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栄一、備中で歩兵募集(「青天を衝け」94)

栄一、備中で歩兵募集(「青天を衝け」94

 天狗党の一件が片付いた後、栄一は、一橋家の軍勢を整えるよう建言し、その建言が採用され、元治2年(1865)2月末に「歩兵取立御用掛」を仰せつかりました。

 このことについて栄一は「雨夜譚」で詳しく語っています。今日は、それに従って、備中での歩兵取立御用について書いていきます。


当時一橋家の領地は、摂州に15千石、泉州に78千石、播州に2万石、備中に345千石、都合8万石ありました。外に2万石は関東にあって、合計総高10万石の賄料でした。備中の代官所は井原村(現在の岡山県井原市西江原町)に、摂津・和泉・播磨三カ国の代官所は大坂の川口にありました。
 これらの代官所へ京都の勘定所から歩兵取立御用掛として渋沢篤太夫を派遣するにつき万事同人の指図にしたがって募集すべしとの御用状が発せられました。栄一は須永を下役に連れて、まず大坂の代官所へいって、用向きを述べると、まず備中のほうを先にやって備中がうまくいけば、摂津・和泉・播磨三カ国は訳なくできると言われ、38日、備中国井原村(現在の岡山県井原市西江原町)に到着しました。同村到着の前夜、領内の重立った庄屋が10人ほど板倉という宿駅まで出迎えにきて、鄭重な取扱いをうけ、町内通行の際には、下座触(げざふれ)までされて、「われながら大した威勢だ」と思ったそうです。

井原到着の翌日、代官に面会し、各村庄屋を旅宿に集めて趣意を説示し、領内村々の二・三男で希望の者は速かに召連れて出よと説諭したところ、代官は陣屋に呼び出して直接説諭するのがよいというので、陣屋の白州に村民を呼び出して、直に、歩兵取立の趣旨の次第をいい聞かせました。

連日、陣屋に呼び出し説諭するものの、一人として応募するものがいませんでした。手を変え品を変えて感動するように色々と工夫して説得しましたが一人として応募がありませんでした。

そこで、栄一はなにか事情があるのではないかと察したもののその確証は見出せませんでした。そうはいっても京都で自分から進んで引受けた仕事であるので、いまさら空手で帰京するわけにも行かないので、まぁ気長にやったら妙案も出るであろうと考えて、呼出しはやめてしまいました。

そしてその地の庄屋に、剣術家はいないか、学者はいないかと聞いてみると、「剣術の先生には関根某という人があり、儒者には阪谷朗廬(ろうろ)先生がおられます。阪谷先生は近村寺戸村に興譲館という塾を開いておられます」という話がありました。
 そこで、早速、阪谷朗廬を尋ねようとして、漢詩をつくり酒一樽を添えて明日推参するという書面を送りました。そして、翌日、興譲館を訪ね、阪谷朗廬や門下生らと時事を談じて帰り、次に阪谷朗廬と書生を旅宿に招待して宴会を催しました。阪谷朗廬は開港論を主張し、栄一はそれに反対し攘夷を主張し、開鎖の得失を討論しました。その後、剣道指南関根某とも手合せをしてみたが、易々とこれを打ち負かしました。すぐにその噂は広まり、近隣の村々で文武に心得ある青年が栄一を日々訪ねてきて、剣術の試合や議論などをしました。

またある日には、 興譲館の書生たちをつれて鯛網に出掛け鯛をとり、その鯛を料理して酒を飲み詩を吟じて非常に愉快な時間を過ごしました。

阪谷朗廬は、備中出身の学者で、大塩平八郎や古賀侗庵に学び、栄一が備中を訪れた時には、興譲館の館長でした。明治になってからは新政府に出仕します。阪谷朗廬の四男芳郎は、栄一の次女琴子と結婚をしますので、栄一とは私的にも密接な関係となります。


