太郎稲荷神社は、柳川藩立花家の屋敷にあった神社です。
柳川藩立花家の江戸屋敷は、上屋敷が下谷徒町、中屋敷が浅草鳥越、下屋敷が浅草末(下谷)にありました。
中屋敷にあったのが、「西町太郎稲荷神社」(右の写真)で、下屋敷にあったのが「太郎稲荷神社」 (下の写真)です。
西町太郎稲荷神社
西町太郎稲荷神社は、東京メトロ日比谷線「仲御徒町」駅から歩いて5分です。神社の鳥居の脇に由来を書いた案内板があります。それには、「当町は江戸時代の万治年間(1658~61)、九州地区後柳川藩10万9千6百石の太守立花左近将監が江戸中屋敷として設けた跡地であって、当太郎稲荷は立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として、同邸内の現在地に建立されたものです」と書かれています。
太郎稲荷神社
太郎稲荷神社は東京メトロ「入谷」駅から歩いて5分のところにあります。
神社の鳥居の脇にある旧光月町の由来板の中に「太郎稲荷神社は新堀川沿いにある立花家の下屋敷にあった。生い茂る樹木の奥に社殿があり、参拝する人でにぎわっていた」と書かれています。
柳川藩立花家
立花氏は、九州の戦国大名大友氏の一門と言われます。豊臣秀吉の九州平定の際に、大友氏の先陣として活躍した立花宗茂は、その功により、筑後柳川13万石の城主となりました。 その後、関ヶ原の戦いの際に西軍に味方した立花宗茂は、柳川を追われ、かわって柳川に田中吉政が入封しました。しかし、田中家が改易されると、20年後の元和6年(1620年)、再び立花宗茂が城主となり、以後、明治維新まで、立花家が柳川を治めました。
明治維新の際に多くの大名が東京に移り住む中で、立花家は、柳川に留まり、第2次大戦後には、16代当主の 立花和雄氏が、立花家の別邸を利用し、料亭・旅館「御花」を始めました。そして現在も「御花」は、立花家17代宗艦氏三兄弟により経営されているとのことです。
右の写真は、その「御花」の庭園「松濤園」です。
青印が「西町太郎稲荷神社」 、緑印が「太郎稲荷神社」 です。拡大してご覧ください。