木下栄三さんの水彩画展

木下栄三さんの水彩画展

昨日は、木下栄三さんの水彩画展に行ってきましたが、すばらしい展示会でした。

展示期間が5月26日(土)までですので、お時間がありましたら、ぜひお出かけください。展示会場は東京メトロ東銀座駅から数分、歌舞伎座の東にある銀座煉瓦画廊です。(最下段の地図をご参照ください)

水彩画展のタイトルは「-江戸城今昔― 江戸城新三十六御門 重ね絵図 展」となっています。

 江戸城にある三十六個の御門の絵、そして御門を中心とした重ね絵図が展示されていて、木下栄三さんに解説していただきながら作品を見させてもらいました。

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 木下栄三さんによると、これまで朝日新聞に連載していた「江戸城今昔」が昨年終了し、その後、三十六御門の重ね絵図(江戸時代と現代の地図を重ねあわせた地図)を書きはじめ、それも出版したので、それを集大成して展示してみてもらうことになったそうです。

 そのため、会場には、三十六御門の絵がズラリと展示してありました。

 下写真は、ご案内に使用されていた江戸城北桔橋門です。この原画も展示されていました。

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 会場での木下栄三さんの説明は三十六御門の絵を描いた想いを込めた非常に熱のこもった説明でした。(下写真)木下さんいわく、東京に江戸城の門があったことさえしらない人が多いので、まずは江戸城の門があったことを知ってもらうため描いたそうです。

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 会場には、江戸城に登城する様子を再現した絵も展示されていて、その中に江戸城内の中之御門を描いた横長の大きな水彩画が展示されていました。これは、私がもっとも気に入った絵でした。
 絵の中の右手の中之御門の石垣と左手の百人番所以外は現存していませんが、木下栄三さんが様々な資料をもとに再現して描いたものです。
 木下栄三さんのこだわりのすごさは、石垣は、現存の石垣をそっくりそのまま描き写していることです。その絵の前でも木下栄三さんが説明してくださいました。

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 江戸城の三十六御門の絵のほかに、重ね絵図も展示してありました。三十六御門を核とした様々な情報を書き込んだもので素晴らしいもので、江戸歩きの際に大変便利です。(下写真)これは販売されています。

なお、会場内はすべて撮影禁止ですが、木下栄三さんから特別に許可を得て撮影させていただきました。

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赤印が銀座煉瓦画廊です。


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# by wheatbaku | 2018-05-25 07:42 | Trackback
養福寺(日暮里・谷中史跡巡り⑨)

養福寺(日暮里・谷中史跡巡り⑨)

浄光寺を南に少し歩くと養福寺があります。

養福寺は真言宗豊山派のお寺で創建の時期ははっきりませんが、中興は、湯島円満寺の木食義高上人と伝えられています。

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門の左手に石柱が立っています。よく見ると「西國貮拾七番播磨國書寫寺寫」と刻まれています。旧字が多いので新字で書くと「西国二十七番播磨国書写寺写」となります。(下写真)

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右手には「安永九年九月」という所まで確認できますが、それ以下には「願主南伝馬町壱丁目亀屋藤七同藤吉」と刻まれているようです。

これは西国三十三箇所観音参りを江戸に写したもので、『東都歳事記』には、「上野より王子駒込辺西国の写し三十三所観音参」の中で「廿七番日暮里養福寺播州書写山写如意りん」と書いてあります。平凡社の『東都歳事記』では第3巻の130ページに書いてあります。

《仁王門》

 境内に入ると赤い仁王門が目に入ります。

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この仁王門は、宝永年間(17041711)の建立と伝え、表側に安置されている仁王像の胎内から、宝永4年(1707)の銘札が発見されており、山門もほぼ同年代に建築されたものと推定されています。

門の裏側には広目天と多聞天の二天王像が安置されていますが、散歩した時には、東京国立博物館で展示公開のため、山門にはありませんでした。

《談林派歴代の句碑》

 山門の奥にある「談林派歴代の句碑」がありますが、なかなか見つかりにくい所にありますので、よく探してください。

「談林派歴代の句碑」は、西山宗因(そういん)を祖とする談林派歴代の句碑で、梅翁花樽(ばいおうかそん)碑・雪の碑・月の碑が並んでいます。

中央が梅翁花樽碑、右側の碑が月の碑で、左が雪の碑です。左手前には「発起玉池谷疎外」と刻まれた菱形の標石があります。

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このうち中央に建っている梅翁花樽碑は、寛政4年(1792)に2代井原西鶴の百年忌を記念して、谷素外(たにそがい)が供養のため建碑したものです。

