本居宣長について、Yahoo!百科事典では「伊勢(いせ)国松坂の木綿問屋小津定利(さだとし)の二男」と書かれています。
本居宣長は、伊勢松坂の木綿問屋小津家の次男とあり、小津という姓がでてきました。
本居姓なのに、なぜ小津なのでしょう。
実は、本居宣長と小津家は深い関係があります。まず、本居家の系図から説明します。
本居家の初代は本居武秀といいました。本居家のもともとの先祖は、伊勢国司の北畠氏に仕えていたようですが、初代の本居武秀は、蒲生氏郷に仕えて、合戦で討ち死にし、妻は、伊勢の小津村に身を寄せ、七右衛門を生みました。
その子七右衛門は松坂に移り、姓を小津と改めて、染物職を生業としました。
その子3代三郎右衛門道休は、江戸で木綿商となり、大伝馬町で木綿店を3店開業し、江戸店持ちの豪商として栄え、小津党の中でも最も有力な「富る家」でした
4代目は定治。そして、5代目が定利。定利の子が宣長です。
つまり、本居宣長は、小津一族の一員なのです。
本居宣長の父親は、小津定利と言い、宣長の名前は小津栄貞(よしさだ)通称弥四郎といいました。
一方、小津和紙の創業者、小津清左衛門長広が店を出すときに、困っている長弘を助けてくれたのが、同じ松坂出身で大伝馬町で木綿商を営んでいた小津三郎右衛門道休でした。
この小津三郎右衛門道休は、本居家の3代目で、本居宣長の曽祖父にあたる人なのです。
小津三郎右衛門道休は200両のお金を貸してくれるとともに小津屋の屋号と店の印のウロコキュウ(左の写真)の使用も許してくれたのです。
つまり、小津清左衛門長広は、本居宣長の曽祖父の援助があって、お店を開くことができたのでした。
このように本居宣長と小津和紙との間には深い関係がありました。
さて、本居宣長ですが、16歳の時に、大伝馬町の叔父さん小津孫右衛門の店に商売見習いとして寄宿しています。
しかし、宣長が家督を継ぐころには木綿店も窮地に陥り、ついには破産してしまいます。
このため、宣長の将来を案じた母かつは宣長を医師にする決心をします。母の薦勧めにより、宣長は23歳の時京都へ上り、28歳までの5年半の間に、医学を修めるかたわら、古典、和歌等についても勉強しています。
そして、上京の際に姓を本居に改め、26歳の時に名を宣長と改めたのです。そして、学問の道で大成したのでした。