品川寺(ほんせんじ)は京浜急行「青物横丁」駅から歩いて5分です。
地蔵菩薩像は、品川寺の門を入ったすぐ左に石の台座の上に鎮座しています。宝永5年(1708年)9月、江戸深川の僧、地蔵坊正元の発願によって浄財が集められ、像の高さ2.75メートルの地蔵菩薩像が、神田鍋町の鋳物師太田駿河守正義によって鋳造され寄進されました。建立されてから既に300年がたったことになります。
六地蔵のなかで、品川寺の地蔵菩薩像だけ、笠をかぶっていません。
江戸名所図会には、「門を入りて左の方にあり。石を畳みて台座を設く。宝永5年戌子(1708)沙門正元坊建立するところにして、江戸六地蔵の一員なり」と書かれています。
地蔵菩薩像は目の前の東海道を行く人を見守るがごとく、旧東海道のある東を向いて鎮座しています。地蔵菩薩像は写真の右の奥にあります。前の道路が旧東海道です。
品川は、東海道五十三次の第一番目の宿場町で、日本橋から2里のところにあります。旅籠の数は180軒を数える時期もあるほど栄え、江戸後期の人口は、6000人、家数1200件を数え、約130件の旅篭屋ありました。
品川寺は、ホームぺージによると、平安時代に開創された品川で最も古いお寺だそうです。そして、長禄元年(1457年)、太田道灌により伽藍が建立され、寺号を大円寺と称しました。その後荒廃しましたが、江戸時代に入り、承応元年(1652年)に弘尊上人により再興され、品川寺となりました。
また、水月観音・聖観音両菩薩像を本尊とするそうですが、水月観音は秘仏で、現在の住職もみられていないそうです。
江戸名所図会では、さらに品川寺を詳しく説明しています。下に書き上げましたので、お時間のある方はお読みください。

鐘突堂に昇らせてもらい、大梵鐘を目近にみることができました。
大梵鐘は、明暦3年(1657年)9月に、4代将軍・徳川家綱によって寄進されたものです。
大梵鐘には徳川家康、秀忠、家光の3代にわたる将軍の号(東照宮、台徳院殿、大献院殿)と6観音像(聖・千手・十一面・准胝・如意輪・馬頭)が浮き彫りにされていました。右の写真のように観音像がきれいに彫られていて、素晴らしいものでした。
さらに、境内には、樹齢600年の大銀杏(下の写真)もあり見所がいっぱいあります。
江戸名所図会に書かれた品川寺
本尊縁起に云く、往古(そのかみ)、弘法大師東国遊化(ゆうげ)の頃、この地の押領氏 品川氏に附属せられ、品川左京亮(しなかわさきょうのすけ)まで、その家に伝へて、尊信せり。
遙かの後、応永年間に至り、鎌倉公方足利持氏と上杉禅秀合戦におよびし頃、品川の一族ことごとく討ち死にす。そのとき、本尊は深く草堂の内に秘め置きしを、その後、太田道灌、品川の地を領せし頃、深くこの本尊を崇信し、一宇を建立して大円寺(だいえんじ)と号す。 --中略--永禄9年(1566年)、小田原の北条氏政、今川家へ加勢ありて、信玄と戦うとき、信玄、武蔵の北の方より不意に押し寄せ、江戸および品川を追捕し、民家を焼き払う。
このとき、甲州方の二人の侍、品川観音の御堂を焼きて、本尊を奪ひ、甲州に帰りけるに、その者おほいに狂乱し、本尊元の地へ遷すべき旨威霊の示あり。
されど、武蔵は敵地なれば、その便りを得ず。一人の乞食(こつじき)の聖を頼み、元の地に遷座なし奉るといへども、御堂も焼け亡びたりければ、その礎石の残りし地を求めて、形ばかりの草堂を営み造りて、安置なし奉りしを、遥かに年月隔たりて後、承応元年(1652)、法印 弘尊、堂宇を建立し奉り、海照山普門院と号す。 ---後略---

