品川神社は、鎌倉時代の初め、文治3年(1187年)に、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神を勧請して、品川大明神と称しました。天正19年(1591)には、徳川家康から南品川の荏原神社とあわせて5石の社料の朱印を受けています。
北品川の鎮守で北の天王様として人々に親しまれ、江戸時代には北品川稲荷社、品川大明神、天王社と呼ばれていました。
現在は社名を品川神社と改めています。
また、現在の社殿は昭和39年に、新築されたものです。
品川は、目黒川を挟んで北品川と南品川に分かれますが、北の天王社が品川神社、南の天王社が荏原神社になります。現在、荏原神社は目黒川の北にありますが、河川改修される前は、目黒川が神社の北側を流れていたそうです。
江戸名所図会には、牛頭天王社として説明されています。州崎明神が品川神社、貴船が荏原神社のことです。
『江戸名勝志に、牛頭天王社は、永享年中、太田道真(道灌の父)、品川の城に勧請するところなり。洲崎明神あるいは品川明神ともいふ』とあり、祭礼は例歳6月7日に修行す。南品川の産土神は貴船なり。祭礼の日には、両社の神輿、南北駅中 橋の上に行き逢ひ、また、左右へ立ちわかれまいらすゆえに、この橋を行合の橋と号(なづ)く。』
【堀田正盛が寄進した鳥居・水盤】
品川神社には、3代将軍徳川家光の側近堀田正盛が、慶安元年(1648)に寄進した鳥居・水盤があります。
堀田正盛は、下総国佐倉藩の初代藩主で老中です。母は稲葉正成が先妻との間に儲けた女子です。稲葉正成の2度目の妻が春日局であるため、正盛は春日局の義理の孫にあたります。
正盛は、春日局が乳母を務めた徳川家光が将軍となると、その近習に取り立てられ、寛永10年(1633年)に松平信綱らと共に六人衆(後の若年寄)に取り立てられ、その後も家光に深く寵愛され、老中にまで出世します。そして、慶安4年(1651年)、家光がなくなった際に殉死します。
正盛の出世には、継祖母が春日局であったことが大きな理由ですが、それ以上に家光と正盛は男色関係にあったからだという説が有力で、そのために、殉死したと言われています
【富士塚】 正面入り口の急な階段の左手の小山が富士塚で、品川富士とも呼ばれています。
富士塚は富士山を信仰する富士講という団体の人々が、富士山を遥拝する場所として造った人造の山で、江戸時代には各地につくられました。
ここの富士塚は、明治2年に作られたものだそうです。
頂上からの見晴らしはかなりのものです。
【品川ネギとカブ】 JA東京中央会の建てた「品川ネギとカブ」の説明板があり、次のように書かれていました。
『江戸にネギが入ったのは天正年間(1573~92)に大阪方面からの入植者によって、砂村(現在の江東区)で栽培されたのが始まりですが、品川も同じで、入植者が持ち込んだネギの栽培は品川宿の周辺から広がり「品川ネギ」として産地化しました。
また、文化元年(1804)に著された『成形図説』には越冬用漬物として栽培された長カブ「品川カブ」が記され、天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」によると、品川ネギ、大井ニンジン、戸越のタケノコが名産として記されています。 』
江戸時代には、品川は、江戸への野菜の供給地帯だったことがわかります。