石碑の正面には「江戸をもって鑑とす也花に樽」の句が刻まれていて、左右には談林派の2代から6代に至るまでの句が、裏面には初代から6代までの没年が刻まれています。2世松寿軒西鶴と刻まれているのが、有名な井原西鶴のことです。

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《柏木如亭の碑》

談林派歴代の句碑の奥に「柏木如亭の碑」があります。

柏木如亭は、市河寛斎、大窪詩仏、菊池五山とともに江戸の四大詩人と称されています。

この碑は、文政3年(1820)に江戸を始め各地の友人が柏木如亭をしのんで建てたものです。「柏山人碑」の篆額は陰陽頭安倍晴親の字で、文字は大窪詩仏の書です。

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赤印が養福寺です。






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# by wheatbaku | 2018-05-23 20:12 | Trackback
浄光寺(日暮里谷中史跡めぐり⑧)

浄光寺(日暮里谷中史跡めぐり⑧)


 諏方神社の次に江戸時代は、諏方神社の別当寺であった浄光寺をご案内します

浄光寺は、諏方神社の南側脇にあり、真言宗豊山派の寺院です。

浄光寺には、江戸六地蔵の一つのお地蔵様が鎮座しています。

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江戸六地蔵というと品川寺や東禅寺の大きなお地蔵様が有名です。これは深川の地蔵坊正元という人が建立したものですが、それ以前に 元禄4年(1691)に空無上人が開眼した六地蔵がありました。

こちらの六地蔵は、一番駒込瑞泰寺、二番目千駄木専念寺、三番目が浄光寺、四番目心行寺、五番目上野大仏堂、六番目浅草寺内正智院に安置されました。

浄光寺の地蔵菩薩は、その三番目にあたります。門前にそれを記した石柱があります。現在は、六地蔵の中で残っているのは、ここと専念寺(文京区千駄木)だけとなっています。

 浄光寺の山門前には六地蔵三番目と刻まれた石柱が立っています。

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山門をくぐるとお地蔵様が二体鎮座していますが、向かって右手の立っているお地蔵様が、六地蔵の三番目のお地蔵様です。

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高さ1丈(約3メートル)の銅造地蔵菩薩立像です。

元禄4年(1691)、空無上人により建てられたお地蔵様です。

以前は、門のかたわらの地蔵堂に安置されていて、門前は「地蔵前」とも呼ばれていたそうですが、昭和4・5年頃に山門内に移されました。

お地蔵様の向かって左に水盤がありますが、この水盤には六地蔵三番目と刻まれています。

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立像の隣にある坐像の銅造地蔵菩薩は、文化6年(1809)に鋳造されたもので、台座の正面向かって右手隅に「文化十癸酉歳 五月吉日」と刻まれています。

立像・座像ともに荒川区の有形文化財です。

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地蔵菩薩像の手前の山門側に8基の庚申塔群がありますが、このうち、下写真の右下の塔を除いた7基が荒川区の有形民俗文化財に登録されています。

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元文2年(1737)には8代将軍吉宗が鷹狩の途中で浄光寺に御成りとなり、以後幕末まで、浄光寺は、鷹狩の際に将軍の御膳所となりました。境内には、将軍が来訪した時に腰掛けたとされる「将軍の腰掛けの石」が残されているとのことですが、一般には公開されていません。

また、浄光寺は、諏訪台の高台に位置し、展望が開け眺望がすばらしく、特に雪見に適することから、江戸時代は雪見寺とも呼ばれました。

赤印が浄光寺です。青印が諏方神社です。





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# by wheatbaku | 2018-05-22 18:39 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 | Trackback
日ぐらしの里〔諏方神社②〕(日暮里谷中史跡めぐり⑦)

日ぐらしの里〔諏方神社②〕(日暮里谷中史跡めぐり⑦)

