
江戸っ子の初物好きを規制した幕府の初物規制には、きゅうりは出てきません。ということは、きゅうりの初物はは茄子ほどには騒がれなかったということかもしれません。しかし、江戸時代から促成栽培が盛んに行われていましたので、今日はその話題です。
きゅうりは、もともとインド北部やパキスタンが原産地です。中国へは西域からシルクロードを通って伝えられました。その名残が「胡瓜」という漢字です。「胡」とは、中国で西域の異民族をさした言葉ですから、「胡を経由してきた瓜」という意味です。
和漢三才図会には「漢の張騫(ちょうけん)が西域に使いしたとき、種を持ち帰ったので胡瓜という」と書かれています。
日本へは、約1500年前に伝えられたと言われていますが、なかなか普及がすすまなかったようです。普及が遅れたのは、きゅうりに苦味があったためと言われています。
野菜の促成栽培は、4代将軍家綱が治めていた寛文年間(1661~73)の頃、砂村の松本久四郎という篤農家が考案したと言われています。砂村(江東区北砂、南砂、新砂、東砂)では、促成栽培が盛んに行われました。
砂村は海岸に近いため、日照に恵まれ夜間も気温が急激に温度が下がらないという気候条件と元もと江戸のごみで埋め立てた土地であるため地味が肥えているという好条件を備えていました。
こうした好条件の上に工夫を重ねています。周囲を防風垣やむしろで囲って風を防ぎ、苗床では江戸市中からでるごみを稲藁や落ち葉などと積んで発生する発酵熱で地温を温め、さらに炭火をおこし、障子に荏胡麻(えごま)を塗った油障子で覆いをしました。
このように、ゴミを堆積すると醗酵熱が出るのを利用し、早く野菜の種をまき、さらに寒さから野菜を守る工夫をし、成長を早めることにより、収穫が早くできるようになりました。そして、きゅうりやなすの促成栽培が盛んに行われました。
こうして作られたきゅうりを、江戸の町人は、主に漬け物にして食べていました。本朝食艦には「大抵(だいたい)蔬としては佳くない。ただ塩漬け・糟(かす)漬けにして蔵し、香の物とするのが佳い」と書かれています。一方、輪切りにすると徳川家の家紋である葵の御紋に似ているところから、それを食べるのは不敬であるとして、きゅうりを輪切りにすることは慎まれていたとか、武士はあまり食べなかったという説もあります。

