879)には石川島平野造船所(現・株式会社IHI)の平野富二に貸与されて横浜石川口製鉄所と改称、明治十七年(1884)に建物と機械はすべて本社工場に移設され、約一・四ヘクタールの敷地は翌年海員掖済会(現・社団法人日本海員掖済会)に貸与された。」

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 この説明板には、主に明治以降の横浜製鉄所の変遷が書かれています。

 そこで、ここでは横浜製鉄所がどのように創設されたのかについて書いてみます。

 横浜製鉄所設立の経緯は、横須賀製鉄所(造船所)の建設と深く関わっていることが栗本鋤雲の「匏庵遺稿(ほうあんいこう)」の中の「横須賀造船所経営のこと」に書かれています。

 それによると次のような経緯があります。

 佐賀藩では、鍋島閑叟の指示のもと、オランダから艦船の修理する機械一式を購入し工場を建設しようと計画しました。

 しかし、その経営には莫大な経費がかかることとそれを操作する人がいないことが判明し、佐賀藩でそれを建設することを断念しました。

 しかし、その時には、すでに購入した機械類は日本に到着していました。

 そこで、佐賀藩では、その機械類を幕府に献納しました。


 元治元年、横須賀製鉄所(造船所)の建設にむけて、小栗上野介や栗本鋤雲がフランス公使ロッシュたちを交渉を始めた際には、佐賀藩から献納された機械の3分の2は横浜港に保管されていて、残りは長崎港に保管されていました。

 小栗上野介は、この機械が横須賀製鉄所(造船所)の建設の際に活用できないかと考え、フランス側に、活用できるかどうか調査を依頼しました。

 フランスのジンソライという海軍士官が調査したところ、この機械は全体的に小振りで馬力もあまり強くないので大きな艦船の造船・修理に活用するのは無理があるものの横浜近辺に据え付けて小さな艦船の修理に活用するのであれば大変有効だという結論でした。

 そこで、横浜港に近い太田川の低沼地を埋め立てて製鉄所を建てることになりました。

 これが横浜製鉄所の発端です。


 「横浜市史」によれば、横須賀製鉄所(造船所)建設のため招かれたヴェルニーは、横須賀製鉄所(造船所)の設立原案の中で、横浜製鉄所についても触れていて、①緊急に着工し年内に竣工すること、②艦船の修理と洋式技術の伝習、製鉄、鋳造、旋盤、製罐、製帆、木工などの工場を建設、鉄工場の中央と後方に蒸気機関を据え付けて工作機械を運転させることなどを提案しています。

 幕府はフランス人海軍士官ドロールを首長(所長)に任命し、慶応元年23日に起工し、建物は早くも824日竣工し、各工作機械を据えて、9月下旬には横浜製鉄所が完成し開業しました。

 幕府が倒れても横浜製鉄所は存続し明治新政府に引き継がれました。

 明治以降の変遷は、横浜市教育委員会の説明のとおりです。


 石川町中華街口は、名前の通り、中華街に行く人々も多く利用する出口ですので、中華街に向かう前に、幕末から明治初期には、当時の最新鋭を誇る機器を備えた工場があったことに思いを巡らしてみてはいかがでしょうか。






# by wheatbaku | 2022-06-20 14:43 | 近代化に貢献した幕臣
横浜の老舗料亭「田中屋」(江戸の老舗)

横浜の老舗料亭「田中屋」(江戸からの老舗)

 坂本龍馬の妻の「おりょうさん」は、坂本龍馬が暗殺された後、土佐の坂本家に引き取られましたが、のちにそこを離れ各地を流転した後、晩年は横須賀で過ごしました。

 その「おりょうさん」がしばらく仲居として働いていたのが横浜の老舗料亭「田中屋」です。「田中屋」は京急神奈川駅からは徒歩5分ですが、横浜駅西口からでも徒歩8分の距離にあります。

  先日、横須賀の「おりょうさん」のお墓をお参りしたあと、この「田中屋」に行ってきました。そこで、今日は「田中屋」のご案内をします。下写真は「田中屋」のエントランスです。

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 「田中屋」は文久3年(1863)創業ですが、その前身は広重の「東海道五十三次」の「神奈川」に描かれている「さくらや」です。下浮世絵が「神奈川」ですが、右端の道路が東海道で、海側に茶屋が並んでいます。その茶屋の中の坂の頂上から3軒目の茶屋が「さくらや」です。

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 下画像は頂上付近の茶屋の拡大です。奥から3軒目の茶屋の看板が「さくらや」と書かれています。

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 「田中屋」は現在も旧東海道に面しています。下写真は旧東海道から写した「田中屋」です。歌川広重の絵で茶屋のある場所は上り坂となっていますが、「田中屋」の前の東海道は、写真のとおり保土ヶ谷方向に向かっての上り坂になっています。