今日は諏方神社の2回目です。

 諏方神社は、現在は日暮里・谷中の総鎮守です。

 日暮里は、江戸時代は、新堀村(にいほり またはにいぼり)と表記していました。

昨日紹介した西側の鳥居の額に「新堀谷中総鎮守」と書いてあります。

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また、拝殿脇の庚申塔の一部に「新堀村」と書かれています。

下写真は、拝殿の東側にある庚申塔の一部です。

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《ひぐらしの里》

日暮里は、上野の山から飛鳥山まで西北にのびた上野台地の谷中と道濯山との間にあります。

この台地の東側は崖となっていて、東方の景色が素晴らしく、見渡す限りの田圃、その中を流れる荒川や江戸川、そして遠くには筑波山や日光の山々を望むことができた景勝地でした。

さらにこの辺りは桜の名所でもあり、さらに近辺の寺院は競って庭に林泉を構え、木を植えたので、四季草木の花が咲いていました。

そうした景色を楽しむために、江戸から大勢の人々がやって来ました。

そして、飲み食いし、日の暮れるのも忘れて四季おりおりの景色を楽しみました。そこから、ここは、日ぐらしの里と呼ばれ、さらに「新堀」に「日暮里」の文字をあてたと言われています。

十返舎一九は、日暮里の素晴らしさを次のように詠んでいます。

 桃さくら 鯛より酒の さかなには みどころ多き 日くらしの里  

《歌川広重が描く「日暮里諏訪の台」》

 こうした景色を描いたのが、歌川広重の名所江戸百景の「日暮里諏訪の台」です。

この絵は、諏方神社境内に咲いた満開の桜の下で、人々が花見をしながら、眼下の景色をも見て楽しんでいる様子が描かれています。

崖下に見えている屋根は日暮里村の屋根です。遠景に描かれている山は筑波山です。

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《地蔵坂》

その屋根が見える脇から人が上がっている坂が「地蔵坂」です。

 地蔵坂は、諏方神社の境内にある坂です。

地蔵坂は、JR西日暮里駅に向かって下る坂で、JRの線路を潜って西日暮里駅の東口に出られます。

地蔵坂という名前は、諏方神社の別当寺であった浄光寺に、江戸六地蔵の三番目として有名な地蔵尊が安置されていることにちなむといわれています。

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# by wheatbaku | 2018-05-21 13:57 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 | Trackback
諏方神社①(日暮里・谷中史跡めぐり⑥)

諏方神社①(日暮里・谷中史跡めぐり⑥)

諏方神社は、西日暮里駅のすぐ西側、駅のホームから望める場所にあります。

駅の改札からは、徒歩5程度の距離にあります。

下写真は、諏方神社の境内の様子ですが、緑が多くてかなり広い境内です。

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諏方神社の創立は、諏方神社でいただいた資料や荒川区史からは、鎌倉時代の初めの元久2年(1205)豊島経康が信濃国の諏訪大神を鎮座したのが始まりであるとされています。

御祭神は、「建御名方命(たけみなかたのみこと)」です。この神様は古事記の神話に登場する神様で、大国主命の子で、国譲りのため高天原から遣わされた武甕槌神(たけみかづちのかみ―茨城県鹿島神宮,奈良県春日大社の祭神)との勝負に負け、諏訪に引きこもり、国譲りを承諾した神様です。

その後、諏方神社の資料によれば、文安年間(14441499)太田道灌が神領を寄進し、のち江戸時代徳川家光が5石の朱印を与え、寬永12年(1635)社殿を現在の地に遷座しました。

昭和203月の戦災で社殿を焼失しましたが、昭和27年復興しました。

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《諏方神社の表記》

諏方神社の表記は、「諏訪」とせず、「諏方」を使っています。

拝殿に掲げられている額も「諏方神社」となっています。この額は、横山大観の筆で、平櫛田中が刻んだものだそうです。

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「諏方」を使っているのは古来の表記であり、かつて、諏訪神社名には、この表記をもかなり使われていたそうです。

天保5年(1834)に諏訪高島藩では「諏訪」と書く旨の指示が出され、諏訪が通常表記となり、御社名に残っていた「諏方」も使われなくなり、現在は全国の諏訪神社の大部分は「諏訪」と表記し「諏方」と書くのは数社とのことです。

