大宗寺は、東京メトロ「新宿御苑」駅から2分の至近距離にあります。大宗寺の地蔵菩薩像は、甲州街道の入り口として、六地蔵の3番目として正徳2年(1712)に造立されました。制作者は神田鍋町の鋳造師太田駿河守正儀です。像の高さは2.67メートルあります。
建立は3番目ですが、東都歳時記では、参拝の順番は2番目とされています。江戸名所図会でも2番目とされています。江戸時代、巡拝は、品川寺から、時計廻りに行われたからです。
太宗寺は、太宗という僧が建てた草庵「太宗庵」がその前身で、慶長元年(1596)頃にさかのぼると伝えられています。
太宗は、現在の新宿御苑一帯を下屋敷としていた高遠藩内藤家の信頼を得て、寛永6年(1629)内藤家第5代正勝の葬儀を行い、墓もここに置くことになりました。 内藤正勝は、関東総奉行をつとめた徳川家康の側近内藤清成の3男です。
寛文8年(1668)に、正勝の子の重頼から寺領7396坪の寄進をうけ創設したのが、現在の太宗寺です。
以後、内藤家の歴代藩主が太宗寺に葬られるようになりました。
右のお堂が閻魔大王と奪衣婆(だつえば)の像が安置されている閻魔堂です。閻魔大王と奪衣婆の像は、「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばあさん」として親しまれました。今も、毎年お盆の7月15・16には、盆踊りとともに閻魔像・奪衣婆像の御開帳が行われています。
左は、不動堂です。太宗寺のお不動様は、額の上に銀製の三日月をもつため、三日月不動と呼ばれています。寺伝によれば、高尾山薬王院に奉納するため甲州街道を運搬中、休息のため立ち寄った太宗寺境内で盤石のごとく動かなくなったため、不動堂を建立し安置したと伝えられているそうです。
右の写真は、太宗寺前の旧甲州街道です。
甲州街道の最初の宿場は、元々は高井戸(現杉並区)でしたが、日本橋を出発して4里8町(16.6km)もあったため、人馬ともに不便でした。そこで浅草にすむ名主喜兵衛たちが、元禄10年(1697)に、太宗寺の南東に宿場を開設するよう幕府に願いをだしました。
この願いは翌年元禄11年(1698)に許可となり、「内藤新宿」は元禄12年(1699)に開設されました。
しかし、享保3年(1718)には開設後わずか20年にして、宿場は廃止となります。 これは、利用客の少なさ、旅籠屋の飯盛女がみだりに客を引き入れたことなどが原因といわれます。
その後、度重なる再興の願いにより、昭和9年(1772)には宿場は再興されました。
信濃高遠藩内藤家の下屋敷の跡が、現在の新宿御苑です。甲州街道をはさんで太宗寺の反対側にあります。
現在でも御苑の敷地は約58ヘクタールありますので、江戸時代の広さは相当あったことになります。
江戸名所図会に書かれた「太宗寺」
内藤新宿右側中程、大木戸より2丁余りに有り。浄土宗にして縁山に属す。本尊は阿弥陀如来にして恵心僧都の作。開山念誉故心学玄(ねんよこしんがくげん)和尚と号す。昔はわづかなる草庵なりしを、寛永の頃内藤大和守重頼この地を賜りし時、この地に住める道心者ありしに、重頼若干(そこばく)の地を与へられしが、広豁(こうかつ)なるを以て 太宗なりと云ひしかば、重頼とりあへず、さあらんには寺号を太宗と付けよとありしより号(な)とすと。当寺の本尊弥陀善逝の像は、鎌倉仏師の作なりといへり。門の内に沙門正元坊が造立する所の、銅像の地蔵尊あり。(江戸六地蔵の第2番目なり)

