「亀住稲荷神社」はJR御徒町駅から4分、東京メトロ「末広町」からも4分のところにあります。

亀住稲荷神社は、豊前小倉藩の中屋敷内にあった稲荷と神田八軒町にあった稲荷を一緒に祀った神社です。
江戸時代は、この地域には、 豊前小倉藩小笠原家の中屋敷がありました。嘉永4年の江戸切絵図には小笠原左京太夫と載っています。
小倉藩小笠原家
小倉藩小笠原家は、戦国時代に、武田信玄と戦った信濃守護の小笠原長時の血を引いた家です。
もともと、小笠原氏は八幡太郎源義家の弟、新羅三郎義光の系統の名門で、甲斐国巨摩郡小笠原(現在山梨県南アルプス市)が出身地と言われています。
室町時代には、信濃守護として信濃に進出し土着しました。しかし、武田信玄に敗れ、信濃から追われましたが、後に、徳川家康に仕えて、有力譜代大名になっていきます。
そして、寛永9年、細川忠興が肥後に転封した後に、小笠原忠真が播磨国明石藩より小倉に入封し、小倉城主として15万石を領しました。
忠真は徳川家康の曾孫(母が徳川信康の娘)であり、以後、小笠原氏は西国譜代大名の筆頭として九州の玄関口を押さえる九州探題の任を受け外様大名の監視を行っていきました。
こうした役割を小倉藩は負っていたため、幕末の長州征伐では幕府側の九州側の先鋒として長州藩と戦いました。しかし、慶応元年(1865年)の第二次戦争の際には奇兵隊により門司が制圧された後、小倉城に火を放ち、撤退するという悲劇を味わいました。
亀住という地名は江戸時代にはありません。千代田区の資料によると、神田亀住町は、明治2年に合併してできた町のようです。その名前は、末永く生活できる場であってほしいという願いを込めて名付けられたといいます。 明治44年の町名変更で、町名はいったん亀住町となり、昭和22年にふたたび神田亀住町に戻されますが、昭和39年の住居表示の実施で、現在の外神田五丁目になりました。
こうして亀住町という町名はなくなりましたが、亀住町会と書かれた木札が社殿に掛けられているのを見ると、亀住町は、亀住稲荷神社とともに、現在も活きているようです。
青印が亀住稲荷神社です。