日暮里の諏方神社は、所有する元禄時代に細井広沢が書いた軸に、「諏方大明神」と記されていることから、「諏方神社」の社名を続けているとのことです。

《諏方神社の石鳥居》

 西日暮里駅から諏方神社に参拝する時に、最初にくぐる鳥居が下写真の石鳥居です。

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諏方神社の鳥居は石造で、柱の左裏には「天明二年十二月吉祥日、氏子中」、右裏には「別当浄光寺第六世法印珍静建立。願主杉本昌英」と刻まれており、天明2年(1782)に建立されたことがわかります。

 江戸時代は神社を管理する別当寺というお寺がすぐそばにありました。浄光寺は諏方神社の別当寺でした。現在も諏方神社の南の隣りにあります。

 この鳥居は、昭和59年に南の浄光寺側から境内西側の道路沿いに移されました。

 諏方神社の大祭には、台車に載せた神輿が巡行しますが、台車を新造により、神輿が江戸時代の石鳥居をくぐることができなくなったため、移転したという事情もあるようです。
 下写真が、昭和59年に建てられた鳥居で、神社の南側にあります。

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 赤印が諏方神社です。青印が西日暮里公園です。










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# by wheatbaku | 2018-05-20 18:03 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 | Trackback
西日暮里公園(日暮里・谷中史跡めぐり⑤)


西日暮里公園(日暮里・谷中史跡めぐり⑤)

延命院と笠森お仙など今年の江戸検のお題「江戸のヒロインたち」に関係する記事をひとまず終りましたので、これからは先日のご案内ルートに従って、日暮里・谷中の史跡をご紹介していきます。

 今日は、西日暮里公園をご案内します。下写真は公園入口からみた西日暮里公園です。

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 西日暮里公園は西日暮里駅の南側の高台にあります。

西日暮里公園は、もとは、口演の西南方崖下に隣接している青雲寺の境内の一部でした。

青雲寺は、谷中七福神のうちの恵比寿様がお祀りされていることで有名です。

明治7年に、現在の西日暮里公園一帯が、加賀藩前田家に売却されました。こうしたことが、下写真右手に写っている荒川区教育委員会の説明板に書いてあります。

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前田家は、それ以降、前田家当主の墓地として使用しました。

ここには、前田家13代当主(藩主としては12代)前田斉泰(なりやす)、14代当主前田慶寧(よしやす)、15代前田利嗣(としつぐ)16代前田利為(としなり)の4代の神式の墓地がありました。

前田家の墓地は、昭和47年に金沢に改葬され、その跡地に西日暮里公園が開設されました。

なお、前田家13代当主の前田斉泰は、11代将軍家斉の娘溶姫(ようひめ)が輿入れした相手です。

そして、14代当主慶寧は、斉泰と溶姫との間に生まれた子供です。

《道灌山》

西日暮里公園には、道灌山についての説明板(下写真)がありましたので、道灌山について説明しておきます。

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 西日暮里4丁目付近の台地は、道灌山と呼ばれ、江戸時代には眺めがよく、筑波や日光の連山などを望むことができました。

道灌山の名前の由来には二つの言い伝えがあります。

一つは鎌倉時代、谷中感応寺(現在は天王寺)を開いた新堀(日暮里)の土豪関小次郎長耀(ながてる)、出家して道閑入道と呼ばれた人の屋敷があったところからこの名前がついたという説。

もう一つは江戸城を築いた太田道灌の出城がこの地にあったことからついたという説です。

道灌山は、江戸時代は、「虫聴き」の名所としても知られ、秋になると文人たちが訪れ、月を見ながら松虫や鈴虫の音に聴き入りました。

《道灌船繋松(ふなつなぎまつ)》

西日暮里公園には、江戸時代、道灌船繋松と呼ばれる大きな松がありました。
 それについても説明されていました。(下写真)

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「江戸名所図会」には、太田道灌の砦に荷を運んでいた舟人が目印にしたと書かれていて、江戸名所図会の絵には、道灌船繋ぎの松が、台地上に高くそびえています。

