初代中村仲蔵は、歌舞伎の門閥外から大看板となった立志伝中の人です。
中村仲蔵は、浪人の子として生まれ、役者になり、はじめは先輩同輩からいじめられ苦労しますが、その才能を4代目市川團十郎に認められてからは人気が上がり、明和3年(1766年)には「仮名手本忠臣蔵」五段目の斧定九郎を、現在の演出に変えて演じ、生涯の当たり役にし、一代で「中村仲蔵」を大名跡としました。
その中村仲蔵が、名作仮名手本忠臣蔵の五段目で斧定九郎を工夫して大評判をとった経緯を語る実録談が落語の「中村仲蔵」です。
この落語「中村仲蔵」の中に、柳島の妙見様に願掛けを行う場面があります。
あらすじを書くと次のようです。
中村仲蔵は、「仮名手本忠臣蔵」の五段目の斧定九郎の役だけを与えられえます。
当時の斧定九郎は、仲蔵のような名題(なだい 幹部級の役者)のやる役ではなく、またその拵えは山賊の拵えでした。
仲蔵は、拵えを新しくしようとあれこれ考えてみたがどうしても工夫がつきません。この上は神仏の御利益にすがるよりしかたがないと柳島の妙見様に日参します。
満願の日の帰り道、法恩寺橋までくると、雨が降り出したので蕎麦屋へ入ります。食いたくもない蕎麦をあつらえて、工夫をあれこれ考えているところへ、浪人風の男が入ってきます。その姿をみて、一気に定九郎の拵えを考えつきます。そして、妙見様にお礼参りに戻る。 という場面です。
そして、話は新しい拵えが大評判をとる場面へと続きます。
この場面が、すごく印象的でしたので、一度、柳島の妙見様に行ってみたいと思っていましたが、先日実現しました。江戸検定1級合格の人たちも一緒でした。
柳島妙見山法性寺は、日蓮宗のお寺で天正元年(1573年)の創建。江戸城の鬼門除けとして置かれた北辰妙見大菩薩を安置した妙見堂があります。 江戸名所図会によると、往時は影向松(えこうまつ)、又は星下り松と云われた巨松があったそうですが今はもう無く、鉄筋コンクリートのマンションに変わっています。
レンガ色のマンションの1・2階部分が柳島妙見山法性寺となっています。
入口の右手奥には、葛飾北斎の顕彰碑と近松門左衛門の碑があり、その他にも多くの石碑・歌碑が並び、妙見様と親しまれ人々の信仰を集めていた事がわかります。
葛飾北斎は妙見菩薩を信仰しよく参詣したそうです。そして、法性寺を題材とした作品を数多く残しています。
また、近松門左衛門は昭和30年代に供養碑の一部が発見され、縁の深かった事が判明、そこで、現住職によって碑が建立されたそうです。
これは、十間橋からみた柳島の妙見様の前の北十間川です。
右側の橋が柳島橋、その下を流れるのが横十間川。妙見様は、柳島橋のたもとにあります。
橋の上から、水の流れをみていたら、ボラの子供のイナが一杯泳いでいるのをOさんが見つけました。隅田川も非常にきれいになったのだと実感しました。
なお、落語の「中村仲蔵」は素晴らしいお話です。ぜひ一度は聞いてみてはどうでしょうか。おすすめの落語です。