 そうするうち、一橋家に是非奉公したいという若者が現れるようなってきました。そこで、栄一は、志望者に志願書を書いてくるように指示し、その志願書を預り置いて、庄屋を旅館に集めて、志願者がいることを告げて、陣屋の役人がかれこれ面倒を言って妨害しているのであろうが、そういうことがあるとすれば、代官であろうが庄屋であろうが絶対に容赦はしない、包み隠さすにこれまでの秘密を話したほうがよいと詰問すると、庄屋たちは、裏事情を白状しましたが、全く栄一が推察した通りでした。

 そこで、翌日、代官を説諭し、「歩兵取立は重大な任務であるが、一人も応募者がいない、これが達成できなければ、拙者が辞職すればよいとだけではなく、集まらない証明をしなくてはならず、貴殿にも影響をおよぶことになる。そのため、庄屋への説諭は、よくよく利害を話したほうが好い、そうでなければ、ご自身にも差しさわり事が生じるかもしれない」といって説諭しました。

 その説諭の内容も、「雨夜譚」に丁寧に書いてあります。最下段に参考に書いておきます。長文ですが、これを読むと、「青天を衝け」の場面は、「雨夜譚」に基づいていることがよくわかると思います。ご興味のある方はお読みください。

 代官に説諭した結果、今度は続々と応募する人が集まり二百人にもなりました。さらに、備中でうまくいったことから、播磨、摂津、和泉でも大勢の応募があり、全体で四百五十余りの人が集まりました。

 この人々を引き連れて京都に戻り報告すると、褒美として白銀5枚と時服一重ねを拝領したそうです。

 

参考:「代官を説破する」(岩波文庫「雨夜譚」p99100
「代官への応接は庄屋を談するようにはいかぬから、少し改まって、『過日以来だんだん説諭いたした処が、さらに応ずる者もないのは全くまだ説論の届かぬ所があるゆえと思うから、さらに明日から更(あらた)めて説諭いたしたい、それについて一応御心得のためおはなしをするが、今般の御用向は君公にも深い御思召があって殊更に仰せ出されたことで、既に一橋に兵隊がないことは各方も御承知の事であろう、また現在の御職任は京都守衛総督であることも御承知であろう、ついてはこれまでのように一人の兵隊もなくては守衛総督の御職掌は尽せぬから、急に兵備を整えようとするのはいわゆる泥坊を見て縄をなうと一般であるが、しかしそれでもないよりは優る訳であるから、せめては領分の子弟の二、三男で志願の者を集めて兵隊を組立てたならば、万一の時には相当の用に立つであろうという所から、不肖ながら拙者が歩兵取立御用掛を仰せ付けられて参った処が、過日来種々に説論すれども一人も出願人がないと庄屋どもから申し立つるけれども、それは全く事実志願人のないのであるか、または人撰のいたし方が悪いのであるか、そもそもまた御代官、すなわち貴殿平生の薫陶が悪いために一人の応募者もないのか、いずれどこかにその原因があるであろう、ついては貴殿も能く御熟考なさい、また拙者は、この職掌が勤まらぬといって辞職すればそれまでの事であると思わるるとそれは大いに御心得違いというもので、いやしくもかかる重大の御用を御請けしてははるばる当地まで出張いたし、それぞれ着手したからには、もしも出来ぬという時には、その証拠を明了にせねばならぬ、しかる時は貴殿にもいかなる迷惑を及ぼすかも知れず、また平常貴殿が地方へ対する教訓が、代官たるの職掌に適わぬというような結果が出て来はせぬかともご案じ申します、ゆえに明日よりの再説諭には、貴殿よりも重立った庄屋その他の人々によくよく利害を御示しになるが好い、しからざればあるいは御同然身柄に障るような事が生ぜぬとは申されぬ、拙者は昨今一橋に仕官したのであるから永年の間ともに禄を食んだものではないが、いやしくも一日たりとも同じ君の禄を食んで藩籍を共にして居れば、どこまでも忠実の考を以てお話をせんければならぬ、それゆえに念のため一言申して置くから、よく勘考の上で返答をなさい』というと、代官も困った様子で、『委細承知しました、全体厳重に示してあるのでござりますが、なおまた今度は一層厳重に、』などと分疏(いいわけ)をしました。」




