霊巌寺は、東京メトロ「清澄白河」駅から5分です。現在、霊厳寺のある町名は「白河」と呼ばれています。
元々は、霊岸寺の門前だったので「深川霊岸町」といいましたが、霊岸寺が白河藩主だった松平定信の菩提寺であったため、昭和45年に白河町と名づけたそうです。
従って、「白河」という町名は、つい最近につけられた名前になります。その町名と隣の清澄を一緒にしたのが「清澄白河」という駅名です。
六地蔵菩薩像は、門を入って、参道中程の左手に鎮座しています。
六地蔵の5番目として、享保2年(1717年)4月に建立されています。
像の高さは、2.73メートルで、今までお参りしてきた六地蔵像とほとんどかわりませんが、台座が低いため、見上げる感じではなく、身近に感じられます。仏身には、金箔がかすかに残っているそうです。
霊厳寺は、寛永元年(1624)に、雄誉霊巌上人が霊巌島(現在の東京都中央区新川)に霊厳寺を創建したのが始まりです。その当時、霊巌島の辺りは湿地帯で、そこを埋め立てて霊巌寺を建てました。
霊厳寺は、明暦3年(1657)のいわゆる振袖火事によって焼失し、現在の深川の地に移転しました。元の創建の地は霊巌島という霊厳由来の地名が残されました。(現在の交差点の名前は、「霊岸島」)
霊巌上人は、のち浄土宗総本山の知恩院32世に就任しています。
霊巌寺には、松平定信の墓所(左の写真)があります。松平定信は、御三卿の田安宗武の7男で8代将軍徳川吉宗の孫にあたります。
白河藩主の松平(久松)定邦の養子となり、天明3年(1783年)に白河藩主となります。折からの天明の大飢饉にも、領内から餓死者を出さず、名君と言われました。
そして、天明7年(1787)、老中首座に就任し、吉宗の享保の改革を手本とした寛政の改革を行いました。
その松平定信の墓(右の写真)は、本堂のすぐ脇の塀に囲まれた区画の中にあります。
松平定信の墓だけ独立してありますので、その他の桑名藩藩主の墓はどうなのか、ご住職に尋ねました。なお、松平(久松)家は文政6年に白河から桑名に転封しています。
ご住職のお話は、「桑名藩の歴代藩主の墓もあります。また、桑名藩松平家のほか、高田藩榊原家、膳所藩本多家の菩提寺でもあります」とのことでした。
水戸街道はどこですか?
この写真は、霊巌寺の門前から撮ったものです。門前の道を少し右手にいけば、深川江戸資料館があります。しかし、街道という雰囲気ではありません。
ご住職に、霊巌寺は水戸街道沿いにあると多くの本などに紹介されていますが、水戸街道はどこを通っていたのでしょうかと質問しました。それに対して次のように教えてくれました。
「霊巌寺では、水戸街道ではなく、千葉街道と伝わっているけれども、街道が、お寺のそばを通っていたわけではないと思います。
他の4ヶ寺は、明らかに街道の入り口ですが、霊巌寺と永代寺の2ヶ寺に地蔵菩薩像が安置されたのは、水戸街道や千葉街道がそばを通っているということではなく、、正元坊が深川に住んでいて、深川では霊巌寺と永代寺の2ヶ寺が参詣者が非常に多かったため、大勢の人が参詣する霊巌寺と永代寺の2ヶ寺に寄進したのではないでしょうか」というお話でした。
前からの疑問が氷解した気持ちがしました。
江戸名所図会に書かれた「霊巌寺」
浄土宗関東18壇林の1室にて、広壮の梵刹ない。本尊は阿弥陀如来。開山は霊厳和尚たり。台旨によりて寺産を附せらる。寮舎僧坊甍を連ねて巍然(ぎぜん)たり。
正元坊が造立せし銅像の地蔵尊は、大江戸六地蔵の一員にして、総門の内正面に対ふ(むかう)‐‐‐後略‐‐‐

