当社の社殿に掲げてある由緒書には、次のように書いてあります(要約してあります)「平安中期、後冷泉天皇の御代の創建と伝えられます。
陸奥の豪族の阿部貞任・宗任が反乱を起こした前九年の役の際、源頼義と義家が陸奥に向かう途中、当地にて一休止した時に、隅田川の川上より流れ来るものを拾い上げみると銀杏の枝でした。義家は「朝敵退治のあかつきには、枝葉栄ふべし」と祈願し、奥州に旅立ちました。
阿部一族を平定した義家が、この地に再び立ち寄ったところ、銀杏の枝葉が大きく繁茂していたので、神恩に感謝して、太刀一振を捧げ、八幡宮を勧請したのが当社の始めです。
江戸時代になると、元和4年(1618年)、当地は福井藩松平家の屋敷となり、邸内社として祀られておりましたが、享保10年(1725年)に屋敷が収公され、屋敷の跡地は、町奉行大岡越前守忠相により福井町と名付けられ、当地の氏神様として崇敬されてきました。」
嘉永6年の江戸切絵図を見ると、町屋の中に「(銀)杏八マン」とはっきり書かれています。
越前福井藩は、徳川家康の次男結城秀康が藩祖です。秀康は、豊臣秀吉の養子となった後、下総国結城の名族を継ぎ、「結城秀康」と名乗りました、そして、越前一国68万石を与えられ、秀康は結城姓を松平に復し、越前松平家を興しました。藩祖が、2代将軍秀忠の兄であるため、越前松平家は御三家に次いで家格の高い家として処遇されました。
福井藩では幕末の藩主松平慶永(春嶽) が有名です。
橋本左内を登用し藩政改革を推進した慶永は四賢侯の一人といわれ、幕末の政局で重要な役割を果たしています。文久の改革の時に、慶永がついた政事総裁職は、それまでの大老と同じ職責だといわれています。
ところで、このように活躍した慶永は、実は、田安家出身で13代将軍徳川家慶の従兄弟という血筋であることはあまり知られていないかもしれません。。
青印が銀杏岡八幡神社です。