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 また、広重の浮世絵で描かれている通り、江戸時代は海が茶屋のすぐ裏側まで迫っていました。現在では「田中屋」の裏側は埋め立てられてビルが立ち並んでいますが、下写真のように急斜面となっていて、地形には、江戸時代のなごりが残っています。

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 「田中屋」は基本的に全席個室とのことで、今回も個室を用意していただきました。(下写真)

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お昼の会席料理をいただきましたので順に紹介します。

前菜

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お椀(あんぺい)

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御造り

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焼物(すずきの蕗味噌焼き)

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煮物(季節の炊合せ)

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御食事・赤だし・香の物

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水菓子(白いおしるこ)

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 料理をいただいている間に、女将さんにご挨拶をいただきました。女将さんは「田中屋」に関する写真をたくさんお持ちいただいて、「田中屋」の歴史について語ってくださいました。非常に気風のよい方でお話が楽しかったです。写真をお願いしたら快諾していただきました。

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女将さんのお話では、おりょうさんが「田中屋」で働いたのは、田中屋のすぐそばにアメリカ公使館が置かれた本覚寺があったので、アメリカに渡る準備のためであったと伝わっているそうです。

 女将さんにみさせていただいた写真の中に「おりょうさん」が写っている写真がありました。下写真は田中屋で働いていた人たちが慰安旅行に行った際の写真ですが、赤印が「おりょうさん」だと伝わっているそうです。

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「田中屋」には、明治初期からの写真が多数残されているそうで、階段にその写真が掲示されています。(下写真)

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 その中に、「おりょうさん」の写真がありました。

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 また、昭和の初めのころの「田中屋」の写真もありました。当時は建物が現在よりも大きくてローマ風呂のある割烹旅館として営業していたようです。

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 おいしい料理と貴重な写真を見させていただき帰る際に玄関で若女将さんにご挨拶をいただきました。

若女将さんも気さくな方で、いろいろお話をさせていただきました。その中で、晝間(ひるま)家は鶴見区の獅子ケ谷の出であるというお話などもありました。

最後に写真をお願いしましたら、「いつもは和服なんですがカフェ風ですみません」と言いながら玄関先にたってくださいました。いや、なかなかカフェ風も素敵だと思います。

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実は若女将さんは、2016年5月14日に放送された「ブラタモリ」に出演して、幕末には「田中屋」のすぐ裏手まで海がせまっていたことなどタモリさんに説明しています。

その当時の様子が下記「ブラタモリ 8 横浜 横須賀 会津 会津磐梯山 高尾山」に記されています。

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 家に帰って数日したら女将さんから広重の「神奈川」の浮世絵を使用したお礼のハガキが届きました。美味しい料理、女将さんと若女将さんの楽しいお話、そして貴重な写真、また再訪したいお店です。











# by wheatbaku | 2022-06-09 13:00 | 江戸の老舗
坂本龍馬の妻「おりょうさん」の墓(横須賀軍港ものがたり⑭)

坂本龍馬の妻「おりょうさん」の墓(横須賀軍港ものがたり⑭)


 坂本龍馬の妻「おりょうさん」のお墓が横須賀市内のお寺にあります。そこで、軍港めぐりに併せてお参りしてきましたので、今日は、その「おりょうさん」のお墓のお話をします。

 「おりょうさん」のお墓は、横須賀市内の信楽寺(しんぎょうじ)にあります。信楽寺は京浜急行「京急大津駅」から徒歩5分のところにあります。下写真は信楽寺の本堂です。

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 司馬遼太郎も「おりょうさん」のお墓にお参りをしたようで、「街道をゆく 『三浦半島記』」の「久里浜の衝撃」の中に「おりょうさん」のお墓の話が次のように書かれています。


「横須賀の古い市街地を歩いている。

道がせまく、家々の粒がそろわなくて、一見、子供が遊びちらしたあとの部屋のようにみえる。しかし丹念に見ると、不意に古い一郭が残っていたりする。

そういう町並の極みに、山を背負って、浄土宗の寺がある。

山門が、すでに高い。その山門(のぼる石段の下につまり狭い道路に沿って寺の石塀があり、その石塀を背に ーいわば路傍にはみだしー 墓が一基ある。路傍の墓である。

坂本竜馬(183567)という、生涯が32年しかなかった人の妻の墓である。

妻の名は、りょうと言い、竜あるいは竜子と表記した。」

 この後、池田屋で坂本龍馬が伏見奉行所の捕り方に囲まれた際に、おりょうが裸で急を知らせたこと、坂本龍馬が、薩長同盟締結に尽力したことや日露戦争の際に皇后陛下の夢枕にたったことなどが書かれていて、最後に次のように締めくくっています。