安永元年(1772)の秋台風のため一本が折れ、残り一本になってしまいました。

この松の脇に「日暮里舟繋松之碑(にっぽりのふねをつなぐまつのひ)」が建てられましたが、現在は、青雲寺本堂脇に移されています。

『武江年表』には、安永元(1772)年にこの碑が建てられたと書いてあります。

☆参考 『江戸名所図会』船繋ぎの松の説明

「青雲寺の境内、崖に臨みうっそうとしてそびえたり。往古は二株ありしが、一株は往んじ安永元年の秋大風に吹き折れて、今は一木のみ残れり。(中略)或人云く、往昔このふもとは豊島川に続きし入江にて、道灌の砦城ありし頃は、米穀その外すべて運送の船より、この松を目当てにせしものにて、つなぐといふもあながち繋ぎとどむるの義にはあらず、これは舟人の詞にして、つなぐといふは目的にするなどいえるに同じ心とぞ。よってその後道灌山の船繋ぎの松と称して、はるかにこの所の松を目当にせしを誤りて、道灌船繋の松と唱ふるとぞ。」

 赤印が、西日暮里公園です。







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# by wheatbaku | 2018-05-19 13:52 | Trackback
大円寺と笠森お仙の碑(日暮里・谷中史跡巡り④)

大円寺と笠森お仙の碑(日暮里・谷中史跡巡り④)


功徳林寺の次は、笠森お仙の関係で、「笠森阿仙之碑」がある大円寺をご案内します。
 大円寺は、谷中にありますが、東京メトロ千駄木駅からが近いです。

 千駄木駅1番出口から3分程度の至近距離にあります。

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大円寺は、日蓮宗のお寺です。創建年代等ははっきりしませんが、元禄16年(1703)に現在地に移転したとされています。


大円寺の本堂に近くに「笠森阿仙之碑」が建てられています。大正8年に建てられたものです。

「笠森阿仙之碑」は小説家永井荷風が文章を書いています。(下写真)

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「笠森阿仙之碑」の手前に「錦絵開祖鈴木春信」碑があります。

「錦絵開祖鈴木春信」碑は文学博士笹川臨風が撰し、題字は東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)校長正木直彦が書いています。(下写真)

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鈴木春信は、江戸時代中期の浮世絵師ですが、多色摺木版画の錦絵を始めた人物とされています。

その鈴木晴信が、笠森お仙の姿を数多く描いています。

そうしたことから笠森お仙と鈴木春信は大変関係が深い二人です。



大円寺に笠森お仙と鈴木晴信の碑が建てられたのは、大円寺にも笠森稲荷がお祀りされていた縁によるものといわれています。

大円寺の本堂は、お堂が二つ繋がった形をしています。(下写真)

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向かって左側は経王殿の額が掲げられていて、御本尊様(日蓮上人)が追お祀りされています。

向かって右側は薬王殿の額が掲げられています。こちらに笠森稲荷がお祀りされています。

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大円寺の笠森稲荷は、御住職の説明では、元々は瘡守稲荷だったようで、旗本大前氏が河内から勧請したそうです。

薬王殿の前には瘡守薬王菩薩と刻まれた石柱があります。(下写真)

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御住職の話では、こちらの笠森稲荷は、吒枳尼天(だきにてん)だそうです。笠森稲荷と呼ばず瘡守薬王菩薩と呼んでいるのは、神仏分離令と廃仏毀釈の影響だそうです。


このように、大正8年当時には、本来の笠森稲荷があった福泉院は廃寺となっていて、大円寺に笠森稲荷がお祀りされていたので、笠森お仙とそれを描いた鈴木春信の碑が、大円寺に建立されたと考えられています。

 赤印が大円寺です。青印が功徳林寺です。



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# by wheatbaku | 2018-05-17 20:55 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 | Trackback
功徳林寺と笠森お仙(日暮里・谷中史跡巡り③)

功徳林寺と笠森お仙(日暮里・谷中史跡巡り③)