# by wheatbaku | 2021-06-14 20:09 | 大河ドラマ「青天を衝け」
天狗党、降伏する(「青天を衝け」93)

天狗党、降伏する(「青天を衝け」93

 

 「青天を衝け」で第18回の冒頭は、天狗党が降伏する場面でした。天狗党の西上については、もう少し詳しく描かれるのかと思っていましたが、1回限りでした。そこで、今回は、まず天狗党の降伏から書いていきます。栄一の備中での活躍や財政再建の提言等については後日解説します。

 武田耕雲斎を総大将とした天狗党は、元治元年(1864111日に大子を出発しました。それまでは、軍資金を徴発するために焼き討ちも辞さないという乱暴な部隊もあり、常陸や下野の農民たちの中には毛虫のごとく嫌う人々も多くいたことから、大子を出発する際には、厳重な軍律を定め軍勢に徹底した上で出発しました。

 天狗党は、まず下野を抜け、上野太田から利根川を越えて武州へ入り、血洗島近くを通り本庄に抜けていきました。この部分については、以前、下記の記事でも触れていますので、ご参照ください。



 本庄からは、また上野に入り下仁田街道を通って信州佐久に抜けています。

 この途中、1115日に下仁田(現在の群馬県下仁田町)で、待ち構えていた高崎藩と交戦し、高崎藩を一蹴しました。この戦いが「下仁田戦争」と呼ばれる戦いです。

 天狗党が京都に向かう途中で、多くの藩が城下をさけ間道などを通る場合には、特に攻撃しないという考えであったため、天狗党も、あえて戦いを挑むことはなく、静かに通過していく場合が多かったのですが、例外的に高崎藩との「下仁田戦争」、そして、中山道の和田峠で松本藩と高島藩の軍勢と戦った「和田峠の戦い」がありました。

 佐久から中山道に入り、和田峠で松本藩と高島藩を破った天狗党は、その後福島関所のある木曽路を避けて、伊那路を通って南下し飯田に向かいました。飯田からは清内路峠を越えて馬籠宿近くで中山道に入りました。そして、それ以降中山道を西に進んでいきましたが、揖斐まで来た際に、前方には、大垣藩と彦根藩が軍勢をそろえて待ち構えているとの情報が入りました。彦根藩は、桜田門外の変で井伊直弼が水戸浪士に殺害されていることから「敵を討つ絶好のチャンス」として戦意を高めているとの情報もあり、戦いを避けるため向きを北に変えて越前に入ることにしました。

 美濃と越前の国境には蝿帽子(はえぼうし)峠と言う険阻な峠があり、しかも天狗党が西上していた時期は12月で、峠には大雪が積もっていました。それにもかからわらず、天狗党一行は、大雪の蝿帽子峠を無事越えて越前に入りました。

 そして、大野から今庄と進み、木ノ芽峠を越えて敦賀の新保(シンボ:福井県敦賀市新保)に到着しました。

 以上の行程を表したのが下記行程図です。「図説福井県史」より転載させていただきました。

天狗党、降伏する(「青天を衝け」93)_c0187004_21262403.jpg

新保に至ると、行く手には、加賀藩を中心とする諸藩の追討軍の大軍勢が待ち構えていました。しかも。追討軍の総大将は、天狗党が頼ろうとした徳川慶喜その人でした。慶喜は、自ら望んで天狗党追討のため、海津(滋賀県海津市)まで出陣してきていたのでした。

 武田耕雲斎は慶喜に嘆願書を再三送るものの、降伏書ではないとの理由で受け取りを拒否されてしまいました。

ここで、天狗党は軍議を開きます。武田耕雲斎は降伏を主張し、山国兵部は、山陰方面に向かうという方策もあると反論しましたが、最終的に武田耕雲斎は降伏を決断しました。天狗党が降伏したのは元治元年1218日のことでした。

