第18番 愛染院(あいぜんいん)
愛染院は真成院からは歩いて5分ほどです。新宿通りからからは、四谷小学校の横を通って南にくだります。愛染院は、天正年間に創建され、もともと麹町貝塚にありましたが、江戸城の拡張工事のため、寛永11年(1634)、現在地に移りました。
愛染院には、新宿区指定史跡の「塙保己一の墓」「と高松喜六の墓」が残されています。
塙保己一は、現在の埼玉県本庄市の出身で、7歳で失明し、13歳で江戸に出て、音曲・鍼医術を修め、国学、漢学、和歌、医学など幅広く学びました。和学講談所を設立して多くの門人を指導し、41年の歳月をかけて編さんした「群書類従」を刊行した苦学の人です。
高松喜六は、内藤新宿の“生みの親です。甲州街道は、日本橋から最初の宿場「高井戸」までの距離が長く、旅人が難儀していました。
そこで、浅草阿部川町の名主・高松喜六らの願いにより、その中間にあたる地に宿場の設置が認められました。 この宿場が、「内藤新宿」です。
喜六は、内藤新宿の名主を勤め、子孫も、代々、新宿の名主を務めました。
第21番 東福院
東福院は、東福院坂の途中で、愛染院と向かい合わせにあります。坂の名前は、東福院に由来します。
東福院は、慶長16年(1611)に麹町に創建されましたが、麹町が江戸城の外郭に取り込まれることとなったため、寛永11年(1634)現在地に移ってきました。
観音菩薩様が、入口の右手の本堂の前に鎮座していて、お参りは、観音菩薩様にしました。
ここで有名な話が、「豆腐地蔵」のお話です。
昔この付近の豆腐屋に、毎晩豆腐を買いにくる坊さんがいたが、豆腐屋が代金を竹筒に入れておくと、翌朝これがシキミの葉になっている。さては、狐か狸が坊さんに化けていたずらをしているのであろうと考え、こらしめに手を切ってしまった。豆腐屋が血痕を追ってみると、東福院の門内に入って、この地蔵のところまで続いている。豆腐屋は坊さんの正体が地蔵であると知って後悔し、お堂を建てたという。
この豆腐地蔵は、非公開とガイドブックに書いてあったので、そのまま信用して,、お参りしませんでした。
後でHPで検索すると、お参りできるという話もあり、ご住職に確認せず、残念なことをしました。

