戒行寺は、文禄4年(1595)に建立された江戸名所図会にも載っている古刹です。
江戸名所図会には、
『日蓮宗にて延山(身延山のこと)に属せり。寛永のころまでは、麹町1丁目の御堀端にありて、・・・・、明歴に至りこの地に遷さる。』 と書かれています。
長谷川平蔵宣以(のぶため)は、400石の旗本である長谷川宣雄の嫡男として生まれました。青年時代は放蕩無頼の風来坊だったようで、「本所の銕」などと呼ばれて恐れられていたのも事実のようです。
父の宣雄は火付盗賊改を経て京都西町奉行の役に付き、平蔵も父と妻子と共に京都に赴きます。
なお、父の宣雄は火付盗賊改の時に、江戸三大大火の一つである目黒行人坂の大火の放火犯を逮捕しています。
しかし、父の死去に伴って平蔵は江戸に戻り、28歳で家督を継ぎます。
安永3年(1774)に、31歳で江戸城西の丸御書院番士に任ぜられたのを振り出しに、順調に出世していいきます。
天明4年(1784)に西の丸御徒士頭、天明6年(1786)に、御先手組弓頭に任ぜられ、天明7年(1787)火付盗賊改に任ぜられたのは42歳の時です。
そして、寛政の改革では、石川島人足寄場の設立などで功績を挙げました。しかし、老中松平定信との関係はうまくはなかったようです。
松平定信は自伝「宇下人言]の中で、長谷川平蔵の名前を明記せず「長谷川某(なにがし)」とだけ書いて、功績は認めたものの「山師などと言われ兎角の評判のある人物だ」と述べています。
その後、寛政7年(1795)に、8年間勤め上げた火付盗賊改の御役御免を申し出て、認められた3ヵ月後に死去しました。
戒名は「海雲院殿光遠日耀居士」(かいうんいんでんこうえんにちようこじ)というとのことです。 これは、江戸検定1級のハカマオー氏に教えてもらいました。
実は、長谷川平蔵の墓は、戒行寺に確かにあったようなのですが、現在はないのです。
ご住職の奥様のお話では、父の長谷川宣雄、本人の長谷川平蔵宣以、子の長谷川宣義の三代のお墓があったのですが、現在はございませんということでした。
前出のハカマオー氏に聞いてみましたが、さすがのハカマー氏にも事情はよくわからないということでした。
それに代わり、門から本堂に向かう途中の右手に供養碑(左上の写真)があります。
その碑の脇の石(右下写真)には次のように書かれています。
『池波正太郎の原作と中村吉右衛門のテレビ時代劇で広く世に知られる「鬼平犯科帳」の火付盗賊改の鬼平こと長谷川平蔵は延享3年(1746)江戸赤坂築地中之町(現港区赤坂6-12の拝領屋敷で生まれた。姓は藤原、名は宣以。称は初め銕三郎、後に平蔵といった。寛延3年(1750)鉄砲洲築地湊町に転じ、明和元年(1764)本所三ツ目通り菊川安置に移った。父宣雄が火付盗賊改のとき、目黒行人坂の放火犯を捕らえて、京都西町奉行に栄進したが、わずか10ヶ月で急逝した。その後、宣以が家督を継ぎ、西城御書院番や御徒頭を勤め、御先手弓頭から火付盗賊改を兼帯。さらに石川島人足寄場を開設した。軽犯者や無宿者を収容して手業を習得させ、工賃の一部を積み立てて、出所時の更生資金に充て、授産所として成功させた功績は大である。寛政7年、50歳で病没、当山に葬られた。
なお、当山には、鬼平の父宣雄ら5人の火付盗賊改が葬れている。
安部式部信旨、桑島肥後守政恒、山岡豊前守景之
長谷川備中守宣雄。菅沼主膳正虎常』
戒行寺へは、JR四谷駅からは、新宿通りを行き、西念寺の脇を通り、真成院の前の観音坂を下りきり、次には、戒行寺坂を登るという道順で行きます。アップダウンもあり、ちょっと大変です。

戒行寺坂は、戒行寺の目の前の坂です。
この坂についても、江戸名所図会に載っています。
『このところの坂を戒行寺坂、又その下の谷を戒行寺谷と唱えたり』
右の写真は坂の下からみた戒行寺坂です。戒行寺坂を登りきった右手が戒行寺です。

