そして紅の蓮の花がかなり咲いていました。
不忍池は、大昔は、上野台地と本郷台地にはさまれた入江でした。この入江がしだいに陸地となっていく中で、池として取り残されたものです。寛永元年(1624年)、江戸幕府によって、西の比叡山延暦寺に対して、江戸城の鬼門にあたる上野に寛永寺が建立されました。
開祖である天海大僧正は、不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえて弁天島を築かせ、弁天堂を作りました。
当初は、弁天島までは橋がなく、文字通り船で渡る島でしたが、寛文12年(1672年)に東に向かって石橋が架けられ、歩いて渡れるようになりました。
不忍池の蓮は、江戸の観光名所であり、多くの書物に書かれています。
そのうちで代表的な「江戸名所図会」と「江戸名所花暦」の説明を紹介します。
なお、二つの書物に、紅白の蓮の花と書かれていますが、現在は、白色の蓮はなく、紅色の蓮だけになっています。
「江戸名所図会」に、次のように書かれています。
不忍の池 東叡山の西の麓にあり。江州(近江)琵琶湖に比す(不忍とは忍の岡に対しての名なり)。広さ方10丁ばかり、池水深うして旱魃(かんばつ)にも涸(か)るることなし。ことに蓮(はちす)多く、花の頃は紅白咲き乱れ、天女の宮居(みやい)はさながら蓮の上に湧出(ゆうしゅつ)するがごとく。その芬芳(ふんぽう よい香り)遠近の人の袂(たもと)を襲ふ
不忍池の蓮は、「江戸名所花暦」の中でも、取り上げられています。
不忍池 東叡山の麓なり。見わたし3、4丁、長さ5、7丁ほど。源水(みなかみ)は谷中・千駄木の小川よりながれいづる。中じまに弁財天あり。江州(近江)竹生島をうつす。寛永(1624~1644)のころまでは離島(はなれじま)にて、参詣の通路なかりしといへり。今は通路ありて、しかも島の回(めぐ)りはみな貨食屋(りょうりや)なり。
名物 蓮めし ・田楽等を鬻(ひさ)ぐ。花盛りのころは、朝まだきより遊客(ゆうかく)、開花を見んとて賑はふ。
実に東雲(しののめ)のころは、匂ひことにかんばしく、また紅白の蓮花(れんげ)、朝日に映ずる光景(ありさま)、たとへんに物なし。
江戸名所花暦の中に書かれている通り、蓮飯(はすめし) が名物でした。蓮飯は、蓮葉飯(はすはめし)ともいい、 お米を蓮の葉で包み、それを蒸したもの。蒸し器に米を入れ、その上を蓮の葉で覆って蒸したもの。巻葉を細かく切って、湯通しして塩味をつけて、炊きたてのご飯にまぜるものなどいろいろな種類があったそうです。