 日暮里・谷中史跡めぐりの2番目のお寺は功徳林寺をご紹介します。

功徳林寺は、日暮里駅北口からは徒歩約6分、南口からは谷中霊園を通りぬけて徒歩約5分の距離にあります。

功徳林寺は浄土宗のお寺です。下写真は初音通りからみた功徳林寺です。

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谷中霊園は、明治7年に開設されましたが、墓地だけで法要をできませんでした。特に、谷中には浄土宗のお寺が全くないため、浄土宗の人たちは大変不便な思いをしていたようです。そこで、浄土宗が一致して新寺の建立を願い、日向国佐土原藩の第11代藩主であった伯爵島津忠寛が発起人となり明治18年に許可を得たのち、明治26年に建物が完成しました。それが功徳林寺です。

現在の本堂は、平成23年に完成したものだそうです。(下写真が本堂です)

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功徳林寺がある場所は、江戸時代は、天王寺の境内で、塔頭の福泉院があり、そこに笠森稲荷がありました。

笠森稲荷前にあった水茶屋の鍵屋(かぎや) に明和初年(176469)頃にお仙という名前の看板娘がいました。

これが、江戸の三美人の一人に数えられた笠森お仙です。

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三美人は、浅草観音裏の楊枝店の柳屋お藤、浅草二十軒茶屋の蔦屋(つたや)お芳、そして笠森お仙をいいます。なかでもお仙は人気が高く、初期錦絵の美人画モデルとして一枚絵の錦絵になったほか、歌舞伎にも取り上げられました。

また、手鞠うたに「向こう横丁のお稲荷さんへ、一銭あげて、ざっと拝んでお仙の茶屋に……」とうたわれるほど人気がありました。

明和7年(1770)に御家人の倉地政之助の妻となり突然消えたことも江戸の話題となり、「とんだ茶釜が薬罐に化けた」と騒がれました。「とんだ茶釜」はとんだ美人という意味でお仙をさし、「薬罐」は年取った薬罐頭の店番を意味しています。

福泉院は、明治になって、廃寺となり、笠森稲荷は寛永寺の養寿院に移っています。廃寺となった福泉院の跡地に創建されたのが功徳林寺です。

そのため、功徳林寺には、笠森稲荷堂があります。(下写真)

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お仙と笠森稲荷に関係する場所が、谷中に3か所あります。功徳林寺、大円寺、そして養寿院です。

それぞれの関係について、『台東区史』が非常にわかりやすく次のように書いています。

いま、谷中にはお仙に関係する場所がこの(功徳林寺)ほか二か所ある。三崎坂の中程に大圓寺がある。ここには「錦絵開祖鈴木春信璋」がある。また、水井荷風の碑文で「笠森阿仙乃碑」が建っている。大圓寺には享和年間に小石川白山から移した瘡守稲荷があり、よく笠森稲荷と混同された。

つぎは上野桜木一丁目の養寿院の笠森稲荷である。この稲荷は明治三年、天王寺中門前町から移したもので、これがお仙の茶屋のあった稲荷である。明治の初めに天王寺は縮小され、子院であり稲荷の別当にあたる福泉院が取り潰しにあったので、笠森稲荷を引き継いだのが養寿院であった。

さきの功徳林寺は明治十六年の創建で、現在の笠森稲荷はその後の勧請であるから、お仙の時代のものとは違う。

功徳林寺には、現在も笠森稲荷堂があり笠森稲荷がお祀りされています。

ここにお祀りされているのは吒枳尼天(だきにてん)です。(下写真参照)
笠森稲荷堂は、平成27年に新しく建てられたそうです。

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笠森お仙については、獏塾で一緒に勉強し3年前に江戸検1級に合格した福本伸二さんが大変熱心に研究をしています。

その福本伸二さんの講演会が、来週日曜日(5月27日)に開催されますので、講演会のご案内をしておきます。

「250年振りの里帰り降臨『笠森お仙』」

江戸文化歴史研究家が紹介する町作り ~草加市制60周年記念特別講演会~

  

■日時  平成30年5月27日(日) 

■場所: 草加市立中央図書館4階多目的ホール 

(住所)草加市松原一丁目19号 (電話)048-946-3000

■時間:  1300分開場・1330分開演(1500分終了)

■共催: 「江戸の文化歴史を楽しむ会」・「草加市立中央図書館」

■講師: 「江戸の文化歴史を楽しむ会」会長 福本伸二

■定員:  100人(要整理券)

