このブームを支えた人の代表が、成田屋留次郎と鍋島直孝です。
この時期も、朝顔の中心は入谷です。その入谷朝顔界の重鎮が成田屋留次郎です。
成田屋留次郎は、本名は山崎留次郎。8代目団十郎の大ファンだったので、成田屋を名乗ったと言われています。
成田屋留次郎は、浅草の植木屋の次男として生まれ、その後、入谷に住み、植木屋を本業として、朝顔栽培に趣味として取り組んでいたといいます。そして、明治24年に81歳でなくなりました。
成田屋留次郎は、朝顔の栽培に熱心に取り組んだため、いろいろなエピソードがあります。
当時、入谷には、大坂のような奇品が多くはなかったので、大阪へ行き珍花を集めたというエピソードや引き出し付きの箱に寒天を流しこみ、珍花奇葉を入れこれを見本として客に売り歩いたというエピソードもあるそうです。
「団十郎」 という花があります。上の写真が「団十郎」ですが、花の色が団十郎が好んだ団十郎茶に近いことから、この名が付けられました。この花は成田屋留次郎が売り出していた花だった言われています。そして、現在でも茶色の花は「団十郎」と呼ばれることが多く、人気が高いそうです。
嘉永・安政期ブームのもう一人の中心人物が、北町奉行をつとめた鍋島直孝です。号は 「杏葉館(きょうようかん)」 と言います。
鍋島直孝は、佐賀藩9代藩主・鍋島斉直の五男として生まれました。佐賀藩の幕末の名君と言われる鍋島閑叟(直正)の兄にあたります。
鍋島直孝は、旗本の大身で五千石を領し、有名な『遠山の金さん』こと遠山景元の2代後に、北町奉行となっています。
なお、佐賀藩の大名の子直孝がなぜ、旗本かと言いいますと、直孝は佐賀藩の支藩である佐賀鹿島藩の分家である旗本の鍋島家を継いだからです。
この鍋島直孝が、朝顔栽培で名を成し、 「朝顔三十六花撰」 という本の序文を書いています。
「朝顔三十六花撰」は、和歌の三十六歌仙にちなんで書名としたもので、江戸期の最高の珍花奇葉を集めたものです。
江戸の変化朝顔の中で最も変わっているものと言われるのが、「朝顔三十六花撰」に取り上げられている右の朝顔です。
極紅色の花の中心部からつるが出て、そこに葉とつぼみがあります。外側の花が咲き終わった後、これらのつぼみがふくらんで花が咲くという、びっくりする花が載せられています。
「朝顔三十六花撰」には、鍋島直孝が栽培したものも2つ取り上げられています。
その2つの朝顔を下に載せましたが、図譜の右下と左下に「杏葉館」と書かれているのがわかりますでしょうか。
それにしても、これらも私たちが普通考える朝顔とは全く違う変わり咲きの朝顔ですね。
今回も、九州大学の「アサガオホームページ」さんから写真をご提供いただきました。
「アサガオホームページ」さんは内容がすごく充実していて大変参考になります。ありがとうございました。