玉川上水は、開削工事の総奉行に知恵伊豆と呼ばれた老中松平伊豆守信綱、奉行に町奉行の神尾備前守、そして水道奉行に関東郡代として名高い伊奈忠治(没後は忠克)が就くという幕府側の豪華布陣の上で、玉川兄弟が工事を請負ったと言われています。
幕府は玉川兄弟に6000両の資金を与えて工事を行わせましたが、途中でお金が足りなくなり、玉川兄弟は自分たちの資産を売って工事の費用に充てて上水を完成させたと言われています。
こうして工事が進められた玉川上水は、羽村から四谷大木戸まで43キロメートルありますが、承応2年(1653)4月4日着工し、、同年11月15日に完成したと「上水記」にかかれています。
これが事実とすれば、43キロを248日間(承応2年は閏6月があった)の工事で完成させたことになり、1キロメートルの工事を約6日間で進めたことになります。これは、驚異的なことです。
埼玉県北部で利根川から荒川に導水するための人口水路である武蔵水路は、14.5キロメートルありますが、1963年に着工して68年に完成するまで5年かかっています。
土木技術が進んでいる現代でも、これだけかかる導水工事を、人海戦術に頼るしかなかった江戸時代に248日間で成し遂げた、玉川兄弟の偉大さを考えざるをえません。
また、玉川上水は羽村から四谷までの43キロメートルを、高低差のみで水を運ぶしくみ「自然流下式」により水が流れました。
しかし、羽村と四谷の高低差は、わずかに92メートルしかありません。100メートル進むごとに21センチメートル下がる計算になります。
これしか高低差がない土地でスムーズに水が流れる工事をすることもまたすごい技術力だと思います。
また、このような難工事のためには、しっかりとした測量技術が必要です。
玉川上水の測量では、夜、蝋燭を持った人が並び、その明かりを見て高さや直線を測ったという話が羽村には伝えられていると訪問した羽村のお世話になった人が教えてくれました。