 加賀藩に投降した天狗党は敦賀の三つの寺に収容されました。加賀藩は食事など丁寧な扱いを行いました。しかし、幕府の追討総督田沼意尊(おきたか)が到着し天狗党の身柄が幕府側に引き渡されると扱いは一転して、北前船で運ばれ肥料にされるニシンを入れる「鯡倉(にしんぐら)」に幽閉されました。追討総督田沼意尊が「青天を衝け」に登場していましたが、田沼意尊は有名な田沼意次の曽孫で、遠江国相良藩主でした。元治2年(18652月、武田耕雲斎・藤田小四郎ら352人が斬罪とされ、他は遠島・追放などの罪に処せられました。

 下写真は、天狗党が幽閉された「鯡倉(にしんぐら)」で、現在は敦賀市の松原神社境内に移築されています。この画像は、福井県観光連盟のホームページより転載させていただきました。福井県観光連盟のホームページは「水戸天狗党と幕末福井」というページもあり、いろいろ勉強になります。リンクのご了解をいただいていますので、ご興味のあるかたは下記サイトをご覧ください。「水戸天狗党と幕末福井」

  

天狗党、降伏する(「青天を衝け」93)_c0187004_10105693.jpg

 この天狗党の討伐に、「青天を衝け」で描かれていたように栄一も出陣しています。「雨夜譚」には次のように書かれています。

 「この歳12月の初めに、かの常野(じようや)脱走の水戸浪士が北国筋から西上するという水戸浪士一件騷ぎで、一橋公には御自身兵隊を引連られてとりあえず大津駅へ出陣になったが、追々の注進によって浪士どもの挙動もことごとく知れたから、さらに路を湖西に取って堅田、今津を経て海津まで進まれた。(中略)自分はこの出兵のお供に加わって常に黒川(嘉兵衛)に随従して陣中の秘書記を担任して居ました。」

 また、「水戸市史中巻(5)」によれば、渋沢喜作は、天狗党が北に向かった頃、探索のため揖斐に到着し、天狗党が北に向かったことを確認し慶喜に報告したそうです。(「水戸市史中巻(5)」p428より)

 また、この間、「慶喜の深意は賊徒に理解を示し降伏させたいので、拙速に討ち取らないように」という噂が流れ、討伐軍の加賀藩・彦根藩に戦闘意欲が弱まったため、渋沢喜作が、最前線に向かい「速やかに追討せよ」と伝えたそうです。(「水戸市史中巻(5)」p431より)

 「青天を衝け」では、渋沢喜作が、武田耕雲斎と降伏交渉をしていましたが、ここの部分は創作だと思われます。

 「雨夜譚」には、次のようにも書かれています。

「田沼玄蕃頭は、降服の浪士を加州藩から受取ったが、篤(とく)とその邪正曲直を審判するでもなく、一概に賊徒という罪名を以て、巨魁の武田・藤田は勿論、総計百三十人余りの同勢を敦賀港においてことごとく斬罪に処してしまったが、その時わずかに死を免れて放逐されたものは人夫体の卑賤なものばかりであったとの事だが、すいぶん酸鼻(さんび)な話ではありませんか。その跡で京都の有志家中には、一橋公として、水戸浪士が軍門に降服したのを直に幕府へ引渡すというは、幕府を畏敬するに過ぎて人情を酌量せぬ処置であるという評論もあった趣だが、これは難(かた)きを公にせしむるものであろうと考えます。」


 実際に、慶喜に対して情が薄いというような批判があったようです。

 これについて、慶喜は、明治になってからの「「昔夢会筆記」の中で江間政発(せいはつ:漢学者)の質問に答えて次のように語っています。

〈江間政発〉「その引き続きで、結局加賀で降伏をしまして、巨魁を合わせて三百五十何人というものを斬罪にしましたのです。あれは今日から考えても、その時に身をおいて考えてもどうも酷に過ぎていはしまいかと考えますが:

〈徳川慶喜〉「あれはね、つまり攘夷とか何とかいろいろいうけれども、その実は党派の争いなんだ。攘夷を主としてどうこうというわけではない。情実においては可哀そうなところもあるのだ。しかし何しろ幕府の方に手向かって戦争をしたのだ。そうして見るとその廉(かど)でまったく罪なしといわれない。それでその時は、私の身の上がなかなか危い身の上であった。それでどうも何分にも、武田のことをはじめ口を出すわけにいかぬ事情があったんだ。降伏をしたので加州はじめそれぞれへ預けて、後の御処置は関東の方で遊ばせということにして引き上げたのだ。」

