「甲州」は、中房で、果粒は中くらい、果皮は赤紫色で、白い粉をつけた美しい色をしています。
実は汁が多く甘みがあり、また酸味が適度で渋みも若干ある素朴な味わいのぶどうです。
生で食べるほか、日本の白ワイン用原料ぶどうとしても第1位の座を占めています。
「甲州」は、ヨーロッパぶどうなので、はるばるシルクロードを経て中国から伝えられたと考えられていますが、その由来について、勝沼には次の2つの説があります。 1、大善寺説
養老2年(718年)、僧行基は勝沼に立ち寄り、日川渓谷の大きな岩の上で修行をしていた。満願の日に、夢の中に右手にぶどう、左手に宝印を持った薬師如来が現れました。その夢の中に現れたお姿と同じ薬師如来を刻んで安置したのが現在の大善寺の始まりで、行基は葡萄の作り方も村人に教えたので、この地にぶどうが 栽培されるようになり、これが甲州ぶどうの始まりだと 伝えられています。
2、雨宮勘解由(あめみやかげゆ)説
平安時代末期の壇ノ浦の戦いがあった翌年の文治2年(1186年)、勝沼の上岩崎に住む雨宮勘解由いう人が山ぶどうとは別種のぶどうを見つけ、家へ持ち帰って栽培したところ、5年目に30あまりの優良ぶどうを収穫、村人に苗を分け、それから普及したと伝えられています。
ぶどうの「甲州」が栽培され始めたのは、鎌倉時代初期のようですが、本格的に栽培されるようになったのは、江戸時代になってからです。また、甲斐は、甲州街道を通じて、江戸と頻繁に往来でできるようになり、ぶどうも江戸に運ばれました。
荻生徂徠は「峡中紀行」の中で
「勝沼の宿は人家多く繁昌なるところ甲州街道で第一番地、甲州葡萄は此国の名物なり」
と記しています。
また、松尾芭蕉は
「勝沼や 馬子も葡萄を 食ひながら」
の句を詠んでいます。 (現在では、実は、芭蕉の作ではないという説もあります。)
日本では、左の写真のように、ぶどうは、ぶどう棚をつくり、ぶどう棚から実が下がっているのが普通です。しかし、下の写真はドイツのぶどう畑ですが、海外では、このように、棚がありません。
棚からぶどうが下げる栽培法は、 「棚架け法」 といって日本独特のものです。
この棚架け法が考案されたのも甲州です。江戸時代の初期、大阪夏の陣があった年である元和元(1615年)年に、医師の永田徳本(ながた とくほん)が、勝沼の上岩崎の雨宮家に滞在している時に、ぶどうの棚架け法を考案 し、現在の栽培方法の基礎を作ったと言われています。