■整理券: 整理券が必要となりますので、講演会参加希望者は、福本さんまで連絡ください。

☆福本さん連絡先  PC Mail: tokinotaiko_dondon@yahoo.co.jp

携帯: 080-6551-0070 

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赤印が功徳林寺です。




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# by wheatbaku | 2018-05-16 16:33 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 | Trackback
延命院事件 (日暮里・谷中史跡散歩②)

延命院事件 (日暮里・谷中史跡散歩②)

 日暮里の延命院では、江戸時代の享和年間に、「延命院事件」と呼ばれる江戸中を騒がせる大事件が起こりました。この事件は、延命院住職日潤の女犯(にょぼん)事件ですが、相手に大奥の女中が含まれていたため、大奥を巻き込んだ大スキャンダルとなり、江戸を揺るがせました。

延命院事件の中心人物日潤は、日道とも書いてある本もあります。

この日潤の供養塔が、現在も延命院の本堂手前に建っています。

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日潤は、寛政年間(17891801)に延命院の住職となりました。

日潤は、もと役者であったともいわれ、初代尾上菊五郎の子供であったと書いてある本もあり、大変男前であっったし、話も上手だったそうです。

そのため、女性の信者に大変人気があり、大勢の女性信者が延命院に参詣sるようになりました。
 日潤は、法話や祈祷を名目に、そうした女性信者と関係をもつようになり、また参籠と称して延命院に宿泊し女性と関係をもつようになったと言われています。
 その相手は、庶民の婦女子だけでなく、大名家や御三家さらには大奥の女中らを誘惑し姦淫したといいます。

 こうした話が江戸中の話題となり、ついには寺社奉行脇坂淡路守安董(やすただ)にまで届きました。
 脇坂家は外様大名でしたが、脇坂安董は、寛政3年寺社奉行となっていました。脇坂安董は、延命院事件や後の但馬出石(いずし)藩の仙石騒動などの事件をさばき、天保8年に老中にまですすんだ優秀な大名です。

 情報を得た脇坂安董は、取締りを決意しますが、大奥の奥女中も関係していることから安易に動くわけにはいきませんでした。

 そのため、寺社奉行脇坂淡路守安董は、家臣の娘を密偵として延命院に送り込み確かな証拠をつかんでから延命院を急襲したと言われています。

享和3年(1803)、寺社奉行脇坂淡路守安董の摘発を受け、729日に日潤は斬罪となり、関係のあった婦女子も押込などそれぞれ処罰されました。

太田南畝の「一話一言」巻三十八に、この延命院事件の判決内容が記録されています。首謀者である日潤(「一話一言」では日道となっています)とその共犯者である所化(修行僧)柳全の判決は次の通りです。

亥六月六日入  脇坂淡路守懸り

谷中日蓮宗 延命院  日道四十歳                           

 右之者儀、一寺之住職たる身分をも不顧、淫慾を恣にし、源太郎妹きん又は大奥部屋方下女ころと密通に及び、其外屋形向相勤倹女両三人へ艶書をおくり、右之女参詣之節密会をとげ、或はっやなどx申なし寺内に宿止致させ、殊にころ懐娘のよし承り堕胎之薬を遣し、惣て破戒無懇之所行にて、其上寺内作事之義、奉行所へ中立恨趣と引違ひ勝手艦に建直し候事共、重々不届之至に付死罪申付之。

                          

谷中日蓮宗延命院納所柳全(六十歳)                               

此者儀、延命院所化にて、女犯不相成身分に罷在ながら、新吉原五十軒屋清太郎母りせと密会いたし及女犯侯段、不届に付晒之上触頭へ相渡、寺法之通可取計旨申渡引渡遣もの也。

 

また、次の大奥・御三家・御三卿の女中たちが、永の押込の処罰を受けています。尾張藩奥女中なを(33歳)、西丸奥女中梅村の下女ころ、一橋家奥女中はな(19歳)、同じく一橋家奥女中ゆい(30歳)。

さらに数名の女性が処罰されたと「一話一言」に書かれています。

後日この延命院事件は歌舞伎に取り上げられ、河竹黙阿弥によって歌舞伎『日月星享和政談(じつげつせいきょうわせいだん)』(日潤は歌舞伎では日当となっているため通称「延命院日当」と呼ばれる)に脚色され、明治11年東京・新富座で5代目尾上菊五郎の日当で初演されました。