 このように説明しています。

この中で「その時は、私の身の上がなかなか危い身の上であった。」と語っていますが、この後で「江戸の方では、武田が私等と気脈を通じているとこう見ているのだ。ところで此方(こちら)から何かいえば、そらというわけになるのだ。そこでよほどどうもむずかしい。」と言っていますので、おそらく、江戸の幕閣は、天狗党の西上は、慶喜と示し合わせたものだと疑っているものがいて、もし慶喜が天狗党をかばう言行をなせば「やはりそうか」というような嫌疑を受けるということを指しているのではないかと思われます。



# by wheatbaku | 2021-06-13 21:22 | 大河ドラマ「青天を衝け」
武田耕雲斎-水戸の三田と呼ばれた尊攘派(「青天を衝け」92)

武田耕雲斎-水戸の三田と呼ばれた尊攘派(「青天を衝け」92

 武田耕雲斎は、前回書いたように、当初の自分の意図に違えて、天狗党の総大将となりました。今日は、この武田耕雲斎がどのような人物なのか書いてみます。

 武田耕雲斎は、諱(いみな:本名のこと)は正生(まさなり)、耕雲斎は号です。武田耕雲斎は、文化元年(1804) 跡部正続の嫡男として生まれ、父の兄で跡部家宗家の跡部正房の養子となり跡部宗家を継ぎました。のちに跡部家は甲斐武田氏の末裔ということから姓を武田姓に変更しました。

文化14(1817)家督を相続し、文政12(1829)、徳川斉昭を水戸藩主に擁立するよう奔走し、以後、改革派に属して活動し、藤田東湖、戸田忠太夫(忠敞)とともに「水戸の三田(さんでん)」と呼ばれました。

天保11(1840)には、参政に昇進しました。しかし、弘化元年(1844)に斉昭が隠居謹慎を命じられたため、その雪冤を求めて江戸へ出府し処罰解除を幕閣に嘆願しました。そのため、翌2年年役禄を召し上げられ、致仕・慎を命ぜられました。

その後、嘉永2(1849)斉昭が藩政復帰したことによりに処分は解除され、安政3(1856)に執政となりました。安政5年、斉昭が江戸城不時登城事件により謹慎を命じられました。そして戊午の密勅返納の幕命に対して藩内が混乱したことから、9月に武田耕雲斎も執政を罷免されました。

万延元年(1860)桜田門外の変後に、執政に復職しました。しかし、文久元年(1861)、東禅寺英国公使館襲撃事件で罷免されました。

 翌文久2年閏8月に謹慎解除された後、11月三度目の執政となりました。復帰直後の12月徳川慶喜の要請により慶喜に同行して上京、翌35月に江戸帰着し、引き続き執政を続けました。そして、元治元年(1864)正月、伊賀守に任じ、従五位下に叙せられました。

しかし、既に説明しているように元治元年(1864)3月の筑波山挙兵したことにより、5月に隠居・謹慎を命じられ、水戸に戻りました。

藤田小四郎の筑波山挙兵の対しては、一貫して挙兵を思いとどまるように説得していましたが、このことは「青天を衝け」でも描かれていました。

執政を罷免され水戸に戻って間もなくの元治元年7月、諸生党の実権掌握に反対し江戸に向かいましたが、水戸街道小金で留まり、徳川慶篤名代の松平頼徳の軍に合流しましたが、松平頼徳は水戸入城を拒否され、それ以降、諸生党の市川三左衛門や幕府の追討軍と交戦するようになりました。
 そして、那珂湊に移動し天狗党と合流することとなり、ついに10月末の軍議で天狗党の総大将となりました。この時の天狗党の軍制は、総大将:武田耕雲斎、大軍師に山国兵部、本陣に田丸稲之衛門、輔翼に藤田小四郎と竹内百太郎とし、全軍を
天勇隊、虎勇隊、竜勇隊、正武隊、義勇隊、奇兵隊の諸隊に編成するというものでした。こうした体制により軍律も厳しく統制して、西に向かうことになりました。


