この小説の中で、司馬遼太郎は、吉田松陰について、次のように書いています。
「筆者はこの小説松陰のくだりを書きつづけつつ、女性の登場がきわめてすくないことに筆者自身ときにぼう然とする思いがあるが、ただ高須久子がいる。松陰と同獄のこの女性とのあいだに、双方濃淡はさておき、異性に対する心情の傾斜があったようにおもわれる。
松陰は一同より早く出獄したのだが、他の11人がこの年若い師のために送別句会を催した。「鴫たつてあと淋しさの夜明けかな」久子の句である。
ただし、松陰はのち再入獄する。やがて身柄が幕府の手に移されることになり、ついに江戸へ檻送(かんそう)されるときまったとき、彼女は獄中自分で縫った手布巾(てふきん)を松陰に贈った。松陰はよろこび、『箱根山越すとき汗の出でやせん君を思ひてぬぐひ清めむ』 と歌をよみ、彼女に贈った。
『一声をいかで忘れんほととぎす』
久子の句である。」
一方、吉田松陰と高須久子とのほのかな恋情に焦点をあてた古川薫著の小説「吉田松陰の恋」は、
高須久子はおうちの句を贈り、松陰が「ほととぎす」の句を返したとしています。
あらすじは次のようです。松陰が野山獄から江戸に向かうこととなった2日前に、久子が手布巾を餞別にあげると、翌日松陰がお礼にと差し出した紙片には
『高須うしのせんべつとありて汗ふきおくられければ』と前書きし、
『箱根山越すとき汗の出でやせん君を思ひてぬぐひ清めてん』と書きとめてありました。
そして 江戸に出発する5月24日の朝、久子が次のはなむけの句を渡します。
〇手のとはぬ 雲に樗(おうち)の 咲く日かな
それに対して、松陰は、一通の封書を渡して去っていきました。
それをあけると 『高須うしに申上ぐるとて』とした後に、次の別れの句が書いてありました
〇一声を いかで忘れん ほほとぎす (松陰)
吉田松陰は、安政6年(1859年)5月24日、おうちが咲き、ホトトギスの声の聞こえる梅雨の時期に江戸に向けて旅立って行きました。
そして吉田松陰は、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処されました。享年30歳。生涯独身でした。
一方、「高須久子は、明治のいつごろまでか長命して、つねに松陰のことを語っていたという」
と司馬遼太郎は「世に棲む日日」の中で書いています。