「りようの墓碑は、おそらく海軍の有志が金を出しあって建てたものらしく、りつばなものである。碑面に、

『贈正四位阪本竜馬之妻龍子之墓』

とある。りようの明治後の戸籍名である"西村ツル“」は、無視されているのが、おもしろい。」


 司馬遼太郎が信楽寺(しんぎょうじ)を訪ねた時には、「おりょうさん」のお墓は、山門の下にあったようです。下写真が山門です。写真の右端に信楽寺とおりょうさんについての説明板がありましたが、その近辺にあったのでしょうか。

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下写真は説明板の拡大写真です。

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 現在のおりょうさんのお墓は、司馬遼太郎が訪ねた山門の下から本堂の左脇に移動されています。下写真が本堂脇から撮ったおりょうさんのお墓です。

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 おりょうさんのお墓は、高さが2メートルを超えるほどの立派なお墓で。表には、司馬遼太郎が書いている通り「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれています。

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 お墓の脇には「横須賀風物百選 坂本龍子の墓」と題した説明板が設置されています。(下写真)

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 その説明板には次のように書かれています。


「江戸末期の風雲児、坂本龍馬の妻龍子は、「寺田屋騒動」の折、龍馬の危急を救った女性として広く知られています。

 龍子は京都の町医者 楢崎将作の長女として生まれました。生年月日については、天保11年説もありますが、本市に残る除籍簿によれば、嘉永3年(1850)6月6日となっています。

 名は「りょう」また「とも」と呼ばれ伏見の「寺田屋」にいた頃は「お春」と呼ばれていたようですが、確かなことは不明です。

 坂本龍馬は、慶応3年(1867)11月15日、京都のしょうゆ商近江屋で京都守護職の輩下見廻組与力の乱入を受け、斬りつけられて、33歳の若さで斬殺されました。

未亡人となった龍子は、夫龍馬の実家土佐の坂本家に移り住みましたが長続きしませんでした。その後、京都・大坂・東京と明治初年まで流浪の生活が続きました。その原因や生活状況については、いろいろの説があり、現在のところでは、定説がありません。

 ただ、はっきりしていることは、明治8年7月2日、三浦郡豊島村深田222番地(現在の米が浜通り)の西村松兵衛方に「西村ツル」として入籍し、明治39年1月15日の午後11時に死亡した事実だけです。いろいろな資料によりますと、龍馬の死後、龍子の生活は波乱の連続であったようです。

 龍子の葬儀は、知人や隣人の助力で明治39年10月20日にささやかに営まれました。また遺骨は、当時の信楽寺住職新原了雄師のご好意により、この地に葬られたとのことです。」


 おりょうさんは、晩年は、横須賀の西村松兵衛と再婚し、横須賀で暮らしたようです。横須賀には、おりょうさんの住居跡も残されていますし、信楽寺では、毎年、「おりょうさんまつり」も開催されています。

 今回は、時間がないのでおりょうさんの住居を廻ることはできませんでしたが、京急大津駅前に「大津おりょうさん公園」がありましたので、信楽寺に行く途中寄ってみました。(下写真)

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 公園脇の歩道に「龍馬とおりょうの恋文ポスト」が設置されていました。(下写真)

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 ポストの脇の説明板によれば、ポストの上の坂本龍馬とおりょうさんのブロンズ像は湘南学院高等学校の生徒の皆さんがクラウドファンディングによる募金により造ったものだそうです。

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 下地図の中央が信楽寺です。








# by wheatbaku | 2022-06-06 15:34 | 近代化に貢献した幕臣
小栗上野介は「明治の父」・「幕末三傑」(横須賀軍港ものがたり⑬)

小栗上野介は「明治の父」・「幕末三傑」(横須賀軍港ものがたり⑬)


 司馬遼太郎は、「明治という国家」の中で、小栗上野介は「明治の父」(正しくは「明治の父の一人」、もう一人は勝海舟)と言っています。

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 そして、なぜ「明治の父」なのかということについて、次のように書いています。

「(前略)

『あのドックが出来あがった上は、たとえ幕府が亡んでも “土蔵付き売家という名誉をのこすでしよう。』

小栗はもはや幕府が亡びてゆくのを、全身で悟っています。貧の極で幕府が亡んでも、あばらやが倒壊したのではない、おなじ売家でも、あのドックのおかげで、"土蔵つき“という豪華な一項がつけ加えられる、幕府にとってせめてもの名誉じゃないか、ということなんです。

