これらの本のうち、「江戸名所図会」について、感動的に紹介してある文章に出会いましたので、転載します。「江戸名所図会」がつくられた経緯もよくわかります。
豊島寛彰著「東京歴史散歩 第一集 江戸城とその付近」からの抜粋です。
『雉子町で思い出すのは「江戸名所図会」の著者斉藤幸雄で、彼は雉子町の草分け名主であった。江戸名所図会は幸雄、その子幸孝、孫幸成と3代にわたって苦心の末完成したものであって、われわれのような東京の歴史を探るものには必要かくべからざる参考書である。
幸雄は神田雉子町の名主として6ヵ町を差配するかたわら、神田多町青物市場の監督をも兼ねる多忙の身であったが、江戸には完全な地誌がないところから江戸名所図会の刊行を思いたった。それからは暇をつくっては府内近郊の名所旧跡を探り、社寺をたずね、古老を訪い、一方では古書を調べ、ノートすること10数年におよんだが、不幸にも業なかばにして寛政11年に63歳で病死した。
その子幸孝もやはり名主の忙職にあったが、父の遺業を完成せんものと名所旧跡を探査することになった。その苦心はなみたいていのものではなく、ある時は遺稿の一包み置き忘れて絶望の極に陥ったこともあり、父の頼んだ画家北尾重政は老齢のため絵が一向すすまず、代わりの画家を物色するのに大変苦労したりした。遺稿の包みは本所妙願寺本堂に置き忘れられてあった。住所も名前もわからず、ただ丹念に書き込まれている調査の原稿を見て、どうかして持ち主に届けんものと考えた住職海煉は、諸々方々に手を尽くしてたずね歩いた。これが幸雄の知人神田佐久間町の片岡寛光の耳に入り、ようやく持ち主がわかって手許にもどった。幸孝の躍り上がって喜ぶ顔がうかんでくる。絵の方は長谷川雪旦という無名の画家を知り、これを起用して挿絵を描かせることになった。雪旦の努力も尋常のものではなく、寒暑風雨をいとわず四季の風情をうむことなく忠実に写生して歩いた。文化15年幸孝も完成を見ることなく47歳で歿した。
その子幸成はわずか15歳の少年であったが、雪旦をはじめ多くの人の説得により、父祖の遺業を継ぐ決心をし、さらに15年を経て天保5年(1834)全巻20冊が刊行の運びとなった。ここに50年のながきにわたった斉藤家3代の苦心は豊かに実ってこの大刊行事業は完成したのであった。幸成はその後も江戸地誌に関係ある武江年表や、東都歳時記その他を著述し、明治11年75歳で歿している。
また雪旦の努力と真心はこの事業の完成に大きな役割を果たしている。あるときはその熱心のあまり他家の屋上にのぼって写生し、泥棒と間違えられたこともあった。しかし、雪旦は江戸名所図会によって一躍有名になり、のちに絵師として法橋になった。
雉子橋の項に江戸名所図会の作者について、ことさら書き添えたのはその文化的功績を礼賛したかったからである。』
現代の私たちが、江戸の様子を手に取るようにわかるのは、斉藤家3代の苦心・努力の結果であることを改めて認識させられた一文です。