そのため、武田耕雲斎は幕府から人相書により手配されるほどとなります。幕府が各地に配った武田耕雲斎の人相書には次のように書かれているそうです。

武田伊賀正生、年61歳 

・丈高く痩せ候方 ・年齢相応に相見え候  ・色青白き方 

・痘瘡の痕少々これあり候 ・鼻高き方 ・頬こけ候 ・目、同断 

・弁舌爽やか成る方 ・耳ロ常体

(小野寺龍太著「幕末の魁 維新の殿 徳川斉昭の攘夷」より)

この天狗党の西上によって慶喜は苦慮することになり、栄一も関係することになりますので、これからも「青天を衝け」で描かれることとなるものと思います。

 最後に、「天狗党」という呼び名についての「水戸市史」の考え方を紹介しておきます。

 「水戸市史 中巻-5」では、「天狗党」という呼び名は111日に西上を開始した時から使用していて、それ以前は、筑波山で挙兵した人々は「筑波勢」と呼んで区別しています。これについて、「水戸市史」は、一般に天狗党と言われている集団は、それぞれの時期により編成に大きな差異があり、しかも挙兵時と大子集結時では政治目標にも差異があるので、一括して「天狗党」という名称を冠して扱うのは適切でないと判断したからであるとその理由を語っています。
 そして、その後に次のようにも書いています。

「武田正生(耕雲斎)が、筑波挙兵の頭初から一党の総大将としてこれに参加していたごとき誤解がかなりひろく流布しているのは、一党の編成が挙兵時から潰減まで問題にするほどの変化はなかったとする認識に基づいているためなのであろう。」
「天狗党の挙兵」や「天狗党の乱」と言った場合、武田耕雲斎が最初から総大将だったと思う人が多いようです。しかし、武田耕雲斎は、藤田小四郎が挙兵した時には、それを抑えようとしていたこと、そして武田耕雲斎が、藤田小四郎たちの懇願によりやむをえず総大将となったのは大子から京都をめざして西上をすることを決定した時であることを改め認識しておきたいと感じました。



# by wheatbaku | 2021-06-11 17:41 | 大河ドラマ「青天を衝け」
武田耕雲斎、やむをえず天狗党の総大将となる(「青天を衝け」92)

武田耕雲斎、やむをえず天狗党の総大将となる(「青天を衝け」92

 「青天を衝け」第17回での天狗党の描き方は「武田耕雲斎、藤田小四郎から懇願され大将となり、幕府軍と闘かったものの、勝機が見えず、京都の慶喜を頼って西上する」というポイント抑えた簡潔なものでした。

 しかし、天狗党が西上を決定するまでの経緯は、「青天を衝け」で描かれていたより複雑な経緯がありますので、今日は、天狗党西上開始までの経緯を「青天を衝け」よりちょっぴり詳しく書いてみます。

 

 武田耕雲斎たち尊攘派が排除され江戸における水戸藩政の実権を握った市川三左衛門・朝比奈弥太郎らの諸生党(門閥派)の人々は,天狗党追討を決定し、筑波に向け出陣しました。そして、幕府は諸藩に出兵を命じるとともに幕府軍も出陣しました。こうして、幕府・諸藩・水戸藩諸生党連合の追討軍との天狗党の戦いが,下妻・高道祖(たかさい)で始まりました。

 この戦いが始まる前、水戸にいた榊原新左衛門らの尊攘派は、大挙して江戸藩邸に向かい、藩政の主導権を再び諸生党から奪い返しました。この時、武田耕雲斎は江戸まで向かわず、水戸藩領内とどまっていました。

