本性寺は、戦前は四谷の毘沙門様として賑わいをみせていたそうです。
四谷の有名人の3回は、その本性寺と萩原宗固です。
本性寺は、日蓮宗のお寺で、本土寺(千葉県松戸市)の末寺です。徳川家康の江戸入府に従って 来た三田佐兵衛尉守綱が麹町9丁目あたりに営 んでいた隠居所を、寛永18年(1641) 観智院日泳上人に譲渡し、 三田氏の没後、寛文10年(1670) その菩提を弔う為、創設さ れたと伝えられています。
本性寺の山門と毘沙門堂は、戦災で焼け残った貴重な建築物です。山門の奥に毘沙門堂が見えています。
山門も毘沙門堂も総檜で、釘を一本も使わない切組造り、手斧削りで、建築年代は元禄年間といいます。
毘沙門堂は桁行二間、梁間二間、屋根は切妻造、瓦葺のつくりのしっかりした建築物です。
堂内に安置されている毘沙門天像は江戸城本丸にあったもので、五代将軍綱吉の側室、春麗院殿の発願により堂とともに本寺に寄進されました。
この像は別名「北向毘沙門天」といわれ、家康が仙台の伊達氏が謀反を起こさぬよう、北方の 守護神・毘沙門天を北向きに安置して祈願したという伝説から、そう呼ばれているそうです。
山門は毘沙門堂と同じ頃の建立と伝えられています。形式は薬医門、瓦葺、袖塀潜戸がついた堂々たる山門です。
本性寺には、国学者塙保己一や老中松平定信などを養成した萩原宗固の墓が毘沙門堂の南にあります。萩原宗固は、江戸時代中期の国学者・歌人です。萩原家に養子に入り、幕府の先手組に所属し、与力として勤めた後、隠居して宗固と名乗ります。
烏丸光栄・武者小路実岳らに学び、のち冷泉為村の門人となり、江戸冷泉派を代表する武家歌人と言われています。
また内山賀邸と共に「明和十五番狂歌合」の判者をも勤めて天明狂歌の原点に位置したことでも知られています。
塙保己一が、晩年の加茂真淵に入門し、短い時間とはいえ真淵の学問に接することができたのは、萩原宗固の計らいによるものです。
本性寺は青、塙保己一の墓のある愛染院はピンクです。
こんな近くに師弟がねむっています。

