今回は東京メトロ四谷三丁目駅から5分のところにある金丸稲荷神社を訪ねます。
金丸稲荷神社は、美濃高須藩松平家上屋敷にあった神社です。高須藩は、御三家筆頭である尾張藩の支藩です。天和3年(1683)美濃高須藩藩祖の松平摂津守義行が、現在の新宿区荒木町一帯を幕府より拝領し、上屋敷としました。義行は尾張藩2代藩主徳川光友の次男です。
荒木町に接している「津の守(つのかみ)坂通り」も、高須藩に由来しています。「津の守(つのかみ)」の名の由来は、松平摂津守義行からきています。つまり、摂津守が略されて「津の守」となりました。だから「つのもり」ではなく「つのかみ」と読みます。藩主の守護神として建立され上屋敷に鎮座していた金丸稲荷神社は、現在も、氏子の人たちに崇敬されています。

金丸稲荷神社の鳥居の前の細い道を道なりに50m進むと、「津の守(つのかみ)弁財天」が池のほとりに鎮座しています。江戸検定のテキスト「博覧強記」に、高須藩の屋敷跡のランドマークとして載っている弁財天です。
弁財天は「策(むち)の池」のほとりにあります。この池で徳川家康(松平摂津守という説もある)が乗馬用の策(むち)を洗ったことから「策の池」と呼ばれました。 「策の池」は「目黒不動の滝」「王子の名主の滝」等と並ぶ江戸八井と呼ばれていましたが、現在は規模がかなり縮小していますが、住宅街の中のオアシスとして憩いの場となっています。

「最後の会津藩主 松平容保 四谷松平邸に生まれる。美濃国高須藩松平義建6男」と書かれた写真が、金丸稲荷神社の前に貼ってありました。 松平容保は、ここ高須藩上屋敷で生まれたのですね。
ところで、高須藩は幕末に、高須4兄弟といわれる有名人を輩出しています。尾張藩第14代藩主徳川慶勝、尾張藩第15代藩主徳川 茂徳(とくがわ もちなが) 、京都守護職の会津藩主松平容保、京都所司代の桑名藩主松平定敬の4人です。いずれも、幕末に活躍した人たちですが、実の兄弟というのがすごいですね。
青印が金丸稲荷神社、赤印が津の守弁財天