下妻・高道祖戦争は、夜襲をかけた天狗党の勝利となりました。しかし、天狗党は追討軍に勝利したものの幕府軍に歯向かったため賊軍となってしまいました。

敗れた幕府軍は江戸に退却し、諸生党は水戸に戻りました。水戸城は尊攘派の大部分が江戸に向かったためすっかり手薄になっていたため、諸生党は楽々これを占拠しました。

こうして、江戸藩邸は尊攘派、水戸城は諸生党が実権を握るという状況となり、藩政は混乱するようになりました。

このような混乱の中、水戸藩主徳川慶篤は,その収拾のために自分の名代として水戸藩の支藩である宍戸藩の藩主松平頼徳を水戸に派遣しました。これに江戸藩邸にいた執政榊原新左衛門ら七百人が同行するとともに水戸藩領内小金に留まっていた武田耕雲斎も途中で合流し、この「大発勢」といわれました。

水戸に到着した松平頼徳は、水戸城に入城としようとしますが、尊攘派が多数同行していることから、市川三左衛門ら諸生党は入城を拒否します。やむえず「大発勢」は城外に留まり、繰り返し入城を求めますが、諸生党は拒否を続けました。このため、「大発勢」は、那珂湊に移動し、諸生党と対峙しました。この状況をみて、藤田小四郎たちは、「大発勢」を支援するため那珂湊に移動しました。

そのため、水戸城にいた諸生党は防備を固めるとともに幕府軍に支援を頼み、追討軍は那珂湊に移動しました。こうして「大発勢」・「天狗党」連合軍と「諸生党」・追討軍の連合軍が対峙する図式となりました。

「大発勢」は、もともと両者の争いを止めるために水戸に向かったので、幕府軍と敵対する意図はまったくありませんでした。そのため、思いがけない展開で、諸生党・追討軍と戦ったものの、「大発勢」の多くは、追討軍に投降しました。この投降した「大発勢」には悲劇が待っていて、松平頼徳は切腹を命じられ、榊原新左衛門は古河藩に預けられ切腹しています。

「大発勢」に加わっていた武田耕雲斎は、一貫して藤田小四郎に自制を求めていて、挙兵には賛成していませんでしたが、予想外の展開の中、藤田小四郎たちの懇願に負けて、藤田小四郎たちと行動をともにすることとしました。「青天を衝け」で描かれていたのは、この時の場面です。

こうして、「大発勢」の多くが投降した中でも、武田耕雲斎も加わった天狗党は、あくまで素志貫徹をめざして、追討軍と戦い続けました。しかし、天狗党は、多数を擁する追討軍に包囲されたため、那珂湊を脱出し大子(だいご:現在の茨城県大子町)に移動しました。そして10月末、軍議を開き、京都にいる慶喜および朝廷に「尊王攘夷」の素志を訴えるため西上することを決定します。

そして、武田耕雲斎を総大将とし、軍制・軍令を整え、111日、大子を出発し西上を開始しました。



# by wheatbaku | 2021-06-10 19:24 | 大河ドラマ「青天を衝け」
慶喜、当初は長州討伐を自重(「青天を衝け」90)

慶喜、当初は長州討伐を自重(「青天を衝け」90

 「禁門の変」の際、慶喜は、諸藩の兵を指揮して長州藩討伐の先頭にたって戦いました。しかし、慶喜は、長州藩が京都周辺に進発してきた当初は、討伐論を抑え、長州藩に退京するよう説得する方針をとっていました。つまり討伐を自重していました。今日は、このことについて書いてみます。

 長州藩が、進発して6月末には京都周辺に駐屯しました。そして実際に戦闘が起こったのは719日でした。その間、20日間ほどの期間があります。この間、京都守護職松平容保を擁する会津藩、京都所司代松平定敬を擁する桑名藩、西郷隆盛が指揮する薩摩藩は討伐を主張しました。これに対して、慶喜は、討伐を拒否して、あくまでも説得すべきであるという考えでした。この慶喜の考えに対して、会津藩は強く反発し、後に「一会桑」と呼ばれるほど緊密な関係を誇った両者も、「禁門の変」直前には深刻な対立が生じていました。

 慶喜が、長州藩の説得にあまりにも熱心であったため、「長州へ内応」しているという噂が流れることもあったそうです。(家近良樹著「徳川慶喜」p75.75より)

 