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その上演にあたり、日潤上人追善のため5代目尾上菊五郎と12代守田勘弥によって建てられた供養塔が建てられました。供養塔には「行硯院日潤聖人」と刻まれています。(上写真)

その前の線香立てには、尾上菊五郎と守田勘弥の名前が刻まれています。供養塔建立の際に一緒に設置されたものだと思います。(下写真)

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# by wheatbaku | 2018-05-15 20:10 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 | Trackback
延命院の七面大明神(日暮里・谷中史跡巡り①)

延命院の七面大明神(日暮里・谷中史跡巡り①)

 「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で西日暮里駅をスタートして、日暮里と谷中の寺を巡ってきましたので、今日から、順に詳細をご案内します。

 歩いた順ではなく、今年の江戸検のお題「江戸のヒロインたち」に関係する史跡を初めにご紹介をします。
 最初は、延命院をご案内します。延命院は、日蓮宗のお寺で、日暮里駅から徒歩5分の所にあります。

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 延命院の創建については諸説があるようですが、どれが有力な説なのかハッキリしませんので、それぞれの説明を書いておきます。


 荒川区教育委員会設置の説明板には「開基は4代将軍徳川家綱の乳母三沢局。家綱出生の際に、安産を祈とうした日長が、三沢局の信施を受け、甲州身延山の七面大明神を勧請。慶安元年(1648)別当寺として延命院を開創したという」と書いてあります。


 『江戸名所図会』には、「七面大明神社」と書いてあり、「開山日長上人、万治三年庚子〔1660〕正月16日夢中に霊告を得て後勧請すといへり。ある人いふ、慶安元年(1648)三沢局(?―1658。幕臣小堀政貞の母・徳川家綱の乳母)甲斐の七面山へ千日の間参籠し、夢中に鱗一枚感得す。よって当社を建立し、厳命によって延命院と号(なづ)くるとぞ。」と書いてあります。


 『荒川区の文化財』には、「七面堂は七面社とも呼ばれ、甲州(山梨県)身延山久遠寺の鎮守七面山から、万治三年(1660)日長上人が勧請したといわれます。また、慶安元年(1648)徳川家糾の母三沢の局が勧請し、堂宇を寄進したとも伝えます。」と書いてあります。


延命院が配布している資料では、「寛永17(1640)日長上人は徳川幕府第3代将軍徳川家光に城中へ召され 側室於楽の方の男子出生と安産の祈願を命ぜられ 翌寛永18(1641)出生と共に 再び城中に召され 家綱の武運長久と国家安泰の祈願を命ぜられました。


4代将軍徳川家綱の乳人であった三沢局(=浄心院殿妙楽日求大姉)が開基となり 七面大明神社(=谷中七面社)の別当寺院として慶安元年(1648)日長上人により現在の地に開創されました。


 どれを読んでも、経緯が多少ことなっているものの、日長上人と三沢局が関係していますので、この二人が創建に関わっているのは間違いないものと思います。


七面大明神》

七面大明神は、日蓮宗の守護神です。

延命院に勧請された七面大明神は、七面堂(本堂)に安置されています。下写真が本堂です。
 ただし、七面大明神は秘仏で年3回、1月19日、3月19日、9月19日だけ御開帳となります。

延命院の七面大明神は、江戸時代は大変有名で多くの信仰を集めていました。

そのため、延命院門前の西に下る坂は、七面大明神にちなんで七面坂と呼ばれています。

また、放火したため火刑に処せられたことで有名な八百屋お七は、その母親が七面堂にお願いして生まれた娘であるので七面大明神にちなんで「お七」と名付けたという俗説もあります。
 境内には、「七面大明神安置」と刻まれた江戸時代に建立された石柱も残されています。(下写真)

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《延命院の大椎(おおしい)》

 延命院の大椎は樹齢600年を越えるといわれていて、東京都の天然記念物に指定されています。幹の周囲約5メートル、高さ約16メートル、枝張り南北約23メートル、東西約14メートルの巨木でしたが、平成14年に幹内部が朽ちたため、南側の大きな枝が崩落し、現在の形となったようです。

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 赤印が延命院です。









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# by wheatbaku | 2018-05-14 17:08 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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