小栗は、つぎの時代の日本にこの土蔵が~横須賀ドックが~大きく役立つことを知っていたし、願ってもいたのです。

「明治の父」

であるという言い方は、ここにおいて鮮やかに納得できると思います。このドックは、明治国家の海軍工廠になり、造船技術を生みだす唯一の母胎になりました。

 このように司馬遼太郎は小栗上野介を高く評価していました。


それでは、小栗上野介と同時代に生きた人たちがどう評価していたのでしょうか。そこで、小栗上野介と同時代に生きた二人の人物の小栗上野介評を紹介します。


 まず一人目は、福地源一郎(桜痴)です。

福地源一郎は、文久元年(1861)と慶応元年(1865)に幕府使節の一員として渡欧を体験し、明治3年、大蔵省に出仕し,翌年より岩倉遣外使節に随行しました。その後、退官し『東京日日新聞』主筆となり活躍しました。

 福地源一郎は、小栗上野介を「幕末三傑」の一人として高く評価しています。

 福地源一郎は「幕末政治家」の中で次のように、水野筑後守忠徳、岩瀬肥後守忠震、小栗上野介忠順が三傑であると書いています。

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「(前略)水野筑後守、岩瀬肥後守、小栗上野介の三人は、特に一際(ひときわ)勝(すぐ)れたる人物にて、名(づ?)けて幕末の三傑と云わんも、敢(あえ)て過称にはあらざるが如し。是は余が一個の私評のみにあらず、栗本鋤雲、朝比奈閑水の諸老も、また常に此言を為せるにて、之を知るに足るべきなり。」


 そして、小栗上野介は、幕府の財政が厳しい中でもなんとかやりくりしており、幕府が命脈を数年間保つことができたのは小栗上野介の力によるものだと次のように書いています。

「小栗が財政外交の要地に立ちし頃は、幕府已(すで)に衰亡に瀕して、大勢方(まさ)に傾ける際なれば十百の小栗ありと雖(いえど)もまた奈何(いかん)ともなすべからざる時勢なりけり。しかれども小栗はあえて不可(インポシブル)的の詞を吐(はき)たる事なく、「病の癒(い)ゆべからざるを知りて薬せざるは孝子の所為(しょい)にあらず、国亡び身斃(たお)るる迄は公事に鞅掌(おうしょう)するこそ真の武士なれ、と云いて屈せず撓(う)まず、身を艱難(かんなん)の間に置き、幕府の維持をもって進みて己(おの)れが負担となせり。少(すくな)くも幕末数年間の命脈を繋(つな)ぎ得たるは、小栗が与(あずか)りて力ある所なり。」


 また、旧幕臣田辺太一も「幕末外交談」の中で小栗上野介について語っています。

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 田辺太一は、文久3(1863)慶応3年(1867)と2度にわたり渡欧して、フランスから帰国後、徳川家の静岡移住に従い沼津兵学校教授となったのち、明治3年明治新政府に出仕し翌年岩倉遣外使節団の一員として米欧に渡り、その後も外交官として活躍しました。



 田辺太一は、「幕末外交談」の中の「小栗の献身」のなかで、横須賀造船所を建設することができたのは小栗上野介の尽力によるものであり、この事業を成就させた小栗上野介の胆力と技量は、幕末三傑の名にはじないと次のように語っています。

「東洋無比と称せられて然(しか)るべき船廠(造船所)が、横須賀に建設されるにいたった。これは、小栗上野介がもっばらこの仕事に任じて、その中心的な役割を遂行したからである。

当時の幕府は、両度の将軍上洛の後をうけ、また長州征伐の挙にともない、将軍の上坂があったので、帑蔵(どぞう:金蔵のこと)が尽き、財政の困難がその極に達していた。

小栗は勘定奉行の職にあり、その費用の莫大なのをかまわず、ひたすら尽力して、この一大事業を成就したのであるが、その胆力と伎倆は、実に幕末三傑の名にはじないものといってよかろう。

そもそも、当時起工の初めにあたって、その費用の不足を憂い、あるいは幕府の命運も久しくはなかろうと思って、これを止めた者もあったが、小栗はこれに対して、『たとえ、このまま売り据え(建て売り)という札を張るにしても、せめては土蔵付きとした方がよくはないか』といったというのは、今もなお語り伝えるところである。その心事(しんじ:心中の意味)は、実に同情にあたいする。」


田辺太一は渋沢栄一と一緒にフランスに渡航しており、福地桜痴は明治になって渋沢栄一と親しく付き合っていました。昨年の大河ドラマ「青天を衝け」にも、二人とも登場していました。そこで、渋沢栄一も小栗上野介についてコメントしているか調べてみましたが、特にコメントしたものはみつかりませんでした。






# by wheatbaku | 2022-06-03 15:30 | 近代化に貢献した幕臣
  

江戸や江戸検定について気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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