 慶喜が自重論をとったことについて「昔夢会筆記」の中で慶喜自身は次のように語っています。

「私の考えでは、それは入京をお止めになっているところへ入京してみれば討ってもそれだけの名はある。 しかしながら、 向こうも表向きはとにかく歎願という名である。それで兵器を携えて入京したというのは、重々向こうが悪い。なれどもこの時に堂上方をはじめ諸藩も、長州へ荷担する者はたくさんある。それ故に私の考えでは、どこまでも説論をして、どうあっても聴かぬ暁に事が発すれば名義が立つ、ただ兵器を携えて入京したからと言って、ただちに兵を用いては少し軽率になるから、どこまでも説得するがよいという論であった。」

そこで、長州藩を徹底して説論したものの、「どうあっても聴かないで、後から追々に兵を繰り出すということが聞こえている。それでもうここにいたってはやむを得ないから、期限を立ててあちらへ達したのだ。そうすると、その期限の時に向こうから暴発した。暴発したので戦争になった」

慶喜は、このように穏便に対処しようとしたことについて、家近良樹教授は「徳川慶喜」の中で、次のような理由があるとしています。

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420日に幕府に下った沙汰書で、長州問題の処理が幕府に全面委任となり、家茂の帰府後、朝廷関係者の慶喜への依存が目立つようになるなか、慶喜としても寛大な処分を余儀なくされ、かつ彼個人としても禁闕の下において兵端を開くことに躊躇せざるをえなかったこと

②、慶喜は、長州藩の主張と行動が、過激な様相を呈したとはいえ、孝明天皇の攘夷意思を尊重しようとする点で同意でき、長州の主張と行動に一定程度の理解を示していたため。

③慶喜は、前年の「八月十八日の政変」の時には江戸にいて、長州藩を京都から追放した件にはいっさい関わりをもたなかった。つまり、長州藩士の怨みをかわないですんだ。従って、わざわざ長州藩に対して、強硬な姿勢をとる必要はなかった。

④朝廷のなかには長州藩を支援する公卿が多くいたし、慶喜と因縁の深い水戸・因幡・備前藩らの有志が、露骨な長州支援の態度を示したこと

※ここに、「慶喜と因縁の深い水戸・因幡・備前藩らの有志」とありますので、因幡藩と備前藩について説明します。

当時の備前(岡山)藩の藩主池田茂政は徳川斉昭の九男で、幼名は九郎麿といい、慶喜の異母弟です、一旦、忍藩主松平忠国の養子となりますが、安政の大獄の影響で縁組が解消され水戸家に戻りました。その後、文久3年に備前(岡山)藩池田慶政の養子となり,将軍徳川家茂の偏諱を賜わり茂政と改名しました。父親ゆずりの尊王攘夷主義者で、長州征伐にも反対しました。


因幡(鳥取)藩主池田慶徳は、徳川斉昭の5男として生まれ幼名五郎麿といい慶喜の異母兄です。嘉永3(1850) に因幡(鳥取)藩主池田慶栄が嗣子なくして急死したことから、幕命によりその養子となりました。慶徳も攘夷論に立って京都政局で活躍したこともあったため、鳥取藩では、尊攘派の勢いも強いものがありました。

⑤慶喜の守衛にあたっていた水戸藩士らが長州藩に同情的で、慶喜の行動を掣肘したことである。

※京都に派遣された水戸藩士は、本圀寺に駐留していたことから、本圀寺党とも呼ばれることがあります。当初は、徳川慶篤が上京した際に随行した尊攘派の藩士が、慶篤が江戸に帰った後も本圀寺に留まり、慶喜の護衛等にあたりました。

水戸藩は、長州藩とも攘夷決行を促そうという盟約を結んだこともあり、長州藩に好意・同情を寄せる藩士が多くいましたので、心情的に長州討伐には消極的でした。

なお、本圀寺に駐留している水戸藩士は尊攘派の人々ですの、筑波山で挙兵した天狗党とも心情的に近い人が多く、天狗党の動きにも同情的でした。


# by wheatbaku | 2021-06-08 18:33 | 大河ドラマ「青天を衝け」
  

江戸や江戸検定について気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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