赤坂氷川神社は、平安時代中期の天暦5年(951年)に赤坂一ツ木台地(俗称…古呂故ヶ岡)に祀られました。
江戸時代、紀州徳川家の赤坂の屋敷の産土神の由縁から、8代将軍徳川吉宗が享保元年(1716年)将軍職を継いだ際に、享保14年(1729年)に老中水野忠之に命じ、現在地(赤坂今井台)に現社殿を造営、翌15年(1730年)4月26日に、一ツ木台地から現在地への遷宮が行われました。
そして4月28日には吉宗の直々の参拝があったそうです。
その後も幕府の保護は篤く、8代から14代家茂まで歴代の朱印状が残っているそうです。
本殿は、東京都の重要文化財ですが、残念ながら漆の塗り替え工事中でした。
氷川神社の本社は埼玉県の大宮に鎮座する武蔵国一ノ宮の氷川神社で、ここから分霊し、各地に氷川神社が祀られました。
出雲の氏族であった武蔵氏が武蔵国造(くにのみやつこ)となって移住した時期、氷川の信仰が広く祀られたといわれています。
「氷川」の名は、出雲の簸川(ひかわ・現在の斐伊川)の名に因むものといわれ、農業用水として大きな恩恵を受ける一方、水害にも悩まされた荒川を簸川に見立て、畏敬の念をもって信仰していたと考えられています。
河川に沿って分布している関東の神社としては、他に香取神社・久伊豆神社があります。 それぞれ利根川・元荒川という大河川に沿って、お互いに境界を侵すことなく祀られています。
氷川神社が祀られた村々はその成立が比較的古く、多くは関東ローム層の丘陵地帯に位置し、森林を開墾し谷の湿地を水田とした農村であり、久伊豆神社は元荒川、香取神社は利根川に沿って分布しますが、この地域は十世紀以降開拓された米作地帯で、度々洪水にみまわれた低湿地であると推定されているようです。
【南部坂】
現在社殿のある場所は、忠臣蔵の浅野内匠頭の夫人瑤泉院の実家である浅野土佐守邸跡で、大石内蔵助が討ち入り前に訪れて別れを告げたといわれています。 そして、神社の近くには「南部坂雪の別れ」で有名な『南部坂』があります。
南部坂は、六本木側に下る坂で、左の写真は坂の上から見たところです。右は、六本木一丁目側の坂の下にある石標です。
【天然記念物の大イチョウ】
境内に大きなイチョウの木があります。地上1.5mの高さ部分の幹の太さが約2.4m、樹齢400年の巨樹です。
氷川神社が現在地に建立された享保15年(1730年)には、すでに100年を越える樹齢を有していたこととなり、それ以前からこの地で成育していたと考えられます。
港区内にあるイチョウでは、最大のものは善福寺「逆さイチョウ」(国指定天然記念物)ですが、それに次ぐ大きさと樹齢を誇る大イチョウです。